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偉人館雑報

2021年

 
移転のお知らせ②
2021年 8月8日
偉人館雑報はnoteに移転しました(誰でも閲覧可能!)。
 

公式Twitterもはじまりました。

 
偉人館雑報移転のお知らせ
2021年 8月8日
皆さま

今まで長きに渡り、偉人館雑報を閲覧いただきありがとうございました。
本日の更新をもちまして……

雑報をnoteにて装い新たに発信していきます!

以前よりだらだらといろんなテーマのものを上げていましたが、そろそろシリーズ毎に集約したいな…とかもうちょっと目に触れやすい媒体で情報発信していかんとな…とか更新滅茶苦茶重いのなんとかしたいな…など諸々考まして、

じゃあSNSはじめっか!

と思い至った次第でございます。まあ更新していく内容は相変わらずですが、より皆様に見やすいものにしていけたらと思います。

もひとつ!
Twitterもはじめました。
雑報の更新やお知らせなど、今後はTwitterでも発信していく予定です。

ということで、今後も偉人館雑報をよろしくおねがいいたします!!
 
企画展ほか諸々についてのお知らせ
2021年 8月1日
ここ1週間のできごと―
 そろそろ雑報を更新しなきゃ…と思っていたら、今年度二度目の臨時休館となってしまいました。当初は22日(日)までとのことでしたが、まん延防止~に併せて8月31日(火)まで休館に。すなわち夏休みまるまる閉館でございます。
 いやはや、今回の企画展は5月の一ヶ月休館につづき将又一ヶ月の休館の憂き目に遭っているという…。ならば!前回同様雑報で企画展の魅力をお届けして、開館後に向けて熱を高めてまいりま………8月31日(火)?

……

会期終わっとるやないかーーい!!

そりゃねえよ旦那!
ということで…………

 新たな期間は9月12日(日)まで!2週間の延長になります。「会期長いからその内行こう」と思っていたそこの貴方!今年はいつこんな感じで急な長期休館になるか分かったもんじゃありゃしません。今回の延長期間がラストチャンス!観覧ご希望の方は是非9月にお越しください。そして休館期間が延長されないことをお祈りください。(お百度参りでもしてこようかしら……)
 そして、9月25日(土)からはNEXT企画展「ホップ・ステップ・ジャンプ!―跳ぶ哲学者 大島鎌吉」がはじまります!そちらも開催に向けて鋭意準備中!

 さて、9月以降はともかく、この8月中をどうするかですが…皆様へ更にいろいろな情報を発信すべく、水面下で始動中です。乞うご期待!

 余談ですが本日8月1日は秋聲と同じ三文豪のひとり室生犀星及び室生犀星記念館さんのお誕生日でございます。おめでとうございます!
 
番外編 桐生悠々の筆禍武勇伝(?)
2021年 7月22日
  世間は今日から四連休なんですよね。ローテ勤務組としては全然ピンと来ない今日この頃…。前回の雑報で「悠々の、周囲が熱狂してるときに一歩引いた視点から『言わねばならぬこと』を申す性格の片鱗を感じます(これについては番外編で…)」と宣言しましたので、今回は悠々のスタンスについて触れていきましょう。
 悠々は信濃毎日新聞および新愛知主筆時代に書いた記事で様々な抗議・筆禍事件を起こしています。有名なのは、信濃毎日新聞を辞める要因になった「関東防空大演習を嗤う」ですが、もうひとつ悠々の合理主義的スタンスが存分に現れた記事を紹介しましょう。
 「陋習打破論」(『信濃毎日新聞』明治45年9月19日-21日掲載)「陋習」とは悪い習慣のこと。すなわち「悪しき習慣をやめよ」というタイトルです。その悪い習慣が何を指すかというと、明治天皇崩御時に起きた乃木希典の殉死でした。当時信濃毎日新聞主筆だった悠々は、世間が乃木大将の殉死に対して賛美一色状態となっているときに、このタイトルの社説を掲載しました。3日分という長い社説なので、その内容を意訳すると、
『五箇条の御誓文(※1)に照らすなら、殉死は打破すべき海外渡来の悪しき風習だ。忠君二君に仕えずなんてのは封建時代の思想であって、引き続き今上陛下を支えるのが道理でしょ。仮に殉死を美徳とするなら、陛下が崩御されるたびに貴重な人材がいなくなっちゃうじゃん。山縣とか井上とか桂とか(※2)は別にいいけど、西園寺公とか東郷平八郎がいなくなると困るでしょ?殉死の理由をあれこれ類推して利用しようとする動きもある。今回の殉死は、個人的には凄く泣ける話だけれども…世間はもっと冷静になろう。』
※1五箇条の御誓文一条の「陋習を破り、天地の公道に就く可し」から打破論を展開。
※2山縣有朋・井上馨・桂太郎:悠々から名指しで「逝って(も正直別に)よし」との烙印をおされたお歴々。

 殉死に対する賛美が輿論を席捲する中、冷静に国体及び合理的観点から理由を述べ、殉死批判を展開しています。人道的・倫理的観点からではない殉死への批判的アプローチは、東京法科大学政治学科出身という悠々の経歴も関係しているのかもしれません。そして、この社説を掲載した結果…読者ブチ切れ。信濃毎日及び悠々への抗議や脅迫状が連日のように届き、しかし血気盛んだった悠々も紙面上で抗議者を煽って宣戦布告。擁護意見を積極的に載せるなど大喧嘩をはじめます。当時の社長小坂順三は早速論説で『今回のは理性じゃなくて感情で受け止めるべき話だよね!』と悠々と意見違うよアピールをしつつ鎮火活動に取り組むなどてんやわんや。この一件は結局時間が解決してくれましたが、小坂社長の言う理性と感情の線引きは色々考えさせられます。悠々も、周りが熱狂していることには一歩引いてものを申す反面、自分が土俵に上がった瞬間熾烈なバトルを繰り広げるのが人間臭くていいですね。
 ちなみに、明治天皇の大葬、乃木大将の殉死の情報をいち早く入手したのも悠々でした。大葬取材のために上京した悠々は、古巣(大阪朝日)の好で東京朝日新聞社に入り浸ってそこで情報を得て(えっ…)本社へ記事を送っていました。ある夜、朝日が入手した乃木大将の殉死の一報を聞いて大至急本社へ電話したといいます。おかげで地方紙でありながら朝日の次に事件の掲載が早かったといいます。しっかし…古巣とはいえ他社に入り浸り、そして朝日側もそれを受け入れているというのが、破天荒というか豪快というか大らかというか、凄い時代だな…と、明治人の熱量を感じさせるエピソードです。
 さて、この他にもたくさんの筆禍事件を起こしている悠々ですが、その生涯に興味が沸いた方に朗報!なんと井出孫六『抵抗の新聞人 桐生悠々(岩波新書)』(岩波書店、1980年)が、今年9月に岩波現代文庫として装い新たに復ッ活ッ!上述の「陋習打破論」や「関東防空大演習を嗤う」の全文も載っていますので、興味を持った方は是非悠々の“反骨”の生涯をご堪能ください。次回は再び秋聲と悠々の上京についてみていきましょう。
 
秋聲と第四高等中学校②
2021年 7月17日
 2週間以上も更新をサボってしまいました…。サボってる間に梅雨も明け、いよいよ夏がやってきましたね(アッツい…)。
 そう!夏と言えば、本日より「偉人館クイズラリー 夏の陣」がはじまりました!8月31日まで毎日(休館日除く)開催していますので是非ご参加ください!
 
 さて・・・「渋沢栄一と金沢の偉人」と「秋聲と第四高等中学校」の両方滞っていますが、明日徳田秋聲記念館さんの連続講座「兄弟子・泉鏡花と秋聲―俳句で競う」が開催される秋聲の方を進めていきましょう(大河も明日でしばらくお休みですし・・・)。
 ということで、前回は秋聲在学中の第四高等中学校の先輩陣や先生方、同級生にスポットを当てましたが、今回は秋聲が小説家を目指すきっかけになった出来事や悠々との関係を中心に掘り下げていきたいと思います。
 秋聲が小説家を志す切っ掛けとなったエピソードとしては、まず佐垣帰一との交流が挙げられます。彼は秋聲の先輩にあたり、「井上や清水などのグループの一人」(=井上友一、清水澄)とあるので、4,5年上の学年(年齢は別)でしょうか。秋聲の友人「人格才能のすぐれすぎた小倉とも親しく往来して、小倉の妹に恋していることも、そこはかとなく等の耳へも伝わったことだったが、それも失恋に終わったとかで、帝大の史科を出ると、間もなく死んでしまったが、」(小倉=小倉正恒、等=作中の秋聲)…失恋のことは書いてやるなよ!と突っ込みたくなりますが、どうやら夭折されたようです。そんな彼が秋聲に発した言葉「君なんか小説家になると可いがね。」は、小説家・徳田秋聲に最初の火を灯します。この時は話半分にしか聞いていなかったようですが、しっかりと覚えている辺り、相当印象深かったのでしょう。
 佐垣の他にも、国府犀東など様々な文学仲間たちと交友をもった秋聲でしたが、一番仲良くなったのが、桐生悠々でした。秋聲からみた悠々は年齢こそ2つ下ですが、随分大人びた印象だったようです。例えば、当時の秋聲は「板垣が岐阜で刺されて、板垣死すとも自由は死せずと叫んだという噂」に異常な刺激を受けたり、「志士気取りで常に肩肱を張って校舎の廊下を歩いている一群の『精献遺言』党」(※)に「いくらか感化れていた」と語るように、多少血気盛ん?な、ある種若者らしい熱量をもっていました。
 これに対し、悠々は「精献遺言」党を「あんなのは皆青春期の色情の擬装に過ぎんよ。」とバッサリ。これには秋聲も「必ずしもそうとも思わなかったが、いくらかは徹えた。」と語っています。悠々の、周囲が熱狂してるときに一歩引いた視点から「言わねばならぬこと」を申す性格の片鱗を感じます(これについては番外編で…)。
 とにもかくにも、こうして仲良くなった桐生と秋聲ですが、“相棒”を得たことでいよいよ文学への熱―すなわち小説家への夢は本物になっていきます。とはいえ、家族の理解は中々得られなかったようですが、苦手な代数や化学が足を引っ張り落第、更にそんなタイミングで父が病死…、二人の兄も家からいなくなり、いよいよ秋聲の情熱を止めるものもいなくなりました。そして遂に、周囲の反対を押し切って二人は退学届けを学校に提出。売れっ子小説家の尾崎紅葉へ弟子入りするために上京します。そんな青春真っただ中なふたりを東京で待ち受けていたのは…
泉鏡花でした。

※『精献遺言』は日本の尊王思想に多大な影響を与えた、江戸時代の儒学者浅見絅斎(1652-1712)の著書。
 
秋聲と第四高等中学校①
2021年 6月30日
 前回は秋聲の石川県専門学校時代についてざっくり触れましたが、今回は第四高等中学校時代のお話を少々。
 明治20年(1886)に設立した第四高等中学校には、石川県専門学校の生徒も多数入学しました。本科(2年)、予科(3年)、補充科(2年、1887年設置)という構成であり、木村栄が本科1年、三たろうと山本良吉と井上友一が予科1級(3年生)に入学します。専門学校の初等中学科だった秋聲と悠々、安宅弥吉は設立の翌年に設置された補充科に入学することになります。
 校風は、金沢士族の身内で固められた石川県専門学校とは異なり、中央の特に薩摩閥による武断的教育方針が打ち立てられます。当時の文部相森有礼(薩摩)は四高開校式の挨拶で「維新が成功したのは薩長のおかげで加賀は何もできてないよね。不甲斐ないからこの学校で優秀な生徒を育てようね!」(意訳)と演説して結果斬りかかられそうになったという逸話も。イヤミか貴様ッッというかそのうち本気で斬られるぞ!と心配になります(本当に刺殺されちゃうんですが)。
 こうした武断的風潮に真っ向から反発したのが西田幾多郎と山本良吉でした。2人を筆頭に教師陣のうち「学力の十分でない先生」(原文ママ)に難問を出して困らせたり、体育教師に議論をふっかけて授業をサボったりとやりたい放題。結局両者は馴染めないまま中途で退学しています(大拙は1年目に金銭的事情で退学)。この時一緒にサボったりノートに落書きしていたのに首席で卒業したのが作太郎でした。またいきなり本科に入学してストレートで卒業生第一号になった木村栄もこの時期在籍しています。
 このようにアクの強い先輩陣がひしめき合っている四高生ですが、秋聲はどんな学生生活をおくっていたのでしょうか。
 成績について、英語と国語は優秀だったようですが、代数や化学がからきしだったらしく、それが後の退学理由の一つにもなっています。なお、秋聲は専門学校→四高の校風の変化をどう思っていたかというと、身長順に並ぶのが嫌で体操をサボったり、生徒監を「ライオン」とみんなで呼んでいたりと微笑ましい(?)エピソードがあるくらいで、特に疎ましくも思ってなかったようです。先生たちとの関係をみると、山本良吉が可愛がられた三宅少太郎(史学)とは反りが合わなかったらしく、歯にきぬ着せずというか段々筆が乗ってきたな…?と察するくらいの言いたい放題具合。幾多郎や良吉など信奉者も多い北条時敬(数学)も専門学校時代も含め在籍していたはずですが、特に触れられていないのはやはり数学が苦手だったからかもしれません。
 また、小説の世界を目指すようになったのはこの四高時代で、様々な級友との親交を通して文学の世界へどっぷりはまっていきます。貸本屋や古本屋にある近松門左衛門や井原西鶴といった古典から森鴎外や坪内逍遙など近代文学まで様々な書物を読み漁ったと言い「決して学問的な文学研究者ではなくて、寧ろアイドルな耽溺者」だったと評しています。こうした学生生活の仲で「いつとはなし双方から接近し合って」生涯の友となるのが桐生悠々です。次回は秋聲と悠々の関係を中心に、その学生生活を掘り下げていきましょう。

 
渋沢栄一と金沢の偉人①
2021年 6月25日
 筆者が毎週楽しみにしている大河ドラマ『青天を衝け』。『いだてん』の時も思ったのですが、近代史は資料がたっぷりあるので「え!?それ創作じゃなくて資料あるの!!?」という驚きがいっぱいで新鮮です。もちろん“ドラマ”ですので史実とは違う点もありますが、歴史に興味関心を持ってもらうきっかけにもなる人も多いのでは(自分は俳優さんを覚えるきっかけになっています)。
 今回のように近代史が舞台だと「ウチの偉人さん出てくるかも?」と注視してしまいます(『いだてん』では大島鎌吉が登場)。近代史に興味がわいたら、金沢ふるさと偉人館へレッツゴー👍

 さて、仕事柄近代史のドラマが話題になると、それ関連の講演の依頼がままあります。先日も講演会で渋沢栄一と金沢の偉人についてお話する機会があったのですが、その時に頂いた質問でその場ではお答えできなかった点について、講演会の補足とともに記しておきます。

Q.渋沢栄一が子爵となったのは何故?
 渋沢栄一について調べている際「へ~子爵に上がっとるんか凄いな~」と思っただけで理由は調べなかったんですが、見事に質問を頂きまして答えに窮しました(自業自得)。あんまり爵位や華族制度も詳しくないためこれは良い機会と調べてみると、特異な事例だったことが判明!
 栄一が男爵に叙されるのは明治33年(1900)60歳の時、そして子爵への陞爵は大正9年(1920)、80歳の時です。陞爵理由は「国家に対する多年の勲功」(『竜門雑誌』第388号)。当時民間(実業家など)で子爵以上になった人は皆無でしたので、この陞爵は異例中の異例といえます。男爵になってから子爵までの20年間も栄一は精力的に活動を続けていました。会社の経営こそ70歳の古希を理由に一線から退いていきましたが、慈善事業や育英事業、民間外交など活動の裾野を広げていきます。こうした活動が評価されての子爵陞爵であったとみられます。
 そして、彼の活動には当館でお馴染みの偉人たちも深く携わっていきます。爵位つながりでいうと、「日本近代化学の父」桜井錠二は死後に男爵を追贈されています。そして栄一と錠二がともに設立に尽力したのが、理化学研究所でした。この理化学研究所の設立を提言した人物は、高峰譲吉。次回はこの理化学研究所にまつわる3者の関係についてみていきましょう。
 『光を追うて』シリーズと並行しながら(更新遅くてすみません…)、ドラマ放映中ちょくちょく上げていきたいと思います。

参考文献 
小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』(中央公論新社、2006年) 
千田稔『華族総覧』(講談社、2009年) 
渋沢栄一詳細年譜/公益財団法人渋沢栄一記念財団ホームページ 
https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/kobunchrono.html(参照2021/06/15)
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』57巻
https://eiichi.shibusawa.or.jp/denkishiryo/digital/main/index.php?DK570111k_text(参照2021/06/15)
 
秋聲と石川県専門学校
2021年 6月16日
 一昨日から1か月企画展再開しました~!ちなみに一部展示も模様替えしています(間違い探しレベル)。再開館後一発目の雑報は前回のつづき「石川県専門学校及び第四高等中学校時代の秋聲と仲間たち」について。特に石川県専門学校に焦点を当てましょう。
 『光を追うて』では秋聲の学生時代の思い出のほか、同窓生の紹介や記述が数多く登場します。どんな人物たちが登場するかは、是非会場もしくは『光を追うて』でご確認いただきたいのですが、当館常設展の偉人達も多数登場します。

 明治14年7月~21年3月(1881~88)まで存在した石川県専門学校は当時の石川県が独自に設置した7年生(初等中等科4年・本科3年)学校です。専門学校という名前ですが予備科・法学科・理学科・文学科をもった全国的にみても高いレベルで整備された県立学校でした。
 当館の偉人の中では、藤井健次郎(1866年生)木村栄、鈴木大拙、西田幾多郎、藤岡作太郎(以上70年生)、井上友一、山本良吉、徳田秋聲(71年生)、安宅弥吉、桐生悠々(73年)がこの専門学校で学んでいます。秋聲と弥吉が入学したのは明治19年(1885)、悠々は翌年、この年の10月から第四高等中学校が専門学校校舎を使用するため、彼らは再末期の世代に当たります。また、関口開と北条時敬が教師として偉人たちを指導していました。
 その校風について、西田幾多郎は「悉く金沢の旧士族の子弟であり…(中略)…全体が一家族といふ様な温かみのある学校であった」と回想しています。注目したいのは「悉く金沢の旧士族の子弟」だったということ。秋聲も悠々も戸籍上は「士族」です。没落気味だったとはいえ、まだまだ「百万石の武家」のプライドが残っていた時期ですので、金沢士族にとっては、身内で固めた「家族的」な環境は居心地がよかったのかもしれません。この環境は第四高等中学校設置に伴い、一変します。

 ちなみに秋聲は石川県専門学校を受験する際、「試験の日取りも忘れて」友人の家へ遊びにいって、そこで知らされて…という面白エピソードも(本人にとっては気が気じゃないですけれども)。秋聲は「生まれついて軽率」と自虐していますが、自分も大学受験の時期に直前模試の日を失念して家でゴロゴロしてたりセンター当日にバスを乗り間違えたりしたので、この時の秋聲の気持ちが痛くわかります。
 この受験日失念エピソードは『光を追うて』以外にも『中学世界』という雑誌でも披露されています。該当ページは企画展会場で読めますので、是非ご覧になってください!
 次回は第四高等中学校についてみていきたいと思います。

 
秋聲たちが過ごした四高
2021年 6月9日
 灼熱の季節が迫り来るのを日に日に感じる今日この頃・・・。来週からいよいよ再開館です!
 さて前回前々回と番外編として北条時敬・桐生悠々の関係資料について紹介しましたが、両者と秋聲には共通点があります。それは、金沢出身であること、士族身分であること、そして同じ学校にいたこと。ということで、今回は『光を追うて』でも登場する石川県専門学校及び第四高等中学校(現・金沢大学)について触れていきたいと思います。今回の企画展ポスターには、学生時代の秋聲と悠々の姿とともに第四高等中学校の校舎が描かれています。
現在も校舎は重要文化財「旧第四高等中学校」として保存され、四高記念文化交流館として活用されています。

・・・・・・・・・

君写真と違わない?

あれ?そもそも旧四高って「旧制第四高等学校」の略じゃなかったっけ?「第四高等…中学校」??と混乱するのもやむなし。小学校→中学校→高等学校・高等専門学校→大学・専門学校…とある程度一本化された戦後の教育制度と異なり、戦前の特に明治期の教育制度は頻繁に名称や分類が変わるためまことに複雑怪奇…。ここを詳しくしゃべるとそれだけで論文みたいな文量になってしまいます。
 ざっくりと説明しますと、第四高等中学校とは旧制第四高等学校の前進にあたり、明治19~27年(1886-94)の期間に用いられた呼称でした(実際に第四高等中学校が設立されたのは翌20年)。秋聲は明治19年石川県専門学校に入学。同年高等中学設置に伴う専門学校の廃校が決まり、翌年第四高等中学校の入学試験を受けて補充科へ入学しています(慌ただしいですね)。この際、第四高等中学校の校舎は石川県専門学校のものを再利用しました。この専門学校時代の建物こそ、企画展のイラストの校舎です。その後、色々あって秋聲と悠々は明治25年(1892)に一度自主退学をするのですが、赤レンガの新校舎が竣工したのは翌26年(1893)。同年悠々は復学します(ここの経緯はまた後日)。その結果、悠々は赤レンガの校舎を経験しているのですが、秋聲は前進の校舎時代しか在学していないことに。石川近代文学館さんの企画展「北辰の青春―赤レンガ校舎で学んだ作家たち」ポスターに秋聲がいないのは、別にハブられた訳ではなく秋聲がギリギリ被っていなかったためです。
 さて、本当にざっくり石川県専門学校や第四高等中学校について説明しましたが、今と制度が異なるため「??」がつくところが数多あると思います。興味のある方は是非色々調べてみてください(丸投げ)。
 次回は石川県専門学校及び第四高等中学校時代の秋聲と仲間たちについて見ていきましょう。


 
桐生悠々と手紙
2021年 5月31日
 いよいよ5月も最終日。石川県は現状6月13日でまん延防止等重点措置は解除されるとのこと。このまま14日からの開館にこぎ着けたら良いな…と願いつつ、今日も今日とて資料整理に明け暮れております。桐生悠々はひと段落ついたので北条時敬関係資料を引き続き整理中。本や掛け軸のほか、手紙や本の注文書・領収書の類がたくさん残されています。特に手紙のやり取りや購入歴は、その人の行動や人となりを知る上で大変重要な情報源となります。前回明治の古文書は中々読めん~と贅沢抜かしましたが(難読なのは本当)、ともすれば廃棄対象になりやすい書簡関係がたくさん残されているのは、我々後代の人間にとって本当にありがたいことです。 
 一方で、悠々には殆ど手紙が残されていません。今回の企画展でも、展示しているのは悠々に宛てた物ではなく遺族に宛てたお悔やみ状(1941年9月)。僅かに残された手紙も1930年代前半のものが中心です。政財界から文化人まで広い人脈を有していたはずの悠々ですが、何故手紙が残されていないのでしょうか。合理主義的な思考の持ち主なため、基本読んだら廃棄もしくは再利用していたのでしょうか。 
 その答えは、「寿々談話」(悠々の妻寿々が、戦後に悠々を語った回想を録音したもの)に残されていました。曰く、悠々が当時「国家の邪魔者扱い」であったため、他人に迷惑がかからぬよう処分したとのことでした。昭和8年(1933)に信濃毎日新聞に掲載した「関東防空大演習を嗤う」が要因で新聞社を追われ、名古屋で自筆出版雑誌『他山の石』を刊行ながら「言わねばならぬこと」を展開した悠々。死の直前まで当時の軍部批判をやめなかった悠々は軍及び特高から目を付けられる存在でした。そのため桐生家への来客といえば特高課の人たちばかりという有様だったようです(怖い)。周囲からも「非国民」「国賊」呼ばわりを受けるなど、当時如何に悠々が孤立無援に近い状態であったかがうかがえます。こうした自身の状況を鑑みて、応援者・友人を巻き込まないための最大限の配慮が手紙の処分でした。一方で、彼の死に際してたくさんのお悔やみ状が届いているところから、隠れ?支援者が多かったことが読み取れます。
(ちなみに寿々曰く、柳田邦男の手紙もあったようです。どのようなやり取りがあったのか、興味深いですね!)

