武家屋敷 寺島蔵人邸

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寺島蔵人について

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 寺島蔵人(てらしま くらんど)(安永6~天保8年/1777~1837)は人持組2,280石、原元成(1720~1795)の三男として生まれました。名を兢(つよし)、字を季業(きぎょう)、幼名は乙三郎、次いで此母(このも)。享和元年(1801)に寺島家の養子となって禄高450石を相続し、加賀藩の中級武士として越中高岡町奉行・定検地奉行・改作奉行・大坂借財仕法主付など、農政や財政の実務を担いました。有能な藩士であると同時に、思いやりが深く正義感の強い人物であった蔵人は、民の生活を圧迫する藩政を批判して役儀指除(やくぎさしのぞき:罷免)などの処分を一度ならず受けることもありましたが、そのたび藩政へ復帰します。文政7年(1824)に十二代藩主斉広が設置した親政機関である教諭方(きょうゆかた)に抜擢されました。しかし同年7月に斉広が急死、藩政の実権は藩主斉泰のもと年寄ら(加賀藩の最高の重職)に移りました。蔵人は斉広の遺志を継承して万民のための藩政と人材育成を訴えた口達書(こうたつしょ)を提出しますが、翌8年(1825)に役儀指除となります。以後は藩政に復帰することはありませんでしたが、蔵人の年寄政治批判は徐々に同調者を集めました。藩はこの対処として蔵人に流刑を申し渡し、天保8年(1837)蔵人は能登島へ送られます。困窮した民への慈愛にあふれていた蔵人は、配流ののちも民にたいする藩政への批判を続けましたが、病のため半年後に同地で生涯を閉じました。

 蔵人は職務に忠実で熱心に仕事に励む一方で画に親しみ、「艮嶴(こんおう)」、「静斎」、「王梁元」、「応養」などの号があります。現在遺る蔵人の作品としては山水図が最も多く、次いで竹石図があり、花鳥図も見られます。金沢市内の医師の津田菜窠、町人で書家の浅野屋秋台などの文化人との交流もあり、文化5年(1808)秋には金沢を訪れた画家の浦上玉堂を邸宅へ招きました。

寺島蔵人 略年譜

年号 西暦 年齢 主な出来事
安永6年 1777 1 人持組2,280石、原元成の三男として生まれる。
寛政12年 1800 24 藩校明倫堂の読師に採用される。
享和元年 1801 25 寺島家に入った次兄の右門恵和が病死し、後継として蔵人が寺島家の養子となる。遺知450石を相続。
馬廻組頭御用番支配を勤める。
享和3年 1803 27 越中高岡町奉行。この頃から蔵人と称する。
在任中、町民の願いに応えて時鐘の制作に奔走し、翌年完成させる。
文化5年 1808 32 焼失した金沢城二の丸造営の普請奉行加人。
秋、金沢を訪れた南画家浦上玉堂と交流する。
文化8年 1811 35 定検地奉行を勤める。
文化9年 1812 36 4月、改作奉行を仰せつかる。
娘秀が生まれる。
文化10年 1813 37 3月、勝手方御用兼帯。
11月、大坂借財仕法主付となり文化12年5月まで大坂へ出向。藩の借財交渉にあたる。
文化12年 1815 39 8月、役儀指除、指控。(以後3年間停職)
文化13年 1816 40 指控御免。馬廻組の御番を勤める。
文政元年 1818 42 8月、頭並、改作方・勝手方御用兼帯。同月、横目(監察官)に就く。
文政2年 1819 43 1月、役儀指除(以後5年1ヶ月間停職)。3月、遠慮(自宅謹慎)を申し付けられる。
文政7年 1824 48 2月、遠慮を免じられ馬廻組頭、風俗心得方を勤める。
3月、宗門奉行兼帯。
閏8月、建言書を提出。
文政8年 1825 49 3月、役儀指除、逼塞(遠慮より重い自宅謹慎)。
天保元年 1830 54 逼塞を免じられるが復職はかなわず。
天保2年 1831 55 小将頭久世守衛の次男、主馬肇(ただし)が娘秀の婿養子となる。
天保7年 1836 60 11月、知行取上、能登島へ蟄居を命じられ人持組本多図書邸に預けられる。
天保8年 1837 61 4月、能登島の配所へ送られる。
9月、能登島で病死。

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