不定期連載



「放火(つけび)」


(一)
 2012.12.10

「何故恁(こ)う俺(おいら)は世間から嫌われるのだろう、俺に何の罪がある。」

と自ら意識するようになったのは五六年も過ぎた後の事で、其の時は辛(や)っと九歳(ここのつ)になったばかり、社会に何の詛(のろい)も持たなければ憤りも無い。唯(ただ)想う所は、目前(まのあたり)身に薄(せま)る寒さと飢えとである。

 力三は凍瘡(しもやけ)のため紫色に腫れ上がった拳を上げて、またホトホトと扉を叩いてみた。そして涙に掠れる声を搾って、様々に哀願してもみた。
 勝手には吐(どっ)と笑う賑やかな話声も聞こえ、工場の方では囂然(ごうぜん)たる印刷機械の響きが洩れて、職工等の唄う卑しい流行唄(はやりうた)も聞こえる。然し返辞どころか、誰あって此の可憐(あわれ)な小児に耳を貸す人さえ無かった。
 海面を煽って来る凍て切った北風は、鉱油(あぶら)とインキに汚れた、薄い藍木綿の職工服を通して、肌を刺すかと思われ、足袋も穿かぬ足先は疼苦(いたみ)を起こして、最(も)う何の感覚も無く、穿いて居る草履が独りでに脱げるのにも気が付かぬ位。堅固な扉を叩く小さな掌は肉が壊(やぶ)れて黒ずんだ血がポトリポトリと地に落ちる。

「お神さんお願いだから何うか勘弁して下(くら)っせいよ、お神さん」

と力三は駄目とは思いながらも、差し詰め行端(ゆきは)に迷ってまた斯う哀願してみたが、無論返事はない。でまた「お神さん!助けて下っせいよ、寒くて私(わし)凍え死ぬだかん、なあお神さん」という声は次第に小さくなる。

 すると、思い掛けぬ直ぐ傍の二階の窓から首を出した人がある。闇で顔は分からないが、太い錆のある声で、「喧(やかま)しい、何時迄(いつまで)ほざくだ!家(うち)ではな、人殺しの児(こ)は飼って置けねえ。何所へなり早く行け!行かねえと奴(うぬ)撲倒(うちのめ)すぞ!」と怒鳴る。云う迄も無く精工舎の主人で、晩酌を済まして今、二階の居間に引っ込んだ所と見える。

「旦那!私(わし)悪いだから何うか勘弁して下っせいよ」

「貴様が悪いと誰が云った。手前の親爺は人殺しでねえか。那様(そんな)奴の児を家に置けると思うか。他所は知らねえが、精工舎では置けねえだ。恨むなら親爺を恨むが好い。」と云って、重い戸をドタンと鎖(し)める。

 力三は何とも言葉が出なかった。館山の鍛冶屋を逐われたのも其れ、船形の会社を叩き出されたのも其れ。今迄奉公に行った家を逐い出される時の言葉は、何時(いつ)も「人殺しの倅(せがれ)」で、一度其の素性が顕れたら最後、如何に頼んでも駄目な事は、今日迄の経験で明らかである。

 力三は顔も見た事はないが、親爺は半島で有名な悪徒、北条の町ばかりでも強盗に入った家が五六軒、揚句(あげく)は八幡の七人切りで空知の監獄に送られたのは力三が三歳の年である。だから、界隈では今尚(なお)片目の権太郎というと、悪魔のように怖れている。   

 で、力三は此迄(これまで)何回となく素性を包んで奉公に出たのだが、親爺の事が洩れさえすると、何時(いつ)も毛虫のように掃き出されるので。今日も偶(ふ)とした事から其れが主人の耳に入り、晩飯も食わずに逐い出されたのである。力三は小さな風呂敷包みを抱えて、トボトボ精工舎の軒先を離れてはみたが、偖(さて)行く所がない。海岸には舷燈が北極の星のよう、寒く閃いて、濤(なみ)の音までが如何にも物凄い。空は何時か低く曇って、寒い雨をポツリと寄来しそう。

 飢えより寒さより、今の力三に何より一番辛い事は眤(ねむ)い事であった。人の話にも、寒気で死ぬ人は必ず睡くなるもの、眠ったら其の儘ずっと息が絶えるものと聞いている。で、小児心(こどもごころ)にも此所で眠らば此の儘になりはせぬかという怖れがあるので、出来るだけの我慢を続けて歩いてはみたが、一日の労働で身体は綿のように疲れているから、歩くうちに好い心持ちになり、眼瞼(まぶた)が弛(ゆる)んで遂(つい)トロトロと眠りかけては、捨て石に躓いてハッと目を覚ますのだ。

