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2022年2月

旧正月を祝う加賀万歳
2023年2月4日

 当館では旧正月にあたる2月に加賀万歳のイベントをしています。今年も新型コロナウィルス対策のため「学校時代」で行いましたが、この部屋は音の響きが非常に良いのでより魅力的に聞こえます。
 当初予定していた演目よりも数が増え、さらに小咄も加わり、気づけばあっという間に1時間近く経っていました。できるだけたくさんの演目を聞いてもらいたいという保存会の思いもあり、「皆様方の先々御栄えてお祝いの御万歳」の通り、ご繁栄を願う舞を楽しんでいただけたかと思います。

本日の演目は「式三番叟」「草づくし」「令和金沢新名所づくし」「小咄」「北陸新幹線」「金沢町づくし」「小倉百人一首」「小咄」「北国下道中」でした。

「雪とくらし」11.スキー場
2023年2月1日

 前回の「雪遊び」は市街地周辺が舞台でしたが、今回は市内のスキー場を紹介します。
 大正5年(1916)に白峰郵便局長らが雪中輸送のために新潟県高田(現・上越市)で学んだスキーを大乗寺山で披露したのが始まりとなります。その後金沢スキー会などの様々なスキー倶楽部が県内各地で創設され、しだいに広まっていきました。

 大乗寺山ではこのように大正からスキーが行われましたが、畑の上を滑るため付近の農家から心配の声があがり、練習するために地主の承諾を取ったりしていました。昭和6年頃に金沢市が冬季の畑借用を交渉し、自由にスキー大会などが開かれるようになります。幅長さ共に500~600mのゆるい段々畑で、跡地は大乗寺丘陵公園となっています。

 卯辰山スキー場は、昭和5年に卯辰山公園の一部と私有地を合せて幅60m長さ350m程を切り開いて作られました。急斜面でジャンプ台もあったそうです。跡地は花木園となっています。

 当館では第一高等女学校の生徒の日記を所蔵していますが、以下のような記述が見られます。

昭和5年2月14日
今日は卯辰山へ雪中遠足を致しました。…山へ着いてからはスキーを使用する者、又は雪合戦をする者皆てんでに面白く、自由に一時間半程遊びました。

昭和6年1月21日
今日はスキーなんかに持つてこいの上天氣になりました。
四年生の方々が(大乗寺山へスキー(雪中遠足)に)行きなさいました。さぞ愉快だらうと思ひます。

上記以外に昭和4年にスキーを50台買い入れたこと、競技部がスキーに蝋を塗るなどしていたことが記されています。

 今回紹介した写真はいずれも昭和10年代前半に撮影されたものですが、1枚目はスキー場が広いので大乗寺山ではないかと思われます。2枚目は山の中と思われます。まだスキーウェアのない時代ですので、学生服やコートなどを着て滑ったようです。

 昭和36年(1961)に青年の家の横に医王山スキー場が作られます。その後順次拡張され、現在も営業する市営のスキー場です。

 この他に三小牛町に内川スキー場がありました。昭和38年(1963)に私有地を開放したもので、昭和44年(1969)に簡易リフトが作られています。

 今回の展示にあたり、以下の文献を参考にしました。また、卯辰山および大乗寺のスキー場についてはSNSを通じて一般の方より情報提供をいただきました。厚く御礼申し上げます。

参考文献
大久保英哲・川崎信和・野中由美子「石川県におけるスキーの導入及び普及過程に関する研究」(金沢大学教育学部紀要(教育科学)第48号、平成11年)
『石川県スキー連盟40年史』石川県スキー連盟、1987年
『石川県スキー連盟50年史』石川県スキー連盟、1997年

 企画展「雪とくらし」は2月5日(日)で終了となりますので、ご注意ください。
 2月6日(月)~10日(金)は休館で、2月11日(土・祝)より企画展「ひな飾り展~御殿飾り~」を開催します。

2022年1月

「雪とくらし」10.きんかんなまなま発生中
2023年1月29日

 前日に紹介した「氷すべり」をした「きんかんなまなま」な道、今朝博物館の周辺で発生しております。歩けないほどではないのですが、油断すると滑りますのでご注意ください。
 踏み固められた雪の表面が溶けて固まると「きんかんなまなま」になりますから、降雪が納まって気温が上昇し始めると発生しやすいようです。

 ちなみにブラックバーンも発生しております。日当たりのいいところはすぐに溶けてしまいましたが、気づきにくい上、かなり滑りますので対処が難しい所です。

 連日続いた降雪も落ち着き、出歩きやすい天気になってきましたが、どうぞ足元をお気をつけください。
 そして溶けてきた雪がぬかるむと車のタイヤがはまりやすくなります。お車の方も運転にご注意いただければ幸いです。



 なお、こちらは近所を探索して見つけたより透明度が高く滑りやすい「きんかんなまなま」な道です。日陰ですので、より危険なポイントでした。交通量が多い道路ですので、現代は車に踏み固められることも発生条件に加わると思います。




【1月31日追記】校門付近で表面がブラックバーンと化した「きんかんなまなま」な道が発生しました。これまでの写真と比べると透明度が高いですね。ある程度の日当たりも必要と思われます。


「雪とくらし」9.雪遊び
2023年1月28日

 今週は「大寒」らしい寒波と雪に連日見舞われています。この季節らしい天気ですが、雪すかしでため息をつく大人と対照的に子供にとっては雪は遊びの対象となります。そんな子供たちの姿を鏡花は次のように書いています。

…「雪は一升、霰(あられ)は五合、」と手拍子鳴して囃しつゝ、兎の如く跳廻(はねまは)りて喜べり。
 遊戯は「雪投」、「雪達摩(だるま)」、或は「荒坊主」と称(とな)へて、二間(けん)有余(いうよ)の大入道を作る。こは渠等(かれら)の小さき手には力及ばず、突飛(とつぴ)なる壮佼(わかもの)の応援を仰ぐと知るべし。
               泉鏡花「北国空」

 「二間」は畳2枚分の長さ(約3.6m)ですから、二階に届く大きさの「大入道」になります。子供だけでは作るのは難しく青年の手を借りたようですが、それだけの雪が積もったということになります。
 「金沢こども遊び」(『風俗画報』第256号、明治35年9月)には、霰が降る時に「雪は一升。あらね(霰)はごん合」とあり、初雪が降る時には「爺(ぢい)さいの。婆(ば)さいの。わたぶしゆきがふるわいの。雨戸も小窓もたてさツし」と言うとあります。

 また、犀星はかまくらのようなものを作った思い出を記しています。

…雪をあつめて、その雪の中に、トンネルのようなあなをほり、あなの中は、たたみ二じょうくらいの広さをこしらえ、てんじょうも、こどもの頭がつかえぬほどの高さにつくり、…そこに、みんながこしかけ、おやつ時には、みかんや、ぎんなんのみのやいたのや、なんきんまめをたべながら、あそぶのです。  
              室生犀星「春の雪の話」

 除雪用の「こしきだ」はすでに紹介しましたが、子ども用も残されており、絵入りもあります。不鮮明なものもありますが、画像に線を入れてみると、洋服姿の男の子や女の子の絵が入っていたことが分かります。
 過去の新聞記事にも着物に「こしきだ」の子供の姿があり、雪遊びに使うだけでなく、小さいながらも雪すかしのお手伝いをしていたようです。
 なお、「同地(金澤)「ドヤマ」遊並に雪合戦」(『風俗画報』第208号、明治33年4月)ではたくさんの子供たちが集まって、高さニ三間の雪山を作って遊ぶことが紹介されています。

 現在は見かけなくなった「きんかんなまなま」な道も、子供たちにとっては遊び場でした。鏡花は「氷すべり」、犀星は「竹ぼつくり」として思い出を記しています。

 氷辷(すべり)は盛にして、之に用うる「雪木履(げた)」なるもの…此等を穿(うが)ちて堅氷(けんぴやう)の上を走るに、さながら流るゝ如く、一二町(ちやう)は一息とも謂(い)はず、瞬間なり。
    泉鏡花「北国空」

 青竹と二つに割つた上に藁(わら)の緒(お)を立てて、それを穿(は)いて坂道で雪滑りをするのだ。今のスケートであらう。僕は竹ぼつくりで滑ることが下手だつた…      室生犀星「北越の雪」

 「金澤の氷辷」(『風俗画報』第208号、明治33年4月)には、「街路に降雪したる雪は。悉く固結し且橇をもて貨物を運搬するを以て。一面銀板の如くに光り。平坦鏡の如くなれば。」とあり、この道を滑って遊ぶことが記されています。
 一緒に紹介している竹スキーも坂道などを滑るのに使われましたが、こちらは長靴などを履いて乗り、先についたひもで操ることができます。

 次回はスキー場について紹介する予定です。

「雪とくらし」8.冬の味覚
2023年1月22日

 冬の味覚の代表するカニ。金沢ではズワイガニのメスを食べますが、「香箱(こうばこ)ガニ」と呼びます。ちなみに福井県では「セイコガニ」と呼びます。オスと比べてかなり小さいのが特徴ですが、安いうえに内子と外子が楽しめますから、スーパーでもよく売られています。

