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2023年11月
現在開催中の企画展「昔の印刷」(~令和6年2月4日(日))をより深く知っていただくために、ブログで紹介します。
最初に紹介するのは「木版(版木)」です。文章も絵もすべて一枚の板に彫りこんだもので、こちらは一度に2ページを刷ることができます。「小学読本」とあり、明治初期の国語の教科書です。昔の本は半紙に印刷して二つに折って製本しましたので、このようなレイアウトで木版を作りました。細かく彫るために、堅い桜・朴・桂などを使いました。
ちなみに裏面にも教科書の続きがあり、こちらは刷ったものを展示しています。文部省が発行していますが、全国各地の書店で印刷されたようで、市内の供田書店が使用したものです。
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明治に入ると、外国から新しい印刷技術が入ってきました。政府が招聘したキヨッソーネが伝えた「凸版」は電気鋳造法で金属を腐食させて作るため、木版ではできなかった精密な線を印刷することができるようになりました。
写真は昭和30年代(推定)ですが、ローマ字の教材として使われたもので、遠足に行く様子を表しています。右上にローマ字で「TANOSII ENSOKU」とあるので、日本語の発音を重視した「訓令式」が使われています。
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こちらは凸版と木版のセット品で、図案は神武天皇と金鵄(きんし、金色のトビ)です。人物の細かい線などを凸版で、鎧や弓などの色は木版でつけたようです。
最後に紹介するのは「写真版」です。拡大してみると斜めの線が無数に入っていることが分かります。このため、「写真網版」とも言います。点の大小で濃淡を表して写真を再現しています。
こちらの写真の年代・用途は不明ですが、活字を組んだ記事と組み合わせて使われたと考えられます。
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次回は、金沢で発行された印刷物を紹介する予定です。
前回は鶴などを紹介しましたが、今回は十二支がテーマです。制作年は不明なものが多いのですが、1年に一度作られていたようです。
まずは今年の干支「卯」です。色紙の銀の円を月に見立てて、お餅を搗いています。これまで紹介してきた作品は小さなつまみ細工で表現することが多かったのですが、こちらは大きなつまみでシンプルに表現しています。こうした潔さも素晴らしいと思います。このような作品も複数あり、布に模様を描いたりしています。
対照的なのが「寅」です。小さな裏丸つまみを無数に並べて毛並みと配色を表しており、小さな爪もつまみで作られています。さらに顔は土台の上につまみを配置しており、周囲より一段高くなっています。
「寅」はシンプル版も一緒に展示しておりますので、一緒に楽しんでいただければ幸いです。
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もう一つは「酉」です。短冊の縦長を生かして梅の花を見上げる姿を表現しています。こうした短冊も複数あり、小さいながらも特徴を捉えた作品を作られています。
特別展「加賀つまみ絵」は11月19日(日)で終了となりますので、ご注意ください。
11月20日(月)~24日(金)は展示替えのため休館で、11月25日(土)より企画展「昔の印刷」を開催します。詳細は改めてご案内いたします。
今年の気候はなかなか先が読めず、再び週末寒波となりました。今回は親子が対象のイベントです。例年6月に開催しておりましたが、気温が高くなってきたため、今年から11月に変更しました。とは言え、コロナ禍でここ数年中止しておりましたから、4年振りの開催となりました。
この日のために張り替えた和傘もやっと出番です。大人用しかないので基本はご両親。そして時々小学生を中心にお子様も差していただきましたが、重たいという子も軽いという子もいて、反応はそれぞれでした。
なお、通常の着物体験では体の小さい未就学児が多いので、和傘体験は当面親子イベント限定とさせていただく予定です。
そんな親子のステキな写真を紹介します。詳細は着物体験アルバムでご覧ください。
今回は紹介するのは、つまみ細工で生き物を表現したものです。第1回で紹介した「のし飾り」にも鶴がありましたが、舟に見立ててあったので分かりにくかったかもしれません。
という訳でおめでたい「鶴」です。仲良く羽ばたいている姿を表現しています。羽根の一つ一つをつまむ訳ですが、翼は細長い裏剣つまみ、胴体は裏丸つまみと使い分けて、羽根の長短を表しています。けれども翼のつまみはさらに長短があり、植物と同じく細かいところまで観察されていると思います。
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もう一つは「鳳凰」です。伝説の鳥ですが、作品のように複数の色を組み合わせた物や、黄色やまっ白な物も作られています。このような鳳凰のポーズは定番ですが、翼の内側を違う色にして複雑な形にしています。胴体の内側には綿を入れて立体的にした上で、頭を少しだけ持ちあげています。目玉はビーズで、尾の一部にも一つ一つビーズがつけられています。
この作品も非常に細かい所に工夫がちりばめられていて、さらに74歳の時の作品ですから意欲的に作品に取り組まれていたのが分かります。
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次回もおめでたいものをテーマにした作品を紹介する予定です。
2023年10月
前回紹介した作品は基本の折り方が中心でしたが、今回は本物に近づけるために独自の工夫をした作品を紹介します。
まずは「ひなげし」です。しわのある花弁が特徴的なため、布をつまんだ後にしわをつける必要があります。そこで野村氏は布の一部(繊維)を引っ張るようにしてしわを表現しています。言葉で書くのは簡単ですが、布を潰してしまわないように加減がなされており、立体的な花弁を生み出しています。
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もう一つは「バラ」です。外側は角形に折りたたんでいますが、中心部分は立体感を出すために立てるとともに、端をきれいに巻いています。単に同じ形の物を重ねただけでは本物感が出ませんので、このように細やかな工夫をされているところが、野村氏の観察力と表現力の素晴らしさを感じさせます。
このような細部にも注目してご覧いただければ幸いです。
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次回はおめでたいものをテーマにした作品を紹介する予定です。
秋らしい気候が続いておりましたが、前日の金曜日から急に気温が下がり、平年より寒い日となりました。そんな中、元気に来館した子供たちが着物体験を楽しんでくれました。幸い日曜日は天気も回復し、玄関付近で撮る姿も見られました。
そんな子供たちのステキな写真を紹介します。詳細は着物体験アルバムでご覧ください。
つまみ細工は昔は櫛や簪(かんざし)などの飾りとして作られており、現在も花をかたどった作品が多数見られます。今回紹介する作品も大半が花を主題としており、本領と言えます。
まずはチラシに掲載した「桜」ですが、幅1mの額入りの大作です。写真はその一部ですが、太くて大きな幹から伸びた枝に多数の花が咲いています。丸つまみで花弁を作っていますが、すき間なく詰めたり花を重ねることで立体感を生み出しています。
野村氏は「絵画的造形美術」としてできるだけ本物の花に近づけるようにつまみ絵を作っており、幹の表面も細かく立体的な細工をしています。
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もう一つは「ひまわり」ですが、花は放射状に細長い裏丸つまみを並べ、葉の形を一つ一つ変えるなどしています。本物の花を細かく観察した上で作品にしていることがよく感じられますが、驚異的なのは花の中央の円盤部分です。ごく小さな剣つまみを無数に並べ、しかも外に行くにしたがって茶色になるように細かく配色を変えてあります。
