不定期連載

「髪」


 第1回
   2014.7.18

 お栄が髪を気にしだしたのは、何時(いつ)頃からのことだったろう。多分彼女が祐吉の双鬢(そうびん)に白いものが、目に立つほどになってから、幾許かの歳月が経ってからの事であろう。

 祐吉の鬢に白髪が目につきだしたのは、十二三年も前のことであったが、多い黒い髪の数に比べてはまだ九牛の一毛というくらいの程度であった。

「大分目に立って来ましたよ。」お栄がそう言って、彼の白髪を抜いたりするようになったのは、それから三四年もしてからであった。

「大分白くなりましたね。」

 行きつけの床屋の親方が、バリカンと櫛をもって、後ろへまわってそう言いながら、ぐっと周りを短く刈り込むことにしてくれたのは、それからまたまた少し年月がたってからであった。

 毛の白くなるということは、迅速のようで其(そ)の実ずいぶん緩慢なものであった。二つしかない目は左(と)に右(かく)として、歯なども祐吉は幼少のおりから奥の方を蝕まれ、それから幾年目おきかに、一本くさり二本くさりして、三十代のおりにはもう三本も抜いてしまっていた。医者にかかって綴(つづ)くり普請(ふしん)をしたことも度々であったけれど、年を取っても、そのわりにはそう大して酷いことにはならないのであった。髪もそれと同じで、一夜のうちに鬢が白くなるというような事はなかった。髪は気づかないうちに、漸次(ぜんじ)に少しずつ彼を老年に導くのであった。

 お栄は度々お産をしたので、歯はずいぶん酷くなっていた。今では自然の歯は少ないくらいであったが、頭髪が少し禿げかかって来たのは、祐吉の白髪と大抵同じくらいの時期であった。

「わたし随分禿げましたよ。」

 祐吉はその頃から、屡々(しばしば)それを聞かされた。

「禿げたっていいじゃないか。」

 祐吉は初めのうちは、そう言って笑っていた。少しくらい頭でも禿げた方が、生活気分に諦めと落ち着きができて、いくらかしんみりした気持ちが出て来はしないかと、寧ろそれを好いことに考えたくらいであった。勿論お栄とても、そう無闇に娑婆気(しゃばけ)の多い女でもなかったし、尚また祐吉の仕事に妨害を与えるほど派手でもなかった。贅沢だとか金使いが荒いとか云う側では尚更なかった。多少の虚栄と、服装なぞの趣味はもっていたけれど、それは都会の女が普通誰しも持っている程度のもので、祐吉の生活を破壊するとか、家政を紊(みだ)すとかいうような不検束(ふしだら)なところは認められなかった。晴れ着一枚作るにも選択がずいぶん熱いと同じように、作らなければならない場合には、ずっと前から其(そ)れとなく祐吉に匂わせるというくらい用心深いのであった。祐吉もこの女から着物の趣味を封じることは、残酷だと思った。余り目に立たない程度で、身装(みなり)のたしなみをもってくれることが、寧ろ望ましかったが、余り好い顔ばかりもしていられなかった。それは彼女のものに限らず、祐吉自身のものや、子供達のものについても同じであった。お栄は時々どこそこで祐吉に似合うような何を見つけたとか、余程買おうと思ったけれど、叱られるから止めたというようなことを善く口にしていたが、祐吉が着物を作ろうといえば、いつでも悦んで賛成した。祐吉も身装ではずいぶん恥ずかしい思いをしたこともあったので、余り無頓着ではいられない方であったが、絶えずお栄を圧(おさ)えつけておかなければならないような気がしていたので、誰のものに限らず、一応は制限を加えておかなければ気がすまなかった。それにお栄は少しきちんとしすぎる感じもあった。同じ着るにしても、もっと無雑作にしてほしいと思ったが、それがまたお栄にはちっとも似合わないのであった。