 蟹の料理では、こうばこう(紅波甲)の卵巣が美味い、紅波甲は東京でよくつかう蟹くらいの小型であつて、甲の裏に紅い卵を一杯にはらみ込んでいるが、ゆでたのを酢醤油で食べるが、比較することの出来ない美味さである。    室生犀星「鱈鮒蟹の文章」

 犀星の時代は「こうばこう(紅波甲)」と呼んだようですが、内子が美味しいとしています。ちなみに現在はズワイガニのオスを「加能ガニ」と呼びます。2006年に公募した新たな名称ですが、だいぶ定着してきました。

 冬の鍋の具材として欠かせない鱈(たら)。白子も美味しいですが、真子も煮付けにして食べます。マダラの真子はスケソウダラに比べてかなり大きいのですが、スーパーで食材として売られています。

 鱈の眞子は楮紙(こうぞがみ)に包んで、まるごと、少しの醤油を加減して湯煮にし、鍋を下ろして冷めた時分に輪切りにして、冷たいのを食べるが、眞子のつぶつぶも溶けるような異色であつて…    室生犀星「鱈鮒蟹の文章」

 写真は昆布で巻いていますが、犀星が紹介しているのは楮紙に包んだやり方で、恐らく煮付ける時に真子を包む皮が破れるのを防ぐためと思われます。まるごと煮てから切り分けて「冷たいのを食べる」とありますが、輪切りにして煮込む場合もあるようです。大正12年から缶詰も作られており、ロングセラー商品だそうです。

 脂ののった寒ブリも冬の味覚ですが、鏡花は次のように記しています。

 鰤(ぶり)は冬籠(ごもり)の間の佳肴(かかう)にとて…強き塩を施したれば烘(あぶ)りて其肉を食(くら)ふさへ鼻頭(びとう)に汗するばかりなり。…多量の酒の糟(かす)をとかして濃きこと宛然(さながら)とろゝの如きに件(くだん)の塩鰤(しほぶり)の肉の残物(ざんぶつ)を取交(とりま)ぜて汁鍋の中に刻(きざみ)入れ…一家打寄りて之を啜(すゝ)る…    泉鏡花「北国空」

 冬の間持つようにまるごと塩漬けにし、切り身をあぶって食べ、残った部分を粕汁に入れて楽しんだようです。ブリを塩漬けにすると言えば、「かぶらずし」に使うブリもそうです。冬の寒さで麹(甘酒)を発酵させ、正月料理として楽しみます。同じ作り方で大根と身欠きにしんを組み合わせたのが「大根ずし」で、こちらは普段のおかずとして食べられます。

 最後は「斗棒餅(とぼもち)」です。豆などを入れた餅で、細長く成形するのですが、お米などを量る「斗枡」の表面をなぞって平らにする「斗棒」に似ていることからこの名前があります。

 ところで、金沢ではお餅に塩を入れます。餅を搗く時に入れるのですが、近年は餅つきを見る機会も少なくなってきていますから、塩を入れることを知らない方も多いかもしれません。ただ、既製品を購入した場合は原材料を見ると「塩」と書かれていますので、一つの目安になるかもしれません。

 次回は雪遊びを紹介する予定です。

「雪とくらし」7.布団の中の暖房
2023年1月18日

 先週は非常に暖かい日が続きましたが、再び寒波が襲来するそうです。そんな冬の夜は布団の中を暖める道具が欠かせません。やはり定番は「湯たんぽ」でしょう。室町時代に中国から日本に伝わりましたが、古くは「湯湯婆」と表記しました。「婆」は「妻」のことで、夫婦で寝ると体温の差で温かく感じることから来ているそうです。
 今回は明治時代の陶器製と、大正時代から使われるようになったブリキ製の2つを展示しています。中に入れたお湯は冷めてしまいますが、水道の水よりはぬるいので顔を洗うのに使ったりしました。

 長時間布団の中を暖めるのに使われたのが「ころころコタツ」です。木枠の中に火入れがあり、炭火などを入れるのですが、木枠を転がしても常に上を向くことからこの名があります。

 懐炉灰を使う大型のものもあり、「足ゴタツ」とも言いました。今回展示した懐炉灰には、18時間持つとあります。後に「豆炭あんか」が出てくると24時間保温できるようになり、広く使われたようです。

 電気行火は大正時代に登場し、しだいに温度調節ができるようになります。今回は昭和のものを展示していますが、古い物は木枠で覆われ、後に足を当てやすい形の布製に変わっていきます。

 次回は冬の味覚を紹介する予定です。

着物で記念撮影~冬編~第2弾
2023年1月15日

 着物体験の冬編は、床の間の正月飾りと一緒に記念撮影をします。当館では2月の旧正月まで飾っていますので、まだしばらく正月気分が味わえます。今日は小学生も多く、久し振りに大きな着物を着てもらうことができました。昔遊びを楽しむ子供もいて、楽しんでいただけたようです。
 新型コロナウィルス感染症対策で引き続き定員を少なめにしていますが、子供たちのステキな写真を紹介します。
 詳細は着物体験アルバムでご覧ください。

「雪とくらし」6.綿入れ・懐炉
2023年1月8日

 ご挨拶が遅れましたが、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
 今月も引き続き企画展について紹介していきたいと思いますが、三文豪もすべての暖房器具を記しているわけではないので、今回と次回はささやかな日用品の紹介になります。

 現代は部屋全体を暖めるので薄着で過ごすこともできますが、昔はこたつにあたっていても、背中が寒かったので「綿入れ」が欠かせませんでした。
 1枚目は「丹前(たんぜん)」(関東では「どてら」)で、着物や寝間着の上に着る防寒着です。裾まで綿が入っていますので、きっと暖かかったことでしょう。綿の入れ具合も薄いものと厚いものがあって、好みに応じて作ったのではないかと思います。

 子ども用も「綿入れ」がたくさん残されており、今回は愛らしい女児用の綿入れを紹介しています。特に赤ちゃん用は保温のために綿を厚く入れていることが多いです。
 上半身だけの「綿入れ袢纏」は今でも売られています。洋服の上にも羽織ることができますから、特に省エネの観点から見直されているのだそうです。ちなみに袖がないのが「ちゃんちゃんこ」です。

 さて、寒い季節に手を暖めるのに欠かせないのが「懐炉」です。しかし、懐炉が誕生したのは江戸時代のことで、それまでは「温石(おんじゃく)」を使っていました。石を火の中に入れて熱くし、布でくるんで使いました。写真のものは穴が開いていますが、おそらく取り出す時に火箸などをここに差し込んだのでしょう。

 江戸時代の元禄(1688~1704)ごろに「懐炉」が登場します。「懐」に入れる「炉」なので、保温性のある木材などを黒焼きにした「懐炉灰」を入れて火をつけて使いました。戦後も発売されていたようで、今回紹介した「懐炉灰」は現代と同じく左から右に商品名が入っています。

 昭和10年(1935)ごろにベンジンを使う「白金懐炉」が開発され、現在も登山用などに使われています。
 昭和50年(1975)に使い捨てカイロが開発されましたが、限られた目的に使われました。昭和53年(1978)に一般向けのものが開発され冬には欠かせないものになっています。
 現在はさらに充電式のカイロも登場し、火を使わなくなっても「懐炉」は象徴的な言葉として私たちの生活の中に息づいています。

 次回は布団の中で使った暖房について紹介する予定です。

2022年12月

「雪とくらし」5.こたつ・火鉢
2022年12月27日

 昔の家の暖房と言うと、「囲炉裏」を連想される方もおられると思います。煮炊きもでき、寒い冬の夜に囲炉裏を囲んで過ごすというイメージがあるのではないでしょうか。
 しかしながら町家などでは部屋の真ん中ではなく、土間(通り庭)からの上り口に囲炉裏を設けることがあります。

…北国の町家に能(よ)く見かけるような茶の間の上がり口のつるつるした黒い板敷きのところに、炉が設(しつ)らわれて、そこにぴかぴかした銅(あか)の銅壺(どうこ)などが埋(い)けられ、自在鉤の鯉が、墨のような煤気(すすけ)に染みていた。…    徳田秋聲「能の絵」

徳田秋聲が記しているような囲炉裏は、今も「金沢湯涌江戸村」で見ることができます。今回の展示にあたり、囲炉裏の写真を提供していただきました。

 けれども文豪にとって金沢の冬を象徴するのは「こたつ(炬燵)」だったようです。

 しかし炬燵(こたつ)はやつぱり我々のストウブであつたので、北国の冬を憶(おもひ)出すと同時に、炬燵(こたつ)が思ひ出される。家によつて色々だが、炬燵(こたつ)は大抵薄暗い中の室(ま)のやうな部屋とか、家人(かじん)の居間とかに切つてある…   徳田秋聲「炬燵」

 こゝに最も愛すべきは雪の夜の炬燵(こたつ)にこそ。雪国の人の家、といふ名には必ず一個以上の炬燵(こたつ)を含むものと知べし。
 親子、夫婦、兄弟、姉妹、四角八面に推並(をしなら)びて、隔意(かくい)無く、作法無く、雑談笑語和気靄々(あいあい)たる…   泉鏡花「北国空」

