不定期連載



「初冬の気分」


 上
 2013.1.14/25

 懐かしい冬が来た。
 懐かしいといっても、それは気分のうえのことで、長いあいだの痼疾(こしつ)の一つである気管支のわるい、そして其のために、冬中殆(ほとん)ど風邪に冒されづめである小野に取っては、冬はむしろ生活の脅威であった。しかし其れだけにまた安静な隠栖的な親しみの感ぜられるのも冬で、総ての点で老年の心持ちとしっくり合ってくるのが、四季のうちでも冬が一番だという感じがするのであった。

 年取ってからの小野に冬の懐かしまれるのは、恐らく北国に産まれ育った彼の郷土色の還元だともいえるのであった。彼はこの頃も本郷の通りをあるいているとき――それは初めて冬らしい感じのする、寒い風の吹く晩で、氷雨のような冷たい雨さえ降ったり小遏(おや)んだりしていたので、その荒い風につれて、路傍樹の銀杏(いちょう)の葉の黄ばんだのが、濡れて地に散らばっているのを見ると、北国の町の冬がすぐ聯想されるのであった。わけても小野が中学時代によく往き来をしていた或る友人の酒屋の家の前にあった、お寺の境内の古銀杏に野分(のわき)が吹いて、黄楊(つげ)の鬢掻(びんかき)によく似た美しい黄(きい)ろい葉が、蓮の葉の形をした用水盤や、石畳や、そこら一面に吹き溜められた町の冬が憶い出されるのであった。

 その頃小野は文芸的才藻に富んだその友達の二階の書斎へよく遊びに行って、彼の書いた小説などを読んで聞かされたりした。彼はすらすらと面白く書きつづられたその小説の筋立てと、彼の軽い能文には感服したが、それは今から考えると、子供が大人の真似をした一種の戯作風のもので、小野が共鳴するような、その頃の悩みや悶えの多い青年の胸奥には少しも触れてこなかった。二人はその頃勃興しつつあった明治中葉の文運の所産であったところの色々の作品を、その酒屋の近所にある、芸者あがりの美しい細君と、垢(あく)ぬけのした意気筋な様子をした三十ばかりの亭主とでやっている、小綺麗な貸本屋にいって、春のやおぼろだの、二葉亭四迷だの言う人だのの作品といった風に、取っかえ引っかえ借りて来ては耽読したものであった。矢野龍渓の「経国美談」だとか、東海散士の「佳人之奇遇」なぞも読んだ。馬琴や種彦なぞも見た。近松西鶴、露伴紅葉、「国民之友」、「早稲田文学」、「しがらみ草紙」……そんなものが、それからそれへとその貸本屋の主人から、小野やその友人のG―の驚異と好奇心をそそるべく取り次がれたが、中には桜痴居士の「藻塩草」とかまたは飛びはなれて黙阿弥の脚本とか、種々雑多なものがあって、選択が一向無定見であったが、一時そんな風に、日本海へ片寄った暗いその町へも、時代の潮流が、そうした二三軒の貸本屋や、新刊書を取り扱う或る書肆(しょし)によって瀰漫(びまん)したのであった。

 つい余談にわたってしまったが、小野の心や感情は、ちょうどその頃から、郷里とはとかくしっくり合わないものになってしまっていた。郷里の町、町の人、その人達の生活気分と、まるで没交渉な――寧ろ反感をさえもつほどに、彼は時分の産まれ故郷に昵(なじ)むことができなかった。それはその頃彼の家が、経済的に殆ど崩壊してしまって、古いものはそれ自身を支える力を失い、新しきもの――彼の兄たちは、みな銘々自分の生きる道を求めるのに迷い焦慮(あせ)らなければならない時期に行き逢っていたので、漸(ようや)く生活の目のあきかかっていた小野の心は、劇(はげ)しい悩みと刺戟に怯えがちであった。そして一般家庭の青年の誰もが享楽(うけたの)しむことのできる青年期の耀(かがや)かしい幸福の代わりに、慈母によって甘く弱々しく育まれて来た彼の心は、次第に荒い実生活の波のうえに漾(ただよ)わされつつあることを、鋭敏に感じさせられた。今こそ彼は、目にみえないちょっとした時候の替わり目などにどこからか戦(そよ)いで来る微かな風の匂いなどにふと幼少の頃かいだことのある北国の冷たい荒い風の味を嗅ぎしめて、淡い懐かしみを覚えると同じ工合に、憂鬱な少年期をすごした故郷のその時々の家や人を聯想して、現在の自己の聯続であるところの、遠い過去を想い出しこそすれ、その頃の彼の感じから言えば、故郷は単に廃頽した寂しい墳墓とくらいにしか思えなかった。

