不定期連載

「痛み」


第1回
 2013.8.21

 趣味も興味もない一日の勤務(つとめ)の終わる時間が来ると、松枝(まつえ)は何時(いつ)でも初めて、自分にも帰る家(うち)や、待っている良人(おっと)のあることを想い起こさせられるのであった。店頭(みせさき)のだだッ広い冷たい土間に、銀座の真ん中にある此の店の立ち創(はじ)まりから、植えつけられてでもあるように、固々(かたかた)した手丈夫一方の二台の大きな卓子(テーブル)、其の面(おもて)が、拭き込まれて全然(まるで)鉄のように黝(くろず)んでいる。それと古い椅子が二三脚、両側の棚には、此の店の売品の色々の簿記用の帳簿類や、西洋文房具などが、ぎっしり詰め込まれて、入口の重いドアは、滅多に小売などがないだけに、殆(ほとん)ど終日開けられることなしに人の往き来の劇(はげ)しい表の音を遮っている。その中に、時々電話で来る注文の受附(うけつけ)や、偶(たま)に見える客の相手をする外(ほか)は、松枝は一日堅い椅子に腰かけづめであった。

 仕事に頭を使うようなことは、殆ど無かった。上の部屋に若い事務員が二人、こてこて帳簿の並んだデスクに、坐っているきり、裏にある可也(かなり)大きな工場とは、無論何の交渉もなかった。骨格の巌丈(がんじょう)に見えながら、その実病身な五十幾歳(いくつ)かの、硬(こわ)そうな胡麻塩髯(ごましおひげ)の、目の落ち窪んだ主人(あるじ)が、折にふれて、スリッパなどを穿いて、ぶらぶらと事務の方へ出て来る外は、煩わしい家人(かじん)との親しみもなかった。

 初めは可也退屈であり、気塞(きづまり)でもあったが、慣れて来るにつれて、窖(あなぐら)のようなここの店の土間は一日じッとしているのが、間借りをしている自分等夫婦の狭くるしい部屋にいるよりも、反って心の自由と安易とを感するようにすらなった。松枝はそこで用事の隙々(ひまひま)に、手帖に何かしら無駄書きをしたり、左(さ)もなくば婦人雑誌などを見ながら、色々な甘い追想や肆(ほしいまま)な黙想に耽るのが、その日その日の癖となった。去年の暮れに、九月目(ここのつきめ)で死んだ赤ン坊のことや品行が悪いので、厭気(いやけ)がさして暇を貰った、前の亭主や、置いてきた子供の事などを考えた。大蔵省へ勤めている今の良人(おっと)との二度目の結婚や、良人の自分に対する心持ち、そうした夫婦の前途なども、始終考えられた。如何(どう)かすると、一度そんなことに出逢った自分の身が、結婚の初めから、心に染(そ)まなかった今の良人から何時(いつ)か離れて行きそうな気がしてならなかった。そして其の後は如何(どう)なるか。そんなことも思い窮(つ)められた。

『子供を亡くした時分から、私はこんな風になってしまった。偶然(ひょっ)とするとヒステリーにでも罹(かか)っているのか知れない。』

 松枝はその頃から、何となし是(これ)まで持っていた自分の誇りが失われ、生きることの愉快さが滅切(めっきり)傷つけられて来たように思えた。何かしているうちに、松枝はもう二十五になろうとしていた。

 市立大学を中途で罷(や)めた前の良人は、相場などをやっていた。そして可也派手な生活をしていた。豁如(からり)としたような気質で、じッと其の胸に抱かれていることさえ出来れば先(ま)ず何のこともなさそうであった。しかし松枝にはそれが出来なかった。頼りのないような不安が、時々頭を曇らせた。

『芸者買いなどをする男は、みんなあんなものかも知れない。』

 松枝はそうも考えてみたが、矢張(やっぱり)そう云う気にはなれなかった。時には全然(まるで)忘れられるようなことがあってもいい。苛酷に取り扱われても介意(かま)わない。余所(よそ)の子供でも可愛がるように扱われるのが、厭でならなかった。