 で、力三は其所の辻堂、此所の納屋と隠れ家を色々と心に探してみたが、偖(さて)適当な所が無い。其の時ふと思い出したのは××座の札売り場だ。那所(あそこ)なら風防ぎもある、汚いながらも畳もある。今夜一晩を過ごすには那(あれ)以上の所はあるまいと力三は通りから外(そ)れて其方(そっち)に志した。


 
(二) 
 2012.12.17
 
 「おいおい!」と揺り起こされて目が覚めると、巡行の巡査が角燈を眩しく顔に差し付けて傍に立ち寄っている。
 力三は慌てて札売り場から飛び下りた。

「お前此所に何為(し)とった。」と不審そうに力三の姿を見る。
「は、勘弁して下せいよ、旦那。」
「其れは好いが、何故這那(こんな)所に寝ているというのだ。」
「はい……はい……勘弁して下せいよ、旦那。」
「一体、貴様は何だ。」
「はい。」
「家が無いのか、何所(どこ)の者だ。」
「はい。」
「何故黙ってる!こら!」と巡査の声は強味になる。

 力三は偶(ふ)と考えた。寧(いっ)そ此の旦那に事情を話した上好く頼んで、警察に連れて行って貰ったなら、或いは今夜快く寝られるかもしれない。飢えれば獅子の餌(え)も盗む気になる、力三は満足に寝られる所なら警察でも牢屋でも関(かま)わないのだ。で、今日の一伍一什(※)を詳しく話して巡査の保護を頼んでみた。
 巡査は話を聞きながら、力三の姿を見上げ見下ろししていたが、施(やが)て、

「はて、貴様は権太郎の倅か。」
「は、然うでがす。」
「では、貴様には慥(たし)か生母(おふくろ)がある筈だ、然うだろう。」
「は、那古(なご)の町で宿屋してるでがすよ、高木屋と云って。」
「じゃ其所へ行ったら好かろう、恁麼(こんな)所に寝ている事はあるまい。」
「だけれど、お袋はまた………。」と口籠もる。
「お袋はまた?其れが何うしたんだ?明瞭(はっきり)云わなけりゃ分からんじゃないか。」
「は………帰(けえ)って行くとまた、屹度(きっと)奉公に出されるだからね。」
「好いじゃないか、今迄だって小僧に行ってたんだろう!」
と巡査は力三の頷くを見て、
「其れならば好いさ、乞食のように恁麼(こんな)所に寝てるより増しだろうが。」
「だけんど………だけんど……奉公に行くとまた逐い出されるんだものな。」
「奉公に行くと直ぐ逐い出される、其れは何か貴様に悪い事があるからだろう。」
「否矣(いんや)、私(わし)何も悪い事しねんだよ。」
「馬鹿を云うな。悪い事しない者誰が逐い出すか。」
「だけんど、だけんど………。」と力三は唯(ただ)口籠もる。

 巡査は果てしがないと思ったか、角燈を取り直して、「まあ何方(どっち)でも関(かま)わん!然し恁麼(こんな)所に寝ていちゃ不可(いけ)ない。早く那古に行って、お袋の家に泊まるが好い。何時迄も此の辺にマゴマゴしていると承知しないぞ。」と行き掛ける。
 力三は慌てて、

「ま、待って下(くら)っせいよ、旦那。」
「何んだ?」
「私、何うしても那古に帰れねえだから、今夜だけで好いから、私警察に泊めて下っせいよ、旦那。」
「で、明日は何うする。」
「親分ん所(とこ)へ行って、今一度私好く頼んでみるがですよ、是迄(これまで)よりドッサリ働くからって云って。」
「親分って誰だ。」
「活版屋のよ。」
「馬鹿を云うな。一旦逐い出した者が、何で二度と家に入れるものか、那様(そんな)事を云うより些(ちっ)とでも早く那古へ帰れ。」と今更のよう空を仰ぎ見て、「最(も)う大分夜も更けてるぞ。」とボクリボクリと歩き出す。
 力三は其の後に随きながら、

「旦那、お願いだから何うか今夜だけな、私本当に寒くて成んねえだからよ。」
「は、ははは、究(つま)らん事を云う奴じゃ。警察署は宿屋じゃないぞ。」
「旦那、お願いだからよ、旦那お願いだから………旦那!」
「煩(うるさ)い奴だ!」
「旦那!」
「煩い!」と巡査は足早に行って了(しま)う。

