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ブログ(2017年10~12月)
2017年12月
しめ飾りを玄関に飾ると、年末まであとわずかとなったことを実感します。28日は仕事納めで、年内最後の開館日となります。
23日より開始しました入館者プレゼント「初夢枕紙」は、多くの方にお渡しすることができました。感謝の気持ちをこめてお渡しするとともに、皆様にとってよい新年となることを願っております。
少し早いですが、本年は大変お世話になりありがとうございました。来年もまたよろしくお願い申し上げます。
◆お知らせ◆
年末年始(12月29日~1月3日)は休館しますので、ご注意ください。来年は1月4日(木)より開館します。
昨日の雨で先日積もった雪はすべて溶けましたが、夕方の雷の大音響(北国名物「ブリ起こし」「雪ガミナリ」)、そして夜のアラレ交じりの雨。いつのまにか雪に変わり、大雪のフルコースとなりました。
小立野台地は香林坊や広坂より標高が少し高いので雪が積もりやすいのですが、ここまでの雪は数年ぶりです。除雪作業中にも雪は降り積もり、計ってみたら朝10時半で29センチでした。
本日は臨時駐車場を建物正面の松の木の周りにご用意しました。市内各地で雪が多いと思われますので、ご来館の際には気をつけてお越し下さい。
暖房に使う火は長時間燃やすために、道具に応じて燃料を使い分けました。
木炭は古くから使われていましたが、奈良時代に暖房に適した「白炭(しろずみ)」が登場し、明治時代以降に一般に広まりました。
1枚目(左)は「炭俵」です。山に築かれた炭小屋の窯で5日間ほど蒸し焼きして木炭を作りますが、ススキを編んだ俵に入れて出荷されました。俵の側面から、一定の長さに揃えられた太い木炭が見えます。
木炭は硬いので、2枚目(右)の「炭切ノコギリ」で使いやすい長さに切りました。
家庭などでは3枚目(左)の「炭入れ」に入れて持ち運んだり、囲炉裏のそばに置いたりしました。
木炭の破片などをすり潰して布海苔(ふのり)などで固めたものが4枚目(右)の「炭団(たどん)」です。大きく固めれば長時間燃えるため、こたつなどで使われました。
大正時代になると、石炭を使った燃料が登場します。5枚目(左)の「豆炭」は大正9年(1920)に発明されました。火がつきにくいので隣の「火起器」に入れて火にかけ、暖房器具などに移しました。
6枚目(右)の「練炭」は大正後期に登場しました。原型はもっと前からあったようですが、写真のような通風孔を持つようになったのはこの頃です。安全に高温で燃焼させるために、隣の「練炭火鉢」に入れて火をつけましたが、こちらは昭和29年(1954)に発明されました。
これらの燃料は灯油や電気の暖房に切り替わるまで、長い間身近なものとして使われてきました。
着物体験の冬編は、床の間に鏡餅を飾って正月の雰囲気で記念撮影となります。寒い季節となってきましたが、元気な子供たちの声で館内はにぎやかでした。
今回も多くの子供たちの素敵な笑顔をいただきましたので、ご紹介します。
次回は1月8日(月・祝)に「着物で旗源平!」を開催しますが、小学生のみとなりますのでご注意ください。12月12日(火)より受付を開始します。
企画展「昔の道具~暖房~」ではさまざまな資料を展示していますが、より深く道具の歴史や成り立ちについて知っていただくために展示品を紹介します。
1枚目(左)は「火打ち石」と「火打ち金」です。石を手に持ち、その角に火打ち金を打ち付けると火花が飛びます。燃えやすい「火口(ほくち)」を下に置いて火花を落とし、息を吹きかけて火をおこします。
無事に火がおきると、2枚目(右)の「付け木」を細く裂いて硫黄が塗られた部分に火を移し、囲炉裏やカマドなどに火をつけます。