このような手先の細やかさと根気の良さが、これらの作品の根底にあると思います。来館された際にはじっくりとご覧いただければ幸いです。
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次回も花をテーマにした作品を紹介する予定です。
今年は平年よりかなり気温が高く異例の夏でしたが、9月下旬でも最高気温が高い日々が続きました。けれども秋らしい風が吹いてくれましたので、予定通り着物体験を開催し、多くの子供たちが参加してくれました。
そんな子供たちのステキな写真を紹介します。詳細は着物体験アルバムでご覧ください。
2023年9月
現在開催中の特別展「加賀つまみ絵」(~11月19日(日))をより深く知っていただくために、ブログで紹介します。
「つまみ絵」という言葉はあまりなじみのないものですが、主に3センチ角の布を一つ一つ折って作るつまみ細工の技法を使って絵画にしたものです。例えば梅の花などは、「丸つまみ」を5枚作り中央に花弁をつけて表現することができます。
今回展示する「加賀つまみ絵」は、すべて野村昭子氏の作品です。野村氏は藩政時代に武家の奥方の間で手芸として流行したつまみ細工と、昭和初期まで花嫁自身が作って持参した「のし飾り」を元に、「加賀の伝統、風土に育まれたつまみ細工を絵画的造形美術として「加賀つまみ絵」と名称をつけ、復活いたしました」としています。昭和45年(1970)に自宅において個展ならびに講習会を開催し、以後平成に至るまで加賀つまみ絵宗家として活動されました。
ルーツの一つとなった「のし飾り」ですが、金沢では嫁入りのあいさつとして親戚近所に五色生菓子や赤飯を配る風習があります。現在は結婚式場で紙箱に入れて配ることが多いのですが、かつては重箱につめて一軒一軒訪問していました。その時に「ジュウカケ」(重掛け・袱紗)をかけるのですが、その上に手作りの「のし飾り」をのせました。博物館では作り方の技法から「押絵のし」としていますが、今回は野村氏の文章にあわせて実際に使われた昭和初期の「のし飾り」を一緒に展示しています。
画像はその一つですが、鶴の背に乗った仙人の左右には小さなつまみ細工の梅が添えられています。押絵の部分も丁寧に彩色するなど非常に凝っています。五色生菓子を受け取った人は、のし飾りを花嫁の手先の器用さの証として鑑賞したのでしょう。なお、重箱の中身だけを受け取って返しますので、道具一式は花嫁の手元に残ります。
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野村氏が制作した「のし飾り」は5種類あり、会場ではすべてご覧いただけます。画像のように押絵の技法も使いつつ、つまみ細工を主としています。のし飾りはおめでたい絵柄が多いのですが、こちらは羽を広げた鶴を船に見立てて背中に菊などの花をのせて華やかにしています。
つまみ細工は羽子板にも用いられます。大型のものもありますが、画像のような小型の作品もあります。尾崎神社の松をモチーフにし、鶴が舞います。松の幹の部分は布ではなく独自の技法で表現しています。
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次回は作品の中で最も多い花をテーマにした作品を紹介する予定です。
2023年8月
ただいま次回特別展の展示作業を少しずつ進めており、華やかな展示となりそうです。
さて、前回の企画展「ボードゲームの世界」で流していた映像をyou tubeに公開しましたので、ご案内します。見に来て下さったけどあまり時間がなかった方、展示を見れなかった方にお楽しみいただければ幸いです。
you tubeへのリンクはこちら
幅広い世代に好評いただいている企画展「ボードゲームの世界」もいよいよ終わりを迎えます。最後に紹介するのは、昭和後期の頭脳ゲームたちです。
昭和48年(1973)にタカラから発売された「手さぐりゲーム」(展示品は昭和51年)は、めくったカードと同じ物をボックスに手を入れて探し出すものですが、スプーンにフォーク、手鏡とヘアブラシ、ロバと馬など、よく似たものも入っています。「これだ!」と思っても、手の中で形をしっかりと確認してから取り出した方がよさそうです。ちなみに中身の半分は動物で、なぜか「入れ歯」もあります。
続いて紹介するのは昭和52年(1977)にタカトクから発売された「生き残り頭脳ゲーム」です。昭和48年(1973)に発売された「生き残りゲーム」と大きく違う所は、穴の開いたミリオンバーを入れ替えることで約30数億の組み合わせができる所です。
二つのバーの穴が重ならないとボールは落ちないのですが、バーを動かすたびにボールが動いてドキドキします。相手のボールを早く全部落とした人が勝ちますが、最後に残ったボールが一度に落ちた時は、落とした人(バーを動かした人)が勝ちです。
電池式のゲームもこの時代に登場しています。昭和56年(1981)に野村トーイから発売された「チクタクバンバン」は、時計のベルがなるまでプレートから落ちないように、スライドさせて遊びます。こちらは黄色と青色の2色ですが、平成元年(1989)に発売された「チクタクバンバンチャンピオン」は数字になっています。1から15までの数字を並べ替える「15パズル」なのですが、時計がスタートからゴールまで進むまでの制限時間があり、時計が動いている場所のプレートは動かせないので、焦ってしまいます。こちらはボードゲーム体験で実際に遊んでいただきましたが、クリアするのはとても難しく、できるだけたくさん数字を並べた方が勝ちというルールで行いました。
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最後に紹介するのは昭和58年(1983)にエポック社から発売された「ウォーゲームエレクトロニクス」です。歴史上の決戦があった地形を再現しており、軍を動かすことができます。シリーズ物で、展示品は「日本海大海戦」(明治・日露戦争)「バルジ大作戦」(第二次世界大戦・ラインの守り)に続く「決戦関ヶ原」です。
東西両軍の駒を動かすのですが、まず晴は6マス、雨は4マスと天候で移動能力が左右されます。さらに戦闘力に不確定要素が加わり、電子判定装置によってどれだけ加算されるかで勝敗が左右されます。
さらに「調略」として敵を味方に引き入れることができるのが「関ヶ原」ならではでしょうか。こちらも電子判定装置で味方になるか中立になるかが判定されます。残念ながら駒がなくなっており、遊び方を検証することはできませんでしたが、歴史の勉強になりそうですし、史実と違う勝ち方もできそうです。
企画展「ボードゲームの世界」は8月27日(日)で終了となりますので、ご注意ください。
8月28日(月)~9月1日(金)は展示替えのため休館で、9月2日(土)より特別展「加賀つまみ絵」を開催します。詳細は改めてご案内いたします。
ダイヤモンドゲームは「ハルマ」というゲームを基にしており、1892年にドイツで現在の形になって発売されたのだそうです。日本では昭和8年(1933)から花山ゲーム研究所(現・ハナヤマ)が発売しています。赤・黄・緑の駒を向かい合った同じ色の陣地に向けて動かしていくゲームで、いかに駒を進めるかが大事です。
最初に紹介するのは昭和20年代後半(はなやま商店)と思われるものです。木製のコマは缶に収納され、紙製の盤面は六角形になっています。
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続いて紹介するのは昭和40年代(ゲームのはなやま)のものです。盤面が四角くなり、写真をよく見ると大型の駒=王駒が角にあります。子駒が直線上の1つの駒しか飛び越えられないのに対し、王駒は複数の子駒を飛び越えることができます。子駒も1つおきに並んだ子駒を連続で飛び越えることができますが、いずれにしても配置を考えながら進めなければならないことには変わりはありません。
前半は効率よく進むのですが、中盤になると3色の駒が入り乱れて動けなくなってしまうこともしばしばあります。ここを我慢しながら上手に進むのが勝利への道でしょう。
今回は展示していませんが、マグネットタイプ(ハナヤマ)も所蔵しています。こちらは盤の内側に駒を収納することができます。もう一つは「ディズニーの家庭盤」(昭和41年、任天堂)の中に入っているものです。この他に「ダブルクインテット」(はなやま玩具)の中にも入っており、単体だけでなくセット品として入っているもので遊んだ方もおられるかもしれません。
