金沢蓄音器館

館長ブログ ほっと物語

2010年8月

その25「岡晴夫と上原げんと」

上原治左衛門。
根岸の長屋に住んでいた。青森のレコード、楽器屋の11人兄弟の長男で20歳前にギター片手に上京してきた。新聞配達、チンドン屋など転々として流しの演歌師になっていた。

ちょうど上野松坂屋の食堂に勤めていた佐々木辰男と出会った。彼もまた歌の虫で食堂が暇になる午後3時ごろには屋上に上がって藤山一郎の「丘を越えて」を大きな声で歌っていた。
「春の小川」の歌も好きだった彼は将来、歌手になれたら曲名をもじって「オカハルオ(岡晴夫)」としようと決めていた。

二人は肝胆相照らす仲となり、上野あたりから銀座へ流しに出歩いた。銀座のキャバレー「クラウン」で東海林太郎に出会い、「レコード会社のオーデションを受けたら?」と勧められた。
根岸近くでは音羽にキングレコードがあり、受けてみると合格し月給60円の専属歌手になった。

作曲者となった上原は「げんと」と名前をかえた。

昭和13年「国境の春」に続く第二弾「上海の花売娘」がヒットした。当時戦局厳しくなる折、時局に合わない歌は禁じられていた。
各メーカーは検閲を逃れようと占領地の名前を曲名につけたりした。検閲官は「男性歌手が鼻歌式歌唱は不愉快」となじったが、発売された。

正規の音楽学校を出た歌手が多かった時代に、特段の学校を出ず、持ち前の明るい岡の歌声は、暗い時代に一服の清涼剤の役目を果たした。
戦後,昭和23年発売の「憧れのハワイ航路」がその真骨頂だったと,長田(おさだ)暁二(ぎょうじ)さん(1930年生。キング、ポリドールの文芸部長を経て徳間音楽工業常務、音楽文化研究家)は金沢蓄音器館での講演で語った。

食うや食わずの時代だったからこそ、人々はこぞって岡の明るい歌声に未来を重ね合わせたという。


国境の春

上海の花売り娘

あこがれのハワイ航路
その24「爆音!レコード」

金沢蓄音器館に変わったレコードがある。

その1つが、コロムビアが昭和17年8月に社名を日本名に改めたニッチクレコードで、戦闘機「鐘馗(しょうき)」、重爆撃機「呑(どん)龍(りゅう)」、「新司令部偵察機」「偵察兼爆撃機」、アメリカのバッファロー戦闘機などの高度別爆音を録音した<爆音レコード>である。
「バッファロー戦闘機に就いて」というNHKアナウンサーの浅沼博の解説したものもある。

昭和18年「聴覚訓練」として、当時の陸軍が敵機識別用として製作し、小中学校、防衛関係に配布したという。
防空上大事なことは、飛来した飛行機が敵のものか味方のものか識別することで、レーダーなんぞない時代に視覚では分かりにくい。その爆音で判断する必要があった。

当時、文部省は音楽教育を重視し、絶対音感教育が流行していた。その証拠に何枚のも「聴覚訓練レコード」が出ている。国民一般、特に小、中学校でそうした訓練をすることはよいことであるとの軍部の意見だったという。

<爆音レコード>は、防空のPRにはなったかもしれないが、実用にはならなかったと、製作にあたった元コロムビアの田辺秀雄エンジニアは、後に録音のてんまつで書いている。

戦後、アメリカが進駐してくるということで、これらのレコードはその大半が捨てられ割られてしまった。現在ほとんど残っていない貴重なレコードが、金沢蓄音器館では見られる。

(蓄音器館にある爆音レコード、数字はレコードNO.)

100824 鐘馗 高度千米、三千米、五千米
100824 重爆 呑龍 千米、三千米
100825 新司令部偵察機 三千米、五千米、八千米
100825 偵察兼爆撃機(三菱キー51?) 三千米、五千米
100734 バッファロー戦闘機に就いて
100734 バッファロー戦闘機 千米、三千米、五千米


八日市屋が寄贈した戦闘機
「鍾馗」
八日市屋愛国号

戦闘機「鍾馗」の爆音レコード

バッファロー戦闘機について
その23「命を削った漫才師」

昭和11年、大阪で1組の万歳夫婦がデビューした。ミスワカナと玉松一郎のコンビである。
吉本興業に籍を置いたこのコンビは、当時一世を風靡したエンタツ、アチャコと人気を二分するまでになった。
一郎のひくアコーディオンに女漫才師として初めて洋服を着たワカナがウクレレで合わすというモダンさが受けたという。
女優森光子はミスワカナの弟子であった。

そのころのヒット作に「全国婦人大会」がある。全国の国防婦人会の代表が一堂に会し、一郎が司会役。ワカナが島根、朝鮮、名古屋、京都、広島、博多、東京、北海道の方言を使いわけて各代表の演説を面白可笑しく話すというスト-リーだ。