 今回は徳田秋聲の随筆「炬燵」を展示室で全文掲載しています。短い文章ですが、炬燵への思いと日々の暮らしの様子が伝わってきます。なお、徳田秋聲については「徳田秋聲記念館」(市内東山)のHPをご覧ください。

 ところで、こたつの写真に違和感を感じませんか?昔は天板がなく、布団をかけただけでした。いつからかは不明ですが、地方の温泉宿や大衆旅館で天板を載せて食卓代わりにする風習が起こり、しだいに広まったそうです。館蔵品でも戦後のものは天板があります。ちなみに中身は木枠で、畳の中に切った炉にはめて使います。今回紹介した画像は木枠に底板を張って火入れと一組にした「置きごたつ」です。

 3枚目の画像は花札を遊んでいる様子を再現したものです。秋聲の「リボン」でこたつを囲んで花札で遊ぶ場面があり、犀星も「故郷を辞す 金沢」に同様の思い出を記しています。ちなみに秋聲は「炬燵」で「私達は炬燵(こたつ)にあたりながら、昔噺(ばなし)に耽(ふけ)つたり、櫓(やぐら)の上で歌留多(かるた)を遊んだりする。」としていますが、明治20年頃までトランプを「歌留多」と呼んだので、トランプと推測しています。なお、「リボン」では「カルタでも取ろうか」としているので、こちらは現代のように並べて取るかるたと考えられます。

 もう一つの身近な暖房が「火鉢」です。今回提供していただいた三文豪の画像のうち、二人が火鉢と一緒に写っています。

  細君のお芳(よし)が、奥の四畳半で末の子に添乳(そいぢ)をしながら、うとうとしている間、宮井は茫然(ぼんやり)火鉢に凭(もた)れて、綺麗な初春(はつはる)の雑誌を見ていた。

 火鉢の側には、遠方から後(おく)れ馳(ば)せに届いた年始の葉書が、三四枚散らかっている。    徳田秋聲「リボン」

どのような火鉢かは書かれていませんが、暖を取りながらくつろぐ姿が浮かび上がるようです。大型の「大和ぶろ(風炉)」は一家の主人が使うイメージがありますが、小型の物もよく使われました。今回展示した小型の火鉢は引出が充実しており、贅沢な作りになっています。

 円形のものは金沢の伝統工芸の「桐火鉢」で表面を焼いて蒔絵を施したもので、主に来客用に使われました。これらの火鉢は手元を温めるぐらいのものだったと思われますが、寒い部屋の中では充分でした。

 当館は12月29日より1月3日まで年末年始休館となります。このため次回は年明けに綿入れや懐炉について紹介する予定です。皆さまもよいお年をお迎えください。

大雪警報発令中
2022年12月23日

 先日積もった雪が昨日の雨で溶けたばかりなのに、一晩でたっぷりと積もりました。強風で横殴りの雪は玄関までしっかりと埋めつくしており、ちょっと呆然とするくらいでした。
 気を取り直して除雪しましたが、なかなか雪が止まないためすぐに雪に埋もれる状態です。もしも万一お車の方がいらっしゃったら、手前に止めていただければ幸いです。

 玄関は向かって右手から強風が吹きつけるのですが、雪がえぐりとられていて風紋ができていました。これだけの積雪は珍しくないのですが、こんな風紋は初めて見ました。
 まだ雪のピークは終わっていないようですが、晴れる瞬間もあり、ほっとします。皆さまも気を付けてお過ごしください。

「雪とくらし」4.過去の大雪(その2)
2022年12月20日

 最深積雪歴代2位の昭和15年(1940)の大雪は、1月19日の一晩で約30cmの積雪から始まりました。とはいえ、すぐに小康状態になり北陸線のダイヤも復活します。
 ところが1月24日に一晩で約34~5cmという「6年振りの降雪」で市電が不通になり、北陸線のダイヤも混乱します。しかも翌朝6時で120cmになり、さらに137cm、150cmを記録します。27日には最深積雪180cm(当時は歴代1位)となりました。
 ごく短期間でこれだけの雪が積もったのですから、除雪作業が追いつかず、用水が雪で氾濫し浸水被害もありました。幹線道路の除雪には中学生・青年団・警防団など約5,000名が駆り出され、第九師団も加わりました。2月1日には「興亜奉公日」として全戸で除雪作業を行い、神社や寺の境内・小学校の運動場などを排雪場所として開放しています。
 昭和15年も写真絵葉書が複数残されています。1枚目は高く積み上げられた雪に挟まれた道(小将町)を米俵をソリで運んでいます。「五十年振の記録」とありますが、137cmを記録した25日の夕刊で「明治24年以来」の大雪と新聞が報道したためです。気象台の話として過去の積雪を紹介していますが、これまで紹介してきた積雪の記録と異なっており、昭和2年の大雪は110cmとしています。なぜこのようになったのかは不明ですが、以後新聞には50年振りの文字が踊り、写真絵葉書にもそのように記されたのです。
 2枚目は出されなかった葉書ですが、通信欄の「今年ハ北陸地方ハ 未曽有の雪 石川県 金沢でも五十年来の 大雪にて三日斗で六尺 以上も降り家屋ハ雪の 為め埋もれ十日斗ハ 汽車も不通又市中の電車 も不通となりしも大通りハ 兵隊さん出動除雪下さった お蔭で九日目で通しました 狭き町ハ屋根の高さ程 あります」から当時の様子が伝わってきます。

 3枚目は「宝船寺町」は右奥の男性がノコギリで通りの雪を切り出そうとしています。大正7年でも同町の写真絵葉書が残っていますが、屋根に届くほど積み上げられた雪の上を人が通って踏み固められてスコップでは歯が立たないということでしょう。
 4枚目は「武蔵ヶ辻」ですが、大通の除雪はすんだものの、二階に届くほど高い雪が残されています。正確には隣の屋根からおろした雪が積み上がったのでしょうが、氷の塊を積み上げたかのように見えます。

 そして歴代1位が昭和38年(1963)の「三八豪雪」です。最深積雪181cmで、記憶に残っておられる方もまだ多いと思います。展示室には新聞記事から抜き出した1月11日から30日までの主な出来事を小型のパネルで紹介していますので、来館の際にはゆっくりと目を通していただければ幸いです。
 三八豪雪では横安江町のアーケードが約50m倒壊し、石川スポーツ・センターも倒壊しました。北陸線の貨物列車が止まり、生活必需品が届かなくなります。郵便もストップし、電報もマヒするなど生活にもかなり影響が出ています。北陸線の開通作業が自衛隊・消防団だけでは追いつかず、高校生や県職員も動員されました。
 今回紹介する写真の1枚目は竪町の商店街です。下ろした屋根雪で道が埋まり、かなりでこぼこになっています。2枚目の撮影地は不明ですが、手前は炭俵をソリで運ぶ男性、奥は除雪した雪をソリで運ぶ女性です。昭和15年の新聞には氷の塊を背負って捨てに行く女性の写真がありましたが、三八豪雪でも同様にして運ぶ写真が残っています。
 なお、展示室では古井由吉「雪の下の蟹」(文庫本)を紹介しています。金沢大学で教鞭を取っていた古井氏は三八豪雪に遭遇し、約一週間の雪下ろしの生活を記していますが、今回の展示にあたり非常に参考になりました。こちらについては、図書館等でお読みいただければ幸いです。

 次回はこたつや火鉢について紹介する予定です。

「雪とくらし」3.過去の大雪(その1)
2022年12月13日

 昔の金沢はどれだけ雪が積もったのでしょう。明治15年(1882)に測候所(後の気象台)が設置されますが、積雪の記録があるのは明治24年(1891)以降です。その年は近年にない大雪で最深積雪は130cmでした。当時の新聞には「毎年降雪数尺に及ぶ」とあり、60cmぐらいは当たり前だったと思われます。

 雪が道路の上で積み重なつた上に、さういふ屋根からおろす雪が二階の窓とすれすれになり、僕らは二階から出入りしてゐた。…戸障子は積雪の重みで開かなくなり、夜は家の何處(どこ)かでミシミシと木材のきしむ音がする。何處かの家が雪で潰れたとか、半分潰れかかつたとかいふ話が、炬燵(こたつ)にあたつてゐる姉だか兄だかが話し合うてゐるのを覺えてゐる。…  室生犀星「北越の雪」
※文章の引用にあたり、旧かなづかいなどはそのまま掲載しています。

 「雪おろしの人夫」がおろした屋根雪が道路に積み上がり、二階から出入りしていた様子などが分かります。前回鏡花の文章で紹介しましたが、1m前後積もると雪おろしをします。犀星は特に何年と記していませんが、過去の最深積雪を調べてみると明治・大正・昭和は何年かに一度は80~100cm積もっていたようです。その中でも記録的な大雪を紹介します。