マッチは外国で生まれたもので、フランスに学んだ清水誠が明治8年(1875)に国産化に成功して以来、広く使われるようになりました。清水は旧加賀藩士で卯辰山に顕彰碑があります。郷土の偉人として「金沢ふるさと偉人館」で紹介されています。
かつてはお店などでマッチが配られましたので、いろいろなラベルが残っています。今でも喫茶店のレジの片隅などで同様のものを見ることができます。
火を安全に使う道具もさまざまなものがあります。4枚目(左)は「台十能(だいじゅうのう)」で、囲炉裏から火のついた炭などを入れてカマドなどへ運ぶのに使いました。床に置けるように木の台がついています。
5枚目(右)は「火消し壷」です。家を留守にする時などには、中に火のついた炭を入れて空気を遮断して火を消しました。火が消えた炭は「消し炭」になりますが、火がつけやすいので再利用しました。このように燃料がすべて燃えて灰になるまで有効に使いました。
2017年11月
先月20日に文化財指定の答申がありましたが、本日発行の官報(臨時)により、国重要文化財に指定されました。
お天気もよくすばらしい一日となりそうです。お祝いの幟旗を掲示しましたが、月末まで展示替え休館中のためご覧いただけるのは外観だけとなります。
次回展示「昔の道具~暖房~」は12月1日(金)より開催しますので、是非お越し下さい。
金沢くらしの大百科の料理・ことばのアンケートが、合計300枚となりましたので、ランキングを更新しました。
前回は5月にランキングを作成しましたので、半年ぶりとなります。
料理ランキングでは「ナスソーメン」が3位から2位へ、「べろべろ・えびす」が6位から5位へと変わりました。そして「頭脳パン(頭によいレーズン入り)」がアンケートに初登場しました。
前回の報告では夏に入ることから、7位の「どじょうの蒲焼」の上昇を予想しましたが、季節を味方につけたのは「ナスソーメン」でした。ということは、次回は冬の料理「治部煮」「かぶら寿し」がランキングアップするかもしれません。
ことばのランキングは大きな変動はありませんが、「どいね(どうなの?)」「一題目、二題目(歌詞の一番、二番)」「かたがる(絵などが傾いている)」などが初めてアンケートに加わりました。
◆お知らせ◆
先週まで毎週紹介してきました14回にわたる「写真で見る戦後の金沢」シリーズを見やすいように、専用ページを作りました。下記のリンクを利用してご覧下さい。
「写真で見る戦後の金沢」まとめへ
特別展「写真で見る戦後の金沢」は26日(日)で最終日です。まだの方は是非ご来館ください。
展示替え休館は11月27日(月)~30日(金)で、次回は企画展「昔の道具~暖房~」(12月1日(土)~来年2月18日(日))を開催します。
湯涌温泉は金沢の奥座敷と言われ、かつて竹久夢二が訪れたことで知られています。
1枚目(左)は昭和7年(1932)に開業し、東洋一の殿堂温泉として知られた「白雲楼ホテル」です。2枚目(右)の大広間「医王の間」には相川松瑞が四季を描いた豪華絢爛な襖絵があり、この他にも様々な美術工芸品が館内に飾られていました。いずれも昭和30年代に撮影されたものと思われます。
3枚目は昭和42年(1967)に開村した「百万石文化園江戸村」の入口です。門柱の様子などから開村間もない頃に撮影されたと思われます。白雲楼から山の方へ徒歩5分歩いた所にあり、広大な敷地内に複数の江戸時代の建物を移築して、職人道具などを展示していました。
白雲楼ホテルは経営難により平成11年に倒産したため、老朽化したホテルの建物は取り壊されました。旧江戸村の建物は現在の場所に移築され、平成22年金沢湯涌江戸村として開村しました。
4枚目(左)は昭和30年代の湯涌温泉街で、手前左の空地は現在郵便局となっています。町家が並ぶ中にレトロな街灯があり、ひなびた湯治場の雰囲気を感じることができます。
5枚目(右)はもう少し奥に進んだ場所で、道路の上に「あたらしや」とあります。平成に入るとあたらしやは新築移転し、跡地は平成11年に総湯「白鷺温泉」となって現在に至ります。
