不定期連載

「好奇心」


 第1回
   2013.10.31

 不思議な其(そ)の手紙が、外の手紙と一緒に舞い込んで来たとき、糅山(かやま)は食後の煙草を燻(くゆ)らしながら、ぼんやりしていた。

 九月末の或る日の昼であったが、その日は特に日曜であったので、四人の子供たちはみな其の傍にいた。そして活動の話をしたり、歌劇の話をしたり、または壁に椅(よ)りかかって、歌詞を口吟(くちずさ)んだりしていた。或るものは「どっかへ行きたいな」とそこに寝転んで外を眺めながら呟いていた。末の小さい子がよちよちと、餉台(ちゃぶだい)のまわりをうろつきながら、愛らしい片言交じりで何かしゃべっていた。

 先刻から空虚な顔をして、この移りかわりに着かえさせる子供の着物のことなどを考えながら、何(ど)うしても買いに行かなければならないものがありながら、その隙(ひま)の都合がつかなくて、毎日毎日冷気になっていく此の頃の陽気などを気にしていたのであったが、今更のように、めきめき大きくなって行く子供たちを眺めまわしていた。するうち彼女の目は自然にいたいけ盛りの幼児の方へ移って行った。糅山もそうであったが、妻は殊にもその幼児に深い愛を感じていた。それは四十に近い自分に産れたしかもそれが生死の境をくぐったほどの難産であり、これが最後と想像される女の子であったからであるのは勿論(もちろん)だが、一体に小粒に産れついた其の様子や、彼女は彼女としての特色をもっている、愛らしい狆(ちん)のようなその顔や口の利き方などがひどく可憐なものに思われてならなかったのであった。かかる幼児については母親の責任ということはまだ考えられる必要はなかった。で、ただ嘗(な)めついても飽き足りないような愛情を感じていた。どんな気分のくさくさする時でも、この幼児を抱きあげると、心の底から和らぎ慰められずにはいられなかった。

「この子がもし偶然(ひょっ)として死にでもしたら…………。」

 彼女はその堪えがたい寂しさをも想像した。

 糅山とても、幼児に対する愛は、妻のそれに決して劣らなかった。この愛らしい幼児のために、まるで白痴のような真似をさせられても少しも厭わなかった。どんな小煩(こうるさ)いことでも言うがままにしてやった。責任感や義務感から来ているのではなかった。飯を食ったり寝たりする事にも、それに比べれば多少の努力は加わっていると思われた。

 そうして糅山夫婦の昼の茶の室(ま)は、とにかく現在幸福に充たされていた。

 朝の間は曇っていたが、十一時頃から雲が剥がれて、外は快晴であった。空が蒼々と晴れわたって、庭木や花壇のダリアのうえに、絖(ぬめ)をすかしたような、秋らしい陽光が輝いていた。糅山は、その美しい空を眺めながら、この頃の郊外を想像してみたり、または浅草あたりの遊び場所を目に浮かべたりしていた。

 すると其処(そこ)へその手紙が来たのであった。

 一つの手紙は、田舎の友人から就職口を頼んで来たのであったが、今一つの転居の通知、そして其の三本目の手紙を何心(なにごころ)なく手に取りあげたとき、彼の頭脳(あたま)はふと或る期待を感じて、急に不安に曇った。勿論その予感も、手紙の封を切ってから、初めてそれと明白に判ったので、封書を見たときの感じは、極めて微かなものであった。ちょうど障子に遠い鳥の影が、差したかのように。それは八坂民吉という差出人の姓が、ふと遠い昔しに知っていた女を想い出させたのであったが、これも八坂という文字を見て、ちらりと古い其の記憶が頭脳に閃(ひらめ)いたに過ぎないので、お品というその女の名なぞも、全く頭脳のどこかに下積みにされて、久しい以前から思い出しもしなかった。

 手紙には御無沙汰の詫びなどが書いてあったが、あれから長い間北海道へ行っていて、この頃ちょっと東京へ帰って来たが、事によるとまた田舎へ行くことになるかも知れないから、実はこちらからお伺いする筈(はず)であるが、それも反って御迷惑かも知れないと思って、おいでをお願いする訳である。お役所の帰りにでもちょっと来て頂けるなら、大変好都合でございます。お許し下さるでしょうかどうでしょうかと、文章は一寸(ちょっ)と長いが意味はそれだけの事であった。そして其のお終(しま)いの所に、其の所書きがして簡短な道順までが書き加えてあった。

