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2025年2月
最初にビデオカメラが発表されたのは昭和41年(1966)のことで、当時は白黒用でした。昭和44年(1969)にはカラー用が発表され、しだいに一般の方も使うようになっていきます。
今回展示しているのは昭和50年代後半のものです。いかにもテレビ局が使うような立派なカメラなのですが、長いケーブルの先はビデオデッキにつながっており、こちらで録画しました。このため、ビデオデッキを左肩から下げて右肩にカメラを構えるか、ビデオデッキを置いてケーブルが届く範囲で撮影するかということになりますが、それでも8ミリカメラと違って現像も不要なので人気があったようです。
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昭和58年(1983)にビデオテープ内蔵型が登場しましたが、当時のビデオテープには「ベータマックス」と「VHS」の2種類がありました。ボディが白い方がβマックス用です。後にVHSが主流となりますがこの時代は人気がありました。それでもビデオテープですから、当然本体も大きいままです。
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テープが小型化したのは昭和57年(1982)に発表された「VHS-C」からで、2年後に発表された「8ミリビデオ」が主流になるまで使われていました。これによってビデオカメラも小型化が進んでいきます。あいにく8ミリビデオは所蔵していないのですが、VHS-C対応のビデオカメラは展示していますので、その大きさを比較することができます。
近年までよく使われていた「miniDV」は平成6年(1994)に発表された規格で、さらに一回り小さくなります。最後の写真は博物館で使っていたビデオカメラですが、立派なバッテリーライトもついており、夜のお祭りなどにも活躍したと思われます。後にハードディスクやSDカードに記録するようになり、より長時間録画できるようになりました。
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企画展「昔のカメラ」は2月9日(日)で終了しますので、ご注意ください。
2月10日~14日は展示替えのため休館し、次回は企画展「ひな飾り展~平飾りから段飾りへ~」(2月15日~4月13日)を開催します。
金沢市の無形民俗文化財である「加賀万歳」。当館では2月の旧正月に合わせて実演をお願いしています。近年はコロナ禍のため「学校時代」に特設した会場で開催していましたが、久しぶりに「戦前のくらし」の座敷を舞台にしました。
写真撮影OKということで、お客様にたくさん撮影していただきましたが、保存会の方からも座敷だと雰囲気がいいとのお言葉をいただきました。
今回は最初に必ず舞われる「式三番叟」、色んな草花が出てくる恋物語の「草づくし」、金沢の旧町名が多数出てくる「金沢町づくし」、現代の金沢を巡る「令和金沢新名所」、そして笑い話の「小咄」から金沢~江戸までの道中の「北国下道中」を披露していただきました。
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2025年1月
今回は動画を撮るカメラを紹介します。かつて「8ミリフィルム」という規格があったのをご存じでしょうか。カメラで紹介した35mmミリフィルムは映画のフィルムを転用したもので、さらに細い16ミリフィルムがあります。この16ミリを半分に裁断したのが8ミリフィルムで、昭和7年(1932)にアメリカのイーストマンコダックが発表したものです。
写真は館蔵品の8ミリフィルムのケースを時代順に並べたものですが、子供のイラストなどが入っています。家庭で子供の成長を記録するために使われることも多かったのでしょう。唯一未使用の16ミリフィルムがあったので、比較用に3本並べて撮影しましたが、右端は穴の位置が異なっています。これは昭和40年(1975)に登場した「シングル」で、画面の大きさが約1.5倍になっています。それ以前のものは「ダブル」と呼ばれました。
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国産の8ミリカメラが登場したのは昭和30年(1955)のこと。写真はその年に2番目に作られたエルモ社(名古屋)の「エルモ8-A」です。下は握りやすい形状になっていますが、本体にかなりの厚みがあります。「ダブル」は16ミリフィルムに縦に半分ずつ撮影する必要があるので、本体も厚くなるのです。
もう一つはチラシに掲載した昭和35年(1960)頃発売の八重洲光学精機の「ヤシカ8EⅢ」です。レンズがたくさんついたターレットを回して使うレンズを選びました。この時代はスプリングを巻いてフィルムを回しましたので、向かって左側に特徴的な半円形のハンドルがついています。
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「シングル」を使うようになるとカメラが薄型になり、写真の昭和48年(1973)に富士フィルムが発売した「フジカAX100」のようなシンプルなものも作られます。しかも「暗さに強い」「誰でもかんたん」が当時のキャッチコピーでしたから、ずいぶん手軽になったのではないでしょうか。
もう一つはエルモ社が昭和49年(1974)に発売した「エルモスーパー106」です。6倍ズームで、露出もオート機能がつき、フィルムも手動ではなく電動(電池)で動くようになりました。
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こうしたカメラを使って撮影する人にとって欠かせなかったのが、「エディター」です。フィルムを装填して拡大した映像を確認しながら、編集をしました。フィルム1本につき約3分しか撮影できないので、専用のテープでつないだりしました。
そうして完成したフィルムを上映するための映写機も欠かせませんでした。当時はまだビデオテープが一般的でないので、映画などを8ミリフィルムにしたものも発売され、家庭で楽しむこともあったようです。写真はエルモ社の「エルモST-160」で、昭和40年代と考えられます。
なお、昭和49年(1974)に音も同時録音できる8ミリカメラが登場しますが、それまでは基本的に無音で上映の際にオープンリールのテープに録音した音声などを同時に流すことが推奨されていました。
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次回はビデオカメラについて紹介する予定です。
現代は撮った写真をその場で確認することができます。そんな当たり前のことが初めて可能になったのは、昭和23年(1948)にアメリカで発売された「インスタントカメラ」でした。原理を開発・実用化したポラロイド社の名前から「ポラロイドカメラ」ともが呼ばれます。
写真は昭和36年(1961)発売の「ポラロイド120」で、ポラロイド社から委託されたヤシカが製造した日本版です。蛇腹がついており、レトロな見た目となっています。
もう一枚は昭和61年(1986)に富士フィルムが発売したインスタントカメラ「F-508」で、収納式の前カバーを引き上げて撮影します。ストロボもついており、色んな場面で活躍したと思われます。
そんなインスタントカメラで撮った写真ですが、余白にコメントを書き込んだりした方もいるのではないでしょうか。また、現像がうまくいかないこともあったようで、左の写真は右端がすこしにじんでいます。
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そして昭和60年代のカメラを語る上で欠かせないのが使い捨てカメラ(レンズ付きフィルム)です。富士フィルムが昭和61年(1986)に発売した「写ルンです」は安価で、駅などの売店で手軽に購入できたこともあり幅広く普及しました。子供たちが修学旅行の写真を撮るなど、気軽に使えるものでした。
けれども過去にはもっと小型な「ポケットカメラ」が作られていました。この使い捨てカメラや第4回で紹介した「オリンパスペン」は35ミリフィルムを使用しますが、さらに小さなカートリッジ式のフィルムが存在しました。
赤い紙箱は小西六写真が発売したさくらカラーの「126フィルム」で昭和40年代半ばのものです。コダックが昭和38年(1963)に発表した規格で、35ミリフィルムと同じ幅で正方形の写真を撮影することができました。カートリッジのままカメラから出し入れするので、初心者でも交換が簡単でした。
この126フィルムをさらに小型化したのが「110フィルム」です。昭和47年(1972)にコダックが導入した規格で、16ミリ幅のフィルムがカートリッジに入っていました。
写真は昭和47年(1972)にコダックが発売した「ポケットインスタマチック」です。その名の通りポケットに入る大きさで気軽に持ち運びできました。
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しかしながら、これらのカメラはデジタルカメラが主流になると姿を消していきます。デジタルカメラは平成2年(1990)に登場し、平成7年(1995)に液晶パネルがつくなど少しずつ進化し、平成14年(2002)にフィルムカメラとデジタルカメラの出荷数が逆転しました。
写真は平成11年(1999)にオリンパスが発売した「C21」で、薄い「スマートメディア」に記録しました。さらに平成14年(2002)のニコン「クールピクス4500」は「コンパクトフラッシュ」、もう一枚の平成18年(2006)の富士フィルム「FinePixF30」は「XDピクチャーカード」で、記録媒体の変化もたどることができます。
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次回は8ミリカメラや映写機について紹介する予定です。
現代のカメラは「ミラーレス」がしだいに定着し、小型で高性能なものが手に入れやすくなっています。今回はかつてはカメラに欠かせなかった「ミラー」の話です。
撮影するためにはアングルを決めなければなりません。このためにレンズの脇にファインダーなどがつけられ、その中に被写体が入っているか確認してからシャッターを切ります。
しかしながら、レンズの脇だとどうしても少しアングルがずれてしまいます。これを解決するために鏡を内蔵し、撮影する時に動くようにしたのが「レフレックスカメラ」です。イギリスで発明され、1861年に特許が取られています。
写真のカメラは大正13年(1924)にイギリスで発売された「TPジュニアスペシャル」(ソルトン・ピッカード)で、手に入れやすい価格だったようです。上についている大きなカバーから下をのぞきこんでアングルを確認しました。
35ミリフィルムの一眼レフは、昭和11年(1936)にドイツの「キネ・エクサクタ」(イハゲー)が最初です。ルーペを内蔵して小さなミラーの映像を確認できるようにしたことで、小型カメラでも一眼レフが可能になりました。
戦後になるとしだいに35ミリフィルムのカメラの愛好家が増えていき、さらに多くの一眼レフカメラが使われるようになっていきました。写真は昭和35年(1960)にキャノンが発売した「キャノンフレックスRP」で普及型です。もう一枚は昭和39年(1964)に旭光学工業が発売した「アサヒペンタックスSP」です。こちらは露出を制御する電子回路を搭載しており、カメラ初心者でも使いやすいと全世界で400万台以上売り上げるロングセラー商品となりました。
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後にオートフォーカスも搭載され、ボディも黒一色に変わっていきます。写真は平成元年(1989)にニコンが発売した「ニコンF401」です。外付けストロボも電池で発光するようになり、機能も充実してきました。
実はこのカメラは博物館で実際に使用していたものです。現在はデジタルカメラに変わりましたが、資料の記録、市内の祭礼行事や風景を撮影したりと様々な場面で活躍しました。
という訳で、中判カメラのコーナーに「博物館で使われたカメラ」として昭和51年(1976)発売の「アサヒペンタックス6×7」と平成5年(1993)発売の「マミヤRZ67プロフェッショナルⅡ」を展示しています。