現在もダイヤモンドゲームは売られており、多くの方が楽しんでいるようです。
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次回はチクタクバンバンなどを紹介する予定です。
頭脳ゲームのコーナーでは、携帯用のマグネットゲームとして囲碁や将棋も紹介しています。今回紹介するのはその一角にある「行軍将棋(軍人将棋)」です。明治末期に成立したとされ、玉将・王将が大将に、金将が中将に変わっていますが、一番大きな違いはお互いの駒の名称が見えないようにすることです。裏返して盤面に置く方が一般的だと思いますが、今回の展示品は説明書に「駒を立て」とあるので、そのようにしています。
お互いの駒が分からないということは、審判役が必要になります。4ヶ所の突入口から駒を進め、両者が対戦した時に審判役が勝敗を決定し、負けた駒を盤面から取り除きます。なお、同一の駒だった場合は二つとも取り除きます。
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駒を全種類並べてみましたが、スパイやヒコーキ・タンクが印象的です。時代によって名称が変わっており、今回は展示していませんがMP・原爆・元帥(大将の上)が入ったものがあり、戦後まもなくの日本が連想されます。
大将が最も強いのですが、地雷とスパイには勝てません。地雷はかなり強いのですが動くことができず、位置を察知されると工兵かヒコーキで倒されてしまいます。総司令部に先に攻め込んだ方が勝ちですが、どこにどんな駒があるかを予想しながら進んで行くのはまさに頭脳ゲームです。
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ドンジャラは麻雀を子供向けに改良したもので、昭和55年(1980)にバンダイから発売されました。人気のアニメなどを絵柄にしており、現在も売られています。
当館では2種類所蔵していますが、数年違うだけで遊び方が少し変化しています。例えば展示品は中央の小屋にパイを2つ隠し、上がった人がどちらかを選んでめくり、同じものが出れば得点が加算されますが、もう1つは分けずにすべて山にしてしまいます。遊びやすいように改良されていったのでしょう。
次回はダイヤモンドゲームを紹介する予定です。
2023年7月
野球が明治時代に日本に伝えられて約150年。現在も人気のスポーツで、夏の風物詩と言えば高校野球・甲子園。奇しくも本日は石川大会の決勝です。そんな日に野球ゲームを紹介します。
1枚目の写真は館蔵品で最も古い野球ゲームです。携帯用ですがランナーを置くことができ、上には得点表もあります。手作り感あふれるカードに小さなサイコロ。本来は2つのサイコロの目でヒットや二塁ゴロなどの判定をするのですが、1つしか残っていません。残念ながら年代不詳ですが、漢字が旧字体なので古いことは間違いありません。
初めて見た時はカードの使い方が分かりませんでしたが、今回の展示でルールを調べてやっとわかりました。それが2枚目の野球ゲームです。こちらにも「打」「見」「S」「B」のチップがついています。展示品は昭和41年(1966)のものですが、任天堂のHPによれば昭和30年代から発売されていたようです。
攻撃側は「打」「見」を、守備側は「S」「B」のいずれかを出し、その組み合わせでストライク、ボール、ヒットが決まります。ヒットしたらさらに「S」「O」の青いサイコロと普通のサイコロの目を組み合わせてヒットなどの判定をします。サイコロの目によって結果が左右されるので、ドキドキしながら振った事でしょう。
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そして昭和33年(1958)にエポック社から野球盤が発売されます。翌年には変化球装置が搭載されるようになり、今回はその年に発売されたD型を展示しています。発売されてわずか一年ですでにこれだけの型があることが、人気の証でしょう。
残念ながら守備の人形は欠けていますが、黄色い穴がアウトで赤がヒットやホームランなどです。ファール以外はどこの穴にも落ちなければヒットになると思いますが、手強そうですね。バットは指で回転させて待機し、タイミングに合せて離します。ボールは1つずつセットして、得点ボードの裏に隠れたレバーで球種を選んで投球しました。
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昭和45年(1970)にはレバーでバットを振れるようになり、その2年後には消える魔球装置が登場しました。当時の人気マンガ「巨人の星」で主人公が編み出した魔球を再現したものです。今回は昭和54年(1979)のものを展示していますが、こちらはさらに連続投球装置が搭載され、便利になっています。
現在もなお野球盤は発売され、多くの子供たちに愛されています。
次回は頭脳ゲームを紹介する予定です。
現在も人気の卓球ですが、1950~60年代はずっと世界ナンバーワンを誇り、かなり人気がありました。そんな時代に発売されたエポック社の「ピンポンゲーム」を紹介します。
コートの端にラケットがあり、穴に沿って左右に移動することができます。ピンポン玉は中央のネットに繋がれており、ラケットをポンポン叩いて打ち返します。説明書によると強く打つとスマッシュが、できるだけ弱く打つと変化球が出せるそうです。見た目は無事でしたが、残念ながらピンポン玉がうまく動かず、変化球が出るか試すことはできませんでした。
サーブは5回で交代し、先に10点を取った方にゲームポイントが1つ与えられ、合計3つになった人が勝ちになります。
1970年代にブームとなったのがボウリングです。1950年代から全国各地に専用施設が作られるようになりましたが、中山律子などのプロの活躍でますます人気を博しました。そんな時代を反映するように様々なボウリングゲームが作られました。
今回紹介するのはエポック社から昭和47年(1972)に発売された「パーフェクトボウリングジュニアーS型」です。ボウリングと言えば上から出てくるピンですが、投球の振動で上部のセッターが落ちてピンを倒すこともあるとか。こちらでは逆の発想で下にセッターを収納することで問題を解消し、見た目もきれいに作られています。箱はなかったものの投球人形も無事で、ちょっとボウルの位置の調整が必要ですが、元気よく投げてくれます。人形の手が負傷しているのは持ち主がたくさん遊んだという証拠です。
投げたボウルは右側の溝を通って戻り、スイッチを押すと手元に上がってきます。人形の位置や向きも変えることができますので、動かしている様子は展示室内の映像でご覧ください。
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続いては同じくエポック社から発売された「ニューバスケットゲーム」です。卓球やボウリングのようにブームはなかったようですが、おもちゃとしては人気があったようです。
当初発売されたものは盤面からボールが飛び出してしまうそうで、昭和53年(1978)にドームをつけた「ニュー」が発売されました。館蔵品はキーが10個あるので、それより後のものと考えられます。タイプライターのキーを押す仕組みを取り入れたもので、ボールがある場所の数字のキーを押すとツメがボールを押し出します。
対戦相手よりいかに早くキーを押すかが大事で、反射神経を要求します。プレー中はガチャガチャと音がうるさいぐらいですが、本人たちは真剣にしているので気にならなかったことでしょう。押すタイミングが難しくて、なかなかゴールしませんでした。
次回は野球盤を紹介する予定です。
今回からは指を使ったりする「動きを楽しむ」ボードゲームを紹介します。
最初に紹介するのは「闘球盤」です。「闘球」はラグビーを意味するので、勇ましいゲーム?と思われた方もいるかもしれません。専用のゲーム盤があり、周囲から平べったい円形の球を指先で弾き、中央の穴に落とすゲームです。外国生まれの「クロキノール」(クロックノール)を日本に輸入した際にこの名前にしたようです。
