「旅」「女性」「聖書」

《渡り鳥》大正7年 竹久夢二は、孤独な漂泊者としてその生涯を終えた人である。数多い女性との噂は、スター的存在としての夢二像を生んだが、心の奥底には、抗し難い寂しさがいつも潜んでいた。その寂しさを埋めるため、彼は永遠の旅人として、放浪し続けた。それは、女性のうちに、自然のうちに、そしてまた一冊の聖書のうちに、「癒し」を求める旅であったともいえよう。

その足跡は、国内では東北から九州にまで及び、旅先では、特に哀愁漂う古びた港や海、芸妓といった画題を愛し、絵や詩に描いた。晩年に実現した欧米への外遊においては、世界恐慌のさなかで苦境に陥りながらも多くのスケッチをのこし、ベルリンでは日本画を教えている。一方で、ユダヤ人の救済に加わったという証言もある。

夢二は、蒸し風呂のような京都の夏を逃れようと、彦乃と不二彦を連れ、大正6(1917)年に北陸を旅行する。粟津温泉に滞在後、金沢で不二彦が疫痢になり、医療費捻出のためにも展覧会を開くことになる。その後、不二彦の病後保養をかね、金沢郊外にある湯涌温泉の「山下旅館」に滞在する。夢二にとって、都会の喧騒を逃れた山里でのひとときは、彦乃との愛を深めることのできた幸せのときであり、おそらくは生涯において最高の旅だったといえよう。


女性

双幅《乙女二態》大正期 夢二の心に安らぎを与え、良きモデルにもなった笠井彦乃は、夢二にとって 「永遠のひと」であった。この彦乃をモデルとして次第に夢二の画風は確立、彼独自の省略とデフォルメが生まれていった。自分を「河(川)」そして彦乃を「山」と呼んだ夢二は、ことに晩年、山の絵を好んで描いている。最愛の女性を山の絵に託し、そこに終わることのない永遠の縁を求めようとしたのであろう。

夢二が描いた絵の最も大きな特色は、いうまでもなく女性の絵に見出すことができる。細くしなやかな肉体、長い睫毛に囲まれた大きな瞳、物憂げな表情。この〈夢二式美人画〉は、妻・岸たまきをモデルとして初めて誕生したものである。しかし、「大正の歌麿」とまでいわれ、数多くの美人画を描き続けながらも、夢二はついに自らのうちに創り出した「理想の女性美」を、現実の女性の中に発見することができなかった。

夢二の描く女性像のすばらしさは、その表情の内にあるといえよう。大きな眼差しには、憂いに満ちた美しさが感じられる。それは、夢二が女性を描く時、単に外見の美しさだけではなく、内面に隠された女性の深い哀しみ、夢二自身の哀しみ、そして普遍的な人間の哀しみをも伝えようとしたからであろう。


聖書

《修道院の秋》大正後期 明治末期から大正初期にかけて、夢二は人気の絶頂にあったのだが、彼の心にはいつも苦しみがあり、それを打ち消すことはできなかった。明治41(1908)年秋、夢二は革製の豪華な『新旧約聖書』を購入している。聖書に関心を持ったのは神戸中学在学中ともクリスチャンであった妻・たまきの影響ともいわれるが、これは、彼に生涯つきまとっていた「我はユダなり」という罪の意識から、彼を解き放ってくれる唯一のものだったのであろう。夢二は心の支えとなった『聖書』を、生涯大切に持ち歩いていたという。

明治43(1910)年、たまきの故郷・金沢を訪れた時も、当地のキリスト教青年教会との交流を深めている。大正元年のクリスマス、京都の教会で説教の勧めに応じ、悔い改めの列に加わり、たまきにそれを報告したという話も有名である。

夢二の絵には、教会のある風景や十字架など、「キリスト教的な世界」を感じさせるものが数多く見出される。それらには、エキゾチックな雰囲気とともに、どこか夢二の澄みきった哀愁が感じられる。孤独と愛に向き合った彼自身の押さえ難い哀しみから湧きあがってくる、「救い」を求める祈りの思いが込められているためではないだろうか。

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