 儲けがあると、良人(おっと)は芸者か何かをつれて行くように、反物や髪のものなどを、買いにつれて行った。小遣いも時々余分に渡してくれた。その手などが太く、目鼻立ちの揃った顔なども厚出(あつで)で、体がむっくり肥っているとおりに、どこか手触りががっしりしていて、心丈夫なようなところもあったが、松枝は無邪気に自分を投げ出していることが出来ずにしまった。男は外で遊んでも、一人の女に溺れるようなことはなかった。それだけ好悪(すききらい)の念の淡い質(たち)であった。

『貴方はこんな女が好き?』

 松枝は落ち散っている女の写真を拾いなどした時に、不思議そうにそれを眺めて言った。写真の女は色の黒そうな恍(とぼ)けた顔をしていた。どこが好いんだか解らないような女であった。

『どこか好いところがあるんだよ。』

 男は言っているようにニヤニヤしていた。

 別れる時なども、男には不思議なくらい執着がなかった。それが松枝には腹立たしかった。松枝は何と云うことなく、母親の方へ引き取ってしまった。

『真実(ほんと)に別れる気なのかい。』

 男は不思議そうに妻の顔を眺めたが、ムキになって引き止めようともしなかった。

『私のようなものは、貴方などのような商売をなさる方には不適当だと思います。』

 そう言って言い張る松枝を一図に薄情な女と思い込んだ男は、終いに怒ってしまったらしかった。そして口数も利かずに、そのまま出て行った。

 間もなく松枝は、子供をつれて生家(さと)へ帰って行った。それきり良人と会見する機会がなかった。二つになった男の子は、直ぐに良人の方へ引き取られた。

 母親は松枝の弟を、工業学校へ通わせながら、少し許(ばか)りの財産を抱えて、天神下の方で、堅い勤め人に間貸しなどをして、約(つま)しく暮らしていた。今の良人も、一時そこに間借りをしていた男の世話であった。その頃は松枝も母親などに我儘者と見做(みな)されて、妙に小(こ)じれた心持ちになっていた。

 今の良人との結婚は至極簡単であった。娘一人を廃れものにすることを怖れて母親は連(しきり)に気を急いた。

 水島と云う媒介の其の男夫妻に杯(さかづき)をさしてもらって、まだしみじみ顔も見ないような男と松枝は祝献(しゅくこん)をしなければならなかった。床についた時は、男は大分酔っていた。頭髪(あたま)を椀刈(わんがり)とかにして、短く切った揉上(もみあげ)のあたりなどに、どこか可愛気のある顔であった。年も漸(やっ)と二つばかり上であった。

 薄暗い部屋のなかで、松枝は浴衣の寝衣(ねまき)に仕扱(しごき)をしめて、畳のうえにしょんぼり坐って、恥辱と恐怖に顫(ふる)えていた。

『……そんな事は、水島さんが残らずお話した筈(はず)です。』

 松枝は俛(うつむ)いて泣いていた。

『御免なさい。――私は何にもしらずに来たんですから。』
然(そ)うも言って詫びた。

 男も蒲団のうえに起き上がって、忿怒(ふんぬ)と悔恨に、顔が蒼白(あおざ)めていたが、女に対する嫉妬と憎悪とで長くも然(そ)うしていられなかった。そして前の良人や子供のことなぞを煩く聞きたがった。

 夜明け頃まで、松枝は男に窘(いじ)められた。男は白いしなやかな指にはめた指環(ゆびわ)まで抜いて嫉ましげに眺めた。強い反感と執着とが、頭に混乱していた。

『着物や何か、いくらくれたって、男の冷淡なのは私大嫌いです。』

 松枝は媚びるように言った。

 翌朝熱(ほて)った顔に白粉などをつけて、湯から帰って来ると、良人は水島と一緒に酒を飲んでいたが、その顔には荒い表情があった。水島は平気でニヤニヤしていた。

 松枝は障子のところへ、鏡台を持ち出して、落ち着いた顔つきで、髪を釈(と)いて束髪に取りあげなどした。昼から三人で、ぶらぶら浅草の方へ遊びに行った。二人は何のこともなさそうな調子で、時々語(ことば)を交えた。

 




第2回
  2013.8.25

 松枝がセルの袴を畳んで、風呂敷に包むと、それを何時(いつ)も仕舞っておく棚のなかへ入れなどして店を出た時分には、銀座の通りには、もう明かりがついていた。やがて新しい芽の吹きそうな柳の蔭や、橋から見える水のうえなどに淡い濛靄(もや)がかかって、遠くの建物の頂(いただき)には、微かな夕日の光が残っていた。重いドアから冬の夕暮れの町中へ出て来た松枝は、心まで乾いたような気分が、急にみずみずして来るようであった。