 糅山の目はその文字のうえを一息に走った。そして内容が略(ほぼ)わかると、急いで、しかし何のこともなさそうにわざと落ち着いた態度で、手ばしこく手紙を巻収めて、前に投げ出しておいた。勿論その手紙を読まれたところで、それが大して問題になるような内容を含んでもいないのではあったが、其れを説明しなければならないだけでも、糅山にはばかばかしい煩わしさであった。で、彼は警戒を怠らない目を以て彼女の顔を見て見ぬ振りをしていた。

 処で妻は、手を出しさえすればいつでも其の手紙を取り上げることのできる近さにあって、膝や肩に絡(まつ)わる子供に気を取られていた。その上、十三になる一番上の子供が、何の気もなしに其の手紙をひょいと取りあげたので、糅山は何かこの場の平和を破るような導火線に、火が点ぜられかけているような際どい不安を感じた。子供はまるで何も彼も知っていて、わざと悪戯(いたずら)に糅山の気を苛立たせでもしようとしているように、その手紙の表を見たり、裏返したりして暫(しばら)く手から放さなかった。のみならず今度は中味を引き出して、ちょいと披(ひら)いて読みそうな風であった。糅山はすっかり其の方へ気を捕られてしまった。

 すると幸いなことには、その時遠くの空でプロペラの音がして来たので、「飛行機、飛行機」と叫んで、彼等はみんな縁側へ出てしまった。妻も遽(にわか)に其の方へ気を捕られてしまった。

 それで糅山も漸(やっ)と助かったのであった。



                                    
 
第2回 
  2013.11.2

 それから三四日たってから、或る日糅山は、会社の帰りがけに、郊外にいる其(そ)の女の家を訪ねてみた。

 糅山がその女と交渉をもっていたのは、恐らく今から十二三年も前のことであったろう。彼はその頃三十二三の年輩で、学校を出てから、或る鉄道会社の運輸事務に係わって、着実と潔白を以て、上役に信用されていた。勿論(もちろん)彼には田舎に相当の財産もあったうえに、一両年以前迎えた妻の実家が土地の素封(そほう)であったところから、何処(どこ)の会社でも、時とすると官庁の公職に在る人たちの間にすら、昔しもそれを何(ど)うすることもできなかった通りに、今も殆(ほとん)ど賄賂(わいろ)が当然のことと認められている仲間では、彼の潔白が甚(ひど)く彼等に厄介視(やっかいし)されていたのも当然で、それだけ彼は自分の職務に自信を持っていた。

 左に右(とにかく)、彼はそう大した敏腕家というほどではなかったが、重役に信用されていたことは事実であった。彼は時々出張を命ぜられた。そして東北の或る町の定宿で、そこへ助けに来ていた、宿の親類の娘と二年越しの恋に落ちていた。

 その頃彼はまだ蜜月の甘い夢から全く醒めてはいなかったが、しかし旅へ出る度に、何かしら解放されたような秘密な安易を感ぜずにはいられなかった。勿論彼は妻から愛されてもいたし、愛してもいた。女学校出の彼の細君は、彼の重苦しい気分とはまるで反対に、気爽(きさく)で、聡慧で、自分の考えで何事もさっさと片をつけて行くという風であった。でまたそれが不思議にも糅山の気分と合致した。良人(おっと)の顔色を一目見ると何も彼(か)も判るという風であった。家庭は総(すべ)て彼女の切り盛りに委(まか)されてあった。糅山は黙ってそれを観ていたが、何うかすると自分がお客にでも来ているのではないかと思われることがなくもなかった。ネクタイの柄、帽子の色の選択は勿論、鰐口(わにぐち)の中味やポケットの底に到るまで彼の生活の全部に亘って繊細な、彼女の指頭(さしず)が敏捷に働いた。男子として、もっと深い省察や考慮を加えたいと思うところも、彼女の頭脳(あたま)は多少浅薄ではあるにしても、とにかく細かに働いた。糅山はそれに何の不安も不足もありようはなかったが、良人として妻の世話をやく余地のないのが何となく物足りなかった。そのうえ彼女は体質が余り丈夫でなかった。そして結婚後三年ごしになっても、子供が出来そうには見えなかった。勿論彼はそんな必要をまだ痛切に感じ初めてはいなかったが、結婚の当然の約束として、期待さるべき筈(はず)のものが与えられないということは、物足りない事には違いないのであった。一日女中と二人きりである細君は特にもそれを寂しく思った。