博物館だからこそこのようなカメラが購入され、そして資料になったと言えるかもしれません。これもまた一つの歴史として後世に残したいと思います。
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次回はインスタントカメラについて紹介する予定です。
寒波が続いていましたが、イベント当日は貴重な晴れ間となりました。子供たちに金沢の伝統の正月遊び「旗源平」を着物姿で楽しんでいただきました。
最初は白旗(源氏)がいい目をたくさん出し、この勢いのまま勝つのかと思いきや、中盤は「カンカントウ」(ゼロの目)が続き、子供たちのテンションもダウン。しかし、終盤には赤旗(平家)が「ウメガイチ」(中旗1本、もう一度振る)などいい目がたくさん出て、盛り上がる中決着がつきました。今年は長丁場になりましたが、最後まで頑張った子供たちに拍手です。
そんな子供たちのステキな写真を紹介します。大きな写真は着物体験アルバムでご覧ください。
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募集開始の数日前にHPに詳細を掲載しますので、近づきましたらチェックしていただければ幸いです。
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
さて前回紹介した「35ミリフィルム」を使うカメラですが、まずは小型カメラ(コンパクトカメラ)に焦点を当てたいと思います。写真は昭和32年(1957)に発売された「小西六コニレットⅡ」です。スプリングカメラと同じ蛇腹がレトロな感じがしますが、初心者用だそうです。
すでにこの時代は現代と同じようなレンズが登場していますので、昭和35年(1960)発売の「オリンパスペンS」はまさに昭和レトロなカメラといったところでしょうか。「オリンパスペン」は1枚のフィルムの半分に写す=2倍の枚数が撮影できる「ハーフカメラ」であり、当時はまだ高級品だったカメラを毎日持ち歩く筆記用具のように気軽に使ってもらうことを目指したものでした。
もう1枚の写真は翌年36年(1961)発売の「オリンパスペンEE」です。「自動露出機能(EE)」がついており、レンズの周りのプラスチックの奥のセレン受光素子(光センサー)で明るさを判定し、露出(絞り)を自動的に決めてくれるのです。このため誰でも簡単に美しい写真が撮れるとして人気がありました。
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そしてもっと手軽に撮るために昭和40年(1965)にキャノンが開発したのが「オートフォーカス(AF)」機能です。昭和52年(1977)にコンパクトカメラで実用化され、以後欠かせない機能となりました。写真は昭和56年(1981)にキャノンが発売したオートフォーカス全自動カメラ「AF35ML」です。
もう1枚の写真は平成8年(1996)に京セラが発売した「ULTIMA200」で、見た目がずいぶんスリムになっています。
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こちらのカメラは背面上部に切り替えスイッチがあり、「C」「H」「P」の3種類があります。基本はHのハイビジョンサイズ(縦9:横16)で、Cはクラシックサイズ(縦2:横3)でHの左右をトリミング、Pはパノラマサイズ(縦1:横3)でHの上下をトリミングする形で撮影します。
今もパノラマ写真はありますが、探してみたところ写真の2種類が見つかりました。いずれも平成に撮影したもので、少し短いパノラマ写真も流行したようです。ちなみに左下のセピア色の写真は専用フィルムで平成に撮影したもので、通常のプリントサイズですがレトロ感があります。
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ところでいつからカラー写真が当たり前になったのでしょうか。カラーフィルムは昭和10年(1935)に発明されたのですが、普及するまでかなり時間がかかり、昭和40年(1965)はまだカラーは10%前後でした。それが昭和45年(1970)に40%、その後数年で80%近くになり急速に普及していきました。
次回は一眼レフカメラについて紹介する予定です。
2024年12月
前回紹介した「フィルム」ですが、大半の方がイメージするのは35ミリフィルムではないでしょうか。写真は複数のフィルムを並べてみたものですが、上の2枚続きが「ブローニーフィルム」で、下の35ミリフィルムと比べるとかなり大きいです。なお、左下はモノクロ(白黒)用なので、カラー用と色が異なります。
けれどもガラス乾板の「大名刺判」が6.5×9㎝で、フィルムの「ブローニー判」が6×9㎝なので、この大きさになるのは自然な流れだったかもしれません。35ミリフィルムは映画のフィルムを転用(2コマ分で1枚)したので上下に穴があります。このフィルムを使ったのがドイツのライツ社が大正14年(1925)に発売した「ライカ」で、小型カメラの代表とされるほどでした。ただ当初は35ミリフィルムが市販されておらず、昭和7年(1933)に店頭でフィルムが販売されるようになると、広く使われるようになります。
ところで、写真のブローニーフィルムは正方形に近い「6×6判」で、同じ「ブローニー判」だと8枚しか撮影できませんが、こちらだと12枚も撮影できました。さらに「ブローニー半裁判」(セミ判)は4.5×6㎝で16枚撮影と、同じフィルムでもカメラによって撮れる枚数が異なるということになります。
いずれにしても、一辺が6㎝もありますから紙箱も横長になります。そしてブローニーフィルムの最も特徴的なのが上下に穴がないということです。上に数字が入っているので、カメラの背面の窓から確認しながら巻いたそうですが、感光するリスクもありました。
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続いて35ミリフィルムの紙箱を2種類紹介しますが、白い箱は平べったくなっています。黄土色は現代の箱に似た感じですが、やや低い形になっており、「イージーローディング(軸付)」とあります。私たちが知っているフィルムはカートリッジに収納されているのですが、かつては自分で軸に巻く必要があり、感光しないように暗室で作業しないといけませんでした。
フォトアート臨時増刊『35ミリカメラ全書』研光社、昭和28年(1953)には、マガジンへのフィルム収納方法が紹介されており、マガジン入りのフィルムを「パトローネ」とも言うとしています。マガジンやパトローネに収納されたものは感光の心配がないので、カートリッジと同様に扱うことができたようです。
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こちらは「さくら反転フィルム」です。「幻燈用」とありますが、ピンとこない方も多いと思います。英語では「REVERSAL FILM」、ネガフィルムに対してポジフィルムとも言います。
基本的に写真のフィルムはネガ(白黒反転)であり、見たままの画像にするためにはこのフィルムを使う必要があります。幻灯すなわちスライドはかつて学校教育や会議・講演会などで広く使われていました。現代の「スライド」はパソコン用ソフト「パワーポイント」で作ることができますが、かつてはこのようなフィルムを使っていました。
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最後に珍しいものを紹介します。「電話度数計撮影用フィルム」で、110枚も撮影できたようです。当時は電話料金を記録するためにメーターを毎月撮影し、手入力で料金計算をしていました。1枚しかないので、臨時の仕事で撮影したのかもしれません。
フィルムの紙箱から思いのほか色々なことが分かり、貴重なコレクションであることが改めて再認識できました。
次回は小型カメラについて紹介する予定です。
なお、博物館は12月29日から1月3日まで年末年始休館となりますので、ご注意ください。皆様にとって良い年になりますよう祈念しております。
前回紹介した「ガラス乾板」ですが、写真館などで撮影する場合は1枚ずつ使えるという利便性がありましたが、旅先などで何枚も撮りたいという人には重たくて割れやすいという欠点がありました。
そこで明治33年(1900)に登場したのがフィルムです。軽くて柔らかいセルロイド(初期)に感光材を塗り、長いフィルムを巻いて使うことで連続撮影が可能になりました。
写真は大正3年(1914)に発売されたアメリカ製の「1-A AUTOGRAPHIC」(コダック)で、前回紹介した「ハンドカメラ」と大きく違うのは、台座の下についた金具です。フィルムを巻く部分を背面に入れる分、レンズを底上げする必要があり、前蓋に折りたたみできる金具がついています。引き出す際はレンズの下にある金具を押して、レールの上を移動させます。
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このロールフィルム用のカメラは別名「スプリングカメラ」とも呼ばれます。それは前蓋に開閉用のボタンがあり、スプリングの力で前蓋が開き、レンズが飛び出して撮影位置につくことからです。(鈴木八郎著『アルス大衆写真講座1 カメラの知識と選び方』アルス、昭和12年)
館蔵品だと昭和10年代のものがこの条件に該当します。写真は昭和12年(1937)に発売されたドイツ製の「ウェルタ・ペルレ」で、今でもボタンを押すだけでスムーズに開きます。こちらは本体にレリーズ(シャッターボタン)がついており、写真は指で押しているところです。というのも、この時代はレンズの側面にシャッターボタンがついているのが普通なので、当時の最新式として人気があったのではないでしょうか。
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今でも「一眼レフカメラ」は使われていますが、かつては「二眼レフカメラ」というものがありました。上下に並んだレンズが特徴的ですが、上のレンズで被写体を見ながら下のレンズで撮影します。反射鏡が固定されているので狂いが少ないそうです。
大型のものは明治14年(1881)に発売されていますが、フィルムを導入することで小型化し、さらにレンズを近づけることが可能になりました。昭和3年(1928)から発売されており、今回紹介するのは昭和29年(1954)発売の「ヤシカフレックスA2」(八洲光学精機)です。
上からファインダーをのぞきながら撮影するので、胸の前に構えて撮る必要があります。ずいぶんと特徴的なカメラですが、レンズが交換できないのが大きな欠点となり、廃れてしまったようです。
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次回はブローニーフィルムと35ミリフィルムについて紹介する予定です。
現在開催中の企画展「昔のカメラ」(~令和7年2月9日(日))をより深く知っていただくために、ブログで紹介します。
日本にカメラが持ち込まれたのは江戸時代末期ですが、当時は画像を定着させる技術が難しく、限られた人しか撮影することができませんでした。
世界的に広く撮影するようになったのは、感光材料をガラスに塗って乾かした「ガラス乾板」が開発され、明治11年(1878)に工場で大量生産できるようになったことが大きいです。
写真は明治10年代に撮影したものとされていますが、紋付を着た女性と、洋傘を手にした女児が写っています。このような木箱に入れることで、ガラスが割れないように保護していたようです。
当館では市内の小学校の卒業写真を所蔵していますが、最も古いのが明治28年なのでその頃から紙焼きにして台紙に貼って保存するようになったのではないかと考えています。
そんな集合写真は大きなガラス乾板で写す必要がありましたので、木製の「組立暗箱」が使われました。いわゆる蛇腹カメラですが、土台が畳めるようになっています。ただ、このまま使うとガラス乾板を入れる時に感光してしまうので、黒布をかけます。金属製のものは昭和30年以降に作られた「レトリック・ビュー」(武蔵野光機)でガラス乾板ではなくシートフィルムを使いました。