 冒頭で紹介した明治24年(1891)の大雪は資料が少ないのですが、大正7年(1918)は地元紙や絵葉書で当時の様子を知ることができます。前年の大正6年(1917)の正月も大雪で北陸線の列車が立ち往生しており、明治24年以来の大雪(最深積雪99cm)とされています。
 大正6年12月下旬から翌年1月半ばにかけて雪が降り続き、「未曾有の雪」のため北陸線が不通になり、最深積雪は143cmとされています。当時の新聞では屋根の「雪卸し」を三回もし、道が狭い裏町ではおろした雪が道路に積み重なって屋根よりも高い所があるとしています。また道路の雪を割って地面を出すと「雪舟(そり)」が通れないので、貨物運搬に影響しないようにしないといけないことなどが記されています。この年は路面電車が開通する前で自動車も少なかったことから、人力での運搬が主流でした。
 当館で所蔵する写真絵葉書は2枚で、その内1枚は当時の地元紙に掲載されており「宝船路町」(屋根に届く積雪)と紹介されています。もう1枚は大通の除雪をする人々ですが、右端の店の看板の文字がひっくり返っていることから、裏焼した写真と考えられます。

 続いて紹介するのは昭和2年(1927)大雪です。「寒の入り」なのに18年振りの暖かい日が続き、スキーの売れ行きが悪くなり、「雪はやはり降らぬ」との文字が紙面に見られますが、1月18日の寒風が白銀の世界をもたらします。
 22日には降雪量が90cmに達し、市内では屋根の雪おろしが始まり、6年振りの量のため市電の一部が不通となりました。香林坊で市電の前を除雪する写真絵葉書がありますが、まさにこのような状況を反映しています。
 25日には小康状態になりますが、すでにおろした屋根雪で通行が困難になり、除雪した雪で中心地を流れる用水が氾濫したりしています。その後も度重なる積雪で市電・北陸線の不通・再開を繰り返し、2月12日に最深積雪167cmを記録しました。
 昭和2年の大雪の写真絵葉書は館蔵品の中で最も枚数が多く、大半は2階から出入りする様子を伝えています。今回紹介するのは屋根の上で受け渡しをするもので、「屋根の上 通行すべからず」「八百やハ コノ下です」という立札も写っています。「中通り」とありますので、「大衆免中通」(現・森山1丁目)と考えられます。
 高く積み上げられた雪が印象的な「新竪町天狗廣見」は現在の竪町交差点と考えられますが、当時はあちこちで捨てきれない雪を積み上げたものと思われます。

 こうした大雪(当時は歴代1位)についに軍隊が出動します。金沢に拠点を置く第九師団が除雪作業に加わり、積雪のピークが終わったこともあり、18日には市電の一部が単線から複線運行になり、北陸線も一部が再開しました。なお、北陸線が全線開通したのは25日でした。
 2枚目の写真は軽装ですが、手前の男性は黒いマスクをしています。大正7年(1818)から大流行したスペイン風邪で、日本でも多くの方が亡くなりました。この時にマスク着用が呼びかけられ、多くの人がしたようです。昭和2年にはスペイン風邪は収まっていますが、マスクをする習慣があったと思われますので、紹介しました。

 次回は最深積雪1・2位の大雪について紹介する予定です。

着物で記念撮影~冬編~
2022年12月11日

 着物体験の冬編は、床の間の正月飾りと一緒に記念撮影をします。急に冬らしい天気になりましたが、子供たちは元気いっぱいで着物を楽しんでいたようです。
 新型コロナウィルス感染症対策で引き続き定員を少なめにしていますが、子供たちのステキな写真を紹介します。
 詳細は着物体験アルバムでご覧ください。

「雪とくらし」2.除雪と雪おろし
2022年12月6日

 金沢では除雪することを「雪すかし」といいます。現在は様々な除雪用具がありますが、昔は「こしきだ」(こすきだとも)が主流でした。江戸時代の文書には「木鋤」とあり、新潟県上越市高田では「木鋤(こすき)」と呼びます。

…果せる哉其夕より、霏々(ひゝ)として降積む雪は、一夜にして七八寸乃至(ないし)一尺に余るを常とす。    泉鏡花「北国空」

 かつては一晩で20~30cm積もるのは当たり前だったようで、起きるとまず雪すかしをするという生活だったと思われます。明治時代はまだ車が普及していないので、人や荷物を運ぶソリが通れれば十分でした。

…屋根にも三四尺(しやく)の堆(うづだか)きに到れば、務(つと)めて「雪おろし」をなさゞるべからず。(中略)簑(みの)、笠、藁靴(わらぐつ)に身を固めて屋根に出で「こすきだ」…を役(えき)して、掬(すく)ひては投げ投げ力の達する家の周囲にあらむ限(かぎり)の空地(くうち)におろす。   泉鏡花「北国空」

 屋根に90~120cm積もると「雪おろし」をします。この時にしたという笠・ミノ(簑)・藁靴を組み合わせて展示しています。金沢では藁靴は「フカグツ(深沓)」といいますが、室生犀星は次のように記しています。

 僕の子供の時分は深沓(ふかぐつ)といふものを穿(は)いて、可成(かなり)に遠い學校に行つた。深沓といふものは藁(わら)で編んだ長靴のやうなもので、底には柔らかい藁(わら)の皮を入れてあつて、雪の日は温かい穿(は)き心地がするものである。    室生犀星「北越の雪」

なお、穿いたのは明治30年頃までとしており、しだいに長靴に変わっていったようです。なお、室生犀星については「室生犀星記念館」(市内千日町)のHPをご覧ください。

 そんな昔の姿は昭和2年大雪の写真絵葉書に見られます。1枚目は昔ながらの笠・ミノ・深沓ですが、2枚目は帽子・ミノ・長靴に変わっています。ただ、どちらも「こしきだ」を使っています。
 こうした写真を見ると屋根の手前から雪をおろすイメージがありますが、中央部からおろすものだそうです。屋根雪の重さが限界点にきている時に周りからおろしていくと、中央部がすっぽり抜ける危険があると三八豪雪の記事(北国新聞・昭和38年1月27日「雪が重い!早く降ろそう」)にあります。

 おろした屋根雪は庭や家の周囲に積み上がりますが、人の通行をさまたげないようにしなければならないので、どんどん積み上がっていきます

…其上また其上へと投下ろしたる力にて岩の如く堅くなれる上面は、鋸(のこぎり)を以て之をひき、数日来金石(きんせき)凍れる最下層は薪割(まきわり)にて打割りて、広き野原に橇(そり)に積みて運びて枽(す)て、或は最寄の川に流し…   泉鏡花「北国空」

何日もかけて積み上がって岩のように堅くなった雪はノコギリで切り出し、凍り付いた最下層はマキ割りで割って、ソリにのせて野原や川に捨てに行くと記していますが、ここまでするのは大雪の時と思われます。

 次回は過去の記録的な大雪について紹介する予定です。

2022年11月

「雪とくらし」1.冬の始まりと雪道
2022年11月30日

 現在開催中の企画展「雪とくらし」(~2月5日(日))をより深く知っていただくために、ブログで紹介します。
 金沢の冬の風物詩である「雪吊り」は、湿って重たい雪で枝が折れないように縄で固定します。写真の雪吊りはりんごの実の重さで枝が折れないように考案された「りんご吊り」が元になった形式ですが、「しぼり」や「みき吊り」などもあります。

 今はあまり雪が積もらなくなったため、今回のテーマである厳しい冬のくらしは実感しづらい状況にあります。そこで金沢を代表する三文豪(泉鏡花・徳田秋聲・室生犀星)が書いた文章を一緒に紹介していくことで、当時のくらしを想像していただこうというのが今回の試みです。

…北国にては雪雷(ゆきがみなり)と称(とな)へて白きものゝ降らむとするに方(あた)りては、例年必ず雷鳴のあらざることなし。又此頃を期として、鰤猟(ぶりれふ)の盛なれば、俗に此雷を鰤起(ぶりおこし)とも謂ふ。 (中略)
 之より先霜月(しもつき)の上旬より、霰(あられ)降り、霙(みぞれ)落ち、続きて雪降り、五六寸づゝも積りては消え、消えては積ること率(おをむ)ね日毎なれば…    泉鏡花「北国空」

 北陸などでは冬に雷が鳴り、特に金沢では雪が降る季節の雷を「ユキガミナリ」「ブリオコシ」などといいます。こうした雷が鳴る前の11月上旬よりアラレやミゾレが降り、15~18cmずつ雪が積もって消える日をくり返すと記されています。
 そして「渠等(かれら)が藁(わら)或は板を以て、雪垣を結繞(ゆひめぐ)らせる薄暗き家に閉居(へいきよ)し…」とも記しており、かつては市内中心地でも雪囲いが行われていたことが分かります。
 泉鏡花が随筆「北国空」を発表したのは明治29年(1896)ですが、上京したのは明治23年ですからそれ以前の金沢の生活を記していると考えられます。なお、泉鏡花については「泉鏡花記念館」(市内下新町)のHPをご覧ください。

 寒い季節に用いられたのが「トンビ(鳶)」です。コートの一種ですが、上半身が一枚布なので着物でも洋服でも上に着ることができます。
 もう一つの写真は「ゴザボウシ(茣蓙帽子)」です。ゴザが雨風を通さないので、かつては通学などにも使ったそうです。


