金沢蓄音器館

館長ブログ ほっと物語

2014年9月

その171日本初のヒット曲は京都から


大正時代に既に京都にレコード会社があった。
ラクダ印レーベルのオリエントレコード、社名は東洋蓄音器株式会社である。大正元年7月に設立された。東京で日蓄(今のコロムビア)が作られたわずか2年後のことだ。

この会社が日本初のヒット曲を放った。松井須磨子の「カチューシャの唄」がそれだ。

島村抱月が主宰した芸術座の「復活」は大正33月帝劇で上演し、翌月からは大阪、京都、神戸、広島などで公演し、空前の好評を得た。入り次第では一座解散の懸念もあったが、3,000円の利益を出したという。
大正期、1,000円あれば2階建のりっぱな家が建った時代だ。

その間、京都南座公演の合間をぬって東洋蓄音器は、その劇中歌である「カチューシャの唄」を吹き込んだ。

今、聞けば何の伴奏もなく蚊の鳴くような声で、上手な歌い方とはお世辞にも言えない。だが、須磨子の舞台でのしぐさと相まって若者たちの圧倒的な支持を受けたという。
「カチューシャ可愛いや 別れのつらさ」の歌詞は軟弱だと、第三高等学校ばかりでなく多くの学校で、歌唱禁止令が出たそうだ。

当時中学3年だった作詞家・藤浦洸は夏休みに広島で「復活」の舞台を見、「この歌を歌うとき、(須磨子は)首を少しかたげて、子供のように手拍子をとって歌う演技をした。私は心臓がとまるほど感動したのを覚えている」と後に書いている。

レコードは20,000枚売れ、東洋蓄音器も息を吹き返すことが出来たというが、真偽のほどはわからない。大正8年には日蓄の傘下に入ってしまった。

しかし、作曲をした中山晋平の名は、たちまちのうちに日本中に流れ、大衆の心をつかんで大作曲家としての地位を勝ち取った。

古い日本の都からレコード会社という新しい産業が生まれたこと、さらにそこから新しいスターを生み、ヒット曲を出したことにかえって京都の“革新性”を感ずる。

来年3月、北陸新幹線で東京、金沢間が2時間半でつながる。丁度東京、京都間の時間と同じだ。さて、金沢は京都を見ながらどうやって成熟していくか、金沢人として思慮している。             (写真は、当館収蔵の盤)


唱歌:芸術座劇「生ける屍」
さすらいの唄、松井須磨子
レコード番号 2529

唱歌:芸術座劇「生ける屍」
今度生まれたら、わしが好きなは
松井須磨子
 レコード番号 2530

オリエントのSPレコード盤
新流行歌「大正節」
祇園新地 市助、若種
レコード番号 A339




その170村岡花子の肉声SPが金沢蓄音器館にあった!


平成264月、「花子からおはなしのおくりもの」と題した朗読のCDが全国発売された。
「フランダースの犬」「小公子」「たけくらべ」「家なき児」など9つの童話、童謡劇などが収められ、NHKのあさドラ「花子とアン」の主人公・村岡花子本人が語っている。

この中に金沢蓄音器館所蔵の「森の白兎(しろうさぎ)」も収録されている。

花子は、戦前お話番組の挨拶で語った「全国の小さいお子さん、ごきげんよう」は、当時の芸人達にまねされるほど「NHKのラジオおばさん」として人気を博したと言う。

8月初旬、このCDを企画したレコード文化研究家の保利透氏を千葉から招いて当館でレコードを聴きながら、制作の裏話を聞くイベントを開いた。あいにく台風襲来と相まって荒天だったが、満席だった。

実は、今年1月、このCDを企画した保利さんから当館に村岡花子のSP盤がないかと問い合わせの電話があった。調べてみると、花子自身が吹き込んだ表裏6分程度の童話「森の白兎」が見つかった。

歌謡曲、クラシック、邦楽などが多い中で”語り物”の盤は少ない。その音源をデジタル化し、後世に残すことは意義あることではと思い、制作に協力することになった。

当館にあるコロムビアのNO.452卓上型蓄音器で実際のSP盤をかけ、その音をマイクロフォンで収録することで、より当時の音色に近づけた。ノイズは若干あるもののその時代の雰囲気が感じられる。

このSP盤は、昭和911月に録音、翌103月発売された。1人息子を亡くした42歳の時の収録だったという。
80年の時を越えて甦った花子の肉声。その語り口は今聞いても自然で、情景が見えるようだ。


「花子は子供たちに寄り添っていたからではないだろうか」と、このイベントをTVのローカルニュースで紹介したNHK金沢放送局の大河内惇アナウンサーは語った。


平成26年4月発売の
「花子からのおはなしのおくりもの」のCD
(当館でお求めになれます)


平成26年8月9日19時から村岡花子の
肉声を聴くイベント風景


金沢蓄音器館所蔵の
「森の白兎」のSP盤
昭和10年発売




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