昭和15年1月にテイチクよりSPレコード2枚組で発売され、大好評となった。「荒鷲隊」をもじって「わらわし隊」と称して戦地の慰問団に加わり、多くの兵隊の前でその芸を披露した。
その時の写真を見ると、明日をもしれぬ将兵たちが全員大きな口をあけて笑っている。死と向かいあう戦地とは思えぬ光景である。
二人は、戦地では朝10時から夜中12時まで舞台に立ったと語っている。

ミスワカナは、戦後まもなく昭和21年10月に西宮での演芸大会を終えて倒れ、そのまま息を引き取った。亨年36歳。一郎とのコンビを組んでからわずか10年だった。

彼女は戦地に出向いた折り戦場の惨状を見たり、死に直面した兵隊の前での芸をすることでヒロポンを打つようになっていったという。薬を打ち続けないと舞台に立てない体になっていた。
命を削って働いたのだ。
終戦記念日になると思いだす話である。


ヒット作「全国婦人大会」

「全国婦人大会」の解説書

ビクター盤のわらわし隊
その22「テイチク楠木正成マークの由来」

関西(名古屋を含む)出のレコード会社は、戦前数多く存在した。しかしメジャーメーカーで現存するのはテイチクレコードのみである。
このテイチクレコードは、ディックミネ、楠木繁夫、美ち奴、菅原都々子、田端義夫、石原裕次郎、三波春夫などから最近では天童よしみ、川中美幸、秋川雅史、岩崎宏美、和田アキ子、松原健之など日本歌謡界に綺羅星のごとく歌手を輩出している会社である。

戦後、洋楽ではいち早く<DECCA>のレーベルも立ち上げた。また、大作曲家の一人と呼ばれた古賀政男もテイチクレコードの重役として丸5年の間勤めていた。金沢蓄音器館にはSPレコード時代のテイチク盤も数えられないほど多くある。

このテイチクレコードの現在のマークは、昭和21年に作られた頭文字の"T"とレコードの"R"を組み合わせて大地を力強く前進する人形である。

それ以前のマークは、皇居前広場の楠木正成の銅像を創業者南口重太郎社長が自分の名前と同じ読みをすることにあやかって決めたと50年誌に書かれている。

楠木正成は「なんこうさん」と親しまれており、南口社長も「なんこうさん」だったためだ。

軍部が台頭してきて「楠木公の名前を社名にするとはけしからん。不敬である」といちゃもんをつけたが一向に意に介しなかったという。
社長は、返って人に親しまれる名前だと考えていたのに違いない。

他にも数多くのエピソードを持つ社長だったようで、人間的で関西人特有の商売人であったとディックミネ、古賀政男、美ち奴たちの多くの歌手、業界人たちが語っている。親しみのある称賛をされた人であった。


左:戦前のテイチクマーク(楠木正成像)
右:戦後のテイチクマーク

テイチク初代社長:南口重太郎氏

 現テイチク社長:西山千秋氏来館
その21「コロムビアマークの由来」

16分音譜のマーク。

それは、コロムビアレコードのマークであることを多くの人たちが知っている。
近年、日本コロムビア株式会社がアメリカのリップルウッドの傘下に入り、コロムビアミュージックエンターテインメントとその名前を変えたが、マークはマイナーチェンジをされただけだった。
さらに平成22年4月に資本が変わって、秋の創立100周年記念時に元の社名、マークに戻るという。原点回帰である。

コロムビアはもともと広告宣伝に熱心な会社であった。明治期、日本蓄音器商会(ニッポノフォン)と呼ばれていた設立当初のころ、当時にあっては珍しかった四六全判の佐々紅華作による豪華なポスターを作成して世人をアッといわせた。

さて、コロムビアマークは「ツイン・ノーツ」(双子の楽譜)あるいは「マジック・ノーツ」(魔術の楽譜)と呼ばれる。
明治40年ごろアメリカフォノグラフ会社で、ろう管から平円盤に変わる機会に眼から入る印象深いマークを選定しようということになった。
1個の楽譜だけでなく2個、3個、4個など検討したがもっとも広告効果を上げること、諸外国でも見ただけで取り扱い商品の認識が容易とのことで2個(16分音譜)に決まったという。

昭和6年、日本でこのマークの使用権を獲得すると川崎工場構内に大ネオンサインを建設した。
高さ30メートル、直径15メートルの正円にCOLUMBIAの文字と楽譜マークは、近くを走る東海道線の車窓から忽然と見え、時の話題をさらったという。

金沢蓄音器館のマークは、ラッパ型蓄音器を横から見てアームに楽譜1個をデザインしている。
来館者の皆さまはどのようにお感じになるだろうか。


コロムビアの音符マーク

日本蓄音器商会の文字が読める

金沢蓄音器館のマーク

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