 指ヶ谷で電車を降りたが、今日は何だか真っ直ぐに家に帰りたくはないような気がした。いつか細身の棕梠竹(しゅろちく)のステッキで、頭を打(ぶ)たれて、可也な怪我をして、耳などを痛め、暫(しばら)く医者通いをしてから、良人(おっと)は滅切(めっきり)心が柔らいで来た。

 芝居や活動写真などの好きな良人は、何かと云うと、松枝を連れ出そうとするのであった。良人は何を倹約しても、そんな娯楽場へ入り浸っていなければ、生効(いきがい)がないように考えていた。

『カレスを患ってからというもの、僕は生きていられるうちは、何でも出来るだけ面白い目をしなければ損だと思った。』

 良人は時々そう言って話をした。役所などでも、余り劇しい事務を取るのが気遣いであった。可怖(おそろ)しい病気が、いつ起こって来るかも解らなかった。脊髄に少しの痛みでも感ずると、彼は荒い不安に襲われた。しかし其の病気が、事実再び出て来るものとは信じられなかった。

 結婚してから間もなく、良人の前生涯も、そんなに清いものでなかったことが、少しずつ知れて来た。病気上がりの良人の心は、それほど寂寥を感じていた。売色(くろうと)とも素人ともつかぬような女と遣り取りした手紙などが、まだ机の抽斗(ひきだし)に残っていた。

『己(おれ)のような見る影もない腰弁に、立派な女が引っかかるから不思議だよ。己は何かしら、反抗的に色々の女を弄ぼうとしていたんだ。お前なんかより、もっともっと好い女を、今だって引っかけて見せる。』

『それじゃ何故そんな人を、奥さまにしなかったんです。』

『今から考えれば、惜しいと思うような女もあるよ。お前だって、そんな経験はあるだろう。男の誘惑に逢って、それに打ち克(か)ち得る女は少ないからね。』男はそんなことにかけては然(さ)も自信があるらしく、女に対する自分の経歴に、色々の文(あや)をつけて話した。

『それは人によるでしょう。だけど真実(まったく)不思議ね。私どうして先の人に別れる気になったんだか、今から思うと、何だか可笑しいようだわ。』

 松枝は遺して来た子供の、父親に似て、目などのパッチリしていたことや、男の方から、乳母が子供を連れに来た時の様子などを、しみじみした調子で話した。

『私は其の時もう後悔していたんです、でももう為方なかったんですもの。』

 子供が生まれてからも、松枝は先の子供の縹緻(きりょう)の好かったことばかり言い続けた。

『これでも此の子はいくらか好くなるか知ら。あの子は正可(まさか)こんなじゃなかったのよ。』

 良人に似た目や額などを、松枝は始終気にした。前の子供の方々から祝ってくれた初衣(うぶぎ)や、宮詣(みやまいり)の支度などの立派であったことなどが、何彼(なにか)につけて言い出された。

 男は、その子供をつれて、夫婦でよく散歩などに出かけた。寄席(よせ)や活動などへも行った。

『春坊は、こうやって連れて歩くと、電車のなかなどで、人が目をつけるくらいだったのよ。』

 松枝は張り合いがなさそうに、男に子供を抱かせて、自分は離れて歩いた。子供が胃腸を悪くした時なども、男は何かしら復讐でもされているように、いらいらした調子で、妻の不注意を責め立てたが、松枝には、それが先の夫や子供に対する女々しい嫉妬からだとしか受け取れなかった。二人はその事で、能く言い合いをした。結婚したその夜のことなどが、二人のあいだに新しく掘り返された。

『そのくらいなら何故貴方は、あの時水島さんに丁(ちゃん)と話をして下さらなかったんです。貴方は私に同情なすったじゃありませんか。』

 松枝は泣きながら争った。盲目な男の力づよい硬い手に、頭や頬骨のあたりを撲たれて、其処にじっと突っ伏していた。

『先の良人や子供のために、私は貴方に撲たれているんだと思います。』

 松枝は乱れた髪などを、傷を負った両手で掻き揚げながら、平気らしい蒼白(まっさお)な顔をして、言った。男には、それが先の良人に対して、女が甘んじて受けている笞(しもと)のようにしか思えなかった。それが男の目に、女を一層美しく見せた。