「おれはそんな贅沢なものは着ないよ。短い一生に着物なんか着たって仕方がないじゃないか。」いつでも祐吉はわざと言った。

 子供のものとなれば、彼は一層頑固であった。そして折目のある切り立ての着物が大嫌いで、垢でべとつく着物の方が好きであった自分の少年時代を、直ぐ引き合いに出した。今から思うと、祐吉の育ってきた頃は、家が零落(おちぶ)れていたし、父や母がそんな事に無頓着――というよりも乱次(だらし)のなかったことが、彼にもしみ込んでいるので、お栄の遣(や)り方の方が総(すべ)てに妥当であると思われるのであったが、でも几帳面で、多少の趣味性があるだけに、お栄の遣り方が、着物に限らず、総てに於いて無駄でないまでも、少し気がつき過ぎる感じであった。そんな外面的のことよりも、お栄に注文したいことが沢山(たくさん)あった。もっと生活を淋しく、気分を落ち着けてもらいたかった。けれど今更それを注文したところで仕方がなかった。

 祐吉は或る時お栄の頭の禿(はげ)を見た。ちょうど髪結いが髪を釈かしたところで、前髪を取りあげる踊りのあたりが、直径一寸の余りも毛が殆(ほとん)ど生えていなかった。

「成程(なるほど)少し禿げて来たね。」祐吉は笑った。

「禿げてるでしょう。」お栄は気が引けるように言った。

「でも此のぐらいはね。こちらの奥さんなんか未だ好い方ですよ。」髪結いが言った。

「緑屋のお神さんなんか何(ど)うでしょう。私よりか若いのに、ひどい禿げ方ですよ。あんなに縹緻(きりょう)がよくて、毛も好い毛なのにね。」

「若くてもずいぶん禿げてる人がありますよ。」

 祐吉はいつも見馴れているので、さほど気にもならなかったけれど、彼女の髪は年々悪くなっていた。少し長めな揉みあげが、いつとはなし消えてしまったのは、もう余程前のことであった。蠟塗りのような黒さをもっていた毛も、お産の度毎(たびごと)に色が悪くなると共に顔の相が変わるほど抜けた。抜けたあとからまた細い幼毛のようなのが生えはじめたりしたが、何といってもお産の度ごとに、歯と髪から彼女の若さが逃げていった。






   

第2回
  2014.7.26

 お栄の頭は、しかしそう際立つほどではないにして、年々いくらかずつ禿げの部分が拡がって行く訳であった。そして禿げたところへ貼るように工夫された羽二重の裂(きれ)を用いたりしたこともあったが、それも頭がむれて、気分に障るので、辛抱ができなかった。勿論髪をちゃんと結っておれば、前髪の下になるので目に立ちもしなかったが、禿げが大きくなるにつれて、毛の色が悪く、鬢(びん)の薄くなるのが、お栄に取っては一等辛いことであったと同時に、祐吉の彼女に対する全体の感じにも、浅ましい幻滅に似たような間隙が生じない訳に行かなかった。髪と云う異様な蔽いものに飾られて、しかも毛の質が悪くても何でも、前髪を立てたり、鬢を脹(ふく)らませたりすることによって、頬の欠点が蔽われたり、余り尋常にできているとは言えない頬骨や耳や鼻の欠点が調節されたりしていたお栄の顔に取っては、その天然の装飾物が滅びかかって来ては、何(ど)うにも始末が悪いのであった。若い時分は線の柔らかみもあって、目立たなかった顔の骨格が、年を取るにつれて硬張って来て、前髪や鬢を脹らませない、たとえば束髪や引結髪のような場合の彼女の顔は、それが丸髷である場合には、生き生きとしている目その物すらが、不思議に美しさを失って、顔の生来が全く消されてしまうのであった。それで顔ばかりでなしに、そういう時の彼女は、性格その物までが、今迄の情味と晴れやかさを失って、悪い生地が露骨に出てくるような感じであった。そして祐吉のその感じ方が、またまた彼女の神経に反映しないではおかないので、彼女の表情や態度からは、女の媚態というようなものが一切消されてしまって、ただ硬化した骨張ったものが、そこに残されてあるだけであった。勿論お栄の丸髷も、毛の質が悪いところから、長くはもたなかった。少し水々して見えるのは、結い立ての一日だけであった。一と晩たつと、後ろの鬢が割れたり、前髪がぐしゃぐしゃなったりした。そして其の間際水々していた目までが、張りを失って来るのであった。