 旅館の上(かみ)さんの姪にあたる其の女は、姑の悪い性癖や、良人の優柔な気質に原因する不幸なその結婚生活に懲りて、叔母の家に身を寄せていた。彼女は雪国らしい美しい肌と、愛らしい澄んだ声と、寂しい沈んだ気分とをもっていたが出戻りとは受け取れない若さと初々しさを多分にもっていた。

 糅山が初めて彼女を見たのは、或る年の秋その辺に出張を命ぜられた時のことであったが、その鄙(ひな)びた娘々(むすめむすめ)した姿が、行く先々で、何か思いがけない掘り出しものでも出会って、甘い秘密の恋にでも有りつきたい好奇(ものずき)な空想を描いていた彼の目を惹かずにはいなかった。勿論年は年として、世間普通の結婚生活の前に、青春の夢を多く見残して来た寂しさを彼も感じていた。

 女は二十三であったが、小柄で内気で子供子供していた。そして何を聴いても、顔を紅くして、にやにや笑うきりであった。しかし糅山が一ト通り其の附近の貨物運搬に関する視察を了(お)えての帰りに再びそこへ立ち寄ったときには可也(かなり)打ち釈(と)けることができた。そして話してみると、思いのほか単純なその胸に苦労の影がさしていることが判った。彼女は一生独身で暮らすつもりだという自分の気持ちを洩らしたり、不幸な結婚生活に懲りたことを語ったりした。

「結婚生活が皆なが皆なまで不幸に了(おわ)るとも限らないじゃないか。君のことだから、また何んな好い運が向いてこないとも限らないよ。」

「そりゃあ然(そ)うですけれど、二度目はどうせ碌な処へ行かれはしません。」

 表二階の方では、三味線や太鼓の音などがしていた。勿論県官などの泊まる宿ではあったが、料理屋をも兼ねていた。仲間と一緒の時には、糅山も芸者を揚げたこともあったが、そんな事は出張先では品行は左に右(とにかく)、物質上の彼の潔白を汚すものだと思われた。で、彼は酒すら余り飲まないようにしていた。ただお品(彼女の名)の酌で一合か五勺の酒に陶酔するだけであった。彼は決して上戸(じょうご)ではなかった。旅宿の寂しさを紛らせるために過ぎなかった。

 お品の話によると、彼女の結婚生活では、思いもかけない厭(いや)な事があった。それは寡婦(かふ)であった姑が、その子息であるお品の良人を、自分に所有しておかなければ気がすまなかった。お品が白粉(おしろい)をつけると気に入らなかった。夜早く寝ても機嫌が悪かった。そして其れが段々極端に走って行った。良人はお品以上に憂鬱になった。ここから十里も山の彼方にある或る大きな精米所の持ち主が、彼であった。彼の家は可也(かなり)豊富(ゆたか)であった。彼は終いに夜遊びを覚えた。そして或る一人の女に溺れて行った。そして其れがまたお品の不束(ふつつか)から来たかのように、姑は彼女を憎んだ。良人は有り金を懐にして家を出ると、幾日も幾日も帰らなかった。辛いことや口惜(くや)しいことが、一年の余りも続いた。死を思ったことも、度々であった。お品は終いにそこを逃げ出して来たが、結婚生活を呪う心が、一層彼女を憂鬱にした。

 糅山は彼女を慰めた。




 


第3回
   2013.11.15

 翌年の二月彼はまた其処(そこ)を見舞った。お品のことが不思議に気にかかった。寂しい沈んだ愛らしさをもっている彼女の切れ長な目や、銀杏(いちょう)返しに結った蠟塗(ろぬ)りのような黒さをしている髪や、白い肌や――そして何をするのに少し粗雑で、野鄙(やひ)ではあるけれど、それだけ素朴な様子が、彼の心に不思議な愛執を残させた。

 「あの女は何うしたろう。」糅山は時々憶い出しては、淡い懐かしさに浸っていた。何か彼女の要求に、恕察(おもいやり)のなかった自分の冷ややかさが咎められるようにも思えたし、自分の臆病を笑いたい気もしていた。