 差出人や内容だけでなく、残存状況もまた当時の情報を読み取く鍵になる。手紙という資料は奥が深いです。そういえば、今は基本やりとりといえばネット…となると、100年後には如何程の情報が残されているのでしょうか。全部消えているかもしれませんが、同時代資料として保存され晒(てんじ)されている可能性も…。


 
絶賛休館中
2021年 5月25日
 Q.休館中何をしてるの?
 A.大体資料整理してます。
ということで毎日収蔵資料たちと顔を突き合わせながら奮闘中でございます。ようやくひと段落つきそうなのですっぽかしていた雑報で働いてますアピールをしておきます。
 現在手を付けているのは、北条時敬と桐生悠々の関係資料。いずれも近年新たに寄託を受けたもので、中身を精査するところからはじめています。写真手前に見えるのは、北条時敬の書簡及び掛軸たち。誰からのものか、どういった内容か、年代はいつか、などを加味しながら整理を進めていきます、が!明治期の書簡ですので勿論毛筆。これが曲者でしてね。近世いわゆる江戸時代の古文書は難読にみえて実は「御家流」という幕府公用の書体で書かれたものが多いです。また定型文も多いので慣れてしまえば結構読めるようになります。
 これに対し、明治にはいると何を思ったか各人が我流のくずし字を使い始めます。これがまたマァーーーーー読みづらい!!!特に書簡(お手紙)などは「見たことねえぞこんなくずし方!」のオンパレードになることも。学生時代に近世史専攻の先輩と自分(中世専攻)で明治の書簡の翻刻手伝いをしながら「くずし字をくずすなァ!!」と何度叫んだことか…。先輩が「これお互い意思疎通できてたのかな…」と零していたのが忘れられません。
 掛軸は比較的文字も読みやすいものが多いです。が、漢詩だったりで今度は意味が掴めない。。。落款はあるけどWho…?という有様。所謂メジャーどころなら調べればすぐに出てきますが、そうでない方が多数。資料整理をしていると、本当色んなジャンルに精通してないといけんなぁ…とつくづく思い知らされます。
 写真奥に見える悠々の方は昭和10年代の自筆原稿の整理が中心。この時代まで来ると読みやすさは格段に上がっています。ありがたやありがたや…。主が『他山の石』の原稿及び校正刷りなのですが、中には「何かの5枚目のみ」みたいなものも。。。他の残存原稿の時期とご遺族の方のメモと野生のカンでここだ!と『他山の石』製本を開いて同じ文章をみつけてHooo!!パズルのピースを合わせていくような感覚です。また、悠々は海外事情に精通するため、洋書を大量に購入し『他山の石』で紹介していました(名古屋の丸善の大得意様だったとか)。今回も洋書を中心に百冊超えの寄託を受けましたので、ほかの職員さんにも本の登録作業をしてもらったりと館を挙げて取り組んでいます。北条時敬の方も書物がたくさんあるのですが、こちらは本のタイトルがくずし字祭り。みんなで頭をひねりながら登録に精を出しています。
 そんなこんなで毎日ひーこら言いながら進めていますが、戦国大名の古文書が出てきたり、著名人の自筆文書のほか未発表原稿かと思われる物が出てきたりと、面白い資料も多々見つかりました。そのうち今回の成果を展示できたらなーと思いながらも、そのためには資料の精査をより進めないといけないので今しばらくお待ちください…。
 Q.『光を追うて』ネタの更新じゃなかったの? 
 A.悠々も企画展の主役ですし、時敬も専門学校で2人を教えていた可能性あるし良いかなーって…
 
秋聲と悠々が過ごした金沢―『光を追うて』にみえる影②
2021年 5月15日
 今日は夏日でしたね。通勤中は汗だくだったのに館内はヒンヤリ心地よい偉人館でございます。お客さんもおりませんので尚更ヒンヤリ…1ヶ月間の臨時休館となりましたので物寂しい館内です。団体見学もなし、出前授業もなし、で毎日暇してる…という訳ではなく、なんやかんや仕事はありまして。収蔵品の整理とか次期企画展の準備とか収蔵品の整理とか書類作成とか収蔵品の整理とか。
 あと雑報の更新とか。…はいすいません、気を抜くとあっという間に1週間以上放置してしまいます。しかし企画展も1ヶ月間お休み…いやいやだからこそ、再開の折より楽しめるように、行きたいと思ってもらえるように、引き続き企画展情報を発信していきましょう。

 それでは本題。前回は明治初期の金沢の様子―金沢にとって逆境の時代を概観しました。今回は秋聲が当時の金沢、特に士族の暮らしをどう見ていたかについて、『光を追うて』の記述から眺めてみたいと思います。
 徳田家は代々加賀八家横山家家臣の家系であり、困窮士族の例に漏れず生活は年々切迫していったようです。幼少期に遊んだ友達との思い出語りをみてみましょう。子どもの頃は女の子こと一緒に遊ぶことが多かったらしく、かくれんぼやままごとをしたり人形遊びをしたり、ふたりで寝そべってひなたぼっこをしたり、その父親の禿頭を眺めて楽しんでいた(酷い)、というほっこりとした幼年期の逸話を語っています。そして、最後にこの一文。「この娘たちは、後年相前後して隣国の暗黒街へと落ちて行ってしまった。」…ほっこり気分が一気に奈落の底に落とされた心地。しかし、「零落の一途を辿った」士族の子女の間でこうした出来事は決して少なくなったことが語られています。

  ……彼女たちは士族の子弟の多くが、土地の名物とまでいわれた巡査になったように、又は裏口  から窃かに紙屑買いや古道具屋の手に売られて行った刀剣や茶器や、鏡や手函や髪のものや、後  にブルジョアの蔵に納まって、その家伝来の重宝のように言われ、中央都市の好事家や骨董商に  涎を流さした骨董品のように、みな散々離々にそういう境界に陥ちて行った。

 金沢士族の男子は県外に出て(=地元に働き口が足りない)教師や巡査になることが多く、それ故「土地の名物」と揶揄されていました。ちなみに、秋聲はこうした士族の苦難に同情的かと思いきや

  ……理財に思慮のあるものだとか、又は身分の低いものでも、不断から生活を用心していたもの  は可かったが、長いあいだ扶持に頼って来て、明日のことも考えず、貨殖の事にも疎いうえに、  泰平に馴れて、衣服や持ち物に贅を尽くし、酒や料理に味覚の洗練された人達もこの城下には相  当多かった。 

と、割かし辛口評。また、自分の家族についても、「その時分父や兄達が何をしていたかは、今になっても一つの謎だが、勿論公債の居食いをしていたのに違いなかった。」(居食い:働かずに手持ちの財産で生活すること)とどこか表現が辛辣です。父兄(幕末生まれ)と秋聲(明治生まれ)の価値観の違いもあるでしょうが、この辛口というか毒舌というか、淡々とした歯に衣着せぬ評価が飛び交う文章を楽しむのも、秋聲作品の楽しみ方の一つではないでしょうか。

 ということで、今回は秋聲がみた金沢の、特に影の描写(困窮士族の暮らしぶり)を取り上げてみました。苦しい生活の描写は多く見られますが、第三者目線から淡々と(時に辛辣に)語っているので、悲壮感はそこまで感じないです(ドライな文章故に「ぐえ~」となることはありますが)。そのためさらっと読めますが、読めば読むほどその文章に惹かれていく。そんな魅力を秋聲初心者の自分は『光を追うて』から感じました。是非皆さんもレッツトライ秋聲作品。
 次回は『光を追うて』に登場する学校について紹介したいと思います(多分)。
 
1八田與一胸像と生花
2021年 5月9日
 今日は母の日ですね。今朝は大荒れでしたが、日中は打って変わって朗らかな日光が降り注いでいます(ある意味母の日らしい天気)。庭の八田與一胸像も生花もなんだか気持ちよさそうです。

 昨日は八田與一の命日であり、当館庭の胸像には「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」さんが用意してくださった生花が供えられています。日中は銅像前で慰霊祭、夕方には別会場にて台湾と金沢をリモートでつないで『嘉南大圳開工満百記念典礼』が盛大に開催されました(今朝の新聞にも取り上げられてましたね)。コロナ禍の良い面として、オンライン化の促進が図られたことが挙げられます。友好の会の方曰く「毎年台湾の墓前祭に行っていたけど、コロナ禍で行けないのならせめてこちらでもできることをしたい!」と動き出したところ、こうしてオンライン開催が決まったとのことでした。台湾会場のお客さんが笑顔(マスク越し)でこちらに手を振ってくださっているのをみて、とてもホッコリとした気持ちになれました(#^^#)

 色々な人たちのビデオメッセージを観ながら、自分が八田與一という人物を知ったのはいつだったかと思い返すと、高校生の時にみた八田與一夫妻の生涯を描いた舞台でした。自分が小学生時代に偉人館を訪れた頃はまだ與一コーナーもなく、その後偉人が増えていたのは全く知らず仕舞い…。なので、劇を見て「へえ!石川県出身でこんな人がおったんか!」とえらく感激したのを覚えています。もう15年近く前の劇の内容や解説トークを所々鮮明に覚えているので、八田與一という存在が如何に当時の自分に衝撃を与えたのかがうかがえます。一風変わった姿の銅像の逸話が特に印象的でした。若い時分のこうした出会いというのは重要ですね(しみじみ)。
―という話を副館長にしたところ、
「ああそれね、ウチの前の前の館長がつくった劇やな」
What?
 調べてみると、劇団昴公演「台湾の大地を潤した男 -八田與一の生涯-」、平成19(2007)年、脚本 松田章一(金沢ふるさと偉人館館長※当時)。

 こ…こんなところでも偉人館のお世話になってたァ~~~~~!!!!
 劇を楽しんでいた一高校生が今は伝える側として学芸員をしているのですから、我ながら感慨深いものがあります。これから頑張ろうと手を合わせながら気を引き締めるのでした。………とりあえず前回の続きを書かねば…。
 
秋聲と悠々が過ごした金沢―『光を追うて』にみえる影①
2021年 4月30日
 24日(土)より、企画展 徳田秋聲生誕150年記念「『光を追うて』に見る金沢-徳田秋聲と桐生悠々―」が始まりました~!
 829日(日)まで開催していますが、「そのうち行こう」なんて思っていると気がついたら「あれ?期日過ぎとる…」となるので(経験談)、「思い立ったが吉日」で足をお運びいただければ幸いです。
 雑報でも企画展の情報をどんどん発信していきたい!のですが、ここで内容をしゃべりすぎると行く意味が薄れてしまいます。それじゃあ本末転倒。ですので、今後は「企画展をもっと楽しむため」の情報(時代背景や展示史料などの補足)をチマチマと紹介していきます。 

 今回のテーマは、「明治前半の金沢」 。秋聲と悠々が少年期を過ごした明治10年代までの金沢について見ていきましょう。 

 今から150年前というと明治41871)年、廃藩置県が断行されて金沢県が誕生した年です(石川県は翌5年から)。百万石の城下町として栄えていた江戸時代から一転、明治の金沢は武士の失職とそれに伴う職人・商人の需要低下による経済不振が深刻化。明治維新の光と影といえましょうか、経済不況と他県への人口流出による城下の衰退など辛く大変な時代でもありました。 
 このとき、衰退する金沢に歯止めをかけるべく、殖産興業を推進したのが長谷川準也(1843-1907)です。士族身分である準也は藩祖前田利家を祀る尾山神社の建立(明治6年、神門完成は8年)や、金沢製糸場(明治7年)に始まり撚糸会社・銅器会社など20余の会社を創業するなど、困窮する士族・職人に仕事の場を供給し、金沢の復興を目指して尽力しました。後に二代目金沢市市長も務めています。 
 こうした準也の活動を支えた大工が津田吉之助(1826-1889)です。津田式力織機(絹動力織機)の発明で知られる津田米次郎(1862-1915)のお父さんです。吉之助は淳也の要請で東京や富岡製糸場を見学し、尾山神社神門、製糸機械、撚糸機械を建立・製造しています。 
 準也の各種事業は明治十年代に松方デフレの影響を受け頓挫してしまいます(無常)。準也以外でもこの時期士族がおこした事業は次々頓挫し、地力のない中下級士族は破産に追い込まれていきました。準也のように市議会で活躍する士族も数多くいましたが、彼らも一枚岩ではなく、度々内部抗争に発展、市も財政が貧弱だったこともあり、鉄道の敷設や電気工事などの事業もなかなか進みませんでした。 
 殖産興業はことごとく失敗、市議会では士族同士の派閥争いが苛烈化、人口は年々減少、貧困率は増加の一途と、さながら地獄絵図のよう。こうした中で金沢のために尽力する民間人も多くいました。長谷川市長時代に頓挫した市営発電所の設置は森下八左衛門(1861-1943)に引き継がれます。八左衛門は辰巳発電所を建設し、金沢に初めて電灯をともします。小野太三郎(1840-1912)は私費で小野救養所を設置し、貧困層の救済に尽力します。この施設には商業に失敗して困窮した士族も多数入居しました。 

 金沢の衰退に歯止めがかかるのは、学都・軍都として発展しはじめる明治30年代まで待たなければなりませんでした。秋聲も悠々もその頃には東京に出ていますので、その青春時代は衰退する金沢で過ごしていたことになります。秋聲の目に当時の金沢はどのように映っていたのでしょうか。次回は、秋聲が見た金沢士族の暮らしぶりに触れたいと思います。 
 ちなみに、上で列挙した尾山神社や製糸場、撚糸会社、銅器会社は展示中の『金澤勝地賑雙六』(玉川図書館近世史料館)にも描かれていますので、是非探してみてくださいまし。(つづく)


        尾山神社神門(R3.4.26撮影) 職場から近いとこういう時便利

参考文献
金沢市史編さん委員会編『金沢市史 通史編3 近代』(金沢市、2006年)
「愛蔵版 ふるさと人物伝」編集委員会編『愛蔵版 ふるさと人物伝』(北國新聞社、2010年)

 


 
企画展準備中…
2021年 4月21日
 ただいま企画展「『光を追うて』に見る金沢-徳田秋聲と桐生悠々―」の絶賛準備中です。先ほどまで展示照明の調節をしていたので目がチカチカ…脚立を昇って調節、降りて移動して昇って調節降りて移動してアレ何か違うなもう一回やり直し―を何十回と繰り返す気の遠くなる作業。
 しかし、光が灯されることで、展示会場に息が吹き込まれていく様子はいつ見てもワクワク…いよいよお披露目日が迫ってきた実感が沸いてきます!といっても自分は偉人館ぺーぺーなので、今回の企画展では副館長(前・中の人)のお手伝い要員ですが…。
 そんなお手伝いでも出来ることは、告知!ということで、今回の雑報では企画展の内容をチョロッとだけご紹介。

 本企画展はタイトルにもある徳田秋聲の自伝的小説『光を追うて』をコンセプトに構成されています。作中に登場する金沢の地名や偉人について、史料などを交えながら紹介していきます。このうち地名について少しみていきましょう。
 前回でも触れましたが、秋聲の家族は仮名で、桐生悠々などその他の登場人物は全員実名で描写されています。秋聲本人は「向山等(むこうやまひとし)」という名の主人公でとして登場。
 向山というのは、金沢市民ならお馴染みの卯辰山の別称です。秋聲は幼少~少年期に四度の転居を経験していますが、思い出の地として一番描かれているのは二度目の転居先だった御徒町(現・東山)の頃のこと。東山地域は卯辰山の麓にあたり、「この山は自分の庭のように行きつけになっていた。」(四章より抜粋)と語ります。
 こうした地名(施設名)が登場する箇所を抜き出して、パネルにまとめています。併せて今回、市立玉川図書館近世史料館さん所蔵の『金澤勝地賑雙六(かなざわめいしょうにぎわいすごろく)』など明治の金沢を舞台にした絵画資料を展示し、視覚的にも明治期の金沢の雰囲気を楽しめる構成になっています。
 『金澤勝地賑雙六』のコマを見眺めてみると、「櫻馬場芝居」の文字が。どこぞ…?と調べてみると、現在の東山にあった芝居小屋のことだそう。『光を追うて』では、この芝居小屋の描写が少年期の思い出の場所として散見されます。

  等の少年期に、早くも好ましからぬ敗徳の種子を卸したあの芝居小屋も、世間の景気につれて出 現したものだった。この建物は最初は山のうえにあった。(四章より抜粋)

芝居にはまって小屋に足繁く通っていた思い出の場所を、「早くも好ましからぬ敗徳の種子を卸した」と表現しているのが個人的に好きです。
 この他にもたくさんの地名が登場しますので、展示の絵画資料と見比べてみてください!また、今回作中に出てくる全部の地名・施設を取り上げているわけではないので、興味の沸いた方は『光を追うて』を手に取って見てください(^^)

いよいよ今週末より開催!『光を追うて』の世界をどうぞご堪能ください。
会期:4月24日(土)~8月29日(日)
(7月より月曜休館・祝日は翌日休館となりますのでご注意ください)。
入場料:一般310円(高校生以下無料)
 
企画展 徳田秋聲生誕150年記念「『光を追うて』に見る金沢-徳田秋聲と桐生悠々―」のお知らせ
2021年 4月14日
 約7ヶ月振りの更新・・・ですが、中の人が変わっています。この4月1日から新たに当館学芸員となったNEW中の人(山岸)です。よろしくお願いします。
本当はもっと早く雑報で挨拶を、と思っていたのですが、あれやこれやと気づけば2週間が過ぎてしまいました。何か雑報のネタを・・・と考えてみると、なんとまあ企画展が10日後に迫っているじゃあありませんか。これは告知せねかんぞ・・・ということでようやく筆を執った次第です。
それでは本題です。

  企画展 徳田秋聲生誕150年記念「『光を追うて』に見る金沢-徳田秋聲と桐生悠々―」が4月24日(土)からはじまります。
  徳田秋聲は、室生犀星、泉鏡花と並ぶ金沢の三文豪としてお馴染みです。本企画展では、若き秋聲らが過ごした金沢にスポットを当て、金沢を舞台にした作品やその登場人物について、小説『光を追うて』を中心にクローズアップしていきます。
※より詳しく秋聲を知りたい!秋聲の世界を味わいたい!という方は徳田秋聲記念館さんへ是非足をお運びください。浅野川と梅の橋が織りなす風情ある景色も館内からお楽しみいただけます(二度おいしい)。

 『光を追うて』は、秋聲が67歳の時に書いた自伝的小説です。秋聲とその家族は仮名で登場し、その他の人物は実名で登場します。例えば、尾崎紅葉や泉鏡花などなど。実名で色々赤裸々に描いているので読んでいるこっちがドキドキしてくる場面も。
そんな実名の登場人物のひとりが、今回のもう一方の主役、桐生悠々です。「反骨のジャーナリスト」として知られる悠々ですが、「光を追うて」では、まだお互い“青い柿”だった学生時代からメキメキとジャーナリスト街道を突き進む若き日の姿が秋聲視点で描かれています。

  企画展をより深く楽しみたい方は、『光を追うて』を是非ご一読ください。同書は解説付きのものが「徳田秋聲 金沢シリーズ」として、徳田秋聲記念館さんで販売しています(会期中は当館でも販売予定)。
 『光を追うて』を片手に、徳田秋聲記念館さんや当館企画展を巡りながら、秋聲と悠々が過ごした明治の金沢に思いを馳せてみませんか?

