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前田土佐守家について

歴代当主の紹介

家祖 利政の父 加賀藩祖 前田利家(としいえ) 1539~1599

加賀藩主前田氏の祖。幼名は犬千代。父は尾張国荒子城主の前田利昌、母は長齢院。幼少より織田信長に仕える。賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家についたが、のち豊臣秀吉と和を結び、金沢に封ぜられた。豊臣政権五大老の一人。長男利長(2代加賀藩主)、次男利政(前田土佐守家家祖)、4男利常(3代加賀藩主)などの子がいる。

家祖 利政の母 前田利家夫人まつ(芳春院) 1547~1617

加賀藩祖前田利家の正室。天文16年(1547)、尾張国沖之島に生まれる。父は信長の家臣であった篠原某(主計とも)。天文19年から利家の屋敷で暮らすようになるが、利家と婚礼をあげた年は不明である。利家との間に2男9女をもうけた。慶長4年(1599)に利家が亡くなると剃髪して芳春院と号する。慶長5年より人質として江戸に暮らし、同19年金沢へ帰る。元和3年(1617)に没した。 前田土佐守家2代直之は、まつにとって唯一の直系男孫であり、その養育に心砕いたことが当館所蔵史料(自筆書状)からわかる。

家祖 利政の兄 加賀藩2代藩主 利長(としなが) 1562~1614

加賀藩2代藩主。前田利家・夫人まつの長男として尾張荒子にて出生。幼名犬千代のち孫四郎。初諱利勝。妻は織田信長の四女永。
慶長3年父利家の隠居に伴い家督を継ぐ。翌年の父の死後、五大老に列する。しかし、同年に大坂より帰国、その直後、徳川家康に加賀征伐の動きがあり、母芳春院を江戸へ人質に出すことで和解した。
関ヶ原の戦いの際には徳川方に付き、大聖寺での戦功として江沼・能美両郡を加増された。また、徳川方に付かなかった弟利政の能登国も還付されて加賀・能登・越中三カ国、約120万石を領有した。
自身には男子がなかったため、異母弟である利光(後の3代藩主利常)を養子とし、慶長10年(1605)家督を弟利常に譲り、隠居して高岡に移る。その後腫物を患い、病気が重くなる中で京都へ隠棲することを願ったが、そのまま高岡にて薨去した。


前田利長書状巻

前田土佐守家 家祖 利政(としまさ) 1578~1633


前田利政画像

前田利家・夫人まつの次男として尾張荒子に生まれる。幼名は又若丸、後に孫四郎。16歳で能登国20万余石を拝し、従四位下侍従に叙任される。妻は蒲生氏郷の娘、籍(せき)。利家の死後、隠居領を分与され22万5,000石の領主となる。
関ヶ原の戦いの後、領国能登を除封され、京都嵯峨野に隠棲。宗西、宗悦と名乗り、本阿弥光悦や角倉素庵ら文化人・豪商と交流があったとされる。

二代 直之(なおゆき) 1604~1674

利政唯一の男子として京都で出生。幼名又若。通称三左衛門。幼少期に祖母芳春院(まつ)にひきとられ養育される。12歳で3代藩主利常に召し出され2,000石を禄す。芳春院没後、その遺知7,500石を贈られ、最終的に1万石の大身となる。人持組頭、小松城代を歴任。直之以降、前田土佐守家は代々、加賀八家として藩の要職をつとめ、明治に至る。


領地判物

三代 直作(なおなり) 1642~1689

2代直之の長男。初名三吉。のちに宇右衛門。
寛文元年(1661)に20歳で元服、寛文3年に5代加賀藩主前田綱紀の證人(=人質)となって江戸へ赴き、1年間江戸で過ごす。延宝2年(1674)に家禄10050石を継ぐ。通称備後。貞享3年(1686)人持組頭となる。
なお、妻の竹は、3代加賀藩主前田利常の外孫で、加賀八家の一つ本多家2代当主政長の娘である。


