金沢蓄音器館

館長ブログ ほっと物語

2012年7月

その111「新しい風は金沢から」

霧島昇が唄った「胸の振子(ふりこ)」というSPレコードがある。
東京タイムズの連載コラム「見たり 聞いたり ためしたり」を新東宝で映画化した時の挿入歌に使われた。
主題歌は、同題で藤山一郎の唄で同じレコードの片面に録音されている。1948年(昭和23)5月、コロムビアより発売された。

作詞はサトウハチローで、タバコ好きだった彼が、煙に委ねて恋心を吐露している。
演歌ではなく、ゆったりとしたビング・クロスビーを彷彿させるポピュラー・ミュージックと言ってもよい。

この歌の作曲家は服部良一だが、金沢で作ったものだと言われている。

1947年(昭和22)の早春、服部は仕事で金沢に出向いた折り、大手堀から兼六園に向かってそぞろ歩いていた時、ふと2つのメロディが湧いてきた。
すぐに宿へ戻り譜面にまとめ、ひとつにはディック・ミネ用、他の一つには灰田勝彦用と書いた。
ディック・ミネはテイチク専属だったためコロムビアの霧島昇を起用して録音。
霧島はそれまで唄っていた曲調と全く異なるこの曲を新境地にしようと緊張感一杯でレコーディングに臨んだという。
「霧島昇、ミス・コロムビア(松原操)の子息である坂本紀男東京音大教授が、NHK<思い出の歌>で披露して父の霊を慰めた」と音楽文化研究家・長田暁二さんはいう。

服部が灰田勝彦用とした1枚は佐伯孝夫が作詞し、「東京の屋根の下」として1948年10月、ビクターから発売された。
どちらの曲もハイカラで新しい風を感じることが出来る唄だ。

平成24年7月、金沢蓄音器館でのイベント「日本の名唄シリーズ⑫」ではこの服部良一が作曲した2曲を続けて聴いてもらった。
来館者は、金沢生まれの曲に戦後の新しい空気を感じたに違いない。
拍手はひときわ大きかった。


昭和23年10月発売
「東京の屋根の下」
唄:灰田勝彦
作詞:佐伯孝夫
作曲:服部良一

昭和23年5月発売
「胸の振子」
唄:霧島昇
作詞:サトウハチロー
作曲:服部良一
その110「全国1位に輝いた二水高校」



昭和28年、NHK全国唱歌ラジオコンクール高校第1位の「醒めよや風琴」と題したSPレコード盤が金沢蓄音器館にある。
歌っているのは石川県立金沢二水高等学校音楽部とレーベルにある。


昭和28年12月6日、午前10時全国8地区の代表校が1時間にわたり全国放送された。
正午前、結果発表が行われた。NHK金沢放送局アナウンサーの弾んだ声が響きわたった。

「皆さんに嬉しいお知らせを申し上げます。優勝は金沢二水高校です」。

言い終わるかいなかのうちに、ラジオ前に朝から陣取っていた60名を超す同部員の歓喜の声が沸き起った。
男女部員は誰彼となく抱き合い、手を取り合って泣きだし、全国優勝の喜びをかみしめたという。
部員だけでなく生徒、教師は言うに及ばず県民挙げてその栄誉をたたえた。

二水高校は翌29年も、全国優勝は逃したものの上位入賞を果たし、その後も「合唱二水」の名声を広く知らしめて今日に至っている。

このときの課題曲は石桁真礼作「若い日の歌」、随意曲(自由曲)はジョン・ダンビ-作曲、津川主一訳詞、指揮・鴛原利蔵、「醒めよや風琴」。
翌年9月、中学の部優勝の東京、千代田区立今川中学校の「猟人の合唱」とカップリングでコロムビアから全国発売された。


貴重な優勝記念品である。


コロムビアより全国発売(昭和29年9月)

歌詞カード、音楽部と書かれている

「二水50年」誌より
その109「人骨が映ったレコード」


北海道の新冠町にLPレコードを主に集めている「レ・コード館」がある。
収蔵枚数は81万枚にも上り国内最大数を誇るのではないだろうか。
100万枚を目指すため近隣の幼稚園跡を取得、近く改修すると言う。LPが中心だがEP,SPレコードも含まれている。

この館が開館15周年(1997年6月オープン)を迎え、交流のある札幌の白い恋人パークの宮崎正義アドバイザーと小生が呼ばれた。
レ・コード館長を兼務している辻本政寿教育長と「蓄音器が語る昭和の時代」と題しての鼎談である。
その中で宮崎さんからたいへん珍しいレコードが紹介された。

「肋骨(ろっこつ)レコード」だ。
これは、なんとレントゲン写真のネガにロック、ジャズの音を吹きこんだソノシート状のペラペラレコードだ。もちろんSPと同じ1分間に78回転盤。
1950年代の旧ソ連時代、西側諸国の音楽は販売、演奏はご法度だった。
ロシアの若者たちは強制収容所送り、投獄の危険を承知で、病院で処理に困っていた使用済みのレントゲン写真を丸く切って、中央に穴をあけて録音した。
音質は悪く、片面にしか音は入らなかったが、音楽に飢えていた彼らにとって、それは宝のようなものだったに違いない。
頭部や肋骨部分が映っているため「肋骨レコード」と呼ばれたという。

日本では昭和30,40年代に材料費の低減化、軽量、簡便化のために「ソノシート」が多く出回ったが、そのずっと前に必要に迫られて考え出されたレコードがあったのだ。
必要は発明の母、海賊盤ではあるが、昭和の時代を表しているひとつである。


レ・コード館での鼎談模様

右より辻本館長、宮崎アドバイザー、小生

肋骨レコード

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