  会期は4月24日(土)~8月29日(日)まで(7月より月曜休館・祝日は翌日休館となりますのでご注意ください)。入場料:一般310円(高校生以下無料)
    
 中の人も変わりましたし、今後は定期的に更新したいですね。
 ・・・毎週更新くらいの頻度で、多分。。。

2020年

 
企画展のこと・いろいろ(3)
2020年 9月6日
 平成20年春、偉人館はリニューアルオープンしました。顕彰する偉人を8人から17人に大きく増やしたのです。偉人館が最も変わった時期といってもいいでしょう。この拡大路線は現在も続いており、今は32人の偉人を顕彰しています。リニューアルにあたり一番の悩みは「リーフレットをどうするか」でした。想像してみてください。おじいさん(失礼)の白黒写真が17枚並んでいるリーフレットを(ゾゾッ)。子どもたちが楽しみながら学ぶ博物館を目指しているのに、こんな暗いリーフレットではダメだ。どうすればいい?
 ここで偉人館は写真をやめてイラストにするという暴挙?にでます。紙芝居の成功体験に酔いしれていた我々は上出さんに偉人イラストをお願いしたのです。これが大成功。この原画、今は企画展に展示してありますが、普段は常設展の各コーナーに展示していました。この原画には、上出さんの一言コメントが載っており、来館者の多くの方々から「おもしろい」というコメントが寄せられています。今では小学生から寄せられる偉人の感想には、上出さんのイラストを手本にした絵が描かれることが多くなっています。上出さん、これからも末永いお付き合いをよろしくお願いします。感謝。感謝。


 
企画展のこと・いろいろ(2)
2020年 8月26日
 今回は上出さんとの出会いの頃の思い出話でも。記憶が曖昧な部分もあるのだけど、初めてお目にかかったのは平成18年だったと思います。その頃、子どもに偉人を紹介するため紙芝居を作ろうと思い立ちました。文章は児童文学のかつおきんやさん(故人)にお願いすることに決まったのですが、絵を誰に描いてもらおうか悩んでいました。金沢美大の名誉教授である山岸先生に相談したところ、上出さんを紹介してもらったように思います。どんな絵が出来上がってくるか期待と不安でいっぱいでしたが、絵を見て安心。安心どころかこちらのイメージにピッタリではないですか。
 出来上がった紙芝居は偉人館で何回か上演したほか、学校などにも貸し出しを行っています(ご希望があれば、今も貸し出ししてますよ)。さらに、この紙芝居をもとにした絵本が北國新聞社から出版されることになり、この企画は大成功でした。この絵本、今でも偉人館で購入できますよ(宣伝)
 紙芝居の成功に気をよくした我々は、上出さんを使った(失礼)さらなる野望を抱くのでした。(つづく)

 
企画展のこと・いろいろ(1)
2020年 8月12日
 今回の企画展は「上出慎也イラストの仕事VOL.5 おしゃべりなポートレート展 あの偉人から、あの知人まで」です。サブタイトルまで含めるとかなり長い名前です(笑)。本来4月25日から始まる予定でしたが、コロナの影響で1ヶ月ちょっと遅れての開催になりました。今更ですが、この企画展のこと、少し書きたいと思います。
 これまでの企画展は、偉人そのものにスポットを当てたり、その時代背景を紹介する展示が主でしたが、今回はかなり毛色が違います。一言で言えば上出慎也氏の個展になります。上出さん(いつもさん付けで呼んでいるので)は、当館で顕彰している偉人のイラストを描いているイラストレイターです。最近は当館のチラシ・ポスターのデザインもお願いしています。上出さん曰く「顔を描くのが好き」とのことなので、偉人の顔を中心にいろんな顔の企画展(個展)を開催することになりました。アクリル画、ペン画、鉛筆画などいろんなタッチの肖像が並んでいます。
突然話は変わりますが、今回のポスターには偉人ではない人物が3人います。どこにいるでしょうか?(特に凡人が一人いるぞ。「偉人増えたなぁ」(ボソッ)。けっ、決して私ではない)

 
珍しいお客様
2020年 6月14日
 
 昨日の夜、我が家に珍しいお客様がやって来ました。ノコギリクワガタ(オス)です。夜の10時頃、家の前にたたずんでいると(なぜこんな時間に家の前にいたかは秘密です)街灯に向かって何やら黒い小さな影が。カナブンかな?と思いつつ近づいてみると、なんとノコギリクワガタではないですか。条件反射のように、すぐに捕まえていました。30年以上住んでいますが、クワガタが飛んできたのは初めてです(カナブンはちょくちょく飛んでくるが)。
 早速家に連れ帰り、写真撮影。童心に返ったようで何枚も撮りました。このまま家で飼おうかとも思ったのですが、我が家の猫がちょっかいを出しに来た。虫かご(今も空の虫かごが何個か家にある)に入れておけば安心かなと思うものの、好奇心旺盛な我が家のニャンコが何をするかわからない。それで、自然に帰すことにしました。せっかく我が家に来たのだからと、リンゴで少しおもてなしをした後、1時間弱で帰って行きました。また、いつでも遊びにおいで。今度はスイカでも用意しておくから。
あまりのうれしさに3枚も写真を載せました(笑)



 
偉人館のゲートキーパー(2)
2020年 6月11日
 いろんな経緯があって偉人館にやってきたノームの像ですが、偉人館のゲートキーパーとして、新たな職務に就くことになりました。偉人館の職員にはゲートキーパーとして認識されていましたが、一般の人にとっては、存在すら知らないという人が多いのではないかと思います。
 そんな時、あるスタッフから、「ノーム像を偉人館のゲートキーパーとしてもっと宣伝しよう」という提案が出てきました。以前から小さな銘板は設置されていたのですが、これだけでは何の効果もありません。そこで考えたのが、偉人館のオリジナルグッズにノームを登場させることです。ちょっと怖い感じがするノームですが、当館の偉人のイラストを描いている上出慎也氏に依頼し、「怖かわいい」ノームができました。アイディア豊富なスタッフのおかげもあって、できあがったグッズが「おまもりノームはんかち」(写真)です。ハンカチにノームの刺繍が入って、なんと税込み550円。お得!皆さんも是非お守りとしてご購入を(笑)。
 さらに、ノームの影が入ったスタンプも作成、いろんな場面で活躍してもらおうと思っています。

 
いよいよ6月1日から
2020年 5月27日
 コロナウイルス感染防止のための休館も5月末まで。いよいよ6月1日から通常開館になります。通常開館といっても、受付にはアクリル板が設置され、マスク着用だの、換気だの、検温だのとまだまだ制約が多いですが、まだしばらくは感染再拡大防止のためには仕方ないですね。
 休館中は普段なかなかできないでいたことが少しできました。図書の再整理や倉庫の片付けなどです。いざ始めてみると、必要ないものが続々出てきました。もしかしたら後で使えるかもしれないなどの理由で残しておいたものがいかに多いか。今はやりの断捨離(だんしゃり)と、この機会に処分することにしました。
 話は変わりますが、皆さんは外出自粛の中、どのように過ごしていましたか。私は久しぶりにジグソーパズルに熱中していました。近所の模型屋さんにパズルがありそうだったので歩いて買いに行きました。他にお客さんがいなかったので大急ぎで一つ買って帰りました。大きさは1016ピース。できあがりが107×77cmになるという最大級のパズルです。30年ぶりくらいかな、などと思いつつ、休みの日は1日中パズル三昧。最初はとても完成しないと思ったものの、実質5日ほどで完成しました。
さて、いよいよ6月1日から開館です。大きな声で皆さん是非来てくださいとはいえない状況なので、(小さな声で)遊びに来てください。

 
偉人館のゲートキーパー(1)
2020年 5月23日
 長らく「雑報」の更新をサボっていました。今見ると2016年以来の更新であり、なんと4年もたっています。この間、館長や他のスタッフからも「雑報」書いて、といわれていたんですが、なんとなくここまでのびのびになっていました。少し心を入れ替えて、今回からの「雑報」に望みたいと思います。
 再開の第1回のテーマ、何にしようか迷ったのですが、「偉人館のゲートキーパー(門番)」です。偉人館の右手前庭に小さなこびとの像があるのをご存じでしょうか。これは高峰譲吉がアメリカで設立した「タカミネラボラトリー」の玄関前に設置されていたゲートキーパーです。「タカミネラボラトリー」の現在の所有者であるバイエルヘルスケア社のご好意により、平成18(2006)年に現在の場所に移築されたものです。高峰の会社の門番から偉人館の門番への転職です(笑)。

 この像については、偉人館に移築される前から、その存在は知っていました。「タカミネラボラトリー」の玄関前にゲートキーパーとして「七福神」の像がある、という話が伝わっていたからです。なので、七福神の誰が来るのかと思っていたら、届いた像はなんとノームではないですか。ノームとは北欧神話に登場する地中の宝を守る地霊のことです。白雪姫に登場するこびとですね。なんで七福神とノームを間違えるのだろうと、かなり驚いたことを覚えています。(つづく)

2016年

 
企画展の写真を撮ってきた時のお話(4)
2016年 5月21日
 今シリーズ最終回です。登場するのは高多久兵衛と松本佐一郎の胸像です。先に言っておきますが今回は撮影失敗などなく、撮り直しにも行ってません(笑)。
 場所はJA金沢市安原支店。この時は道にも迷わず、胸像も簡単に見つけることができました。二人の胸像がいい感じで並んで建っています。近すぎず、遠すぎず。ここには展示には使わなかった二人のツーショット写真を載せておきます。

 二体とも「金沢市長 岡良一」の撰文があり、建立は昭和52年の10月と11月。松本佐一郎の胸像が1ヶ月だけ先輩です。1月違いなら、同時に建てればよかったのでは、と思いましたが、きっと何らかの事情があったのでしょう。高多久兵衛は嘉永4年生まれ、松本佐一郎は明治40年生まれなので、勝手に高多久兵衛の胸像の方が先に建っていたのだろうと思っていたので、ちょっと意外な気がしました。ちなみに高多久兵衛が亡くなった年に、松本佐一郎が生まれているんですよね。これも何らかの御縁というものですかね。
 展示の裏話みたいなことを書き続けましたが、関係各位のご協力もあり、無事企画展を開催することができました。高峰譲吉や八田與一ほどメジャーではありませんが、「農業」にもこんなに偉人がいたんだという企画展です。皆さまのご来館お待ちしています。

 
 
企画展の写真を撮ってきた時のお話(3)
2016年 5月18日
 今回の企画展のサブタイトルは「高多久兵衛、本岡三千治・太吉、松本佐一郎」となっています。前回、前々回の雑報に登場した水登勇太郎や西川長右衛門の名前はありません。「企画展の写真とか言っているが、企画展と何の関係があるの?」と思われた方も多いのではないでしょうか。自分で企画した展示なので私はよくわかっているのですが(当たり前)、まだ企画展を見ていない人にとっては「それって誰」となっちゃいますよね。今気付きました。

 ということで、ネタバレにならない程度の簡単な説明をしておきます。サブタイトルにある4人は(私が言うのも何ですが)展示資料も充実しているのですが、水登勇太郎と西川長右衛門は展示資料がなく、解説パネルと写真で紹介しています。水登勇太郎は「日本で最初にホルスタインを輸入」した人、西川長右衛門は「コシヒカリの原形にあたる「大場坊主」というお米の品種を見つけ、栽培」した人です。どちらも金沢の人です。業績だけを見れば、サブタイトルにある4人と遜色ないのですが、「展示資料がない」ということで、サブタイトルに入れなかった偉人です。単に「農業」といっても色んな人の努力があったことがわかる企画なので、ぜひ見に来て下さい。

 
 
企画展の写真を撮ってきた時のお話(2)
2016年 5月6日
 2回目は西川長右衛門の顕彰碑のお話でも。長右衛門の顕彰碑は大場町にあります。前回の水登勇太郎の場合と同じく、大場町周辺は何度か行ったことはあるものの、具体的な顕彰碑の場所はわかっていませんでした。一応住宅地図を調べてみると顕彰碑らしいマークを発見。地図をコピーして持っていけばよかったのに、見ただけでわかったような気になり、地図を持たずに出発。大場町に入った辺りから、前後に車がいなかったので、ゆっく周りを見ながら運転していると信号機に「八田」の文字が。ん?気付かずに通りすぎていたようです。Uターンして、今度は歩いている人に顕彰碑の場所を尋ねたところ、わずか10m程先にありました。恥ずかし。



 まあ色々ありましたが、顕彰碑の写真撮影。今回は逆光でもなく無事撮影終了。念のために車に戻って写真を確認すると、顕彰碑の横に「カラオケ喫茶」の文字が。う~ん。もう少し角度を変えて取り直すことにしました。ということで今回も写真は2枚です。顕彰碑を探しに行かれる方は「カラオケ喫茶」を目印にすると、すぐに見つかりますよ(笑)
 
 
 
企画展の写真を撮ってきた時のお話(1)
2016年 5月4日
 
 現在、偉人館では「金沢の農業に尽くした人びと」という企画展を開催しています。その準備段階で起こった失敗談や苦労話を書いてみようと思います。といっても、展示そのものの話ではなく、写真撮影、企画展の写真パネル用に、市内にある胸像や記念碑の写真を撮りに行った時のお話です。

 
 一番の失敗は、大乗寺参道にある水登勇太郎の胸像を撮りに行ったときのことです。ある晴れた日の午後、公用車を使って大乗寺に向かいました。実はこの胸像を見るのは初めて。「参道を行くとすぐ右手にあるよ」と聞いていました。適当に車を止めて歩いて探そうと出発したのですが、大乗寺入口に「駐車禁止」の文字が。しかたなく車に乗ったまま参道に入ると、胸像はすぐに見つかりました。かなり大きな像です。これまで何度か通った道ですが、全く気付いていませんでした。ちょっと写真を撮るだけ、ということで参道に一時停止(すいません)して、大急ぎで写真を撮りました。ところが見事な逆光。天気の良いのが災いして胸像の顔は真っ暗。フラッシュをつけても胸像が大きすぎて効果なし。帰ってから写真の明るさを調整してみるも、とてもパネルには使えそうもありませんでした。後日、逆光にならない午前中に撮影に行ってきました。自分で言うのも何ですが、良い写真が撮れたと思います。
 せっかくなので、この雑報に逆光の写真とうまくいった写真を並べておきました(笑)
 
 
小学生のリクエストコーナー(その2)
2016年 4月11日
 

 偉人館では『もっと知りたい 金沢ふるさと偉人館』という冊子を作成し、毎年市内の小学4年生全員に配っています。このため、偉人館に団体見学で来る子どもたちは、事前にこの冊子で勉強してくることが多くなっています。この事前学習は狙い通りなのですが、問題はこの冊子に91人の偉人が載っていることです。この91人は編集委員会で選定したもので、素晴らしい業績を残した偉人であることは間違いありません。ところが、偉人館で顕彰展示をしている偉人は、この冊子を配った頃20人でした。誤差71人。子どもたちはこの冊子で勉強して、偉人館でもっと勉強しようとやってくる。ところが来てみるとお目当ての偉人がいない。がっかりする。という、あまりうれしくない状況にしばしば遭遇するようになりました。
 
 これはイカン。ということで、まず三文豪(各記念館の了解を頂いて)、清水誠(マッチ)、加藤せむ(女子教育)のミニコーナーをつくりました。まだ足りない。何とか展示資料を工夫しよう。そうだ、ミニコーナーなんて言わず、いっそのこと「小学生のリクエストコーナー」をつくって、リクエストに応えていこう。と、こんな雰囲気で新コーナーが決まりました。
すぐにリクエストすべてに応えられるわけではありませんが、できるだけ頑張りたいと思っています。夢は91人!(それ以上か?)

 
 
小学生のリクエストコーナー(その1)
2016年 4月5日
 

 偉人館では、多くの偉人を紹介しているので、偉人たちをグループに分けて展示しています。
例えば「日本近代科学の創始者たち」とか「日本の真と善を見つめた人びと」などです。前回、新しい偉人が二人加わったと紹介しましたが、実は新しいグループのコーナーも始まりました。その名も「金沢市内小学生のリクエストによる偉人たち」。これまでのグループ名は、偉人の業績によって分けたものですが、新コーナーはその名のとおり「子どもたちのリクエスト」です。したがって、このグループの偉人たちの業績はさまざまな分野にわたっています。
 全国には数多くの博物館がありますが、小学生のリクエストによって展示を行っているという施設は珍しいのではないでしょうか(私が知らないだけかもしれませんが)。リクエストにすべて応えられるわけではないのですが、このような取り組みはおもしろいと思っています(自画自賛 笑)。
 次回は、どうしてこのようなリクエストコーナーが誕生したのか、ということを書いてみようと思います。

 
 
高峰桜もほぼ満開
2016年 4月3日
 

 桜の季節がやってきました。今年の桜は早いなあ。例年だと小学校の入学式の頃は、まだほとんど咲いていない印象があるんだけど。ということで調べてみました。すると今年の開花は、金沢では平年より5日ほど早いそうです。なるほど。さらに、暖冬の年は桜の芽が目覚めにくく、開花が遅くなるそうですが、今年は1月以降も気温の高い日が多かったため、平年より開花が早いのだそうです。えっ?1月以降も気温が高いことを暖冬というんじゃないの?こんな疑問もわきましたが、よくわかりません(笑)。とにかく桜が咲くということはうれしいことです。
 偉人館の高峰桜もほぼ満開です。昨年、陽当たりのよい場所にお引っ越ししましたが、今年はびっくりするくらい、たくさんの花が咲いています。やっぱり陽当たりって大切なんですね。もう立派な桜の木です(丈は少し小さいですが)。花の命は短いですから、ぜひ早めに見に来て下さい。

 
 
桐生悠々、関口開の新コーナー
2016年 3月29日
 

偉人館雑報、長い間お休みしてしまいました。今回、偉人館に新コーナーが設置されることになったので、これを機会に再出発です。
 3月27日(日)から、桐生悠々と関口開の新コーナーのお披露目です。この二人、昨年の企画展で採り上げた偉人で、この企画展はある意味、常設へ向けての事前宣伝のような意味合いもありました。企画展の時点では常設の話題は発表していませんでしたが。
 せっかく偉人が増えたので、新しい二人について簡単に紹介しておきます。桐生悠々は長野の信濃毎日新聞で主筆を務めたジャーナリストです。「関東防空大演習を嗤ふ」を執筆して軍の怒りを買いますが、「言わねばならない事」を貫いた反骨のジャーナリストです。
 関口開は、独力で英語の数学書を翻訳し、日本で最初の数学教科書を作成した数学者です。特に『新撰数学』は版を重ね、総計22万部という大ベストセラーになっています。
 とにかく、偉人館に新しい仲間が加わったということで、ぜひ見に来て下さい。

 

2015年

 
何だかわかりますか?
2015年 7月22日
 
 ちょっと写真を見て下さい。偉人館の前庭のヒマラヤスギを撮ったものです。白っぽいタマゴのようなものが写っていますよね。これ何だかわかりますか?正解はマツボックリです。なんとなく不思議な風景です。
 ヒマラヤスギって、名前からしてスギの仲間だと思ってしまいますよね。スギにもマツボックリができるの?実はヒマラヤスギはマツ科なので、マツボックリができるのです。ややこしい。マツ科なら「ヒマラヤマツ」みたいな名前にしておけばいいのに。
 
 名前のことはともかく、今たくさんのマツボックリが付き始めています。高いところにあるものが多いので、正確な大きさはわかりませんが、10㎝強くらいだと思います。今はまだ固いですが、1年から数年かけて熟すそうです。熟すとバラバラになって落ちてきます。イチョウの葉っぱみたいな形の破片が大量に降ってくるので、この時期は掃除が大変です。
  ちなみに、今年の春先はこの状態でした。この破片の中に、一部「花が咲いた」ような破片があります。これはマツボックリの頭の部分で、クリスマスリースなど、装飾用に使われることが多いといいます。実際、拾いにくる人もたくさんいます。熟すまで1年から数年と書きましたが、偉人館のヒマラヤスギの場合、1年半から2年くらいじゃなかったかと思っています。記録を取っている訳ではないので、もしかしたら1年で熟しているかもしれませんが。マツボックリが落ち始めたら(掃除が大変になったら)またご報告します。

 
 
藤岡作太郎の誕生日
2015年 7月19日
  7月19日は藤岡作太郎の誕生日です。作太郎は明治3年生まれですから、145回目の誕生日になります。
ハッピーバースデー作太郎~~

 御存知の方も多いと思いますが、鈴木大拙(貞太郎)、西田幾多郎も明治3年生まれで、3人は第四高等中学校の同級生であったことから「加賀の三たろう」と呼ばれています。「三太郎」と漢字で表記したものもありますが、「幾多郎」は「太郎」ではないので、偉人館では「三たろう」とひらがなで表記しています。どちらが正しいというものではないのですが、偉人館なりのこだわりです(笑)。ちなみに、天文学者の木村栄も明治3年生まれで、作太郎以外の3人は文化勲章を受章しています。明治3年は偉人の当たり年なんです。偉人館では「明治3年の奇跡」と呼んでいます。
 
 「三たろう」の3人が一緒に写った写真は、残念ながら1枚もありません。今後見つかる可能性はゼロではないでしょうが、かなり低いと思います。作太郎と大拙、作太郎と幾多郎が写った写真はあるのですが。3人は第四高等中学校の同級生と書きましたが、卒業しているのは作太郎だけです。大拙は学費が払えずに、幾多郎は薩摩から来た校長に反発して、それぞれ中退しています。
 作太郎は残念ながら39歳という若さで亡くなっています。歴史に「たら、れば」はありませんが、もし作太郎が普通に長生きしていれば、作太郎も文化勲章を受章していたと、私は信じています。
(写真は作太郎のいたずら書き)

 
 
クイズラリー始まります
2015年 7月19日
  いよいよ夏休みですね。働いている人にとっては、夏休みは旧盆辺りになると思いますが、小学生にとってはこれから1ヶ月半ほど、楽しい楽しい夏休みです。
 偉人館では、この時期毎年、小学生を対象としたクイズラリーを行っています。題して偉人館クイズラリー「夏の陣」。春と秋は団体やグループ見学で大勢の子どもたちが来てくれるのですが、夏休み中は個人だのみ。そこで少しでも多くの子どもたちに来てもらおうと考えたのが、このクイズラリーです。10問の問題を解き、全問正解者には偉人博士の「学位記」が贈呈されます。表面には「金沢偉人博士の学位を授く」という、ちょっといかめしい文言があります。これは桜井錠二の学位記を参考にしたもので、明治時代の由緒正しいものなのです(笑)。もちろん本人の名前も入っています。裏面には、クイズに登場した偉人のイラストが入っています。大きさは名刺サイズで、ラミネート加工してあります。持ち歩いて、友だちなどに見せてほしい(宣伝してほしい?)という意味で、この大きさにしました。

 これまで537人に偉人博士の学位を授与しています。今年の「夏の陣」に何人挑戦してくれるか楽しみです。対象は小学生ですが、それ以外の人でどうしても挑戦してみたいという方は、受付で相談して下さい。「雑報見た」の一言があるといいことあるかも(笑)。
 
 
 
『軍艦発機丸と加賀藩の俊傑たち』
2015年 7月12日
 
 元石川県立歴史博物館館長の徳田寿秋先生の『軍艦発機丸と加賀藩の俊傑たち』(北國新聞社 1,800円+税)を読みました。1ヶ月ほど前に、徳田先生ご本人がわざわざお越しになり、偉人館に寄附していただきました。本当にありがとうございます。
 「おもしろかった」。読後の感想はこの一言に尽きます。「あとがき」には「物を書くことを生業としてきたひとならば、発機丸を主人公に、この拙書で取り上げた人物を縦横無尽にからませながらストーリーを展開し読みごたえのある一冊を完成させたに違いないと思われるが、私にはそのような能力がない」と書かれていますが、そんなことはありません。登場人物は、皆生き生きと描かれ、幕末・維新の熱気が伝わってくるようです。改めて、幕末から明治という時代は、熱意と強い意志がある人にとっては幸福な時代だったと思います(今の時代が不幸だというわけではないですが)。興味のある方はぜひご一読を。
 主な登場人物は、佐野鼎、岡田雄次郎、浅津富之助、関沢孝三郎(明清)、沢田直温、田中信吾、嵯峨寿安の7人。魅力的な人ばかりです。もしかしたら、このまま偉人館の企画展になるかも。その節は、徳田先生、よろしくお願いします。