「厭な毛だな。」

「え、猫毛ですもの。それに菎蒻頭(こんにゃくあたま)で、禿げたところへさわると、ぶくぶくしているんですよ。」


「丸髷なんか止(よ)して、束髪にしたら可(い)いじゃないか。」

「束髪は似合わないんですもの。」

「何か似合うのがありそうなものじゃないか。」

「前に結ってた事もあるんですけれど、年取ってからは何うしても映らないんですもの。でも仕方がないから、そのうち束髪にしようと思います。」

 そう言っても、お栄はやっぱり束髪に親しみがなかった。一つ長く結いつけている髪結いが、束髪が下手で、それかと言って其の髪結いを止(よ)してしまうのも気の毒だったので、思いついて束髪に結ってみても、ついまた丸髷に返ってしまうのであった。お栄は丸髷の結い立てだけは、何んなに気分の悪いときでも、生まれかわったように生采(せいさい)が出て来て、初めてお栄らしいお栄になるのであったが、それが少し崩れだしてくると、またすっかり可(い)けなくなるのであった。祐吉はそのぐしゃくしゃした髪を見ると、彼女の表情や気持ちまでが凋(しな)びたように感じて、気がむしゃむしゃした。引き結いや束髪もいけなかったが、丸髷の崩れたのは、一層可(い)けなかった。それは彼女の毛の悪いためばかりでなく、その重苦しい髷の形が、現代の生活の生活気分とふさわないからでもあった。彼は七三や耳隠しを、そう特別に新しい髪だとも思わなかった。丸髷のように堅苦しくないものだったら、洋風の髪と共通点のある昔し風の意気な髪の方が、どのくらい日本の女を美しく見せるか知れないと思った。髪が女の生命であることを善く知っていた昔しの女の方が、余計髪の結い方に気を使ったに違いないのであったが、しかし新しい髪には矢張り清新な時代の感覚が溌剌(はつらつ)として漲(みなぎ)っていた。時代の若さをお栄に求めることは出来ないにしても、いくらかでも扮装(みなり)をお品よくすることによって、生活気分を高めたいと望んだ。それがお栄自身が痛いほど感じているとおりに、彼女の一番の弱点は学校的な教養のないことで、そのためにお栄の生活気分が、何(ど)のくらい萎縮していることか判らなかった。勿論教養のない割りには、世事や人情にも理解もあった。頭脳(あたま)も働いた。祐吉に取っては、なまじっか教養があるよりも寧ろ無い方が、好い場合もあったけれど、それは大抵目の先の些(ささ)やかな事柄に目端が利く程度のことで、人間として、女性として、家庭の主婦、多勢の子供の母として、人格的中心のないのは、矢張り物足りなかった。祐吉は今更彼女に向かって、食物の溢量(いつりょう)だとか成分だとか、ビタミンやカルシュームに関して智識をもってもらいたいとは思わなかったけれど、今少し向上的で努力的であっても可(よ)い筈だと思った。彼女の弱い退嬰的な気質としたら、家庭に苦難が襲ったとき――たとえば祐吉の死後、多勢の子供を引き受けたとき、悪いことや醜いことはしないにしても、子供たちを力づけ励まして行くだけの気概があるか何うかは疑わしかった。彼女は子供のために、頭の天辺から足の爪先まで、余り気がつきすぎるのであった。子供達を試煉にかけるようなことは、何一つ気をつかわないのであった。

「お前は己(おれ)が死んだら、ぐしゃぐしゃになってしまうだろうよ。」

 祐吉は言った。


「でも愈(いよい)よとなれば私だって……。」

 お栄は答えるのであった。


 祐吉はしかし、困難を乗り切るだけの勇気が、彼女にあろうとは思えなかった。ちょうど彼女の母が、朝から晩まで洗濯や襤褸(ぼろ)いじりに働きづめで、子供たちの身のうえについて肝腎のことは何一つ考えてやらなかったように、また彼女の父が、頭脳が利くかわりに大の無精ものであったように。そしてお栄の性格には、その顔や体質がそうであるとおりに、その双(ふた)つのものが混じり合っていた。

