金沢蓄音器館

館長ブログ ほっと物語

2011年4月

その65「二度目の島倉千代子」

島倉千代子。昭和30年に「この世の花」でコロムビアから本名でデビューした。
以後、現在まで50年以上にわたり日本の歌謡界に燦然と輝く歌手である。

彼女はデビュー前年、第5回コロムビア全国歌謡コンクール(協賛、雑誌平凡)で優勝。
「最初はセーラー服のさえない小娘という印象だったが、歌を聞いてこれならいける」と、元コロムビア文芸部長、故伊藤正憲はいっていた。

伊藤さんは慶応大学卒業後コロムビアに入社、以来文芸部長、宣伝部長、常務取締役を経て、クラウンレコードを設立し、社長を勤めるまで半世紀にわたりレコード業界に貢献された方である。
業界では知らぬ人はいないといっても過言ではない。

実は、この曲は創刊間もない雑誌明星の連載小説のタイトルで、頼まれて歌にしたものだった。
その明星が持ってきた企画に商売仇の平凡歌謡コンクールから出た歌手をぶつけたわけだ。
作曲は万城目正(まんじょうめ ただし)。
万城目は他の歌手に歌わせようとしていたが、伊藤との間柄でいやとは言わず承諾した。

伊藤は島倉を世に出すチャンスは今しかないと思っていたので、ねじ込んだわけである。

「歌手は実力だけではどうにもならない。チャンスにぶつけることが大切であり、ディレクターはその読みが出来ないとヒットは作れない」と、伊藤は回顧録に綴っている。

さてその島倉が、そのデビュー以前に童謡歌手として「お山のお猿」をテイチクレコードから出していたことをご存じの方は少ないのではないか。
その時どうしたわけか「島倉千代子」ではなく「戸倉千代子」という名前だった。
印刷ミスかあえてそうしたのかわからないが「島倉千代子」と本名だったら「この世の花」の歌手名は違っていたに違いない。

「島倉千代子」も「戸倉千代子」も金沢蓄音器館では所蔵している。


島倉千代子デビュー曲、昭和30年
「この世の花」

封入の解説入り歌詞カード

童謡、「お山のお猿」
作詞:鹿島鳴秋
作曲:服部龍太郎
その64「乃木将軍の肉声」

金沢蓄音器館近くの主計町(かずえまち)の入り口、浅野川大橋たもとに
「乃木将軍と孝子辻占売少年」
と書かれた石碑が立っている。
側面には
「今越清三朗翁 出生の地 乃木神社宮司 松吉高雄 書」
と刻まれている。

乃木が金沢に来た折り、寒風のなか大きな声を出して辻占いを売っている少年を見つけた。
聞いてみると父母を亡くし祖父母と兄弟のために辻占いを売って細々生計を立てているとのこと。
乃木は名前を告げずに励まし、2円渡したという。

この辻占い売りの少年こそ今越清三朗翁だった。

今越少年は、乃木将軍の思い出をいつも胸に抱いて前を向いて生きてきたに違いない。
のちに金箔師として大成し、昭和37年に当時の人気番組NHKの「わたしの秘密」に出演して、初めて身の上を話したそうである。

さて、金沢蓄音器館にはこの乃木将軍の肉声が入ったレコードがある。
明治42年10月15日「偕行社」で録音されたものである。
「乃木将軍の肉声とその思い出」とタイトルが付けられ、立ち会った海軍中将小笠原長生子爵が録音に至る経緯を語っている。
録音は「私は乃木希典であります」とだけではあるが、その軍人らしい凛々しい声には、はっとされられる。

ほかにも「乃木将軍と孝子辻占売少年」とタイトルがついたSPレコードが数多くある。
多くは浪花節だが、中には映画物語などもある。
いろんなレコード会社から発売されていたところをみると、それだけ売れたということだろう。


主計町入り口にある石碑

浪花節のレコード

乃木将軍の肉声レコード
その63「文化の一翼を担った三越蓄音器」



金沢蓄音器館に三越の商標がついた蓄音器が1台ある。

これは外側が薄茶色のレザー張りのポータブル蓄音器である。ふたを上げて、中をのぞいてみると「MITSUKOSHI」のマークが付いている。

トーンアームなどのメッキ部分は綺麗に光っており丁寧に作られている。
針つぼもきちんと蓋がついており横にしても針が散らばらないようになっている。
針をつけるサウンドボックスは鋳物ではなくベークライトで作られており重量を軽くするよう工夫されている。

レコード盤を載せるターンテーブルを取って、さらに内部を見た。
ゼンマイは1重、トーンアームの根元は丸く筒状になり木製のラッパの底に当てるようになっている。
音を反射させるしくみになっているのだ。

外見は格好よく、しかし製造コストをかけないよう苦心されているのがわかる。レコードをかけてみると、良い音色だった。

この蓄音器は、大正末期から昭和にかけて三越が販売したものである。
野原商店の野原今朝平が静岡に木工工場を建て、東京大森の組み立て工場でライン生産システムによる量産体制で作り、三越へ納入したという。
当時、一流メーカーのポータブル蓄音器は安いものでも30円した(昭和3年、日本蓄音器商会が作ったイーグルNO.12の値段)。
そんな時勢に13円50銭という破格の値段だった。
三越のブランド力も加わり累計で数千台を納入したと野原商店関係者で元テイチクレコードの加藤芳郎氏はいう。
三越は、良質な蓄音器の大衆化に寄与したのである。