 人間の生活に最も安定な楽しい感じを与えると同時に、善良な人格的基調を作る筈の家が、彼の少年期では、屡(しばし)ばそっちこっちへ移し越されたことが、彼の自己尊重と生活愛護の観念を、どのくらい傷つけたか知れなかった。勿論そうした不安定な生活が、彼を反って一種の自由人に育てあげたのかも知れなかったけれど、その代わり彼の頭脳に頽廃的な暗い陰影を植えつけた事も、事実であった。少なくとも彼に若(も)し幼い時からの記憶に刻みつけられた家があったならば、静かなその故郷の町は彼に取って今少し懐かしい愛着を覚えしめたかも知れなかった。古い伝統をもった其の町特有の文明――たとえば野性的に育った彼が、その頃最も不愉快に思った古い芸術品だとか、お茶や花や謡曲や、または古くから民衆のあいだに深い根をおろしていた他力信心、その他総ての古めかしい礼儀作法遊戯などに、少しでも親しむ余裕があったならば、彼はその町を安逸(あんいつ)を貪りがちな人間の最も暮らしいい悦楽土(えつらくど)として、深い愛着を感ずると同時に、生まれながらの隠逃者(いんとんしゃ)として、やくざな安静な一生をそこに送ったに違いなかった。

 勿論その町には暖かい南の浜に沿った年や村邑のような自然の明るさもなかったし、中部山脈の高原地のような秀でた山の美しい姿も見られなかったけれど、北の海に貧した陸地に特有な冬の温かい寂しい感じや、長い一冬を殆ど薄暗い室内に籠もって、読書や談話や飲み食いに耽ることのできるのは、全くその町独特の自然の恩寵であった。屋敷町の築地に囲まれた庭に、樹木の葉がすっかり振るいおとされる頃には、東西南の国境をうねっている山脈が、凄い暗鬱な雲にすっかり封(とざ)されてしまって、時雨が庇や庭木のうえにそっと音を忍ぶように、しかしじめじめと泣き出しそうに降りそそいで来る。すると寒さが日増しに加わって、一里余りの距離をへだった海の潮鳴りが、静かな夜などには物哀しげに枕に音ずれてくる。霙(みぞれ)が裏の柿の木にふったり、霰(あられ)がばらばらと板戸を叩いたりする。小野はそんな冬の夜に、薄暗い茶の間で、猟好きの父の獲物であった野鴨の温かい羹(あつもの)を、みんなと一緒に食っていたことや、母の作った鰤味噌(ぶりみそ)や風呂大根を食べていた記憶などから、年を取ってからの今、殊にまざまざと思い出されてならないのであった。


  2013.2.2/11/24

 小野は今住んでいる家に、もう十六七年という長い月日を過ごして来た。彼は特別な愛着を、その家に感じていたのではなかった。また感ずる理由もなかった。勿論最近――といっても七年以来のことだが――では子供の一人をここで失くしたという不幸があったりして、其の短い生涯の記憶が、何かにつけ家と親密な交渉をもっているところから、そこを離れるのが、妻のかな子に後髪(うしろがみ)を引かれるような思いをさせるというような事もあったが、要するに家というものの観念が、小野になかったからのことで、気分転換のためにどこか清新な感じのする東京の外廓か郊外へ引っ越したらばと思いながらも、つい其れなりに引き摺られて来たのであった。

