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2023年5月
昔、赤ちゃんの着物は背中に縫い目がないので、悪いものに襲われたりしないように「背守り」という縫い目をつけました。本日の講座はこの背守りやつけ紐につけた飾り縫いを再現したものを縫っていただきました。
複雑な文様が多いですが、紙に穴をあけて順番に糸を通していきます。今日は小学校低学年の参加もありましたが、保護者の手を借りつつ、頑張って完成させていました。縫い針は先が尖っていない刺繍針を使っていますから、事前に穴を開ければ安心して使ってもらうことができます。
講座限定の文様もありますが、人気の物はミュージアムグッズとして販売しております。来館された際に興味を持っていただけたら幸いです。
端午の節句展の今年のテーマは「平飾り」と「段飾り」です。平飾りは床の間などに人形などをそのまま飾ることを意味し、近年は飾り台を使う場合もあります。
当館の昭和初期の五月人形は、ガラスケース入りと小さな人形を飾る場合があります。写真は神武天皇、馬上武者、金太郎、桃太郎、加藤清正です。馬上武者だけ具体的なモデルがいませんが、戦後も姿を変えて引き続き飾られています。
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昭和初期の五月人形の道具類は好みに応じて組み合わせたと考えられますが、後ろに飾る座敷幟が主役よりかなり大きいのが主流だったようです。飾り太刀や飾り馬など、今では見かけない道具もあります。
戦後に三段飾りが広まると、主役の兜を大きくして座敷幟の竿を短くすることでバランスを取るようになります。弓太刀や陣屋提灯、陣太鼓などの道具が加わり、段飾りとしての体裁を整えていきます。なお、家庭によっては平飾りにする場合もありますが、昭和20~40年代半ばまで兜飾りが人気だったようです。
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次回は大型化する五月人形について紹介する予定です。
ゴールデンウィーク後半は5連休。人出の多さに通常の光景が戻ってきたことを実感します。当館も「こどもの日」に合わせて着物体験を開催し、多くの子供たちが来館しました。去年は1日のみでしたが、今年は従来の2日間に戻しました。
やはり男の子が多いのですが、今年は市松柄の着物が大人気。昭和40年代の着物なのですが、人気アニメのキャラクターと色違いだと喜ばれております。とは言え、1着しかないのでタイミングと身長が合った時のみ着ることができます。
そんな子供たちのステキな写真を紹介します。詳細は着物体験アルバムでご覧ください。
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ゴールデンウィークになりましたね。今年はお天気に恵まれそうですが、後半は雨の予報です。当館ではお天気に左右されないように高い天井を活用してこいのぼりを展示しています。
壁面を活用したこいのぼりは群れるように固めて展示していますが、本来であれば高い所にいるはずのこいのぼりを間近に感じながら記念撮影できますので、人気のスポットです。
写真は去年のものですが、こどもの日に合わせて5月4日・5日に行う記念撮影もまだ空きがございますので、よろしければお申込みいただければ幸いです。
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2023年4月
「ひな飾り展」は終了しましたが、会期中に上映していた動画をゆっくりみたいという声をいただきましたので、you tubeに公開しました。
展示室で上映した際は3分でしたが、組み立てている場面の速度を少し落として、5分の映像に再編集しました。
今ではなかなか組み立てる機会のない「御殿飾り」を身近に感じていただければ幸いです。
you tube映像リンク
令和4年度企画展「ひな飾り展~御殿飾り~」