 
 
三宅雪嶺の誕生日
2015年 7月1日
 7月1日は三宅雪嶺の誕生日です。万延元年生まれ、西暦でいうと1860年生まれなので、155回目の誕生日ということになります。
ハッピーバースデー雪嶺~~

 ということで、常設展のパネルでは紹介していない雪嶺の隠れた一面を紹介しようと思います。ちなみに過去の企画展では紹介しています…。

 雪嶺には何でも集める癖、いわゆる収集癖がありました。切手、はがき等何でも捨てずにとっておきました。たばこのラベル、マッチのラベル、トランプ、絵葉書(未使用)、千社札、版下集などがスクラップブックに貼られて残っています。雪嶺はたばこを吸わなかったそうですが、たばこのラベルはどうやって集めたのだろう。吸う人からラベルだけもらったのか?買って中身を人にあげた(捨てた)のか?またトランプは表裏1枚ずつ貼ってあるが、残りのカードは捨てたのか?(2枚足りないトランプでは遊べないですよね)。色々な楽しい疑問が湧き出てきますが、とにかく雪嶺は色んなものを集めています。
 中でも切手収集は特に熱心で、世界各国の切手を収集し、国別に整理してあります。その収集した切手を毎日のように眺めて楽しんでいたそうです。切手用に螺鈿の箱を作らせ、その中に保管していたそうで、その螺鈿の箱は雪嶺の肖像画にも描かれています。もちろん、現在も御遺族の方が大切に保管しています。

 
 
武蔵国分寺跡
2015年 6月29日
 出張で東京方面に行ってきました。目的地の一つは国分寺市。東京へは何度も行っていますが、国分寺市は初めてです。ということで、少し時間を見つけて、国分寺市の名前の由来になった(私が勝手にそう思っているだけですが)武蔵国分寺跡に行ってきました。国分寺駅から歩いて20分弱と聞いていたのですが、親切にも仕事で訪ねた方に車で送っていただきました。暑い日(30度弱あったのかな)だったので、本当に助かりました。ありがとうございます。

 途中、日本の名水百選にも選ばれているという「真姿の池湧水群」も案内していただきました。ここは遠方からも水を汲みに来る方が多いと聞きました。実際、何人かの水を汲みに来たと思われる方に出会いました。




 武蔵国分寺跡は国指定史跡で、公園として整備されています。金堂などの礎石が見られます。残念ながら資料館みたいなものはなく、案内板も少なめです。能登国分寺跡みたいに整備すれば多くの人が来てくれるのではないかなあ。しかし、地元の親子が遊んでいる姿を見ると、シンプルな公園のままで、地元の方の憩いの場であるのもわるくないなあ、と思うようになりました。
 
 
これ何だかわかりますか
2015年 6月13日
 
 突然ですが、写真に写っているもの、何だかわかりますか。手、なんて言わないでくださいね。小さいトウモロコシみたいなもの。これからしばらくの間、偉人館の庭にたくさん落ちています。
 正解はハクモクレンの花芯です。花はサクラの少し前くらいの時期に咲きますが、今頃から、この花芯がポロリ、ポロリと落ちてきます。この中に、モクレンの種が入っているものだと思い込んでいました。ところが、調べてみると、この時期に落ちてくるものは受精に失敗したものなんですね。ということは、種は入っていないことになります。受精に成功したものは秋まで木に残り、中に朱赤の種ができるそうです。
 それにしても、木にある花芯の大半はこの時期に落ちてしまいます。受精の確率は低いと書いてありましたが、激低です。これまで、気にしていなかったからかもしれませんが、秋に種がなるのを見たことがない。今年は、偉人館のモクレンにも秋に種が実るかどうか確認してみたいと思ってます。

 
アジサイが咲きはじめました
2015年 6月7日
  偉人館の庭のアジサイが咲きはじめました。5月は晴れた日が多く、暖かい(暑い?)日も多かったですね。そのせいか、今年はアジサイの花の数が多いような気がします。実際花の数を数えているわけではないので、気のせいかもしれませんが(笑)。アジサイといえば梅雨。もうすぐ梅雨入りとなるのでしょうか。あまり雨が降らないと、農作物などに影響が出てよくないことはわかるのですが、自分の生活だけを考えると、雨は降らない方が助かります。最近は局地的豪雨などの異常気象がよくみられますが、今年はそんなことがないよう祈りたいものです。
 ところで、今年もヤモリの子どもを見かけました。残念ながら写真は撮れませんでしたが、去年みたヤモリの子どもでしょうか。ヤモリ(家守)に守られている偉人館。今年も守ってくださいね。
 
未来を見つめて
2015年 6月2日
 悠々についての個人的感想でも一つ。悠々といえば「関東防空大演習を嗤ふ」が有名で、「反軍ジャーナリスト」というイメージを持っている方もいると思います。しかし、悠々は単純な反軍や政権批判をしているのではないと思います。むしろ、これからどうすれば良いかを伝えているのだと思います。「関東防空大演習を嗤ふ」は題名こそセンセーショナルですが、内容は敵機が本土上空まで来ないよう防御をきちんとしなさいという提言の意味が強いと思います。他をみても、単なる批判ではなく、理想的な未来を見つめての提言が多いと思います。本人も「煎じ詰めれば理想と現実の衝突である」と書いていますが、悠々は常に理想的な未来を見つめていたのだと思います。

 最後に、悠々の遺書ともいえる「他山の石廃刊の辞」の一節を紹介します。無念さとそれでも未来を見つめる悠々の姿が見えるような気がします。


 「やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつつある地球の表面より消え失せることを歓迎致居候も唯小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候」
(写真は悠々の著作集『畜生道の地球』)


 
馬篭の藤村記念館 おまけ
2015年 5月29日
   
馬篭宿は坂道です。ずっと坂道です。藤村記念館はそのほぼ中腹にありました。宿場町を登り切ったところに藤村の碑があるということで、行ってみることに。一緒に行った家族は、これ以上登りたくないというのでお土産屋に残し、雨の中、一人で出発。途中、山口誓子の句碑や高札場を見ながら、展望台に着きました。ゼイゼイ。

 天気が良ければ素晴らしい風景なんでしょう。ちょっと残念。藤村の碑はすぐに見つかりました。碑文を見ると「心を起さうとおもはば先づ身を起せ ニィチェの言葉より」。
えっ。ニイチェの言葉?てっきり、小説か詩の一節が刻んであると思ってました。でも、これはこれでおもしろい。
 
 帰り道、無料休憩所みたいな所があったので覗いてみると、無人の施設の中に一匹の白猫が。入ってみると、「ニャー」と言ってお出迎え。看板猫か?後でお土産屋さんに聞くと、野良猫だそうです。きれいで愛想の良い猫ちゃんでしたけど。




 
馬篭の藤村記念館 その2
2015年 5月24日
 藤村記念堂は昭和22年の完成しました。谷口による戦後最初の作品です。金沢の卯辰山にある徳田秋聲文学碑も同じ年の作品で、記念堂落成式の翌日に文学碑の除幕式があったそうです。何か不思議な縁を感じます。記念堂の工事はすべて馬篭の村人によって作られたといいます。戦後間もない時期に、このような記念堂を建てようと考えた馬篭の人々はすごいと思います。

 門を入るとすぐに障壁に突き当たり、右手に進むと記念堂があります。谷口は記念館でも博物館でもなく、記念堂という言葉にこだわったそうです。





 細長い建物である記念堂は、左手は開放的で庭を眺めることもできます。右手の壁には写真や書が掛けられています。そして一番奥に藤村の座像がありました。博物館に勤めていると、作品保護のため自然光を嫌う傾向があるのですが、記念堂にいると、自然光ってすごいなあと感じます。本来、作品は自然光で見るものだと。難しい問題です。
 
 記念堂からさらに進むと、常設展や企画展の建物があり、ここに原稿や書簡などたくさんの資料が展示されていました。実はここで白状しますが、私は藤村記念館と藤村記念堂はイコールだと思っていました。記念堂が名称変更して記念館になったのだと。実際は、記念堂は記念館の一部であり、全てではないのですね。勉強になりました。

 
馬篭の藤村記念館
2015年 5月21日
 先日、休みを利用して馬篭、妻籠へ行ってきました。目的の一つは馬篭の藤村記念館。門と障壁、藤村記念堂という細長い建物は、当館で顕彰している谷口吉郎が設計したもの、というのが理由の一つです。何十年か前に一度訪れたことはあるのですが、改めて谷口作品として見てみたいと思ったからです。もう一つ、現在徳田秋聲記念館で開催している「日本の自然主義文学展 第二期 島崎藤村」に刺激を受けて、改めて藤村見てこようかな、と思ったことです。皆さんもぜひ秋聲記念館に足をお運びください(宣伝です)。私はというと、藤村の作品は高校生の時『破戒』と『夜明け前』を読んだくらいなんですけど。
 当日はあいにくの雨。台風が近づいているとか。何で5月に台風?なんて思うものの、来てしまったものはしょうがない。雨の宿場町も風情があって良いじゃないか、観光客も少ないし。と負け惜しみを言いながら坂道を登っていくと、藤村記念館に着きました。まず、古い町並みに溶け込みながらも、存在感を示す門に目がいきます。この門について、谷口自身次のように書いています。

「旧中山道に面した道路側には、板壁と冠木門を作って格式ある「本陣」の跡らしくした。すべて檜作りでそれに煤と柿渋を塗って黒くした。門の突き当たりには、白い漆喰の土塀を作り障壁とした。」(「信濃教育」1953・8)(つづく)
 
季節外れのお花見でも
2015年 5月14日
 少し前になりますが、偉人館の前庭にあった高峰桜が引っ越しました。引っ越し先は、庭の奥の方で、八田與一の胸像の近くです。
 最初にあった場所は、高峰の胸像と小人像(アメリカにあったタカミネ研究所の玄関に飾られていた像)の間です。高峰関係の像に挟まれており、この位置がベストだと考えたからです。ところが、大きな見落としがありました。すぐそばに、大きなヒマラヤスギの大木があり、その張り出した枝によって、非常に陽当たりが悪いのです。これだけ陽当たりが悪いと、桜の生育にも悪影響が大きいということで、今回引っ越しすることになったのです。

 新しい場所は陽当たり良好。庭の奥といいましたが、偉人館内のホールから見ると正面の位置です。前より目立つ場所に引っ越したといっても良いと思います。
 写真は、引っ越し直後のもので、ちょうど花が咲き始めた時のものです。街中の桜はもう散ってしまいましたが、季節外れのお花見を楽しんでください。(写真ですが)
 
偉人館のチラシ
2015年 5月6日
 今回の企画展のチラシ、ポスター見ていただけたでしょうか。実は昨年の企画展から同じ人にデザインしてもらっています。常設展で紹介している偉人のイラストを描いていただいたイラストレターの上出慎也氏です。
 その狙いは、「偉人館といえばこんな感じ」というイメージが定着すればいいなあということです。絵の素人である私が言うのも何なんですが、人物の特徴をよく捉えていて、親しみが持てると思います。近代に活躍した偉人というと、白黒写真になってしまうのですが、こうしてイラスト(絵画)風にすると、いまでも生きているような気がします。手に持っている小物(悠々の場合は万年筆)もこっています。三宅雪嶺は何故かお餅ですけど(笑)。


 常設展ではイラストの原画とともに、上出さんのコメントが載せてあります。気の利いたコメントも多く、このコメントが一番おもしろかったというお客様もおいでます。本当は展示がおもしろかったといってほしいのですが(笑)。これからも、しばらくの間はこの路線で行くつもりです。次回企画展のポスターも楽しみです。 
 
 
金沢と長野の不思議な関係
2015年 4月30日
 現在開催中の「反骨のジャーナリスト桐生悠々」展の準備をしながら思ったことがあります。金沢と長野には不思議な関係があるなあ、ということです。なにが不思議か、というと、金沢出身の悠々が長野の『信濃毎日新聞』で活躍し、長野県出身の赤羽萬次郎が金沢で『北國新聞』を創刊していることです。 新聞人として知られる二人が、自らの出身地ではない土地で活躍し、それがなんとなくリンクしているように感じられるのです。悠々が四高の学生時代、萬次郎が金沢の『北國新聞』で活躍しているのをみて、悠々は長野で新聞記者になろうと思った、なんてことはないと思いますが、何か不思議な縁を感じてしまいます。
 話は変わりますが、5月10日(日)午後1時50分から、NHKアーカイブス「戦後70年 日本人はなぜ戦争へと向かったのか~メディアと民衆~」で悠々も採り上げられます。興味のある方はぜひ御覧ください。もちろん私も見る予定です(笑)
(写真は現在の『信濃毎日新聞本社です) 
 
 
桐生悠々展 はじまりました
2015年 4月27日
 お久しぶりです。長い間、雑報の更新が滞っていましたが、再開しますので、よろしくお願いします。
 さて、今日から「反骨のジャーナリスト 桐生悠々」がはじまりました。「北陸新幹線開業記念」と銘打った企画展です。悠々と北陸新幹線、何の関係があるの?とお思いの方もいると思います。これが大ありなんです。悠々は長野の『信濃毎日新聞』で主筆を務め、活躍したジャーナリストなのです。北陸新幹線というと、東京-金沢が近くなったといわれていますが、長野-金沢はもっと近くなったと思うんですよ。新幹線開業前は長野まで4時間近くかかったのが、今はわずか1時間ちょっとで着くんですよ。東京より短縮された時間はものすごく大きいことになります。ということで、長野からも新幹線に乗って、たくさんの人に見に来てもらいたいと思っています。
 

2014年

 
偉人百句(千坂小学校)
2014年 9 月21日
 9月9日に団体見学で訪れた千坂小学校四年生のみんなから偉人百句が届きました。約2/3は従来の偉人百句、残り1/3は偉人館へのお礼の手紙でした。偉人百句では、安宅彌吉の句が絶品。うちのキャッチコピーに使いたいくらいです。今年から新設した加藤せむと清水誠の人気も相変わらずです。改めて、色々な偉人の見方があるなあ、と教えられました。
 お礼の手紙、本当にありがとうございました。(お世辞でも)「おもしろかった」、「また来たい」と言ってもらうとうれしいものです。「館長のうら話がおもしろかった」という子もいましたが、いったいどんな「うら話」をしたんだろう(笑)。「今度は家族と一緒に来たい」という子も何人かいましたが、ぜひ来て下さい。きっとお父さん、お母さんより、君の方が偉人について詳しいと思うから、説明してあげるといいと思うよ。
 千坂小学校四年生のみなさん、本当にありがとうございました。

 
ナイトミュージアム(劇団羅針盤)
2014年 8 月23日
 昨日(22日)、当館では今年最初のナイトミュージアムのイベントがありました。劇団羅針盤による太宰治の「グッド・バイ」の朗読劇です。今年は、館の前に電気が付く蛍光ポスターが設置されたので、暗くなってから前を通る人たちの多くがポスターを見ていました。ポスターを見た人が必ず入館するわけではありませんが、ナイトミュージアムらしいというか、周知するという意味でも良いアイディアだと思います。「夜間入館は無料」という点が、もっと強調されていたら、通りすがりの人でも入りやすかったかも?とも思いますが、有料イベントもあるので、致し方ないのかな。
 演劇については素人の私ですが、役者さんの声は迫力満点でした。一人で読む朗読とは違い、役になりきった人がそれぞれ読む朗読劇は、声だけ聞いていると、本格的な劇場で演劇が行われているようでした。劇団羅針盤をはじめ関係者の皆さん、参加者の皆さん、ご苦労様でした。そしてありがとうございました。
 当館では10月3・4日にもナイトミュージアムのイベントがあります。こちらにも、ぜひ参加して下さい。
 
持明院の妙連
2014年 7月31日
 新聞に持明院の妙蓮の記事が出ていたので、早速見に行ってきました。偉人館から自転車で…。いや~暑かった。着いたときには汗だくです。
 一息入れて見学です。お寺の裏手の池に妙連が繁っています。まだつぼみや咲きかけの花が目立ちます。複数の花が集まって咲いた写真を撮ろうと池の周りをグルグル。池の中央の花は遠すぎてうまく撮れません。何とか数枚の写真を撮りました。お寺の方に伺うと、咲き始めると周りから枯れるのも早く、ちょうど良い写真を撮るのは中々難しいそうです。納得。花の写真は当ホームページの「藤井健次郎」・「ゆかりの地」に載せたのでぜひ見て下さい。
 花を見ているときに、一匹のシオカラトンボが。虫好きの私は蓮の葉にとまったトンボをパチリ。うまく撮れているでしょ(自画自賛)。
 妙蓮の公開は8月10日までだそうです。珍しい花なので、見たことのない方はぜひ見に行くことをおすすめします。
 
偉人百句(緑小学校)
2014年 7月30日
 今年2校目の偉人百句が届きました。緑小学校4年生121名です。昨年は夏休みまでに6校の応募がありましたが、今年はまだ2校目。秋以降に期待しています。
 今年4月から清水誠、加藤せむ、徳田秋聲、泉鏡花、室生犀星の5人の新コーナーを設けていますが、この5人を選んだ子が目立ちます。昨年の偉人百句や団体見学の時の聞き取りでこの5人を増やしたのですが、今のところ大成功といって良いと思います(自画自賛)。加藤せむは唯一の女性ということもあり女の子に人気。三文豪人気は最近読書離れと言われていますが、それでも本が好きな子どもが多いことの証かな、と思っています。清水誠は子どもは火遊びが好き?というわけではないでしょうが、日本最初のマッチにインパクトがあるのでしょう。写真を載せた飯盛里安の子、日記に注目したことが新鮮でした。昨年からかなりの数の作品を見てきましたが、日記を採り上げた作品は初めてです。地元色が出ているなあ、と思ったのは安原地区の耕地整理を行った高多久兵衛。他の学校ではほとんど採り上げる子はいませんでしたが、さすが地元の偉人ということでしょうか。
 学校ごとに特色のある偉人百句、これからもお待ちしています。

 
近江妙連(その3)
2014年 7月21日
 時期が少し早かったのか、つぼみが多く、花が咲いているのは1/4程度でした。花は2~12の花群からなるとのことですが、二つの花群のものが最も多く、3~4の花群も少し見つかりました。残念ながら5以上の花群を見つけることはできませんでした。
 資料館の方(保存会の会長さんの奥様だそうです)に話を伺ったのですが、花びらは日光や暑さに弱く、外側の花びらほど茶色く変色しやすいそうです。たしかに、まだ咲いているにもかかわらず、茶色く変色した花も見られました。開花する直前のつぼみが一番きれいかも、なんて思ったりしました(ちょっとだけです)。この花はいくつの花群かな、なんて思いながら見ていると、あっという間に時間が過ぎました。
 最後に、資料館の中に、藤井健次郎の名前を見つけました。妙蓮の年譜の中に出ていました。ここで名前を見るとは思ってもいなかったので、驚くとともに、少し誇らしい気持ちになりました。
 月末には持明院の妙蓮を今年こそ見に行きたいと思っています。

 
近江妙連(その2)
2014年 7月20日
 妙連はインドから中国に伝わり、9世紀頃日本に伝来、守山の地で大切に育てられてきたそうです。金沢の妙連は明治12年に近江から伝わったもの(加賀妙蓮)で、さらに金沢から冨山(明治34年、越中妙蓮)、府中(昭和33年、武蔵野妙蓮)にも伝わったそうです。ネットで調べても、冨山や武蔵野に妙連があるとの記述がなく、現在はどうなっているのでしょうか。
 守山の妙連は明治28年以降、花が咲かなくなったので、昭和35年、加賀妙蓮の系譜をひく武蔵野妙蓮を移植し復活、現在守山市の天然記念物に指定され大切に保存されています。近江から金沢に来た妙連が、めぐりめぐって近江に帰ったと思うと、感慨深いものがあります。

 さて、妙連は普通の蓮とどこが違うのか。葉や茎は普通の蓮と変わらないのですが、花が驚くほど違っています。つぼみは一つの花に見えるのですが、開花すると2~12の花群となり、花びらは2000~6000枚にもなります。実際に見てみると、たくさんの花びらが密集し、複数の花がくっついた不思議な花でした。(つづく)
 
近江妙連
2014年 7月19日
 当館で顕彰している藤井健次郎が帝国大学大学院生の時、金沢の持明院の蓮を調査し、非常に珍しい蓮であることを発表しました。この蓮は妙蓮(みょうれん)と呼ばれ、国の天然記念物に指定されました。と、来館者の方々に説明している私ですが、恥ずかしながら実際に妙連の花が咲いている姿を見たことがありませんでした。
 ということで、本物の妙連の花を見ようと、ネットで調べてみました。すると、妙連は金沢と滋賀県の守山にしかないみたいです。金沢は7月下旬から8月上旬、守山は7月中旬から8月上旬が花の見頃みたいなので、まず休みを利用して滋賀県守山市まで行ってきました。
 名神高速栗東ICを降りて、約10kmの場所に近江妙蓮公園があります。途中大きな案内板はなく、かなり近くなってから見落としそうな小さな案内板が。カーナビがなかったら着けなかったかも。公園は入園料が200円、資料館が併設されています。二つの池に妙連がありました。(つづく)
 
ヤモリの子ども
2014年 7月2日
 偉人館の玄関前でヤモリの子どもを見つけました。掃除のおばちゃんが小さなトカゲがいるというので見に行ったら、ヤモリの子どもでした。これは絶好の雑報ネタと思い、すぐに捕獲。私の手の上で記念撮影です。
 昔は夏になると毎日家の窓にヤモリがいたなあ。最近は本当に見かけなくなりました。年に1・2度、家の壁にいるのを見る程度。気持ち悪くて触れないという人も多いかもしれないけど、手に吸盤でくっついて尻尾を振りながら歩く姿やつぶらな瞳は、カワイイし、愛嬌ありますよね。一瞬、子ども心に帰って、楽しい時間を過ごしました。
 ヤモリは「家守」で、家を守ってくれるのだ、と小さい頃に教えられた記憶があります。偉人館のヤモリは偉人館を守っていてくれるはずなので、写真撮影後、逃がしてあげました。今年の偉人館の守りはたのんだぞ。
 
今年も偉人百句始まりました(田上小学校)
2014年 6月30日
 昨年に続き、今年も偉人百句を募集していますが、その第1号が届きました。田上小学校の4年生の皆さんです。そういえば、去年も田上小学校が1番でした。ありがとうございます。
 絵を添えた素敵な作品がいっぱいです。今年から設けた新コーナーの偉人を採り上げてくれた子もいました。当館が配布している『もっと知りたい 金沢ふるさと偉人館』を使って調べてくれたのでしょうか、森下八左衛門、津田米次郎、黒川良安などの、展示のない偉人を選んだ子もいます。ごめんなさい。皆さんの声を聞きながら、少しでも期待に応えられるよう、展示の充実を図っていきたいと思っています。すぐに実現できるかはわかりませんが、精一杯頑張ります。今後も色々な声を寄せてください。待っております。

 
アメリカからのハナミズキ(その2)
2014年 6月27日
 奥卯辰山健民公園から大乗寺丘陵公園へ向かいました。麓の駐車場に車を止めて、見晴らしハウスという管理棟らしき建物に向かいました。ここでハナミズキの情報を得ようと思ったのですが、誰もいません。見回りにでも行っているのでしょうか。そこで、自力で探すことにしました。健民公園ほどではないけど大乗寺丘陵公園もかなり広い。高峰の里帰り桜周辺にあるのではないかと予想を立てて歩き始めました。桜は中腹よりやや上の辺り。日頃の運動不足もあり、汗をかきながらようやく里帰り桜に到着。辺りを見渡しましたが、ハナミズキの姿はなし。がっかりしながらも、せっかくここまで来たのだから、花の咲いていない桜の写真をパチリ。偉人館の桜と同時期に植えられたのに、成長はずいぶん違います。ハナミズキの発見は半分あきらめながらも、少し上に見える建物まで行ってみることにしました。建物はトイレ。周辺にハナミズキはなし。あきらめて、駐車場に戻ることにしました。運動不足の解消に少しは役立ったかもしれないが、もう少し下調べをしてくれば良かったと反省しながら歩いていると、駐車場の脇の階段にハナミズキが…。看板はありませんが、間違いないでしょう。何のために上まで歩いたのやら。写真を撮って帰りました。
 帰って調べてみると、下部駐車場横の階段と上部駐車場周辺の2カ所にハナミズキを植樹したことがわかりました。上部駐車場周辺って、そのすぐ下まで歩いたんですけど…。今度機会を改めて行ってみようと思います。(当然、上部駐車場まで車で行きます!)
 