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しかしながら、組立暗箱は本体が重たいので、三脚が必要になり手軽に撮影できるように小型化したのが「ハンドカメラ」です。
使えるガラス乾板の大きさも小さくなりますが、それでも十分な大きさがありますので、問題なかったでしょう。
最初に紹介するのはドイツ製の「ミニマム・パルモス」です。明治36年(1903)にカール・ツァイスで作り始められ、後にイカ、ツァイス・イコンと会社名が変わる中作り続けられてきたものです。プレスカメラとして広く使われたそうですが、写真のものはイカ製で、大正15年(1926)にツァイス・イコンに名前が変わるので、大正末期と考えられます。
日本では小西六本店(現・コニカミノルタ)が明治36年(1903)に初めてアマチュア向けのカメラを販売しています。写真は大正15年(1926)発売の「№1 アイデア」で、ドイツ製のカメラをモデルにしています。「ミニマム・パルモス」は蛇腹を引き出す際に上下各2本のガイドに合わせるのですが、バランスよく引き出すのが難しく不安定なところがあります。こちらは蓋にレールがついているため、きれいに前に引き出すことができます。以後、このような形のカメラが主流となっていきます。
また、未使用品の小西六「さくらパンクロF乾板」も展示しています。もう一つ英語表記のものもあり、輸出用かもしれません。
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次回はスプリングカメラと二眼レフカメラについて紹介する予定です。
気温高めの日々が続いていましたが、週末は寒波襲来。日曜日の朝は霰で路面が白くなった地域もありました。そんな中、子供たちは元気に来館し、着物姿で記念撮影を楽しんでいました。
そんな子供たちのステキな写真を紹介します。大きな写真は着物体験アルバムでご覧ください。
次回は1月12日(日)に「着物で旗源平」(12月17日(火)9時30分受付開始)を開催します。こちらは6歳以上のこどもが対象となります。
通常の着物で記念撮影は2月22日(土)・23日(日)(2月11日(火)9時30分に受付開始予定)に開催します。2月~4月の着物体験は企画展「ひな飾り展」に合わせていますので、たくさんのおひな様と記念撮影できます。
いずれの着物体験も募集開始の数日前にHPに詳細を掲載しますので、近づきましたらチェックしていただければ幸いです。
11月30日より「ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」と石川県のコラボスタンプラリー第3弾が始まりました。
当館には百生吟子さんがいらっしゃいましたので、来年3月2日まで玄関ホールで記念撮影することができます。今回の衣装は「加賀ゆびぬき」「加賀てまり」「金沢箔」などをモチーフとしているそうです。
時間帯によってはスタンプ・撮影される方が並ぶこともありますが、展示室内はそれほど混雑していませんので、ゆっくりご覧いただけるかと思います。
蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブの公式Xはこちら
2024年11月
現在も憧れの存在である「宝塚歌劇団」は、大正3年(1914)に初公演を行いました。大事に保管されていた写真絵葉書には「〇〇様から送らる」と記されており、劇団の美術部に所属した平井房人の絵草紙もあります。
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大正14年(1925)内灘に大劇場・食堂・旅館・大浴場・動物園・野球場・相撲場等を備えた「粟ヶ崎遊園」が作られました。この大劇場で大衆座と少女歌劇団が公演を行い、「北陸の宝塚」と呼ばれるまでになりました。特に昭和9年(1934)以降スターを輩出し、当時の女学生も多く訪れたことでしょう。
以下、昭和4年(1929)8月1日の日記を紹介します。
今日粟ヶ崎へ行つて来ました。
朝九時頃家を出て市内電車に乗り金澤驛前の粟ヶ崎の停車場に着きました。
大變多勢の人數だつたので私達は一電車おくれて次の電車に乗つて行きました。
海へ着いて晝食をすまして三十分位海へ入り、それから電車にて本館へ来ました。
此處でゆつくり休みました。
そしてお湯へ入つて塩氣をなくしました。
午後の二時頃から芝居が始まりました。
芝居の中で一番面白かつたのは「夏のおどり」といふのでした。
夕食はあすこの食堂で食べて來ました。
八時頃粟ヶ崎をたつて来ました。
当時の新聞によれば「夏のおどり」は人気の演目で、五景が行われて盛りだくさん内容だったようです。今回は遊園の案内図、雑誌「粟崎」、壬生京子のプロマイド写真を展示していますが、内灘町歴史民俗資料館「風と砂の館」より当時の写真をお借りしました。こちらの館では常設展示で粟ヶ崎遊園について紹介していますので、この機にご覧いただければ幸いです。
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特別展「金沢の女学生」は11月24日(日)で終了しますので、ご注意ください。
11月25日~29日は展示替えのため休館し、次回は企画展「昔のカメラ」(11月30日~令和7年2月9日)を開催します。
現在も楽しみの一つである「修学旅行」。当時は県外になかなか出れなかった時代ですから、女学生にとっては一大イベントでした。
金沢駅が開業したのは明治31年(1898)、北陸女学校では明治40年(1907)に高岡まで初めての汽車旅行をしています。翌年は動橋、その次の年は和倉で初めて一泊したそうです。大正15年(1926)には大津・京都・奈良・山田(伊勢)を8日間かけて回っています。
写真は第一高女が、昭和8年(1933)に8日間かけて伊勢・奈良・高野山・大阪・京都を回った時の旅行日誌と日程表です。まず金沢から12時間かけて伊勢・二見へ到着し、1日目が終わります。2日目は伊勢神宮に参拝し、奈良へ向かいます。3日目は法隆寺・橿原神宮・吉野、4日目は高野山、5日目は大阪、6・7日目は京都。そして夜行に乗って8日目の朝に金沢に着くという日程でした。
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第二高女は大正12年(1923)に京都・伊勢・東京・日光・鎌倉・善光寺の1週間、昭和10年(1935)に日光・東京・江の島・伊勢・京都の8日間の日程で修学旅行を行っています。
写真は女子職業の修学旅行の写真です。奈良の若草山と考えられる写真では、鹿に餌を食べさせその後ろに生徒が並んでいます。皇居の写真もテレビなどでおなじみのアングルです。
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唯一謎なのが山の中らしき背景のもの。右手の奥の通路の奥には洞窟らしき入り口が見えています。第二高女のように関西・関東だけでなく伊勢も行っているとしたら、そのあたりの有名な場所ということになるのでしょうか。残念ながら写真だけで、アルバムの台紙には何も記されていないので、昭和初期だろうということしかわかっていません。もし、この風景をご存じの方がおられましたら情報をお寄せいただければ幸いです。
なお、昭和15年(1940)に文部省が鉄道輸送力確保と混在緩和のため、小・中学校の修学旅行を禁止する方針を打ち出し、石川県では昭和16年度から修学旅行中止を指示しました。この時代から学校教育に戦時色が強まり、勤労奉仕や慰問活動などに力を入れていくことになります。
ところで現代の女学生である「ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ」と石川県のコラボスタンプラリー第3弾が今月30日(土)より始まります。当館もスタンプ設置個所になりますので、詳細は以下のリンクからご覧ください。
蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブの公式Xはこちら
次回は粟ヶ崎遊園について紹介する予定です。
急に気温が下がったりして安定しない日々でしたが、本日は秋晴れとなり、過ごしやすい気温となりました。おかげさまで親子で着物体験も一時は予約で満員となり、多くの親子が着物を着て和傘を持って記念撮影されました。
そんな親子のステキな写真を紹介します。大きな写真は着物体験アルバムでご覧ください。
次回は12月7日(土)・8日(日)に「着物で記念撮影~冬編~」(11月12日(火)9時受付開始)を開催します。今まで小学生までとしていましたが、中学生のご兄弟も来館されることが増えてきましたので、「0歳~中学生まで」OKとします。
グーグルフォームで受付しますので、詳細は受付開始日にHPをご覧ください。
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大正時代から女学生の体力増強を目指して様々な運動が行われるようになりました。当時は女子の運動はあまり好まれませんでしたがず、屋外での運動が足りず呼吸器系疾病で退学する生徒も多かったためです。当時流行した肺結核は不治の病とされ、死因の約15%が肺病でした。
第二高女では大正3年(1914)に着任した児島校長が運動普及に力を入れており、大正6年(1917)6月には県下各高女校長会議が運動、服装、食物、自覚心の喚起、弊習の打破の五項目からなる女子体育に関する答申を知事に行い、各校ともに女子体育に積極的に取り組むようになりました。
そんな運動の一つが遠足で、第二高女では大正5年度(1916)から月1回松任、金石、粟崎などへ遠足するようになりました。このように書くと楽しそうですが、松任(現・白山市)までは片道約9.4㎞徒歩で約2時間10分の道のりです。金石や粟崎はもう少し短いですが、かなりの距離を歩きます。目的地でお昼を食べて戻ってくるだけだとしても、現代の私たちにとっては相当な距離のように思われます。
今回の展示では昭和4年(1929)の日記にあった行き先を紹介していますが、一番遠いのは「倉ヶ岳」(金沢市・白山市境界にある山)です。麓まで徒歩で歩き、希望する人だけが山頂まで登りました。第二高女では大正6年(1917)に初めて倉ヶ岳登山遠足が行われ、生徒は着物にはかま・下駄で12時間以上の強行軍を経験したそうです。
第二高女ではさらに過酷な「雪中遠足」がありました。大正6年(1917)正月早々の30年ぶりの大雪で積雪91㎝を記録した翌日12日に卯辰山へ初めて雪中行軍を行ったのです。その後も精神上・体育上にも良いとして風雪の激しい日を選んで実施し、第二高女の名物となりました。また、同校は大正9年(1920)からスキー実習も始めており、校庭の斜面や大乗寺山で楽しんだそうです。けれども当時はまだスキーが広まり始めたばかりで、女性がスキーをするなど思いもよらない時代であり、異色の行事でした。
なお、夏は水泳に力を入れており、第二高女は大正4年(1915)に初めて夏休みの十日間金石や高松で臨海授業を行いましたが、当時はまだ肌をあらわにする水泳は家族から猛反対されました。女性の水泳は、大正末になると認められるようになります。
そんな中で大正8年(1919)に第二高女と女子師範で合同の白山登山が行われ、女学生として初めて白山に挑戦しました。厳重な身体検査の上で決めたため、第二高女は4、5人しか参加できなかったそうです。当時は鶴来まで鉄道に乗り、そこから徒歩で山頂へ登りました。後に立山も挑戦し、白山と交互に登りました。
写真は昭和7年(1932)と翌年に白山に登った女学生の名前が入った国旗です。当時の案内図では市ノ瀬まで自動車で移動しているので、ほぼ現在と同じような形になっています。初日は市ノ瀬に泊まり、翌日山頂まで登って室堂泊、3日目の朝にご来光を拝んで帰る日程が紹介されています。
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立山は昭和6年(1926)の案内図が残っていますが、当時は千垣駅までしか路線がなく、初日は藤橋まで歩いて泊まり、翌日室堂まで12時間かけて約26㎞を歩きました。3日目はご来光を拝んで周囲を巡ってから立山温泉に泊まり、4日目は千垣駅まで歩いて帰る日程が紹介されていますが、4日間で84㎞も歩くことになります。
現在、私たちは室堂まで簡単に行くことができますが、当時は簡単に登ることができなかったことがよくわかります。