もともと三越は明治42年4月、少年たちを集めて三越音楽隊を誕生させた。出色の演奏だったという。
44年3月には帝劇が竣工され、新劇公演のチラシに「今日は帝劇、明日は三越」の広告を出したりもした。
百貨店は憧れの的であり文化の一翼を担っていたのである。

三越はレコードも自社レーベルで作り、高島屋も遅れてはならじとレコードを作っている。

百貨店の存在感はいまよりずっと大きかったのだ。


三越オリジナル蓄音器

トーンアームの根元はラッパの底に当てる

三越童謡レコード「汽車の旅」

高島屋レコード
流行歌「天国に結ぶ恋」
その62「絵?レコード?」



「見て美しく聴いて楽しい ビクターワンワンレコード」とレコード紙袋に書かれた児童用のちょっと小ぶり(8インチ、20センチ)のレコードが金沢蓄音器館にある。

SPレコードといえば黒い材質のシェラック盤と相場が決まっているが、このレコードは盤面全体に歌に即した絵柄が書かれており、その上から音を入れた透明なセルロイドを貼りつけてある。
見ていても随分楽しい。

昭和28年、横浜の東洋化成㈱が製造特許を持ち、カナリヤレコードが最初に発売した。
ビクター、テイチクなど大手のレコード会社も競って製作した。
還暦越え世代の方々なら一度は目にしたことがおありだろう。今でもコレクターの間では人気があるレコードだ。

実は、この絵入りのSPレコードは戦前にもあった。
「日本絵本レコード㈱」が8インチ盤で製作した。
この会社は、昭和15年1月に横沢啓介なる人物が奈良で興したという。
奈良にはこの会社のほか、あやめ池系と呼ばれるファウスト蓄音器、ニッポン蓄音器などの会社が存在した。
現テイチクレコードの本社もかつては奈良だった。
奈良、京都、大阪の関西地区はレコード会社のメッカだったのである。

この日本絵本レコード㈱は、設立された時期が戦時中ということで、レコードは多くつくられることはなく、開店休業状態だったという。

しかし、この絵入りレコードは黒色一辺倒のレコードより人気があった。
戦後、児童向けのみならず大人向けのレコードにも宣伝用として利用された。
テイチクでは、盤面に人気歌手の顔写真をちりばめ、販売店の店名を入れて大いにPRに使った。
盤に入っている曲は、「春が来た」「八十八夜」「村まつり」「蛍の光」の童謡ばかりで、流行歌を期待した人はガッカリしたかも知れない。

また、全国各地の名所旧跡の写真を盤面にし、観光案内、民謡などを入れた観光地レコードも作られた。
「一度はいらっしゃい!」と絵と音で誘客している。
PR用DVDの発想の原点として興味深い。


唄、小鳩くるみ

絵は中原淳也

僕は兵隊さん

天橋立アナウンス

テイチク宣伝用
その61「なぜラッパの羽根は奇数か?」

金沢蓄音器館にある「CD蓄音器」の試作品を作っているときの話である。(ブログ57参照)
第一に、どのくらいの寸法のラッパがいいのか?
 小さくては眼で見たときに迫力がないし、音量も出ない。(ラッパが大きいほうが音はでかくなることはわかっていた)

レコードのターンテーブルをのせてCDデッキ、ラジオ、スピーカーの各部分の合わせた高さと、ラッパの大きさで、見た目のバランスが一番格好よく見えるのはどの長さか。
いろんなラッパ型蓄音器を見比べて、これは、日本で最初に作られた<ニッポノフォン35号>がもっとも蓄音器らしいのではないかということになった。

次にラッパの形状はどうすればよいのか?
いくつか見本品をつくることになった。まずはコストが小さくて済むように、ラッパの羽根の枚数が4枚の4角形、5枚の5角形に取り掛かった。

ラッパの花びら状の1枚1枚を業界では<羽根>と呼ぶ。
出来あがったものを聞き比べてみると5角形のほうが音はいい。4角形は何か音が前へ出てこないのだ。

そこで8角形と9角形を作ってみようということになった。
8角形は9角形より音は小さく聞こえる。9角形のほうが音が前に出ており、音量も大きかった。
最終的に9枚羽根のラッパにしようと決まったが、ニッポノフォン35号と同じ枚数だった。

偶数形のラッパは、羽根と羽根が平行に向かい合っており、力学的に音はお互いに消しあってしまうのではないか。

それに比べて、奇数形のラッパの羽根は平行に向かい合っていないため音は反射しあうことになる。このことが音が前に出てくるのだろう。

実際に試してみて初めて分かったが、先人たちは直感でそれを知っていたに違いない。


三光堂蓄音器(8枚羽根)



国産第一号蓄音器
ニッポノフォン35号
(明治43年)

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