金沢蓄音器館

館長ブログ ほっと物語

2014年7月

その168自前でレコードを作った話

館内のSPレコード盤のカビを落とし、綺麗に磨いていたときのことである。

真ん中のレーベルの印刷文字が薄くなり、すぐに読み取れない盤が1枚出てきた。斜めにしたり、明るいところで見たりと注意深く読むと「金沢 片町 山田屋」と印刷されていた。

この店は大正3年に増泉孫二(ますいずみ・まごじ)が片町に開業した「山田屋時計店」であり、昭和3年同店橋場店を塚清太郎(つか・せいたろう)が「蓄音器専門店」として業務を引き継いだ。
時計も蓄音器も”ゼンマイ”で動くため、その頃の”蓄音器屋”は時計店から出発した店が多い。
9年にその店の番頭であった飯田米(いいだ・よね)が引き継いだ。
飯田は、同119月その店の得意客であった八日市屋に1,000円で売却した。
経営は小生の祖母・清野(きよの)が、父・浩志が13歳で旧制中学に入学してからずっと店番などの業務を担当した。
父は不動産のほか、「山田屋」というのれん代、売れない在庫と1617番という電話だけが資産だったと言っていた。


さて、そのSP盤は、「歩兵第七連隊軍旗の歌」。作曲・陸軍戸山学校、歌・笹本幸夫、演奏・帝都管弦楽団と書かれ、レコードはビクターをもじってか”ビクタホン”制作となっている。
音はノイズはあるものの明瞭な音質でありマイクロホン利用の電気録音時代のものと思われる。
笹本幸夫は「道頓堀シャンソン」(昭和8年、パーロホンレコード)、「東京甚句」(昭和9年、太陽レコード)など唄っていた歌手である。
発売時期はわからないが、「片町山田屋」「電気録音」「歌手」などから推測すると昭和58年ごろではないかと思われる。
山田屋蓄音器専門店が作った自主製作盤ではないだろうか。地域に根ざし、密着したレコードを1販売店が作ったのは郷土愛の表れか、それとも儲かるとふんだのだろうか。


蓄音器屋がレコードを自主制作した話は当時でも珍しかったという。

山田屋が作った「歩兵第七連隊軍旗の歌」
レーベルの下に「片町 山田屋」と記載

尾張町の店に飾った看板

尾張町42番地山田屋蓄音器店(橋場町角)
昭和30年頃。写真左は、現在の金沢文芸館

山田屋が作った歌詞カードのファイル表紙

その167100年前、秋聲は何を聴いたか

「“秋聲の聴いた音楽”vol.2 大正期の流行歌編」と題したイベントが平成26621日、徳田秋聲記念館で開かれ、小生が蓄音器とレコードの解説をした。
昨年は洋盤のクラシック中心、今回は日本の盤にスポットを当てた。


秋聲は、ちょうど100年前の同日、大正3621日に訪ねた新潮社の中根氏から蓄音器の音を聴かせてもらっている。イベント開催日を621日にこだわったのは、そのためだ。

「(豊竹)呂昇(ろしょう)の“新口村(にのくちむら)”や(吉原)〆治(しめじ)の流行唄などが面白い。(松井)須磨子の“カチューシャ”の唄もまんざらではない」

と「文士の生活」の中でその時のことを書いている。
その後「レコード芸術」、「婦人公論」、「新小説」、「新潮」などの数々の雑誌にレコードについて論評、感想などを書き、熱心な音楽ファンになっている。


当時の娯楽と言えば活動写真がその王座だったが、義太夫、浪花節の愛好者も多かった。呂昇は明治7年生まれ、明治40年代には人気絶頂の美人で、美声の持ち主の女義太夫師だった。

レコードもニッポノホンから発売されたが、大正期には「複写盤」と呼ばれるコピー盤が多く出回った。レコードが発売になると店頭から1枚買ってきてそれを複写し、正規盤より格安で売りだした。濡れ手に粟の商売だ。
150銭したニッポノホンの正規盤(ローヤルレーベル)をコピーした当館にある呂昇の複写盤も紹介した。

