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2021年1月
歴代の卒業写真を調べると、大正13年(1924)から制服姿の男児が登場します。最初は数名でしたが、昭和に入ると着物と制服が半々になり、昭和8年(1933)にはほぼ制服になります。女児は黒紋付に袴ですが、昭和4年(1929)に洋服が登場し、後にセーラー服も現れます。
1枚目は昭和初期の小学校1年生用の制服です。戦後に現在も使われている標準服が導入されるまで、このような形のものが使われました。
2枚目は大正6年(1917)に女児が使用した防寒用のマントですが、当時は袖無しで全身をすっぽりと覆うようなものが主流でした。
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制服とともにランドセルも導入されたと思われますが、はっきりとした年代は分かりません。3枚目は館蔵品で最も古い大正13年(1924)頃のものです。
4枚目は昭和初期の女児用ランドセルで、赤・オレンジ・青の花が入っています。貴重品であったため、従姉が使用していたものを譲り受けて使用したそうです。
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中国との戦争が激しくなった昭和16年(1941)に尋常小学校から「国民学校初等科」に名前が変わり、しだいに学校教育の内容も変わっていきました。
5枚目は「投てき棒」で、手りゅう弾の代わりに投げる訓練をしたそうです。
6枚目は「携帯用国旗」で、戦争に行く人を見送る際に使いました。
戦争が激しくなると、授業どころではなくなり、運動場にさつまいもなどの畑を作ったり、避難訓練をしました。
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2020年12月
大正時代に入ると、創造性や自発性を重んじるとともに、実験や体験的な学習が取り入れられるようになりました。
1枚目は大正8年(1919)の教科書「尋常小学算術書 第四学年」です。写真は文字が読みにくいですが、下に「文部省」とあり、国定教科書であることが分かります。
2枚目は大正7年(1918)の4年生の通知表ですが、国語が読方・綴方(つづりかた=作文)・書方の3つに分かれ、平均で評価されたようです。綴方だけ国定教科書がなく、教師の裁量で行われました。また、社会ではなく日本歴史と地理に分けて学んでいました。
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大正時代に導入されたスウェーデン体操。現在も体育館の片隅などにある「肋木(ろくぼく)」は代表的な補助器具でした。3枚目は昭和6年(1931)に旧・長土塀小学校で撮影されたものですが、体育館の中に10個以上並んでいます。
4枚目は旧・芳斎町小学校で保存されていた木製のアレイですが、両腕に持ってスウェーデン体操をしたそうです。他の小学校のアルバムにも体育設備を紹介しているものがあり、体育に力を入れていたことが分かります。
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5枚目は石引町小学校(現・小立野小学校)の理科室の写真絵葉書で、昭和6年(1931)頃のものです。奥が高いので階段教室として作られていることが分かります。
理科が必修になったのは明治40年(1907)のことで、4年生から学びました。このため理科室の多くは大正以降に作られたので、記念絵葉書として残ったと思われます。
当館は明日29日より年末年始の休館となりますので、ご注意ください。
◆年末年始休館のお知らせ◆
12月29日(火)~1月3日(水)
現在の校名の多くは所在地に由来しますが、明治初期には古語・漢語の校名が多くありました。
1枚目には「格致小学校」の文字が入っています。横安江町にあった女児校で、儒学の「格物致知(かくぶつちち)=事物の理を探求する行為」の略語を採用したと思われます。後に旧・松ヶ枝町小学校に合併されました。
2枚目は「勤成小学校」(後の旧・長町小学校)の印ですが、こちらは造語と思われます。この他に「養成」「精錬」「観成」「淳正」「清貞」など多くの校名がありましたが、明治18年(1885)に地名に変更されました。
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当初4年間だった小学校ですが、通学が難しい児童もいたため、3年間でも卒業することが認められた時代がありました。3枚目はその時代の明治28年(1895)の卒業写真で、幼い顔つきの子供たちが並んでいます。