当館には球だけのものとゲーム盤付がありますが、古いと思われる闘球盤の説明によれば、それぞれの色の球を中央に向かって弾き、中央の穴に平らに入ったら5点などとあります。盤面には複数の円があり、中央に近くなるほど点数が高くなりますが、写真のように混戦になってくると、中央に寄せるのが難しくなっていきます。持ち球が尽きたら点数計算をして勝負をつけます。
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もう一つは「プーレー」です。あまり馴染みがない名前ですが、写真を見ると「コリントゲーム」「ピンボール」「スマートボール」などの名前が浮かぶかもしれません。持ち主も同様だったようで、側面に「コリントゲーム」と記していました。残念ながらメーカー名はありませんが、昭和30年代にはなやま商店が「プーレー」を売り出しているので、こちらと思われます。
箱のイラストでは、少女が細長い棒を持って球を押し出しています。現在はバネなどが一般的だと思いますが、当時は手動だったようです。
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家庭用にしてはなかなか立派ですが、所々持ち主による点数の修正が入っています。マジックで「200」とある所は「80」で、その下は「100」を「150」に直しています。が、そもそもそこの穴に入れること自体が非常に困難ではないでしょうか。途中にある釘に弾かせたとしても、うまく上にはねないように思います。
なお、下の部分をスライドさせると球を収納できるようになっており、木でしっかりと作られているため欠けることなく後世に残りました。
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次回も球を使ったボードゲームを紹介する予定です。
今回はルーレットを使うボードゲームと言えば、多くの人が連想するであろう人生ゲームを紹介します。
「人生ゲーム」は昭和43年(1968)にタカラ(現・タカラトミー)から発売されました。箱に「アメリカンゲーム」とあるようにアメリカ発祥のゲームです。就職・保険の加入・賭けなど様々な人生の選択肢があり、億万長者を目指します。
黒いマス(文字はオレンジ色)は通った時にその指示に従わなければなりませんが、「給料日」「結婚」に加えてなぜか「馬を買う」が必須となっています。また「ラスベガス」「牧場」などアメリカらしい内容があちこちに見られます。順調に給料をためることができればよいのですが、何回か税金で給料の1/2を払わなければならず、給料の低い職業に就くと苦労します。
「給料日」のマスに止まると「財産ラッキーカード」を引くことができ、支払いのマスに止まった時にライバルに「半額要求カード」を出せば、相手に半額負担してもらえます。さらに相手がお金を受け取るマスに止まった時に「財産受け取りカード」を出すと、相手の収入の半額をもらうことができます。
2つ目は「NEW人生ゲーム」です。昭和58年(1983)に発売され、マスの背景に建物や木・街並みなどが描かれ盤面が賑やかになっています。
「職業カード」がつき、建築家・アナウンサー・パイロット・アイドルスターが加わっています。こうした職業は現代に至るまで世相を反映して変更されており、その当時のあこがれの職業を知ることができます。初期は最後まで同じ職業でしたが、こちらは途中で2回転職することができます。代わりに「財産ラッキーカード」はなくなり、折畳式だった保険証などはお札と同じような形になりました。
マスの内容も「台風」「大地震」「TVのクイズ番組で勝つ」「人間ドック」「先祖代々の土地を売る」など、日本らしい内容に変わっています。
3つ目は「スター誕生ゲーム」です。昭和48年(1973)に任天堂から発売されました。ちょうどこの時期にテレビで視聴者参加型の番組「スター誕生!」が放送されているのですが、こちらは歌手・ピアニスト・ファッションモデル・バレリーナのいずれかの職業につき、グランプリを目指します。
「恋するコーナー」では、「恋占いカード」で様々な恋人と出会い、ブレスレットをもらいます。「発表会」を経て「スランプ」のコーナーへ進みますが、「結婚を決意して仕事をやめる」のマスがあり、ルーレットの目によってはそこで終了となります。
無事にスランプを抜け出し、それぞれの職業のゴールのマスに誰が早く止まるかを競います。さらに「賞カード」の獲得数を加えて最終順位が決まります。まさに人生ゲームの女性版と言えるでしょう。
次回はコリントゲームなどを紹介する予定です。
2023年6月
今回はサイコロに加えて特殊なコマを使ったりするボードゲームを紹介します。
1つ目は「新ルードゲーム」です。飛行機の絵が入った4色のコマをそれぞれのスタートに置き、ゴールを目指します。サイコロで進むのですが、自分のコマの色のマスに止まると次の色のマスまでジャンプすることができます。6が出るともう一度振れるなど順調に進むことができそうですが、自分が止まったマスに相手のコマが来ると、スタートに戻されてしまうのです。プラスばかりではなくマイナスがあることがポイントです。
さて、このゲームは昭和13年(1938)に発売されたのでなじみがないと思いますが、戦後は飛行機の絵をロケットに変えた「ロケットゲーム」として売り出されているのです。もしかしたら、遊んだことがある方もおられるかもしれません。なお、盤面の裏には英語の解説もあり、「SHIN ROOD」「NEW-ROOD」と記されています。「ROOD」はキリスト教の十字架に使われる十字棒のことだそうですので、盤面の十字からこの名前がついたのではないかと考えています。
2つ目は「日本周遊ゲーム」です。昭和42年(1967)発売で、全国の観光地を巡って5つの地方のカードを1枚ずつ集めて東京に戻りますが、合計得点で勝ちを決めます。サイコロの目で路線を進みますが、新幹線や飛行機、船も利用できます。地理の勉強になりそうですし、当時の空港の名前などで時代を知ることができます。
ちなみに5つの地方は、北海道、東北、関東、近畿・中国・四国、九州なので、中部地方は対象外となっています。ですが、金沢は徽軫燈籠と松、能登は輪島塗、加賀は九谷焼らしき壺が描かれています。地図に書かれた地名ばかりに目が行きますが、各地の名所・産物をさりげなく描いていますので、こちらもご注目いただければ幸いです。
3つ目は「バンカース」です。昭和28年(1953)に発売され、その10年後に「NEWバンカース」が発売されました。サイコロの目で進みながら、止まった土地を購入したり、家を建てたりします。プレーヤー同士で土地の売買をすることもできますが、時には破産することもあります。ゴールのマスがないので、決めた時間になって一番お金を持った人が勝つか、破産した人が脱落していって最後に残った人が勝ちとなります。
今回は新旧2つの盤面などを並べて展示しています。お金の変化は分かりやすいのですが、盤面も少しだけ変化しています。
なお、よく似たゲームに「モノポリー」があり、この時代はマネーゲームと言えばこのどちらかだったようです。
次回は人生ゲームを紹介する予定です。
企画展「ボードゲームの世界」に合わせて、実際にボードゲームで遊んでいただくイベントを企画しました。今回は人生ゲーム(初代)、野球盤、ドンジャラ、ニューバスケットゲーム、ダイヤモンドゲーム、チクタクバンバン、そして盤双六です。
盤双六は江戸時代の盤面で現代の小道具を使って遊びます。学芸員が遊び方を解説しながら体験していただきました。
野球盤は消える魔球がないものの、直球・カーブ・シュートが選べます。ほんのわずかですが、よく見るとコースが変わっているのが確認できます。ただ、磁石が強力過ぎてヒットして跳ね返った球が守備にくっついてしまうという珍事も発生しました。
午前も午後もお客様が一番興味を示されたのは人生ゲームでした。事前に盤面を見ておりましたが、こんな内容あったっけ?と思う場面もありました。初代は最初に決まった職業でゴールまで進みますので、後に転職コースが導入されたのも納得がいきます。やはり体験するって大事ですね。あくまで仕事ですから、と自分に言い聞かせつつお客様のお相手をさせていただきました。
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なお、第2弾の7月9日(日)はまだ空きがありますので、興味がありましたらお立ち寄りいただければ幸いです。
