湯涌-「懐し」の地

夢二との出会い

笠井彦乃が夢二と出会ったのは、まだ19歳の時であった。絵を描くことが好きな彦乃は、夢二ファンとして「港屋絵草紙店」を開く夢二のもとへ通い、絵を見てもらううちに親密な関係へと発展していった。父親自慢の一人娘であったたため、女性の噂が絶えない挿絵画家・夢二との仲は許されず、常に親にそむいての密会であり同棲であった。


三週間の湯涌滞在

夢二と彦乃が生涯において最も幸せな時間を過ごしたのは、大正6(1917)年8月から10月にかけての66日にわたる、北陸・加賀路の長旅であろう。金沢には、口語短歌に専念する知友・西出朝風がいたこともあり、画会だけでなく、地元新聞への寄稿、夢二ファンたちとの交流もあって、金沢文壇、とくに口語短歌への思わぬ影響を残す日々ともなった。彼らの旅は、浅野川支流の湯の川にのぞみ、養老年間の創業と伝えられる古い湯治場である金沢郊外の湯涌滞在で幕をおろす。9月下旬から10月にかけての三週間の思い出は、大正8(1919)年2月に出版された絵入り歌集『山へよする』に、「里居」としておさめられた十三首の歌にとどめられている。

湯涌なる山ふところの小春日に 眼閉じ死なむときみのいふなり

とりわけ、お薬師境内に建つ歌碑に刻まれたこの歌には、幸福の絶頂にある二人の哀切な心情がよみとれよう。


「懐し」の地・湯涌

大正7(1918)年、彦乃は結核に倒れ入院する。夢二は彦乃の父親によって面会を断たれ、大正9(1920)年1月の臨終に立ち会うことすら叶わなかった。
夢二は昭和6(1931)年渡米先から、次男・不二彦にあてた手紙に、誕生日を祝ってもらった時のことを書いている。そこで旧友Oの娘が何気なしに聞くところがある。
「いったいあなたの何回目のバアスディですか。」「三十七回目です。」と手巾で口をふきながら答へる。「そうぢやないでしよう」正直にミスタアOが抗議する。「私は三十七の年で死んだことになっているんです。…彼女が二十五で、私が三十七で死んだのです」。
25歳で彦乃は死んだ。その時、夢二は37歳。つまり、彦乃が死んだ時、自分も死んでしまった。あとは「ただぼやんと生きているだけさ」というのだ。夢二にここまで告白させた彦乃という女性は、夢二にとってはまさに、「永遠のひと」であった。そして、二人で訪れた湯涌は、いつまでも「懐し」の地として、夢二の胸に深く刻みこまれていたのである。

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