昭和20年代になると、御殿の柱などの地色が黒から赤に変わり、さらに華やかなものに変わりました。シャチホコは金属製になり、屋根の中央の「唐破風」には後ろ足を上げた獅子などをつけるようになります。また、屋根の両端に薬玉などを下げたりします。中でも最大の特徴は左右に独立した屋根を持つ建物を配置していることです。
今回展示した昭和中期の御殿飾りはすべて「豊寿殿」とあり、同一メーカーで作られたものですが、様々な大きさがあります。製造元の名前はありませんが、昭和28年の北國新聞に「金色の御殿」「産地は…御殿が静岡」とありますので、昭和初期に人気を博した東海地方の御殿が引き続き売られているようです。
写真は大小2種類ですが、見比べると大きな御殿は「唐破風」の奥に「破風」がつき、屋根の鎖の位置に棒のような「降(くだ)り棟鬼飾り」をつけたりして、細かい装飾があちこちに施されています。
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豪華な御殿がもてはやされる一方で、シンプルな御殿も作られました。簡単に組み立てられるようになったとはいえ、どうしても主役である内裏雛が小さくなります。この簡易型はそうした悩みを解消し、金屏風よりも華やかさがあります。
けれどもしだいに御殿は飾られなくなり、昭和40年代にはほとんどが金屏風になりました。このため御殿飾りを知る人も少なくなっています。しかし、これまで紹介してきたようにひな飾りを語る上で欠かせない存在です。当館では毎年必ず一組は御殿飾りを出すようにしていますので、今後も多くの方に見ていただければ幸いです。
企画展「ひな飾り展~御殿飾り~」は4月9日(日)で終了となりますので、ご注意ください。
4月10日(月)~14日(金)は休館で、4月15日(土)より企画展「端午の節句展~平飾りから段飾りへ~」を開催します。
当館では4月上旬までひな飾り展をしていますので、第3弾は春休みに合わせての開催となりました。
例年より早く桜が咲き、当館の駐車場脇の桜も散り始めていましたが、春らしい陽気と天気に恵まれ、多くの子供たちに来館いただきました。そんな子供たちのステキな写真を紹介します。
詳細は着物体験アルバムでご覧ください。
2023年3月
大正末期頃になると、簡単に組み立てられる御殿が登場しました。屋根は檜皮葺をイメージして茶色ですが、土台や柱などに黒漆や蒔絵が施されて、白木の御殿と大きく雰囲気が変わっています。
1つ目の御殿は小さいものですが、屋根の中央に「唐破風」がつけられ、左右に鐘形の飾り「風鐸(ふうたく)」を下げています。
2つ目の御殿は内裏雛の手前には御膳を二つ並べることができる空間がありますが、今回は見やすいように外に飾りました。蒔絵も細やかで、正面上部にはおめでたい松竹梅が描かれています。木箱には「福寿殿」とあり、先に紹介した小さな御殿も同じ店で作られた「福寿殿」であることがラベルから分かります。これらの御殿は京阪地方で作られたものと考えられます。
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3つ目の御殿は屋根が黄緑色で、シャチホコがついています。土台の木組みも「福寿殿」と大きく異なります。こちらは東海地方で作られた御殿で、どことなくお城のような雰囲気があります。黒漆に蒔絵を施しますが、欄干などに金具が多数入り、内裏雛の後ろも鮮やかな金紙が貼られています。
4つ目の御殿は建物二つを渡り廊下で結ぶ横長のものです。前回紹介した館で最も豪華な御殿を小さくするとこのような形になりますし、3つ目の御殿も第1回で紹介した檜皮葺の御殿とよく似ています。そういう意味ではオリジナルの形を継承しつつ、名古屋風に変換されたと言えます。
3つ目はラベルが欠落していますが、4つ目は「旭御殿」とあります。昭和9年(1934)のものですが、内裏雛以外のひな人形と雛道具がセット売りされており、大きさなども揃っています。ただ、雛御膳に御櫃と杓文字、湯桶が大小の台とともにつけられており、タンスなどもないことからまだ現代の七段飾りに統一されていないようです。なお、付属のひな段は五段です。
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次回は昭和中期(戦後)の御殿飾りについて紹介する予定です。
