ブログ

開館時間

9:30~17:00
(入館は16:30まで)
休館日 展示替え期間、
12/29~1/3

観覧料

一般 300円
団体
(20名以上)
250円
65歳以上・
障がい者手帳をお持ちの方およびその介護人
200円
(祝日無料)
高校生以下 無料
くらっしー&さんちゃん

HOME > ブログ

最新のブログ

2017年10月

博物館の建物が重文指定答申
2017年10月21日

 国の文化審議会が10月20日に「旧石川県第二中学校本館」を重要文化財に指定するよう答申し、近く告示される予定です。
 近年発見された創建当初の設計図(玄関ホールに複製を展示)で当時の姿をよく残していることが分かり、歴史的価値が評価されました。
 明治中期に改正された中学校令を基に設置された中学校校舎の初期の遺例で、当時の設計指針を踏まえつつ、装飾に独創性がみられ、近代の学校建築の発展過程を知る上で、高い価値が認められるそうです。
 来館の際には是非建物もゆっくりとご覧下さい。

「写真で見る戦後の金沢」10.人々のくらし~服装・歳時記編~
2017年10月18日

 古い写真に写る人々の服装などに注目すると、当時のくらしぶりを知ることができます。


 1枚目の写真は昭和27年頃(1952)に、金沢駅に向かって歩く人々を撮影したものです。
 中央左手の女性は着物・もんぺに草履をはき、大きな風呂敷包みを背負っています。当時は行商などでこのような姿をよく見かけました。
 女性の左奥の男性は着物に下駄をはき、右手に唐草模様の風呂敷包みを持っています。それ以外の人々は洋服で、着物と洋服が混在していた時代の様子がよく分かります。

 2枚目(左)は金沢の正月遊び「旗源平」で、昭和30年代と思われます。この頃は正月に晴れ着として着物を着たので、左側中央の男の子も着物を着ています。
 「旗源平」はサイコロ2個を振って出た目で旗を取り合いますが、昔は写真のように畳のへりの隙間に旗を差し込んで立てました。今の旗源平は根元が丸いですが、古い物は旗の根元を平らに削ってあり、差し込みやすいようになっていました。

 3枚目(右)は1月に行われる加賀とびの「出初式」で、昭和30年代と思われます。現在は金沢城公園で行われていますが、平成14年までは犀川の河原で行われていました。梯子登りを披露した後は写真のような一斉放水が行われ、空高く水柱が何本も並びました。

 4枚目(左)は昭和27年頃(1952)で、「ゴリ」を獲っている所です。金沢では淡水魚のカジカやウツセミカジカを「ゴリ」と呼び、加賀料理に欠かせません。白い服の男性が手にしている竹製の「ブッタイ」の中に追い込んで、すくいあげて獲りました。
 5枚目(右)も昭和27年頃(1952)で、大野川(機具橋付近)で撮影されました。手にしているのは竹製の継竿で、余分の竿を袋に入れて背負っているようです。手元にはジャンジャン(金属製の籠)があり、釣った魚を入れました。
 このような人々も川の歳時記としてよく見られましたが、魚がいなくなったり道具が変わったりして現在は様変わりしています。

「写真で見る戦後の金沢」9.百万石まつり・パレード編
2017年10月14日

 百万石まつりには様々な行列がありましたが、「商工パレード」が最も華やかだったようです。

 1枚目(左)の写真は昭和28年(1953)に撮影されたもので、尾張町の大通りを橋場町に向かって歩いています。当時は「広告行列」といい、二日間に渡って市内を100数十台の山車や仮装が行進し、各部門の入賞者が発表されています。
 2枚目(右)の写真は昭和30年代のものと思われます。昭和33年(1958)に「商工パレード」と改称し、トラック等が中心となります。昭和36年(1961)までは百万石行列と別の日に行われていましたが、翌年以降は一緒に回るようになりました。
 昭和50年代に入ると参加する企業や団体などが減ったりして中止した年もあり、平成11年の開催が最後となりました。


 音楽パレードは現在もありますが、昭和37~43年(1962~68)にかけてに登場した「フラワーガール」をご存知でしょうか。
 3枚目の写真は昭和41年(1966)に片町を歩く姿を撮影したものです。洋裁学校の生徒が、企業から布の提供を受けて作った揃いのユニホームを着て参加しました。



