金沢蓄音器館

館長ブログ ほっと物語

2013年3月

その131「蘇る諏訪根自子」



諏訪根自子(すわ・ねじこ)をご存知だろうか。「神童」「天才」と呼ばれてデビューした日本人初の国際的なバイオリニストである。

1920(大正9)年生まれで平成24年3月、92歳で亡くなった。

昭和5年来日していた世界的なバイオリニスト、ジンバリストの前で演奏し「天才少女」として新聞、雑誌に紹介されたのは10歳のときだった。
12歳になった昭和7年には日本青年館でリサイタルし「子供ではなくプロの演奏家」と楽界も認めた。
昭和8年、コロムビアで3枚6曲のレコードを録音した。同10年までにさらに10枚20曲を録音したのち欧州へ留学した。
欧州ではナチスのゲッペルス宣伝相から、昭和18年バイオリンの名器ストラデヴァリウスを贈られている。
大戦中でもスイスで演奏旅行をし、各紙は傑出した手腕を持っていると賞讃したという。
「日本人もこのような文化を尊ぶ美しい面があることを知らしめることは、ずっと日本のためになる」と与謝野鉄幹、晶子の次男、与謝野秀が「一外交官の思い出のヨーロッパ」に明らかにしている。

昭和20年12月に帰国し、翌年から全国各地でリサイタルが開かれ、昭和21年10月25日(金)金沢でも開催され,食料だけでなく音楽文化にも飢えていた人々の喝さいを浴びたという。
昭和31年6月8日、金沢労音第1回例会にも北陸学院の栄光館でコンサートを開いている。

作家城山三郎は「日本女性としては初の知的美人の登場だった」と回顧している。
バイオリンの音色だけでなくその美貌にもファンは魅せられた。

その諏訪根自子の戦前のSPレコード13枚26曲をCDに収録したコンプリート盤「諏訪根自子の芸術」(税込2415円)を平成25年3月20日、コロムビアから発売することになった。
戦火でメーカー原盤の一部が消失しており、その半数の音源は当館が提供した。
しかも同じ曲を4台の異なる蓄音器で録音した音も入れた。
金属原盤と蓄音器の音色も比較できるようになっている。
音色の違いもわかり、またとない貴重な記録になるのではと思う。


ドボルザーク「ユーモレスク」
昭和8年8月録音
ピアノ伴奏:上田 仁

録音に使用したクレデンザ、
ブランズウイック(写真、左)
他にもHMV NO.194、E.M.Gも使用した

マイクは3種類、B&K4011、
ゼンハイザー40P,
ショップスMTS

学生服の諏訪根自子嬢
その130「蓄音器から見える持ち主の人柄」

昭和8、9年にコロムビアから発売された卓上型蓄音器2台が寄贈された。
NO.450 とNO.452である。この2機種は価格、形状とも似ている。

このころは、戦前では蓄音器、レコードの普及が急速に伸びた時である。
NO.450は昭和8年4月に大衆向け卓上型として発売され翌年にはNO.450,NO.452ともに45円の価格だった。(コロムビア50年誌より)
米10Kg、1円90銭の時代だ。

大きさは幅45、奥行35、高さ31cmあまりで、NO.452はそれぞれ1cmちょっとでかかった。
音の出口であるラッパはともに木製。
入口であるサウンドボックスのなかの振動盤の素材は、ジュラルミン(アルミニュームに銅などを加えたもの)でパテント番号も114413で同じだ。
振動盤の周りをゴムの丸ひもで押さえ、弾性を与えて音のビビリをなくす工夫がされている。

だが、NO.452には「NO.9」と呼ばれる直径が7mm程度大きいサウンドボックスが装着されているところが異なっている。

実際にクラシック、歌謡曲などのレコード盤をかけて聴いてみた。

ともに音が割れることもなく、小さな音色も綺麗ないい音を奏でるがNO.452の方が音は大きく、明るく伸びやかな感じがする。
NO.450 はおとなしく優しい感じだ。

そんな訳かわからないが、カタログにNO.452 は昭和10年50円、11年55円、12年には60円と書かれているのに、NO.450は昭和10年には既に記載されていない。
廃番になったのだろう。

ラッパのフロントに貼ったサランネットは破れているものの、内部の歯車部分にはオイル、グリースが綺麗に塗られ、このNO.452の持ち主、石川県のさる経済人はさぞいい音を楽しまれ、大事にしていたのではなかろうか。
レコード盤だけでなく、蓄音器からでもその人柄が見えてくる。


コロムビアNO,452

コロムビアNO,450

NO,452のサウンドボックNO,9(左)
右はNO,450についているもの

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