金沢蓄音器館

館長ブログ ほっと物語

2010年5月

その10「車椅子の老人の奇跡」

デイケアセンターに入所している方々に、蓄音器で奏でる昔懐かしい曲を聞いてもらおうと出かけたときのことである。持参したSPレコードの曲目を、墨で書いた短冊型の紙を前面の黒板に貼り付けてリクエストの順に聴いてもらうことになった。

「ミーティングルーム」と書かれた少し大きめの部屋に老人の面々が集まってきた。その中のひとりに車椅子に乗った男性の老人が看護師に押されて入ってきた。目はうつろで、口からはよだれがすこし垂れていた。看護師は
「この人は昔、新聞記者でインテリだったそうだけど、今じゃご覧のとおり。音楽がわかるといいんだけど」
と言った。

リクエスト曲の演奏が始まると、会場からは遠慮がちに小さな声で一緒に歌い始める方がでてきた。眼を閉じて眠っているのかと思うと、ツーと涙が一筋流れた方もいた。

車椅子の老人はだらりと垂れた両手をあげてゆっくりと動かし始めた。指揮だ!看護師は驚いた様子で
「アッ、曲がわかるのね!」
とつぶやいた。

近年、音楽療法とその効用についていろんな論が出てきた。若いころに口ずさんだ歌は歳をとってもその人の脳裏にしっかりと埋め込まれている。昔聞いた音や歌ったりすることで、その場面その場面が鮮やかに蘇るのだ。

車椅子の老人の腕は、ケアセンターの入居者の想い出というオーケストラを奏でているように私には思えた。


先代館長とともに 1




先代館長とともに 2
その9「裕次郎はビール好き」

石原裕次郎の名前を聞いたことがない方はいないと思う。石原慎太郎東京都知事の弟で、映画や歌に、まさに国民的なスターだった。惜しまれて、昭和62年に亡くなった。

歌の面からいえば、発売されたSPレコードは1956年(昭和31年)の「狂った果実」から34種類、EPレコード盤(ドーナツ盤)は実に173種類、CDシングル盤は7種類である。昨今レコード会社を渡り歩く歌手が多い中で、すべてテイチクレコードから発売された。

その裕次郎の名デイレクター、プロデユーサーとして昭和40年から一緒に仕事をしてきた高柳六郎氏(通称、六(ろく)さん)を平成17年11月19日に金沢蓄音器館のゲストとしてお呼びした。
20年以上の長きにわたりそばで見たその仕事ぶり、ひととなり等<人間・石原裕次郎>を語ってもらおうという企画である。

首を締め付けられるようだと言ってヘッドホーンが嫌いだったこと。歌のレッスンなぞはせず、スタジオへ向かう自宅からスタジオまでの4,50分の車の中で2,3度歌っただけで録音すること。そしていつもビールを飲んで録音したこと。
そして、これらは彼が歌手としてセンス、リズム感が良いといった天性のものを持ち合わせていただけでなく、歌うことへのテレがあったためではないか。テレといっても気おくれとか気はずかしさでなく知的な恥じらいがビールのおかげで薄まり、緊張感もほどけていくのではないかと語った。

歌作りにについて一切口出しがなかったことは六さんに満幅の信頼をおいてくれていたからだ。

プロは、やはりプロとしてプロデユーサーに接していた。


蓄音器館にある裕次郎像

SPレコード「嵐を呼ぶ男」
その8「音を出すのも命がけ」

金沢蓄音器館の収容するSPレコードは、約3万枚。業界でいうところの「W数(種類)」ではなく枚数であり、同じ曲目のSPレコードが10枚以上あるものもたくさんある。

寄贈をいただいたレコードはホコリにまみれ、カビだらけのものが多い。スポンジに中性洗剤をつけて、ぬるま湯につけたレコードの両面をレコードの溝にあわせて拭く。流水で洗剤を流す。乾いたきれいなタオルで拭くと、ほぼきれいになる。
真ん中のレーベルがふやけてしまうのでは? と思われるかもしれない。しかし、その心配はいらない。手際良くやれば良いのである。その後レコードシャワーを吹きかけてクリーナーで拭きとると溝に入り込んだ細かなゴミも取れる。こうやって音色は息を吹き返すのだ。