 尫弱(ひよわ)い子供が死んでから、夫婦のあいだには可懐(なつか)しい記憶が刻まれ、二人の優しい心が、初めて融け合ったように見えた。その頃から、松枝は生活費の不足を補うために、今の店へ通うことになった。





 第3回
   2013.8.30

 暮れに松枝が酉(とり)の市(まち)へ誘われたとき、良人(おっと)のいつもの病気がまた起こった。如何(どう)かすると、芝居や寄席へ附き合うのを嫌って、男の機嫌を損ねることは、是迄(これまで)にも希(めずら)しくなかった。松枝は今の良人と一緒に人中へなど出て行くのが何となく気咎(きとが)めがされた。身装(みなり)の整わないことなども、気になった。

 晴れがましい劇場の三階などにいても、迂闊(うっかり)階下(した)を見下ろせないような不安が、始終観劇の興味を殺(そ)いだ。賑やかな廊下をあるいていても、そこの立ち話をしている人の後ろ姿などに、不意に心が脅かされた。

 それに始終心の不安定な良人に、不意に外出を誘われるとき、松枝は髪などの乱れているようなことが多かった。暮らしもそんなに裕(ゆたか)ではなかった。

『行きたいなら、貴方一人でおいでなさい。一緒にばかり出歩いては、階下(した)へも極(きまり)がわるいじゃありませんか。』

 男は一人で出て行ったが、矢張(やっぱり)寂しかった。

 一夜の歓楽に倦み疲れたような顔をして、宿へ帰って来ると、妻は何かしら古い片(きれ)で、自分の着替えの襦袢(じゅばん)などを縫っていた。その袖が、昔(むか)しつけていたものを、染め返しでもしたような物であった。質のいい縮緬の半襟なども、最初の婚礼の美しい名残としか思えない、派手な模様のものであった。然(しか)しそんな事は、然(そ)う気にもならなかった。

 薄暗い部屋は、静かで、寂しかった。女の俛(うつむ)いている姿が、可憐(いじら)しくも見えた。

『面白かったんですか。』

 押し出すように、にやりと笑って、然う言う女の調子が、空虚なような男の頭を、訳もなくいらいらさせた。

『面白くて、己(おれ)は芝居など見るんじゃない。』とでも言いたいような気がした。

 夫婦は疲れたような顔を背向(そむ)け合って、臥床(ねどこ)についたが、男の神経や、妙に興奮して来た。起き上がって、莨(たばこ)などを吸っている物音が、暫く松枝の耳についた。

『……私が悪ございました。這度(こんど)から、どんな工面をしても従(つ)いてまいります。』

 大分経ってから、女は髪を撫であげながら、疲れたような声で言った。

 男は前よりも、一層こじれた心の空虚を感じていた。そして執(しつ)こく女に絡みついて行った。夜中に二人は、劇しい争論を始めた。松枝は夜明けまで、火鉢の側に突っ伏していた。

 酉の市の晩に、二人は宵の口から宿を出て行った。来たこともない竜泉寺町あたりの空気は、松枝の目に異様に映った。縄張(なわばり)や柵などを設(しつら)えて、出さかる人を堰(せ)いた鷲(わし)神社の広い境内を、そッち此方(こっち)歩いているうちに、燈籠などの懸け連ねられた、明るい二層三層の不思議な建物の、夜霧のなかに聳え立った、静かな一廓(いっかく)の裏まで来ていた。

『これが吉原なの。』松枝は自分の矜(ほこり)を傷つけられでもしたように、立ち止まった。そして中へ入るのを拒んだが、矢張(やっぱり)入らない訳に行かなかった。狂人じみた良人が、人中でステッキを振りあげることなぞは、そんなに珍しいことでもなかった。

『おい、少し離れて歩け。』

 男は叱りつけるように言って、ずんずん先へ行った。厨子か何ぞのように、ぴかぴか光る家があったり、避病院(ひびょういん)のような白い大きい建物があったりした。松枝は良人の陰について、顔もあげずに歩いていた。如何(どう)かすると、足が男の裾に縺れ合った。