 音楽パレードに続くのは加賀とびや奴行列、そして獅子舞。4枚目の写真(昭和40年代)のように、加賀とびは勇壮なはしご登りを披露しました。
 奴行列や獅子舞は最初から参加していたようですが、加賀とびが登場したのは昭和32年(1957)のことでした。


 開催時期によって、さまざまな民俗芸能が参加していたようで、5枚目(左)は大野の「山王悪魔払い」で昭和42~47年(1967~72)に参加、6枚目(右)は金石の「曳山」で、昭和45年(1970)に初登場し昭和47年まで出ていました。
 このほかにも能登のキリコが参加するなど、年によって色々なパレードがあったことが分かります。

「写真で見る戦後の金沢」8.百万石まつり・百万石行列編
2017年10月6日

 毎年6月に行われる「百万石まつり」は、昭和27年(1952)に戦前の金沢市祭と、戦後の商工まつりを合わせた形で誕生しました。
 今回は「百万石行列編」として、利家公を中心とした時代行列を紹介します。

 1枚目は昭和36年頃(1961)の利家公です。写真の左端の男性が「鯰尾兜(なまずおかぶと)」を持っています。この兜を被って行列することもありました。
 利家公といえば芸能人のイメージがありますが、昭和58年(1983)までは地元の人が務めており、さまざまな年齢や職業だったようです。

 ちなみにお松の方は大和と丸越に勤める女性の中から選ばれたそうです。
 珠姫が登場するのは昭和44年(1969)の「加賀藩史懐古行列」で、4歳ながら約4キロの道程を歩き通したことが当時の新聞記事に記されています。

 ところで現在は利家公は行列の最後の方に登場しますが、当時も同じだったのでしょうか。
 昭和33年(1958)に目玉として「利家公入城行列」を再現していますが、利家公は最初の方にいたようです。「大名行列」の後に「かつぎ行列」「こども奴」「少年武者行列」「大人奴」が並び、現在とだいぶ異なります。
 また、昭和31~34年(1956~59)は香林坊~武蔵ヶ辻~橋場町~兼六園下を時計回りに歩いています。2枚目の写真(昭和33年)のように尾張町を橋場町に向かって歩く写真が出てきたら、これらの年のいずれかの可能性があります。

 3枚目(左)は「かつぎ行列」(昭和33年)が香林坊交差点を歩くところです。この年初めて加わった行列で、桃山時代の風俗を再現しています。後に江戸時代の風俗を再現するなど、年によって変わっていきました。

 4枚目(右)は「少年武者行列」(昭和33年)が尾張町を歩いています。前年に登場し、この年は100名近い男児が参加しました。
 当時の新聞記事を調べてみると年によって様々な試みが行われ、行列の様子が少しずつ変わってきたことが分かります。

着物で記念撮影~秋編・第1弾~
2017年10月1日

 過ごしやすい気候になってきましたので、着物体験を再開しました。第1弾は9月30日(土)・10月1日(日)に行い、お天気にも恵まれました。
 6月開催の「親子で和傘と着物体験」で職人さんに屋外で撮影した方がよいと勧められましたので、今回は玄関の外でも写真撮影を行いました。素敵な写真になりましたので、ご紹介いたします。

 次回は10月21日(土)・22日(日)に第2弾を行います。10月3日(火)に金沢市広報にご案内を掲載し、受付を開始します。

2017年9月

「写真で見る戦後の金沢」7.パノラマ写真編
2017年9月29日

 パノラマ写真は通常より広い範囲を撮影した写真のことですが、今回の展示では複数回に分けて撮影したものを合成して紹介します。


 上の写真は昭和36年頃(1961)に、寺町の寺院から犀川大橋~片町・香林坊~広坂を撮影したものです。現在の写真と見比べてみると、大きなビルがあまりなく、見通しがよかったことが分かります。当時は町家が多くあり、寺町から見ると瓦屋根が黒光りしてまぶしいくらいだったそうです。

 3枚目(左)は片町にあった大和付近を拡大したものです。当時は片町の近代化が進められており、ビルが目立ってきていますが、手前には町家が連なり木々がたくさん見えてのどかな雰囲気があります。
 4枚目(右)の現在はビルにすっかりとりかこまれて、かつての大和がどこにあったか分からなくなるほどです。

