不定期連載



「新年の思出」


(随筆/全1回)
 2012.1.4

 八九年前、東京の新年を知らない女が、私の処へ来ていて、大晦日さえ銀座は押すな押すなの騒ぎだから、元日は何んなに賑やかだろうと思って、私の子供を三四人つれて、円タクで宵の銀座へ出てみた処、日本橋から京橋へかけて大通りはどこも店屋はぴったり閉まって、寒そうな人影が、偶に暗い辻々などに見えるだけなので、以外の思いで、そこだけは明るい銀座シネマで活動を見て帰ったが、銀座も浅草も、賑やかなのはクリスマス前後から、大晦日にかけてのことで、春は反って静かだ。これは今も昔も同じで、元日は大抵暮れの骨休みで寝ている。

 明治三十年代、日露戦争前後、紅葉さんが未だ生きていて、私が下宿生活をしていた頃は、年によって色々で、不景気な春を迎えても別に嬉しい訳でもないから、その頃私の下宿へ入り浸りになっていた三島霜川などを相手に、下宿の部屋に閉じ籠もって文学談でもやるとか、春の芝居や寄席へ行くくらいが切(せ)めてもの享楽であったが、元日早々は横寺の紅葉さんの処へ年始に行ったこともあった。まだ三十代の先生である。

「景気は何うかね。」

などと尋ねる。鏡花や(小栗)風葉、又は(巌谷)小波とか(石橋)思案とか、硯友社の人達もやって来て、ウィスキーくらいは用意されてあったように思うが、銘々の着物のことなぞも問題になる。試筆の短冊をもらうようなこともあった。庭へ出てネッキ(※1)をやるとか、私は行かないが弓を彎きに行くというようなことで、至極罪のないものであった。吉熊というその頃牛込で有名な料理屋で宴会をやったことが、二年位あったと思うが、芸者では今の鏡花氏のマダムに紹介されたことも覚えている。そういう処へ顔を出さないと、先生は甚だ不機嫌なのだが、鏡花とか風葉なども、硯友社の同人を凌ぐようになってからは、硯友社のメンバーも、初めのほど仲が好くなくなって、相変わらず先生の処へ出入りしていたのは小波氏思案氏画家の(武内)桂舟氏、法学博士の岡田虚心ぐらいのものではなかったかと思う。

 屠蘇機嫌で町をふらふらしている、紋付袴やフロック、飾藁(かざりわら)を後ろを垂れ下げた人力車を黒鴨仕立ての車夫に曳かせて、年始廻りをする人などは、最近少なくなったが、その時分は車は相当多かった。

 私自身の元日も、その後余り変わったこともない。私はかまわない方だが、家内のいた時分は、雑煮一つでも、床の間のお飾りでも、屠蘇の用意や、子供達の春着なんかにも貧しいながらに、何か普通の家庭のような情味もあって初めのうちは、何ういう訳か菰冠(こもかむり)などを備えつけて酒呑みの来るのを喜んでいたものだが、菰冠だけは私の反対で後には止した。或る時など未だ下宿にいた正宗(白鳥)氏が私の家で年を越したこともあった。私は年が越せなくて、田舎新聞を二十五六日頃までかかって書きあげて、ブローカーのような人に托して、漸(やっ)と幾許(いくばく)かの金にしたようなこともあるし、出版社から当てもない印税の前借りなどしたこともある。それは必ずしも大晦日に限ったことではないが、門並み門松がすっかり立ってしまって私の貧しい家の門にも笹の葉が師走の風にかさかさ鳴るのを耳にしながら、夜更けまでペンを動かしていたような年もあった。それは世帯をもちたての、明治三十六七年のことかとおもう。