次回は修学旅行について紹介する予定です。
2024年10月
女学校の一大イベントの一つ「運動会」。館蔵品で最も古いのは、明治39年(1906)の師範学校の写真絵葉書です。3枚1組で、2枚は女生徒、もう1枚は付属小の児童が写っています。今回紹介する絵葉書を拡大してみると白いワンピースのような服を着ています。同じ時代の第一高女ではまだ着物に袴で運動会をしており、先進的な様子がうかがえます。3枚とも「運動会」のみ記しているので、演目の詳細は不明ですが、体操でしょうか。
なお、師範学校の跡地は現在金沢21世紀美術館となっており、背景に写っているのは本多の森です。
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第一高女は昭和3年(1928)の運動会の絵葉書12セットを展示していますが、その内3枚は体操です。写真は「女子用連盟体操」とあります。どのような体操かは不明ですが、昭和4年の日記に「ラジオ体操」とあるので、昭和3年に始まったラジオ体操ではなさそうです。
運動会らしいのは400メートルリレーと、バレーボールでしょうか。リレーが最も服装が分かりやすいのですが、上半身は白のTシャツで、下はスカートのようです。
ちなみに当時体育で行われたのはバスケットボール、卓球(表記はピンポン)、ドッチボール、弓道、ボール投げ、走幅跳・走高跳などでした。
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第一高女は日本女子体育大学を創立した二階堂トクヨが赴任した学校で、体育教師として出発した場所でもありました。ダンスも考案したとのことで、学年毎に違うダンスを運動会で披露しています。
写真は「フレンチリール」で、「リール」はフォクダンスの一形式を意味するそうです。4人が輪になって踊る形式ですが、「カドリーユ」というスクエアダンスも4人で踊るので名称が混同しているかもしれません。ただし後述する日記では明らかに区別しています。
これらのダンスを見るのが当時の市民の娯楽の一つであり、多数の観客がいたそうですが、後に生徒1人に2枚の招待券方式に変わり、厳しくチェックされたそうです。なおダンスは第二高女などでも行われていました。
参考に昭和4年(1929)の日記に記されていた内容を紹介します。
私達が出場したのは、全部の儀式用連盟体操、一年のフレンチリール、個人競技、女子用連盟体操、マウンテンマーチ、全部の国民保健体操、全体のカドリール、一年三組のダブルドッチボールでした。
次回は遠足と登山について紹介する予定です。
裁縫と並んで当時の女子教育に欠かせなかった「作法」。明治11年(1878)の「女児小学教則」には「諸礼式」があり、小学校から学ばせていたようです。なお、この教則には「手芸(素縫・すぬい)」も入っており、「素縫」を辞書で引くと針の運び方と手の動かし方を練習することとありますので、簡単なものは縫えたようです。
さて、画像は明治13年(1880)の『女のしつけ』で、女子師範(当時は石川県第一女子師範学校)が編輯したものです。目次には「起居振る舞い及び礼節」「配膳之次第」などとあり、当時の作法を知ることができます。
参考までに内容を紹介すると、「貴人」に対する手のつき方では、「伺候する時は、両手を膝前に、指先を少し内側に斜めに。応答する時は、両手の人差し指を重ねて、体を少し前に傾ける。」とあります。また、障子の開閉では、「襖障子の際に歩みより、右足を引いて両膝をつき、引手に手をかける。右へ開くには左手で3寸(約9㎝)開き、手を改めてさらに右手で開く。」などとあり、細かく記されていますので、動きを再現することができそうです。 そんな「作法」には和室が必要なため、各学校に「作法室」が用意されていました。画像は金城高等女学校の写真絵葉書ですが、昭和2年(1927)に竣工した新校舎の中に設けられたと思われる「作法室」です。畳の枚数を数えると少なくとも60畳はありそうです。
一軒家として建てる場合は、普通の家と同じように玄関や縁側も設けられ、さらに洋室も併設する学校もありました。
当時の日記を読むと数週に渡って同じ内容を繰り返すこともあり、全員ができないと次の内容に進めないなど厳しいものだったようです。けれども、良妻賢母となるために来客や目の上の人に対する礼儀作法は重要でしたので、頑張って身に付けたことでしょう。
次回は運動会を紹介する予定です。
着物体験は暑い季節はお休みしているのですが、今年はあまりにも暑い日々が続くため、予告していた9月下旬ではなく10月中旬の再開となりました。
ようやく朝晩の空気もひんやりとして、着物を着るにはよい季節となり、多くの子供たちにご来館いただきました。
そんな子供たちのステキな写真を紹介します。着物体験アルバムでご覧ください。
次回は11月10日(日)に「親子で着物体験」(10月22日(火)9時半受付開始)を開催します。年に1回の家族で着物体験。思い出作りにいかがでしょうか。
当日は和傘も用意しますので、保護者の方に持ってもらう予定です。大人用で大きいのですが、小学生も頑張れば持てると思います。詳細は改めてご案内します。
2024年9月
当時の女子教育に欠かせなかった「裁縫」。高等女学校でも週に4時間は裁縫に充てており、昭和初期の第一高女では一学期で着物を一着完成させていたようです。
市内では女子職業が週23時間と授業の大半を裁縫に充てており、当時の教科書を見ると羽織や袴なども学んで、かなりの種類を縫っていたようです。
写真絵葉書は鹿島郡実科高等女学校の裁縫実習の様子ですが、黒板には「三つ身」(子供用)の裁断方法が記されており、右上に手回しミシンを使っている写真が入っています。絵葉書の様式から明治40年~大正6年(1907~17)の間に発行されたと考えられますが、実用的な技術を教えていた様子が伝わってきます。
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しかしながら、技術を教えるためとは言えすべての着物を原寸大で作ると材料費も時間もかかってしまいます。そこで後に東京裁縫女学校(現・東京家政大学)を創立した渡邉辰五郎が考案したのが、裁縫髪形でした。いわゆるミニチュアを作ることで、短時間で多くの技術を教えることが可能になりました。
館蔵品はどこの学校で作られたのかは不明ですが、すべて同一人物の名前が入っており、大事に保管されてきました。数点に大正8年(1919)の記載があり、その頃に作られたことが分かります。比翼仕立ては現在も留袖などに見られますが、こちらは間にさらに1枚入っています。また、袴も裏地がついており、当時の仕立て方を知ることができます。この他にボタン穴のかがり方など多数ありますので、ぜひご覧ください。
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女子職業では洋裁も教えていましたので、昭和15年(1940)の奉祝成績品展覧会の写真絵葉書では、多数の洋服が展示されています。
編物は作品の展示だけでなく、「高速度編物実演」も行われました。戦前の手編機は「対立形」で、本体ともう一つの針が向かい合わせになっている所からこの名称があります。技術が必要ですが、普通に手編みするよりは早いということで、昭和28年(1953)頃まで全盛を極めたそうです。
参考に昭和24年(1949)頃の館蔵品を画像で紹介します。中央部分は試しに編んでみたものですが、上手に毛糸を針にかけるのが難しかったです。
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次回は作法の授業を紹介する予定です。
前々回・前回と主な女学校を紹介してきました。開校したての頃は着物で通いましたが、しだいに制服を導入するようになります。
「金沢市立高等女学校」(後の第一高女)では明治32年(1899)に服装規則が定められ、「通学には着物を着用し、袴の色はエビ茶、または紫紺とする」とされました。特に海老茶色の袴は一般の女性にも流行したため、明治37年(1904)に裾に黒い一本線をつけて校章の役割を持たせることになりました。
その後開校した学校も袴に線を入れるようになり、金城女学校は白い線、第二高女は黒二本線、女子職業学校は黒の山形線を入れました。なお、北陸女学校は袴のひもに校章バックルをしていました。今回の展示では見比べやすいようにイメージパネルを作成して紹介しています。
なお、袴の生地は自分で手に入れて用意したとのことで、金城女学校の集合写真では少しずつ色が異なっているのが分かります。
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髪形も当初は日本髪でしたが、しだいに「束髪」を結ぶようになります。この髪形は日本髪と違って自分で結うことができ、髪を洗えて衛生的とのことで提唱され、しだいに流行していったものです。
参考)特別展「明治大正のファッションと竹久夢二」ブログ4.明治の束髪(夜会巻き・庇髪)編
写真は「束髪」を再現したものですが、この髪形を保つために中に詰め物をしたりしました。大正9年(1920)の商業補習学校女子部の卒業写真でもこの髪形が見られますので、金沢では明治30年代後半から大正中期まで流行していたことが分かります。
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大正11年(1922)に北陸女学校が県内で初めてセーラー服を採用しました。翌年には公立でも洋服が採用されましたが、改良服を導入した学校もあり、後に生徒の要望でセーラー服に変わりました。制服に合わせて髪形を変えた可能性もあり、以後束髪は見られなくなっていきます。
写真は昭和初期の金沢女子職業学校のものです。髪形は三つ編みと思われれ、二つに分けた生徒だけがその三つ編みを確認することができます。
ところで、当時の女学校はどんな校風だったのでしょうか。
女子師範は緻密・温和、第一高女は古風で厳格、第二高女は進歩的・開放的、金城女学校は進取・型破り・モダンと伝わっています。このような校風の違いも学校を選ぶ基準となったのかもしれません。
次回は当時の必須科目であった裁縫を紹介する予定です。
「高等女学校」にはどんなイメージがありますか?前回紹介した「高等小学校」もややこしかったかもしれませんが、現在の中学校から高校に相当します。当初は主に4年制で、大正9年(1920)から5年制に変わりました。
学校制度としては、明治24年(1891)に中学校令が改正された際に、女子中等教育として初めて「高等女学校」の名称が用いられました。その後、明治28年(1895)に「高等女学校規程」が定められ、修業年限や入学資格などが規定されます。明治5年(1872)に学制が発布されてから、すでに20年以上経過しており、女子中等教育が整備されるまでかなりの時間を要しています。
北陸にプロテスタントのキリスト教の宣教師としてやってきたトマス・ウィン宣教師夫妻はこうした女子教育の現状を知り、メリー・K・ヘッセル宣教師を招いて女学校を創始しました。明治17年(1894)に私塾として始めた翌年に「金沢女学校」として認められ、ヘッセルは母校の教育を基にした「知育・徳育・体育」を柱に、体育などの新しい科目を教えました。授業の大半は英語で行われましたが、当時は女子教育を受けられる場が少なかったため、県外から寄宿舎に入って学ぶ生徒もいました。
後に同校は北陸女学校と改称し、現在は北陸学院中学校・高校となっています。博物館から徒歩5分の所に「北陸学院ウィン館」があり、同校の沿革と教育を紹介しています。開館は平日の午前中のみなので注意が必要ですが、トマス・ウィンの住宅(金沢市指定文化財)を活用した建物なのでぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。
石川県内では明治27,8年ごろに女子の公立中等教育機関設立の動きがあり、教員有志らが県や金沢市に必要性を訴えました。そして明治31年(1898)に創立されたのが、「金沢市立高等女学校」(後の第一高女)でした。