 ここへ引っ越して来たときには、それが初夏の季節だったので、青々した建仁寺垣の前に、お能の舞台の背景のような松が三重に枝葉をくねらせている傍に、薬玉(くすだま)のような斑(ふ)入りの八重の椿が咲いていたり、石榴(ざくろ)や木蓮の古木(こぼく)が、青苔の生えた庭に、しっとりした陰影を作っていたりして、何となく静かな落ち着いた気分にならせるのであった。家も狭かったけれど、簡素なしっくりした建て方で、最初それを発見したかな子の気に入っていた。かな子は漸く二人の子の母親でしかなかった。この家へ落ち着いてから現在までの家の変遷を語るならば、それはやがて小野夫婦の生涯の重要な部分と、子供の或るものの生い立ちの主要部分を構成する訳だが、子供の頭数がその当時の三倍に殖え、育つものはめきめき育ち、死ぬものは死に、老うるものは歳々に老いて、生活が三重にも四重にも複雑になって来たと共に、家も次第に古くなって来た。度々のお産と、主婦としての配慮と労苦のために、持病もちのかな子の体ががたついて来たと同時に、小野も自身の生活すらまだ確立しないうちに、長いあいだの精力の濫費を強いられて来た果てに、年齢と逆比例に年々加わって来る生活負担の重いのに憊(くたぶ)れていた。
 
 最初は書生が一時二人もいたり、田舎から来て世帯を手伝ってくれた女があったりして、入れ替わり立ち替わり男女の寄食者もいた位であったが、今ではそんな部屋にも、足を容れるところのないほど何かしら荷物が溜まり溜まりして、落ち着いて勉強する場所のない子供たちから不平が出たり、物の仕舞い場のないのと出し入れに骨のおれるのに困っている妻から苦情が出たり、小野自身も、ゆっくり手足を伸ばして寝ることすらできないほど、手狭を感じて来た。

「どうも大変なもんだね。」

 小野は旅行などから帰ってくると、茶の間にも奥の四畳半にも、箪笥や本箱や机や長火鉢のぎっしり詰まった狭い部屋に、僅かに空き地を工面して敷かれた蒲団に、ずらりと寝ている子供たちを見渡しながら嘆息していた。

 その家の持ち主がかわって、小野が遽(にわか)に立ち退きを要求されたのは、三年前の夏の初めであった。ちょうど借家の払底(ふってい)を告げている真最中で、住宅難の声がどこからも此処からも起こってきた時分なので、小野も早晩そんな時が来るだろうと予期はしていたのだったけれど、ちょっと恐慌を来さずにはいられなかった。多勢の子供をもったのが、家を逐い立てられる惨めさを、彼はその場になってしみじみ感じた。その上借家を捜してあるくことは、仕事の忙しい彼に取っては、想像以上の困難であった。そしてそうなると、色々の意味で歳々親しみの加わって来ているその家が、かな子に取って一層離れがたいものに思われて来た。

 とかくして不安な其の一夏が過ぎた。そして色々の紆余曲折を経た果てに、友人達や持ち主の善意で、とにかくそこに居据(いずわ)れることになったのであったが、しかしそうなるとまた、現在のままでは、迚(とて)も住んでいられない不満があったりなどして、決断力の乏しい小野は、それを買ったことによって、当分だけでも落ち着くことのできるのを悦びながらも、そのために今迄知らなかった苦労が、反って殖えたように思えた。

 その家には、地所の都合で、裏にある粗末な一軒の建物がついていて、それをまた前のまた前の屋主(やぬし)が、二つに仕切って、店の仕事をしている人達を住まわせていたが、それらの店子達も、一旦小野と同様に立ち退きの要求を受けていたので、小野がそれを買い取ったことがわかった時に、二人して悦びの挨拶に来たりなどして、すっかり安心してしまっていた。処で小野は色々に考えた果て、子供だけでもその一方へ入れることができるならば、それで一時を凌ぐことが出来るだろうと思って――実際また小野の事情が、それ以上の自由を許さなかったので、人をやって、後から来た方の馴染みのない借家人に立ち退きを申し込ませることにした。小野は今まで立ち退きを要求するような側に立ったことも、立とうと思ったこともなかったので、漸と安心したばかりの借家人の一人に、そんな要求を持ち出すのを、可也苦しく感じないではいられなかった。屋主になったという事すらが、決して彼の気分に相応しいことではなかった。しかし思いがけなくそんな物が自分の所有になったとなると、彼は如何にそれを利用すべきか研究もしなければならなかった。年を取るにつれ、子供たちが成長するにつれ、小野は自分の勤労の如何に尊ぶべきかを打算しない訳に行かなかった。長いあいだルーズな生活に慣れて来た小野やかな子に取っては、そうした打算に心血を費やすことは、長いあいだの貧乏生活よりも、遙かに苦しかった。けれど然うかと言って、それを超越する勇気が、彼にはなかった。そして絞木(しめぎ)にかけられるような、その苦しさから脱れるためには、打算は一層必要の度を増すばかりであった。若しも日頃から熱求して已まない隠遁的生活を実現しようとするならば、それは打算してもし切れない、空想か非望かでなくてはならなかった。