 町は雪が積もっていた。宿は闇閑寂としていた。糅山は置く二階で炬燵に埋もれながら、晩酌をやったのであったが、お品がやっぱり出て来た。

「君はやっぱり居たんだね。」糅山は懐かしそうに言ったが、お品も嫣然(にっこり)していた。そして三月(みつき)も四月(よつき)も隔たっていたことが、反って二人を飛躍的に打ち釈(と)けさせた。

 お品は丸々肥(ふと)っていた。皮膚が肌理(きめ)の好い大根のような艶々しさをもって、澄んだ目が春の星のように、潤いをもっていた。秋の頃の憂鬱は影は亡くなって気分が明るくなっていた。

 糅山は雪がふるので四五日そこに逗留していたが、或る晩などは霄(よい)の口から芸者を揚げて、東京の流行歌などを謳った。そして其の芸者が帰って行ったあとに、彼はひどく酔い潰れて、お品に世話をやかせた。

 お品が東京へ出て来たのは、その四月、山国の雪の融ける頃であった。上野の宿から会社へ電話のかかって来たときには、彼も同僚に散々冷やかされて、顔が真紅(まっか)になった。とにかく彼は宿を訪ねた。勿論東京へ来れば、棄てはおかないつもりだからと、彼は別れる時約束の辞を遺して来たのではあったが、困惑を感じない訳にはいかなかった。

「それで何う言って家を出たんだね。」糅山は不安そうに訊いた。

「上(かみ)さんに僕のことを話してしまったんじゃないか。」
「いいえ、ただ貴方のお世話でどこかお屋敷奉公をする積もりだという話にして来たんです。」お品は応えた。

 とにかく暫く東京に留めておかなければならなかった。そしてお品の言うとおりに、質素にさえ暮らすならその仕送りをするのは、彼の今の生活に取って、さして困難なことではなかった。彼は隠れ家を準備しなければならなかった。それにはちょうど以前下宿していた家のお上が、今は商売を止めて、娘に養子をして、富阪あたりに静かに暮らしていることを想い出した。彼は善良な妻に対しては、罪囚のような後ろ暗さを感じつつも、その秘密な隠れ家に足を運んで行った一年ばかりの月日を何んなに幸福なものに思ったか知れなかった。女はそこから裁縫学校なぞへ通わしてもらっていたが、それ以上のことを何一つ望みはしなかった。彼女は糅山に愛せらるることを、身に余る光栄とも幸福とも思っていた。 

 糅山はしかし終(つい)に苦しくなった。思い荷が始終肩にかかっているような気窮(きづま)りを感じた。勿論彼としては女の長い生涯を考えずにはいられなかった。

 或る日彼はその秘密を一切妻に浚(さら)けだして、罪を詫びると同時に、その処置について彼女の判断を仰いだ。

 糅山の為(し)たことについて、妻は決して怒りはしなかった。のみならず優しい同情をさえ彼女に払うことを惜しまなかった。

「その人に若(も)し子供でもできたら、それほど好いことはないじゃありませんか。」妻はそんな風に応えた。

 糅山はそれに感謝しずにはいられなかったが、妻に加える苦痛よりも自信の苦痛の段々加わって来るのを、何(ど)う為(し)ようもなかった。子供の出来る時のことを想像すると一層恐ろしかった。

 彼はその年の暮れ、優しく女を説諭(さと)して田舎へ帰してしまった。

 涙ながらに汽車に乗った彼女と別れて、ステーションを出て来たとき、彼は初めて吻(ほっ)とした。




第4回 
 2013.11.23

 糅山はこの十余年を、お品が何(ど)ういう風に暮らして来たかを知りたくもあったし、何んな女になったかを見たくもあった。勿論(もちろん)解放された彼女の生活が幸福であるのか不幸であるのか、それも時々気にかかっていた。別れた当座一二度手紙も来たのであったが、糅山はそれに対して、通り一遍の返辞を出すに過ぎなかった。勿論妻以上にも彼女を愛することができたならば、二人の関係は永く続いたかも知れなかった。然(しか)し其(そ)の愛の永く続かないことが、直(じき)に解って来た。そして其れは単に妻の前に自分を甚(ひど)く窮窟(きゅうくつ)なものにするに過ぎなかった。それに其の後手術をしてから子供が妻に産れて、それからひたひたと四人も産れた。