例年3月3日に合せて開催している着物体験イベントですが、今年は2月に繰り上げたため、3月は中旬の開催となりました。初日は急に冬に戻ったような天気でしたが、2日目は春らしい陽気となりました。
今回は足袋ソックスを持参くださる方が多く、ピンクの足袋などバラエティ豊かでした。そんな子供たちのステキな写真を紹介します。
詳細は着物体験アルバムでご覧ください。
館蔵品で最大の御殿飾りは二つの建物を渡り廊下でつないだものです。部品も多く、組み立てやすいように墨書で「大ノ向テ左ノヱン板前」などと記されています。部品を順番に並べてチームで作業しても、組み立てるだけで約1時間かかります。大正6年(1917)頃のもので100年近く経過しているため、うまくはまらない所もありますが、今のところ無事に飾れています。
これだけ大きな建物になると、お内裏様とおひな様だけでは広すぎるため、お世話をする女官が7人もいたり、階段下には建物を守るために武装した随身(大臣)がいます。さらに大小二つの建物の間の庭には掃除をする仕丁が6人もいます。
このため、三人官女・随身・三人仕丁は御殿飾りが登場したことによって、一緒に飾られるようになったと言われています。関西風の三人仕丁が掃除道具を持つのに対し、関東風の三人仕丁は立傘などの荷物を持ちます。五人囃子は関東で飾られ始めましたが、明治・大正期にはこれらの人形を一緒に飾るようになっています。
この御殿には現在見られない舞姫などもいますが、七段飾りの様式が整う中で、しだいに飾られなくなっていきました。
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次回は昭和初期の御殿飾りについて紹介する予定です。
ひな飾り展の今年のテーマは「御殿飾り」です。現在は博物館などでしか見ることができませんが、ひな飾りの歴史を語る上で欠かせないものです。
江戸時代後期に京阪地方を中心に登場し、最初の頃は屋根のない「御殿」でした。2枚目の写真は組み立てる途中の様子ですが、天井がないため上から明かりが入り、男雛と女雛の姿がよく見えます。「源氏物語絵巻」で描かれた「吹き抜き屋台」の構図に似ていることから「源氏枠」とも呼ばれました。
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内裏雛の「内裏」は京都の御所のことであり、その御殿を本物の建物(紫宸殿)に近づけたのが、檜皮葺(ひわだぶき)の御殿です。
ミニチュアでありながら檜の樹皮を厚く重ね、屋根の鎖や側面の懸魚などの装飾も再現されています。ちなみに鎖は消火設備の一つで、火事が起きた時に屋根の上を登っていくためのものだそうです。
屋根の下には欄間(らんま)が設けられ、その下には「半蔀(はじとみ)」があります。本来は垂木(屋根の下部)から吊り下げるのですが、金具で固定されています。三人官女がいる場所の左右には対になる「蔀戸(しとみど)」があり、半蔀を下ろすことで日光や雨風を遮ることができました。
縁側のような「廂(ひさし)の間」には欄干がつけられ、正面には階段があります。モデルとなった紫宸殿に面した庭には「左近の桜」と「右近の橘」があることから、今回は階段の左右に飾ってみました。七段飾りでお馴染の桜橘にはこのようなルーツがあったのです。
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今回の展示にあたり、「日本玩具博物館」(兵庫県姫路市)の解説を参考にさせていただきました。
次回は館蔵品最大の御殿飾りについて紹介する予定です。
2023年2月
今月11日から始まりました企画展「ひな飾り展」。毎年中央の段飾りのレイアウトを変えていますが、そんな豪華なおひなさまたちと記念撮影できるイベントは大人気です。今月より土日2日間の開催となり、より多くの子供たちが着物体験をできるようになりました。
新型コロナウィルス感染症対策で引き続き定員を少なめにしていますが、子供たちのステキな写真を紹介します。
詳細は着物体験アルバムでご覧ください。