 小野は浅猿(あさま)しい慾心の、次第に自分に目ざめて来るのを意識しないではいられなかった。自分の持って産まれた醜い鄙吝(ひりん)が、時とすると、他の有らゆる性情よりも熾烈に鮮明に働きはじめて来たことを拒むことが出来なかった。世間の下劣な家主がもっているような考え、彼の耳に触れる汚い小金貸のもっているような心持ち、そんなものをも彼は心に浮かべてみた。今までは、まるで余所事のように聞いていた株や地所で冨を作ることなどをも、彼は痛切に心に取りあげて見た。勿論それは空想してみるだけで、それを実行しようなどとは夢にも思わなかった。そんな余裕のある筈もなかったし、才能のないことも判り切っていた。でまた、そうした努力から得たところの金の結果を想像してみたところで、そこから何が生まれて来るかを考えると、人として生きようとする子供達のために、それが大いなる冒瀆であることも明らかであった。彼はそれを考えるだけでも、自分の持って産まれた箇性の堕落を感じた。

 浅草で、腐りの入った蜜柑(みかん)を、一山いくらかずつで売っていた男が、少しばかりの資本を得て、支那料理の店を開いたところで、それが四五年のあいだに、数十万円の金を作った話や、名代の蜜豆屋が、その界隈の大地主である話などを、いつか浅草通の青年から聞いていたので、それを或る時甥に話したことがあった。甥はその時、金策のために山からおりて来ていた。彼は戦争の終局に近づいた頃、二三年金をかけて来た山を売って、成金風を吹かしていたが、今は余り質の好くない炭鉱にかかって、どん底に落ちていた。宝石類や書画は勿論、洋服の着換えをすら請け出しかねていた。

「わしもこんな時の足場に玉撞(たまつき)でも家内にやらしておけばよかったと思って。」
 
 甥は小野の話をきいて、そんなことを言って笑っていた。彼は玉突きが上手なところから、田舎の町で、二人の女に玉突きを二箇所も出させていた事もあった。

 小野は山で苦労して来た彼の健康が、近頃ひどく不良状態にあるのに気づいていたので、そんな生活の連続は考えものだと思っていた。

「おれなぞも、何か楽をして金を儲けたいなんかとも思うけれど、そんなにまでして金を儲けたところで、子供を不幸にするばかりだからな。」

 するとそんなことには何(ど)の子供よりも淡泊な長男が傍から言った。

「いや、そんな事はないな。同じ程度の人間だったら、金持ちの子の方が気持ちがいい。」

 そう言う彼は、色々の点で素質のすぐれた金持ちの子を一人、友人にもっていた。

「しかし近頃は、水呑百姓や車挽(くるまひき)の子などに秀才が多いからね。あすこの塩煎餅屋の子息(むすこ)や、荒物屋の子息は、みんな優等生じゃないか。」
小野は言った。

「あんな連中は、滅茶苦茶に勉強するんですよ。それは頭のいい子もいるけれど、世の中へ出てから何うかしら。」

「何といっても士分階級の子が、今までは一等好かったのさ。教育の機会均等主義もいいけれど、差し当たっては社会の実質を悪くするという心配もある。永いあいだには好くなって行くわけだけれど、過渡期では教育普及は考えものさ。智識を過度に与えて、生活を与えないから、悪事を働くばかりだ。」彼は言った。

「まあそうだな。婉曲になって来ただけでも、善の方へ進むんだからな。」
 小野は言っていた。


 話がまた枝路へ入ってしまったが、小野が甲の借家人に家をあけてもらうように申し込んで間もなく、甲は人をよこして、家を買い取りたいように交渉して来た。

「この家全体をですか。」

 小野は玄関へ出て、万更職工でもなさそうな、セルの袴をはいた、その男をきくと、彼は少し怯えたように「そうです」と答えた。

「けれど、これは私が住むために買ったので、買ったばかりのものをお譲りするのも変でしょう。その場合には、私の情誼として、好意づくで譲ってくれた人に返さなければなりませんのでね。」

 小野は少し気色ばんで言った。

 それからまた少したってから、甲の近藤が自身やって来て、立ち退くといっても、当節はどこも千や五百の金をもってかからなければ、家を借りることができないという話をして、雑作の買い取りを要求した。そんな経験のない小野には、それが意外に思われた。

