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常設展

近代日本を支えた偉人たち 【八田 與一

台湾の大地を潤した男
八田 與一 (はった よいち)
明治19(1886)年~昭和17(1942)年
石川県金沢市今町生まれ
年譜
年号 年齢 できごと
1886年(明治19年) 0歳 2月21日、四郎兵衛の五男として金沢市今町に生まれる。
1892年(明治25年) 6歳 今町尋常小学校に入学。
1896年(明治29年)  10歳 森下高等小学校(明治41年4月16日、森下尋常高等小学校となる)に入学。
1899年(明治32年) 13歳 石川県立第一中学校に入学。
1904年(明治37年) 18歳 第四高等学校大学予科二部工科に入学。
1907年(明治40年) 21歳 東京帝国大学工科大学(工木科)に入学。
1910年(明治43年) 24歳 台湾総督府に土木部技手として奉職。
1917年(大正6年) 31歳 米村外代樹(とよき)と結婚。嘉南平原の灌漑用ダムの調査を実施。
1920年(大正9年) 34歳 「官田渓埤圳(かんでんけいひしゅう)組合」が設立、組合技師となる。嘉南大圳の着工。
1922年(大正11年) 36歳 工法検討および大型土木機械の購入のため、アメリカ・カナダ・メキシコを視察。烏山頭(うさんとう)出張所の所長となり、烏山頭へ転居する。
1926年(昭和元年) 40歳 烏山頭堰堤(えんてい)の本工事を開始する。
1930年(昭和5年) 44歳 烏山頭水庫(ダム)竣工。
1931年(昭和6年) 45歳 ダムを臨む丘に八田與一の銅像が設置され、除幕式が行われる。
1933年(昭和8年) 47歳 嘉南大圳(かなんたいしゅう)の経済効果が顕著になる。
1937年(昭和12年) 51歳 「土木測量技術員養成所」設立に奔走、顧問となる。
1942年(昭和17年) 56歳 5月8日、「南方開発派遣要員」としてフィリピンに向かうため乗船した「大洋丸」が、アメリカ潜水艦の攻撃により撃沈。東シナ海にて死亡。

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