 力三は悄然(しょんぼり)と其の後を眺めていた。風は吹き止んだ所以(せい)か、周囲(まわり)は急に森然(しん)として、広い新開の道に人一人通らない。
 何所かで時計が一つ鳴った。何時の間にか十二時は過ぎたと見える。

  ※一伍一什(いちごいちじゅう)…一部始終。最初から最後まで。


 
(三) 
 2012.12.26
 
 一里に足らぬ路程(みち)を、二時間以上も費やして、力三が那古の町に入ったのは、最(も)う彼此(かれこれ)午前の三時近くであった。

 何となく落ち着かぬ空模様であったが、鶴ヶ谷八幡の前あたりから白いものがチラチラ落ちて来て、那古に来た頃は最う道は真っ白であった。其れに一次(ひとしきり)止んだ風がまた吹き出して、粉のような小雪は真向(まとも)に目口に吹き付け息も止まるばかり。

 力三は何所何う歩いて来たか自分にも分からない。唯(ただ)最う煙の這うように、的(あて)もなくぶらぶらと宙を歩いて来たのだ。で、高木屋の軒先に着いた頃は、寒くも無い睡くもない、昏矇(こんもう)として何とも云われぬ好い心持ち、全(まる)で夢に天国にでも遊んだよう。軒先に寄っ掛かってボンヤリと降る雪を眺めていた、と迄は知っているが後を知らぬ所を以てみると、大方其の儘睡ったものと見える。

 何か冷たいものに頬を撫でられたと意(き)が付いて目が覚めると、ドンと云う逞しい日本犬が怪しそうに力三を嗅ぎ廻していた。
 覚め際ではあり、殊に日頃余り犬は好きでないので、力三「キャッ!」と叫んで飛び退くと、犬も力三を怪しんだに相違ない。二散歩退(すさ)って前足を揃えて背(せなか)を丸くし、「ウウン」と物凄い唸り声を発(た)てて、力三に歯をむいた。

「ドン!俺だよ、ドン!ドン!」と力三は泣き出さないばかり切(しき)りと犬の名を呼んでみたが、獣(けだもの)は力三の声も忘れたと見え、尚も激しく身構えて、今にも飛び掛からんず有様。

「ドン!ドン!俺だよ、ドン!」と力三は獣類(けだもの)にまで哀願したので。

 所へ向町あたりで夜廻りの拍子木が聞こえる。見つけられては面倒と思ったので、力三は傍に置いた風呂敷包みを取り上げて、またしても高木屋の前を出た。

 雪は益々降りしきる。今迄気も付かなかったが、屏風のように前に聳え立つ観音山は一面の雪幕(ゆきのとばり)に覆われて、森(しん)と鎮まり返って枝の動く音も無い。降る雪と共に響きもなく夜は更ける。

 高木屋の前を出てはみたが、無論行く当てはない。二月上旬の事で、夜明け迄は未だ可成(かなり)間もあるが、其の間を何うしたものであろうか。力三は色々考えてみたが別に好い思案がない。此の時偶(ふ)と思い出したのは、包みの中にマッチがあることで。

 戸籍は今高木某の妻であろうとも、以前は其の悪徒の権太郎の妻、自分から見れば肉親の母である。其れならば外(ほか)に頼りの無い自分を世話する位は当たり前、また世話する気ならば高木屋の身代で其の位の事は何でも無い事ではないか。
 如何に今の所夫(おっと)に義理があると云うて、自分は楽々暮らしながら現在の倅に此の難苦を見せるとは何事、力三は常々其の母を恨んでいる

 然し今夜の今は慥(たし)かに其の恨みの為に思い付いたのではない。余りの凄(さび)しさと心細さに堪え兼ねて、若し此の家に火でも付けたら人が起きるだろう。起きてさえくれ誰に縋り付いてでも暖かい臥床(ふしど)と握り飯位には有り付かれよう、と唯(ただ)此の位の単純な考えから、現在実母の寝ている高木屋に火を放(つ)けようと思ったのである。世の辛酸を嘗め尽くして、世故(せこ)に馴れたようでも、嗚呼、力三は九つの小児(こども)である。

 裏門の方に廻ると、離家(はなれ)の直ぐ傍に藁屋根の納屋がある。力三は其所から炭俵を引き出し、離家の縁下(えんのした)に押し込んで、風呂敷からマッチを取り出して擦った。硫黄臭い火はパッと光ったが、吹き付ける風で忽(たちま)ちフッと消される。また一本、また一本。