「雑作って、どんな物ですか」と言って、小野がきくと、門の入り口に石が二枚、台所に棚板が三枚、植木が何本とかいうのであった。

 それに対する小野の返事は、拙劣を極めたものであった。そういう世間の事には、彼はぽっと出の書生よりも気が利かなかった。後では気のつくことであったが、彼は相手方が弱者の地位にあるということを考える余裕を、更にもたなかった。そして反対に狼狽していた。

「じゃ雑作を買わなきゃ、明けるわけに行かないんですか。」

 小野の語調は少し興奮していた。

 近藤は――余程後になってから、その問題が一年と五箇月目に解決した、その間際に知ったことであったが、嚇(かっ)としやすい割に小心ものであった――面喰らったように、挨拶もしないで、其のままあわてて帰って行った。

「何だ、変な男だね。」小野はかな子に言った。

「ほんとに可笑しな人ね。」かな子も呆気(あっけ)に取られていた。

 それから幾日かたってから、小野は人を頼んで若(も)し三月くらいで立ち退いてもらえるならば、雑作はいらないが、金は少し上げても可(い)いと言って、繕っておいた。「誰にしても初めはあんなことを言うでしょうから、そこは掛け引きで、上手に話をなされば可かった」と、かな子が言ったので、更(あらた)めてそんなことにしたのであった。

 かな子や子供たちは、それの明くのを楽しみにしていた。そして其の三月のたつのを、待ち遠しがっていた。小野も、そうなれば少しは寛げるだろうと悦んでいた。

 しかしその期待は容易に実現されなくて、四月が五月になり、六月になった。小野の荒れた庭では、周囲に二階や三階が立て込んで来たので、近来次第に庭木の下枝が枯れたり、幹が枯れたりしていたが、その中でも椿や山吹はやっぱり年々花をつけていた。幹のぼけた石榴も、珊瑚色の花をつやつやした葉のあいだに沢山着けていて、雨にぬれた青苔の上に、数知らず落ち散っていた。

 小野は時々庭へおりて、それらの木を眺めたり、家のまわりを見舞って、古びと傷み工合を検(しら)べたりした。小野は殊にも木を愛した。彼は犬や猫のような家畜に興味と愛情をもつことはできなかったけれど、小鳥や木や花は好きであった。勿論庭の体裁すら具(ととの)えてはいなかったし、庭らしくするには金もかけなければならなかった。小野は後になっては、時々そんなことも思うようになった。それはその冬京都の郊外にいたときから、少しずつ思いついて来たことであったが、今年の秋、母の法要のために、故郷の町へ行って来てから、一層庭や住居のことを心に取り上げるようになった。その町では、そんな家(うち)でも、燈籠も一つくらいは庭においてあった。どんな貧弱な料理屋でも、部屋や庭が、お茶の趣味から塩梅(あんばい)されてあった。器物や料理や総てがたとい貧弱であっても、殺風景な感じを与えないだけの用意が施されてあった。若いときには気づかなかった古い静かな町を、小野はそこに思い出した。幼いおりに食べなれていたもので、その後すっかり忘れてしまっていた土地の食べ物を、彼は次第に思い出すようになった。母の手で作られたそれらの食べものも、今は土地の人にさえ忘れがちのものも多かった。小野はそれは心寂しいことに思った。妻や子供にも、それを知らしておきたい――小野はそんな詰まらないことまで思ってみたが、その町の空気、人、食物などは、子供たちに好かれないものが多かった。

「忠孝饅頭(まんじゅう)と何うです。」

  小野が子供たちと一緒に、近頃通りに出来た菓子屋から、時々買ってくるアップルパイなどを食べていると、中学生がそう言って父を揶揄(からか)った。その饅頭も、土地で余り上等の部類ではなかったけれど、近頃小野によって新しく発見されたものの一つであった。

「京都の鍵屋の最中(もなか)の餡(あん)には感服したがね、国の忠孝饅頭だって、ちょっと東京では食べられないよ。」

 小野が言うと、子供たちは手をうって笑うのであった。

「いや、しかしなかなかお甘(いし)いものもあるです。」
 子供は少し真面目に附け加えた。

 ところで小野はその後、人をかえて近藤の方へ幾度となく交渉した。××男爵家の土地管理所に勤めている人に頼んでみたりしたが、みんな手甲(てこ)ずって引退るより外なかった。最後に、彼は知人の弁護士の玄関にいる男に、それを頼むことにした。その男は直ぐ出向いて行ってくれたが、結果は思わしくなかった。