 広い郊外の町を彼は尋ね尋ねして漸(やっ)とその家を捜しあてた。そこは町はずれの寂しいところにある小さい平屋で、植木屋の門のなかにある借家の一つであった。

 糅山は、その入り口の格子戸のなかにいる四つばかりの男の子の顔が、どこかお品に似通っているのに気がついた。澄んだ彼女の目と、丸味のある鼻つきが、憶い出せた。子供は余り好い身装(みなり)をしていなかったが、其の辺に遊んでいる子供のようには卑しく見えなかった。

 内へ声をかけると、障子陰に女の姿が動いて、長みのある、色の黝(くろず)んだ陰鬱な顔が、そこへ現れた。糅山は見それてしまった。そんな顔をば、彼は期待しなかった。あの娘々(むすめむすめ)した若々しさはないにしても、美しさはそれなりに何等(なんら)かの形に於いて保たれている筈(はず)だと想像していた。勿論お品はお品であった。目にも眉にも鼻にも口にも、昔(むか)しながらの面影は微かに残されているには違いなかった。ただ年月が、すっかり其の若さを吸い取ってしまった。丸みをもった顔が糸瓜のように間延びがしていた。その上ひどく陰鬱になっていた。

 「入らっしゃいまし。」彼女はそう言ってそこに手をついたが、あの何の臆気(おくき)もなく、人を見あげた澄んだ目の潤いはどこへ行ったのであろう。

 糅山はこの瞬間、訪ねて来た軽率を悔うるより外(ほか)なかった。為方(しかた)なく彼はにやにやと、人の好さそうな笑い方をしていた。

「上がっても可(い)いの。」

「え、私手紙は差し上げましたけれど、後で何だか悪いことをしたように思って、心配していました。それでも能(よ)うこそ。」

 そして彼女は座蒲団(ざぶとん)を持ち出すと同時に、鈍い目で彼を見たが、暗いその目が彼に好い感じを与えなかった。

 その上彼女は、髪も乱れていた。顔の地肌も荒れて、白粉気(おしろいけ)もなかった。その日は立ち返って蒸し暑い陽気であったので彼女は浴衣(ゆかた)を着て、伊達巻(だてまき)一筋という、不検束(ふけんそく)な風をしているのが、一層彼を不快にした。

 子供は上へあがってくると、じろじろ彼の顔を見た。

「こんな子があるんだね。」糅山はお愛相を言った。

「え。」お品は急いでお茶の支度に取りかかりながら、「他に一人女の子があるんですけれど、それは田舎においてございますの。貴方はお子さんは……やっぱり御座いませんの。」

「ある。」糅山は笑いながら言った。

「お幾人?」

「四人。」

 お品は別に驚きもしなかった。そして慵(だる)そうな鈍い声で、
「じゃ奥さんをお替えなすったの。」

「なぜ。」

「貴方の奥さんはお弱かったじゃありませんか。」

 糅山は別に説明もしなかった。彼は雪の夜、板戸に吹きつける吹雪の音を耳にしながら、彼女と甘い恋を私語(ささや)いたことを思い出していた。東京の隠れ家で、十時頃にはきっと帰ることにしていた自分が、媚(なま)めかしい姿をした彼女と別れを惜しんだことを憶い出した。清(すが)しかった愛らしい彼女の目、玉のように白かった彼女の皮膚、手、足などを想像してみた。それらの若々しさ、瑞々しさは今の彼女のどこにも求められなかった。滞(よど)んだような皮膚の色、肉のたるんだ目元口元、そして厭(いや)らしく衰えた頸元(えりもと)や寂しい耳のあたりが、訳もなく不快に感ぜられた。

 でも磨硝子(すりがらす)のはまった茶箪笥のなかから、菓子を取り出している彼女の後ろ姿には、まだ何処かに彼の心を惹きつけた。細(ほっ)そりした体の軟(しな)やかさがあった。声とてもお品の声に紛れもない、沈んだものであったが、妙に濁りを帯びていた。

「よく入らして下さいましたことね。わたし迚(とて)も駄目だと思っていたんですよ。」

 お品はそう言って、さも懐かしそうに初めて糅山の顔を仰ぎ視(み)た。

「貴方ちっともお変わりにならないようでございますわ。それでも何処かにね。」
お品は寂しい微笑を浮かべた。

 糅山の目にも、その頃の自分と今の自分との自然の相違がありあり浮かんで来た。彼は何となく寂しくなった。

「私随分変わりましたでしょう。」

「為方(しかた)がないじゃないか。生身のことだから。」糅山は笑った。そして彼女の面影を捜そうとして、その顔を凝視(みつ)めたがそれは余りに痛ましい変化を明白(はっきり)させるに過ぎなかった。

