金沢蓄音器館

館長ブログ ほっと物語

2012年9月

その117「金沢の"海の男"の唄」



地元・金沢の曲も随分と金沢蓄音器館に収蔵されている。
その中に「船玉節(ふなだまぶし)」というSP盤がある。
裏面は「大木遣り・祭音頭」である。
ともに「石川県金石(かないわ)町、海の民謡」と書かれている。

船玉節の歌詞は、

「この御酒は 船玉のお祝いの 御酒じゃ 参り アイ
参らにゃ 御酒が 御酒が アイ 無になる オイ
酌が エイヤーエー 無になる」

男ばかりのゆっくりとした勇壮な唄である。
この唄は、金沢の海辺の町、金石で300年前から歌われていた俗謡である。

「まだら節」という民謡があるが、これは福岡県東松浦半島の北西海上にある馬渡島(まだらじま)に起こった船乗り唄が起源であり、富山、石川、長崎、鹿児島県に伝わり家祝、船祝などで唄われたという。
当館には「七尾まだら」のレコードが残っている。

金石は海に近いため造船や海運が盛んで、江戸時代には北前船の重要な港として栄えた。
正月11日の「起舟」に廻船問屋が船頭、水夫を招待して祝宴を催すとき、新しい船の竣工時などその度ごとに「船玉節」は唄われたという。
船板一枚下は地獄であり、そのため船の底には女性の陰毛を入れた箱を置いて守護神として祀り、海路の安全を海の神様にお願いしたと北陸大学の小林輝冶名誉教授はいう。

"海の男"の唄と呼ばれる所以だ。


船玉節

大木遣り・祭音頭

船玉節の歌詞カード
その116「"ニットーレコード"はご存知か?」


つばめ印のレコード盤がある。
大正9年、大阪に出来た日東(ニットー)蓄音器㈱のものである。大正期は、関西に多くのレコード会社が存在した。関西圏にはそれだけ経済力があったことを示している。
この会社は資本金50万円で、株主は白山善五郎、社長は森下辰之助だった。
森下は蟻洞(ぎどう)という芸名まで持っていた義太夫のファンだったという。

このニットーレコードに、録音が大正13年12月23日、長唄「紀文大盡(尽の旧字体)」という盤がある。
唄方4代目吉住小三郎、三味線の3代目杵屋六四郎。ニットーレコードは当代一流の演奏陣を持っていたことになる。

そこに注意書きがわざわざ封入されている。
第一に、回転数は1分間に80回転のこと。この基準を守らねば原音を再生できませんよと書いてある。
第二に、大きい音量で聴きたい時はタングステン針を用い、普通は竹針を使うようにと書かれている。

一般に、鉄針は硬度が4~5で、長い時間使用すると針先が摩耗し盤を傷つけてしまう。
竹針なら針は摩耗するが盤を傷つけにくい。その点、硬度7,5のタングステン針は高価であるが固いため長時間に耐えられるからだという。
しかもニットーの針ならば舶来の針に劣らぬ性能があり、さらに安価であるので是非お試しあれと商魂たくましい。
レコードを入れるエンベロープ(保護袋)にはしっかり針と蓄音器の宣伝がなされている。

ニットーは、西日本最大のレコード会社となり、東日本地区の日蓄(後のコロムビア)と大いに競い合ったという。
しかし、ラッパ吹込みの時代から電気吹き込みの時代に入り、さらに外国系の会社が多く誕生してきたため、昭和11年タイヘイレコードに吸収合併されてしまった。
音量が大きく、綺麗な音色を奏でた「電気吹き込み」という大きな技術革新に後れを取ってしまったからだ。
大切なのは、ソフトの充実だけでなく、技術革新を取りこむ必要性を教えてくれる話だ。


長唄「紀文大尽」

針と蓄音器の宣伝が印刷されている

封入の注意書き

タングステン針
その115「"流行歌"が"歌謡曲"になったわけ」



レコード盤の真ん中に曲名、歌手などを印刷してある丸い紙を「レーベル」と呼ぶ。
これには、その曲がどんなジャンルのものかも記載されている。
例えば「ジャズ」と書いてあるが、聞いてみるとギターの演奏があり「これがジャズ?」と首をかしげるものも多い。
現代のリズムや感覚と随分と異なるのだ。「和洋合奏」と書かれてあれば曲調も想像できるのだが、ピアノやギターが入っているだけで「ジャズ」となると随分変な感覚になる。時代が変わればその曲調のとらえ方も大きく変わるのだ。

「流行歌」と書かれているものが少なくなり、代わって「歌謡曲」と書かれるようになったのは昭和15年あたりだという。
戦時下に「はやり歌」とは何事か!という政府や軍部の横やりをカムフラージュするため「歌謡曲」というようになったという説がある。そうではなく、NHKが各レコード会社を指導したからだと音楽文化研究家の長田暁二(おさだ・ぎょうじ)さんは語る。

流行るかわからぬ曲を「流行歌」と呼ぶのはおかしい、「歌謡曲」という方が正しいのではないかというNHKの考えをビクター、キング、ポリドール、テイチクの各社は同意した。
しかしコロムビアだけは「流行歌」を通しつづけたという。

「大衆の間で流行した歌」あるいは「大衆の間に流行らせる目的で作られた歌」という用途別分類であると当時キングレコードのディレクターであった故・矢野亮(やの・りょう)氏は述べている。
しかし戦争中は「歌謡曲」も「国民歌」「愛国歌」「国民歌謡」とも言われるようになった。

まさにジャンルの分け方でも「歌は世につれ」なのだ。


ビクター「国民歌謡 隣組」

ビクターは「愛国歌 海の勇者(つわもの)」

キングは「国民歌 海行く日本」

コロムビアは頑なに「流行歌 満州想えば」

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