近代日本を支えた偉人たち 【北方 心泉】
業績紹介 | 年譜 |
明治の書聖
北方 心泉
(きたがた しんせん)
嘉永3(1850)年~明治38(1905)年
石川県金沢市木の新保生まれ
石川県金沢市木の新保生まれ
年号 | 年齢 | できごと |
---|---|---|
1850年(嘉永3年) | 0歳 | 4月28日、木の新保の常福寺の住職・致風の三男として生まれる。 |
中村菜窩に漢籍の素読や書画を学ぶ。 | ||
1864年(元治元年) | 14歳 | 真宗大谷派が経営する京都の高倉学寮に入学。 |
1865年(慶応元年) | 15歳 | 金沢に戻り、大道北遊に天文学を学ぶ。 |
1867年(慶応3年) | 17歳 | 松本白華が経営する松任の遥及社(ようきゅうしゃ)に入学。 |
1868年(明治元年) | 18歳 | 常福寺の14世住職となる。 |
1869年(明治2年) | 19歳 | 石川舜台が「慎憲塾(しんけんじゅく)」を創建、その助教を勤める。 |
1871年(明治4年) | 21歳 | 真乗寺の唯と結婚。 |
1873年(明治6年) | 23歳 | 東京の築地本願寺の闡道社(せんどうしゃ)に入学。 |
1874年(明治7年) | 24歳 | 「心泉」と号す。 |
1877年(明治10年) | 27歳 | 中国布教事務掛として上海に出張。 |
1879年(明治12年) | 29歳 | 再び上海に出張。この出張中に清の文人との交際が本格的になり、北碑の書風を会得する。 |
1882年(明治15年) | 32歳 | 西湖の兪曲園(ゆ・きょくえん)を訪ねる。 |
1883年(明治16年) | 33歳 | 日本に帰国。『東瀛詩選(とうえいしせん)』を刊行。 ※『東瀛詩選』とは、兪曲園が編集した正編40巻、補遺4巻からなる日本人の漢詩選集。正編には林羅山以下明治の詩人まで287家(心泉の漢詩も掲載されている)、補遺には大友皇子以下260家の作品が収められる。この選集は岸田吟香が企画したもので、心泉は兪曲園と岸田の間に立って詩選の資料を提供したり、日本内地の様子を伝えるなど、陰の人として協力した。 |
1890年(明治23年) | 40歳 | 第3回内国勧業博覧会に「包慎伯論書一則」を出品。 |
1898年(明治31年) | 48歳 | 南京駐在を命じられる。 |
1899年(明治32年) | 49歳 | 南京に「金陵東文学堂」を創設し、学長となる。 |
1900年(明治33年) | 50歳 | 東亜同文書院の設立に奔走。 |
1904年(明治37年) | 54歳 | 脳出血で右手が不自由になる。 |
1905年(明治38年) | 55歳 | 7月29日、入寂。 |