そして小さなお知らせですが、ブログを更新したことが分かるようにトップページに更新日を追加しました。企画展の解説等も掲載していますので、できるだけ分かりやすくしたいと思い、他の館のHPを参考にして追加しました。今後もこまめに更新していきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
現在開催中の企画展「ボードゲームの世界」(~8月27日(日))をより深く知っていただくために、ブログで紹介します。
サイコロで遊ぶボードゲームと言えば「双六(すごろく)」です。子供時代に双六で遊んだ方も多いのではないでしょうか。ただ、私たちが思い浮かべる双六は紙製の「絵双六」と呼ばれるものです。それ以前は「盤双六」で遊びました。
明治時代に廃れてしまったようですが、日本に伝来したのは飛鳥時代。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも遊ぶ場面があり、この時代は白河法皇が「加茂川の水、双六の賽、山法師」だけは思うようにならないと嘆くのが有名です。海外発祥の「バックギャモン」がルーツですが、こちらは約5,000年前からあったそうです。盤面や終わり方が違いますが、それ以外はほぼ同じです。
今の双六と大きく異なるのは、サイコロを2つ使うこと、複数の石(コマ)を動かせることです。このため、サイコロの目だけでなく、どの石をどう動かすかが影響する頭脳ゲームなのです。「双六」という名前も「双=2つ」の「六」の目が出れば負けることはないことから来ているそうです。盤双六の遊び方は映像で紹介していますので、来館の際にご覧ください。なお、盤面以外は現代のものを使用しています。
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さて絵双六ですが、サイコロの目が出ただけ進むのが一般的だと思います。「回り双六」と言い、時計回りに回ったり、線などで繋いだコマを進んで行きます。
ブログで紹介するのは「新撰各県産物運送双六」(明治11~14年の間)です。京都を出発して全国各地を巡って東京に着きます。石川県もありますが、秋田県→石川県→新潟県となっています。間違いではなく、この時代は北陸三県ではないのです。そして今は無い県名もあります。気になった方は是非じっくりとご覧ください。
絵双六にはもう一つ「飛び双六」があります。マスに記された指示に従って出た目のマスへ移動します。6つの目全部に指示がないものもあり、特定の目が出るまで待たなければならないこともあります。
画像は「少年世界」の付録の「御伽草子双六」と、県内(現・羽咋市)で発行された「明正新聞」の付録です。なつかしいおとぎ話の世界を楽しんだり、昔の広告などを見ることができます。他にも複数の絵双六を展示していますので、合わせてご覧ください。
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次回もサイコロを使ったボードゲームを紹介する予定です。
昭和40年代後半頃から主役のヨロイ・カブトが大型化します。これは高度成長期を経て皆が豊かになり、広い一戸建てに住む人が増えた時代と重なります。ひな飾りの七段飾りと同様に、和室の一角に大きな五月人形を飾るのがこの時代の主流でした。
三段飾りが多いのですが、立派な飾り台を使う平飾りも登場しています。これだけ大きくなると細部を表現しやすくなり、より本物らしく金属を多用した重たいものが作られるようになりました。ただ特定の武将をモデルにしたものは少なく、緋色の「大鎧」が主流でした。この緋色は魔除けの意味があり、赤だけではなく朱色も含まれています。
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愛らしい子供大将が主役になるのもこの頃です。ヨロイは立派なのですが、面しかないので恐がる子供もいます。采配を持たせることが多いですが、弓矢を背負う勇ましい姿もあります。
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企画展「端午の節句展~平飾りから段飾りへ~」は6月4日(日)で終了となりますので、ご注意ください。また、明日3日(土)の午後は百万石行列が行われますので、市内中心地が混雑します。
6月5日(月)~9日(金)は休館で、6月10日(土)より企画展「ボードゲームの世界」を開催します。実際にボードゲームを体験するイベントなども予定しておりますので、時期が来ましたら改めてご案内いたします。
2023年5月
昔、赤ちゃんの着物は背中に縫い目がないので、悪いものに襲われたりしないように「背守り」という縫い目をつけました。本日の講座はこの背守りやつけ紐につけた飾り縫いを再現したものを縫っていただきました。
複雑な文様が多いですが、紙に穴をあけて順番に糸を通していきます。今日は小学校低学年の参加もありましたが、保護者の手を借りつつ、頑張って完成させていました。縫い針は先が尖っていない刺繍針を使っていますから、事前に穴を開ければ安心して使ってもらうことができます。
講座限定の文様もありますが、人気の物はミュージアムグッズとして販売しております。来館された際に興味を持っていただけたら幸いです。
端午の節句展の今年のテーマは「平飾り」と「段飾り」です。平飾りは床の間などに人形などをそのまま飾ることを意味し、近年は飾り台を使う場合もあります。
当館の昭和初期の五月人形は、ガラスケース入りと小さな人形を飾る場合があります。写真は神武天皇、馬上武者、金太郎、桃太郎、加藤清正です。馬上武者だけ具体的なモデルがいませんが、戦後も姿を変えて引き続き飾られています。
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昭和初期の五月人形の道具類は好みに応じて組み合わせたと考えられますが、後ろに飾る座敷幟が主役よりかなり大きいのが主流だったようです。飾り太刀や飾り馬など、今では見かけない道具もあります。
戦後に三段飾りが広まると、主役の兜を大きくして座敷幟の竿を短くすることでバランスを取るようになります。弓太刀や陣屋提灯、陣太鼓などの道具が加わり、段飾りとしての体裁を整えていきます。なお、家庭によっては平飾りにする場合もありますが、昭和20~40年代半ばまで兜飾りが人気だったようです。
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次回は大型化する五月人形について紹介する予定です。
ゴールデンウィーク後半は5連休。人出の多さに通常の光景が戻ってきたことを実感します。当館も「こどもの日」に合わせて着物体験を開催し、多くの子供たちが来館しました。去年は1日のみでしたが、今年は従来の2日間に戻しました。
やはり男の子が多いのですが、今年は市松柄の着物が大人気。昭和40年代の着物なのですが、人気アニメのキャラクターと色違いだと喜ばれております。とは言え、1着しかないのでタイミングと身長が合った時のみ着ることができます。
そんな子供たちのステキな写真を紹介します。詳細は着物体験アルバムでご覧ください。
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ゴールデンウィークになりましたね。今年はお天気に恵まれそうですが、後半は雨の予報です。当館ではお天気に左右されないように高い天井を活用してこいのぼりを展示しています。
壁面を活用したこいのぼりは群れるように固めて展示していますが、本来であれば高い所にいるはずのこいのぼりを間近に感じながら記念撮影できますので、人気のスポットです。
写真は去年のものですが、こどもの日に合わせて5月4日・5日に行う記念撮影もまだ空きがございますので、よろしければお申込みいただければ幸いです。
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2023年4月
「ひな飾り展」は終了しましたが、会期中に上映していた動画をゆっくりみたいという声をいただきましたので、you tubeに公開しました。
展示室で上映した際は3分でしたが、組み立てている場面の速度を少し落として、5分の映像に再編集しました。
今ではなかなか組み立てる機会のない「御殿飾り」を身近に感じていただければ幸いです。
you tube映像リンク
令和4年度企画展「ひな飾り展~御殿飾り~」