 箱を見ると最(も)うマッチは幾何(いくら)も無い。で、力三は身体を以て風を防ぎながら、六七本を集めて勢いよくパッと擦り付け、其れを炭俵に移そうとする時、突然、背後(うしろ)から力三の肩を掴んだ者がある。

「これ!何をする。」

 発乎(はっ)として振り返ってみると、村の夜晩老爺(おやじ)の弥作が自分を掴んでいるので、力三は慌てて手にしていた火を振り消した。

「お前は力三だな!何の真似をする。」
「…………」
「子供の癖に大胆な。………呆れ返った太い奴だ。全体、何の為に那様(そんな)恐ろしい事をする。」
「…………」
「黙ってちゃ分からねえ、何の為に那様(そんな)恐ろしい了見を出した。其れを云え!」
「爺(おじ)さん!勘弁して下(くら)っせいよ、最(も)う為(し)ないから。」
「最う為ない!馬鹿を云うな、太々しい。」
「だっての、俺(おいら)寒くて成(なん)ねだもん。」
「寒いから火を付ける?力三、其れで言い訳の積もりなのか、恐ろしい度胸だ!」と唯々(ただただ)弥作は呆れ返っている。
「本当だよ、爺(おじ)さん、本当に寒くて凍え死にそうになっただかんな。」
「其れ程なら何故に奉公に行った家に勤めていない、勝手に出て来て寒いも無えものだ。」
「勝手に出たでねえよ俺(おいら)逐出(おんだ)されただよ。」
「何故!?」
「人殺しの倅だからッての。」と有繋(さすが)に力三は小さな声を恥じた。
「人殺し?権の事(こ)ったな。」
「ああさ。」
「権の事あ何も今日に始まった話じゃない。其れに何もお前(めえ)の知った事じゃなし。」
「だけんど、何時(いつ)も其れで逐出されるだよ、此の前館山に行った時でも、船形の会社に行った時でも。」
「那様(あんな)馬鹿は話がある者か、お前(めえ)に何も罪はあるまいが。」
「其れでも本当に然うなんだよ。俺(おいら)あんな父(とっ)さん持ったばっかりで生きてもいられねえだよ。」と力三は涙ながら今日の始末を詳らかに話した。

 弥作は降り掛かる雪を払いながら始末を聞いていたが、何時の間にか話に引き入れられて、銅色の皺深い頬にはポロリポロリ涙さえ流れた。

 弥作は遂に、「好し解った、好く解った。権の倅だというので、世間ばかりか現在のお袋、高木屋の内儀(おかみさん)迄、お前を寄せ付けないと云うのだな。」と漸く考えていたが「好し心配するな、俺が引き取ってお前を一人前の若者に育ててみせる。大丈夫だ安心しろ。」と云って其の晩は力三を連れて自分の家へ帰った。

            *   *   *   *   *

 弥作爺(おやじ)は三十年前から此の那古にいるが、生まれは何所で、何をした者の落魄(おちぶれ)で、何の為に此の那古に住んでいるのか、何人(だれ)も知らない。三十年前ブラリと此の那古の町に流れて来て、其れから此方(こっち)昼寝て夜起き、町中の夜廻りをしている。望みも得もない老爺(おやじ)で貰った銭は皆(みな)酒にしてしまい、犬小屋のような荒屋(あばらや)に独り棲みして、何の煩いもなく世を送っている。然し力三を連れ込んでからは、現在の孫子のような可愛がりかたで、毎夜の晩酌の中(うち)を幾分か割いて、些(ちょ)いとした着ものを着せ、自分の名ばかりも書けなくてはと云うので、自分が保護者となって力三を小学校にも通わせるようにした。

 高木屋でも有繋(さすが)に黙って見てもおられないので、人を頼んで、力三を引き取るように弥作に度々言い入れたが、そのような不人情の人々の所へ大事の力三は帰されぬ、人殺しの倅に世話などしようより、飼い犬のドンに魚でもドッサリ食べさせるが好いと、剣もほろろの挨拶であった。

 でも村人でも心ある人は此を見て、「ああ力三もあれで仕合わせに相違ないが、弥作は最う七十幾つ、明日が日にコロリと行かぬとも限らぬ。力三は辛(やっ)と九つ、今は好いが弥作が死んだ後は何うなるだろう!誰が世話をするだろう。」と云って眉を顰めた。

 嗚呼(ああ)其れにしても知りたいのは、力三の行末である。 


 (完)


◎『徳田秋聲全集』第5巻(八木書店)所収の本文を底本に、現代的仮名遣いに改め適宜補訂を行った。
  初出:明治3981日(「新国民」第3巻第5号)

 
 




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