金沢蓄音器館

館長ブログ ほっと物語

2011年9月

その81「昭和天皇もファン」


金沢蓄音器館にはSPレコードが10枚連続でかけられるオートチェンジャー機構付きの蓄音器がある。
日本コロムビアが作ったARG952と呼ばれるものである。

戦後間もなく製造され、昭和天皇が持っていたものと同形だと言われている。

10インチ(25センチ)盤10枚を一枚づつ表面、ひっくり返して裏面、それを連続してかけられる。つまりレコード20面を続けて聞くことが出来るのだ。12インチ(30cm)盤もかけられる。
アメリカビクター社が作ったエレクトローラ10-50蓄音器も自動演奏可能だが、盤をひっくり返しての演奏は出来ない。
さらに真空管を用いた電気蓄音器で、ラジオも聞くことが出来る。世界中の短波放送も聞ける優れモノである。

先代館長がこの器械を手に入れたときには、随分と外観に傷があり、オートチェンジャー機構も壊れていた。
自ら機械部分を修理し、真空管も取り替えた。外観の汚れ、壊れ、剥がれていた表面は家具職人に直しに出し、ようやく元の音色を奏でるようになった。
外からは見えないターンテーブルの下の部分は1個のモーターですべてを動かすようになっている。
歯車の数は、多くありすぎて数え切れない。
まるで昔の時計のなかを覗いているようだ。

音は、電気蓄音器(電蓄)特有のボンボンと低音が良くでる。

実は、この蓄音は戦前から発売されていた。
昭和10年、RE950号と呼ばれ、900円で発売された。その後、昭和13年には990円、1200円、1350円と値上がりした。
作曲家古賀政男も持っていたと歌手菅原都々子さんが言っていた。
値段で比較するとビクターのクレデンザと双壁である。違いは、電気を使うか使わないかである。

長時間演奏に人々は随分と憧れたのだろう。それが偲ばれる蓄音器だ。(YouTubeで金沢蓄音器館 10枚連装の蓄音器で動きが見られる)


コロムビアARG952電気蓄音器

レコードプレーヤー部分

昭和13年コロムビア総目録に印刷された広告。
950号990円と記載
その80 10周年記念イベントから② ー「月がとっても青いから」誕生秘話ー

菅原都々子が歌った「月がとっても青いから」のレコードが大ヒットしたのが昭和30年、SPレコード1枚300円の時代だった。

菅原さんは「江の島悲歌(エレジー)」「博多エレジー」「海峡エレジー」などその独特のうなり声、悲壮感あふれる歌い方で「エレジーの女王」と呼ばれて一時代を築いた歌手だ。
金沢蓄音器館開館10周年記念イベントで菅原さん自身が語った掘り出し物の話である。

―――寂しい歌、エレジーばかり歌っていたので、「わたくし、お嫁にいけないかも?」と思ってみたり、結婚式に呼ばれると「是非1曲を」と乞われることがあってもその場にふさわしくないので歌えない。
ハレの場でも歌える曲をと、良く知っていた清水みのる氏に作詞をお願いしたところ「つづちゃんのことは目をつむっていても雰囲気がわかるから」とすぐに書いてくれた。
実父である陸奥明氏がその詞をみて大喜び。「だまっていてもメロディーが浮かんでくる!」と言って、すぐに曲をつけてくれたという。

こうして、名曲「月がとっても青いから」が誕生した。

「広く大衆に支持される歌というのは、まず詞が大切だと作曲家古賀政男、服部良一、吉田正の各氏も指摘していた。
最近では曲先(きょくせん:詞よりも曲が先にできること)ばやりだが、いい詞が出来ると曲はおのずと湧いて出てくるものだ」と同席した当館名誉館長の飯田久彦さんも語っていた。

現役を引退し、今はボランティア活動を続ける84歳の菅原さんは3曲の予定を5曲も歌い、満座の老若のファンを沸かせた。もちろん「月がとっても青いから」も歌った。


対談の模様
右から飯田久彦さん、菅原都々子さん、館長



菅原さんと飯田さんの楽しい会話が弾む
その79 10周年記念イベントから① ー大スターの要素とヒット曲ー


金沢蓄音器館開館10周年記念イベントが平成23年9月8日21世紀美術館で開かれた。ゲストは菅原都々子さんと飯田久彦さん。
菅原さんは「月がとっても青いから」で一世を風靡した往年の大歌手。
飯田さんは元歌手、テイチク社長、今は音楽プロデューサーで当館の名誉館長でもある。
以下はその対談の一こまである。司会は小生が務めた。

第一回のNHK紅白歌合戦の話。
それは昭和26年1月3日、NHK東京放送会館のラジオ第一スタジオで300人程度を前にして歌われ、全国へラジオで放送されたという。

菅原さんはその第一回から出場しており、かつそのトップバッターとして「憧れの住む町」を歌った。現在その時のメンバーでお元気な方は菅原さんお一人だ。「紅白音楽合戦」と呼ばれ、藤山一郎キャプテンの白組が優勝した。

「その当時、紅白に出ることよりも年末から年始にかけて国際劇場、日劇、帝劇などの大ホールで1週間のロングランの公演を開ける方がスターの要素でした」と語った。紅白よりもワンマンショーを開くことが重視されたのだ。

今でこそNHK紅白歌合戦に出場することは歌手にとって勲章がつき偉くなるようなものでなんとかして出たいと願う。
戦後の落ち着きを取り戻していたころとはいえ、まだまだ厳しい時代だった。収入は明らかにショーを開くほうがいいに決まっているからなのだろうか?菅原さんに聞きそびれてしまった。

しかし娯楽の少なかった時代に紅白は国民に歌う喜び、生きる力を与えた。
今は、街頭放送は騒音防止条例などがあり街中で大きな音は出せないが、当時は商店街、店頭、店中など音楽は溢れていた。ラジオをつけても同じ曲が流れていた。
だから子供から大人まで同じ曲を知っていた。

今はパソコンやイヤホンで聞いているので100万枚売れたと言ってもそれ以上の広がりは少ない。聞かれる層が限られているのだーーーとは、もう一人の対談者、飯田久彦さんの指摘である。(つづく)


右から飯田久彦さん、菅原都々子さん、館長

熱唱する菅原さん、後ろは飯田さん

菅原さんのサイン

ページの上へ