「裁判にしなくちゃ駄目です。」彼は言っていた。

「そうですか。最も先方でも、いずれ裁判にするでしょうと言っているんですがね。」

 で、その訴訟がその弁護士の市村氏によって、提起されることになったのは、夏の八月であった。


 小野が訴訟費用を市村氏に届けに行ったのは、或る暑い日の夕方で、かな子は六人の子供と子守を引率して、自分の産まれ故郷へ旅に立った留守であった。間もなくかな子が帰ると、入れかわりに小野が暑さに疲れた体を養いに、仕事をもって近くへ出たあとで、供託金なども積まれて、一回か二回、事実調べがあった。しかしそれも月に一回ずつ、ちょっと顔を出すきりで、小野は思いのほかの緩慢さに呆れていたのであったが、その夏も過ぎ、秋も暮れて、直きに冬が来た。そして月に一度しかない裁判の結果を案じながら、小野は来る月も来る月も同じことを繰り返されるのに気を腐らしていた。

 市村氏はその度に、小野たちに頷けるような何等の報告も説明もしなかったが、時には自身で来て、証人の打ち合わせをしたりなどした。

「貸家の裁判には実際困りますんです。時節柄裁判官が既に借家人に同情しているのですから、全く遣りにくいのです。それに近頃の裁判所のだらしのないことは、皆なが不平を言っている始末でして、なかなかてきはき遣っちゃくれませんのです。」

 市村氏は言っていた。

 小野は最初市村氏に委任するとき、何うかと思って、ちょっと気が差していたのであったが、いつも赤貧であるのが評判の市村氏が、四十を出ても、相変わらずの窮措大(きゅうそだい※)で、一向玄関の繁盛しないのは、その性格が素朴で正直であるうえに、始終酒に入り浸っているからだと思っていた。で、裁判が何の効果も見ることができない度に、彼はつい疑惑と焦燥とに駆られて、市村氏の頭脳と手腕を危ぶむのであったが、邪気のない彼の顔を見たり、絶えず臆病らしくおどついているような態度に接したりすると、疑惑は立(たちどこ)ろに釈けてしまうのであった。特にも彼の訥弁(とつべん)が、彼を正直に見せていた。勿論市村氏は不正直ではなかったけれど、しかしだらしがなかった。そして市村氏の唯一の美点と思われたその正直をさえ疑わねばならぬ事実を、それからずっと後になって小野は発見したのであった。

 今年の春になってから、小野は住居の狭くるしいのに、我慢がしきれなくなってしまった。彼は忙しい時には、仕事をもって旅行していた。長男もずっと近所に部屋借りをして出ていた。彼は仕方なく、現在の自分の住居の方を、いくらか手を入れようと思い立った。が、それにしても、今直ぐにそれを実現するには、彼の懐(ふとこ)ろが甚だ淋しかった。

 家の傷んで来たことが、長いその一ト冬が過ぎると、一層目に立って来た。縁の閾(しきい)が摺りへって、板戸の出し入れに骨のおれるのも可なり久しい前からのことであったが、台所の方でも流しの板がおちて、閾がぼろぼろに朽ちていた。

「これじゃ迚(とて)も遣り切れない。といって、今手をつけるのも無駄ですしね。」
 かな子は言い言いしていた。

「一層売ってしまおうじゃないか。こんなぼろ家を買うくらいなら、一軒でいいから、どこか地所を見つけて建てるんだった。」小野も時々愚痴をこぼした。

 その年もまた夏がめぐって来た。小野はその頃、自分の書斎だけでも建て増そうかなどと思って、或る雑誌社の主筆に逢って、家の話が出たとき、そのことを言って、ブロックと木造との得失などを訪ねた。ちょうどその時、田舎の姉夫婦が、客を一人つれて、博覧会を見に出て来ていたりして、小野夫婦はひどく弱っていた。彼は寝るところも仕事をするところもなかった。夜寝床を延べるときの騒ぎを、彼は神経を苛立たせないでは見ていられなかった。彼はその時文化村を二度も見に言ったりして、独りで頭脳を悩ませているのであった。