昭和20年代になると、御殿の柱などの地色が黒から赤に変わり、さらに華やかなものに変わりました。シャチホコは金属製になり、屋根の中央の「唐破風」には後ろ足を上げた獅子などをつけるようになります。また、屋根の両端に薬玉などを下げたりします。中でも最大の特徴は左右に独立した屋根を持つ建物を配置していることです。
今回展示した昭和中期の御殿飾りはすべて「豊寿殿」とあり、同一メーカーで作られたものですが、様々な大きさがあります。製造元の名前はありませんが、昭和28年の北國新聞に「金色の御殿」「産地は…御殿が静岡」とありますので、昭和初期に人気を博した東海地方の御殿が引き続き売られているようです。
写真は大小2種類ですが、見比べると大きな御殿は「唐破風」の奥に「破風」がつき、屋根の鎖の位置に棒のような「降(くだ)り棟鬼飾り」をつけたりして、細かい装飾があちこちに施されています。
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豪華な御殿がもてはやされる一方で、シンプルな御殿も作られました。簡単に組み立てられるようになったとはいえ、どうしても主役である内裏雛が小さくなります。この簡易型はそうした悩みを解消し、金屏風よりも華やかさがあります。
けれどもしだいに御殿は飾られなくなり、昭和40年代にはほとんどが金屏風になりました。このため御殿飾りを知る人も少なくなっています。しかし、これまで紹介してきたようにひな飾りを語る上で欠かせない存在です。当館では毎年必ず一組は御殿飾りを出すようにしていますので、今後も多くの方に見ていただければ幸いです。
企画展「ひな飾り展~御殿飾り~」は4月9日(日)で終了となりますので、ご注意ください。
4月10日(月)~14日(金)は休館で、4月15日(土)より企画展「端午の節句展~平飾りから段飾りへ~」を開催します。
当館では4月上旬までひな飾り展をしていますので、第3弾は春休みに合わせての開催となりました。
例年より早く桜が咲き、当館の駐車場脇の桜も散り始めていましたが、春らしい陽気と天気に恵まれ、多くの子供たちに来館いただきました。そんな子供たちのステキな写真を紹介します。
詳細は着物体験アルバムでご覧ください。
2023年3月
大正末期頃になると、簡単に組み立てられる御殿が登場しました。屋根は檜皮葺をイメージして茶色ですが、土台や柱などに黒漆や蒔絵が施されて、白木の御殿と大きく雰囲気が変わっています。
1つ目の御殿は小さいものですが、屋根の中央に「唐破風」がつけられ、左右に鐘形の飾り「風鐸(ふうたく)」を下げています。
2つ目の御殿は内裏雛の手前には御膳を二つ並べることができる空間がありますが、今回は見やすいように外に飾りました。蒔絵も細やかで、正面上部にはおめでたい松竹梅が描かれています。木箱には「福寿殿」とあり、先に紹介した小さな御殿も同じ店で作られた「福寿殿」であることがラベルから分かります。これらの御殿は京阪地方で作られたものと考えられます。
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3つ目の御殿は屋根が黄緑色で、シャチホコがついています。土台の木組みも「福寿殿」と大きく異なります。こちらは東海地方で作られた御殿で、どことなくお城のような雰囲気があります。黒漆に蒔絵を施しますが、欄干などに金具が多数入り、内裏雛の後ろも鮮やかな金紙が貼られています。
4つ目の御殿は建物二つを渡り廊下で結ぶ横長のものです。前回紹介した館で最も豪華な御殿を小さくするとこのような形になりますし、3つ目の御殿も第1回で紹介した檜皮葺の御殿とよく似ています。そういう意味ではオリジナルの形を継承しつつ、名古屋風に変換されたと言えます。
3つ目はラベルが欠落していますが、4つ目は「旭御殿」とあります。昭和9年(1934)のものですが、内裏雛以外のひな人形と雛道具がセット売りされており、大きさなども揃っています。ただ、雛御膳に御櫃と杓文字、湯桶が大小の台とともにつけられており、タンスなどもないことからまだ現代の七段飾りに統一されていないようです。なお、付属のひな段は五段です。
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次回は昭和中期(戦後)の御殿飾りについて紹介する予定です。
例年3月3日に合せて開催している着物体験イベントですが、今年は2月に繰り上げたため、3月は中旬の開催となりました。初日は急に冬に戻ったような天気でしたが、2日目は春らしい陽気となりました。
今回は足袋ソックスを持参くださる方が多く、ピンクの足袋などバラエティ豊かでした。そんな子供たちのステキな写真を紹介します。
詳細は着物体験アルバムでご覧ください。
館蔵品で最大の御殿飾りは二つの建物を渡り廊下でつないだものです。部品も多く、組み立てやすいように墨書で「大ノ向テ左ノヱン板前」などと記されています。部品を順番に並べてチームで作業しても、組み立てるだけで約1時間かかります。大正6年(1917)頃のもので100年近く経過しているため、うまくはまらない所もありますが、今のところ無事に飾れています。
これだけ大きな建物になると、お内裏様とおひな様だけでは広すぎるため、お世話をする女官が7人もいたり、階段下には建物を守るために武装した随身(大臣)がいます。さらに大小二つの建物の間の庭には掃除をする仕丁が6人もいます。
このため、三人官女・随身・三人仕丁は御殿飾りが登場したことによって、一緒に飾られるようになったと言われています。関西風の三人仕丁が掃除道具を持つのに対し、関東風の三人仕丁は立傘などの荷物を持ちます。五人囃子は関東で飾られ始めましたが、明治・大正期にはこれらの人形を一緒に飾るようになっています。
この御殿には現在見られない舞姫などもいますが、七段飾りの様式が整う中で、しだいに飾られなくなっていきました。
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次回は昭和初期の御殿飾りについて紹介する予定です。
ひな飾り展の今年のテーマは「御殿飾り」です。現在は博物館などでしか見ることができませんが、ひな飾りの歴史を語る上で欠かせないものです。
江戸時代後期に京阪地方を中心に登場し、最初の頃は屋根のない「御殿」でした。2枚目の写真は組み立てる途中の様子ですが、天井がないため上から明かりが入り、男雛と女雛の姿がよく見えます。「源氏物語絵巻」で描かれた「吹き抜き屋台」の構図に似ていることから「源氏枠」とも呼ばれました。
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内裏雛の「内裏」は京都の御所のことであり、その御殿を本物の建物(紫宸殿)に近づけたのが、檜皮葺(ひわだぶき)の御殿です。
ミニチュアでありながら檜の樹皮を厚く重ね、屋根の鎖や側面の懸魚などの装飾も再現されています。ちなみに鎖は消火設備の一つで、火事が起きた時に屋根の上を登っていくためのものだそうです。
屋根の下には欄間(らんま)が設けられ、その下には「半蔀(はじとみ)」があります。本来は垂木(屋根の下部)から吊り下げるのですが、金具で固定されています。三人官女がいる場所の左右には対になる「蔀戸(しとみど)」があり、半蔀を下ろすことで日光や雨風を遮ることができました。
縁側のような「廂(ひさし)の間」には欄干がつけられ、正面には階段があります。モデルとなった紫宸殿に面した庭には「左近の桜」と「右近の橘」があることから、今回は階段の左右に飾ってみました。七段飾りでお馴染の桜橘にはこのようなルーツがあったのです。
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今回の展示にあたり、「日本玩具博物館」(兵庫県姫路市)の解説を参考にさせていただきました。
次回は館蔵品最大の御殿飾りについて紹介する予定です。
2023年2月
今月11日から始まりました企画展「ひな飾り展」。毎年中央の段飾りのレイアウトを変えていますが、そんな豪華なおひなさまたちと記念撮影できるイベントは大人気です。今月より土日2日間の開催となり、より多くの子供たちが着物体験をできるようになりました。
新型コロナウィルス感染症対策で引き続き定員を少なめにしていますが、子供たちのステキな写真を紹介します。