当初は高岡町高等小学校に併設されましたが、明治32年(1899)に「高等女学校令」が公布され、府県設置義務や入学資格が12歳以上に改められました。石川県は金沢市から財政的な理由で移管を望まれ、明治34年(1901)に県立校とし、「石川県立高等女学校」としてその年の9月に校舎の一部が完成した穴水町(現・長土塀)の新校舎に移転しました。写真絵葉書はその校舎ですが、かつては茶畑で、周辺にはリンゴ畑があったそうです。戦後の学制改革で金沢第二高校を経て石川県立金沢二水高校となり、昭和33年(1958)に長坂町に移転するまで同地にありましたので、場所をご存じの方もおられると思います。
続いて紹介するのは「金城高等女学校」です。教員であった加藤広吉が女子教育の振興と、師範学校の予備学科を教えるために、明治37年(1904)に「金城遊学館」として創立し、翌年に「金城女学校」になります。しかしながら、広吉は病に倒れて帰らぬ人となり、妻・せむは長町小学校の教員をしながら寄付金を集めたりして、同校の運営を支えていきました。写真絵葉書は明治41年(1908)に完成した新校舎ですが、女学生の袴に白い線が入っていますので、明治42年(1909)頃に撮影されたものとされています。
大正13年(1924)には5年制の「金城高等女学校」となり、戦後の学制改革で金城高校を経て現在は遊学館高校となっています。
金城女学校の翌年の明治38年(1905)に教育家・久松義典が創立したのが「金沢女学校」です。最初に紹介した「金沢女学校」(現・北陸学院)と同じ名称ですが、同校は明治33年(1900)に「北陸女学校」に改称しており、時代的には重なっていません。
この金沢女学校は私立であり、当時はまだ市内になかった女子の実業教育機関として開校しました。しかしながら、創立間もなく久松は病に倒れ、急逝します。数か月後に新校長が決まるも、後に述べる競合校が開校し苦境に立たされます。そこで実科に重点を置きながらも高等女学校に準ずる内容に変更し、明治45年(1912)に高等女学校に昇格。後に大正2年(1913)に県立に移管し、「石川県立第二高等女学校」となります。同時に師範学校の男子部が移転した後の校舎に入ることになり、女子部(石川県女子師範学校)と姉妹校のように活動することになります。
写真は昭和4年(1929)の卒業写真です。後ろの特徴的なアーチは女子師範学校と共有していた校舎で、古くから背景に使われてきました。ちなみに大正12年(1923)に石川県立金沢第二高等女学校と改称し、戦後の学制改革で金沢第三高校を経て石川県立桜丘高校となりました。
金沢女学校の翌年の明治39年(1906)に開校したのが「金沢市立女子職業学校」でした。明治38年(1905)に金沢教育会が同校の設立を市長に建議し、翌年の市議会で設立が決議されました。「徒弟学校規程」による学校で、金沢女学校よりも実業教育に徹底しており、修業年限や入学資格も変わらなかったため、こちらに転入する生徒も多数いました。
国語や体育などの学科は全体の3割にとどめ、残りの時間は裁縫・刺繍・造花・編物・細工物に充てられました。
絵葉書は創立記念日に発行されたもので年代は不明ですが、後頭部に高く盛り上げた髪形が日露戦争で広まった「二百三高地」と考えられますので、開校してから数年以内と考えられます。小刀で布を裁断している所が描かれており、同校の特徴をよく表しています。
開校時は長町尋常小学校の校舎を使用していましたが、大正9年(1920)に小将町の新校舎に移転します。ここで注意が必要なのが、当時は小将町高等小学校(男児校、後の小将町中学校)もあり、女子職業学校は少し奥まった場所にありました。戦後に兼六中学校を経て現在は金沢大学教育学部付属特別支援学校となっています。
昭和18年(1943)に金沢市立第一高等女学校に改称し、戦後の学制改革で第一高女とともに金沢第二高校を経て石川県立金沢二水高校となりました。
大正6年(1917)に「金沢市立商業補習学校」に女子部が設置されました。実業補習学校は明治26年(1893)の「実業補習学校規程」によると、実業に従事する児童に小学校の補習と簡単な方法で職業に必要な知識と技能を授けるための学校です。
尋常小卒業生対象の前期(2年)と、前期修了者・高等小卒業生対象の後期(2~3年)があり、さらに後期は一部(昼間)と二部(夜間)がありました。
写真は大正9年(1920)の卒業写真です。持ち主は前年に高岡町高等小学校の補習科を卒業しているため、こちらの補習科を1年で卒業したと考えられます。
松ヶ枝町尋常小学校に併設され、大正12年(1923)に「金沢女子商業補習学校」、昭和10年(1935)に「女子実業青年学校」、昭和18年(1943)に「金沢市立第二高等小学校」と改称し、戦後の学制改革で第一高女とともに金沢第二高校を経て石川県立金沢二水高校となりました。
大正14年(1925)には本願寺派金沢別院輪番石原堅正を校長として、大乗仏教の理念に基づき「金沢女子学院」を創立、翌年に「藤花高等女学校」として認可されます。昭和2年(1927)
大谷廟所(西町) に新校舎が完成します。戦後の学制改革で藤花高校となり、藤花学園尾山台高等学校を経て現在は金沢龍谷高校となっています。
このように市内中心部にはかつて様々な高等女学校や職業学校などが存在し、現在は主に高校へ受け継がれています。
次回は当時の制服や校風などを紹介する予定です。
現在開催中の特別展「金沢の女学生」(~令和6年11月24日(日))をより深く知っていただくために、ブログで紹介します。
近代の新しい教育制度として明治5年(1872)に「学制」が発布され、すべての国民が小学校に入学することになりました。これを受けて、金沢では明治6年(1873)以降次々と小学校が設立されました。
しかしながらこれらの小学校は主に男児のためのもので、女児は金沢市松原町の「石川県女小学校」に通いました。さすがに1校では足りず1年の間に市内に3校が設立され、最終的には一区に1校の計7校となります。なお、こうした女児小学校は主に人口密集地に設立され、男児・女児併設校も後に設立されました。
写真は明治15年(1882)に宮内省から頒布された『幼学綱要』ですが、内側に「石川県金沢区公立浅汀小学校」の印があります。市内の女児小の一つであり、後に男児小と合併して馬場小学校になりました。
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このように短期間で小学校が急に増えると教員が足りなくなります。当初は寺子屋の師匠を教員としましたが、教員養成が切実な問題となり、明治7年(1874)に石川県集成学校が設立されました。後に石川県師範学校となり、明治8年(1875)には女子師範学校が開校します。
写真は昭和4年(1929)のものですが、明治22年(1889)に広坂に移転した後の校舎で、校門の奥に見えるアーチが象徴的です。校舎があった場所は、現在は金沢21世紀美術館になっています。
博物館には明治39年(1906)の運動会の写真絵葉書が残されており、女子師範学校や付属小学校の生徒が写っています。
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県内初の女児小学校として開校した「石川県女小学校」は、その後名称変更や移転を重ねて「高岡町小学校」になります。明治19年(1886)の学校令で尋常科4年が義務教育になり、高等科4年は別に区分されたため、市内の女児小学校の高等科生徒を高岡町小学校に集約しました。その後分校したりしますが、明治25年(1892)に「高岡町高等小学校」となり、創立からずっと単独の女児小であり続けました。
明治40年(1907)に小学校令が改正されて義務教育が6年になり、高等小学校に進学しなくても高等女学校に入学できるようになりましたが、明治43年(1910)の進路を調べてみると半分近い女児が高等小学校に入学しています。これは石川県全体の数字なので金沢市内ではもう少し違う可能性もありますが、おおよその目安になると思います。
最後の写真は高岡町高等小学校の補習科の大正8年(1919)卒業写真です。補習科は明治42年(1909)に設立されましたが、前年に小学校の義務教育が4年から6年になり高等小学校の修業年限が4年から2年になったため、さらに学びたいという生徒を対象に1年間学べるようにしたものです。このため補習科まで進む人は少なかったのでしょう。
なお、男児は最終的に小将町高等小学校が唯一の学校となりました。
次回は高等女学校・職業学校などを紹介する予定です。
2024年8月
最後に紹介するのは郷土玩具です。かなりの数がコレクションされているのですが、今回は各都道府県で1~2つずつ選んで展示しています。とは言えセット品もかなりありますので、総点数は100点近いと思います。
1枚目の写真は北陸三県のものですが、左端にご注目ください。緑の船?らしきものに古代の服装をした人が立っています。こちらは気比神宮(福井県敦賀市)の桃太郎神像で、子育て・子授けの縁起物として授与されているものです。という訳で緑の船?に見えた物は桃(中は桃色)なのです。もちろん有名な吉備津神社(岡山県岡山市)の桃太郎像も展示していますので、見比べてみてください。
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郷土玩具なので、子供のおもちゃであり愛らしい見た目のものも多いです。3枚目と4枚目は共通のモチーフとして鯨を車にのせたものを紹介しています。長崎は「鯨の汐吹き」、高知は「鯨車」と名称は異なりますが、板の上などを動かして遊んだのでしょう。熊本の「きじ馬」も黄色と赤と緑を配した特徴的な見た目です。
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最後に紹介する写真は中央に舟がありますが、和歌山の「くじら舟」です。鯨そのものではなく、捕鯨に使った舟をかたどっています。他にもその土地の祭礼や名物が郷土玩具になったものもたくさんありますので、ゆっくりとお楽しみください。
企画展「ぼくのわたしのコレクション」は8月25日(日)で終了しますので、ご注意ください。
8月26日~30日は展示替えのため休館し、次回は特別展「金沢の女学生」(8月31日~11月24日)を開催します。
前回紹介した「風景印」(風景入通信日付印)と同じ昭和6年(1931)に始まったのが、駅のスタンプです。熱心に集めていたようですが、なんと当時の切符も残っていました。羽咋の「柴垣」駅ゆきで、駅のスタンプは能登一ノ宮と柴垣で、いずれも現在は廃線となっています。
今回展示した切符の中で一番距離が長いのは、金沢~樺太(からふと)間の1437.2キロです。樺太の風景印と日付が同じではないためどんな目的で行ったのかは不明ですが、記念に取っておきたい気持ちは非常に分かります。
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旅の思い出と言えば、現地でもらうリーフレットや弁当の包み紙などを取っておいた方もいます。きっと後で見返したりしたのでしょう。団体旅行のツアーの冊子など当時の日程もいくつか残されており、このようなルートで行ったのだなと参考になります。特に東北めぐりツアーは帰りに東京~名古屋で「夢の超特急」東海道新幹線に乗っており、本州の半分近くを移動しています。
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台湾・沖縄旅行も日程を見ると「検疫」と「入域手続」の文字があり、本土返還前であったことを意識させられます。こちらは右上の小さな水色が「座席券」です。団体旅行なので小さいのかもしれませんが、もう一つの「搭乗整理券」もスタンプで日付や便の数字が入れられていて、アナログな感じがします。なお、裏面は広告が入っています。
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次回は郷土玩具を紹介する予定です。
今回からは「旅の思い出」をテーマに紹介します。
最初に紹介するのは「風景印」(風景入通信日付印)です。全国各地の郵便局のオリジナルの消印なのですが、有名なのは富士山頂郵便局でしょうか。登山した記念に押してもらったりする人も多いと思います。
そんな風景印が始まったのは昭和6年(1931)7月ですが、中国の関東州など当時の日本の支配下にあった所では、その年の4月から使用されました。最初の写真は満州のもので、昭和6年4月の日付がありますから、いち早く収集したのでしょう。2枚目の写真は台湾のもので、同じ日付のものが複数あります。地図で見ると一日では回れなさそうな位置関係でしたが、郵送で依頼する「郵頼」という方法があるそうです。たまたま同じ日に台湾の複数の郵便局に届いたので、そのような結果になったのではないでしょうか。
