不定期連載



「夏の思い出――十八歳でなくなった三男を憶う――


(随筆/全1回)
 2013.7.21

 生涯を通じて、私には余り楽しい思い出というものはない。苦難の生涯を顧みて、何か楽しいことがあったとすると、それは芝居の幕間(インターバル)のように時々やってくる暫(しば)しの平和というようなものであろう。

 夏の気分になると、私は七月の半ばに、一夜で死んだ愛嬢みず子(※1)のことを憶い出して、その時の状景を殊(こと)にまざまざと、体験的に繰り返すのであるが、それは遠い過去のことで、最近は一昨年の五月の終わりに、十八歳の短い生涯を終わった三作(さんさく)(※2)の、病苦と闘って来た四年間を想いだす。子供を毎年海岸の避暑地へ送るとき、殊に不幸な運命に取りつかれた彼を哀れむ。

 六年前の夏、彼は五中の四年生であったとき、八月の末に海岸から帰ってくると、股関節の痛みを訴えたのが発病の始まりで、翌年の夏海岸へ行ったときには、私や長男(※3)に扶(たす)けられて、松葉杖に縋りながら両国駅のプラットホームへ出て行ったのであった。去年はここんとこを駈けて言ったんだけれどと、彼はそれでも朗らかに、羞(はず)かしそうに呟いて、新調の洋服を着た、若竹のような長い躯を運んで行った。私はその一週間ほど前、昔(むか)しから因縁のふかい房州の那古に、檜造り新築の家を一軒契約しておいた。そこは通りへも近く、畦道(あぜみち)を伝っていくと、海岸へも近いところで、座敷に坐っていると、青田(あおた)が限りなく眼の前に展(ひら)けて、風通しがよかった。右の方を見ると、町から海岸への往来がある、左にも海岸へかよう畦道があって、朝と午後とに海へ行く人還る人の影がたえない。さながら芝居の両花道のようなものであった。

 この左の方の小さい花道に、黄昏(たそがれ)ちかい頃になると、顔も体もブロンズ色に焦(や)けた、筋肉の逞(たくま)しい、一人の狂人が大抵きまって登場するのであった。毎年避暑地へ行く都会人の数が多いが、避暑地へ行くほどの人は、いくら貧しいといったところで、そう惨めな人はいないが、ここらの海岸になってくると、人間生活のみじめさを熟々(つくづく)見せつけられるような、情けないのに出会(でくわ)すことが屡々(しばしば)である。彼らは文化というようなものの全くなかった我々の遠い祖先の生活を想わせるような、牛や馬や犬や猫にも劣ったような生き方をしている。それは単に大地の上にうようよと這(は)っているという程度の生き方である。都会の文化などとは全く縁のない衆生(しゅじょう)である。勿論これは強(あなが)ちこの海岸にかぎったことではない。東京にも、こんな人間は蠢々(うようよ)している。箸にも棒にもかからないような種類のもので、救おうとすれば厄介だから、我々は見て見ないふりをしている。

 この花道の登場人物も恐らくその一人で、私は或る時、散歩に出てると其(そ)の男の顔を、豚小屋よりも浅猿(あさま)しい藁葺(わらぶき)の掘立(ほったて)小屋のなかに見たことがある。

 彼は軍隊にいたことがあるとみえて、我々の眼のそそぐ花道へ上がってくる時、いつでも大将気取りで軍隊式に指揮をしたり、号令をかけたりする。長髪を振り乱して相撲の講釈もやれば、愛国的演説もやる。しかし昼間は大抵畑で、何か彼(か)か働いている。

 私の病人は大抵、縁側に近いところで、臥椅子(ねいす)に椅(よ)りかかっていたものだが、怠屈すると廊下を歩きだす。話の好きな方で、また話題の極めて多い方だったから、時を過ごすのに困らなかったけれど、どうかすると睫毛の長い、晴れやかな眼に涙がこらがっていることがある。東京にいると、私はそうこの病人に密接しないでも済むような時が多いのだけれど、こんなところへ来ると、起きる事も寝る事も、私も何かしていることになるのである。独り残されるのが、寂しそうなので、彼を海岸へ連れだしたことも一二度あった。しかし杖にすがって、砂地を歩くのは困難であった。それに普通に足のいい人の腰かけるようなところへは、腰をかけられもしないし、杖に椅(よ)って立っているのも、苦しいことなので、海岸へ出ることは彼も諦めてしまった。仕方なし、私は三人の子供とともに、三作だけを残して、毎日海岸へ出ていくのだったが、畦道の中途へ来て、私たちの姿が、籔畳(やぶだたみ)の蔭へ隠れるまで、幾度となく振りかえり振りかえりして、手をふったり、手巾(ハンケチ)をふったりした。帰りにはまた孰(どっち)かの花道へあらわれる姉妹(きょうだい)たちの姿を彼は待ち遠しそうに番していた。やがて近づいた。お互いの顔の輪郭がはっきりするくらいに。

「三ちゃん!」

 妹(※4)が呼ぶのだ。

 時とすると、三ちゃんは眠っていたらしいこともあった。しかしそれは未だ病気のそうひどくならない時分のことで、彼のその後の苦難に比べれば、まだしも楽しい海岸生活であった。私たちは三ちゃんを取りかこんで、父子(おやこ)五人の楽しい晩餐の卓をかこむのだったが、そんな時きっとあの狂人が登場するのであった。

 私はその夏、二週間ばかりいると、初め二三日で帰って行った長男に交替に来てもらって、家の留守番に帰った。

 しかし彼等は或る日の晩方、予定よりも少し早くどやどやと帰って来た。三ちゃんの足がただれ膿んで、仕末のつかないほど膿(のう)が出ているのを、その日の午後、繃帯を取りかえるとき発見したからである。

 やがて三ちゃんの病院生活がはじまった。

 


            (完)



 ※1 みず子…秋聲の長女・瑞子。大正57月、疫痢により12歳(数え年)で夭折。 
 ※2 三作…秋聲の三男。昭和65、カリエスにより19歳(数え年)で夭折。
 ※3 長男…秋聲の長男・一穂。
 ※4 妹…秋聲の三女・百子(ももこ)。
    本作には登場しないが、秋聲の子どもは全部で7人おり、上から順に、
    長男・一穂、長女・瑞子、次男・襄二、次女・喜代、三男・三作、四男・雅彦、
    三女・百子。

   


       
                                   

◎初出雑誌掲載の本文を底本に、現代的仮名遣いに改め適宜補訂を行なった。
 初出:昭和891日(「婦人之友」第27巻第9号)


 




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