「滅びゆく種族!」祐吉にはそうも思えるのであった。

 勿論祐吉自身の種族にも、澆季(ぎょうき)的なものが左右(とかく)多かったし、お栄の種族にも、繁栄を矜(ほこ)っているものが多かったけれど、お栄一人だけ言ってみれば、祐吉が手を放せば、他愛もなくぐしゃりと崩れてしまいそうに思えてならなかった。それが光子の死とともに、漸(やっ)と祐吉にわかって来るまでには、祐吉の頭脳には、妙に勝気な張りの強さが、いつも彼女を対等に扱わせていた。それは愛の問題であるとさえ思われた。そして彼はそのために悩み苦しんだ。二人の間に劇(はげ)しい争闘が続いた。彼は彼女を占有することができないのに悶えた。抱擁力が乏しかった。彼女の性格を理解しえなかった。今祐吉は彼女を知ることができて来たと同時に、年と共にヒステレカルになって来た、本質的に湿(うるお)いと感傷性の乏しい彼女の骨張った性格が、髪の薄くなった頭が、段々其の大切な掩護(えんご)から剥ぎ出されて来たように、著しくその醜さを見せて来た。髪と頭と彼女の性格とが、交互的に彼女の若さを失って来たことが、露骨に現れて来た。





 
第3回
   2014.8.16

 しかしお栄がその大切な掩護物(えんごぶつ)を、全く諦めてしまうには、まだ大分の歳月がかかるだろうと思われた。ちょうど祐吉の髪が、もう余程前から白くなりはじめたに拘(かか)わらず、白が黒を征服しきってしまうまでには、まだいくらかの歳月が要するであろう。と同じに、彼女もまだ彼女の道楽である手絡(てがら)の必要がなくなるまでには、唯一の頼みである丸髷を幾つか結うであろう。結う度に、彼女の髪は、幾本ずつかの毛根が衰え失せて、遠い過去の幻影が鏡のうえに萎びていくことであろう。

 晩に茶の間で、子供たちが紅茶なんかを入れているときなぞに、時には髪の話も出るのであった。長男の芳男が、もうその問題とは没交渉ではなかった。

「どうもお前の毛は少し怪しいね。」祐吉は皮肉な微笑を浮かべた。

 芳男はもう大分前から、それを気にして髪の手入れを相当にやっていた。
 芳男は少し不機嫌な顔をして、頭へ手をやった。

「そんな毛はもっと短く刈った方がいいじゃないか。」

「短くですか。けど、どうも毛の悪いには、何うにも。仕方がないさ。床屋でも早く禿げる頭だと言うのさ。」

「家じゃ大抵毛がわるいね。毛性のいいのは道次くらいのものじゃないか。」

 そんな時はきっとお栄の頭へ、皆んなの目が移った。

「でも貴方もずいぶん薄くなりましたよ。」

「薄くなったね。そのうち禿げるだろう。白くて禿げるのは汚いね。」


「日の当たるところで、地がすけて見えますよ。貴方もそう好いって毛じゃないんですね。」

「そりゃあ毛にも色々あるさ。」

「まあ濃い方さ。少し濃すぎるくらいだ。」芳男が皮肉そうに言った。

 祐吉も毛が棕梠(しゅろ)の毛のように、大分前からばさばさして来たことに感づいていた。後ろの方へバリカンが入ると、繁みの深い密林へ風が通るように、冷ややかな外気がすうと頭の地にさわって、気持ちがせいせいしたのは、つい此の頃のように思われるのであるが、それももう十二三年も昔しのことであった。床屋の親方から、「大分お白くなりましたね」と言われてからも、十年近くにもなっていた。

