金沢蓄音器館

館長ブログ ほっと物語

2017年7月

その245子守唄ではない子守唄



「五木の子守唄」という熊本県の民謡がある。

おどま 盆限(ぼんぎ)盆限(ぼんぎ)り (自分は盆が来れば親に会える)
盆から(さき)や ()らんと (盆から先にはいないよ)
盆が()()りゃ ()よもどる(盆が早くくれば早くもどれる)

 おどんが(うっ)()んちゅうて(あんたが死んだって)
(だい)()ゃぁて()りゅうきゃ(誰が泣いてくれるのか)
(うら)松山(まつやま) (せみ)が鳴く (裏の松山のセミしか泣かないよ)

 「子守唄」と曲名がついているが赤ん坊を寝かしつける歌ではなく、子守自身の嘆き歌だ。

この歌が世に知られたのはNHK熊本放送局に着任した妻城良夫プロデューサーによるところが大きい。

彼は子守唄というより孤独で虚無的、人生を諦観しきった哲学的な歌だと感動した。この歌を埋没させてはいけない、全国に紹介しなければと、昭和26年から熊本局のローカル放送終了時に「シューベルトの子守唄」から「五木の子守唄」に切り替えた。

さらに古関裕而編曲・演奏で、ハモンドオルガンの曲として毎夜「お休みの前に」の番組で同年暮れから数年間継続放送したという。従来2拍子と3拍子が混ざった曲だったのを3拍子のメロディに変えたと古関はいう。(長田暁二著「日本民謡事典」より)

 これより少し前、コロムビアからキングに移籍した音丸が九州巡業で聞いた人吉地方の「五木の子守唄」を気に入って録音し、昭和253月に発売した。

 その後、昭和27年に東宝映画「戦国無頼」の音楽監督に古関裕而がなりその挿入歌として「五木の子守唄」をつかった。「花はなんの花」として山口淑子が唄った。

 昭和28年、キングの作曲家山口俊郎が編曲し「流行小唄 五木の子守唄」として照菊が唄った。

こうして「五木の子守唄」は全国に広まったのだ。

コロムビアは久保幸江、ビクターは野崎整子、キングは林伊佐雄がルンバ調の民謡ジャズなど各社10種類のレコードが競作となった。

一人のプロデューサーの想いがいろんな出会いや、タイミングを作った。ご縁があって多くの人々に伝わっていった。



照菊の五ツ木子守唄

3年早く発売の音丸の五木子守唄

久保幸江の五ツ木子守唄

野崎整子の五ツ木子守唄

林伊佐緒のルムバ調 五木子守唄
その244天災を乗り越えたレコード会社

大正末期、欧米の各レコード会社が電気録音をスタートさせた(ブログ243に記載)。

ビクターは「オルソフォニック(“原音そのまま“の意味)吹込み」、コロムビアは「ヴィヴァトーナル(”肉声そのまま”の意味)式録音」、ポリドールでは「ポリファー式録音」と名付けて電気録音をPRした。
新しい録音やカッティング技術を取り入れるため設備投資も行い、よりよい音を求めて各社は競った。

 おりしも日本では大正12年関東大震災が起こっていた。翌139月、日本経済再建のため国産品を奨励しようと、輸入のレコードと蓄音器には100%関税がかけられることになった。

このため日本という有力市場を失わないようポリドール、コロムビア、ビクターの各社は日本国内に自社工場を持ち、関税の壁を越えようとした。

ポリドールの輸入元だった阿南商会はドイツグラモフォンと折衝し原盤の日本における製造許可を取りつけ、昭和2年には東京池上の自社工場でプレス盤を完成。続々とレコードが生産されるようになった。

同年、英、米コロムビアは日本の大手であった日蓄(にっちく)の株式の47.4%を取得した。
このため米英独のコロムビア独自の電気吹き込み原盤を日本国内でプレスできるようになり357円などであった盤は150(10インチ盤)と大幅に安くなった。

同年9月には、ビクターもアメリカの全額出資(200万円)で日本ビクター蓄音器㈱を設立した。高品質、低販売価格ばかりでなくメーカーと小売店の直接取引による新たな特約店制度も打ち出した。

 

レコード会社は、電気録音という技術革新だけでなく地震という天災を乗り越えもし、新たな音楽産業の境地へと歩みを進めた。



コロムビア・ヴィヴァトーナルのスリープ


ポリドールのポリファー吹込PRのスリープ



ビクター・オルソフォニック録音の解説

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