明治33年(1900)に4年間必修になり、同40年(1907)に6年間に延長されました。この頃にはほとんどの子供たちが小学校に通うようになりましたが、義務教育は6年間だけで卒業後は進学せずに働く方が多いようでした。
企画展「昔の小学校~寺子屋から昭和まで~」(~2月7日)の展示品を、テーマに分けてご紹介します。
江戸時代に子供たちに読み書きなどを教えた「寺子屋」は寺や個人宅で行われ、11~12歳から15~16歳まで学びました。寺子屋によって教える内容が異なり、習字を教えることが多かったようです。
1枚目の机は自宅で指導に当たった女性が使用したものです。当時の生徒は自分達で机や文房具などを用意し、授業が終わると隅に積んだそうです。
2枚目は寺子屋で使われた読本です。百人一首などが紹介されており、いろんな知識を得ることもできました。
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明治3年(1870)に、全国に先駆けて金沢藩が「小学所」を設立しました。金沢町は6ヶ所でしたが、翌年には11ヶ所に増えました。7~8歳から14~15歳の男児が毎月2日に入学し、上等・下等に分かれて学びました。毎月の試験に合格すると等級が上がる、授業料を納めるなど、現在とは異なる仕組でしたが、多くの人が学びました。
明治5年(1872)の学制で小学校教育が始まり、6歳から13歳までの上等・下等8年で読書・習字・算術・縫針を学びました。市内各地で多くの小学校が設立されましたが、当初は個人の家や寺などを学校代わりにし、後に校舎が建てられました。
今回の展示では市内の小学校にご協力いただき、明治の貴重な教科書を展示しています。初期の教科書はアメリカの教科書を翻訳したりしましたが、明治19年(1886)から検定制となり、明治36年(1903)に国定にかわるまで民間で教科書が作られました。3枚目はその時代の教科書です。
4枚目は明治40年(1907)の3年生の通知書で、修身・国語・算術・体操・図画・唱歌・手工(工作)・操行(ふだんの行い)で評価されていたことが分かります。
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2020年11月
大正から昭和中期にかけて市街地を走った市電を紹介する企画展「市電が走った時代」は、ついに11月15日で終了です。
沿線などの風景写真も多数展示していますので、じっくりと見ていかれる方が多いです。気温も高めの日が続きそうですので、お時間がありましたらぜひご来館ください。
次回の展示は、小学校をテーマに寺子屋から昭和にかけての教科書や学用品などを紹介する予定です。
展示替え休館 11月16日(月)~11月20日(金)
企画展「昔の小学校~寺子屋から昭和まで~」
令和2年11月21日(土)~令和3年2月7日(日)
2020年10月
大好評の企画展「市電が走った時代」(~11月15日)、あと2週間となりました。今回は乗客が使った切符編です。
1枚目は昭和初期の切符ですが、当時は松金線(松任~金沢)が香林坊まで直通運転していたため、右下に「泉」「有松」とあります。
下の切符はバスの乗り継ぎも対応しているため、複雑な路線図になっていますが、当時の交通事情を知ることができます。
2枚目のカラフルな切符は年末年始の初詣に使われた切符で、毎年デザインが変わりました。特に注目していただきたいのは、当時の社名です。
左上ー金沢電気軌道(市電開業~昭和16年)
右上ー北陸合同電気(昭和16~17年)
下(2枚とも)―北陸鉄道(昭和17年~)
日中戦争の影響でこのような社名の変遷があったことを知ることができます。
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3枚目の回数券は戦前から発行されてきましたが、戦後は物価の上昇などで料金が変わり、デザインも変更されました。
4枚目は市電の廃止記念に発行されたもので、多くの人が記念に残しています。
「金沢ナイトミュージアム2020」にて撮影された当館の紹介動画が公開されましたので、お知らせします。
館内の様子や、現在開催中の企画展「市電が走った時代」などをご覧いただけます。
You Tube「vol 13 金沢くらしの博物館を訪れる」へのリンク
https://www.youtube.com/watch?v=yUPtSjLVqzI