 お栄はどうかすると、祐吉の頭へ手をあげて、ちかちかする白髪をぬいたりしたが、彼自身は余りむさ苦しくならない程度で、散髪は比較的気をつけるようになっていたが、白くなるのが格別気になると云うほどではなかった。孰(いずれ)にしても大した差違はなかった。ただ生活気分を、頭脳にふそうようにしたいと希(ねが)うだけであった。いつまで経っても、子供々々しているように思えてならなかった。

 毛の話が出ると、死んだ女の子の噂がきっと出た。目を瞑った朝、誰れかが来て釈(と)かした大人のようなたっぷりした黒い彼女の髪が、蒲団から畳のうえに、長く這っていたことを、祐吉はいつも憶い出すのであった。

「あの毛をおいていってくれたらね。」お栄は溜息まじりに言うのであった。

 しかし死者のことは、お互いに遠慮し合って、不断は口にしないことにしていた。その死を思うと、誰も彼も息がつまるようであった。祐吉は殊にもそうで、いつになっても鳩尾(みぞおち)が痛みだして、脳貧血を起こしそうであった。取る年と共に堅いしこりが胸先へ出来そうに思えた。

「しかし禿げるということは、何(ど)んな人でも辛いものと見えて、禿げてる人は一本の毛でも大切そうに撫でつけているからな。」

「禿(はげ)と白髪と孰(どっち)がいいかな。」

「禿の方がいいね。さっぱりしていて、愛嬌があって。白髪頭も人によっては老蒼の気があっていいけれど、顔にもよりきりだからね。」


「しかし是からの人が、みんな早く禿げるようだね。西洋人なんか大抵毛が薄いけれど、好い顔をしてるから可笑しくないけれど、日本人は滑稽に見えるからな。」

「肉食すると早く禿げるんじゃないか。アルコール性のものなんか、無暗(むやみ)と振りかけるのも、地が焦げて却って好くないんじゃないか。髪の手入れなんか、余りしない方がいいんだ。」

「しかし禿げるものは、何うしたって禿げますね。」

「お前なんか今から地が透いて見えるとすると、谷さんの年頃には随分禿げるだろうな。」

 谷はよく来る親類の青年であった。

「谷さんずいぶん薄くなりましたね。あの人があんなに早く禿げるとは思わなかった。」お栄が言った。

「禿げたっていいじゃないか。気にしたって仕方のないことだからね。」

「男は孰(どっち)したってね。高木のように、足が毛むくじゃらだと言って、お婆さんに怒るのも変だね。」

 高木はお栄の弟で坊さんであった。

「高木の叔父さんも頭が禿げだね。ずいぶん気にするんだよ。」

「三十くらいでね。坊主だからいいようなもんだけれど。それよりお前のお友達が、君の眉毛は薄いねと言ったのが、何う考えても可笑しくて為様(しよう)がない。げじげじのような此の太い眉毛が目に見えないのかね。」お栄はそう言って、堪らないように笑った。

 そうしてみんなの眉の品評が出ると、そこでまた死んだ此の半月なりの、長く目尻へ引いた眉毛のことが噂に出た。

「けれど何が辛いと言って、女は毛の悪いほど辛いことはないですね。」

「お母さんなんかもう可(い)いじゃないか。」

「でも、幾歳になっても、毛は大事ですからね。若いうちは毛が少しくらい悪くたって
可いさ。年を取ると目に立ちますからね。」


「けど、芝居なんか行ってると、生え際へ何か貼っている婆さんなんか、それがぴかぴか光るんでね。」

「え、鬘(かつら)かぶってる人もありますよ。お母さんなんか、あんなになるまで生きていたくないと思うね。誰も一緒に歩いちゃくれないだろうからね。そうかと言って、染めるのも厭だし。ずいぶん勧められたけれど、一度染めると、始終染めていなきゃあならないからね。」

