近代日本を支えた偉人たち 【細野 燕台】
業績紹介 | 年譜 |
石川県金沢市材木町生まれ
細野燕台は若い頃、金沢の五香屋休哉(ごこうやきゅうさい)に漢字を学び、書家の北方心泉に書道を学びました。
漢字や書道はもちろんのこと、茶道や書画骨董にも通じた燕台は、「金沢最後の文人」ともいわれています。
また、北大路魯山人(きたおおじろさんじん)が金沢に滞在した際に加賀の伝統文化を紹介し、魯山人の才能を認めた最初の人物としても知られています。
燕台は生涯酒を愛し、押入れには1ヵ月30本の酒を用意していたといわれています。
■雅号「燕台」
細野申三の雅号(がごう)である「燕台」は、金沢の町のことを意味します。富田景周(とだかげちか)の『燕台風雅』によると、儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)とその師である木下順庵(じゅんあん)が、医王山に登り金沢の街を眺めたときに、犀川と浅野川に挟まれ、その両翼に町が延びる姿が燕の飛ぶさまに似ていたことから、中国の北京を「燕京(えんきょう)」あるいは「燕台」と呼ぶのになぞらえて、金沢も日本の「燕台」と呼ぶことにしたと記されています。
燕台の本名である「申三(しんぞう)」は、申(さる)の年、申の日、申の刻(とき)に生まれたことから名付けられました。
燕台は60歳の時、魯山人に招かれて「星岡茶寮」の顧問として上京します。気難しい人として知られる魯山人も燕台には一目置いていたのでしょう。燕台は上京後、三越の美術部に北陸の作家を数多く紹介するなど、美術プロデューサーの役割を果たしました。
※令和3年に廣瀬印房が閉店された際、看板は石川県立歴史博物館に寄贈されました。
『雅遊人 細野燕台 魯山人を世に出した文人の生涯』 | 北室南苑、1989、里文出版 |
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『かなざわ偉人物語』第8巻 | ふるさと偉人絵本館編集委員会、2010、金沢市立泉野図書館 |
- 魯山人寓居跡 いろは草庵
山代温泉にある魯山人の記念館です。