金沢ナイトミュージアム2020へのリンク
https://www.nightkanazawa.com
このたび当館の建物である「石川県第二中学校」(国重文)が明治32年(1899)に完成した当時の貴重な写真が寄贈されましたので、10月10日より25日まで玄関ホールにて公開します。
この写真は、建物の建築工事を請け負った福井の土岡名右衛門(なうえもん)が所蔵していたもので、孫の秀一氏が発見しました。尖塔の小窓、左手の生徒控所、校門の守衛所など今は失われた細部意匠や学校施設を見ることができます。
なお、公開期間終了後はパネルにて紹介します。
2020年9月
現在開催中の企画展「市電が走った時代」(~11月15日)の展示品を、テーマに分けてご紹介します。
市電(路面電車)が金沢で開業したのは大正8年(1919)で、金沢駅~兼六園下を結びました。以後路線を増やしていきますが、工事に伴い道路も拡張され、大きく風景が変わりました。
1枚目は「第二中学校前」(現・くらしの博物館)ですが、開業を祝う花電車が写っています。
戦後も市民の足として広く利用され、2枚目の「石浦町」に写る大型の車両が導入され、既存の青電車に対して赤電車として親しまれました。
3枚目は「片町」の電停ですが、当時は道路にホームがある場所は限られ、写真のように車の間を通って市電に乗りました。
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4枚目は「香林坊交差点」ですが、中央に円形の構造物があり、中にいる職員が市電の行先に合わせてポイントを切り替えていました。地元の人は「でべそ」と呼んで親しみました。
2020年8月
子供から大人までの美しい紋付着物や、人間国宝・木村雨山が使用した道具や下絵などを紹介する特別展「ハレ着の美と職人道具」は、明日8月30日で終了です。
厳しい残暑で気温が高い日が続きますが、お時間がありましたらぜひご来館ください。
次回の展示は、昭和42年まで市内を走っていた「市電」や当時の街並み・観光地などを紹介する予定です。
展示替え休館 8月31日(月)~9月4日(金)
企画展「市電が走った時代」
令和2年9月5日(土)~11月15日(日)
今年も2階廊下で、館蔵品の着物を「虫干し」風に展示しています。見上げる形になりますが、様々な年代の子供用の着物がたくさん天井からぶら下がっていますので、見た目にも楽しめると思います。
なお、奥に進むと大人用の着物も数枚あります。9月下旬まで展示する予定ですので、ご来館の際に見ていただければ幸いです。
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2020年7月
現在結婚式や茶道などに使われる「訪問着」は大正初期に生まれたもので、昭和初期頃まではこのような紋付着物が主流でした。
1枚目は色留袖に見えますが、袖が少し長く裏地に赤が使われていることから振袖と考えられます。2枚目は着付けする前の様子ですが、裾模様が左右対称に染められていることが分かります。
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3枚目も振袖ですが、麻で作られた貴重な夏の紋付着物です。「戦前のくらし」で展示していますが、近くでご覧いただくと生地の透け具合を見ることができます。袖には老夫婦の生活を表す絵柄が染められています。
4枚目は留袖ですが、かつては襦袢の上に2枚重ねて着ました。5枚目のように表は白を基調とした裾模様ですが、下襲(したがさね)は色鮮やかに同じ模様を染めています。歩く時などにわずかに見える程度のおしゃれですが、このような時代もありました。
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毎年夏には「蚊帳(かや)」を展示していますが、今年は新型コロナウィルス対策のため、襖(ふすま)を「簾戸(すど)」に変えて夏らしさを演出しています。
ふだんは1枚目のように開けていますが、2枚目のように閉めても風を通してくれるので、家の中を涼しくしてくれます。
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縁側には「簾屏風(すだれびょうぶ)」を置いています。庭からの日差しを遮りながら、風を通してくれます。今ではあまり使われなくなった昔の夏用品に親しんでいただければ幸いです。
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