金沢蓄音器館

館長ブログ ほっと物語

2013年2月

その129「裕次郎の心を捉えた”山中節”」

石原裕次郎が山中節のファンだったことはあまり知られていない。
彼の「わが青春物語」には、高2の時に山中まで聞きに出かけたことが記されている。
民謡の中では一番好きで、レコードが擦る切れるほど聞きこみ、覚えこんだが、本場のものとは全然違う、くらべものにならないと聞き、わざわざ足を運んだという。

「忘れしゃんすな 山中道を~」で始まる「山中節」は石川県を代表する民謡の1つである。
元来、民謡は"俚謡"(りよう)と呼ばれていた。「一地方のいなかびたうた」(広辞苑)の意味だ。
明治42年、札幌芸妓5名が上京し「追分」を寄席で披露したと言われる。「江戸にはない、ゆったりとして、ひなびており趣が深い」と絶賛を博した。
大正時代の「安来節」「八木節」など俚謡全盛への道を開いた。多くのSPレコードが作られたのは寄席での人気が凄かったからだろう。
「山中節」は「草津節」と温泉俚謡として双壁を成している。

当館には「山中節」のSPレコードが30種類ほど収蔵されている。その出だしの歌詞が、盤によって異なるのだ。

「山中 山代 粟津の湯でも~」(唄い手:堺屋席なべ、小原萬龍)

「浴衣 肩にかけ~」(同:小原花房)

「谷にゃ水音 峰にはあらし~」(同:金津家米八)

「私の心は 薬師の山~」(同:片山津多助)

「山が高うて 山中見えぬ~」(同:蔦の家小雪)

「薬師山から~」(同:音丸、豆千代)

「送りましょうか 送られましょうか~」(同:菊栄)

「忘れしゃんすな~」(同:新鈴木はがき、根岸松子、越廼家高麗蔵、葭町勝太郎、山中 米八、市三、佐々木静奴   など

大正期のSPの曲の出だしはいろいろだが、昭和期のものは「忘れしゃんすな~」が多い。何処からはじめどこで終わってもよいという定型がない唄では、新しい電気吹き込みには適さなかったため、地元の安実(あんじつ)清子(せいこ)が「米八」と名乗って今の形に整えたという。

さて、若き裕次郎の心をとらえたのは、哀調を帯びた節回しか、湯女の心を歌った歌詞だったのか?それを思いながら聴く山中節も別の輝き方をする。

(「館長ブログその17」にレコードメーカー名等の記載、又「国立国会図書館の歴史的音源」の中の「インターネットで音源公開」ページで歌詞の異なる音丸、葭町勝太郎を聞くことが出来る)


ニッポノフォン 新鈴本はがき

ポリドール 山中米八

ニッチク 豆千代

ツル 菊栄
その128「快挙!芸術祭賞優秀賞受賞」



平成24年度(第67回)文化庁芸術祭が行われ、レコード部門で金沢蓄音器館が協力しコロムビアが作った「甦る(よみがえる)SP盤・蓄音器サウンドの豊穣」のCDが優秀賞をいただいた。
かかわった者として光栄なことと有難く、感謝している。


コロムビアの糟谷宜之(かすや・よしゆき)チーフ・プロデューサーが平成23年3月に来館し、「蓄音器の聴き比べ」を体験したことからこのCD化の話はスタートした。
それは「豊かでふくよかな音世界」に魅了され、「このサウンドを多くの人に聴いてもらいたい」という糟谷さんの心に自然に湧きでた思いからだった。


すぐ小生は同意し、蓄音器や盤の選定作業に取り掛かり、12月と翌1月に録音をした。
休館日を使っての録音とはいえスタジオではない。エアコンを切ったり、館外の交通音のため再録しなおしたりで寒い上に難渋もしたが、それはそれで楽しい時間だった。


さらにコロムビアでは、その音を蓄音器の音色に出来るだけ近づけるため、「高音質」CDとして制作した。
明治、大正、昭和の流行歌(はやりうた)はCD3枚に収められ、解説は歌の歴史研究では第1人者と言われる長田暁二(おさだ・ぎょうじ)氏にお願いした。


こうして限りなく本物のアナログに近づく音に仕上がった。
蓄音器をなかなか実際に聴くことがかなわないリスナーでも、この音を聞くと針のスクラッチノイズからも時代の匂いを感じることが出来ると思う。
販売は1枚2500円(税込)、当館で購入できる。

そして一度は金沢蓄音器館にお越しになり、生の音色を体験いただきたいと願っている。


「甦るSP盤・蓄音器サウンドの豊穣」のCD3枚


その127「パティ・ペイジ、ご冥福を!」

年も改まった2013年の元旦に、パティ・ペイジが亡くなったと報じられた。85歳だった。

パテイ・ペイジといえば「テネシー・ワルツ」が代表作。1950(昭和25)年発売され、13週間ビルボード誌で連続1位をキープし、1950年代最大のヒット、累計で600万枚売れたという。
日本でも昭和27年15歳の江利チエミが吹込みし、ヒットした。

この歌詞は、海外に進駐した米軍兵士が故郷に残した恋人を想って唄ったものだ。
彼女は高音部、低音部の異なる旋律を1人で唄う多重奏のアイデアを気に入り、ヒットの1つの要因とも言われているが、元はと言えば人数分の制作予算がなかったためだったという。

パティ・ペイジは学校卒業後、美術スタッフとしてTV局に採用され、山、海などの絵コンテなどの制作をした。
このTV局付属のラジオ局"KTUL"の番組担当の女性が突然退社し、困った局は高校の文化祭で唄ったことのあるパティを思い出し、急きょ代役として使った。
番組は月金、毎日15分の帯番組で、そのタイトルは「パティ・ペイジ・ショー」だった。
クライアントはミルク会社の"ペイジ乳業"、その主人公が"パティ"と呼ばれていたことから付けられたネーミングだった。
本名・クララの彼女は"パティ・ペイジ"と名乗った。
これが可愛らしくてアメリカ人受けし、人気を博した。彼女はこの番組を降りても番組名をもらって歌手名とした。

この「テネシー・ワルツ」の次に発売されたのが「ユー・ビロング・トゥ・ミー」(邦題:あなたは私のもの)。
当館にあるこのSPレコードはとても綺麗な盤だが、あいにく寄贈を受けた時から外側が少し欠けている。
ロイ・キヨタ氏解説の「ボーカリスト」と名付けたポピュラー音楽のイベントでは、そこを避けて針を落とした。
来館者の一人は「目の前に生きているパティ・ペイジが現れた」と感動していた。
欠けた盤でも大切にコレクションしていたお陰だ。


「テネシー・ワルツ」パティ・ペイジ
マーキュリー J-5






「ユー・ビロング・トゥ・ミー」
邦題:あなたは私のもの
マーキュリー J-65
少し欠けているが、綺麗な盤だ

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