金沢蓄音器館

館長ブログ ほっと物語

2011年8月

その78「線路とともに伸びたレコード会社」



SPレコードを入れるエンベロップ(紙袋)のデザインの中で台湾、朝鮮も含んだ日本地図を大きく描いたものがある。
ニッポノフォンマークが入った株式会社日本蓄音器商会(コロムビアの前身)のものである。

この地図を見ると、JR(国鉄)の線路が記載されている。その線路図が2種類あるのだ。
1枚は北陸本線が富山県魚津あたりで途切れているもの、1枚は日本海側にずっと続いているものだ。

北陸線が米原から敦賀、福井、金沢を経て富山まで開通したのが1899年(明治32年)、魚津までが1908年(明治41年)11月だった。(米原、直江津間の全線開通は1913年、大正2年のことである)

さらに、最初の1枚には資本金100万円、支店40、400軒の販売店があると書かれている。

㈱日本蓄音器商会は資本金35万円で明治43年10月に創立し、明治45年6月に資本金100万円に増資された(日蓄30年誌より)。
つまり、この1枚は明治の末に使われたエンベロップであることがわかる。

それに対して、あとの1枚は大正時代に入ってからのものであろう。

ニッポノフォンはキャラクターとして大仏さまを使い、京橋では、最初大仏が正面を向いて座っており、次に顔を横に向け手を耳に当てて音を聴いているしぐさにかわる大きなネオン看板を建てた。
通りを行く人たちは、その電飾に度肝を抜かれたという。

2枚のエンベロップには、その大仏さまが描かれておりユーモラスだ。エンベロップ一つとってみても時代の変化を垣間見ることが出来る。


北陸線が開通しているエンベロップ

北陸線が魚津までしか開通していない

ニッポノフォンのキャラクター「大仏さま」
その77「レコードジャケット専門印刷会社」

「ミュージック・ジャケット大賞」という新しい言葉が最近、音楽業界紙の紙面を賑わしている。
日本レコード協会の手により、音楽ジャケットデザインの優秀作品を選定するものだ。

かつてLPレコードのジャケットは30センチ四方と大きかったのでデザインとしても訴求力があった。
随分と色合い、斬新さ、奇抜さがあり音楽を聴くだけでなく見る楽しさもあった。
ジャケットに本物のジッパーがついたものまであった。

CD時代になり、簡便でスマート、かさばり、重さも軽減されたかわりに、ジャケットからのインパクトは弱くなってしまった。
ジャケットをもっと目立つようにして、店頭を飾り、ユーザーにアピールする。
こうしたパッケージ活性化の試みは、結果として「音楽」の中味そのものの価値を高めることにつながる。

実は、レコードジャケット専門の印刷会社は戦前のSPレコード時代から存在した。「金羊社」なる会社がそうである。
歌詞カード印刷のみでなく、カラー印刷の絵をジャケットに用いたりもした。
当時の有名な挿絵家の絵を使ったそれは随分好評だったという。

レーベルに唄い手の写真をいれたものは外国のレコード会社にもなく、それを入れた日本最初のニッポノフォンレコードは、収集家のなかでは垂涎の的だと言われる。
エンベロップ(レコードを入れる紙袋)も家庭で蓄音器を聴いている様子を描いたもの、指揮者、歌手などの写真をいれたものなど様々で、思わぬ想像をかき立てさせられる。


歌詞カードに書かれた「金羊社」の文字

カラー印刷のエンベロップ(レコード袋)

レーベルに印刷された歌手の顔写真
その76「消えた日本一の美声歌手」

秋川雅史(まさふみ)は「千の風にのって」で一世を風靡しているテノール歌手である。その美声に酔いしれた方々も多い。
しかし、戦前「日本一の美声」と言われた名テナー「永田絃次郎」(ながたげんじろう、韓国名:金永吉―キム・ヨンギル)の名を知っている人は少ないのではないだろうか。

彼は明治42年朝鮮に生まれ、昭和3年日本へ。陸軍戸山学校軍楽隊出身でトランペットを専攻した。昭和8、9,10年に音楽コンクール声楽部門で上位入賞を果たし、ポリドール、キングのレコード会社から歌手としてレコードを出している。

もっともヒットした曲は昭和14年に発売された「愛馬進軍歌」、「出征兵士を送る歌」である。
ともに国民精神を高揚するため懸賞募集によって歌詞が集められた。
「愛馬進軍歌」(陸軍省募集歌)は4万、「出征兵士を送る歌」(講談社募集歌)はなんと13万近くの作品応募があったという。
講談社「キング」の愛読者100万の偉力を示すものであった。

懸賞応募は、戦中も続けられたが応募数はぐっと減ってしまった。若い世代が戦場へと駆り出されたためといわれている。

三浦環、藤原義江などと並び称された永田は、戦後帰国事業で昭和35年に北朝鮮に戻ったが、不遇の時を過ごしたという。
消息不明だったが、近年名誉を回復したのち昭和60年に結核で亡くなったといわれる。
歌声を聞くたびに、その低く美しい声にはっとさせられる。

永田絃次郎のSPレコードは他にも「海行く日本」(東日・大毎募集歌、長門美保共演)、「佐渡おけさ」、「世紀の若人」、「大政翼賛の歌」を金沢蓄音器館が収蔵している。


出征兵士を送る歌

エンベロップの長門美保

エンベロップに書かれた標語
その75「隠された真実 アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」

「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」のSPレコードが金沢蓄音器館にある。

「初戦以来、相次ぐ敗戦の敵米英は長期戦を一擲(いってき)、日本に時を課すなと絶叫。われに短期決戦を挑み来たる。ありあまる物資をたのみ、ガタルカナルの反撃を序曲として北より南より我に短期決戦を挑み来る。北海の春まだ浅き昭和18年5月12日、我アッツ島守備隊の2千数百名の将兵は、突然来襲する敵2万の大軍を迎え討ち、激戦に告ぐ激闘18夜、ついに全員壮絶な玉砕をとげた」
の七言絶句の名調子で解説者・村田信賢の出だしで始まる.

このレコードは当時最高の作曲者と言われた山田耕作がつくり、伊藤久男をはじめ伊藤武雄、波平暁男のニッチク(後のコロムビア)の歌手が動員されて歌われた。
山本昌子などの児童合唱団が唄った同名で「少国民歌」まで誕生した。

アッツ島守備隊は弾丸、食糧などの物資と援軍を要請したが、上層部は「玉砕し皇国軍人精神発祥することを望む」として返信した。
船や兵員が足りず見捨てられ、敗残兵になったら死んでしまえということだった。
大本営は、玉砕を初めて公にし、これらの要請があったことを隠し、<生きて虜囚の辱めを受けず>という戦陣訓を守った英霊として祭り上げ、そのため歌まで作って国民の戦闘意欲向上に利用したと平成22年8月12日のNHKテレビはいう。

音楽が戦争に利用された一つの悲しい例である。


「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」
伊藤久男、伊藤武雄、波平暁男など
ニッチク歌手総出演
作曲:山田耕作

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