「そういうことなら、己(おれ)が一人紹介してやろう。」

 旧友であった其の主筆は言っていたが、小野はそれらの予備智識を得たかっただけで、実はまだ計画が熟している訳でもなかったが、そんな人に逢っておくのも好いとは思った。

 すると或る朝、若い一人の技師が彼を訪ねて来た。小野はちょっと面喰ったが、ブロックの話を聞こうとすると、彼は詳しくそれを説明して、庭へ出て、検分までしてくれた。しかしその建築は、小野には少し業々(ぎょうぎょう)し過ぎるように思えた。費用も安くはなかった。そしてそんな話をしているうちに、彼は或る町で、出来あがったばかりの木造の洋風住宅を、誰の家とも知らずに、羨望の目をもって眺めていた、それがふとその青年技師の住居であることも知ったのであった。

 小野はブロックが住宅に適しないことを、段々知るようになったので、その技師の方もそのままに放抛(ほうか)してしまって、程(ほど)へてから、かな子の知っている或る年取った婦人の子息であるところの、今一人の高工出の秀才に、意見を訊くことにした。そして其の時分には、小野の趣味も可なり変わっていた。彼は「お茶」なしには、日本の住宅と庭を語ることは、殆ど不可能だと思っていた。若し隠遁するならば、彼の日常生活は、お茶によって芸術化されるのも、一つの到達点であろうとさえ思っていた。そうはいっても彼は茶巾を捌(さば)いたり、柄杓(ひしゃく)を扱ったりする気になれそうには思えなかった。寧ろそれは彼の正反対であることも判っていた。

 暑かったその一夏も、やがてまた過ぎてしまった。そして近藤が毎日毎日、午後の四時頃になると、冬のあいだ溜めておいた、塵埃を庭堺の板塀ぎわへ掻き寄せて、行水の湯を沸かすべく、連(しき)りに火を焚いていた、その煙も立たなくなって、涼気が日に日に軒端に通って来た。小野たちは鼻もちのならぬ異様な臭気のするその煙に、どのくらい悩まされたか知れなかった。そして彼は、その日その日を、可也(かなり)呑気に暮らしている彼を憎みも哀れみもしたけれど、その対立によって、人間の平等さを学んだことも事実であった。

 すると暮れになってから、或る友人の手によって、二年ごしの争いが、一夜のうちに和解されてしまったのであった。そしてそれは長いあいだ小野の方で立てかえて来た水道税の請求が、思いがけなく動因となったのであった。

 近藤は、長いあいだの係争に飽き飽きしていた上に、最近その弁護士に勧められて、愚にもつかない造作買い取りの反訴訟などを起こして、可なりな金を使わせられたりしていた。それまでの費用も少ない額ではなかった。

 で、小野はというと、彼は自分の弁護士が、原告の立場にありながら、被告の弁護士が欠席したと同じ度数の欠席をしていたことを知って、今更のように弁護士というものの、世にも厄介千万な代物であることを学ばされた。その上相手方の弁護士と馴れ合いづくでもなければ、迚(とて)も出来ないようなだらしなさを敢えてしていたことも、想像されたのであった。

 小野は最近、市村氏に婚礼の費用などを立てかえているのであったが、小野が彼の要求に応じて提供した供託金の、幾分が、中途で消えているなども、不思議の一つであった。

 それ等の後始末に、小野はまた弁護士を一人見つけなければならなかったが、その弁護士が何(ど)の程度まで信用されるものであるかを思うと、うっかり手も着けられないような気迷いもするのであった。

 明いた家は、豚小屋のように荒れ切っていたが、でも子供たちは当分のうち、そこに自分たちの心安い世界を見い出そうとして、それを綺麗にすることに努力するのであった。

 小野はまた、次の年の冬籠もりにでも間に合うであろう新しい書斎を、凡(およ)そその頃の資力の許す範囲で、出来るだけ自分にふさわしいものに作ろうと思いながら、家族たちと懸け離れて、いくらか静かな自分自身の生活を営むことのできそうなのを、切(せ)めてもの楽しみにしていた。

 ※窮措大(きゅうそだい)…貧乏な学者、書生。




 

                                     (完)


◎『徳田秋聲全集』第14巻(八木書店)所収の本文を底本に現代的仮名遣いに改め適宜補訂を行った。
  初出:大正1211日(「中央公論」第38第1号)


 
 




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