 5枚目(左)は犀川の河原を拡大したものです。大型の機械で砂利を掘り出しているように見えます。当時は河原に遊歩道は無く、2年後の昭和38年(1963)10月に県政90周年事業として犀川右岸の緑地帯が作られ、約400メートルの遊歩道が作られています。その後昭和40年まで緑地帯の工事は行われ、下菊橋~犀川大橋周辺まで緑地帯がつながりました。
 6枚目(右)の現在では犀川の両岸に河川敷があり、人々の憩いの場となっています。犀川も変わらないようで少しずつ景観が変わってきているのです。

レンタル着物で撮影がありました
2017年9月27日


 先日、市内の着物レンタル店による新プランのイメージ撮影がありました。
 大正時代の着物と当時をイメージした髪形で、レトロな雰囲気を楽しめるプランだそうです。全国の観光地でレンタル着物の人気が高まっていますが、伝統ある建物や町並みが残る金沢に映える装いということです。


 大正から昭和初期にかけての着物は鮮やかな色づかいや洋装のような柄デザインが特徴で、明治時代の建物を再利用している当館の建物と雰囲気がとても合います。建物の外観だけでなく、玄関まわりや階段などで撮影が行われました。

 2階の体験ルームでは昔の道具にふれたり記念撮影ができますが、写真のように足踏みミシンや電話も小道具として使用可能です。なお、窓のブラインドは撮影のため特別に巻き上げていますが、ふだんは下ろしてありますので、ご了承ください。
 このほか1階に赤い座敷などもありますので、館内を巡りながら記念撮影していただければと思います。

「写真で見る戦後の金沢」6.航空写真編
2017年9月21日


 航空写真は広い範囲の建物を撮影することができるため、写真に残りにくい裏通りなどの街並みの様子も知ることができます。

 1枚目は昭和34年頃(1959)に撮影されたものです。本町の上空あたりから金沢駅方向にカメラを向けています。
 当時は駅周辺にしか大きなビルがなく、金沢都ホテルができたのはこの後の昭和38年(1963)のことでした。

 2枚目(左)は金沢駅周辺を拡大したものです。バスターミナルは道路を挟んだ所にあり、駅周辺にはあまり車の姿が見られません。
 3枚目(右)は駅西周辺を拡大したもので、田んぼが広がり、その間に住宅が並びます。手前は国鉄の線路の一部が写っており、転車台(回転させて方向転換)などがありました。

 4枚目は昭和48年(1973)に撮影されたものです。近江町市場の上空あたりから金沢駅方向にカメラを向けています。
 中央に写っている大きな建物は「金沢スカイビル(現・めいてつエムザ)」です。よく見ると工事中のため、完成する直前に撮影されたと思われます。
 周囲にはビルがあまりないため、金沢スカイビルがひときわ高く感じられます。当時は金沢駅と武蔵ヶ辻を直線で結ぶ道路がなく、写真のように家がたくさん建っていました。

 5枚目(左)は金沢スカイビルの斜め前にあった「丸越」周辺を拡大したものです。丸越は昭和48年(1973)10月1日に「金沢名鉄丸越百貨店(現・めいてつエムザ)」として移転し、跡地は昭和56年(1961)に「ダイエー金沢店」が入りました。平成17年にダイエーが閉店した後は更地になり、平成26年に「ル・キューブ(かなざわはこまち)」がオープンしました。
 6枚目(右)は金沢駅周辺を拡大したものです。駅西(写真上部)に50m道路が作られ、周辺の家も増えており、開発されていく様子がわかります。駅の西口(現・金沢港口)ができるのは昭和60年(1985)のことで、当時はまだありませんでした。

「写真で見る戦後の金沢」5.武蔵ヶ辻・横安江編
2017年9月15日

 金沢駅から中心地へ向かう時に多くの人が通る「武蔵ヶ辻」交差点。庶民の台所である近江町市場もこの一角にあります。

 1枚目(左)は武蔵ヶ辻交差点(南西側)で、昭和20年代後半に撮影したものと思われます。
 信号設置前のため、警察官が中央に立って誘導しています。香林坊交差点では中央部に市電のポイント切り替え(半地下)を設置していましたが、武蔵ヶ辻交差点では北東側に塔を立てていたため、このような風景になったようです。
 右奥に写る「田守呉服店」は昭和31年(1956)に廃業し、跡地には広告看板が並んだ時代もありました。
 2枚目(右)は同じようなアングルで撮影しましたが、「めいてつエムザ」ができたのは昭和48年(1973)のことで、1枚目に写っていた多くの店が姿を消しました。

