金沢蓄音器館

館長ブログ ほっと物語

2012年6月

その108「SPレコードは寝ていただく?」


SPレコードは立てて保存するか、平らに寝かせて保存するかどちらが良いのだろうか。


父が経営していた大正3年創業の山田屋蓄音器専門店では、十字に仕切った棚が店の壁面全体におかれていた。
この棚一段毎に、SPレコード10枚程度寝かせて入る厚紙の箱が10インチ(25cm)、12インチ(30センチ)2種類収められていた。
どのレコード屋も同じだった。
レコードをたてて在庫すると盤が反ってしまうからだった。

LP,EPの時代になると寝かせるのではなく、立てて陳列するようになった。
ジャケット面をみせて購買意欲をそそるためだった。
写真、文字、材質、デザインも多種多様になり、耳だけでなく目でも楽しめるようになった。
盤の原料が固いシェラックからビニールに変わったために、レコードを入れるエンベロップ(スリーブともいう)という薄い紙から厚いボール紙に変わり、盤の反りを心配しなくてもよくなったからだ。

昭和13年三省堂書店から発刊された「レコード音楽全集第5巻、レコードと蓄音器」のなかには「レコードの整理法」なる項目がある。
レコードキャビネットの高さは3尺前後(90cmくらい)、20段で3列にし、1つに8枚くらい収納すれば480枚入るのが良いと書かれている。
レコードをのせる棚は盤の大きさより5分(1,5cm)大きくし、引き出し式が良いとある。
CD1枚10g程度の重さだが、SPでは10インチ盤1枚で200g、12インチ盤では300gを超えるのでこの棚は150kg位の重さになるからだ。
さらにご丁寧にカード2枚を作り、1枚は作曲家名別、1枚は演奏者名別にするとたやすく希望のレコードが出せるとまで記載されている。
レコードは高価なものだったため、大切に扱われていた証だろう。

さて、当館ではSPレコードには寝ていただいている。ちなみに国立国会図書館も寝かせる派だ。


尾張町の山田屋蓄音器専門店

三浦洸一来店、後ろがレコード棚

金沢蓄音器館の収蔵庫(上、下の写真)
その107「蘇ったマーベル蓄音器」



平成24年5月、「マーベル」という卓上型蓄音器が当館に寄贈された。

レコードが「ラッパ吹込み」(電気を使わず、大きなラッパの前で音を出し集音して録音する方式)から、マイクロフォンを使い増幅し大きな音で録音する「電気吹き込み」方式に変わったのは、大正時代の末期だった。
そのため蓄音器で再生される音は、随分と大きな音色で奏でられるようになった。
それまではか細い、小さな音は録音するのに難しいものだった。
この新しい方式にあわせて蓄音器も進歩し、米国ビクターの「クレデンザ」蓄音器はそのもっとも秀でたものだった。

日本国内でも1926年(大正15年)に「シンフォニック・マーベル」と言う蓄音器が十字屋から発売された。
当初は「シンフォニック」という米国製のサウンド・ボックスを使っていたが、1928年に自社製品を開発し「マーベル」の名称に統一された。

その「マーベル」蓄音器が収蔵品に加わった。
それはホコリにまみれており、内部のゼンマイ部分を取り外してラッパ部を見ると、根元は金属板で作られているが、出口に近い部分は木製になっており、随分と丁寧な造りになっている。
蓄音器のサウンド・ボックスには「リミット・トーキング・マシーン社、イングランド」と刻印されていたが、本当に英国で作られたものかはわからない。
舶来品信奉がまだ根強い時代だったので贋物かもしれない。あるいはあとでサウンド・ボックスだけ取り替えたのかもしれずはっきりしない。
しかし、修理とオーバーホール後、そっと針をレコード盤に下ろすと、音の分離が良く綺麗な音色を奏でた。

蓄音器の命が蘇った瞬間だった。蓄音器に携わっていればこそ味わえる喜びである。


蓋の内側にあるマーク。蓄音器の
大きさ:寸法 巾43、奥37、高34cm

ラッパの根本は鉄で造られ、出口は
木製になっている

サウンドボックス:リミット・トーキング・
マシーン社、イングランドと刻印がある
その106「ポリドールレコードの誕生」

消費税の行方で国会がもめているが、昭和初年、世界金融恐慌、関東大震災で、税収をアップするため輸入関税が100%かかることになった。
そこで、各社は外国からの輸入レコード、蓄音器は日本国内において生産するため、昭和2年5月にポリドール、7月にコロムビア、9月にビクターの順で会社をおこした。
社名に「日本」をつけて輸入品と同等な品質のレコード、蓄音器を製造するようになった。

一番早く設立したポリドールは、昭和5年にようやく日本盤の吹込みをするようになった。
それまで原盤をドイツ、グラモフォンレコードから取り寄せ、国内で洋楽の製造、販売をしていたのだが、ビクター、コロムビアの邦楽の隆盛ぶりを見て名乗りを上げたのである。
翌6年には講談社がキングレコードを立ち上げたが、製造はポリドールが行った。

日本の楽曲を製作するため最初に文芸部を作るのだが、ここに藤田正人を入れた。
藤田は大連商業を出て、明治大に進んだ。
彼の文学的素養、人柄が買われた訳である。 藤田は先発組のビクター、コロムビアが手をつけなかった浪花節に狙いを定め、侠客ものの義理人情路線を目指した。
これが昭和5年東海林太郎の名曲「赤城の子守唄」を生んだ。

歌詞は、友人の佐藤惣之助に昭和2年に依頼していた。
大村能章に作曲を頼んだが断られた。そこで明治の後輩でマンドリンクラブにいた竹岡信幸という若手に頼んだ。
後に「バクチだった」と作詞家・藤浦洸はいう。
歌手は、藤田の大連商業時代に満鉄の図書館長をしており、唄い手に転向してキングレコードでヒットが出ていなかった東海林太郎に依頼した。
発売されると大ヒットになったが、作詞から3年かかっていたことになる。
藤田は佐藤、竹岡、東海林という人間関係に恵まれ、各々が才能に溢れていた。
藤田自身もそんな関係を作れるプロデュース感覚溢れる人だった。
こんな人物が最近少なくなった。


1937年(昭和12年)2月
ポリドール新譜目録

同じく「ポリファー式電気吹込」の
記事が読める

赤城の子守唄
作詞:佐藤惣之助、作曲:竹岡信幸
唄:東海林太郎

ページの上へ