 お栄は近所の細君に、髪を染めることを善く勧められた。その楽品についても、色々講釈を聞かされていたが、染めてしまうのも惜しいような気がした。

「でも私なんかまだ好いんですよ。猫毛だから可(い)けないけれど、まだ髪が結えないというほど薄くないの。緑屋のお神さんなんか、毛並はいいんだけれど、もうすっかり薄くなって結うのに大変な細工をするんですよ。禿げだって私なんていうもんじゃない、もう髷(まげ)の引っかかりもないんですからね。そりゃあ可笑しいんですよ、あの人娘さんがなくなってから、よく旦那と方々お詣りをして歩きますからね。去年は身延へ行ったり、その前の年はお伊勢さま。それから讃岐の金比羅さまへもお詣りしたりなんかして、始終方々旅をしているんですよ。やっぱり淋しいんですね。」

 その娘さんが、本郷座で芝居見物中、頭脳がぐらぐらして、担ぎ出す間もなく死んだのは、もう十二三も前のことであった。長唄なんかの旨かった、愛らしいその娘さんを、祐吉たちはお河童さんの時分から知っていた。その日彼女は母親と二人で、平土間の前の方で、幕のあくのを待っていた。そして序幕があくと程なく、何だか気分が変だと言って、お茶を呑みたがった。土瓶(どびん)がちょうど殆(ほとん)ど空(から)になっていた。母親は有るだけ絞ってやった。娘さんはその茶碗を手にしたまま、母親の膝に崩れ折れかかったきり、永久に口も聞けず、目も開かなかった。それは心臓麻痺であった。緑屋というのは、その父親の食料品店の屋号であった。

「それにあの人、この頃着物なんか好いものを随分拵(こさ)えるんですの。春とか秋とかには、きっと何処かへお詣りをして、今年は高野山へも登るつもりで、途中京都見物をしようと思って、御夫婦で立ったんですの。ところが何(ど)うでしょう、汽車のうちはまだ可(よ)かったけれど、京都へついて宿屋まで自動車に乗っているあいだに、折角(せっかく)骨折って結った髷が、立ったとき天井に閊(つか)えたとか何うとかで、すっかりへたばってしまったんですって。頭の地へ裂(きれ)を張ったり何かして、それに前髪や髷を惹き付けてあったんだから堪らない。その裂が汗で剥がれかかっていたところへ、髷を天井へ引っかけたものだから、ずるりと禿げてしまって、何うにも始末に行けなくなってしまったんです。あれは結いつけているお菊さんでなければ結えない髪だし、旅のことではあるし、一晩宿屋で泊まったきりで、何うかこうか自分で間に合わせに始末をして、その翌朝すぐ京都を立って帰って来たんですって。その話をして涙を出して笑っているんですの……あの人も生粋の下町っ児(こ)で、あのとおりの意気づくりですから、束髪という柄じゃありませんしね、毛の好い人を見ると、癪にさわって仕様がないんですって。」

 お栄はこれも涙をふきながら、堪らなそうに笑って話すのであった。

「だから私なんかも京都見物でもさして下さるなら、今のうちですわ。」
「ああ何時(いつ)でも。」
「行って来たら可いじゃないか。」
「でも、そう行きたいと思いませんね。倉田のお姉さんのように、いっそ丸坊主になってからの方がいいかも知れませんね。」

 倉田の姉というのは、祐吉の嫂(あによめ)であった。彼女も髪の薄いことでは、人に負を取らない方であった。祐吉はいつか田舎へ帰って、しばらくそこへ逗留していたときも、彼女の来遊を勧めた。しかし彼女もうっかり旅へは出られない。特別に手数のかかる頭の持ち主であった。毛が黒いので、ちょっとは気がつかなかったけれど、能(よ)く見ると、疎(まば)らな髪の隙間隙間から、墨の色が黒く透けて見えるのであった。彼女は逢う度に、いつか祐吉が案内した歌舞伎のお礼を言うのであった。その時彼女は兄と一緒に、養嗣子夫婦の赴任している四国から大阪京都を見物して、東京を訪問したのであった。そして暫く兄が泊まりつけの芝の旅館に逗留していた。それきり彼女はどこへも踏み出さなかった。

