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常設展

近代日本を支えた偉人たち 【八田 與一

台湾の大地を潤した男
八田 與一 (はった よいち)
明治19(1886)年~昭和17(1942)年
石川県金沢市今町生まれ
業績

 八田與一は、台湾で不毛の大地と呼ばれていた嘉南(かなん)平原に、堰堤長1,273mという当時では東洋一の規模である「烏山頭(うさんとう)ダム」と、総延長16,000kmにおよぶ給排水路を完成させました。その成果によって、嘉南平原は台湾一の穀倉地帯となりました。
 台湾では、このダムと給排水路をあわせて「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」と呼んでおり、與一は「嘉南大圳の父」として、現在でも台湾で多くの人々に慕われ続けています。

■烏山頭ダム
 昭和5年に完成した堰堤長1,273m、高さ56m、貯水量1億5千万トンの鳥山頭ダムを造るにあたって、與一は当時としては新しい三つの方法を取り入れました。

①セミハイドロリックフィル工法(湿式土堰堤工法)の採用
 この工法は、地震の多い台湾では当時最善の方法でした。コンクリートの土台を中心部にだけ用い、大量の土砂をその上に盛るのですが、このときに水の力を利用して、粘土や細やかな土砂を下に落ち着かせ、土の堰堤を造るものです。
②大型土木機械の使用
 工事を早く進めるため、当時ではほとんど使われていなかったスチームショベルやエアダンプカーなどの大型土木機械を47種類取り入れました。
③烏山頭に町をつくる
 工事で働く人だけでなく、その家族も一緒に住むことのできる町をつくりました。與一は「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」という考えから、宿舎のまわりに学校や病院、テニスコート、プールなどもつくりました。彼自身も工事期間中、家族とともにこの町で生活しました。

豆知識
 與一の墓は、ダムを見下ろす高台に設置された銅像の後ろにあります。毎年命日である5月8日には、多くの台湾や日本の人が集まり、墓前祭が行われています。與一は現在でも日本と台湾の友好の架け橋になっています。

展示品
ゆかりの地
生家と生誕地碑
八田與一は1886(明治19)年、金沢市今町に生まれました。生家は国の登録文化財に指定されています。前庭には生誕地碑と顕彰碑が建っています。
八田與一胸像/花園小学校
生家の目の前にある花園小学校の校庭には、八田與一の胸像が建っています。この胸像は台湾の実業家・許文龍氏が制作し、金沢市に寄贈したものです。
花園偉人館/花園小学校
花園小学校の校舎内に「花園偉人館」という一室が設けられ、八田與一の写真や関連図書などが展示されています。
桜章校跡地
八田與一が通っていた当時の石川県立金沢第一中学校(現・金沢泉丘高等学校)は、本多町にありました。同校創立80周年を記念して、この地に碑が建てられました。
第四高等学校(現・石川四高記念文化交流館)
八田與一が通っていた第四高等学校は、石川四高記念文化交流館として公開され、当時の四高の様子を知ることができます。
四高校庭趾
八田與一が通っていた第四高等学校の跡地(いしかわ四高記念公園)にある記念碑です。四高同窓会によって建てられました。
参考文献
『水明り』 八田外代樹、1943
『台湾を愛した日本人』 古川勝三、1989、青葉図書
『街道をゆく40 台湾紀行』 司馬遼太郎、1994、朝日新聞社
『百年ダムを造った男』 斎藤充功、1997、時事通信社
『伝説のニッポン人』 話題の達人倶楽部編、2004、青春文庫
『海外の建設工事に活躍した技術者たち』 かこさとし、2005、瑞雲舎
『かなざわ偉人物語』第6巻 金沢こども読書研究会、2006、金沢市立泉野図書館
『よいっつあん夢は大きく』 ふるさと偉人絵本館編集委員会、2007、北國新聞社
学習まんが『八田與一』 2011、小学館
 生誕130年記念出版
『回想の八田與一』
-家族やゆかりの人の証言でつづる-
2016、北國新聞社
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