 大分後のことだが、中央公論の瀧田樗陰(ちょいん)氏と、芝白金の小杉天外氏の家を、元日訪問したことがあったが、氏は長編小説の大家で、その頃は既に文壇では仕事をしていなかったが、婦人世界なぞにはしっかりしたものを書いていて、収入も多かったからでもあるが、家は立派なもので、洋風の応接室には瓦斯(ガス)ストーブなどが蒼い炎を立てていたし、奥の日本座敷へ通ると、銀屛(ぎんびょう)が立てめぐらされ、食通を怜る、気取った食(たべ)ものや、各種の洋酒などが出たものだった。

 夏目漱石氏のところへは、春は殊にも多勢の人が参向したものらしいが、その頃盛っていた「川鉄」から合鴨なんかを、ふんだんに取り寄せたりなんかしてこの道場の新年はなかなか景気の好いものらしかった。

 私は春の芝居を見た記憶が沢山あるが、或る年十二になる長女をつれて、その頃お馴染みの市村座を見に行ったことがあった。十七八年前のことで、二長町の菊五郎、吉右衛門の芝居、歌舞伎の第二陣として頗(すこぶ)る人気を集めていた。除幕が「寿曽我」だったとおもうが友禅縮緬の春着に同じ被布(ひふ)を来た瑞子(みずこ)は、初めて芝居を見せたので、「これ何?」と言って驚きの目を睜(みは)っていたものだ。男衆が「お嬢っちゃん!」と言って絵葉書なんかもって来てくれたが、可哀そうな彼女はその夏お盆頃疫痢で、二十四時間ももたずに死んでしまった。私達夫婦に長男が、人の世の哀しみをしみじみ知ったのは其の時だったが、劇(はげ)しい衝動を受けた妻はそれ以来、ちょっとしたお汁を作るにも、今迄のような調子が絶対に出なくなってしまった。

 ずっと後のこと、或る年の暮れ私は新聞の仕事をもって、丸の内ホテルへ出ていた。正宗氏夫妻もその頃は帝国ホテルでなしに、丸の内ホテルにいた。大晦日は氏と二人で、銀座へ出て、風月の食堂で夜の食事をしたりした。元日にはまた三人で帝劇を見た。幸四郎と梅幸(ばいこう)の「関の扉」が呼びものであった。私達旧人はこういうものを能く見たものだが、何の得るところもない、この種類の享楽が今日ほど退屈に思えなかったのも時代である。勿論こんな享楽は今でも続いていて、閑人は無意味に泣いたり笑ったりしている。

 するとその翌朝九時頃、ホテルの私の夢を驚かした。私は夢を見ていたのである。電話は長男の一穂の声で、お母さんは倒れたから急いで来てくれというのである。どうも脳溢血らしいということなので、好い医者を呼ぶように命じて、私は円タクを飛ばした。帰ってみると、医者の亘理(わたり)氏と懇意にしている裏の弁護士のTI氏とが呑気そうに談笑していて「いや、これは何時(いつ)もの脳貧血で卒倒と同じで心配はない」というので、私もいくらか安心しているうちに段々悪くなって、博士が来た頃には既に遅かった。

 私はそれから五六年たっての或る年、私は正宗氏夫人、吉屋信子女史などとホテルの大晦日の夜会で躍って、そこで夜なかに雑煮を食べた。早川雪洲だの死んだ北村かね子、伊達里子などの姿が見えた。私たちは三時頃に銀座へ出て、何とかいうバーで夜明けまで話した。

 しかし其れ以後別に何のこともない。ホテルで躍る気にもなれない時代の波が益々荒いばかりである。

 

 ※1 ネッキ…根っ木。子供の遊びの一つ。端をとがらせた木の棒や釘などを地面に交互に打ち込み、相手のものを打ち倒したほうの勝ちとする。ねっきうち。ねっくい。


       
                                   (完)


◎『徳田秋聲全集』第22巻(八木書店)所収の本文を底本に現代的仮名遣いに改め適宜補訂を行った。
  初出:昭和10年19日(「福岡日日新聞」)

 
 




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