当館では旧正月にあたる2月に加賀万歳のイベントをしています。今年も新型コロナウィルス対策のため「学校時代」で行いましたが、この部屋は音の響きが非常に良いのでより魅力的に聞こえます。
当初予定していた演目よりも数が増え、さらに小咄も加わり、気づけばあっという間に1時間近く経っていました。できるだけたくさんの演目を聞いてもらいたいという保存会の思いもあり、「皆様方の先々御栄えてお祝いの御万歳」の通り、ご繁栄を願う舞を楽しんでいただけたかと思います。
本日の演目は「式三番叟」「草づくし」「令和金沢新名所づくし」「小咄」「北陸新幹線」「金沢町づくし」「小倉百人一首」「小咄」「北国下道中」でした。
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前回の「雪遊び」は市街地周辺が舞台でしたが、今回は市内のスキー場を紹介します。
大正5年(1916)に白峰郵便局長らが雪中輸送のために新潟県高田(現・上越市)で学んだスキーを大乗寺山で披露したのが始まりとなります。その後金沢スキー会などの様々なスキー倶楽部が県内各地で創設され、しだいに広まっていきました。
大乗寺山ではこのように大正からスキーが行われましたが、畑の上を滑るため付近の農家から心配の声があがり、練習するために地主の承諾を取ったりしていました。昭和6年頃に金沢市が冬季の畑借用を交渉し、自由にスキー大会などが開かれるようになります。幅長さ共に500~600mのゆるい段々畑で、跡地は大乗寺丘陵公園となっています。
卯辰山スキー場は、昭和5年に卯辰山公園の一部と私有地を合せて幅60m長さ350m程を切り開いて作られました。急斜面でジャンプ台もあったそうです。跡地は花木園となっています。
当館では第一高等女学校の生徒の日記を所蔵していますが、以下のような記述が見られます。
昭和5年2月14日
今日は卯辰山へ雪中遠足を致しました。…山へ着いてからはスキーを使用する者、又は雪合戦をする者皆てんでに面白く、自由に一時間半程遊びました。
昭和6年1月21日
今日はスキーなんかに持つてこいの上天氣になりました。
四年生の方々が(大乗寺山へスキー(雪中遠足)に)行きなさいました。さぞ愉快だらうと思ひます。
上記以外に昭和4年にスキーを50台買い入れたこと、競技部がスキーに蝋を塗るなどしていたことが記されています。
今回紹介した写真はいずれも昭和10年代前半に撮影されたものですが、1枚目はスキー場が広いので大乗寺山ではないかと思われます。2枚目は山の中と思われます。まだスキーウェアのない時代ですので、学生服やコートなどを着て滑ったようです。
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昭和36年(1961)に青年の家の横に医王山スキー場が作られます。その後順次拡張され、現在も営業する市営のスキー場です。
この他に三小牛町に内川スキー場がありました。昭和38年(1963)に私有地を開放したもので、昭和44年(1969)に簡易リフトが作られています。
今回の展示にあたり、以下の文献を参考にしました。また、卯辰山および大乗寺のスキー場についてはSNSを通じて一般の方より情報提供をいただきました。厚く御礼申し上げます。
参考文献
大久保英哲・川崎信和・野中由美子「石川県におけるスキーの導入及び普及過程に関する研究」(金沢大学教育学部紀要(教育科学)第48号、平成11年)
『石川県スキー連盟40年史』石川県スキー連盟、1987年
『石川県スキー連盟50年史』石川県スキー連盟、1997年
企画展「雪とくらし」は2月5日(日)で終了となりますので、ご注意ください。
2月6日(月)~10日(金)は休館で、2月11日(土・祝)より企画展「ひな飾り展~御殿飾り~」を開催します。
2023年1月
前日に紹介した「氷すべり」をした「きんかんなまなま」な道、今朝博物館の周辺で発生しております。歩けないほどではないのですが、油断すると滑りますのでご注意ください。
踏み固められた雪の表面が溶けて固まると「きんかんなまなま」になりますから、降雪が納まって気温が上昇し始めると発生しやすいようです。