アメリカからのハナミズキ
2014年 6月22日
 1912年、高峰譲吉らの尽力によって、3,000本の桜がアメリカに贈られました。1915年にはその返礼として52本(40本?)のハナミズキが日本に贈られました(当時の原木はもうないみたいですが、子孫は日比谷公園などにあるそうです)。時代は流れて、2012年、桜寄贈100周年を記念して、里帰り桜が金沢でも植樹されています(当HPの高峰ゆかりの地でも紹介しています)。そして今、3,000本のハナミズキがアメリカから贈られました。東日本大震災からの復興を目指す東北地方など、各地に植樹されるそうです。石川県には70本が贈られ、奥卯辰山健民公園や大乗寺丘陵公園などに植樹されたと、少し前の新聞に出ていました。

 ということで、そのハナミズキを見に行きました。まず、奥卯辰山健民公園を目指しました。ここを訪れるのは何時以来だろう。小学校の遠足で行った以来?とにかく久しぶりに健民公園に行きました。広い公園なので、公園センターでハナミズキの場所を教えてもらいました。パークゴルフのコースに10本並んで植えられているそうです。パークゴルフって、昔はそんなものなかったぞ、なんて考えながらしばらく歩くと、すぐに見つかりました。高さ1mくらいの幼木で、まだ花は付かないようです。日当たりも良好なので、何年かすると立派な並木?になるんだろうなあ。残念なことに、看板や標柱がない。知らずに通れば気付かないだろうなあ。高峰との関わりなど、書いてくれたらうれしいのに、と思いながら、次の目的地に向かいました。(つづく)
 
アジサイの花芽
2014年 6月3日
 今朝仕事に来る途中、アジサイの花が一輪(といってもたくさんの花が集まっていますが)咲いているのを見かけました。何十本ものアジサイが植えてあるのですが、一つだけ花が咲いています。花芽はたくさんあったので、ずいぶん気の早い花が一つだけ咲いたのでしょう。
 偉人館にもアジサイがあるので、早速見に行ってみると、花芽は膨らんでいるものの、開花まではもう少し時間がかかりそう。日陰になることが多く、あまり良い環境とはいえない場所にあるのですが、毎年花を付けてくれます。今年も楽しみにしています。
 アジサイといえば梅雨。最近好天が続いていますが、もうすぐ雨の季節がやってくるんですね。色んな意味で雨が必要だということはわかるのですが、自分の上だけは、あんまり降らないでほしいなあ(笑)。
 
カラスに襲われる!
2014年5月30日
 時々、人がカラスに襲われた、という話を聞きますよね。でも、どこか自分には関係ないという気持ちも多々ありました。ところが、先日、当館の副館長がカラスに襲われました。屋上で落ち葉の清掃をしていたところ、カラスに襲われたのです。最初はガァガァと毛(羽?)を逆立たせて威嚇してきたそうです。猫などが毛を逆立たせるのは見たことありますが、カラスも毛を逆立てるんですね。普段の倍くらいの大きさに見えたそうです。目を合わせているうちは襲ってこなかったのですが、目をそらした隙に、突然、首筋に体当たりを食らったそうです。かなりの衝撃でしたが、幸いなことにケガはありませんでした。

 調べてみると、カラスが人を襲うのは、4~7月の繁殖期だそうです。巣の下を通ってもめったに襲われないそうですが(100%ではない)、上から巣を見ると、ほぼ襲われるそうです。副館長は巣を覗いたわけではないのですが、カラスにとっては、屋上にいた副館長に覗かれたと思ったのでしょう。迷惑な話です。巣は庭のメタセコイヤかヒマラヤスギにあると思うのですが、下から見ても発見できませんでした(屋上から探せば見つかるのでしょうが、身の危険を感じて探す気になりません)。カラスは頭がいいので、一度危険人物と認識したら、今度は下を歩いていても襲われることがあるそうです。

 カラスの襲撃から2日後、副館長が手紙を出すため館を出て歩いていたところ、再び襲撃されてしまいました。後頭部に体当たりです。カラスは本当に人を見分けているのですね。頭の良さには感心しますが、覚えられた副館長は大変。あと二ヵ月ほど常にカラスを警戒しながら館の周辺を歩かなければいけないなんて…。気をつけてどうにかなるものではありませんが、皆様もカラスには注意して下さい。(写真は隣の歌劇座にいたカラス。副館長を襲った犯人かどうかはわかりません。)
 
関沢明清(その9)
2014年5月26日
 今回は大久保利通について。大久保は明治維新の立役者として歴史の教科書に必ず出てくる超有名人です。明治政府をつくった人といっても過言ではないでしょう。幕末維新には薩摩(鹿児島)と長州(山口)に有名人が多いですが、個人的な感覚では、「薩摩=おおらか、大胆」、「長州=緻密、陰謀(ごめんなさい)」というイメージです。大久保は薩摩出身ですが、冷徹なイメージがあり、私的には長州に近いなんて思っています。個人的な人物評は置いといて、大久保と金沢といえば暗殺。嶋田一郎ら加賀藩士が紀尾井坂において大久保を暗殺した「紀尾井坂の変」ですよね。
 今回、なぜ大久保を採り上げたかというと、関沢がフィラデルフィア万博から帰国後、当時内務卿であった大久保に水産業の開発を建議して、新たに水産掛が設置されたからです。殖産興業を推進した大久保にとって、水産業も新たな産業として目に映ったのだと思います。意外なところに、大久保と金沢の関係があったでしょ。企画展では「大久保自筆の書簡」も展示しています。見に来て下さいね。
 
「日暈」(ひがさ)見ましたか?
2014年5月25日
 24日の昼過ぎ、「日暈」という珍しい現象がありましたが、皆さん見ましたか?この日、当館では講演会を行いましたが、その始まる少し前、外でワイワイガヤガヤ。何かと思って見に行くと、お日様のまわりに輪っかがあるではありませんか。しかも二重に。これは雑報のネタになる(笑)と思い、講演会の準備があるにも関わらず大急ぎで写真を撮りました。この時は、何という現象かもわからなかったのですが、ただ珍しい(私は見たことがなかった)という一心でした。
 後で調べてみると、これは「日暈」という現象で、上空の薄雲に含まれる小さな氷の粒がプリズムのような働きをして、太陽の周りに暈(かさ)が現れることがあるそうです。外側の輪っかは、別の理窟で現れるそうですが、私には理解できませんでした…。
 撮った写真を見てみると、コンパクトデジカメで撮ったにもかかわらず、よく撮れている(自画自賛)。翌日の新聞にこの現象が載っていなかったら、売り込みでもしようかな。今朝新聞を見たら、写真付きで載ってました(笑)。とにかく、珍しい現象が見られて、講演会も大成功、とても良い一日でした。
 
関沢明清(その8) 講演会
2014年5月25日
 5月24日、企画展の関連事業として講演会を行いました。演題は「関沢明清 若き加賀藩士、夜明けの海へ」。講師は金沢工業大学教授の吉道悦子先生です。吉道先生は日独交流史などがご専門です。明清については、加賀藩最初の留学生であり、先生が住んでいたことがあるウィーンでの万博に参加していることから、興味をお持ちになって調べはじめたそうです。
 講演会では、明清の生涯について丁寧に解説して頂きました。企画展では「鮭」と「クジラ」を中心に採り上げましたが、缶詰やマグロ、漁網、水産教育など、水産界の幅広い分野で活躍した明清の生涯が、よりいっそう理解できた気がします。私自身、知らなかったこともいくつかありましたし、非常に勉強になりました。何より、先生は明清のことが本当に好きなんだなあ、と感じました。少しでも多くに方々に明清のことを知ってほしい、という感じです。当館も微力ながらお手伝いさせて頂きたいと思いました。
 
関沢明清(その7)
2014年5月24日
 3本目の石碑は「関沢明清先生顕彰碑」。能登町宇出津にある県立能登高校の正面玄関脇に建っています。本当は自分で行きたかったのですが、企画展前で忙しかったため(言い訳)、副館長に写真を撮りに行っていただきました。公用車でほぼ1日、ご苦労様でした。
 石碑には、関沢の業績が記されています。最後の方に「明治百年を記念してここに水産関係者各位ならびに篤志家の援助を得て先生の碑を建立」、最後に「石川県立水産高等学校三十周年」と記されています。実際に碑が建立されたのは昭和45年(明治103年)ですから、明治百年の年に企画され、学校創立三十周年の年に完成したのでしょう。関沢は直接この学校に関わりがあったわけではないですが、郷土が生んだ偉大な水産界の先達として顕彰しているのでしょう。ちなみに、水産高等学校はその後2度の統合が行われ、現在の能登高校となっています。
 3本の石碑を紹介しましたが、金沢には父の碑はあるものの、明清の碑は1本もないんですよね。なんとなく残念なような…。
 
関沢明清(その6)
2014年5月20日
 前回は、石碑の話を書くつもりだったのに、石碑にいたる前段階で終わってしまいました…。
 さて、石碑は館山市立博物館分館からさらに5分程度海沿いを歩き、ちょっと小道に入った海の見える小高い丘の上に建っています。この時は、学芸員の方に案内して頂いたのですが、一人で行ったら迷子になったかも…。
 石碑は、元々関沢が愛した房総の海を臨む場所に建てられたのでしょうが、現在は石碑と海の間に民家が建ち、直接海を見ることができません。少し残念。さらに、この民家の塀と石碑の距離が近いため、写真を撮るのにも苦労しました。明治32年に建てられた石碑なので、簡単に移築などできないとは思いますが、何か工夫できないものかなあ。
 碑文は漢文でしかもかなりの長文。何枚か写真を撮りましたが、読み下しは断念。すいません。ふと、石碑の足下を見ると数本のペットボトルがあります。最初は「こんなところにゴミを捨てるなんて」と思いましたが、よく見ると中身が入っています。どなたかがわざわざお供えしたようです。なんとなくうれしかった一瞬でした。
 
スダジイの花
2014年5月17日
 偉人館の前にあるスダジイに今年も花がつき始めました。枝の先端に近い部分に、10㎝程度の穂のようなものが伸びてきて、小さい黄色っぽい花を咲かせます。花というより、小さなフワフワの尻尾が生えてきたという感じです。まだ、花芽が伸びてきたという段階で、満開?まではもう暫くかかりそうです。
 知っている方も多いと思いますが、その香りは…。気になる方は、ぜひ偉人館までお越しください。前を通るだけでも充分わかります(笑)。
 シイの実がたくさん落ちてくる秋が今から楽しみです。
 
関沢明清(その5)
2014年5月16日
 石碑の話の続きです。2本目は「従五位関沢明清碑」。関沢が晩年に住んでいた千葉県館山市にあります。金沢に住んでいると館山市といっても、どこにあるかピンとこない方も多いと思います(失礼)が、房総半島のほぼ先端にある町です。館山市の市立博物館は、関沢の遺品を多数所蔵しており、この企画展でもたくさんの資料をお借りしました。昨年は、この資料調査のため、何度か館山市を訪れましたが、その際、関沢の石碑にも行ってきました。
 JR館山駅から少し歩くと、海にぶつかります。海に至る道にはヤシ?の木が植えられ、南国気分満点。千葉ですけど(笑)。海は北条海岸という砂浜が広がり、夏には海水浴で賑わうそうです。海に沈む夕陽が美しいことでも有名みたいです。金沢では夕陽が海に沈むのは当たり前ですが、太平洋側では珍しいんですね。この海沿いを歩いていると「放魚祭記念碑」という台の上に魚が乗った記念碑がありました。関沢が設立に尽力した大日本水産会などが建てた記念碑と記されていたので記念写真を1枚。さらに歩くと「渚の駅たてやま」が見えてきます。ここに関沢の遺品を所蔵している市立博物館分館があります。館の前には捕鯨銃などが設置されていました。
 
関沢明清(その4)
2014年5月12日
 今回は石碑の話。関沢関係の石碑は私が知る限り3本です。企画展では3本とも写真で紹介していますが、少々補足説明をしようかと思います。
 まずは「関沢遯翁之碑」。尾山神社にあるということで、4月のはじめに写真を撮りに行きました。遯翁(とんおう)とは、明清の父の号です。尾山神社境内にはたくさんの石碑があるので、すぐに見つかるか心配でしたが、すぐ見つかりました。偶然、裏門(正式には東神門というそうです)から入ったのですが、門のすぐ左にある大きな石碑が遯翁の碑でした。碑文は全て漢文で、しかもかなりの長文。とても私レベルでは読み下すことなど不可能。どうしようと思っていたところ、ある本を思い出しました。三田良信先生の『石碑でめぐる金沢歴史散歩』(北國新聞社)です。帰って調べてみると、碑文はもちろん、その訓読文や大意も載っていました。この本には、市内の66の石碑が紹介されているので、興味のある方は、ぜひご一読を。
 尾山神社境内には、数学者の関口開や教育者の河波有道(三宅雪嶺が少年時代、四書五経を学んだ先生)などの石碑もあります。三田先生の本によると、河波有道は自ら製造した捕鯨器で石川県ではじめてクジラを捕獲した、と碑文に記されているそうです。明清のクジラと有道のクジラ、これも何かの縁なのでしょうか。
 
関沢明清(その3)
2014年5月8日
 関沢はアメリカで、ベアード教授という人物から人工孵化と稚魚の放流を学びます。魚は鮭ではなく、ニシン科の食用魚シャッドという魚です。鮭と同じく、産卵のため川を遡る性質があるそうです。さらに、ストーンという人物から鮭鱒の人工孵化を学びます。こうして、関沢は帰国後、、鮭の人工孵化放流事業を展開したのです。はじめは、鮭ではない魚から出発したんですね。
 日本での鮭の人工孵化は、関沢以前から行われていたようです。ただし、これは自然繁殖に近いものであり、技術的裏付けをもって人工孵化事業に取り組んだのは関沢が最初といえます。明治10年、最初の稚魚放流が多摩川で行われました。おもしろいのは、それまで鮭が遡上していない川でも稚魚放流が行われたことです。徳島県の那賀川や大分県の大野川、熊本県の球磨川など、四国や九州でも放流されています。稚魚を放流すれば鮭が帰ってくる、と考えたからでしょう。関沢自身は、鮭が遡上する南限であった利根川から、徐々に南に進める予定でしたが、各地から要望が強く、一気に九州まで広がったようです。結果は…(写真はフィラデルフィアで持ち歩いたカバン)
 
関沢明清(その2)
2014年5月7日
 捕鯨には、アメリカ式とノルウェー式の2種類があったそうです。江戸時代の日本では、網を用いてクジラを拘束してから銛で仕留める「網捕り式」と呼ばれる方法で、セミクジラやコククジラ、ナガスクジラ科のクジラなど、小型の鯨を捕っていました。関沢が採用したのはアメリカ式という方法です。300~400トンの帆船を母船とし、それに捕鯨ボートを積み込み、鯨を銃殺し鯨油を母船で採取する、らしいです。ノルウェー式はロープ付のモリを発射できる捕鯨砲と動力付の捕鯨船を使用するというもので、多額な費用がかかることから、関沢はアメリカ式を採用したそうです。日本の捕鯨は、その後ノルウェー式が主流となり、関沢の技術は受け継がれなくなります。しかし、捕鯨大国日本と呼ばれる礎を築いたのは、間違いなく関沢の功績によるものといえるでしょう。(写真は関沢が初めて捕獲したマッコウクジラの歯)
 
杜の里小学校と田上小学校の見学
2014年5月4日
 5月2日、杜の里小学校4年生75名と田上小学校4年生106名の見学がありました。大きな団体2校ですが、入れ替えもスムーズで、大きな混乱はなし。ホッとしました。
 杜の里小学校見学時には、北陸放送の取材がありました。今回も関沢明清展と併せての取材です。しかし、子どもたち、テレビカメラの前でも緊張した様子もなく、むしろ元気があふれ出しているような感じです。その元気、うらやましい。
 さて、今回は2校とも、クイズ形式の問題を用意してきていました。みんな、答えを求めて館内をウロウロ。回答を見つけて喜んだり、目的のコーナーの場所がわからずにさまよったり。両校とも楽しそうに館内をめぐっていました。次は、自分の好きな偉人を見つけて、ゆっくり来て下さいね。待っています。
 
西小学校の見学
2014年5月3日
 4月28日、西小学校の6年生50名が見学に訪れました。学校から歩いて、途中芸術村で休憩して来たそうです。結構な距離、ありますよね。大人になるとこれだけの距離を歩く事なんてほとんどない。子どもたちに聞くと、「疲れた」より「お腹すいた」の声が多かった(笑)。
 この日は、テレビ金沢と北陸朝日放送の取材がありました。関沢明清展の取材です。マッコウクジラの歯やモリを見学する子どもたちを撮影していました。突然のインタビューにも上手に答えていました。もしかしたら、私よりうまいかも…
 西小の子は4年生の時に全員一度来たことがあるとのことで、二度目の全員での来館です。細かいことは別にして、偉人の名前などはよく覚えていました。一番人気だったのはマッチをつくった「清水誠」。今年4月からオープンした新設コーナーです。子どもたちも新しいものが好きなのかな。
 
「近代水産業のパイオニア 関沢明清」
いよいよ開幕です
2014年4月26日
 久しぶりの更新です。企画展の準備などで忙しかったもので…
 なんて、言い訳は置いといて、いよいよ今日から関沢明清の企画展が始まります。初めて名前を聞いたという人も多いかと思いますが、日本の水産業の近代化に非常に大きな影響を与えた、興味深い人物です。
 関沢の業績などは企画展を見に来て頂くとして、ここではパネルなどに書けなかった情報などを少しずつ紹介したいと思います。今回は「ペリー来航」について。
 幕末の1853年、日本に開国を求めてペリーが浦賀に来航したことは、日本史上の重大事件として皆さん知っていると思います。では、なぜアメリカは日本に開国を要求したのか、理由をご存じでしょうか。私はアメリカのアジア進出の一環程度に思っていました。今回私が初めて知ったことは「鯨」です。当時のアメリカは潤滑油やランプの油などにマッコウクジラの鯨油を使用していたのですが、アメリカ沿岸の鯨を取り尽くし、日本近海まで捕鯨船が来ていたといいます。その捕鯨船の補給地として、日本に開国を求めたという一面があるそうです。近年、鯨の減少で捕鯨の禁止や制限が行われています。たしかに鯨の絶滅を防ぐためにも必要なことだと思いますが、過去にアメリカが自国周辺の鯨を絶滅寸前まで捕り尽くしたという事実を知ると、アメリカ人には言われたくないな、なんて思ってしまいました(笑)。
 
ふじかげ幼稚園
2014年3月18日
 昨日は、ふじかげ幼稚園の園児たちが「名前一文字展」の見学に来ました。年中さん68名が2台の園バスに分乗して来てくれました。自分が書いた字を見つけて、みんな大はしゃぎ。他の園の子の字や小学生のお兄ちゃんお姉ちゃんの字を見ても「きゃっきゃ、キャッキャ」。こちらまで楽しくなりました。「おじちゃん、おじちゃん」といって、たくさんの子が色々な話を聞かせてくれます。「おじちゃん」?と思いましたが、確かに「お兄ちゃん」や「お父さん」ではないからなあ。「おじいちゃん」じゃないだけましだと思い直し、一緒に館内(2階の常設展も含めて)を楽しくまわりました。何か一度に孫がたくさんできたような気分。ちょっとだけ「おじいちゃん」の気持ちがわかったような気がしました。
 見学後は、3階でお弁当タイム。「何を持ってきたの?」と聞くと「たまご」「いちご」「ゼリー」などなど。みんな美味しいお弁当なんだろうな~。今度は「お父さん」「お母さん」や家族の方と一緒に見に来てくださいね。
 