 そして着物の時代は下駄をはきますが、雪道を歩くと歯の間に雪が詰まってしまうことがあります。「ごっぽ」などと呼んだようですが、家の中に入る時に持ち込まないように、玄関先で落としました。このために下駄を打ち付ける石があり、「ごっぽ石」と呼ばれています。現在はあまり見かけなくなっていますが、長町や東山などにあるそうです。写真は館の前に石を置いて使用イメージを再現したものですが、石を固定しないと下駄を打ち付けにくいことを実感しました。
 

 そして現在は道路をきれいに除雪したり、融雪装置の導入などで雪道が固まるということはあまりなくなってきました。通行人などに踏み固められた雪道が少し溶けて固まった「きんかんなまなまな」道はほとんどありません。
 けれどもかつてはそんな道はとても危険で、雪下駄の歯に金具をつけて「…堅氷(けんぴやう)の滑(なめらか)なる面を突砕(つきくだ)きつゝ、足懸(あしがけ)を造る」と鏡花は記しています。
 後に雪下駄の歯はゴムに変わりますが、博物館には長靴につけた金具も残されています。

 次回は除雪や雪おろしについて紹介する予定です。

「明治大正のファッションと竹久夢二」9.子供の着物
2022年11月16日

 明治大正の子供たちはどんな着物を着ていたのでしょうか。
 最初に紹介するの振袖のように見えますが、男の子用です。考えてみれば、七五三の羽織袴は袖が長いですよね。明治に入って小学校が動きやすい筒袖を推奨したこともあり、いつの間にか動きやすいように短い袖になっていったのです。
 同様に女の子も小さいうちは短い袖を着せていますが、今回紹介する大正末期の着物は黒地に洋花をちりばめた非常に華やかなデザインとなっています。お出かけ用と思われますが、貴重なものです。

 続いては大正9年(1920)の男の子の着物と羽織ですが、今回は羽織の裏側に注目してください。白い布のことが多いのですが、当時の乗り物が複数描かれています。左上には飛行機もあり、世相をよく表しています。
 色鮮やかなのは大正3年(1914)の女の子の紋付着物ですが、梅とバラを染めています。当館では明治の紋付着物も所蔵していますが、伝統的な日本の花模様が多く、このような洋花を入れるのは大正からです。

 木綿に絣の着物も残されており、当時の卒業写真などにもこのような着物姿がたくさん見られます。
 また昭和中期の物ですが、「セル」(毛織物)の着物としていただいた女の子の着物も所蔵しています。戦前のセルと同じか分かりませんが、参考までに画像で紹介します。

 特別展「明治大正のファッションと竹久夢二」は11月20日(日)で終了となりますので、ご注意ください。
 11月21日(月)~25日(金)は休館で、11月26日(土)より企画展「雪とくらし」を開催します。

「明治大正のファッションと竹久夢二」8.男の子と洋服
2022年11月2日

 前回まで女性・女の子のファッションを紹介してきましたが、男性・男の子はどうだったのでしょうか。
 明治4年(1871)の散髪刀令(断髪令)によって、ちょんまげは消えたイメージがありますが、その数年後にちょんまげに戻す人もみられ、明治18年(1885)に東京では珍しくなったが地方ではまだちょんまげが見られるとあります。なおこの断髪令の時に断髪した女性もいますが、女性は従来の通り(日本髪)であるべきだと批判されています。
 その後、軍隊や警察の制服化や、明治18年(1885)に官庁や民間で洋服が広く導入され、男性の仕事着として定着していきます。前年の明治17年(1884)にはバリカンが輸入され、丸刈りも普及します。後に欧化政策への批判で男性の洋装も減少してきますが、役所などで引き続き用いられました。
 男の子もこの流れを受けて丸刈り頭が定着したようで、明治28年(1895)の小学校の卒業写真では丸刈りです。ただ大正2年(1913)の写真と比べると、縞着物から絣の着物が主流になっていることが分かります。なお、横浜の小学校では明治19年(1886)に洋服を着ていたようですが、金沢では男児の制服姿が確認できるのは大正13年(1924)の卒業写真で、以後少しずつ制服に変わっていきます。

 今回展示している昭和初期の「絵合わせ」でも男の子の着物姿が描かれていますが、茶色が目立ちます。また、写真のように帽子を被せてエプロン風の前掛けを着せています。

 大正に入ると夏の幼児のさっぱりした洋装が年々流行し、家庭のミシンで縫える改良服も広まっていきます。しかしながら、冬になると着物が多くなるとあり、年中を通して着られるようになるのはもう少し後のことのようです。
 明治後期の引札の女の子は着物に帽子・マフラー、男の子は毛糸の帽子にコート(袖無)を着ています。手袋の下に見える袖口の形状から、洋服を着ていると考えられます。また、今回写真で紹介するもう一つの絵合わせ(昭和初期)では、幼い子供の洋服姿が描かれています。いずれも絵画なので実際にこのような子供がいたかは分かりませんが、無いものを描くこともまたありませんので、少なくともこのような洋服が当時あったであろうということは言えます。

 次回は子供の着物について紹介する予定です。

2022年10月

着物で記念撮影~秋編~第2弾
2022年10月23日

 秋編第2弾も満員御礼となり、暖かい日差しの中で始まりました。午前中は玄関ポーチ付近で記念撮影する様子も見られ、よい思い出になったのではないでしょうか。
 午後は一転雨になりましたが、子供たちは元気いっぱいで館内を回り、昔遊びを楽しんだりしながら記念撮影をしていました。
 新型コロナウィルス感染症対策で引き続き定員を少なめにしていますが、子供たちのステキな写真を紹介します。
 詳細は着物体験アルバムでご覧ください。

 次回は未定ですが、日程が決まり次第ご案内いたしますので、楽しみにしていただければ幸いです。

「明治大正のファッションと竹久夢二」7.リボンとお下げ
2022年10月20日

 明治18年(1885)に「婦人束髪会」が設立され、様々な束髪が紹介されましたが、その中の一つが「マガレイト」でした。後頭部で髪の上半分をまとめた後に、残りの髪を合わせて三つ編みにして先を折り返します。リボンをつけた西洋の髪形として紹介されましたが、この大きなリボンがその後のヘアスタイルに欠かせないものになります。明治27年(1894)には国産のリボンが登場していますから、世間が日本髪に戻す風潮にある中で、リボンをつけた女性もいたということになります。
 明治後期の引札の女性は上にリボン、下に造花らしき花をつけています。奥の黄色の着物の女性は束髪で、日本髪の女性も描かれていますので、好みの髪形をしているのでしょう。

 写真絵葉書の女性は束髪にリボンをしていますが、以前紹介した束髪が丸い輪郭なのに対し、ややつぶした台形の輪郭に結っています。そして頭頂部と後頭部に大きなリボンを二つつけています。半襟を大きく出し、胸高に帯を結んでおり、当時の着物の着方を見ることができます。絵葉書の発行年は不明ですが、明治40年(1907)にリボンが大流行しているので、それ以降と考えられます。
 このような髪形は市内の小学校でも見られ、明治42年(1909)は大半の女児が大きなリボンをつけています。写真の女児は単色ですが、柄物と見られるリボンの女児もいます。
 同じ年に徳田秋聲が発表した「リボン」(徳田秋聲記念館HP・不定期連載に全文掲載)でも、束髪にリボンをした女性が登場します。女学生ではありませんが、明治39年(1906)には職業婦人などに庇髪(束髪)・海老茶袴が流行していますので、若い女性を象徴する髪形として定着していたと思われます。

 こうしたリボンの女学生は竹久夢二も描いていますし、大正期の雑誌にもリボンの女性のイラストが目立つようになってきます。今回展示したおもちゃの屏風は、日本髪とリボンをつけた女児が一緒に描かれており、昭和初期のものですが大正期の様子を表すものと考えることができます。
 大正5年(1916)になると女学生は「お下げ」が主になり、束髪の女性は少なくなっていきます。今回紹介した「お下げ」の髪形再現資料は前髪を束髪風に高くしてまとめてあります。

 大正5年(1916)の小学校の卒業写真を見てみると、束髪と前髪を分けてまとめただけの女児が写っており、世相を反映して簡単にまとめるようになってきているようです。写真は大正10年(1921)の日常生活の中で撮ったと思われるものですが、動きやすいようにまとめた髪になっています。
 この翌年に金沢でも「断髪」が女児の間で流行し、以後おかっぱ頭が主流となっていきます。

 次回は男の子や洋服について紹介する予定です。

「明治大正のファッションと竹久夢二」6.こどもの髪形
2022年10月13日

 これまで大人の髪形を紹介してきましたが、こどもはどのような髪形だったのでしょうか。明治初期はまだ江戸時代と同様にしていたと思われますので、当時の流れを紹介します。
 まず、生後7日目の「お七夜」で「ごんべ」と呼ばれる髪形にします。正確には産毛を剃るのですが、この時にうなじ(ぼんのくぼ)だけ剃り残しました。写真は人形の後頭部をイメージで塗ってみたものです。「権兵衛」やそのまま「ぼんのくぼ」とも言ったようです。不思議な髪形ですが、急所を守るという事でしょうか。

 少し大きくなると頭頂部の髪も伸ばすようになり「河童(かっぱ)」という髪形にします。画像は明らかに女の子なのですが、頭頂が剃られており河童の皿のように見えることからこの名がついたものと思われます。なお、こちらの資料は画像のみの紹介となります。