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さて、当時は朝鮮半島も日本の支配下にありました。3枚目の写真には北朝鮮も複数入っており、自由に訪問(あるいは依頼)できた様子が伺えます。4枚目は樺太(からふと)の風景印です。どれもその地域の名所などが入っており、デザインを見るのも楽しかったのではないでしょうか。
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そんな風景印を見て、金沢にはどんなものがあるか気になり、現代の物を集めてみました。写真は笠舞、浅川、木越、有松、四十万です。もちろん直接郵便局にお伺いしましたので、時々お世話になっている所でこんな素敵な風景印があることを知り、再発見した気分です。
郵便局の公式HPでも都道府県別に見ることができますので、ぜひ石川県を選択した上で、「金沢」で検索してみてください。画像をクリックすると、モチーフの解説も見ることができます。
次回は切符やリーフレットなどを紹介する予定です。
7月30日に北陸朝日放送で博物館が紹介されました。現在開催中の企画展「ぼくのわたしのコレクション」を中心に取材していただきました。映像は「北陸ミュージアム探訪 10.金沢くらしの博物館」で見ることができます。
また、ラブライブ!(全国各地のスクールアイドルが活動する作品で、複数のシリーズがある)の蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブでも博物館が登場しました。金沢フィルムコミッションのHPで紹介いただいておりますが、市内のあちこちを訪れているようです。
なお、実際に登場しているのは「【蓮ノ空】リンクラ ストーリー 第4話 Part1~5 (活動記録 2024/7/21更新分)【Link! Like! ラブライブ!】」で、中盤に関連する場面があります。
2024年7月
今回は女の子が夢中になったものの一つとして、おままごと用ミニチュアを紹介します。
最初に紹介するのは寄木細工の家具たちです。恐らく箱根で作られた物ではないかと思いますが、タンスの引き出しの模様の複雑な造形に驚きます。その隣のミニチュアはおそろいの風景の図案入りのセット品です。由緒が不明なのが残念なのですが、大事に飾っていたものと思われます。
もう一つは昭和23年(1948)頃のものですが、赤く塗られたテーブルやイスが時代を感じさせます。その一方でシンプルなお茶のセットもあり、いかにもおままごと用という感じがします。
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こちらのミニチュアはミシンや電話などがあり、昭和20年代後半から30年頃にかけて大和デパートで少しずつ買い求めたそうです。グランドピアノが一番高く、大屋根が開きます。手押し車や犬小屋もあり、色んな遊びをして楽しんだのでしょう。
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そんな買い集めるシリーズの現代版は、シルバニアファミリーでしょうか。平成5~7年(1993~5)に発売された複数の建物が大事に保存されていました。時代によって動物シリーズが少しずつ変わっているようです。今回の展示品では最も新しいものですが、夏休みにたくさん来る子供たちも楽しんでいただけるのではないでしょうか。
次回は風景印を紹介する予定です。
前回、有名な「キャラクター消しゴム」(キャラ消し)として「キン肉マン」を挙げたのですが、その数日後に「キン消し」を多数ご寄贈いただきました!あまりのタイミングの良さに思わず、心の中でガッツポーズしてしまいました。
ウルトラ怪獣シリーズは主役がいなくて少し寂しかったのですが、こちらは主役や正義超人がいて、悪魔超人や完璧超人などもいます。さすがに全員は調べ切れませんでしたが、急遽展示しましたので、本日18日からご覧いただけます。ちなみにバランスが悪い方が何人かいますので、倒れていても気にしないでいただければ幸いです。
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「キャラクター消しゴム」(キャラ消し)と聞いて何を思い浮かべますか?世代ごとに異なると思いますが、有名なのは「キン肉マン」でしょうか。プラスチック製のため、実際には消すことはできません。
今回はスーパーカー消しゴムを展示しています。駄菓子屋やカプルトイなどで販売されたそうですが、やはり数を集めたくなるのでしょうね。昭和50~54年(1975~79)にかけて『週刊少年ジャンプ』に連載された池沢さとし『サーキットの狼』にはスーパーカーが登場し、ブームを起こしました。
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大きさやリアルさは様々ですが、大半は底面に車種名が入っています。「1/125」と入ったものもあり、細部にこだわった様子が伝わります。持ち主が加筆した車もあり、同様にして楽しんだ人もおられると思います。あくまで「消しゴム」なので学校に持って行き、先生に「おもちゃじゃない」と言ったけど注意されたという談話も聞きました。
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スーパーカーと同じ方が集めたのが、ウルトラ怪獣です。こちらは怪獣名が判明していないものもありますが、数を楽しんでいただこうと全部展示しています。
この他にファミコンのキャラ消しも数点あります。
さらに大量のメンコ(ペッタ)、ブリキのおもちゃ、ガンダムのカードやビックリマンシールも展示しています。幅広い世代の思い出の品がありますので、じっくりとご覧ください。
次回はおままごと用ミニチュアを紹介する予定です。
今回からは「こどもの宝箱」をテーマに紹介します。子供時代に夢中になったものが主なので、様々な世代が集めた物があり、その時代を反映しています。
最初に紹介するのはソフトビニール製の貯金箱です。ソフトビニールは金型を用いるので大量生産が可能で、有名なのは当時のテレビヒーローや怪獣などのシリーズですが、今回はあえて貯金箱を紹介します。3人の方が寄贈されていますが、幸い集めた銀行の重なりが少ないので、今回はできるだけたくさん展示してみました。
最初に紹介するのは富士銀行の「ボクチャン」シリーズで、昭和37年(1962)から始まったものです。世界を旅したり、宇宙へ行ったりと当時の子供たちの憧れを反映しているようです。
もう一つは住友信託銀行の「世界風俗人形」で、こちらは昭和38年(1963)から始まりました。翌年には東京オリンピックが開かれましたが、貯金箱にはその国の解説が付いており、色んな国の名前を覚えるのにも役立ったかもしれません。
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そんな中、地元の銀行でもソフビ貯金箱が作られます。北国銀行の「コクちゃん」が誕生した時期ははっきりと分からないのですが、昭和38年(1963)のパンフレットにイラストが入っていますので、全国の銀行でキャラクターが作られた時代の流れに合わせて誕生したのではないかと思われます。
ちなみにイラストは「弁慶」で、安宅の関(小松市)が『勧進帳』の舞台として知られています。「牛若丸」もたくさん並んだ写真入りのパンフレットがありますので、この二人が主なキャラクターだったのかもしれません。
もう一人のコクちゃんは「民謡めぐり(山中節)」です。シリーズ物として他にも作られたかもしれませんが、今の所当館に寄贈されているのはもう一つの「EXPO’70」の鳩です。このため、少なくとも北国銀行では昭和38年から45年にかけて作られていたと考えられます。
そして北陸銀行の貯金箱も展示していますが、左端の「豆の木ジャック」しか名前がないため、動物シリーズの由来ははっきりしません。
いずれにせよこのような愛らしい貯金箱が銀行で配られ、お子様たちが集めて楽しんでいた時代があったことをお伝えできれば幸いです。
なお、他の銀行の解説によれば硬貨が50枚入るようです。首や足を外して取り出すようですが、銀行の窓口へお持ちくださいとする所もあります。
次回はキャラクター消しゴムを紹介する予定です。
2024年6月
「引札」は昔の広告チラシにあたります。全国各地に残されていますが、当時のお店の様子を知ることができる貴重な資料です。
最初に紹介するのは九谷焼のお店で、片町に移転したのを機に呉座や麻苧の取扱を始めたということが記されています。店主名は「谷口吉次郎」とあり、郷土の偉人・建築家「谷口吉郎」のお父さんだそうです。つまり実家と考えられますが、この印刷物は既存の図案に文章を入れた可能性が高いので、あくまでイメージとしてご覧ください。9月としかありませんが、「金沢区」とあるので明治11~22年(1878~89)の間と考えられます。
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続いて紹介するのは、明治23年(1890)11月の卯辰の料亭「山の尾」の改装開店案内です。かなり長い文章ですが、お客様に好評をいただいた美味と安値を心がけて、さらにたくさんの方に対応できるように新たに広間や離れ座敷を建てたりしています。加えて新たに「勝身めし」を用意したことを紹介しています。
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先に紹介した2点は移転・新装開店ですが、この他にひな菓子の売り出し案内なども紹介しています。そして館蔵品の引札の大半を占めるのは、正月用の引札です。おめでたい絵柄が多く、暦などがついているため、鑑賞と実用を兼ねて壁に貼られるなどして残ることが多いようです。
という訳で、大きく輝く太陽と松に鶴がとまるこの図案はおめでたい正月にふさわしく、日輪の中に明治27年(1894)の暦が入れられています。暦の隅には版元の名前があり、筒井信由(下堤町)が請け負ったことがわかります。さらに実際に印刷された日付があるのですが、当館では用途を重視して暦の年で記録しています。
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このように版元を調べて行くと金沢には多くの印刷業者がいたことが分かりますが、明治20年代半ばごろからに大阪市で印刷されたものが入ってきます。展示のために額装すると見えなくなるのですが、紙の端に業者名が入っていることがあります。機械刷木版という新たな技法を取り入れて大量印刷を可能にし、全国各地に配布して注文を取ったようです。既存のものと比べて色鮮やかなものが多いので、かなりの人気を博したと考えられます。
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今回展示できなかった引札の一部は「金沢デジタルミュージアム+」で見ることができます。「引札」と検索してご覧ください。
次回はソフトビニール貯金箱を紹介する予定です。
前回紹介したマッチラベルはたくさん集められていましたが、今回は点数は少ないけれど貴重なものを紹介します。現代はICカードやスマホの普及により切符を使うことが少なくなってきていますが、かつては紙の切符はなくてはならないものでした。
最初に紹介するのは、かつて金沢駅と中心地を結んだ市電(路面電車)の切符です。1枚の紙に駅名が記され、乗車時間(30分単位)などに穴をあけて使いました。右上に「「バス」ニ御乗継ノ場合は「バス」デ金参銭申シ受ケマス」とあり、バスの路線も入っています。
もう一つは昭和11年(1936)の金沢商工祭の時に発行されたもので、市電の往復と自動車(バス)の乗車券がセットになっています。当時の会社名は「金沢電気軌道」で、戦時中に現在の「北陸鉄道」に変わりました。昭和42年(1967)に廃止になるまで、市内各地を結びました。