八田與一生誕祭
2014年2月23日
 2月21日は八田與一の誕生日です。明治19(1886)年生まれなので、今年は128回目の誕生日となります。八田與一の命日は5月8日で、お墓のある烏山頭ダムのほとりで、毎年墓前祭が行われています。最近は金沢からの参列者も多く、新聞などで採り上げられることも多いので、ご存じの方も多いと思います。「台湾で墓前祭を行っているが、金沢でも何かできないか」ということで、「八田與一夫妻を慕い台湾と友好の会」が中心となって、平成19年から偉人館で誕生日に生誕祭を行い、今年で8回目になります。
 生誕祭では献花式と講演会を行います。八田與一は花が好きで、自宅の庭でもたくさんの花を育てていたことから、中庭にある銅像に向かって、参列者が一人一人が献花しました。その後、3階の講座室で、「八田與一夫妻を慕い台湾と友好の会」代表世話人の徳光重人氏の講演がありました。
 参列者は、平日にもかかわらず、八田與一の遺族の方など47名でした。毎年、参加される方も多く、講演も熱心に聞いておられました。来年も、また皆様とお目にかかれることを楽しみにしております。
 
ニコニコ保育園
2014年2月23日
 少し報告が遅れましたが、18日、ニコニコ保育園の園児(年長)49名と引率の保育士さんが「名前一文字展」の見学に来てくれました。「名前一文字展」は今年で9回目になりますが、ニコニコ保育園からは第1回から、かかさず作品の応募をいただいています。本当にありがとうございます。来年以降も続ける予定ですので、また素敵な作品の応募をお待ちしております。ニコニコ保育園の作品は、絵の具を使って、太く、大きく書かれたものが多いという特徴があります。彩り豊かで、印象的で、心に残る作品が数多くあります。
 園児たちは自分の作品ばかりではなく、他の子の作品も見学した後、なんと2階の常設展も見学しました。木村栄コーナーでは、栄が4歳の時に書いた書を見学。保育士さんが「みんなより小さいときに書いた字なのに上手だね」と言うと、園児たちからも「すごい」「上手だ」の声。さすがに偉人の業績は理解できないだろうとは思いますが、心のどこかに偉人館のことが残ってくれればいいなと思います。小学生になったら、また来て下さいね。待ってるよ。
 
名前一文字展(前期)始まりました
2014年2月10日
 今年も2月8日から「名前一文字展」が始まりました。今年で9回目になります。昨年より少し応募数が減りましたが、最年少2歳児から小学6年生までの作品4,587点が集まりました。前期は3月2日までで、年長、小学2、4、6年生の作品2,515点を展示しています。
 今日も、何組もの親子が見学に来てくれました。この時期、雪が降ることも多くなりますが、少しでも多くの方に見ていただきたいなと思っています。15日には入賞した子の表彰式も行います。
 見学者の方から、時々「この字、上手なのに入賞してないわね」とか「なんでこの字が入賞しているのかしら」なんて声が聞こえてきます。確かに、書道展として見れば?の字も入選しています。しかし、「名前一文字展」は「自分の名前の中から好きな一文字を選び毛筆や絵筆で自由に表現した」作品展であり、書道展ではありません。個性的な字やのびのびと書かれた字なども数多く入選しています。審査をしていただいた先生は、書道関係者だけではなく、デザイン関係の方や保育士など、それぞれの視点から選んでいただきました。少しでもご理解いただければと思っています。
 色々書きましたが、「名前一文字展」は作品の優劣を決めるために開催しているわけではありません。この展示をきっかけに、「自分の名前にはどのような意味があるの?」「どうしてこの名前を付けたの?」など、ご両親に聞いてみたり、自分で考えたりしてほしいと思っています。
 作品を出された方だけではなく、どなたでも楽しんでいただけるのではないかと思っています。ぜひ一度お越しください。お待ちしております。
 
金大附属小学校の見学
2014年2月5日
 とうとう雪が積もりましたね。家を出たときには10㎝以上あった(山に近いところに住んでいるからか?)雪も、偉人館に着いてみると5㎝程度。少しホッとしながら、周辺の除雪作業をしました。
 今日(5日)も昨日に続いて小学校の団体見学がありました。金大附属小学校4年生120名です。正式名称は「金沢大学人間社会学域学校教育学類附属小学校」というそうです。う~ん、長い。
 子どもたちは当館が刊行した『もっと知りたい 金沢ふるさと偉人館』で事前学習してきたらしく、思い思いのコーナーに向かっていきます。そして質問、「室生犀星はどこですか?」「清水誠は?」「加藤せむは?」。特に、附属小学校の校歌を作詞した犀星に興味があったようです。みんな、ごめんなさい。本に載っている偉人全員の展示があるわけではないんです。本当にごめんなさい。今年度訪れてくれた他の学校からも、似たような質問がたくさんありました。要望の多かった偉人について、近いうちに何とかしたいと思っています。正式に決定したら、またお知らせします。来年度は期待していて下さい。
 
木曳野小学校の見学
2014年2月4日
 今日(4日)は、昨日までの暖かさとうって変わり、吹雪の寒い日になりました。雪があまり積もらなければいいのですが。
 こんな寒い中、木曳野小学校の4年生、116名が見学に来てくれました。子どもたちに聞くと、伝統産業工芸館や安江金箔工芸館なども見学するそうです。今日は一日社会見学の日なのでしょう。学校での授業も大切だけど、たまには学外へ出て社会見学することも貴重な体験になったと思います。それぞれ、思い思いの偉人のコーナーを中心に見学していました。
 偉人館では、今週の土曜日(8日)から、名前一文字展を開催します。現在、その審査のためなどもあり、既に作品は館内に貼られ、見ることができます。木曳野小学校の子どもたちも、名前一文字展に応募していたので、自分の作品や友だちの作品を一足早く、楽しそうに見ていました。今度は家族の方と一緒に見に来て下さいね。
 
十一屋小学校歴史記念室
2014年1月31日
 十一屋小学校にある歴史記念室に行ってきました。ここには木村栄の資料が並んでいます。当ホームページの木村栄ゆかりの地でも紹介していますが、実は私自身がここを訪れるのは初めてです。
 教頭先生に案内していただき、1階にある記念室へ。ここには木村栄の資料の他に、学校の歴史を彩る資料や昔の教科書、民俗資料(昭和の暮らしを体験するのかな?)などが置いてありました。木村の資料は、扁額、胸像、写真などがあります。扁額には「戒模擬勗創造」と書かれています。「マネをするんじゃなくて創造に努めなさい」というような意味です。小学生にぴったりな気がします。胸像は偉人館前庭にあるものや泉野小学校、水沢(岩手県)の天文台にあるものと同じで、同一の型から造られたものです。背面に「昭和廿六年七月 震六郎作」とあり、木村が亡くなった(昭和18年)後に造られたことがわかります。震(ふるえ)六郎は岩手県の彫刻家です。
 写真はパネルになっているものも含め、かなりありました。恥ずかしながら、見たことのない写真もありました。校長先生とお話しする機会もあったので、近いうちに調査させてほしいとお願いしました。
 小学生にとって、地元といえば校区でしょう。そんな身近なところから、偉人といわれるような人が出ている、これは子どもにとって大きな励みになるのではないでしょうか。
 
三馬保育所と花園小学校
2014年1月22日
 朝から小雪がちらつくなか、今日(22日)、冬には珍しい団体見学が二つあったので、その報告です。

 一つは三馬保育所の園児たちです。26名の園児と引率の保育士3名です。主な目的は自画像展。自分たちが描いた絵の見学です。「ワー、○○ちゃんの絵だ」など、楽しそうに見ていました。引率の先生のもと、行儀もよかったですよ。自画像を見た後、2階の常設展も見学していきました。まだ、ちょっと難しいかもしれないけど、小学校に入ったらまた来てね。当館見学後は21世紀美術館でプールを見る予定だそうです。それを聞いた館長が一言「プールへ行っても裸で入っちゃダメだぞ」(笑)

 もう一つは花園小学校の5年生。17名の児童と引率の先生2名です。花園といえば、当館が顕彰している八田與一の母校です。ということで、八田コーナーを中心に解説しました。当然、高峰や木村など他の偉人についても勉強していきました。見学後は、3階で昼食です。給食もいいけど、たまには、みんなでお弁当を食べるのも楽しいよね。
 当館では、見学した場合に限って、館内で昼食を取ることを認めています。場所は3階なので、他のお客さんには迷惑はかかりません。最大100名くらいまで利用できるので、希望のある学校は事前に連絡下さい。

 今年は、例年に比べ寒い日が多いように感じますが、今のところ、さほど雪が降っていないのは助かります。外は寒いとはいえ、土日ともなれば、偉人館の中は自画像展を見に来る親子で熱気にあふれています。本当にありがたいことです。
 雪が少ないといいましたが、今朝は一面の銀世界。これ以上積もらなければいいなあと思いながら、館周辺の除雪に汗を流しました。
 
冬のセミ
2014年1月19日
 今年は、例年に比べ寒い日が多いように感じますが、今のところ、さほど雪が降っていないのは助かります。外は寒いとはいえ、土日ともなれば、偉人館の中は自画像展を見に来る親子で熱気にあふれています。本当にありがたいことです。
 雪が少ないといいましたが、今朝は一面の銀世界。これ以上積もらなければいいなあと思いながら、館周辺の除雪に汗を流しました。

 そこで、ちょっとおもしろいものを発見したのでご報告です。1月も半ばを過ぎたというのに、今でも、庭の木に「セミの抜け殻」が頑張っています。夏には決して珍しくない「セミの抜け殻」も、知らぬまに、木から落ち、土に帰っているのでしょう。ところが、この「セミの抜け殻」は、よほど上手に葉っぱにしがみついたとみえ、秋の台風や冬の雪(現在のところ)にも負けず、頑張っています。雪景色と「セミの抜け殻」、ちょっとおもしろい写真でしょ(笑)。いつまで、落ちずにいるのか、今後も見守りたいと思っています。もしかして、夏まで残っていたりして。
 
自画像展表彰式
2014年1月12日
 少々遅いですが、皆様、あけましておめでとうございます。しばらくこの雑報、お休み(サボり?)しておりましたが、今年の第1回目となります。身の丈に合ったペースで更新していきたいと思っています。今年もよろしくお願いします。

 さて、昨日の1月11日、第6回自画像展の表彰式がありました。事前の天気予報では「大雪」が降るかも、といわれていたので心配していましたが、朝、少々の積雪のあった程度で、ホッと一安心。館周辺の除雪を済ませて準備完了です。
 午前10時の大賞の部から始まり、30分刻みで午後4時まで10回の表彰式を行いました。参加者は約950名。4ケタには少し届きませんでしたが、たくさんの方々に参加していただきました。ありがとうございます。自画像展の表彰式は今年で6回目ということもあり、少しは慣れてきましたが、1日にこれだけの人数が集まるとやはり大変です。館長はじめ、スタッフ一同、大忙しの1日となりました。しかし、入賞した子どもたちの笑顔を見ていると、「疲れ」なんてどこかに吹っ飛んでいきます。夕方にはどっと「疲れ」がおそってきましたが(笑)。
 最後に表彰式での微笑ましい一場面でも。表彰式では、入賞者の名前が呼ばれると「ハイ」と返事して、前へ出て館長から賞状をもらうことになっています。そんな中、会場の後ろの方にお母さんと2歳くらいの子どもがいました。お兄ちゃんかお姉ちゃんが入賞したのでしょう。この子、途中から誰の名前が呼ばれても、小さな声で「ハイ」と返事するんです。○○さんと呼ばれたら「ハイ」と返事することを学習したのでしょうか(笑)。可愛くて、何ともいえない幸せな気分になりました。来年は自分で自画像を描いて、大きな声で「ハイ」と返事してくださいね。

2013年

 
偉人百句「杜の里小学校」
2013年10月22日
 6校目の偉人百句が届きました。杜の里小学校4年生の76点です。さっそく展示させていただきました。ありがとうございます。
 短冊形の用紙に、五七五で書いてあります。偉人百句を考えたとき、「五七五」あるいは「五七五七七」の俳句、短歌調を考えたのですが、小学生に無理があるのではないかと思い、標語調にしました。しかし、あまり気にする必要はなかったのかもしれません。みんな、上手に「五七五」にまとめています。「小学生だからできない」なんて思ったらダメなんですね。少し反省。今後も自由な形式で作品を待っています。
 今回の作品の中で、私が特に気に入ったものを二つ。「きむらさん Zこうって なんですか」。多分、ほとんどの人が同じ疑問を持っていると思います。でも、何か聞いてはいけない、という雰囲気。素直な気持ち、大切にして下さい。もう一つは「本好きで 何さつ読んだ? ふじおか氏」。これも素直な句。何冊読んだか、誰もわからないと思うけど、藤岡作太郎に負けないくらい、たくさんの本を読んで下さい。

『絵本 化鳥』みんなのぬりえさくひん
2013年10月21日
 泉鏡花の名作『化鳥(けちょう)』が絵本になりました。その一場面、鮟鱇(あんこう)博士が橋を渡る場面を塗り絵にして、作品を募集、展示しています。主催は当館ではなく、「泉鏡花記念館」です。作品が多く、鏡花記念館では全てを展示できないということで、徳田秋聲記念館や当館でも展示することになりました。とはいっても、作品数は当館が一番多いのですが(笑)。絵本の原作通りではなく、子どもたちの感性で彩られた塗り絵は素晴らしいものばかりです。少し童心に帰って、塗り絵をしてみようかな。

 この機会に『絵本 化鳥』を読みました。鏡花の作品は、高校生時代(ずいぶん前になりますが)に文庫化されているものは全て読みました。金沢出身ということもあり、多少背伸びして読んだ記憶があります。背が足りなかったのか、感動するというより、字面を追いかけた、という感じですが。今回の絵本、鏡花記念館の企画ということですが、私みたいに鏡花を読み込めていない人にぴったりだと思います。私が言うのも何ですが、鏡花の作品は舞台になったり、映画になったりしたものが多く、視覚的に訴えられると作品の良さが際立つような気がします。そういう意味で「絵本」というアイディアは素晴らしいと思いました。絵本というと、幼児向けというイメージが強いですが、この本は「大人の絵本」だと思いました。巻末に原文が付いているのもナイスです。
 当館の図書コーナーにも『絵本 化鳥』が置いてあります。塗り絵作品を見に来たついでに、読んでみるのもおもしろいと思います。泉鏡花記念館の帰りにでも、ちょっと当館にも寄ってみて下さい。
ナイトミュージアム「まねび茶会」
2013年10月20日
 昨日、19日の夜、当館で「まねび茶会」がありました。7月末から市内の美術館、博物館で週末の夜に開催されたナイトミュージアムの一環で、その最終日にあたります。当館では、これまで、8月3日「LEDランプづくり-AKARI」、8月24日「元国立天文台学芸員とゆく3Dプロジェクター宇宙旅行体験授業」、9月22日「Colors in a dot」が開催されました。
 今回の「まねび茶会」、案内文には「自分たちで編み出した作法で緊張しないお茶会を楽しむ。参加者のアイディアを採用して「お茶」を遊びます。」とあります。事前に申し込みした方は、中庭に設置した「テント茶室」でお茶会をし、当日ふらっと来た方は自分で自由にお茶を入れて飲む、というものです。申し込みしていなかった人でもお茶会の合間に「テント茶室」を覗くことができます。
 この「テント茶室」がユニークなんです。白い薄い布製で、大型の扇風機で中に空気を送り膨らませたものです。出入り口は大人がやっと通れるくらいの大きさで、チャック付、人の出入り以外は閉じられています。5人ほど続けて出入りすると、茶室は少ししぼみますが、チャックを閉じれば、すぐに復活します。私も最後に入れてもらいました。何か雪でつくったカマクラの中にいるような感じです。日常と離れた異空間、ここでお茶をいただいた方々は、普段以上に美味しく感じたのではないでしょうか。
 参加者は86名でした。この企画を立てた金沢アートグミ、金沢芸術創造財団の皆さん、また参加していただいた皆さん、本当にありがとうございました。
今年初めてのシイの実
2013年10月18日
 偉人館の前庭には、シイの老木があります。毎年、秋になるとたくさんの実をつけます。ここしばらくの間、そろそろシイの実が落ちていないかな、と気に掛けていたのですが、今日、発見しました。早速、朝から拾い集めました。
 シイの実は、ドングリと違ってアクがないので、すぐ食べることができます。外側の殻を取ってしまえば、生でも食べることができます。少し柔らかいピーナッツみたいな感じで、とても美味しいですよ。フライパンなどで軽く煎ると、芳ばしくなり、これも美味しい。ただし、フライパンで煎る時は、パンと弾けることがあるので、事前に少し殻を割っておくとよいと思います。
 これからしばらくの間、毎日実を拾うことができると思います。館前の歩道から前庭にかけて、たくさん落ちていると思います。興味のある方は、拾いに来て下さい。拾って持ち帰る分には、無料です(笑)。
熊本の旅(最終回)
2013年10月16日
 洗馬橋から川沿いを歩くと、すぐに「冨重写真所」がありました。この写真館は慶応2年開業以来、代々続いている由緒ある写真館です。夏目漱石をはじめ、開校当時の五高や西南戦争で焼ける前の熊本城など、貴重な写真を今も数多く保管しています。開業者の冨重利平は、長崎の上野彦馬のもとで写真の修行をし、熊本で開業したそうです。上野彦馬といえば、日本最初期の写真家です。高峰譲吉が長崎留学の時に撮った写真がありますが、この写真は上野彦馬のもとで撮ったものです。人は色々な場所で、色々な人と関わっていることを、改めて感じました。
 熊本での用件を無事終了し、後はお土産を買うだけ。熊本駅で土産物売り場をのぞくと、「くまモン」の集団に遭遇しました。ありとあらゆるお菓子が「くまモン」パッケージになっています。「くまモン」人気、恐るべし。

熊本の旅(その6)
2013年10月15日

 熊本大学を出て、次に向かう先は冨重写真所です。五高記念館の方から、まず洗馬橋まで行くようにと教えてもらいました。この「洗馬橋」は電車の停留所名で、町名は「船場」だそうです。手まり唄の「あんたがたどこさ」の歌詞「あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 船場さ」の「船場」だそうです。

 唄に出てくる地名ということで、楽しみにしながら「洗馬橋」に向かいました。到着すると、タヌキの親子(像)が出迎えてくれました。驚いたなあ。歌詞の続きに「船場山には狸がおってさ」とあるので、タヌキ像なんでしょうね。とっても可愛いタヌキだったので、思わず写真を1枚。後から知ったのですが、この停留所では電車が到着すると「あんたがたどこさ」が流れるそうです。電車が来るまで待っていればよかった。残念。

熊本の旅(その5)
2013年10月14日

 八雲に別れを告げてさらに進むと、正面に五高記念館が見えてきました。赤レンガでできた建物で、四高とそっくりです。この建物も国の重要文化財に指定されています。四高と比べて五高の方がまわりの広さや天候のせいで明るく感じました(笑)。当時のナンバースクールはみんな同じような雰囲気だったのだろうと思います。
 記念館で用事を済ませ、今度は黒本植の碑を探しました。なかなか見つかりません。ふと見ると、雑草と木がいっぱい生えた区画に気付いたので入ってみることに。ありました。構内はきれいで、雑草がいっぱいある区画などほとんど見なかったのに、よりによって黒本の碑の周辺だけ…。気を取り直して写真撮影。なんと、写真を撮っている間に、3カ所も蚊に刺されました。ムムム。
 さらに、近くにあった夏目漱石の像の写真撮影。この像のまわりには雑草などありません(笑)。漱石は左手を突き出して座っているのですが、この手の下に頭を入れなでてもらうと、頭がよくなる、という噂が。やってみようかな、と思い近づいてみましたが、何となく人目が気になり断念。どっちみち、今からでは遅すぎるかな(笑)。

熊本の旅(その5)
2013年10月13日
 さらに進むと、今度は左手に小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が登場しました。ここで八雲について詳しく書くつもりはないのですが、明治23年、来日した八雲は翌年から五高で英語教師をしています。レリーフの横にある碑には、八雲と五高の関わりなどが記してありました。
 ここでちょっと、八雲と高峰譲吉について触れてみたいと思います。八雲が日本に興味を持った一つのきっかけは、アメリカのニューオリンズ万博といわれています。この万博の担当者は3人で、服部一三、玉利喜造、そして高峰譲吉なのです。八雲は何度も万博を訪れたでしょうし、ここで二人が出会わなかったとは考えられません。年齢は、譲吉からみると八雲が4つ上、服部は3つ上、玉利は2つ下となり、4人とも比較的近い世代といえます。事実、八雲は来日した際、服部の紹介で松江中学校に就職しています。服部を頼ったのは、当時服部が文部省に勤めていたことが大きいと思います。ちなみに、八雲が来日した年、譲吉はウイスキー造りのためアメリカへ旅立っており、八雲の就職の世話をすることはできませんでした。これはあくまでも私見ですが、八雲と譲吉は知り合いであったと確信しています。
熊本の旅(その4)
2013年10月6日

 大学の構内に入ると、緑が多く、落ち着いた雰囲気です。大学時代、サボってばかりいた私が言うのも何ですが、勉学に励むのに適した環境だと思います。ただ、夏休みに入っていたせいか、学生の姿はほとんど見かけませんでした。
 赤門を入って少し進むと、右手に学生服にマント姿の銅像が建っていました。「龍南健児の像」と書いてあります。龍南とは五高のことで、五高の学生のイメージなのでしょう。そういえば、金沢の四高記念館の前にも「四高記念碑」という学生像がありますよね。3人の四高の学生像です。ちなみに、この学生像は金沢出身の彫刻家吉田三郎によるもので、この碑の設計は偉人館で顕彰している谷口吉郎です。どちらも、旧制高等学校の雰囲気が伝わってきて、いいですね。

熊本の旅(その3)
2013年9月23日

 熊本大学の前身は旧制の第五高等学校です。みなさんご存じだとは思いますが、金沢の場合、四高は現在の中央公園にあったもので、金沢大学は別の場所に移転しています。熊本は、五高のあった場所にそのまま熊本大学があります。熊本は第二次大戦時、熊本大空襲があり市街地の30%が焦土と化したといわれますが、幸いなことに五高は空襲に遭わず、その本館が現在五高記念館として公開されています。

 大学に着くと、「赤門」と呼ばれる正門があります。どうして「赤門」と呼ばれたかは表示が見当たらなかったのでわかりませんが、赤レンガでできた赤い門です。明治22年、第五高等中学校設立時からある門で、国の重要文化財に指定されているそうです。「赤門」といえば東京大学の「赤門」が有名ですよね。加賀藩第12代藩主前田斉泰(なりやす)が第11代将軍徳川家斉(いえなり)の第21女、溶姫を迎える際に上屋敷に造られた門です。考えてみれば、赤い門はみんな「赤門」であり、全国を探すとほかにも「赤門」と呼ばれる門があるんでしょうね。