 

〆治の「昔し昔し」のレコードレーベルは、本人の顔写真が入ったもので珍しいもの。小唄端唄の世界で圧倒的な人気を誇る吉原の芸者で、芸者レコード歌手の元祖といわれている。
ラッパ吹込み時代は、声の大きな歌手のほうが綺麗に録音できるので、太くて声量のある〆治のレコードはよく売れた。もっとも当館にある明治期に作られた片面盤はノイズが目立つものの、その美声を聴きとげることが出来た。


須磨子のレコードは「ゴンドラの唄」と「ローレライの唄」2曲を聴いた。お世辞にも上手といえない歌だが、須磨子の舞台でのしぐさと相まって当時の若者たちの圧倒的な支持を受けたという。

大正2年に「爛(ただれ)」、同4年「あらくれ」を発表した秋聲は作家として勢いに乗っていた時期だったが、音楽はひと時の息抜きの時間だったのだろうか。

このイベントは好評だったため、またいつかやりたいと思っている。
乞う、ご期待!




呂昇の顔写真入りレーベル
「昔し昔し」

呂昇の「新口村」複写盤

呂昇の正規盤「ローヤル」レーベル

レーベルを見る眼差しが熱い
その166すぐに改良されたニッポノホンの蓄音器

国産最初の量産化蓄音器は「ニッポノホン」商号の蓄音器だ。明治43年に25号、32号半、35号、50号の4機種が日本蓄音器商会(コロムビア)より発売された。


すべての機種が朝顔型のラッパをつけたタイプである。


25号は木目の濃褐色、ゼンマイは1重、7枚羽で赤色塗りのラッパ、25円した。32号半(はん)はオーク材仕上げの本体、ゼンマイは2重、8枚羽のニッケルメッキラッパで定価3250銭。
35号は32号半と同じだがゼンマイの構造に若干の差があり価格35円。
50号はオーク材仕上げで3重ゼンマイ、9枚羽のニッケルメッキラッパで50円だったと「日蓄(コロムビア)30年誌」に書かれている。
工員の日給が12時間労働で30銭だったというから随分と高いものだった。


その後、32号半は短期間で発売中止になり、20号が発売された。


明治456月に作られたカタログからは、改良された機能がわかる。


20号は25号の器械部と同様で一度ゼンマイを巻くと2枚演奏が可能。ラッパは8枚羽で縁を二重にして堅牢化。これで不快なビビリ音を防いでいる。色も赤、黄、緑に塗っている。定価20円。

25号は以前の35号と一緒で、本体は3枚合板。ゼンマイは椀中にあり、埃を防ぐだけでなく雑音も発しないと書かれている。8枚羽で真鍮にニッケルメッキのラッパだ。価格は25円。

35号は本体がオーク材で、9枚羽ラッパで、ゼンマイは5枚まで盤を演奏できるとあるが、今では張力が緩んだせいかとても無理だ。定価35円。

50号は「75円でも売れる品」と書かれており、9枚羽。価格は50円に据え置いている。本体はマホガニー仕上げでカーブを描いた曲線のデザインになっている。


いずれも10インチの鋼鉄のターンテーブルで、以前の鋳鉄製より軽く、回転も滑らかにしている。
3ケ月間完全乾燥させた木を利用して」いるためか当館にある35号、50号ともに本体は100年近くたった今でも堅牢なままである。


それまでの他社の国産蓄音器は値段の安さが強みであったが、良心的なニッポノホンは大きなスペースの新聞広告をし、さらなる蓄音器の普及を計った。
今でも音色を奏でる優れモノだ。

価格の推移(価格変遷一覧図より)
               35号       50号

明治43年           35円       50円
明治45年           35円       50円
大正2年            55円木製ラッパ   75円
大正4年            65円       80円
大正7年            80円        ー


ニッポノホン35号
本体は直線のデザイン



ニッポノホン50号
本体は曲線のデザイン



日本蓄音器商会(コロムビア)
蓄音器価格変遷一覧図
(明治42年から昭和14年まで)

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