 3歳になると「髪置の儀」を行い、「芥子(けし)」という髪形になります。「河童」と似ていますが、少し長く伸びた髪を頭頂部でしばり、耳の上に髪を残します。「奴(やっこ)」または「ちゃん」とも言いました。さらに前髪を伸ばしたりするなど色々な形があり、ここから髪を整えたり伸ばしていきます。
 女の子はさらに髪が伸びると「禿(かむろ)」という髪形になります。今回はイメージとして市松人形を展示しています。この禿は江戸時代に花街で見習いとして働く子供がした髪形でもあり、そのまま名称としても使われています。

 8~9歳になると髪を結えるほどの長さになりますので、「煙草盆(たばこぼん)」「蝶々髷(ちょうちょまげ)」「稚児髷(ちごまげ)」などを結いました。ただ、画像のように頭頂部の髪だけを結うこともあったようです。
 12~13歳になると「桃割れ」などを結います。大人の髪形として紹介した「銀杏(いちょう)返し」や「唐人髷(とうじんまげ)」も結いましたが、髪の長さから後頭部の「髱(たぼ)」をあまり出さないで結ったと考えられます。今回展示している「銀杏返し」は後頭部の「髱(たぼ)」がありますのと、幅広い年代で結われたことを紹介するため、コーナーを分けています。
 今回紹介した髪形ですが、文献によって結う年齢層や名称などが異なっています。一例として紹介しておりますのでご注意ください。

 明治中期の小学校の卒業写真を見てみると、「稚児髷」や「桃割れ」と思われる髪形を結っています。写真は明治33年(1900)のものですが、前髪を上げている子と下ろしている子がいます。「稚児髷」と「桃割れ」はほぼ同じような結い方で、髷の根元の位置や割った髪の下ろし方で区別するぐらいです。
 また、当時は小学校を4年間で卒業しましたので、写真の少女たちはまだ10歳ということになります。このため、まだ髪が短く髪を後頭部で一つにまとめて髷を作っていると考えられます。

 次回はリボンについて紹介する予定です。

「明治大正のファッションと竹久夢二」5.大正の束髪(女優髷・耳隠し)
2022年10月5日

 大正時代に入ると、「前髪を分ける」ことが新しいとされるようになります。日本髪やそれまでの束髪になかった「七・三」「五・五」に髪を割る新しい髪型が登場しました。
 今回紹介するのは「女優髷」で、名前の通り当時の女優がしていた髪形が元になっています。髪をふんわりとふくらませ、自然な形で結い上げることが流行し、その人に似合う髪形をするようになってきます。今の私たちにとって当たり前のことではありますが、当時は新しい考えだったようです。

 また、この時代になると職業婦人が増え、動きやすい服装と髪形が選ばれるようになります。「女優髷」は後頭部に日本髪の髷と同じような部分がありますが、こちらの「行方不明」は髪先を内側に入れて結い上げているので、「髷がない」ことから「行方不明」という名前になったとの説があります。
 こちらの資料は画像のみの紹介となりますので、ご注意ください。

 大正時代で最も有名な髪形は「耳隠し」でしょう。大正8年(1919)頃から流行しました。名前の通り耳の周辺にふんわりと髪を結って隠します。
 髪にウェーブがかかっていますが、こちらはパーマではなく鏝でつけたものです。火鉢などで温めて髪をはさみますが、温度調節が大変そうです。金沢出身の女優・田中美里さんが出演した朝ドラ「あぐり」でも修行中の美容院でこの鏝を使用する場面がありました。パーマが日本に入ってきたのは大正末期とのことですから、それまで広く使われていたと考えられます。
 大正末期には「断髪」が登場し「モダンガール」という言葉も生まれますが、実際に断髪したのは一部だけで、多くの女性は長い髪を保ち続けました。

 最後に紹介するのは「加賀ことば」絵葉書です。大正7年から昭和7年の間に発行されたものですが、耳隠しの女性と丸髷の女性が並ぶ姿がこの時代を象徴しています。
 このように昭和初期まで日本髪は結われましたが、戦後は正月などに結うだけとなっていきます。

 次回は当時のこどもの髪形を紹介する予定です。

着物で記念撮影~秋編~第1弾
2022年10月2日

 今年は暑い9月を避けて10月に2回に分けて開催することにしましたが、初回は珍しく気温の高い日となりました。そんな中でも子供たちは元気いっぱいで館内を回り、獅子頭と一緒に記念撮影しました。
 新型コロナウィルス感染症対策で引き続き定員を少なめにしていますが、子供たちのステキな写真を紹介します。
 詳細は着物体験アルバムでご覧ください。

 第2弾の10月23日(日)はまだ空きがありますので、お申し込みは早めにお願いいたします。明日3日(月)は休館日ですのでご注意ください。

2022年9月

「明治大正のファッションと竹久夢二」4.明治の束髪(夜会巻き・庇髪)
2022年9月22日

 「夜会巻き」という髪形は今もありますが、その起源を御存じですか?明治16年(1883)に鹿鳴館の舞踏会で初めて日本髪以外の髪形が結われました。新しい髪形を「束髪(そくはつ)」と言い、複数の髪形が提唱されましたが、その中で最も人気があったのが「夜会巻き」であり、「夜会」=パーティでよく結われたのが名前の由来とされます。当時の日本人は腰までの長い髪がありましたので、後頭部でまとめるだけでなく頭頂部にかけて髪を散らして結い上げています。
 「銀杏返し」でも紹介した明治32年1月に発行された「加賀金澤婦人の髪風」(『風俗画報第180号』)には以下のようにあります。
 「加賀金澤にては、一度束髪の流行し始めてより、其の勢力容易に衰へず、為に上品なる島田髷を結ひ、小笠原の作法優(しとや)かにあらば、如何に外見好かるべきと思はるゝ令嬢を始めとし、味噌漉を前垂に包みて、雪花菜(おから)を買ひに行く下婢(かひ)に至る迄、揚巻と言ふ夜会結大に流行す」
 明治20年(1887)に外交政策が失敗すると欧化政策への批判が強まり、女性は再び日本髪を結うようになります。けれどもその中で夜会巻き(揚巻)は人気を保っていたようです。日本髪は身分や年齢によって異なる髪形を結いましたが、束髪は多くの女性が共通の髪形を結ったようです。
 なお、髪を三つ編みにして頭にぐるっと巻くシンプルな「外巻き」も登場しましたが、後世には残らなかったようです。当館ではこの「外巻き」もマネキンを所蔵していますが、今回は画像で紹介します。
 こうした束髪が提唱された背景には、日本髪は1ヶ月間結いっぱなしで不衛生であり、髪結い師に頼む費用がかかることから不経済とされ、明治18年(1885)に「婦人束髪会」が設立されました。自分で結える髪形を提唱することで、こまめに髪を洗うようになることを期待しましたが、大正に至るまでなかなか髪を洗う習慣は浸透しませんでした。

 明治36年(1903)になると、前髪を膨らました束髪が女学生の間で流行し始め、後に「花月巻」と呼ばれるようになります。初期の束髪に比べると顔の周囲に髪を盛り上げるように結っており、日本髪と同様の小顔効果が感じられます。「花月巻」は特に頭頂部を高くしましたが、額から前に髪が出るように結うものは「庇髪(廂髪・ひさしがみ)」と呼ばれました。
 また、日露戦争のさなかに髷(まげ)を高く盛り上げる髪形が流行し、激戦地の名を取って「二〇三高地髷」と呼ばれました。見た目の形からサザエに例えられることもありました。当館で所蔵しているものは「二〇三高地くずし」で、顔周りの髪を分けて結っています。

 この時期の市内の卒業写真を見てみると、明治37年(1904)では先生方が「花月巻」にしており、女生徒も前髪を高く結っています。
 明治41年(1908)の金城女学校の写真では、「庇髪」や「二〇三高地」が見られます。こちらは何かの記念に撮影したと思われますが、絣や縞着物なので普段の様子が分かると思います。
 明治39年(1906)1月28日の北國新聞には「廂髪漸く衰へて島田、銀杏返し再び世に出づ、流行は実に繰返すもの也」とあります。その2日後には「是まで廂髪の多かりし将校婦人、今は丸髷なるが多し」とあり、一般的には庇髪は衰えていったようです。けれども学校では日本髪に戻ることなく、束髪が結い続けられていたことを当時の卒業写真で知ることがができます。

 次回は当時の大正時代の髪形を紹介する予定です。

「明治大正のファッションと竹久夢二」3.アンティーク着物
2022年9月22日

 当館では様々な着物を収集していますが、昭和のものが多く、明治・大正の着物は貴重なものとなっています。今回紹介するにあたり、明治大正の着物の流れを受けているとみられる昭和初期の着物も含めています。