熊本の旅(その2)
2013年9月21日

 駅を出ると、セミの鳴き声が聞こえてきました。聞き慣れない「ジャワジャワジャワ」という声。クマゼミです。「熊本でクマゼミ」。雑報のネタができたと一人でニヤニヤしていました。金沢では見ることができないクマゼミ、セミ好きとしては、何としても捕まえたいところでしたが、人目も気になり断念。姿を写真に納めることもできませんでした。あまりに残念だったので、ネット上のフリー素材からクマゼミの写真を見つけて載せておきました(笑)。クマゼミの鳴き声は「シャアシャアシャア」と表記されることが多いようですが、私には「ジャワジャワ」とか「ギャワギャワ」という風にとてもうるさく聞こえます。セミばかりではなく、鳥や動物の鳴き声をカタカナ表記すると、違和感を感じるものもありますが、人それぞれ微妙に聞こえ方が違うんでしょうね。

 熊本での目的地は熊本大学の中にある五高記念館です。熊本には路面電車が走っており、ぜひ乗りたかったのですが、残念ながら電車では大学まで行けないので、バスで移動です。バスに乗って非常に驚いたことが一つ。片側3車線以上ある大きな道路から右折するとき、一番左側の車線から右折するのです。バス停は道路左側にあるので、いくつも車線変更するよりこの方が安全ですよね。他にもこのような右折車線のある都市があるのかもしれませんが、私自身初めての体験だったので、非常に驚きました。思わず金沢弁で「りくつな~」とつぶやいていました(笑)。

熊本の旅(その1)
2013年9月20日

 今年は偉人館の開館20周年記念「夏目漱石とその時代」展を開催するということで、漱石の足跡を追いかけて、今度は熊本へ行ってきました。この雑報を振り返ってみると、東京、松山、熊本と、あっちこっち飛び回っているようですが、今年は例外です。例年ですと、東京方面に年に2・3度、調査や借用に行く程度です。偉人といわれる人たちは、最終的に東京で活躍した人が多く、必然的にその子孫の方々は東京方面に住んでいることが多いからです。ということで、四国や九州に行くのは、私が偉人館に来てから初めてのことになります。
 さて、熊本ですが、7月と9月、2回行ってきました。資料の借用と返却です。2回とも暑かった。夏ですもんね。金沢から新大阪まで「サンダーバード」で、ここで「さくら」に乗り換えると熊本に着きます。「さくら」の座席は、通路を挟んで両側とも2列です。上越新幹線や東海道新幹線は2列と3列に分かれていますから、「さくら」はゆったりとした気分になれます。実際測ったわけではないですが、座席自体が広いように感じました。金沢から熊本まで6時間ちょっとかかりますが、乗り換えは1回です。ずいぶん遠いような気がしていましたが、東京とあまり変わらないような。

 新幹線を降りて地下通路を通ったのですが、その壁にたくさんの「くまモン」が。熊本に着いたんだなあ、と思いました。
 しかし、帰って館の職員に写真を見せると、黒い生物は「くまモン」とは違うと言われました。黒くてかわいいキャラは、「くまモン」と思い込んでいました。調べてみると地下通路にいたのは「あそくろえもん」だそうです。熊本にはゆるキャラが2匹もいるんですね。勉強になりました。

吾輩は猫である
2013年9月16日

 偉人館では、今年開館20周年記念として「夏目漱石とその時代」展を開催しています。その関連事業として、漱石の代表作の一つである「吾輩は猫である」をテーマとした公募写真展を企画し、14日から始まりました。小学生以下の部5点、中高校生の部7点、一般の部40点、合計52点の作品が集まりました。本当にありがとうございます。ぜひ見に来て下さい。
 作品は5人の先生に審査していただき、特選、入選が決まりました。入選か否かにかかわらず、素晴らしい作品ばかりだと思います。ここでは、私の独断で、「どの猫が可愛いか」という基準で3匹の猫を選んでみました。写真は猫の顔だけにしてあります。全身(作品全体)を見たい方は、偉人館までお越し下さい(笑)。左の猫は子猫だと思いますが、ちょっと首をかしげた姿が何とも可愛い。真ん中の猫はべっぴんさん(オスかもしれないけど)。上品さが漂ってきます。右の猫は目つきが悪い。なぜだか30年ほど前に流行った「なめ猫」を思い出し、学ランを着せたくなりました(ちなみに当時の「なめ猫」の画像を検索してみると、全然似ていませんでした)。
 あくまでも私の独断と偏見で選んだものです。どの猫も、それぞれ可愛いので、しつこいようですが、ぜひ偉人館まで見に来て下さい。

金沢カレー
2013年9月2日

 金沢のご当地グルメの一つに「金沢カレー」がありますよね。今ではある意味全国区のカレーみたいですが、10年位前は「金沢カレー」なんて言っていませんでしたよね。そこで、「金沢カレー」の定義って何なんだろう思い、ちょっと調べてみました。ウィキペディアによると「ルーは濃厚でドロッとしている」「付け合わせとしてキャベツの千切りが載っている」「ステンレスの皿に盛られている」「フォークまたは先割れスプーンで食べる」「ルーの上にカツを載せ、その上にはソースがかかっている」「ルーを全体にかけて白いライスが見えないように盛り付ける」などが特徴だそうです。確かに、昔からカレー屋さんで食べるカレーはこんな風だったなぁ、と思います。改めて「金沢カレー」を認識させていただきました。

 さて、以前松山へ行ったとき、駅前のカレー屋さんで「金沢風カレー」の看板を見つけました。金沢のチェーン店が全国展開していることは知っていましたが、松山の普通のカレー屋さんで「金沢風カレー」の名前を見るとは、思ってもみませんでした。その時は「松山まで来て、何で金沢カレーを食べなきゃいけないの?」と思い、食べませんでしたが、今思うと「どんなカレーだったのか、食べとけばよかった」と後悔しています。いずれにしろ、「金沢」の名前が全国に広がることはよいと思います。いつになるかわかりませんが、次に松山へ行ったときはぜひ食べてみたいと思います。

「ひいらぎ」の葉っぱ
2013年8月21日
 

 偉人館の玄関脇に「柊(ひいらぎ)」の木があります。この木は、偉人館ができる前、北陸学院第一幼稚園時代からある老木です。高さは目測で4mほどですかね。11月から12月にかけて、白い小さな花が咲き、キンモクセイに似た甘い香りを発します。花が咲く頃には、写真を載せて紹介しようと思っています。
 さて、この柊の葉っぱ、よく見ると2種類あるんです。普通の楕円形に近いものと、葉の縁にギザギザのトゲがあるもの。最初、木の太い幹付近にギザギザの葉っぱが出ていることに気付いたときは、別の植物が寄生しているのではないかと思ったほどです。それで調べてみると、柊は本来ギザギザのトゲがある葉なのだが、老木になるとトゲがなくなり丸い葉っぱになるそうです。このため、老木では新芽だけにトゲがあり、あたかも2種類の葉っぱがあるように見えます。ちょっと珍しいでしょ。歩道に面している木なので、通りかかったときにでも観察してみて下さい。
 名前の由来は、葉の縁のトゲに触るとヒリヒリ痛む(古語:疼(ひひら)く・疼(ひいら)ぐ)ことから名付けられたそうです。以上、柊の豆知識でした(笑)。

アクセス10,000件突破
2013年8月18日

 昨年12月12日に当館のホームページをリニューアルしましたが、そのアクセス件数が10,000件を超えました。半年とちょっと、早いのか遅いのかわかりませんが、たくさんの方々に見ていただいていると思うと、感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございます。アクセスカウンター10,000の写真は館の職員がタイミングよく撮ってくれました。貴重な写真です(笑)。
 今後も、新しい情報をより早く更新していきたいと思っています。今後ともよろしくお願いします。

偉人百句(緑小学校)
2013年8月9日

 偉人百句、第五弾です。緑小学校の4年生の作品111点が届きました。不思議なもので、最初に届いた田上小学校と中央小学校が2日違い、今回の諸江小学校と緑小学校が2日違いと、続けて届きました。緑小学校の皆さん、本当にありがとうございます。さっそく展示させていただきました。
 この偉人百句の企画は、20~30字の短文を募集したものです。ところが、届いた作品を見ると、文章+イラストの作品がたくさん見られます。ちょっとした絵が加わることで、文章の楽しさが2倍にも3倍にもなる気がします。こちらの予想を超えた楽しさが、そんなところにあるように思います。
 今後もたくさんの作品お待ちしております。

ナイトミュージアム
2013年8月7日

 3日土曜日の夜、当館でナイトミュージアム「LEDランプづくり―AKARI」が行われました。老若男女、41名の方が参加されました。if blank(イフブランク)の方の指導で、LEDを使ったランプづくりに挑戦するワークショップです。豆電球みたいなLEDに、装飾した紙カップのランプシェードをかぶせる、というものです。参加者は紙カップに星や魚など、工夫を凝らして穴を空けます。カッターを使うので、小さな子どもたちは苦労していましたが、誰もケガすることなく無事終了。ホッ。さらに、色紙やトレーシングペーパー、なんとホオズキまで使って、思い思いに装飾を加えます。約2時間、ほとんどの方の作品が完成しました。最後に、館内の明かりを消して、それぞれの作品を手に持って、記念撮影。みなさんに実際見てほしいと思うほど、きれいでした(私の写真のウデが…)。

 3日の夜といえば、犀川で花火大会もあった日です。館から玄関を出ると、花火の音が聞こえました。ふと見上げると、市役所の方向に花火が見えます。予想より大きく見えます。慌ててカメラを持ち出し、記念写真を。花火ってすぐに消えてしまうので、写真撮るの難しいですね。20枚以上撮って、一番きれいに見えるのを掲載しました。ただの真っ暗な写真が多かったな(汗)。街中からこんなにきれいに花火が見られるとは。自分の中では、花火見物の新名所に指定されました(笑)。
花火大会の日にもかかわらず、たくさんの参加、ありがとうございました。

セミの話題
2013年8月7日

 少し前に、セミのことを書きましたが、徳田秋聲記念館のブログ「寸々語」で「セミ撮り名人?」とほめていただきました。ありがとうございます。なので、今回はセミの抜け殻の話題を一つ。

 夏になると、木の枝などでセミの抜け殻を見つけることが多いですよね。偉人館の庭でもたくさん見つけることができます。そんな中、ごく稀に殻の表面に土が付いたものがあります。見たことありませんか。実はこの抜け殻、ニイニイゼミの抜け殻なんです。アブラゼミより少し早い時期に登場する小さめのセミで、数が少ないので、中々抜け殻を見つけることができません。3年ほど前、偉人館の庭でも見つけたことがあったので、今年も探してみましたが、残念ながら見つけることができませんでした。ちなみに、抜け殻でアブラゼミとミンミンゼミの区別ができるかは知りません(笑)。

松山の旅(おしまい)
2013年8月4日

 松山から帰るとき、駅前でお土産を探していました。松山で有名なお土産と言えば「タルト」。愛媛県のホームページによると「やわらかいカステラで柚子入りのあずきこしあんを『の』の字で巻いた和菓子『タルト』の起源はポルトガルで、安土桃山時代に『カステラ』、『ボーロ』、『金平糖』などと一緒に入ってきました。正保4年(1647年)、伊予松山藩主の松平定行が異国船を取り締まるために長崎を訪れます。定行は黒船で見つけたカステラでジャムを巻いたタルトをたいそう気に入り、これを松山で広めたらどうかと持ち帰ります。藩主の命令を受けた者たちは試行錯誤の末に、あんこを入れてみたものの味が頼りない。そこで地元特産の柚子を入れたところ食べやすくなり、松山城下に広がっていきました。」だそうです。歴史のあるお菓子なんですね。

 定番のお土産もいいけど、他にも何かないかと探していたところ、見つけました。小さな箱に「みかん」と書いてあります。中には小さなミカンの形をしたお饅頭が。愛媛と言えばみかん。これしかないでしょう(笑)。無事お土産も決定しました。味の方はご想像にお任せします。

松山の旅(その6)
2013年8月3日
 翌日、子規記念博物館から資料の借用です。少し早めにホテルを出て、道後温泉本館まで足を延ばしました。といっても、博物館から歩いて5分もかからないのですが。テレビで見慣れた風景が目の前に広がってきました。雰囲気があって、いい感じです。朝早いにもかかわらず、かなり観光客の人も歩いていました。朝風呂という誘惑?もありましたたが、さすがにこれは断念しました。

 かわりに、本館のまわりを散策してみました。「坊ちゃん時計」なるものがあったりして、いかにも観光地という風情です。そんな中、一体の銅像を発見しました。近づいてみると、「伊佐庭如矢(いさにわゆきや)」という人です。説明文によると、明治23年に道後湯之町の初代町長になった人で、本館建設に尽力した人だそうです。銅像が建ったのは比較的新しく、本館建設100周年を記念して、平成7年に建立とありました。全国的な知名度が高くなくても、地域にとって重要な人物、偉人はたくさんいるのだと改めて思いました。(最近、旅先などで知らない銅像や標柱を見ると、ついつい見入ってしまいます。一種の職業病?)
 
偉人百句(諸江町小学校)
2013年7月29日

 偉人百句、第四弾です。諸江町小学校の4年生の作品131点が届きました。本当にありがとうございます。さっそく展示させていただきました。
 諸江町小学校の作品は、「五七五」あるいは「五七五七七」調の俳句、あるいは短歌調の作品が多く見られます。この企画を最初に考えたとき、百人一首にちなんで、短歌調の作品を募集しようかと思っていました。しかし、無理に五七調の枠にはめないで、自由に20~30字の短文にすることになりました。でも、五七調って、日本人にとって響きがいいんですよね。諸江町小学校の作品を見ていて、改めて思いました。
 今後もたくさんの作品お待ちしております。


セミの季節
2013年7月20日

 金沢では、梅雨明け宣言はまだのようですが、暑い日が続いています。セミの声もずいぶん聞こえるようになってきました。毎年、偉人館の庭の木に、たくさんのセミの抜け殻が見つかります。ということで、探しに行ってみました。まだ、抜け殻は少なく、2個くらいしか見つかりませんでした。もっと一杯見つかったら写真撮ろうかな。
 ふと見ると、手の届く高さにアブラゼミがとまっているではないですか。思わず、素手でエイッ。見事、捕まえることに成功しました。子どもの頃からセミ捕りが大好きで、今でもセミを見ると、ついつい捕まえたくなってしまいます。腕はあんまり落ちていないようです。エッヘン。短い命のセミなので、記念写真を撮って逃がしてあげました。「盆に金もってこい」(セミを逃がすときに言いますよね)。

松山の旅(その5)
2013年7月16日

 松山中学校跡の次は愚陀物庵跡の碑です。愚陀物庵とは漱石の下宿で、漱石の俳号がその名前の由来となったものです。漱石もこの道を通って学校に通ったのかなあ、などと感慨にふけりながらゆっくり歩いていると、10分たらずで愚陀物庵跡に着きました。道路脇に愚陀物庵跡の石柱と案内板があります。写真を撮ると、背景が駐車場であまりぱっとしませんが、これは致し方ないところ。地元の人が何人か通りかかりましたが、「この人こんなところで何の写真撮っているのかしら」みたいな目で見られました(被害妄想か)。
 愚陀物庵は松山城のふもとに復元されているようですが、今回は時間の関係でパスしました。ホテルに向かって歩いていると、路面電車の線路の上を蒸気機関車が走ってきます。「坊ちゃん列車」と呼ばれるもので、1dayチケットを持っていれば+100円で乗れるそうです。今回は乗る機会がありませんでしたが、記念写真をパチリ。
 長かった1日もホテル到着でようやく一段落。あれ?1dayチケット買ったのに、2回しか電車に乗っていないぞ…

松山の旅(その4)
2013年7月13日

子規の生誕地碑の次は松山中学校跡の碑を目指しました。漱石が教鞭を執っていた時代は愛媛県尋常中学校と呼ばれていました。駅まで戻って電車に乗ってもよかったのですが、松山の町並みを楽しみながら歩いて行くことにしました。途中、松山城の一部らしき建物が見えました。松山城は山の頂上にあるので、方向から考えて城の一部であろうと私が勝手に思っただけですが。
 20分くらい歩いたでしょうか、NTTビルの脇にある松山中学校跡の碑に着きました。想像していたより小ぶりな碑でした。碑には漱石が松山を離れるときに詠んだ句「わかるゝや一鳥啼て雲に入る」が刻まれていました。今は学校の面影など全くありませんが、横の案内板には当時の写真があり、往時を偲ばせてくれました。

偉人百句(浅野川小学校)
2013年7月9日

 偉人百句、第三弾です。浅野川小学校の4年生の作品59点が届きました。本当にありがとうございます。さっそく展示させていただきました。
 これで3校。子どもたちはどんな偉人を採り上げているのか。AKB48の人気投票ではないけれど、気になるところです。これまででも、傾向は見て取れますが、もう少し集まってから集計しようと思ってます。
 さて、今回も、私の個人的好みで何点か選んでみようと思います。「うるしでおはだもツヤツヤに」って、「漆はかぶれると大変なんだぞ」と大人げないツッコミを入れながら選びました。この選んでいるときが一番楽しい。
 今後もたくさんの作品お待ちしております。


記念講演会です
2013年7月8日

 7月7日、昨日は七夕でしたね。各地で色々なイベントも行われたのでしょう。偉人館でも、午前10時から「夏目漱石とその時代」展の記念講演会がありました。企画展の記念講演会は、会期の前半のうちに行うことが多いのですが、今回は例外的に展示最終日の講演会となりました。60名近くの参加者があり、大変盛況でした。暑い中、また朝方雨が降っている中、参加していただきありがとうございました。
 講師は松山市立子規記念博物館学芸員の上田一樹氏、演題は「子規と漱石―金沢ゆかりの人びとを交えて―」です。手紙や著作などを引用しながら、かなり専門的な内容でしたが、語り口が柔らかく、初心者から上級者まで満足いただけたのではないでしょうか。
 第1期の展示が終わり、7月20日から第2期の展示が始まります。熊本から借用した資料などもあります。是非見に来て下さい。お待ちしております。

ハントンライス食べました
2013年7月2日

 金沢ふるさと偉人館は館長をはじめ、6人のスタッフで運営しています。偉人館はご存じの通り土日も開館しており、年末年始と年1回の燻蒸休館(資料を害虫から守るため消毒する期間で3日間くらいお休みします)以外は休館がありません。企画展の入れ替え期間も常設展は開いています。このため、スタッフは交代で休むことになり、全員顔を合わせることは必然的に少なくなります。そこで、月2回は全員出勤の日を決めています。
 ある時、お昼の雑談中、ハントンライスの話題になりました。なんと、若いスタッフ二人が食べたことがないというのです。金沢のご当地グルメの代表ともいえるハントンライスをですよ。ということで、今度の全員出勤の日にハントンライスの出前を取ろうということになりました。食べ物の話は決まるのが早いんです。
 先日、とうとうハントンライスの日がやってきました。私も久しぶりに食べたのですが、いや~美味しかった。ボリュームも満点。はじめて食べた人も満足したようです。
これでしばらく仕事も頑張ることができそうです(笑)。

松山の旅(その3)
2013年6月28日

 電車を降りて、子規の生誕地碑まで徒歩5分くらい。事前に調べたところ、生誕地碑は道路の中央分離帯みたいなところにあるらしい。中央分離帯を気にしながら、片側3車線ある大きな道路の歩道を歩いて行くと、生誕地碑らしいものが見えてきました。幸い、近くに横断歩道があったので、信号を待って中央分離帯へ渡りました。歩いているときは気付かなかったけど、中央分離帯には川が流れています。その川の縁に生誕地碑はありました。写真を撮ろうと思うと車道にでなければなりません。横断歩道から生誕地碑までは5mほど。自動車の停止線より少しだけ内側に生誕地碑が建っていたので、信号の合間を見て、車道に出て写真を撮りました。せっかく生誕地碑があるのだから、川の一部にフタをして小公園にするとか、工夫してもいいんじゃないでしょうか。気軽に見学、とはほど遠い生誕地碑でした。

松山の旅(その2)
2013年6月22日

 松山には路面電車が走っています。そういえば昔、金沢でも走っていましたよね。(年がわかる?)懐かしさを感じながら、松山駅から電車の停留所へ向かうと、途中に子規の句碑がありました。さすが子規のふるさと。碑には「春や昔 十五万石の 城下哉」の句が刻まれています。この句は、明治28年、子規が日清戦争従軍記者として戦地に赴く直前に詠んだ句で、松山を象徴的に表す句だそうです。句碑といえば、あまり大きくないものが多いですが、この句碑は3mはあろうかという大きなものです。松山駅前のシンボルとして存在感を示しています。この句を多くの松山の人が愛していることがわかります。戦後、同じ句を刻んだ小さな句碑が駅前にあったそうですが、この碑は現在子規記念博物館に移されたそうです。

 松山の市電は、1回の乗車で150円。安い。さらに1dayチケットという1日乗り放題のチケットが400円。ということで、1dayチケットを買いました。このチケット、スクラッチになっていて、年月日を削って使うというもの。ちょっとした記念にもなるし、おもしろいアイディアだと感心しました。
 最初の目的地は、子規の生誕地碑です。途中で1度乗り換えて、松山市駅に着きました。直通電車もあったみたいだけど、1dayなので大丈夫。

偉人百句(中央小学校)
2013年6月20日

 先日、今年の第1弾として田上小学校の4年生の作品が届いたとお伝えしましたが、そのすぐ後に、中央小学校4年生76名の作品が届きました。ありがとうございます。田上小学校の隣に展示させていただきました。
 まだ2校ですが、学校によって個性がありますね。読んでいると楽しくなってきます。「偉人みたいになりたい」ではなく「偉人に勝つ」という積極的な作品が多くありました。今回も、私の個人的好みで何点か選んでみました。
 この企画、軌道に乗るとおもしろいと思います。今後もたくさんの作品をお待ちしております。


梅雨入りですね
2013年6月20日

 北陸も、とうとう梅雨入りしましたね。少し前まで暑い日が続き、今年は梅雨がないまま夏になってしまうのではないか、なんてことを思ってましたが、さすがにそんなことはないですよね。昨日、金沢では雨は降っていましたが、豪雨というほどではありませんでした。ところが七尾では観測史上最高の雨が降ったとか。最近は、非常に局地的な豪雨が多いように思います。地球温暖化とかが関係しているんですかねえ。
 梅雨といえば紫陽花。町のあちらこちらで咲いているのを見かけます。偉人館の庭には4カ所紫陽花が咲いています。特別豪華な花ではないですが、よかったら見に来て下さい。庭は無料です(笑)。先日まで、暑さで紫陽花もバテているように見えましたが、今は生き生きしています。やっぱり、紫陽花には雨が似合いますね。