「私ももう一度東京へ行きたいとは思いますけれど、何分こんな頭ですから、土地から離れられないのでございますの。」彼女は言うのであった。

 芳男はこの休暇に、弟と二人で祐吉の郷里を見舞った。そして一週間ばかり伯父さんの家に泊まっていた。祐吉はその時も、嫂(あね)に伝言させた。

「何しろあの几帳面な人でしょう。口の利き方が莫迦(ばか)に落ち着いて叮嚀なんですから、僕がお遊びにいらっしゃいと言うと、あの調子で、更(あらたま)って、伺いたくても伺えない訳をお話ししましょう、どうかお気持ちを悪くなさらないようと言うので、あっても極まりが悪いから、まあこの毛を剃ってしまう年頃になったら、寄せていただきますって、まさか三十分もかからなかったけれど、叮嚀に細かい話をするのさ。あの伯母さんなかなか話が面白いんですよ。田舎の親類の人は皆な窮窟だって言ってるけれど、僕はあの伯母さんが一等好いな。」芳男は話すのであった。





第4回
 2014.9.10

 お栄が、前髪のあたりに時々白髪を発見して、すっかり気を悪くしてしまったのは、つい今年へ入ってからであった。

「私白髪がぽつぽつ出て来たんで、厭になってしまった。」
 彼女はそっと祐吉に告げた。


 彼女はそれが始終気にしている咽喉(のど)の腫れ物や持病の腎臓どころの驚きではなかった。忌避していた近年の重ね重ねのお産よりも、それが彼女の心を戦(わなな)かせた。

 お栄の気管の可也(かなり)深いところにある腫れ物に悩みだしたのも、大分前からのことであった。腎臓は第二のお産以来、彼女の生活のお荷物となっていた。それが時々重なったり、軽くなったりしていた。お栄の声の悪いのは、重(お)もに腫れ物のある咽喉のせいであった。冬になると、夜臥床(ねどこ)についていから、咽喉がよく塞(つま)った。昼間でも話をするのに困難を感ずることがあった。もう長いあいだ、冬が来るごとに耳鼻科に通っていた。そして其れを切る練習をしていた。しかし臆病なお栄は手術の練習――それは腫れ物を切り取るあいだ、口を開いていなければならないので、それを遣り方々咽喉を洗ってもらうために、隔日くらいに博士の自宅へ通うのであったが、いつも好い頃になると、ちょっとした差し閊(つか)えで一日も休んでしまうのが、つい其れきりになって、毎年々々根本的治療を怠ってしまうのであった。陽気が暖かになると、咽喉もそう気にならなかった。彼女が長いあいだ悩んでいる痔疾も、いつも姑息な一時的の手当をするだけで、メスを加えるのを恐れた。祐吉の見るところでは、彼の或る悪い血が、いつか彼女の血素に巣くって、年々彼女の体質を破壊しつつあるのだとしか思えなかった。お栄はもう本質的に完全なお栄ではなかった。彼女の体質は、本来のお栄自身でもなければ祐吉自身でもなかった。末に行くほど子供体質が自分に似て来るのが、何よりも紹子だと、彼は自分の場合だけで、独断的に決めていた。孰れにしても、お栄の肉体は年々蝕まれていた。それについ近年までは、祐吉の拳が、地のぶよぶよした彼女の頭の上に能(よ)く飛んだ。お栄の頭脳(あたま)がぼんやりして来たのも、そのせいだろうと祐吉は時々考えた。けれどお栄の此処には妙なえらのようなものや角のようなものがしこっていて、折にふれてそれがむくれて来るのであった。祐吉はそれを打ちすえなくては気がすまなかった。

 今彼女にも段々その、えらや角が一つずつ剥落しつつあった。思いあがったような、張り切った明るい気持ちが翳って来た。そして其の代わりにヒステリカルに気むずかしくなって来た。