9月から3ヵ月連続で開催してきました着物体験の秋編、最終回です。
初日はあいにくの雨でしたが、二日目は天候に恵まれ、多数のお子さんにご参加いただきました。
そんなあわただしい中、初出し品の着物を選ばれたお嬢さんに階段での記念撮影をお願いしました。左の紫の着物なのですが、色がすばらしいとボランティアの間でも評判がよく、人気の着物になりそうです。
この3ヵ月でたくさんの着物をいただきましたので、少しずつ追加しています。たくさんの子供たちに素敵な思い出を作っていただけるよう、今後も充実させていく予定です。
左の写真にずらっと並んだ着物から今回の盛況ぶりが伝わるでしょうか。中には年賀状用にされるという方もおられましたので、すてきな年賀状になれば幸いです。
なお、今回は床の間に嫁入りの時にトラックの上に載せたというワラの鶴亀を飾りました。
次回は12月9日(土)・10日(日)に冬編を開催します。11月21日(火)より受付を開始します。
金沢の中心地は犀川と浅野川にはさまれており、川にかかる橋はくらしに欠かせないものでした。
1枚目は犀川にかかる桜橋を撮影したものです。橋桁の形状から、昭和36年(1961)7月の豪雨で流失する前の写真と考えられます。河原にはたくさんの雪が積もり、奥には片町の大和などの街並みが見えます。
桜橋は昭和38年(1963)にコンクリート製の永久橋に架け替えられました。
2枚目は犀川大橋から上流方向を撮影したものです。奥に小さく写る桜橋が架け替え前なので、昭和30年代の前半と考えられます。
この時代はまだ河川敷が整備されていないため、川幅が広く感じられます。
3枚目は卯辰山のふもとの常磐町付近から中心地方向に撮影したものです。右奥に写る橋は天神橋で、昭和28年(1953)の豪雨で流失する前のものです。
浅野川の左側には街並みが連なりますが、まだ高層建築があまりないため、奥にある金沢城の森が見えます。
4枚目は浅野川大橋と天神橋の間の川原で撮影したものです。左奥に写る天神橋は昭和30年(1955)に架け替えたものに変わっており、それ以後の写真と思われます。
中央にある大きな木のふもとあたりに梅の橋がありましたが、昭和28年(1953)の豪雨で流失しました。昭和53年(1978)に橋が復元されるまで、このような風景でした。
右の建物には「北国第一」とあります。当時は川べりに映画館があり、多くの人々が映画を見に訪れましたが、昭和50年(1975)に閉館しました。
卯辰山は古くは「向山(むかいやま)」・「夢香山(むこうやま)」などと呼ばれ、地元の人々に親しまれてきました。
車社会になると山頂へ登る道路が整備され、1枚目のような写真が残されています。道路が未舗装のため、昭和30年代と思われます。
天神橋~山頂の舗装工事は昭和39年(1964)、山の上町~山頂は昭和48年(1973)に完成しました。
2枚目(左)は昭和32年頃(1957)に卯辰山の公園にいた鹿を写したものです。3枚目(右)は昭和33年(1958)の6月に撮影されたもので、いずれも山頂の「玉兎ヶ丘(ぎょくとがおか)」周辺にあったと思われます。展望台などもあり、人々が散策できるように整備されていました。
4枚目(左)は昭和33年(1958)の11月に完成した「金沢ヘルスセンター」です。当初は大広間や大浴場を中心とした娯楽施設が作られ、後に動物園なども作られました。昭和58年(1983)には「金沢サニーランド」と名称変更しています。
5枚目(右)も昭和38年(1963)の8月に開館した「金沢水族館」で、ヘルスセンターの隣にありました。後にヘルスセンターと水族館はロープウェーで結ばれ、多くの客が訪れました。
サニーランドは平成5年に閉鎖され、動物たちは能美市のいしかわ動物園に引き継がれました。
2017年10月
仕事をしている姿も「くらし」の一環であり、特に屋外で作業する様子は風物詩でもありました。