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続いて紹介するのは、市内乗合自動車(バス)とタクシーの回数券です。バスは10区分50銭とあり、裏面は「美人座」の広告が入っています。タクシーは大学病院と金沢駅を結んだ高級タクシーで、市内6銭均一とあります。
単独の「自動車回数乗車券」は金石電気鉄道のもので、中橋町~白銀町を結びました。中橋は金石線の終点で、白銀町は市電の停留所です。10分程度は歩かないと乗り換えられないため、バスが出ていたのでしょう。
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横長の切符は新寺井~鶴来を結んだ路線の切符で、当初は能美電気鉄道が開業しましたが、昭和14年(1939)に金沢電気軌道に譲渡されました。その2年後に北陸合同電気に合併されたため、ごく短期間使われた切符であることが分かります。
穴の位置に注目すると「寺井西口」と「本寺井」の間にある「連絡場」で乗車し、「辰口」で降りたことが分かります。この「連絡場」はバス(乗合自動車)との連絡駅として開業したものです。
なお、能美線は昭和55年(1980)に廃線となりました。
最後に紹介するのは加賀地方の温泉郷を結んだ「温泉電軌」の切符です。「三等往復乗車券」とあり、「かへり」とあるのと上下にミシン目があるので、往路は別の切符をちぎって使ったと思われます。路線図の中に「山中」「山代」「片山津」「粟津温泉」の駅名を見ることができます。
戦時体制で県内の鉄道会社が統合し、北陸鉄道となりました。後にこれらの路線を総称して「河南線」と呼ばれましたが、昭和46年(1971)までに全線が廃止されました。
次回は引札を紹介する予定です。
現在開催中の企画展「ぼくのわたしのコレクション」(~令和6年8月25日(日))をより深く知っていただくために、ブログで紹介します。
現在はお店などでマッチをもらう機会は少なくなりましたが、かつては色んな場所で配っていました。写真のアルバムはきれいに切り取って貼ってあるように見えますが、当時は薄い板で作られたマッチ箱に糊でラベルを貼っていましたので、そこからはがしたものです。
拡大して見ると、一色刷りが主で店名・住所などが記されています。金沢駅の時刻表もあり、駅のそばのお店で配られたのでしょうか。もう一つの写真には北国信用組合の「割増金付 第2回兼六定期預金」があり、1口1000円で一等から六等まで総当たり空くじなしとあります。このマッチラベルは昭和26~27年(1951~2)頃のものと考えられますから、昭和25年(1950)に東京で米10㎏が445円(『値段の明治大正昭和風俗史』朝日新聞社、1981年)なので、1000円はそれなりの金額ということになります。ちなみにこの1冊で427点収集していますが、ラベルを離して貼っているためセット品(一箱の両面)が分かりづらい状況です。
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続いて紹介するのは、チラシの背景となったマッチラベル集です。大量のラベルがページ一杯に貼られており、多色刷りのものもあります。こちらは昭和29~32年(1954~7)頃のものと考えられます。3冊で1286点(重複あり)を収集しています。主に市内のお店ですが、同じお店を何枚も貼っているのでお気に入りだったのかもしれません。
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3つ目は手作りの冊子に貼られたものです。現代と同じように紙製で切り離した姿のまま貼っています。昭和38~58年(1963~83)頃のもので、765点集めています。この頃になると写真が多くなり、商品の写真もたくさんあります。テーマ別に貼っており、当時の世相を知ることができます。
いずれも冊子をバラバラにできないので、お見せできる内容に限りがありますが、その一部だけでも楽しんでいただければ幸いです。
次回は主に市内や近郊の切符を紹介する予定です。
2024年5月
座敷のぼりはとても豪華なのですが、ヨロイ(具足飾り)と一緒に飾ると中央部分が隠されてしまいます。そんな中昭和40年代になると、吹流しとこいのぼりの「両立のぼり」が飾られるようになります。
1枚目の写真は竿の先端の玉の先にさらに小さな玉を複数つけていますが、2枚目以降は大きな籠玉が使われています。矢車の向きは製造元によって違うようですが、正面に向けたものは存在感があります。現在は吹流しを向かって右に飾るようですが、今回は当時のカタログと同じ配置にしてあります。
さらに吹流しをのぼり旗に変えた物もあり、館蔵品はショウキ(鍾馗)が描かれています。現在は子供の名前を入れるようで、時代に応じて変わっていく姿を見ることができます。
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企画展「端午の節句展~座敷のぼり~」は6月2日(日)で終了しますので、ご注意ください。
なお、本日から「百万石まつり」が始まります。明日6月1日(土)の午後は百万石行列が中心地を練り歩きますので、交通規制にご注意ください。
6月3日~7日は展示替えのため休館し、次回は「ぼくのわたしのコレクション」(6月8日~8月25日)を開催します。
前回紹介した昭和初期の座敷のぼりは大型のものが多かったのですが、戦後になると手前に飾るカブト(兜飾り)と釣り合いのとれた大きさに変わっていきます。そして幟旗に豊臣秀吉と加藤清正を描くようになります。豊臣秀吉を象徴する「千成瓢箪」の馬印は戦前から飾られていましたが、絵が加わることで分かりやすくなったと思います。加藤清正は虎退治で有名な武将なので、虎を描く図案もあります。
ちなみに1枚目の写真は最も本数が少ない5本立です。千成瓢箪と鯉幟の配置が他のものと異なっていますが、一緒に保管されていた写真の通りに飾っております。
2枚目はヨロイ(具足飾り)とセットになったものです。昭和41年(1966)のものですが、昭和20~30年代はカブトと一緒に飾ることが多く、屏風も凝った造りになっているので、高級品と考えられます。この座敷のぼりの箱のラベルの画像も合わせて紹介しますが、もう一組同じラベルがあるので同一会社(製造者名なし)で作られたことが分かります。なお、ラベルでは武将の絵がカラーですが、なぜか現物は黒が基調となっています。
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次回は両立のぼりを紹介する予定です。
今年のゴールデンウイークはお天気に恵まれ、多くの子供たちにご来館いただきました。初節句の赤ちゃんから小学生まで、きょうだいまたは友達同士での参加がありました。
そんな子供たちのステキな写真を紹介します。大きな画像は着物体験アルバムでご覧ください。
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これからしばらく暑い季節が続きますので、着物体験はしばらくお休みし、9月下旬に再開予定です。詳細が決まり次第、改めてご案内いたします。
2024年4月
現在開催中の企画展「端午の節句展~座敷のぼり~」(~令和6年6月2日(日))をより深く知っていただくために、ブログで紹介します。
現在では見かけなくなった「座敷のぼり」ですが、かつては五月人形と一緒に飾られていました。その名の通り、部屋の中で飾る幟旗やこいのぼりのミニチュアです。今回紹介する昭和初期のものは全体的に大きく、手前に飾るヨロイ(具足飾り)は現代のものより小さいのも特徴です。
まずはのぼりを立てる土台にご注目ください。直線的で平らな「平枠」と、少しずつ角度を変えて内側に向かって両袖が曲がっている「屏風枠」の2種類があります。当館では収蔵品のほとんどが「平枠」で、「屏風枠」は1点しかないため、貴重なものとなっています。
《注記》当初はのぼりを立てる土台の名称を「平枠」と紹介し、直線的な形状のものが中京・近畿地方に主に見られるとしましたが、形状によって「平枠」と「屏風枠」という名称があり、関東・関西いずれにも見られるとご指摘をいただきましたので、修正いたしました。
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のぼりには絵や家紋などが入っており、今回紹介したものはいずれも「ショウキ(鍾馗)」が描かれています。ショウキは中国の魔除けの神で、日本では疱瘡除けや学問成就の神様として知られ、端午の節句に絵や人形を飾る風習がありました。魔除けの神らしく、大きな目でにらみつけるような絵が多く見られます。
ちなみに1枚目の座敷のぼりには、菖蒲とヨモギを描いたのぼりを2本立てています。こちらも端午の節句には欠かせないものです。
座敷のぼりは奇数ののぼりなどを立てますが、当館では7本立が多く、次に多いのが9本立です。本数が増えると、毛槍や布に包まれた道具を立てるようになります。5枚目はその道具の一つで、長刀(なぎなた)と考えられます。この他にもひな人形の仕丁が持つ立傘・台笠も立てられます。現在はなじみのない道具ですが、金沢では奴行列の持ち物にも同様のものが見られます。そう考えると親近感がわくのではないでしょうか。
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次回は昭和中期の座敷のぼりを紹介する予定です。
前回のブログで紹介しましたが、江戸風の大きな特徴は女びなの手が袖の中に隠されていることです。このため、袖口の立派な刺繍がよく見えるように広げられています。
そしてもう一つの大きな特徴が男びなの衣が華やかであること。1枚目は分かりにくいですが、2枚目は明らかに明るい色になっており、金糸などが使われています。
京風は大きなものが多かったのですが、江戸風はかなり小さなものも残されています。
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3枚目は大正10年(1921)の久月製です。女びなの手があり、以後江戸風と京風と区別しづらくなっていきます。けれども男びなの足に注目してみると、古い江戸風と同じように足を斜め後ろに向けて座っています。京風は足を前で組みますから、こちらもまた江戸風の特徴と言えます。
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しかしながら、昭和20年代以降は現在のように正面で足の裏を合わせて座るようになります。
企画展「ひな飾り展~内裏びな~」は4月7日(日)で終了しますので、ご注意ください。
4月8日~12日は展示替えのため休館し、次回は「端午の節句展~座敷のぼり~」(4月13日~6月2日)を開催します。
2024年3月
人気のイベント第3弾は春休みに合わせて行っています。今回はよい天気に恵まれ、多くの子供たちにご来館いただきました。
そんな子供たちのステキな写真を紹介します。大きな画像は着物体験アルバムでご覧ください。
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次回はゴールデンウイークに開催します。今年は4連休ですが、例年通り5月4日(土・祝)・5日(日・祝)に行います。
4月16日(火)9時半より受付開始となりますので、改めてご案内いたします。
かつてひな人形は京都と江戸で作られており、様々な特徴がありました。今回紹介する京風内裏びなはそんな特徴に注目していただければ幸いです。
明治時代までは引き続き大きな内裏びなが作られます。京風の内裏びなの特徴の一つとして、最も分かりやすいのは女びなの手があることです。江戸風は袖の中に隠してしまうので、きれいに袖の形が作られています。そして前回のブログで紹介した江戸時代の内裏びなもすべて京風です。
また、衣の配色が落ち着いた雰囲気(金色などを多用しない)なのも特徴とされています。特に1つ目のものは男びなが黒一色なので、その雰囲気が感じられると思います。
2つ目の男びなは太刀の先が後ろでまっすぐ立つように飾るのですが、すぐ倒れてしまうので、写真でご覧いただければ幸いです。この太刀の形は京風に限らず江戸風でも見られますが、古い内裏びなが主です。
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そして京風のもう一つの大きな特徴は、男びなが足を組んでいることです。3つ目の内裏びなはふだんの姿を再現した「有職びな」と見られますが、飾りがない分男びなの足元が見やすくなっています。
