金沢蓄音器館

館長ブログ ほっと物語

2012年11月

その122「金沢蓄音器館誕生のいきさつ」

金沢蓄音器館は平成13年7月に金沢市尾張町に開館した。
だが、それ以前に先代の八日市屋浩志館長は、蓄音器とレコードを展示公開していた。
「山蓄音聴館(やまちく おとぎかん)」である。
山蓄の店舗兼倉庫として使っていた金沢市油車にあった建物を改修し音聴館として平成8年11月公開した。

蓄音器とSPレコードを集め始めたのは昭和50年ごろからだった。
大量生産、大量消費の掛け声高い時代で、若いころから自分がかかわった蓄音器が粗大ゴミとして捨てられていることに心を痛めたからに他ならない。
「直せばまだ使えるものを、もったいない。今残さねば、あの懐かしい音色が消えてしまう」と言っていた。

その館には多くの方々が訪ねてきた。
来館者は収容物の多さと修理されてきちんと蓄音器が鳴ることに驚きを隠さなかった。その中には取引先だったレコード、オーディオメーカーの社長たちも含まれていた。

なかでも東芝EMIの会長だった鳥塚憲一氏は、音聴館を見て
「レコード業界としても絶対に必要なことだ。日本の音の原点をしっかりと残していかねば!金沢という文化の香り高い街にふさわしい!協会もバックアップする」
と、強い想いを話された。
その想いは、日本レコード協会を動かし、冨塚勇会長(ビクターE社長)から山出保金沢前市長への手紙にしたためられた。
市は、レコードショップ「山蓄」の発祥の地である尾張町に蓄音器館の建設を決め、音聴館ばかりか各店舗に分散されていた540台の蓄音器、SPレコード2万枚を収容した訳である。
多くの方々の熱い想いに支えられた金沢蓄音器館は、大きな役割を背負っている。


中央が、東芝EMI元会長
鳥塚憲一氏

音聴館での初代館長
八日市屋浩志
その121「蓄音器 ふしぎ発見!」

それは、平成24年8月の夏休み中のことだった。

小学校の低学年と思われる少年、幼稚園児ぐらいの女の子、その保護者の中年のご婦人で、来館初めてという3人組が「蓄音器の聴き比べ」に加わった。

聴き比べのあと、その少年が「電気を使わないのに何故音が出るの?」と尋ねてきた。
レコード盤に刻まれている音を針で拾い、振動板と呼ばれる雲母(のちにジュラルミン)の板で増幅、それを「アーム」と呼ばれる管を通して大きくし、さらに出口である「ラッパ」部分から空気の振動として人の耳に伝えることが出来ることをやさしい言葉で説明した。汗が出た。

さあ、それからが凄かった。

暑い日中、少年が幼い妹を連れて日参してくる。

エジソンの発明へのいきさつ、録音と再生の仕組み、ラッパの素材と音色の違い、針の素材など、とても小学生とは思えぬ質問を浴びせかけられた。

レコード盤の材料、内部の構造がわかるようにと割れてしまったSPや鉄針をあげたりで、こちらも懸命に彼の"研究"に答えた。

9月に入り少し涼しくなったころ、小2というこの少年は夏休みの自由研究をわざわざ見せに来てくれた。なんとそれは「蓄音器のふしぎ」とかかれた24ページにもわたるスケッチブックと蓄音器の模型だった。

研究は「近くで演奏してもらっているように聞こえる」、「昔の古い器械ですが、今でも好きな人がたくさんいることがわかりました」と結ばれていた。

紙コップとポリのクリアフォルダーを丸型に切って作ったレコードの手製蓄音器。レコードを手で回すと紙コップの先端につけた少年に渡した"あの針"がレコードの溝をなぞる仕組みになっていた。

これはぜひ来館者にお見せしたい。少年に頼んで、しばらく借りることにした。

このことが中日新聞に載り、今、その蓄音器は陳列の一角を占めている。


24頁にもわたり、丁寧に解説されている

紙コップとレコード盤、鉄針も付いている
盤には溝も刻まれている

タイトルは「蓄音器のふしぎ」

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