 3枚目(左)は昭和31年(1956)に撮影された近江町市場です。現在のように整備される前の雰囲気が伝わります。4枚目(右)の昭和48年(1973)の航空写真は近江町市場付近を拡大したものですが、アーケードにそって多数の家が並んでいるのが分かります。

 5枚目(左)は横安江町商店街です。昭和34年に長さ330メートルのアーケードが完成し、6枚目(右)のような風景になりました。天気の悪い日の多い金沢ではアーケードは欠かせないものでしたが、平成17年に撤去されました。

「写真で見る戦後の金沢」4.広坂編
2017年9月9日

 「広坂」は兼六園と香林坊を繋ぐ大通りであり、市役所などが並びます。

 1枚目(左)は広坂にあった県庁です。昭和40年(1965)頃に撮影したものと思われます。鞍月への移転に伴い平成14年に閉庁しましたが、庁舎の一部が「しいのき迎賓館」として残り、周辺にあった建物は取り壊されて公園に整備されています。

 2枚目(右)は広坂の大通りです。当時はまだ市電が走っており、人々が道の両端を歩く姿が見られます。現在のように道路が拡張されるまでは、植木の部分まで四高(後の金沢大学)や県庁の敷地であり、今よりもずいぶん道幅が狭かったようです。

 3枚目(左)は広坂交差点付近を昭和20年代に撮影したもので、郊外のような雰囲気を感じます。4枚目(右)は同じようなアングルで撮影しましたが、左側の兼六園の木々が生長してよりうっそうとしています。


 5枚目は3枚目の左手前に写っていた「テニスコート」を昭和40年代に撮影したものです。昭和22年(1947)に石川県で開催された第2回国体に合わせて作られました。現在はいもり堀となっています。
 この近くには石川県体育館(現・玉泉院丸庭園)や兼六園球場(現・本多の森ホール)があり、かつては中心地に多くのスポーツ施設がありましたが、現在は郊外に移転しています。

「写真で見る戦後の金沢」3.片町編
2017年9月1日

 金沢最大の繁華街「片町」は昼も夜も多くの人で賑わう町であり、大通りだけでなく裏通りにも様々な店が並んでいます。

 1枚目(左)は昭和32年(1957)に、香林坊交差点の魚半ビルの屋上から片町大通りを撮影したものです。左手前の「松屋時計店」には松竹座の映画看板があり、この年に公開された「禁男の砂」の文字が見られます。

 2枚目(右)は1枚目の当時片町にあった「大和」付近を拡大したものです。大正12年(1923)に金沢初の百貨店「宮市百貨店」として開店し、昭和5年(1930)に「宮市大丸」、昭和18年(1943)に「大和」となりました。昭和31年(1956)に増築したのが写真の姿です。建物内には映画館があり、屋上には遊園地がありました。
 昭和61年(1986)に「香林坊アトリオ」に移転し、残った建物は「ラブロ片町」となりましたが、平成26年3月に閉店して取り壊されました。跡地は現在「片町きらら」となっています。

 3枚目(左)は昭和41年(1966)4月の「香林坊片町近代化完成」記念で撮影されたものです。町家がビルに変わり、道路も拡張されて片側アーケードが設置されています。この近代化事業は8年の歳月と約50億円の費用をかけて行われ、現在の大通りの景観に引き継がれています。

 4枚目(右)はスクランブル交差点の南西側で、右側のビル「寿会館」(現・elleビル West)はビアガーデンなどがあったそうです。このようなビルのネオンも近代化によって登場し、夜の片町を彩っています。


 5枚目は現在の片町大通りで、1枚目と同じようなアングルで撮影しています。

 ビルの高層化が進み、店の入れ替わりも多い片町は市内で最も変貌をとげている場所とも言えます。

2017年8月

「写真で見る戦後の金沢」2.香林坊編
2017年8月26日

 金沢の中心地の風景を語る上で欠かせないのが「香林坊交差点」です。東は市役所・県庁がある広坂、南は大和などの商店街がある片町、北は銀行などが並ぶ南町へと続き、多くの人々が行き交いました。