前田直作宛領知判物

四代 直堅(なおかた) 1683~1729

3代直作の三男。幼名九八郎、主税。7歳で父の遺領を相続、元禄15年(1702) 20歳の時に前田土佐守家当主としてははじめて従五位下近江守に叙爵される。以後、前田土佐守家では歴代当主が従五位下に叙位される。大名の家臣の叙爵(陪臣叙爵)は、加賀藩以外では御三家と徳川一門に限られており、全国的にみても大変珍しい例である。
人持組頭に就任し、11000石に加増され、大老(大年寄)を拝命する。


東山天皇口宣案

五代 直躬(なおみ) 1714~1774


前田直躬画像

4代直堅の次男。通称主税。12歳で召し出され2,500石を受ける。16歳で父の遺知1万1,000石を継ぐ。18歳の時、従五位下土佐守に任命される。直躬以後、3人の当主が土佐守に任じられたため、当家は「前田土佐守家」と呼ばれるようになった。
いわゆる「加賀騒動」では家柄・門閥を重んじる立場から、大槻朝元弾劾の急先鋒となり、糾弾をきわめたという。一面、和歌を冷泉為村に、書を庭田重煕に学び、能や茶を嗜む文化人であり、和歌短冊や詩稿が数多くのこされている。

六代 直方(なおただ) 1748~1823


前田直方画像

5代直躬の三男。通称九八郎、内匠、三左衛門。16歳で召し出されて2,500石を受ける。27歳の時、父の遺知1万1,000石を継ぐ。加判、人持組頭を歴任し、父と同様、従五位下土佐守に叙任される。直方も学芸を好み、能や和歌、書画などを嗜む。また、108点をこえる多数の随筆を残す。

準代 直養(なおやす) 1772~1805

6代直方の四男。通称内匠助。兄直諒が21歳で没したため、直方の後嗣に定められ、27歳の時、新知2500石で召し出され、その翌年には年寄中御用見習、翌々年には月番加判に任じられるが、正式に家督相続せずに34歳で没した。 直養は本来7代にあたるが、家督を相続しなかったため、前田土佐守家では当主に準ずる準代として扱っている。


前田直養宛領知判物

七代 直時(なおとき) 1794~1828


前田直時画像

6代直方の孫。通称主税。父直養が家督相続以前に亡くなったため、15歳で父のかわりに2,500石で召し出される。19歳の時、祖父直方の隠居に伴い1万1,000石を相続。23歳の時、従五位下土佐守に叙任される。20代半ばながらその手腕が期待され、人持組頭、勝手方主附、産物方御用など次々と重職に任命される。12代藩主斉広の信頼が厚く、竹沢御殿建設の責任者として造営にかかわり、斉広の隠居後は斉広専属の年寄役を命じられた。

八代 直良(なおさだ) 1820~1851


前田直良画像

7代直時の嫡男。幼名初丸。父直時が若くして亡くなったため、9歳で遺知1万1,000石を継ぐ。元服前に家督相続したため、後に舅となる奥村栄実らが後見人となった。21歳の時に人持組頭に就任し、勝手方御用を命じられた。翌年には従五位下近江守に叙任され、年寄としての格を高めた。また、宮腰の豪商銭屋五兵衛との交渉が注目される。

九代 直会(なおより) 1847~1856

13代藩主斉泰の8男。通称静之介。誕生の翌年に8代直良の養子となり、養父の死によって5歳で遺知1万1,000石を継ぐが、病気のため10歳で亡くなる。藩主の子で藩士家へ養子に入った人物は何人かいるが、正式に家督を相続したのは直曾ただ一人である。


静之介様御養子一巻

十代 直信(なおのぶ) 1841~1879


前田直信

8代直良の長男。9代直会が継嗣とされたため、陪臣であり母方の実家である篠井家に養子に入っていたが、直会が病没したため、16歳で生家に戻り、10代当主として遺知1万1,000石を継ぐ。従五位下土佐守に任じられる。13代藩主斉泰の将軍家茂上洛供奉の供として、あるいは京都守衛を命じられての上洛など幕末の政局においても活躍した。
大政奉還後、大参事に任じられ、廃藩置県後は尾山神社祠官をつとめた。

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