 或る日も祐吉は寝床のなかで、女中たちに何かぶつぶつ言っている彼女の声で目がさめた。それは彼女の潔癖が、女中たちのする事を何かにつけて歯痒く思うからであった。少しでも目を放すと、何をするか判らないと思った。一人は粗笨(がさつ)で横着であった。一人は実直で野呂間(のろま)であった。自分が出れば一時間できちんと片着くことを、彼らは三時間もの時間を、それにかかっていて、おまけに何一つとして、年だけのことは得為(しえ)ないのであった。いくら教えても小言を言っても、間に合って行かないのが腹立たしかった。

「誰が火鉢を掃除したの。この炭の注ぎ方は何うしたというんだろう。こんなに落としを擦(こす)ってしまったんじゃ仕方がないじゃないか。灰だって、こんなに深く掘っちゃ駄目ですよ。」

 女中が何か答弁しているのが聞こえた。

「この仏さまの御飯は何うしたの。いつまで此処におくの。」

 祐吉はその声で、朝の気分がすっかり損なわれるように思った。もう少しあっさり遣ってくれれば可(い)いと思った。しかしお栄に言わせると、台所にかけては、彼女たちは全く半間人足(はんまにんそく)であった。「今にお嫁に行って何うする積もりだろう」と言うのであった。

 それから暫く経つと、お栄の小言が台所の方に聞こえてきた。聴いて居ると、火起こし兼用の石綿造りの十能が、昨夜買って来たままで、もう台なしになったというのであった。女中の一人は、昨夜それをお栄から受け取ると、綺麗好きなお栄のために、それを洗うつもりで、いきなりバケツの見ずに浸けてたわしで擦っていたのであった。

「煩いね、もう可いじゃないか。」祐吉はそう言って茶の室(ま)へ出て行った。
「朝少し早くおきると、何時(いつ)でもそうなんだから。」

「だってこの人達が余り莫迦(ばか)なことをするんですもの。私の買って来た十能を見ずに浸けて擦るんですもの。これは瓦斯(ガス)のうえにかけて、火をおこすように中に石綿を張ってあるんですよ。」

「そんな物必要ないじゃないか。余り色んなものを買うからさ。」
「だって炭が経済ですもの。」
「しかし洗った方がいいと思ったんだろう。」
「ちょッ」お栄は舌打ちをした。
「ちょっと見れば解ることですものね。」
「ちょっとやりそうな事じゃないか。お前の小言は余り煩いよ。」

 お栄はぷりぷりして、四畳半の方へ行った。髪を引っ詰めにしていたので、顔が一層峻(けわ)しく硬ばって見えた。

「私が少し何か言えば、いつでも女中の肩をもって遣り込めるんだもの。私ばかりが悪者になって、貴方はいつでも好い旦那さまで通るんです。それじゃ女中を仕込むことさえ出来ないじゃないか。」
 そしてお栄はひどく不機嫌になって、あっち行き此方(こっち)往きしていた。


「何だって言ってるんだ、見ともない。」
「貴方は私に小言があるなら、陰で言って下さい。女中達の前で遣り込めるのは止(よ)して下さい。」
「何に。まだぐずぐず言うのかい。」
「誰にでも聴いてごらんなさい。何うしてそんなに、貴方は女中の肩ばかり持つんです。」

 お栄の声はひどくえら立って来た。祐吉はそれが頭へくすがるようであった。彼はいきなり起ちあがって彼女の哀れな引っ詰め頭を、いやと言うほど撲(なぐ)りとばした。

 女中は一生懸命祐吉を抱き止めた。

 祐吉は余り好い気持ちがしなかった。あの厭なえらさえとれてくれれば、何んなに助かるだろうと思った。彼はそのえらにふれる毎(ごと)に、子供たちの母親でない別の女との静かな隠退的な同棲生活を空想した。

 しかし何時(いつ)も大したことにはならかった。成りようもなかった。とにかく幸福らしい家庭生活がつづいた。彼女はいつもえらばかり押し立ててはいなかった。






(完)

◎八木書店版『徳田秋聲全集』第15巻の本文を底本に、現代的仮名遣いに改め適宜補訂を行なった。
  初出:大正14年9月1日(「中央公論」第40年第10号)









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