詳細は着物体験アルバムでご覧ください。
当館では旧正月にあたる2月に加賀万歳のイベントをしています。今年も新型コロナウィルス対策のため「学校時代」で行いましたが、この部屋は音の響きが非常に良いのでより魅力的に聞こえます。
当初予定していた演目よりも数が増え、さらに小咄も加わり、気づけばあっという間に1時間近く経っていました。できるだけたくさんの演目を聞いてもらいたいという保存会の思いもあり、「皆様方の先々御栄えてお祝いの御万歳」の通り、ご繁栄を願う舞を楽しんでいただけたかと思います。
本日の演目は「式三番叟」「草づくし」「令和金沢新名所づくし」「小咄」「北陸新幹線」「金沢町づくし」「小倉百人一首」「小咄」「北国下道中」でした。
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前回の「雪遊び」は市街地周辺が舞台でしたが、今回は市内のスキー場を紹介します。
大正5年(1916)に白峰郵便局長らが雪中輸送のために新潟県高田(現・上越市)で学んだスキーを大乗寺山で披露したのが始まりとなります。その後金沢スキー会などの様々なスキー倶楽部が県内各地で創設され、しだいに広まっていきました。
大乗寺山ではこのように大正からスキーが行われましたが、畑の上を滑るため付近の農家から心配の声があがり、練習するために地主の承諾を取ったりしていました。昭和6年頃に金沢市が冬季の畑借用を交渉し、自由にスキー大会などが開かれるようになります。幅長さ共に500~600mのゆるい段々畑で、跡地は大乗寺丘陵公園となっています。
卯辰山スキー場は、昭和5年に卯辰山公園の一部と私有地を合せて幅60m長さ350m程を切り開いて作られました。急斜面でジャンプ台もあったそうです。跡地は花木園となっています。
当館では第一高等女学校の生徒の日記を所蔵していますが、以下のような記述が見られます。
昭和5年2月14日
今日は卯辰山へ雪中遠足を致しました。…山へ着いてからはスキーを使用する者、又は雪合戦をする者皆てんでに面白く、自由に一時間半程遊びました。
昭和6年1月21日
今日はスキーなんかに持つてこいの上天氣になりました。
四年生の方々が(大乗寺山へスキー(雪中遠足)に)行きなさいました。さぞ愉快だらうと思ひます。
上記以外に昭和4年にスキーを50台買い入れたこと、競技部がスキーに蝋を塗るなどしていたことが記されています。
今回紹介した写真はいずれも昭和10年代前半に撮影されたものですが、1枚目はスキー場が広いので大乗寺山ではないかと思われます。2枚目は山の中と思われます。まだスキーウェアのない時代ですので、学生服やコートなどを着て滑ったようです。
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昭和36年(1961)に青年の家の横に医王山スキー場が作られます。その後順次拡張され、現在も営業する市営のスキー場です。
この他に三小牛町に内川スキー場がありました。昭和38年(1963)に私有地を開放したもので、昭和44年(1969)に簡易リフトが作られています。
今回の展示にあたり、以下の文献を参考にしました。また、卯辰山および大乗寺のスキー場についてはSNSを通じて一般の方より情報提供をいただきました。厚く御礼申し上げます。
参考文献
大久保英哲・川崎信和・野中由美子「石川県におけるスキーの導入及び普及過程に関する研究」(金沢大学教育学部紀要(教育科学)第48号、平成11年)
『石川県スキー連盟40年史』石川県スキー連盟、1987年
『石川県スキー連盟50年史』石川県スキー連盟、1997年
企画展「雪とくらし」は2月5日(日)で終了となりますので、ご注意ください。
2月6日(月)~10日(金)は休館で、2月11日(土・祝)より企画展「ひな飾り展~御殿飾り~」を開催します。
2023年1月
前日に紹介した「氷すべり」をした「きんかんなまなま」な道、今朝博物館の周辺で発生しております。歩けないほどではないのですが、油断すると滑りますのでご注意ください。
踏み固められた雪の表面が溶けて固まると「きんかんなまなま」になりますから、降雪が納まって気温が上昇し始めると発生しやすいようです。
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ちなみにブラックバーンも発生しております。日当たりのいいところはすぐに溶けてしまいましたが、気づきにくい上、かなり滑りますので対処が難しい所です。
連日続いた降雪も落ち着き、出歩きやすい天気になってきましたが、どうぞ足元をお気をつけください。
そして溶けてきた雪がぬかるむと車のタイヤがはまりやすくなります。お車の方も運転にご注意いただければ幸いです。
なお、こちらは近所を探索して見つけたより透明度が高く滑りやすい「きんかんなまなま」な道です。日陰ですので、より危険なポイントでした。交通量が多い道路ですので、現代は車に踏み固められることも発生条件に加わると思います。
【1月31日追記】校門付近で表面がブラックバーンと化した「きんかんなまなま」な道が発生しました。これまでの写真と比べると透明度が高いですね。ある程度の日当たりも必要と思われます。
今週は「大寒」らしい寒波と雪に連日見舞われています。この季節らしい天気ですが、雪すかしでため息をつく大人と対照的に子供にとっては雪は遊びの対象となります。そんな子供たちの姿を鏡花は次のように書いています。
…「雪は一升、霰(あられ)は五合、」と手拍子鳴して囃しつゝ、兎の如く跳廻(はねまは)りて喜べり。
遊戯は「雪投」、「雪達摩(だるま)」、或は「荒坊主」と称(とな)へて、二間(けん)有余(いうよ)の大入道を作る。こは渠等(かれら)の小さき手には力及ばず、突飛(とつぴ)なる壮佼(わかもの)の応援を仰ぐと知るべし。
泉鏡花「北国空」
「二間」は畳2枚分の長さ(約3.6m)ですから、二階に届く大きさの「大入道」になります。子供だけでは作るのは難しく青年の手を借りたようですが、それだけの雪が積もったということになります。
「金沢こども遊び」(『風俗画報』第256号、明治35年9月)には、霰が降る時に「雪は一升。あらね(霰)はごん合」とあり、初雪が降る時には「爺(ぢい)さいの。婆(ば)さいの。わたぶしゆきがふるわいの。雨戸も小窓もたてさツし」と言うとあります。
また、犀星はかまくらのようなものを作った思い出を記しています。
…雪をあつめて、その雪の中に、トンネルのようなあなをほり、あなの中は、たたみ二じょうくらいの広さをこしらえ、てんじょうも、こどもの頭がつかえぬほどの高さにつくり、…そこに、みんながこしかけ、おやつ時には、みかんや、ぎんなんのみのやいたのや、なんきんまめをたべながら、あそぶのです。
室生犀星「春の雪の話」
除雪用の「こしきだ」はすでに紹介しましたが、子ども用も残されており、絵入りもあります。不鮮明なものもありますが、画像に線を入れてみると、洋服姿の男の子や女の子の絵が入っていたことが分かります。
過去の新聞記事にも着物に「こしきだ」の子供の姿があり、雪遊びに使うだけでなく、小さいながらも雪すかしのお手伝いをしていたようです。
なお、「同地(金澤)「ドヤマ」遊並に雪合戦」(『風俗画報』第208号、明治33年4月)ではたくさんの子供たちが集まって、高さニ三間の雪山を作って遊ぶことが紹介されています。
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現在は見かけなくなった「きんかんなまなま」な道も、子供たちにとっては遊び場でした。鏡花は「氷すべり」、犀星は「竹ぼつくり」として思い出を記しています。
氷辷(すべり)は盛にして、之に用うる「雪木履(げた)」なるもの…此等を穿(うが)ちて堅氷(けんぴやう)の上を走るに、さながら流るゝ如く、一二町(ちやう)は一息とも謂(い)はず、瞬間なり。
泉鏡花「北国空」
青竹と二つに割つた上に藁(わら)の緒(お)を立てて、それを穿(は)いて坂道で雪滑りをするのだ。今のスケートであらう。僕は竹ぼつくりで滑ることが下手だつた… 室生犀星「北越の雪」
「金澤の氷辷」(『風俗画報』第208号、明治33年4月)には、「街路に降雪したる雪は。悉く固結し且橇をもて貨物を運搬するを以て。一面銀板の如くに光り。平坦鏡の如くなれば。」とあり、この道を滑って遊ぶことが記されています。