「あなた矢張りあの会社へおいででございますの。」

「けど方面がちがうから。君はあれから何うして暮らしていたの。」

「私ですか。」お品は寂しく笑ったが、「私の身のうえにも色々のことがございましたわ」と言ったきり、それを話そうともしなかった。

「いつ此方(こちら)へ来たんだね。」

 お品はちょっと紅くなった。

「もう暫(しばら)く居りますのよ。尤(もっと)もこの家へ来ましたのは先月でございますけれど……。」

「それにしても、君は独りじゃあるまい。」糅山は落ち着かない気分で訊いた。急に気になり出して来た。

「私?」お品は煙管(きせる)で莨(たばこ)をふかして、「私また棄てられたんですわ。」

「旦那に。」

「え、二度も三度も。」

「結婚した?」

「結婚もしましたし……」と、お品は鼻と口元に皺を寄せて、「貴方に棄てられてから、そういう癖がついてしまったのよ。」

「それで今は……。」

「今は独身なんですの。」お品は落ち着きはらった態度と、ねちねちした調子で、「そんなにおどおどしなさらなくても可(よ)ござんすよ。大丈夫なんですよ。」

 糅山はにやにやしていた。

「それよりも、貴方お夕飯は。何か取りましょう。何が好うございますの。田舎のことですから、お口にあうような物は迚(とて)もございませんけれど、私一昨日も昨日も、御馳走してお待ちしていたんですわ。」

 実のところ糅山は彼女に逢ったうえ、どこかへ引っ張り出して久しぶりで何か食事を倶(とも)にしようなどと考えていたのであったが、それも興味がなくなった。勿論彼は空腹を感じていた。

 やがてお品は町まで買い出しに行くために、自分にも着物を着かえたり、子供にもエプロンを取り替えさせたり、帽子を冠せたりした。彼女が好きそうな柄のセルの単衣(ひとえ)を着て、きりりと羽二重の紋の帯を締めたとき、そこに初めてお品らしい姿の美しさが、多少装われて来た。

「私あの時分貴方に拵(こしら)えていただいたお召しのコートを、つい二三年前まで持っていましたわ。あの片(きれ)がまだございますのよ。貴方がほんとに善く似合うと言って下すったこと覚えていますわ。」

「ほう。」と、糅山は彼女をそらすまいとするように笑を浮かべて、「あの時分はほんとに若かったからね。」

 直(じき)に夜になった。お品が註文して来た仕出しが来たところで、彼女が買って来たビールの口がぬかれて、そこに三人の飲食が始まった。塩焼きや、お汁や、野菜の煮たものなどが、餉台(ちゃぶだい)のうえに並んでいた。お品はコップに二杯も三杯も麦酒(ビール)を飲んだ。そして腹のくちくなった子供がそこに倒れる頃には、彼女の調子もいくらか燥(はしゃ)いで来た。年増らしい寂しさの媚めかしさと、廃頽的な無恥の醜さが、糅山に長くそこに足を止めさせなかった。





第5回(最終回)
 2013.12.3

 一週間ほどたってから、糅山はまた彼女の話を聴くべきその家を訪ねた。彼はまだしみじみ話を取り交わす隙(ひま)がなかった。

 が、しかし其(そ)れは要するに彼の幻滅と嫌厭とを深めるに過ぎなかった。

 で最近彼女が流転していた東北の町で、ふと昵(なじ)みになった或る鉱山師が今の彼女の旦那であったが、それも経済界の恐慌で彼女を持ち切れなくなったところから、神田の方から此の郊外へ引っ越してきてひっそり暮らすことになったのであった。その男とも前の月に手が切れて、彼女は幾許(いくら)かの手切れをもらって、田舎へ帰らなければならない運命にあった。

 子供はというと、それは今の旦那の世話になる前に片着いていて、死に別れになった良人(おっと)の忘れ片身だというのであった。

 とにかく糅山は今一度彼女を訪問すべく約して、二度目に彼女と別れたのであったが、何時(いつ)出向いて行くという日もなくて其れきりになってしまった。




     (完)



◎八木書店版『徳田秋聲全集』第13巻の本文を底本に、現代的仮名遣いに改め適宜補訂を行なった。
  初出:大正9年11月1日(「改造」第3巻第11号)









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