 最初に紹介するのは、明治大正を通してお出かけに用いられた「縞御召(おめし)」です。独特のシボでさらりとした風合いの着物で、夢二もよくこの縞御召の女性を描いています。
 今回は「宵待草」のイメージで着付けて展示しています。まず背中に帯の表を描くので、太鼓結びではないことから今回は文庫結びにしました。
 そして帯の下に小さなちょうちょ結びのようなものが描かれているので、腰ひもの結び目をわざと見せています。現代は腰ひもを見せないように着付けしますが、江戸時代はおはしょりをせずに裾を引きずり、必要な時にたくし上げていました。明治時代はこの流れを受けて、簡単に結んだのではないかと思われます。

 二つ目はおしゃれ着物として有名な「銘仙(めいせん)」です。色が鮮やかで大胆なデザインが多い印象がありますが、大正4年(1915)頃から普段着として人気が出てきます。そして関東大震災の後に実用向きとして推奨され、多くの女性が着ました。

 三つ目は今回チラシに掲載した大ぶりの芥子花の着物です。生地は現在も見られる「縮緬(ちりめん)」ですが、洋花を着物に入れるのは大正時代から始まりました。

 マネキンの後ろにも着物を展示していますが、紺色は明治初期の麻の「帷子(かたびら)」です。明治36年(1903)には東京で帷子が廃れ、女性は中形の浴衣を着るようになったようですが、地方ではまだ着ているとあります。
 徳田秋聲が関東大震災について記している「不安のなかに」(徳田秋聲記念館HP・不定期連載に全文掲載)で、金沢から汽車で「K-町」に向かい、姪の結婚相手に会いに行く場面がありますが、そこで「帷子」を着た青年が出てきます。先述の明治36年からだいぶ時間が経ちますが、まだ帷子が現役である様子が見て取れます。
 薄い茶色は大正時代の「モスリン友禅」です。子供の着物のイメージがありますが、明治35年(1902)には人気を博し、廉価であるためとされています。大正時代に入ると子供の着物として広く使われるようになります。また、大正5年(1916)には夏用の縞モスリンが流行し、以後様々なデザインが出されました。

 この時代に単衣として着られたのが、「セル」と「ネル(フランネル)」です。フランネルは現在も洋服などに使われるのでイメージしやすいのですが、同じ毛織物の「セル」はなかなか残っていません。
 当館では写真の毛織物の着物を所蔵しており、単衣仕立てとなっていますが、非常に薄手の着物なので透けてみえます。セルではないかと思われますが、今回は検証が間に合わず展示できませんでした。参考までに画像で紹介します。

 次回は束髪を紹介する予定です。

「明治大正のファッションと竹久夢二」2.日本髪その2(丸髷・日本髪用品)
2022年9月14日

 今回紹介する「丸髷(まるまげ)」は既婚者の髪形として知られます。島田系が折り返した髷を元結などで結ぶのに対し、丸髷はやや平たく形作ります。年を取ると、この髷を小さくします。
 このように大きく髷の形が異なるので、日本髪を見るだけで既婚かどうかが分かってしまうのです。しかしながら、前回紹介した「銀杏返し」は30歳以上の人も結ったそうで、明治32年1月に発行された「加賀金澤婦人の髪風」(『風俗画報第180号』)には以下のようにあります。
 「銀杏返は本年に入りて最も多く流行す。是れは島田髷の頓に廃れる結果、皆な銀杏返を結ふて茲に其の勢力を作りたると、一は丸髷に飽きたる細君が、年を若く見せんと、競うて銀杏返を結ふ様になりたるが為めなり」
 なお、この報告では金沢の髪風を犀川と浅野川のニ風に大別し、さらに家中風(官吏等の細君)、町方風(商人の内儀)のニ風に細別しています。新流行を取り入れるのは浅野川風で、犀川風はそれを模倣するとし、最初芸妓等で行われたものが、しだいに全市の流行となることを報告しています。

 このように様々な日本髪がありますが、その形を保つためには「びんつけ油(すき油)」をつけるだけでなく、髪の中に土台などを入れたりしました。今回紹介するのは、丸髷の「髷形」で、髷の中に入れて形を保ちます。また、前髪や左右の鬢(びん)などの盛り上げた髪の中につめた「赤熊(しゃぐま)」もあります。こちらは縮れ毛をまとめたもので、様々な大きさにして詰めました。
 この他にも展示室では、髪を足すための「髢(かもじ)」や元結(もとゆい)、手絡(てがら)などの日本髪用品を展示しています。

 日本髪で特徴的なのが、盛り上げた「前髪」と左右に張り出した「鬢(びん)」で、顔周りを包むような髪形による小顔効果を実感します。
 しかしながら、市内で明治時代に撮られた写真を見ると、前髪を高く盛り上げているのに対し、左右の鬢はあまり張り出さないようにしているようです。
 最初に紹介するのは明治10年代の写真で、右側の少女が持つ洋傘から「蝠傘(こうもりがさ)」が流行した明治16年以降と考えられます。左側の女性は日本髪ですが、あまり鬢を張っていないように見えます。
 もう一つは明治32年の小学校の卒業写真の先生方の晴れ姿です。現在と比べて半襟を広く出し、裾模様のない黒紋付の三枚襲を着ています。左側は丸髷で、他の二人は銀杏返しですが、前髪や髷の髪の豊かさが目立つ割には左右の鬢がしゅっとしています。
 このように写真を見比べてみると様々な発見がありますが、明治時代は写真館や改まった場で撮られた写真が多いので、実際にはもう少し簡単に結っていたかもしれません。

 次回は当時の着物事情などを紹介する予定です。

「明治大正のファッションと竹久夢二」1.日本髪その1(島田系・銀杏返し)
2022年9月8日

 現在開催中の特別展「明治大正のファッションと竹久夢二」(~11月20日(日))をより深く知っていただくために、ブログで紹介します。
 複雑な形に結い上げる日本髪は江戸時代に完成し、身分や年齢によって異なる髪形を結いました。明治以降も多くの女性が日本髪を結い、昭和初期まで見られました。
 夢二も多くの日本髪の女性を描いており、妻・たまき、恋人・彦乃、モデル・お葉も日本髪を結うことがありました。ここでは明治以降、主に結われた髪形を中心に紹介します。
 1枚目の画像は明治後期の「引札」(主に正月に配られた店名入りの広告)ですが、日本髪の女性が二人並んでおり、異なる髪形をしています。
 現在では結婚式などでしか見られない日本髪ですが、かつては様々な髪形がありました。最も種類が多いのが「島田」で、今回は「結綿島田」(若い女性)「芸妓島田」(芸妓)「文金高島田」(武家の女性→花嫁)を紹介しています。順番に画像を並べてみましたが、大きな特徴として後頭部の「髷(まげ)」を折り返して飾りや元結などをつけていることが言えます。
 「結綿島田」は髷に手絡(てがら)などの飾り布をつけること、髷全体を潰しているのが特徴です。「引札」の女性の一人はこの「結綿島田」または飾りをつけない「つぶし島田」と考えられます。横から撮影した画像では分かりづらいのですが、「結綿島田」は全体的にふんわりと結っており、「芸妓島田」のシュッとしたシャープな輪郭と大きく異なります。

 「島田」では髷を折り返して結っていますが、根元から二つに分ける髪形もあります。その一つが「銀杏返し」です。二つに分けた髷の形が「銀杏」に見える所からその名前があります。なお、根元に手絡をかけますので、髷の結い方によっては、前からも手絡が見えます。
 同じような結い方をするのが「唐人髷(とうじんまげ)」です。二つに割った髷の根元の元結を髪の毛で隠すのですが、髷の形は少女の髪形「桃割れ」に近いイメージです。しかしながら「桃割れ」より少し年上の女性が結いました。
 という訳で「引札」のもう一人の女性は髷を二つに割っているため、「銀杏返し」または「唐人髷」と考えられます。
 今回金沢湯涌夢二館からお借りした「宵待草」も髷を二つに割っているので、「銀杏返し」または「唐人髷」と考えられます。なお、こちらの1点のみ10月10日(月・祝)までの展示とし、後期は別の作品を展示しますので、ご注意ください。

 次回は丸髷などを紹介する予定です。

2022年8月

「金沢の郷土玩具」8.勝兜・花はじき
2022年8月24日

 今回は昭和に新たに登場した郷土玩具を紹介します。藩祖・前田利家公の兜として知られる「大鯰尾(なまずお)」「小鯰尾」のミニチュアである「勝兜(かちかぶと)」は、昭和14,5年頃に作られ始めたそうです。百万石まつりなどで模型の兜を見ることもあり、地元の人にとっては親しみのあるものです。
 当館では「小鯰尾」を複数所蔵していますが、その内一つは「体育大会」の文字があり、記念品として贈られたことが分かります。

 「花はじき」は金沢の発明家・藤本吉二氏が昭和8年頃に発明したもので、こどもが誤って飲み込んでも大丈夫なようにでんぷんを彩色して作られています。現在は作られていませんが、かつては多くの子供達が遊びました。
 今回は花はじき、菊はじき、梅はじきを並べて展示していますので、大きさの違いも分かりやすいと思います。

 企画展「金沢の郷土玩具」は8月28日(日)で終了となりますので、ご注意ください。
 8月29日(月)~9月2日(金)は休館で、9月3日(土)より特別展「明治大正のファッションと竹久夢二」を開催します。