一緒に紹介している竹スキーも坂道などを滑るのに使われましたが、こちらは長靴などを履いて乗り、先についたひもで操ることができます。
次回はスキー場について紹介する予定です。
冬の味覚の代表するカニ。金沢ではズワイガニのメスを食べますが、「香箱(こうばこ)ガニ」と呼びます。ちなみに福井県では「セイコガニ」と呼びます。オスと比べてかなり小さいのが特徴ですが、安いうえに内子と外子が楽しめますから、スーパーでもよく売られています。
蟹の料理では、こうばこう(紅波甲)の卵巣が美味い、紅波甲は東京でよくつかう蟹くらいの小型であつて、甲の裏に紅い卵を一杯にはらみ込んでいるが、ゆでたのを酢醤油で食べるが、比較することの出来ない美味さである。 室生犀星「鱈鮒蟹の文章」
犀星の時代は「こうばこう(紅波甲)」と呼んだようですが、内子が美味しいとしています。ちなみに現在はズワイガニのオスを「加能ガニ」と呼びます。2006年に公募した新たな名称ですが、だいぶ定着してきました。
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冬の鍋の具材として欠かせない鱈(たら)。白子も美味しいですが、真子も煮付けにして食べます。マダラの真子はスケソウダラに比べてかなり大きいのですが、スーパーで食材として売られています。
鱈の眞子は楮紙(こうぞがみ)に包んで、まるごと、少しの醤油を加減して湯煮にし、鍋を下ろして冷めた時分に輪切りにして、冷たいのを食べるが、眞子のつぶつぶも溶けるような異色であつて… 室生犀星「鱈鮒蟹の文章」
写真は昆布で巻いていますが、犀星が紹介しているのは楮紙に包んだやり方で、恐らく煮付ける時に真子を包む皮が破れるのを防ぐためと思われます。まるごと煮てから切り分けて「冷たいのを食べる」とありますが、輪切りにして煮込む場合もあるようです。大正12年から缶詰も作られており、ロングセラー商品だそうです。
脂ののった寒ブリも冬の味覚ですが、鏡花は次のように記しています。
鰤(ぶり)は冬籠(ごもり)の間の佳肴(かかう)にとて…強き塩を施したれば烘(あぶ)りて其肉を食(くら)ふさへ鼻頭(びとう)に汗するばかりなり。…多量の酒の糟(かす)をとかして濃きこと宛然(さながら)とろゝの如きに件(くだん)の塩鰤(しほぶり)の肉の残物(ざんぶつ)を取交(とりま)ぜて汁鍋の中に刻(きざみ)入れ…一家打寄りて之を啜(すゝ)る… 泉鏡花「北国空」
冬の間持つようにまるごと塩漬けにし、切り身をあぶって食べ、残った部分を粕汁に入れて楽しんだようです。ブリを塩漬けにすると言えば、「かぶらずし」に使うブリもそうです。冬の寒さで麹(甘酒)を発酵させ、正月料理として楽しみます。同じ作り方で大根と身欠きにしんを組み合わせたのが「大根ずし」で、こちらは普段のおかずとして食べられます。
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最後は「斗棒餅(とぼもち)」です。豆などを入れた餅で、細長く成形するのですが、お米などを量る「斗枡」の表面をなぞって平らにする「斗棒」に似ていることからこの名前があります。
ところで、金沢ではお餅に塩を入れます。餅を搗く時に入れるのですが、近年は餅つきを見る機会も少なくなってきていますから、塩を入れることを知らない方も多いかもしれません。ただ、既製品を購入した場合は原材料を見ると「塩」と書かれていますので、一つの目安になるかもしれません。
次回は雪遊びを紹介する予定です。
先週は非常に暖かい日が続きましたが、再び寒波が襲来するそうです。そんな冬の夜は布団の中を暖める道具が欠かせません。やはり定番は「湯たんぽ」でしょう。室町時代に中国から日本に伝わりましたが、古くは「湯湯婆」と表記しました。「婆」は「妻」のことで、夫婦で寝ると体温の差で温かく感じることから来ているそうです。
今回は明治時代の陶器製と、大正時代から使われるようになったブリキ製の2つを展示しています。中に入れたお湯は冷めてしまいますが、水道の水よりはぬるいので顔を洗うのに使ったりしました。
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長時間布団の中を暖めるのに使われたのが「ころころコタツ」です。木枠の中に火入れがあり、炭火などを入れるのですが、木枠を転がしても常に上を向くことからこの名があります。
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懐炉灰を使う大型のものもあり、「足ゴタツ」とも言いました。今回展示した懐炉灰には、18時間持つとあります。後に「豆炭あんか」が出てくると24時間保温できるようになり、広く使われたようです。
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電気行火は大正時代に登場し、しだいに温度調節ができるようになります。今回は昭和のものを展示していますが、古い物は木枠で覆われ、後に足を当てやすい形の布製に変わっていきます。
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次回は冬の味覚を紹介する予定です。
着物体験の冬編は、床の間の正月飾りと一緒に記念撮影をします。当館では2月の旧正月まで飾っていますので、まだしばらく正月気分が味わえます。今日は小学生も多く、久し振りに大きな着物を着てもらうことができました。昔遊びを楽しむ子供もいて、楽しんでいただけたようです。
新型コロナウィルス感染症対策で引き続き定員を少なめにしていますが、子供たちのステキな写真を紹介します。
詳細は着物体験アルバムでご覧ください。
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ご挨拶が遅れましたが、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
今月も引き続き企画展について紹介していきたいと思いますが、三文豪もすべての暖房器具を記しているわけではないので、今回と次回はささやかな日用品の紹介になります。
現代は部屋全体を暖めるので薄着で過ごすこともできますが、昔はこたつにあたっていても、背中が寒かったので「綿入れ」が欠かせませんでした。
1枚目は「丹前(たんぜん)」(関東では「どてら」)で、着物や寝間着の上に着る防寒着です。裾まで綿が入っていますので、きっと暖かかったことでしょう。綿の入れ具合も薄いものと厚いものがあって、好みに応じて作ったのではないかと思います。
子ども用も「綿入れ」がたくさん残されており、今回は愛らしい女児用の綿入れを紹介しています。特に赤ちゃん用は保温のために綿を厚く入れていることが多いです。
上半身だけの「綿入れ袢纏」は今でも売られています。洋服の上にも羽織ることができますから、特に省エネの観点から見直されているのだそうです。ちなみに袖がないのが「ちゃんちゃんこ」です。
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さて、寒い季節に手を暖めるのに欠かせないのが「懐炉」です。しかし、懐炉が誕生したのは江戸時代のことで、それまでは「温石(おんじゃく)」を使っていました。石を火の中に入れて熱くし、布でくるんで使いました。写真のものは穴が開いていますが、おそらく取り出す時に火箸などをここに差し込んだのでしょう。
江戸時代の元禄(1688~1704)ごろに「懐炉」が登場します。「懐」に入れる「炉」なので、保温性のある木材などを黒焼きにした「懐炉灰」を入れて火をつけて使いました。戦後も発売されていたようで、今回紹介した「懐炉灰」は現代と同じく左から右に商品名が入っています。
昭和10年(1935)ごろにベンジンを使う「白金懐炉」が開発され、現在も登山用などに使われています。
昭和50年(1975)に使い捨てカイロが開発されましたが、限られた目的に使われました。昭和53年(1978)に一般向けのものが開発され冬には欠かせないものになっています。
現在はさらに充電式のカイロも登場し、火を使わなくなっても「懐炉」は象徴的な言葉として私たちの生活の中に息づいています。
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次回は布団の中で使った暖房について紹介する予定です。