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ちなみにブラックバーンも発生しております。日当たりのいいところはすぐに溶けてしまいましたが、気づきにくい上、かなり滑りますので対処が難しい所です。
連日続いた降雪も落ち着き、出歩きやすい天気になってきましたが、どうぞ足元をお気をつけください。
そして溶けてきた雪がぬかるむと車のタイヤがはまりやすくなります。お車の方も運転にご注意いただければ幸いです。
なお、こちらは近所を探索して見つけたより透明度が高く滑りやすい「きんかんなまなま」な道です。日陰ですので、より危険なポイントでした。交通量が多い道路ですので、現代は車に踏み固められることも発生条件に加わると思います。
【1月31日追記】校門付近で表面がブラックバーンと化した「きんかんなまなま」な道が発生しました。これまでの写真と比べると透明度が高いですね。ある程度の日当たりも必要と思われます。
今週は「大寒」らしい寒波と雪に連日見舞われています。この季節らしい天気ですが、雪すかしでため息をつく大人と対照的に子供にとっては雪は遊びの対象となります。そんな子供たちの姿を鏡花は次のように書いています。
…「雪は一升、霰(あられ)は五合、」と手拍子鳴して囃しつゝ、兎の如く跳廻(はねまは)りて喜べり。
遊戯は「雪投」、「雪達摩(だるま)」、或は「荒坊主」と称(とな)へて、二間(けん)有余(いうよ)の大入道を作る。こは渠等(かれら)の小さき手には力及ばず、突飛(とつぴ)なる壮佼(わかもの)の応援を仰ぐと知るべし。
泉鏡花「北国空」
「二間」は畳2枚分の長さ(約3.6m)ですから、二階に届く大きさの「大入道」になります。子供だけでは作るのは難しく青年の手を借りたようですが、それだけの雪が積もったということになります。
「金沢こども遊び」(『風俗画報』第256号、明治35年9月)には、霰が降る時に「雪は一升。あらね(霰)はごん合」とあり、初雪が降る時には「爺(ぢい)さいの。婆(ば)さいの。わたぶしゆきがふるわいの。雨戸も小窓もたてさツし」と言うとあります。
また、犀星はかまくらのようなものを作った思い出を記しています。
…雪をあつめて、その雪の中に、トンネルのようなあなをほり、あなの中は、たたみ二じょうくらいの広さをこしらえ、てんじょうも、こどもの頭がつかえぬほどの高さにつくり、…そこに、みんながこしかけ、おやつ時には、みかんや、ぎんなんのみのやいたのや、なんきんまめをたべながら、あそぶのです。
室生犀星「春の雪の話」
除雪用の「こしきだ」はすでに紹介しましたが、子ども用も残されており、絵入りもあります。不鮮明なものもありますが、画像に線を入れてみると、洋服姿の男の子や女の子の絵が入っていたことが分かります。
過去の新聞記事にも着物に「こしきだ」の子供の姿があり、雪遊びに使うだけでなく、小さいながらも雪すかしのお手伝いをしていたようです。
なお、「同地(金澤)「ドヤマ」遊並に雪合戦」(『風俗画報』第208号、明治33年4月)ではたくさんの子供たちが集まって、高さニ三間の雪山を作って遊ぶことが紹介されています。
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現在は見かけなくなった「きんかんなまなま」な道も、子供たちにとっては遊び場でした。鏡花は「氷すべり」、犀星は「竹ぼつくり」として思い出を記しています。
氷辷(すべり)は盛にして、之に用うる「雪木履(げた)」なるもの…此等を穿(うが)ちて堅氷(けんぴやう)の上を走るに、さながら流るゝ如く、一二町(ちやう)は一息とも謂(い)はず、瞬間なり。
泉鏡花「北国空」
青竹と二つに割つた上に藁(わら)の緒(お)を立てて、それを穿(は)いて坂道で雪滑りをするのだ。今のスケートであらう。僕は竹ぼつくりで滑ることが下手だつた… 室生犀星「北越の雪」
「金澤の氷辷」(『風俗画報』第208号、明治33年4月)には、「街路に降雪したる雪は。悉く固結し且橇をもて貨物を運搬するを以て。一面銀板の如くに光り。平坦鏡の如くなれば。」とあり、この道を滑って遊ぶことが記されています。
一緒に紹介している竹スキーも坂道などを滑るのに使われましたが、こちらは長靴などを履いて乗り、先についたひもで操ることができます。