なお、こちらの内裏びなは本来は「御殿飾り」の中に飾ります。「金沢ミュージアム+」でこの御殿を3D化してもらいましたので、こちらのリンクからご覧いただけます。
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次回は、明治~大正の江戸風内裏びなを紹介する予定です。
先週のイベントも寒かったですが、今週も寒く、ほぼ満開の梅の枝に雪がつもって絵画のような光景となりました。足元にも積もりましたが、雪すかしをするレベルではないので、やはり春がもう近づいているようです。反対側の白梅にはなんとメジロが二羽も来ていました!。残念ながら写真には写ってもらえませんでしたが、その愛らしさに癒されました。
さて、ひなまつりにはハマグリを食べる風習がありますが、今回はその貝殻を活用した「貝合わせ」という遊びを体験していただきました。
写真のようにたくさん並べた中に一つ置いて、対になる貝を探します。よく似た模様の貝を入れるようにしていますので、貝を増やすとかなりの難易度になります。今年は48個を並べてみました。
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ちなみにお子様も参加されるので、当館では分かりやすいようにひな人形の絵を入れています。並べると五段飾りになり、お供えとして金花糖とあられがあります。
ハマグリの表面をきれいにする必要がありますが、大きなものを食べた時は記念に取っておくのもありかもしれません。ここまで揃えるのは大変ですが、布で覆って小物にしたりと色々活用できるようです。
人気のイベント第2弾は久しぶりに3月3日のひなまつりに重なりました。2日は急速に冷え込んで雪マークがつきましたが、多くの子供たちにご来館いただきました。
そんな子供たちのステキな写真を紹介します。詳細は着物体験アルバムでご覧ください。
なお、第3弾の3月30日(土)・31日(日)はまだまだ空きがございます。春休み中の開催となりますので、よろしければどうぞ。
2024年2月
現在開催中の企画展「ひな飾り展~内裏びな~」(~令和6年4月7日(日))をより深く知っていただくために、ブログで紹介します。
当館では1800年代前半から幕末にかけて大小5組の内裏びなを所蔵しており、このうち3組はここ数年の間に寄贈された物です。金沢は戦争で焼けていないので古い物が残っているのですが、大事にされてきたということでもあります。
大きい物は高さが40cm近くあるため、木箱も大きくなります。背景の金屏風はひな飾り用ではないのですが、一緒にいただいて活用させていただいております。
かつてひな人形の首には数字があり、大きさを示していました。数字が小さいほど大きくて高級品で、上級武家など限られた家で飾られていました。今回は解説にその数字を併記しています。
そして昨年「日本玩具博物館」(兵庫県姫路市)で教えていただいたのですが、男びなと女びなの衣に同じ布が使われているのがセット品の証なのだそうです。見比べやすいように合成してみましたが、袖口に注目してみると、一番内側の衣が同じ布になっています。どこに使うかは人形によって異なるので、来館の際に注目していただければ幸いです。
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江戸時代後期には江戸(現・東京)でガラスの玉眼を入れる技術が生まれます。後に京都でも取り入れられ、大きな目に変わります。当館では木箱に安政6年(1859)と入った内裏びなが玉眼です。このため手描きの内裏びなはそれ以前と考えています。
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なお、江戸時代の内裏びなは資料保護のため照明を暗くしていますので、ご了承ください。
次回は、明治~大正の京風内裏びなを紹介する予定です。
2月10日(土)より始まりました企画展「ひな飾り展~内裏びな~」は多くの方にご来館いただいております。その記念撮影スポットの集合ひなの前で、多くの子供たちに着物で思い出作りをしていただきました。人気のイベントにつき久し振りにほぼ満員となりました。
そんな子供たちのステキな写真を紹介します。詳細は着物体験アルバムでご覧ください。
なお、第2弾の3月2日(土)・3日(日)はまだまだ空きがございます。ひなまつり当日のため混雑が予想されますので、早めにご予約いただければ幸いです。
最後に紹介するのは「ワープロ」(ワードプロセッサ)です。第4回でタイプライターを紹介しましたが、和文タイプライターは2,000文字以上の活字を用意しなければならず、漢字に対応するのがとても大変でした。このため日本語用のワープロの開発にあたり、入力した文字をどのように変換するのかが大きな課題でした。昭和53年(1978)に東芝が最初の日本語ワープロを発表し、歴史的な業績を成し遂げました。その後他社も参入し、昭和60年(1985)には数万円台まで価格が下がり、個人でも使うようになりました。
今回展示したのは昭和61年(1986)にNECが発売した「文豪mini7G」です。キーボードが色分けされており、文字配列を「あいうえお」順に切り替えることができました。キーボードを収納して、上部の大きな持ち手を出して運びました。天板の灰色部分はプリンターで、この一台で印刷までできたのです。
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もう一つは平成6年(1994)にカシオが発売した「PX-8」。本体がかなりスリムになり、モニターを倒して収納しました。今回こちらを紹介したのは年賀状用のフロッピーディスクが充実しているからです。フォント2枚、年賀状のアプリケーション2枚、イラスト2枚で、これだけのものを使いこなしていたということが分かります。ちなみに干支は翌年の平成7年の亥で、購入して最初の年賀状ということで残ったのかもしれません。
プリンターは後ろから紙を差し込んで印刷しましたが、金と銀のインクリボンも残されていました。
ワープロの全盛期は短く、平成10年代にはパソコンが主流となります。けれどもワープロで生まれた漢字変換機能は欠かせないものとして今も私たちの生活に深く関わっているのです。
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企画展「昔の印刷」は2月4日(日)で終了となりますので、ご注意ください。
2月5日(月)~9日(金)は展示替えのため休館で、2月10日(土)より企画展「ひな飾り展~内裏びな~」を開催します。詳細は改めてご案内いたします。
2024年1月
1月27日より金沢くらしの博物館、金沢市老舗記念館、金沢湯涌夢二館、金沢湯涌江戸村の所蔵品が追加公開されました。今後も順次追加公開される予定です。
金沢ミュージアム+(プラス)では、金沢市が所蔵する様々なコレクションを公開しています。
今回は所蔵品のうち1,009点を公開しました。3月までは月1回、4月以降は随時追加する予定です。詳細は金沢デジタルミュージアム+でご覧ください。
年賀状を出す風習は平安時代からあったとされますが、明治時代に郵便制度が始まると多くの人が出すようになりました。昭和24年(1949)12月にお年玉くじ付き年賀はがきが登場し、正月の風物詩として定着していきます。
現代はパソコンなどで簡単に絵や文章を印刷することができますが、かつては一枚一枚手書きしたものです。今回紹介するのはそうした時代の年賀状に使われた道具たちです。
1枚目は手作りの木版です。「初春」に鶏の絵と一緒に残された年賀状から昭和32年(1957)用と考えられます。2枚目は木版や年賀状と一緒に入っていたスタンプです。十二支すべてではありませんが、毎年少しずつ買い集めた物です。住所氏名印と一緒に空き箱に保管されており、毎年年末になると取り出していたと思われます。
そしてスタンプ台も歴代のものが残されており、昭和初期の物から現代とほぼ同じデザインになったものがあります。多くの方がこのいずれかのデザインのものを使っていたのではと思います。なお、3つとも色違い(青・茶・黒)なので残ったようです。
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そんな年賀状の印刷を大きく変えたのが、昭和52年(1977)に理想科学工業が発売した「プリントゴッコ」です。家庭で大量にカラー印刷できるようになり、年末の風物詩が大きく変わりました。今回は昭和56年(1981)のB6と昭和62年(1987)のPG-10の2つをランプ等の付属品とともに展示しております。
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プリントゴッコが最も革新的だったのが、書いた原稿をそのまま印刷できることでした。すでに謄写版印刷でこの技術はあったのですが、事前に作った原稿を焼き付けて版を作り、さらに細かく色分けしてカラー印刷できるようにしたのが大きいです。
映像で使い方を紹介するために20数年ぶりに製版してみましたが、年代物のインクが分離しており、うまく行きませんでした。それでもおおよその雰囲気はお伝えできたかと思います。
次回は、ワープロを紹介する予定です。
今年の元旦は大変なことになってしまいました。能登半島地震で被害に遭われた皆様に心からお見舞い申し上げます。
博物館は臨時休館をいただき、展示物や設備の点検を行った上で6日より開館しております。建物(国指定文化財)に大きな被害はありませんでしたが、エレベーターが故障しました。当面の間ご迷惑をおかけしますが、ご理解いただけますようお願い申し上げます。
※1月10日に修理完了し、エレベーターが使用可能になりました。(1月11日追記)
さて年明け最初に紹介するのは「タイプライター」です。私たちの生活に欠かせないパソコンのキーボードの文字配列はこのタイプライターが基になっています。
館蔵品で最も古い物は大正13年(1924)に発売されたもので、アーム(活字)が動いて印字するのが見える「フロントストライク」方式のものです。当初のタイプライターは活字が見えず、うまく打てたかどうかがわからなかったそうです。
ちなみに白いタイプライターは昭和40年(1965)のもので、ドイツ語・フランス語にも対応しています。当時大学でドイツ語を学んでいた方が使っていた物です。
インクリボンは布にインクをしみこませたもので、ある程度印字したらスライドさせて使います。黒と赤の二段になっており、特定のキーを押すなどして色を切り替えました。
古い物はしっかりとキーを押さないと印字されないのですが、新しい物は軽い力で打てるようになっています。とは言え、人によって濃淡が発生しますので、後にモーターで均等に印字する電動式が登場します。
当館では複数のタイプライターを所蔵しているので、二つの方法でお客様に印字体験してもらうことにしました。いずれもタイミング次第ということになりますが、できるだけ多くの方に体験していただければ幸いです。
その1「タイプしてみませんか?」(不定期、約10分)学芸員の出勤日に受付にボードを設置
その2「タイプライターを打ってみよう」(1月20日(土)10時~、11時~、約30分)当日申込可
なお、「アルファベット(大文字)」と「カタカナ」が打てます。
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日本語はカタカナだけでは分かりづらいので、漢字が欠かせません。そこで開発されたのが「和文タイプライター」です。活字を一つ一つ印字しますが、問題は「何文字」用意して「どう並べるか」です。
今回は館蔵品を2点展示しておりますが、いずれも2000文字以上が文字盤に入っています。よく使われる文字は中央などに集め、他の文字は「音読み」で並べてあります。この音読みが難易度を上げており、文字の配置を頭に入れたプロでなければスムーズに探すことができないのです。
別コーナーのパーテーションパネルで文字配列表を紹介しておりますが、4つの例文があります。是非「文字を拾って」みてください。
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次回は、年賀状にまつわる印刷を紹介する予定です。