 1枚目(左)は昭和32年頃(1957)に大和(当時は片町)の屋上から撮影されたものです。
 奥に写る木々は金沢城と兼六園周辺の森ですが、大通りの裏側(右半分)の町家の間に木が目立ち、「森の都・金沢」を感じさせます。

 2枚目(右)は1枚目の香林坊交差点付近を拡大したもので、丸みを帯びた特徴的なビルがあります。この「魚半ビル」は昭和4年(1926)に建てられたそうで、北國銀行香林坊支店などがあり、屋上にレストラン「魚半」がありました。昭和59年(1984)に再開発で取り壊されるまで、長い間香林坊のシンボルとして親しまれました。


 3枚目(左)は昭和30年代後半の香林坊交差点です。
 1枚目で写っていなかった交差点西側のビル(現在は東急スクエア(旧KOHRINBO109))の様子が分かります。

 4枚目(右)は3枚目の交差点中央にある「でっぱり」を拡大したものです。これは市電のポイント切り替え所で、半地下になっていました。市電は昭和42年(1967)に廃線となりましたが、その時代を知る人には強く印象に残っているようです。


 5枚目は現在の片町大通で、奥に香林坊交差点があります。1枚目と同じようなアングルで撮影しています。

 現在の香林坊交差点には「大和」が片町から移転し、道路も拡張されました。
 再開発によって多くの小さな店舗がなくなりましたが、暗渠化していた鞍月用水を復活させるなど、景観も大切にした街づくりが行われています。

和のモビール作り
2017年8月20日

 「もんきりがた」の型紙(下中菜穂「こども文様ずかん」平凡社)を使って、かわいいモビール作りを行いました。
 はさみなどを使い型紙に合わせて切り抜くのですが、曲線がたくさんありますので、頑張って切るとはさみ使いが上手になります。台紙にはりつけて、たこ糸で竹ひごにつないで完成ですが、バランスの取り方など細かい作業が多く、大変だったようです。けれども、笑顔でお持ち帰りいただきました。
 モビールは風を受けてふわふわと動きますので、ご家庭でもその様子を楽しんでいただければ幸いです。

「写真で見る戦後の金沢」1.金沢駅編
2017年8月15日

 特別展「写真で見る戦後の金沢」では、180点の写真を展示しています。ここでは展示で紹介しきれなかった写真の裏話などを解説していきたいと思います。

 1枚目は昭和27年頃(1952)の金沢駅です。

 明治31年(1898)4月に開業した駅舎は瓦屋根の平屋で、大きな窓が目立つデザインでした。その後、正面に庇(ひさし)や待合室などを増築しており、写真のように雨や雪の多い金沢の気候に配慮した形に変わっています。

 この写真が撮られた時はすでに金沢駅の建て替え工事が一部始まっており、取り壊される前の貴重な姿と思われます。


 2枚目は昭和37年頃(1962)の金沢駅です。

 昭和29年(1954)に完成し、地下にステーション・デパートがありました。手前の北鉄バスターミナルは多くの人が待っており、右下の看板には「兼六公園」「卯辰山ヘルスセンター」の文字が見えます。
 中央の市電が通る芝生広場に「航空路再開 全日本空輸」とあり、昭和37年4月1日に5年ぶりに再開された大阪ー小松線のことと思われます。


 3枚目は現在の金沢駅です。2枚目と同じようなアングルで撮影しています。

 旧駅ビルは平成11年(1999)に解体されるまで使われており、長い間親しまれました。
 現在、シンボルとして親しまれている「もてなしドーム」や「鼓門」ができたのは、平成17年(2005)です。ドームは雨や雪の多い金沢で「駅を降りた人に傘を差し出す、もてなしの心」を表現しているそうです。

ページトップへ

金沢くらしの博物館〒920-0938  石川県金沢市飛梅町3-31(紫錦台中学校敷地内) TEL / FAX:076-222-5740
MAIL:minzoku@city.kanazawa.ishikawa.jp

展示日程の一覧

金沢文化振興財団