松山の旅(その1)
2013年6月18日

 「東京での風景」シリーズに次いで、今回は「松山の旅」シリーズです。
 企画展の資料借用のため、松山まで行ってきました。金沢駅からサンダーバードで新大阪へ、新幹線のぞみに乗り換え岡山、さらに特急しおかぜで松山へと、都合7時間30分の予定です。金沢を出で福井に着く少し手前で、突然電車が止まりました。「遮断機の棒が折れたので、徐行する相談をしています」と車内放送が。「棒が折れるってどんな事故やねん」と思わず関西弁でつっこみたくなるような事態です。どれくらい遅れるか心配しましたが、10数分の遅れで出発、一安心です。しかし、新大阪で乗り継ぐ予定の新幹線に間に合わず、次の新幹線で岡山へ向かいました。新幹線って、本数多いですよね。金沢でバスを待っているより時間が短いような気もします。

 岡山で松山行きの電車に乗ろうとホームを進んでいくと、何とも派手な電車が止まっています。車体全体にアンパンマンに登場するキャラクターが描かれています。思わず写真をパチリ。中に入ると、天井にもキャラクターが。天丼マンとカツ丼マン、釜飯どんでした(笑)。出発とともにアンパンマンの歌が流れ出し、「アンパンマン列車にようこそ」というアンパンマンの声。なごみました。瀬戸大橋を渡り、いよいよ四国へ。そんなこんなで、自宅を出てから松山到着まで、9時間弱かかりました。いや~遠かった。

偉人百句 第1弾
2013年6月8日

 今年から新たに始めた企画「偉人百句」。その初めての応募がありました。この企画は、偉人館に見学に来てくれた子どもたちから、偉人に関する一言、標語のようなものを募集し、展示するというものです。
 6月6日、今年の第1弾として田上小学校の4年生、119名の作品が届きました。さっそく、1階学習コーナー横の掲示板に展示させていただきました。企画してみたものの、本当に作品が集まるのか、多少心配していましたが、ほっと一安心。今度は、たくさん集まりすぎると、展示スペースに苦労するかも、と違った心配をしたりして。
 作品を見ていると、こちらの予想を超える面白い作品がたくさんあります。作品に優劣をつけるつもりは毛頭ないのですが、個人的に気に入った作品を何点か載せておきます。子どもたちの感性の豊かさに、感心することしきりです。
 今月も、何校か団体見学の予定が入っています。個性的で楽しい「偉人百句」、たくさん提出して、どこにどのように展示するか偉人館を困らせて下さい。たくさんの作品お待ちしております。


明日から企画展開催です
2013年6月7日
 金沢ふるさと偉人館開館20周年記念企画展「夏目漱石とその時代 ―漱石をめぐる金沢の人々―」が明日から始まります。第1期は漱石と正岡子規、米山保三郎、横地石太郎の紹介です。特に注目は米山保三郎。名前を知っている人は少ないかもしれませんが、若き日の漱石と子規に多大な影響を与えた人物です。漱石は米山のことを「真性変物」なんて書いていますが、まわりに人たちに与えた影響は大きなものがあったようです。
 今回の展示は、松山市立子規記念博物館、金沢大学附属図書館(暁烏文庫)、金沢市立玉川図書館から貴重な資料を借用しました。金沢初公開の資料もあります。わずか1日だけですが、一足早く展示会場の写真を載せておきます。明日以降、是非、当館の方まで足をお運び下さい。お待ちしております。
 2ヶ月近く、更新が遅れてしまいました。展示準備で忙しかったので、と一応言い訳しておきます。本当に言い訳です。すいません。次からは、もう少しマメに更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
 
高峰桜、満開です
2013年4月7日
 爆弾低気圧とかいう恐ろしげな名前の低気圧のせいで、雨風が強くなっています。せっかく、桜が満開になったのに、この天候のせいで、だいぶ散ってしまうのでしょうか。もう少し桜を楽しみたいと思っている人も多いと思います。ガンバレ、サクラ。

 日本人って、桜が好きですよね。約100年前、高峰譲吉がアメリカに桜を贈ったのも、桜が日本を代表する花であり、最も愛されている花だったからなのかな、と思います。そのアメリカに贈った桜の子孫が、偉人館の前庭にもあります。低気圧が来る前にと思い、週末に写真を撮りました(右)。まだ小さな木なので、満開といっても、チラホラ花が付いているという感じです。偉人館の桜は、あまり日当たりが良い場所ではないので、ちょっとかわいそうですが、それでも可憐な花が咲いています。

 偉人館の桜と同時に、21世紀美術館の庭にも高峰里帰り桜が植えられました。ということで、美術館の桜も見てきました(左)。場所は美術館と西内惣構堀の間です。こちらは、とても日当たりの良い場所です。ちょっとうらやましい。美術館周辺には他にも多くの桜があり、シートを敷いて、花見をしている人もいました。他の桜がきれいなので、小さな高峰桜に注目している人はいませんでした。残念。早く大きくなってね。
 二つの桜を比べてみると、背丈はあまり変わらないのですが、花の付き方が違います。偉人館の桜は、まばらではあるものの、全体に花が咲いているのに対して、美術館の桜は、集中的に花が密集して咲いています。桜にも個性があるのだなあと、妙に感心して帰りました。

東京での風景(その8)
2013年4月6日
 養源寺を出て、地下鉄、JRを乗り継ぎ、鶯谷駅へ行きました。目的は子規庵の訪問です。駅を出ると、そこはいわゆるホテル街。神保町の古本屋、上野の仏壇店、かっぱ橋の道具問屋など、東京には同じ業種がたくさん集まる場所がありますが、ここもその一つなんでしょう。そんなことを考えながら歩いていると、5分ほどで子規庵に着きました。ここは子規、最後の家です。加賀藩下屋敷の家であり、金沢とゆかりのある地に住んでいたことになります。昭和20年の空襲で家屋は焼失しますが、奇跡的に土蔵は残り、保管していた子規の遺品や遺墨などが残りました。現在も我々が、多くの子規の遺品を見ることができるのは、この奇跡のおかげだと思うと感無量です。子規についても6月の企画展を、是非ご覧下さい。

 翌日、国立国会図書館で少々調べ物をしました。久しぶりの国会図書館だったので、多少戸惑いましたが、何とか無事終了。図書館を出ると、目の前に国会議事堂が。正面ではなく、側面からの風景。少し珍しいかなと思い、写真を1枚。これで、今回の東京での目的はすべて終了です。ブログネタとして、4・5回の連載を思っていたのですが、倍近い連載になってしまいました。次回から、通常ネタに戻ります。

東京での風景(その7)
2013年4月4日

 次に地下鉄で移動し、藤岡作太郎のお孫さんの家を訪問、資料借用のお願いなどをしてきました。そこから歩いて、養源寺へ向かいました。養源寺には米山保三郎(よねやまやすさぶろう)の墓があります。歩いていると、この辺り(谷中(やなか))には大きなお寺がたくさんあり、金沢でいうと寺町みたいな地区です。寺の前には「○○の墓」といった看板も多く、有名人のお墓もたくさんあるようです。途中で、振り袖火事で有名な「八百屋お七」の墓なんかもありました。
 養源寺に着き、米山の墓を探しに墓地に入りました。かなり大きな墓地で、探すのに迷うかなと思ったら、すぐに看板がありました。「小説「坊ちゃん」に登場するきよの墓(米山家)」。この看板を見ると、何か米山家が夏目漱石のお手伝いさんをしていたように見えるんですが。米山保三郎は漱石の一高、東大時代の同級生で、漱石と子規に大きな影響を与えた金沢出身の人です。6月には、漱石、子規、保三郎をテーマにした企画展を開催するので、詳しく知りたい方、興味のある方は是非ご来館下さい。

東京での風景(その6)
2013年4月2日

 翌朝、電車で品川に向かいました。出発前、朝8時代の電車なので、超満員電車を覚悟し、痴漢に間違えられないよう、両手を上に上げて乗ろうなどと考えていましたが、思ったほどでもなく、何と途中から座ることもできました。
 品川駅から高輪プリンスの前を通って向かった先は「食と暮らしの小さな博物館」です。ここは「味の素」が運営している博物館です。「うま味」成分であるグルタミン酸を抽出した池田菊苗の調査が目的です。菊苗自身は金沢生まれではありませんが、父は加賀藩に仕えた武士で、広い意味で金沢ゆかりの偉人といえる人物です。秋に菊苗を採り上げた企画展を行うので、興味のある方はぜひお越し下さい。博物館では味の素の歴史を中心に、各時代の食卓の風景を紹介しています。名前の通り、決して大きな博物館ではありませんが、見応え充分で、色々懐かしさがこみ上げてきました。入館無料なので、興味のある方は一度足を運んでも良いのではないでしょうか。

新体制でスタート
2013年4月2日

 今年は例年に比べて、桜の開花が早く、ちらほら咲き始めています。偉人館の庭にある桜も咲き始めました。高峰譲吉の里帰り桜は、つぼみは膨らみましたが、開花までもう少し、といった感じです(時期を見て報告します)。木蓮の花も咲き始め、あちこちで春の到来を告げています。
 そんな春といえば、人事異動の季節です。当館では、松田章一前館長が退職され、4月1日付で、輪島道友新館長が就任されました。去る人がいて、来る人がいる、頭ではわかっているものの、複雑な気持ちです。松田前館長は、8年間にわたって、館の顔として活躍してこられました。新たな事業や企画を次々と発案され、偉人館の活性化に尽くされました。楽しい思い出で一杯です。言葉では言い尽くせないほど感謝しております。ありがとうございました。
 輪島新館長は、金沢美術工芸大学教授で、教育学がご専門です。かつては、たびたび偉人館に学生を連れて来て頂きました。今年は、偉人館開館20周年を迎える節目の年にあたります。新館長のもと、館員一同力を合わせて頑張っていきたいと思います。今年度もよろしくお願いします。 

東京での風景(その5)
2013年3月28日

 亀戸天神社から再び歩いて錦糸町の駅に向かいました。トータル2時間30分くらいで、錦糸町の駅に戻ってきました。ちょっとした遠足です。2時間以上歩くなんて最近なかったことです。でも、知らない町を地図片手に、キョロキョロしながら歩いたので、体感時間はもっと短く感じました。次の目的地は御茶ノ水です。

 電車で御茶ノ水まで移動し、お茶の水小学校へ向かいました。ここには夏目漱石の文学碑があります。漱石が学んだ錦華小学校があった場所です。少々迷いましたが、10分ほどで無事到着。写真を撮ろうと思うが、日差しが強く、碑の正面に葉っぱの影が。空を見ると雲一つない。しかたないので、そのまま写真撮影。ちょっと残念な1枚になりました。御茶ノ水駅に帰ろうと歩き出したのですが、同じ道を帰るものなんだし、違った道を通ろうと思ったのが大失敗。自分自身、方向音痴であることは自覚していたのですが、まっすぐ行って右に曲がろうくらいの軽い気持ちで歩いていたら、迷子になりました。30分近くさまよって、水道橋の駅(御茶ノ水の隣の駅)に着きました。やれやれ。さすがに歩き疲れたので、ホテルへ向かい、明日への鋭気を養うことにしました。

東京での風景(その4)
2013年3月25日

 亀戸天神社には、清水誠の顕彰碑があるということでやってきました。さて、鳥居をくぐると、すぐに石碑を発見。近づいてみると、残念ながら清水の碑ではありませんでした。周りを見渡すと、あちこちに石碑があります。一つずつ見ていきますが、なかなか清水の碑に出会いません。

 そんな時、ふと池を見ると、どこかで見たことのあるような灯籠が。近づいてみると「琴字灯籠」とあります。ことじ?片方の足が短いという姿形も兼六園にある「徽軫(ことじ)灯籠」と同じように見えます。徽軫灯籠って兼六園の専売特許じゃなかったの?「琴字」っていう表記も変だな、と思いつつもこの時は何もわかりませんでした。帰って調べてみると、徽軫灯籠は琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ていることから命名されたこと(これは知っていた)、兼六園が最も有名だが亀戸天神社にもあること、亀戸天神社では学問の神様を祀っていることから「琴字(ことじ)灯籠」と呼ばれていることなどがわかりました。少し賢くなった気分です。

 さて、本来の目的の清水の碑はなかなかみつかりません。しかたがないので、拝殿でお参りを済ませたあと、社務所で聞いてみることにしました(すぐ見つかると思っていたのに…)。すると、拝殿の左奥の方にあるとのこと。さっき、その辺りも探したのだが、と思いつつ進んでいくと、境内の一番外れに近いところにありました。木のかげでさっきは気付かなかった場所です。これで無事写真撮影終了です。

東京での風景(その3)
2013年3月22日

 釜屋堀公園から川沿いを歩いて北上し、次の目的地である亀戸天神社を目指しました。左前方には常にスカイツリーが見えます。途中で「日清紡績創業の地」という碑を発見。偉人館とは何の関係もないけど写真を1枚。歩いていると思わぬものの発見があり、これも楽しみの一つです。
 東京を歩いていると、「案外、緑が多いなあ」といつも思います。私の中で東京は「大都会で、高層ビルが多く、緑が少ない」というイメージが強いのですが、実際に歩くと、小公園や金沢の中央公園の何倍もあるような大きな公園がいくつもあったりします。釜屋堀公園は小さな公園で、碑以外に滑り台と水飲み場がある程度ですが、川の向かい側には猿江恩賜公園というかなり大きな公園があります。来る途中にこの公園を通ったのですが、平日の午後というのに、ジョギングしている人を何人も見かけました。こういった風景を見ると、「東京だなあ」と思ってしまいます。
 そんなこんなで、30分くらい歩いて、亀戸天神社に到着しました。
 ここは梅の名所として有名で、境内にはたくさんの梅がありました。2月下旬頃までが見ごろとありましたが、かろうじて花の名残を見ることができました。

東京での風景(その2)
2013年3月16日

 「国産マッチ発祥の地」から、高峰譲吉が設立した人造肥料を造る会社「東京人造肥料会社」跡地にある 「化学肥料創業記念碑」と「尊農」の碑を目指しました。場所は江東区大島1丁目にある釜屋堀公園という小公園です。交通手段は…、徒歩です。区は違いますが、地図で見ると、さほど遠くありません。ということで、歩き始めました。この辺りからは、どこでもスカイツリーがよく見えます。景色を見ながら歩くこと30分強(思ったより遠かった)。何とか、釜屋堀公園に到着しました。小さな公園で、二つの碑はすぐに見つかりました。「化学肥料創業記念碑」の碑文には高峰の名前が見当たりません(創業者なのに…)。「尊農」には「欧米ニ於ケル化学肥料ノ研鑽者タル 高峰譲吉氏ノ協力ヲ得テ 明治二十年 初メテ此ノ地ニ 東京人造肥料会社ヲ設立シ…」とありました。
 帰り際、公園横の高校の前を通ると、「文部科学省スーパーサイエンスハイスクール指定校」の横断幕が目に飛び込んできました。学校の名前は都立科学技術高等学校。高峰譲吉の碑の横にスーパーサイエンス指定校、何ともいえない組み合わせに、一人感心しながら次の目的地を目指しました。

東京での風景(その1)
2013年3月14日

 3月11日から13日に東京へ行ってきました。その時の話しを少ししたいと思います(偉人関係のネタが中心ですが)。
 清水誠という人物をご存じでしょうか。日本で最初に国産マッチを作った人です。卯辰山に大きな顕彰碑が建っているので、見たことがある人も多いと思います。この清水誠がマッチ製造を始めた「新燧社(しんすいしゃ)」のあった場所に、「国産マッチ発祥の地」と刻まれた碑があるというので、行ってきました。場所は墨田区江東橋1丁目で、両国高等学校の敷地内だそうです。JR錦糸町の駅を出て、高校を目指します。途中、信号待ちをしているとき、ふと横を見ると、スカイツリーがビルの谷間に見えるではないですか。周りの人たちは誰も気にしていない様子でしたが、あわててカバンからカメラを取り出し記念撮影(まるでお上りさんです)。

 10分ほどで、学校が見えてきました。碑はどこにあるのかと思っていたら、大通りに面した柵の内側にあり、すぐに見つかりました。さて、写真撮影。ところが、柵越しに写真を撮ると、碑が牢屋に入っている様に見えます(笑)。困っていると、簡単に答えが見つかりました。柵の間にカメラを入れて、はいポーズ。無事、撮影することができました。次は高峰譲吉ゆかりの碑に向かいます。

八田與一の生誕祭、無事終わりました
2013年2月23日

 八田與一の生誕祭、無事終了しました。43名の方々に参加頂きました。
 献花は中庭にある銅像前で行いたかったのですが、当日は朝から雪模様。結局、ホールから窓越しに銅像を見る形で献花しました。献花の時間帯には青空が見えたりしたので、足下の雪さえなければ良かったのですが…。少し残念でした。

 金さんの講演はとても興味深いものでした。台湾に残っている八田與一の史料紹介では、與一が亡くなった昭和17年まで記載された履歴書や当時の新聞記事、講演している與一の写真など、これまで見たことのない史料もたくさんありました。いつの日か是非実物を展示してみたいと思いました。
 また、台湾で活躍した與一以外の石川県出身の技術者の紹介がありました。台中に白冷□という灌漑施設を造った磯田謙雄(のりお)、高雄港を整備した山下繁造、台南に多くの建築を残した梅澤捨次郎など。磯田は最近新聞にも紹介されたので知っていましたが、他の人は全く知りませんでした。高雄港にも石川県人がかかわっていたとは、かなりの驚きでした。まだまだ、勉強しなければならないことがたくさんあると感じた一日でした。

八田與一の生誕祭前日
2013年2月20日

 2月21日は金沢ふるさと偉人館で顕彰している偉人の一人である八田與一の誕生日です。八田與一は明治19(1886)年生まれですから、今年は127回目の誕生日になります。偉人館では「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」と共同で、平成19年から毎年、誕生日に生誕祭を行っています。

 生誕祭を行うきっかけについて少し触れておきます。八田與一といえば5月8日の命日に台湾で行われる墓前祭が有名で、5月上旬には新聞にも八田與一の名前が多く見られます。そのような中、友好の会の代表世話人である中川外司氏らと何か金沢でもできないものかと話しているうちに、金沢生まれなのだから、誕生日のお祝いをしよう、ということになったのです。幸い、偉人館の中庭には八田與一の銅像もあることから、「献花」と「講演」をセットにした生誕祭を行うことになりました。
 今年の生誕祭の内容はイベント欄で紹介しています。どなたでも参加できるので、興味のある方は是非ご来館下さい。

自画像展の表彰式がありました
2013年1月30日

 みなさま、少し遅いあいさつになりますが、あけましておめでとうございます。

 金沢ふるさと偉人館では、1月12日に「第5回 自画像展」の表彰式を行いました。当館に最も人が集まる日の一つです。午前10時の大賞受賞の表彰式から午後3時まで8回に分けて学年毎に表彰式を行ったのですが、1日中人が絶えることのない日になりました。疲れるといえば疲れるのですが、うれしい疲労感です。感謝、感謝。
 表彰式の会場は子どもたちと保護者の方々の熱気で、暖房を切っても暑いくらい。そんな中、子どもたちの様子を見ていると、表彰で名前が呼ばれると少し緊張した顔になります。ところが、館長から賞状をもらって席に戻るときには、何ともいえない笑顔になります。やってて良かったなあと思える瞬間です。
 今回の表彰式でほほえましい光景がありました。保育所・幼稚園児の表彰時、ほとんどの子どもたちは館長に「おめでとう」と言われると「ありがとう」と答えます。そんな中、ある子どもが「おめでとう」に対して「おめでとう」と答えたんです。あまりの可愛らしさに会場は笑いに包まれました。何度も言うようですが、ほんとやってて良かった。

 私事ですが、この表彰式のあと、インフルエンザに罹ってしまいました。こんなことで流行の最先端をいかなくてもいいのに…。ということもあって、更新ずいぶん遅れてしまいました。今後はこんなことのないよう頑張ります。

2012年

クリスマスイブです
2012年12月24日

 今日はクリスマスイブですね。外は雪が降り、ホワイトクリスマスとなりそうです。北陸の人間にとって雪はあまり歓迎できるものではありませんが、クリスマスの日だけは別ですかね。

 さて、偉人とクリスマスで何かないかと探していたところ、1枚の写真がありました。中央にサンタクロース姿で写っているのが桜井錠二です。「日本近代化学の父」といわれた化学者です。桜井錠二には9人の子どもがいましたが、周りにいるのはその子どもたちと孫たちになります。遺族の方にお伺いしたところ、毎年、このような仮装パーティーをしていたそうです。他の写真を見るとダンディーなイメージがある桜井錠二ですが、お茶目で家族思いな一面を見たような気がします。

 みなさんも、家族や大切な人とともに、素敵なクリスマスをお過ごし下さい。

もうすぐ「自画像展」がはじまります
2012年12月16日

 12月22日から「自画像展」が始まります。この展覧会は、中学生以下の子どもたちが描いた自画像を公募し、全作品を展示するというもので、今年で5回目になります。今年は1,162点の作品が集まりました。ここ数年、1,200点前後の作品が集まり、非常にありがたいことだと思っています。
 募集したすべての作品に「学校名・学年・氏名」を記したキャプションを貼るのですが、これが大変な仕事なんです。職員総出で手分けして作るのですが、1,000点を超えるとかなりの労力が必要です。名前を入力していると思うのですが、最近の子どもたちの名前はオシャレなので、一度で変換してくれないことが多く、一文字ずつ変換しなければなりません。また、普段あまり使わない字も多く、漢字の勉強になったりしています。しかし、作品をすべて展示したあとは壮観です。特に幼稚園や保育所の子どもたちの絵からは新たなパワーをもらえるような気がします。
 ちなみに、写真の絵は私が最も気に入った作品です。年長児(6歳)の作品ですが、目に力がありますよね。頭はスーパーサイヤ人みたいだし…。是非「自画像展」見に来て下さい。

HPリニューアルしました!
2012年12月12日

 偉人館のホームページ、やっとリニューアルすることができました。平成5年に5人の偉人の顕彰からスタートし、現在20人の偉人を顕彰していますが、偉人が増えるたびにホームページはつぎはぎを繰り返してきました。今回のリニューアルで少しは見やすくなったかな、と思っています。
 最近、博物館等のホームページでもブログが流行っていますが、偉人館でも採り入れることにしました。企画展の苦労話や裏話、日常業務で気付いたことなど書いていきたいと思います。毎日更新とはいきませんが、目標は週1かな(笑)。今回は写真もありませんが、次回からは写真入りで色々なことを紹介していきたいと思います。

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