『おい、何だって己の足なんか踏むのだ。』男は暗いところで立ち止まって、目に角を立てて怒り出した。

 松枝は喫驚(びっくり)して飛び退った。そして黙って後ろからすごすご歩いて行った。

 帰るまで良人はぷりぷりしていた。そしてステッキを振りながら、しぶしぶ降り出した雨のなかを、振り向きもしずにすたすた歩いた。

『貴方のお供は、私もう懲々(こりごり)ですよ。渡曾は何と云うはずかしい目に逢ったでしょう。』

 松枝は部屋へ帰る早々、口惜(くや)しそうに言い立てた。

 その晩打(ぶ)たれた耳や手に地脹(じば)れがして、松枝は二三日店へも出られなかった。頭から繃帯などをして、蒲団を被って寝ていた。男は母親などの耳へ入れられるのを拒(ふせ)ごうとして、出来るだけ妻を慰めた。男は可笑しいほど狼狽(うろた)えていた。

 脹(は)れが少し退いてから、松枝は店へ出て行った。それ以来臆病なほど自分に従順になった男の心を蔑視(さげす)まずにはいられなかった。

 事務を執りながら、松枝は一日男を懲らすべき適当の手段を考えた。耳などにまだ詰め綿をして歩くときなぞ、音が響けて痛んだ。蒼い顔を見て、店の人達は笑いながら、原因を松枝に尋ねた。

『え、ちょっと転んで怪我をしたんでございますの。』松枝は何気なげに応えた。

 帰りに、須田町の自働電話へ入って、その日役所に宿直をしている良人の方へ電話をかけた。

『私ちょッとしたことから、貴方がた御夫婦のことを能く知っているものですがね。』松枝は作り声をして、出て来た良人に話しかけた。

『いや、わざと名は言いません。しかし貴方が細君に対して、余り過酷な取り扱いをなさるということは、少し間違っていはしまいかと思いますね。今度など、もう少しで、大変なことになるところでした。放擲(うっちゃ)っておくと生命(いのち)にも係わるほどの、大切な箇所(かしょ)ですよ。』

 松枝は急いで、電話を断(き)った。感謝している良人の声が、微かに耳へ入った。周章(あわ)てた其の顔が、目に見えるようであった。


 長いあいだ松枝は、従順な良人から何事も仕掛けられずに日を送った。

『また怒らして見よう。』松枝は可恐(おそろ)しい危険を予想しながら、わざと我儘な自分の癖を見せつけようとした。そしてイリテーブル(※)な良人の神経を揶揄(からか)った。

 今日も松枝は、帰りに友人夫婦の家に寄って、その事を言い出して笑った。

 中学の事務の方をやっている其の良人は、田舎出の妻から、醜いほど崇められていた。二人は小さい餉台(ちゃぶだい)のうえで、煮立てなどを突っつきながら、貧しい晩餐を食べていた。膝の丸く型つけられた太い窄袴(ずぼん)などが、古壁にかけられてあった。

『どうだ、お前も一口飲まんか。私(わし)ばかりやっていても張り合いがない。』

 人の好さそうな良人は、手なぞの萎びたような、小柄な細君の顔を眺めて、ニヤニヤしていた。

『まァ貴方お食(あが)んなすって。外で働く人は、それが楽しみだでね。』細君はおずおず酌をした。

『あたしのお酌じゃ、おいしくもありますまいに。』

 男はへへへへと笑った。『家(うち)の細君も、段々感心なことを言うようになりましたよ。』

『ほんとうに温順(おとな)しくて入(いら)っしゃいますからねえ。』松枝はお愛想を言った。

『あんな事していて、何が面白いんだろう。』

 松枝は滅入るような心持ちで、そこを出ると独りで呟いた。そして今日は長いあいだ持ちこたえていた電話のことを、良人に話して了(しま)おうかとも思った。久しく隠しておいたステッキも出してやりたかった。

 まだ癒えきらぬ耳の傷が、(だる)い体中に甘い痛みを伝えた。




                                    (完)


  
  ※イリテーブル…irritable(英)。怒りっぽい。短気な。






                                       

 

◎単行本『媾曳』(大正2年、春陽堂)所収の本文を底本に、現代的仮名遣いに改め適宜補訂を行った。
 初出:大正2年1月1日(「文章世界」第8巻第1号)









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