次回はスキー場について紹介する予定です。
冬の味覚の代表するカニ。金沢ではズワイガニのメスを食べますが、「香箱(こうばこ)ガニ」と呼びます。ちなみに福井県では「セイコガニ」と呼びます。オスと比べてかなり小さいのが特徴ですが、安いうえに内子と外子が楽しめますから、スーパーでもよく売られています。
蟹の料理では、こうばこう(紅波甲)の卵巣が美味い、紅波甲は東京でよくつかう蟹くらいの小型であつて、甲の裏に紅い卵を一杯にはらみ込んでいるが、ゆでたのを酢醤油で食べるが、比較することの出来ない美味さである。 室生犀星「鱈鮒蟹の文章」
犀星の時代は「こうばこう(紅波甲)」と呼んだようですが、内子が美味しいとしています。ちなみに現在はズワイガニのオスを「加能ガニ」と呼びます。2006年に公募した新たな名称ですが、だいぶ定着してきました。
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冬の鍋の具材として欠かせない鱈(たら)。白子も美味しいですが、真子も煮付けにして食べます。マダラの真子はスケソウダラに比べてかなり大きいのですが、スーパーで食材として売られています。
鱈の眞子は楮紙(こうぞがみ)に包んで、まるごと、少しの醤油を加減して湯煮にし、鍋を下ろして冷めた時分に輪切りにして、冷たいのを食べるが、眞子のつぶつぶも溶けるような異色であつて… 室生犀星「鱈鮒蟹の文章」
写真は昆布で巻いていますが、犀星が紹介しているのは楮紙に包んだやり方で、恐らく煮付ける時に真子を包む皮が破れるのを防ぐためと思われます。まるごと煮てから切り分けて「冷たいのを食べる」とありますが、輪切りにして煮込む場合もあるようです。大正12年から缶詰も作られており、ロングセラー商品だそうです。
脂ののった寒ブリも冬の味覚ですが、鏡花は次のように記しています。
鰤(ぶり)は冬籠(ごもり)の間の佳肴(かかう)にとて…強き塩を施したれば烘(あぶ)りて其肉を食(くら)ふさへ鼻頭(びとう)に汗するばかりなり。…多量の酒の糟(かす)をとかして濃きこと宛然(さながら)とろゝの如きに件(くだん)の塩鰤(しほぶり)の肉の残物(ざんぶつ)を取交(とりま)ぜて汁鍋の中に刻(きざみ)入れ…一家打寄りて之を啜(すゝ)る… 泉鏡花「北国空」
冬の間持つようにまるごと塩漬けにし、切り身をあぶって食べ、残った部分を粕汁に入れて楽しんだようです。ブリを塩漬けにすると言えば、「かぶらずし」に使うブリもそうです。冬の寒さで麹(甘酒)を発酵させ、正月料理として楽しみます。同じ作り方で大根と身欠きにしんを組み合わせたのが「大根ずし」で、こちらは普段のおかずとして食べられます。
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最後は「斗棒餅(とぼもち)」です。豆などを入れた餅で、細長く成形するのですが、お米などを量る「斗枡」の表面をなぞって平らにする「斗棒」に似ていることからこの名前があります。
ところで、金沢ではお餅に塩を入れます。餅を搗く時に入れるのですが、近年は餅つきを見る機会も少なくなってきていますから、塩を入れることを知らない方も多いかもしれません。ただ、既製品を購入した場合は原材料を見ると「塩」と書かれていますので、一つの目安になるかもしれません。
次回は雪遊びを紹介する予定です。
先週は非常に暖かい日が続きましたが、再び寒波が襲来するそうです。そんな冬の夜は布団の中を暖める道具が欠かせません。やはり定番は「湯たんぽ」でしょう。室町時代に中国から日本に伝わりましたが、古くは「湯湯婆」と表記しました。「婆」は「妻」のことで、夫婦で寝ると体温の差で温かく感じることから来ているそうです。
今回は明治時代の陶器製と、大正時代から使われるようになったブリキ製の2つを展示しています。中に入れたお湯は冷めてしまいますが、水道の水よりはぬるいので顔を洗うのに使ったりしました。
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長時間布団の中を暖めるのに使われたのが「ころころコタツ」です。木枠の中に火入れがあり、炭火などを入れるのですが、木枠を転がしても常に上を向くことからこの名があります。
