徳田秋聲

"自然主義文学"の大家 徳田秋聲

 金沢の三文豪のひとり、徳田秋聲(1871~1943)は、尾崎紅葉の門下を経て、田山花袋、島崎藤村らとともに明治末期、日本の自然主義文学における代表的作家として文壇に名乗りを上げました。その後、明治・大正・昭和と三代にわたり常に文壇の第一線で活躍した、文字通り「大家」の名にふさわしい作家です。

 その作品は、川端康成をして「小説の名人」と言わしめた技巧の高さとともに、つねに弱者への視点を忘れぬ、庶民の生活に密着した作風を特徴とします。「新世帯(あらじょたい)」「黴(かび)」「爛(ただれ)」「あらくれ」「仮装人物」「縮図」などの諸作が名篇として知られています。私生活では、その分け隔てのない人柄が多くの文壇人に愛されたほか、映画やダンスを好むなど現代的な面も持ちあわせていました。

 徳田秋聲記念館は、このような秋聲を記念、顕彰するとともに、その作品とゆかりの品々を収集、保存、展示することで、その生涯と文学的業績を多角的に紹介し、秋聲文学の豊穣な世界に親しんでいただくことを目的としております。

略年譜

年度 数え年  おもな出来事
1871年 (明治4年) 1歳 12月23日、金沢区(明治22年より金沢市)横山町に徳田雲平の三男、六番目の子として生まれる。本名末雄。母は雲平の四番目の妻タケ。
1879年 (明治12年) 9歳 9月、養成小学校(現・馬場小学校)に入学。
1884年 (明治17年) 14歳 1月、金沢区高等小学校(現・小将町中学校)に入学。
1886年 (明治19年) 16歳 1月、石川県専門学校に入学。
1888年 (明治21年) 18歳 4月、第四高等中学校(旧制四高の前身)補充科に入学。
1891年 (明治24年) 21歳 10月、父雲平が脳溢血で死去。第四高等中学校を中退。
1892年 (明治25年) 22歳 3月、小説家を目指し、桐生悠々と上京。尾崎紅葉を訪ねるが、原稿を返される。
1893年 (明治26年) 23歳 4月、金沢へ帰郷。
9月末、自由党機関誌『北陸自由新聞』の編集に関わる。
1894年 (明治27年) 24歳 4月、長岡へ赴き、『平等新聞』の記者になる。
1895年 (明治28年) 25歳 1月、二度目の上京。
6月、同郷の泉鏡花のすすめで紅葉を再び訪ね、門下生となる。
1896年 (明治29年) 26歳 8月、『文芸倶楽部』に「藪かうじ」を発表。文壇的処女作となる。
1900年 (明治33年) 30歳 8月、『読売新聞』に連載した「雲のゆくへ」が好評で、出世作となる。
1902年 (明治35年) 32歳 7月頃、下宿に手伝いに来ていた女性の娘小沢はまと関係ができ、結婚生活が始まる(実際の入籍は二年後)。
1903年 (明治36年) 33歳 10月、尾崎紅葉が死去。
1905年 (明治38年) 35歳 7月、『北國新聞』に「わかき人」を連載。以後も同紙には「秘密の秘密」「煩悶」「順運逆運」などを次々と寄稿する。
1906年 (明治39年) 36歳 5月、森川町一番地に転居。以後、この地に生涯を過ごした。
1908年 (明治41年) 38歳 10月、高浜虚子の依頼で「新世帯」を『国民新聞』に連載し、好評を得る。
1911年 (明治44年) 41歳 8月、夏目漱石の推薦で「黴」を『東京朝日新聞』に連載し、自然主義文学の代表的作家になる。
1913年 (大正2年) 43歳 3月、「爛」を『国民新聞』に連載。
1915年 (大正4年) 45歳 1月、「あらくれ」を『読売新聞』に連載。
1916年 (大正5年) 46歳 10月、母タケ危篤の報を聞き金沢へ戻るが、臨終に間に合わず。
1917年 (大正6年) 47歳 2月、「誘惑」を『東京日日新聞』に連載。本作は好評で、新派劇や映画にされた。以後、通俗的現代小説に意欲的に取り組む。
1920年 (大正9年) 50歳 11月、田山花袋とともに生誕五十年を祝われる。
1921年 (大正10年) 51歳 7月、菊池寛らと小説家協会を設立。
1923年 (大正12年) 53歳 4月、婦女誘拐事件を起こした同郷の島田清次郎のため、弁護に奔走する。
9月、帰省中に関東大震災発生。
1926年 (大正15年) 56歳 1月、妻はまが脳溢血で急逝。のち、女弟子の山田順子と急接近し、交際が数年間続く。以後、順子との交際を描いた「順子もの」作品を書き継ぐ。
1927年 (昭和2年) 57歳 5月、森川町の自宅を増築。新しい書斎に移る。
1930年 (昭和5年) 60歳 3月頃、ダンスを始める。
1931年 (昭和6年) 61歳 7月頃、白山の芸者、小林政子(のちの『縮図』のヒロイン)を知る。
1933年 (昭和8年) 63歳 3月、金沢のダンスホールを舞台にした「町の踊り場」を『経済往来』に発表、川端康成の激賞を受ける。
1935年 (昭和10年) 65歳 7月、「仮装人物」を『経済往来』(のち『日本評論』)に連載開始。
1936年 (昭和11年) 66歳 4月、頸動脈中層炎で倒れ生死を危ぶまれるが、7月には回復して執筆再開。
7月、短編集『勲章』で第二回文芸懇話会賞受賞。
1937年 (昭和12年) 67歳 6月、帝国芸術院会員になる。
1938年 (昭和13年) 68歳 1月、自伝小説「光を追うて」を『婦人之友』に連載開始。
1939年 (昭和14年) 69歳 3月、「仮装人物」で第一回菊池寛賞受賞。
1941年 (昭和16年) 71歳 6月、「縮図」を『都新聞』に連載開始。9月に情報局の干渉により中断。
1942年 (昭和17年) 72歳 5月、結成された日本文学報国会の小説部会長に就任。
1943年 (昭和18年) 73歳 11月18日、肋膜癌により永眠。
1947年 (昭和22年)   11月、金沢の卯辰山に文学碑が完成。
2005年 (平成17年)   4月7日、徳田秋聲記念館が開館。

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