当館が『Tabist Magazine』で紹介されました
2022年8月19日

 金沢のレトロ建築めぐりをテーマにTabistでご紹介いただきました。外観だけではなく内部も鑑賞できるということで、当館を含めた複数の建物が紹介されています。

 詳細は「100年の歴史を間近に感じる。金沢のレトロ建築めぐり」でご覧ください。

「金沢の郷土玩具」7.お面・福徳
2022年7月28日

 金沢の郷土玩具といえば、「中島めんや」です。江戸時代からの老舗で、初代は村芝居の小道具を作っており、特に踊り面の職人として知られたそうです。屋号の「めんや」もここから来ているのだとか。という訳で、今回はお面を紹介します。
 現在でもお面はお祭りの屋台などで売られていますが、ポリ塩化ビニルなどで作られています。昔は紙の「張り子」だったため、お面を長時間つけていると口の周辺が湿ってやわらかくなったそうです。狐や天狗、お多福、ひょっとこ、猿、般若(「やひこばば」(弥彦婆、「金石の悪魔祓い」などの民俗芸能)とも)が作られました。これらの面の一部は「中島めんや」で見ることができます。

 当館は職人道具として制作用具を収集しており、貴重な木型とともに制作工程見本も保存しています。まず木型に紙を貼って乾かして外し、胡粉で白く塗ります。その後職人が一つ一つ手描きします。写真は般若の制作工程ですが、青い般若はなかなか見られないと思います。

 金沢では正月に「福徳」というお菓子が売られます。「フットコ」ともいい、福俵・打ち出の小槌・福袋をかたどった煎餅皮の中に小さな練り物の人形や金花糖のお菓子が入っています。中から何が出てくるかという楽しみがありますが、正月らしいおめでたい姿形が主です。
 福徳の中身はささやかなおもちゃであるためなかなか残らないのですが、当館でも古い物を1点所蔵しています。

 次回は勝兜・花はじきを紹介する予定です。

2022年7月

「金沢の郷土玩具」6.張り子
2022年7月28日

 これまで有名なものや加賀藩に由来を持つものなどを紹介してきましたが、ここからは子供達が遊んだりしたささやかなおもちゃを紹介します。
 「張り子」とは、木型に紙を重ねてはり、乾いたら取り外して成形し、色を塗ったりします。第1回で紹介した「加賀八幡起上り」もこの技法で作られているため、中が空になっています。このため軽くて丈夫なのが特長です。
 今年は寅年ですので、「加賀魔除け虎」を最初に紹介します。虎は猛獣で恐ろしい顔のイメージがありますが、金沢ではやさしく愛らしい顔付です。節句に飾って悪魔を追い払い、勇武を念じる縁起物とされています。

 首を振ることから「うなずきもの」とも呼ばれますが、犬や牛も作られています。犬は安産の象徴で丈夫な子供が育つように願いをかけるため全国的に作られますが、首を振るのは珍しいです。牛は千両箱と俵を担いだものがあり、前者は商家で後者は農家で喜ばれました。

 「猿の三番叟」は能楽の祝狂言で舞う老人(悪魔を払う)の姿をしています。江戸時代は背中に穴をあけて駄菓子を入れたそうです。
 「春駒」は長い棒を馬の胴体に見立てて子供がまたがって遊ぶおもちゃが元になっています。手に持って振ると音がして、ガラガラの役割を果たします。

 次回はお面などを紹介する予定です。

「金沢の郷土玩具」5.獅子頭とからくり玩具
2022年7月23日

 獅子舞は全国にありますが、金沢の獅子頭は眼光が鋭くて角があり、白木なのが特長です。胴体にあたる蚊帳も緑ではなく、青地に牡丹などを染めています。現在は写真のように飾り物として刀をくわえさせるイメージが定着しています。男の子が誕生した時に魔除けや厄除けとして飾ることもあったようです。
 このような獅子頭なのは、武器を持った棒振りと戦うためです。加賀藩がお祭りという形で民に武術を伝えるために、獅子舞を奨励したと言われています。木製とはいえ棒や刀、薙刀などを扱う所作を覚える必要があり、かつてはお祭りの直前に道場に弟子入りして学ぶことも行われました。

 本物の獅子頭と同じように桐で作られ、複数のパーツに分かれていますので、口が大きく開くようになっています。かつては子供が獅子舞の真似をして遊ぶために作られましたが、大正15年の北國新聞によればすでに遊ぶ子供はなく、東京大阪の玩具愛好家に人気で、要望に応じて黒く塗ったりすることもありました。

 からくり玩具の「米食いねずみ」は天保初め(1830年頃)に、当時流行したからくり人形の影響を受けて足軽の内職として作られました。大切にするとお金が増えるとされ、めでたい縁起物です。竹のバネを押すと頭と尾が下がり、お米を食べます。

 


「もちつきうさぎ」も「米食いねずみ」と同時期に作られたもので、糸を引くと杵を振り上げる姿が愛らしいです。昭和初期まではお祭りや正月の縁起物として売られました。

 次回は張り子を紹介する予定です。

「金沢の郷土玩具」4.旗源平
2022年7月16日

 郷土玩具の大半は江戸時代に作られた物ですが、中には加賀藩ならではの由来を持つものがあります。今回紹介する「旗源平」は平和な世の中でも遊びを通じて争う心を養うために、武術の達人・土方常輔が考案したとされています。
 名前の通り源氏と平氏に分かれてサイコロを2つを交互に振り、その目でもらえる旗の本数が変わりますが、1と1で「チンチンカモカモ」、1と5で「ウメガイチ」などの唱え方も独特です。もらえない目もあり、4と2の「シノニ」が中旗(小旗10本分)を返す唯一のマイナスの目になっています。
 館蔵品で最も古いのは大正時代の紙製ですが、マトイが立体的で木箱が残っています。

 布製の旗源平も作られ、高級品とされました。写真は昭和初期のものですが、マトイも立体的に作られています。丸い竹ひごを使っていることからマトイや大旗を立てる台等があったと思われますが、残っていません。

 鳥取童謡・おもちゃ館「わらべ館」でも古い旗源平が保存されており、大型の布製で組立式の台座があります。平氏の家紋も上から見た「浮線蝶」ではなく、横から見た「揚羽蝶」で大きく異なる貴重なものです。
 今回の展示にあたり画像を提供していただきました。詳細はわらべ館HP「旗源平」でご覧ください。

 旗源平は戦後も盛んに遊ばれたようで館蔵品には昭和30~40年代のものが多数残されています。写真のものは定番のものですが、平べったい竹ひごを使っています。これは畳の縁にさしこめるように作られており、台の代わりにしていたのです。けれどもしだいに丸い竹ひごが主流になりました。

 当館では体験用に大型の旗源平を所蔵していますが、市内の旧家にあった明治初期のものがモデルとなっており、源氏は瓢箪、平家は軍配が中旗・大旗についた立派なものになっています。

 しかしながら、昭和40年代以降にボードゲームなどが流行すると、旗源平で遊ぶ人は少なくなり、現在は手に入れることが難しくなっています。
 なお、現在も小学校や公民館などで旗源平を体験する機会が設けられています。当館でも2階の体験ルームでいつでも遊べるようにしておりますので、ご来館の際に楽しんでいただければ幸いです。

 次回は獅子頭やからくり玩具を紹介する予定です。

「金沢の郷土玩具」3.天神堂
2022年7月6日

 天神様は天満宮のことであり、全国各地で様々な「天神さん」が作られてきました。金沢では藩祖・前田利家公が菅原道真の子孫としたことから、代々の藩主が天満宮を造営するなど盛んに信仰されてきました。庶民も天満宮を巡ったりしましたが、男児が生まれると「天神さん」を贈ることも行われました。
 中でも主に加賀に分布する「天神堂」は豪華なものとして、商家など裕福な家で飾られました。12月25日から1月25日まで1か月飾るのが正式ですが、正月のみとする家庭もありました。
 古くは社殿部分だけだったと考えられますが、様々な土人形を一緒に飾るようになり、鳥居なども加わっていきます。

 明治時代になると大きな変化が起こります。この頃は板の上に神門や鳥居などを固定したものが作られていましたが、土台の形が大きく変わります。明治36年12月の北國新聞には「今年は至極改良して組立箱入と為し進物要用には極軽便に作れるものあり」とあり、固定式から組立式に変わったことが分かります。また、この記事には14種類の大きさが紹介されており、値段も8円から30銭位まで記されています。ちなみに大正15年の新聞記事では一般の商品は20円以下とあり、特注で500円のものを作ったことがあると職人が語っています。

 組立箱入になったことから、土人形も一緒に保管されるようになり、割れることなく残されています。
 土人形は天神、随身、白狐、狛犬、神主(太鼓打ち)、太鼓、灯籠が主ですが、さらに門松なども一緒に飾ったりしました。

 当館の天神堂は戦後のものも所蔵していますが、明治後期から昭和初期にかけてが最も盛んで収蔵品の大半を占めます。天神堂の基本的な作り方は大きく変わっていませんが、時代によって土人形の姿が変わっているので、見比べてみてください。
 なお、随身だけは木練人形が多く、写真のように頭が少し削れたりしています。

 次回は旗源平を紹介する予定です。

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