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懐炉灰を使う大型のものもあり、「足ゴタツ」とも言いました。今回展示した懐炉灰には、18時間持つとあります。後に「豆炭あんか」が出てくると24時間保温できるようになり、広く使われたようです。
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電気行火は大正時代に登場し、しだいに温度調節ができるようになります。今回は昭和のものを展示していますが、古い物は木枠で覆われ、後に足を当てやすい形の布製に変わっていきます。
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次回は冬の味覚を紹介する予定です。
着物体験の冬編は、床の間の正月飾りと一緒に記念撮影をします。当館では2月の旧正月まで飾っていますので、まだしばらく正月気分が味わえます。今日は小学生も多く、久し振りに大きな着物を着てもらうことができました。昔遊びを楽しむ子供もいて、楽しんでいただけたようです。
新型コロナウィルス感染症対策で引き続き定員を少なめにしていますが、子供たちのステキな写真を紹介します。
詳細は着物体験アルバムでご覧ください。
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ご挨拶が遅れましたが、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
今月も引き続き企画展について紹介していきたいと思いますが、三文豪もすべての暖房器具を記しているわけではないので、今回と次回はささやかな日用品の紹介になります。
現代は部屋全体を暖めるので薄着で過ごすこともできますが、昔はこたつにあたっていても、背中が寒かったので「綿入れ」が欠かせませんでした。
1枚目は「丹前(たんぜん)」(関東では「どてら」)で、着物や寝間着の上に着る防寒着です。裾まで綿が入っていますので、きっと暖かかったことでしょう。綿の入れ具合も薄いものと厚いものがあって、好みに応じて作ったのではないかと思います。
子ども用も「綿入れ」がたくさん残されており、今回は愛らしい女児用の綿入れを紹介しています。特に赤ちゃん用は保温のために綿を厚く入れていることが多いです。
上半身だけの「綿入れ袢纏」は今でも売られています。洋服の上にも羽織ることができますから、特に省エネの観点から見直されているのだそうです。ちなみに袖がないのが「ちゃんちゃんこ」です。
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さて、寒い季節に手を暖めるのに欠かせないのが「懐炉」です。しかし、懐炉が誕生したのは江戸時代のことで、それまでは「温石(おんじゃく)」を使っていました。石を火の中に入れて熱くし、布でくるんで使いました。写真のものは穴が開いていますが、おそらく取り出す時に火箸などをここに差し込んだのでしょう。
江戸時代の元禄(1688~1704)ごろに「懐炉」が登場します。「懐」に入れる「炉」なので、保温性のある木材などを黒焼きにした「懐炉灰」を入れて火をつけて使いました。戦後も発売されていたようで、今回紹介した「懐炉灰」は現代と同じく左から右に商品名が入っています。
昭和10年(1935)ごろにベンジンを使う「白金懐炉」が開発され、現在も登山用などに使われています。
昭和50年(1975)に使い捨てカイロが開発されましたが、限られた目的に使われました。昭和53年(1978)に一般向けのものが開発され冬には欠かせないものになっています。
現在はさらに充電式のカイロも登場し、火を使わなくなっても「懐炉」は象徴的な言葉として私たちの生活の中に息づいています。
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次回は布団の中で使った暖房について紹介する予定です。