SPレコードの片面は2~300回くらいの演奏に耐えられると聞く。それ以上でもかけられないわけではないが、盤面がだんだん白っぽくなり、音質は落ちてしまう。いってみれば命を削りながら音を奏でている訳だ。

当館では1日に3回蓄音器の聴き比べを行っており、1曲のすべてをかけると、いくらレコード枚数を持っていると言ってもすぐに磨り減ってしまう。そこでドリフターズではないが「チョットだけよ」と断って、1分程度の演奏時間となる。来館される方もニコッとされて、わかっていただけるのでありがたい。


すり減ったSPレコード
その7「東海林太郎、その時代の風」

平成17年2月19日、「父、竹岡信幸を語るー赤城の子守唄作曲秘話―」が開かれた。元コロムビアレコードの竹岡知幸さんとは私の父(故人)である当館の初代館長時代から個人的な付き合いもあり実現した。

竹岡信幸氏は「赤城の子守唄」「シナの夜」「悲しき子守唄」「下田夜曲」など2000曲余りを作曲した大御所のひとりである。当日は10曲あまりのレコードをかけながら、その制作裏話やひととなりを世相にからめてのトークとなり、貴重で楽しい会となった。

「赤城の子守唄」はその代表曲だ。もともとポリドールレコードにいた藤田まさとが昭和5年に佐藤惣之助に作詞を頼んでおり出来あがっていた。キングレコードにいた歌手の東海林太郎は5、6曲世に出していたがどれもパッとしなかった。藤田は大連商業に学び、かつて満鉄に勤務していた東海林を知っていたのでキングに行き、東海林を借りて歌わせることになった。

作曲は、大連商業後に通った明大の後輩でマンドリン部にいた竹岡にお願いすることになった。竹岡は昭和8年に明大を出たばかりで、新人に命運をかけたことになる。

詞が出来て、曲が世に出るまで3年以上かかったが、見事な大ヒットになった。販売50万枚は当時の蓄音器の普及率と比べると、今日的には1000万枚くらいになるだろう。

「気をつけ!」と号令をかけられた兵隊のような東海林太郎の直立不動の歌う姿勢は<オペラを歌う気持ち>から出ていると本人が語っていたと竹岡さんは言っている。


東海林太郎「赤城の子守唄」
その6「歌詞は時代とともに」

金沢蓄音器館での「聴き比べ」での話である。蓄音器にかけるSPレコードは、いろんなジャンルの曲がある。クラシック、洋楽、歌謡曲、童謡など来館者の方々のお好みが違うので、曲目のジャンルを変え、ついでに蓄音器の種類も変えて聞き比べをする。1日3回、午前11時、午後2時、4時で1回30分くらいである。

そんな中「お猿のかごや」(山上武夫詞、海沼實曲、大道真弓唄、コロムビア)という童謡をかけていた時のことである。その曲の歌詞のなかで「小田原提灯ぶら下げて」というくだりがある。

「小田原提灯」とは、何ですか?

と、質問を若い女性の方から受けた。子供向けの童謡の曲である。歌詞も当然子供が理解できる内容のはずである。今どき「小田原提灯」は、通常の生活で使っていない。わからなくて当たり前なのだ。

かつて秋元康さんが話していたことを思いだした。

「<ポケベルが鳴らなくて>という歌を書いたことがありました。しかし、今なら<携帯が鳴らなくて>という題になるでしょうね。もっと昔なら、好きな女の子からの手紙を待って、自宅の郵便受けの前にずっと立っていて<手紙が来なくて>となるでしょう。歌詞は時代と共に変わっていくのです」

と。好きな女の子からの返事をずっと待っているという切ない気持は、時代が変わっても変わらない。変わるのはその手段ということになる。

そんな歌詞集めもしてみようかと、思わせる出来事となった。


おさるのかごや

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