1枚目(左)は浅野川の友禅流しで、昭和40年代と思われます。左上に浅野川大橋が写り、川べりには雪が積もっています。染めた布を大量の水で洗って糊や余分な染料を落とすのですが、冷たい水で行うと発色が良くなるため、雪の降る中ですることもありました。
2枚目(右)は犀川の友禅流しで、昭和30年代と思われます。染色団地ができると、工場内の人工の川で作業ができるようになったため、犀川では行われなくなりました。
3枚目の写真は昭和27年頃(1952)に、味噌蔵町で撮影したものです。軒先に和傘が複数吊下げられ、特徴ある模様から蛇の目傘(女性用)であることが分かります。
男性の足元に置かれているのは番傘で、干し終わったところでしょうか。紙を張った後に防水用の油を塗るのですが、全体に行き渡るようにひっくり返して干したりました。
洋傘が普及すると、和傘はあまり使われなくなり、職人の数も激減してしまいました。
4枚目(左)は昭和27年頃(1952)で、味噌蔵町付近を牛が荷物を引いて歩いている所です。馬を撮影した写真もあり、この時代は運搬用の牛や馬が欠かせませんでした。
5枚目(右)も昭和27年頃(1952)で、浅野川大橋で撮影されました。よく見ると、大八車が2台あり、手前の男性が勢いよく走って抜かそうとしているようです。どちらも樽を複数積んでおり、しょう油や味噌などを運んでいたのでしょうか。
6枚目の写真は昭和27年頃(1952)で、リヤカーいっぱいに花が入っています。女性も花を持っており、後ろの家に頼まれたものを運び込もうとしているのでしょうか。
撮影地は不明ですが、奥に細い通りが見えます。裏通りなどの狭い道にはリヤカーが便利でした。
このような行商の人々も昔はよく見られたようですが、現在はあまり見かけなくなりました。
秋の着物体験第2弾を10月21日(土)・22日(日)に行い、「戦前のくらし」の床の間に獅子頭を飾りました。
台風が接近しているため、22日は玄関ホールで和傘と記念撮影を行いましたが、多数の方にご参加いただきました。
次回は11月11日(土)・12日(日)に第3弾を開催します。10月24日(火)より受付を開始します。
国の文化審議会が10月20日に「旧石川県第二中学校本館」を重要文化財に指定するよう答申し、近く告示される予定です。
近年発見された創建当初の設計図(玄関ホールに複製を展示)で当時の姿をよく残していることが分かり、歴史的価値が評価されました。
明治中期に改正された中学校令を基に設置された中学校校舎の初期の遺例で、当時の設計指針を踏まえつつ、装飾に独創性がみられ、近代の学校建築の発展過程を知る上で、高い価値が認められるそうです。
来館の際には是非建物もゆっくりとご覧下さい。
古い写真に写る人々の服装などに注目すると、当時のくらしぶりを知ることができます。
1枚目の写真は昭和27年頃(1952)に、金沢駅に向かって歩く人々を撮影したものです。
中央左手の女性は着物・もんぺに草履をはき、大きな風呂敷包みを背負っています。当時は行商などでこのような姿をよく見かけました。
女性の左奥の男性は着物に下駄をはき、右手に唐草模様の風呂敷包みを持っています。それ以外の人々は洋服で、着物と洋服が混在していた時代の様子がよく分かります。
2枚目(左)は金沢の正月遊び「旗源平」で、昭和30年代と思われます。この頃は正月に晴れ着として着物を着たので、左側中央の男の子も着物を着ています。
「旗源平」はサイコロ2個を振って出た目で旗を取り合いますが、昔は写真のように畳のへりの隙間に旗を差し込んで立てました。今の旗源平は根元が丸いですが、古い物は旗の根元を平らに削ってあり、差し込みやすいようになっていました。
3枚目(右)は1月に行われる加賀とびの「出初式」で、昭和30年代と思われます。現在は金沢城公園で行われていますが、平成14年までは犀川の河原で行われていました。梯子登りを披露した後は写真のような一斉放水が行われ、空高く水柱が何本も並びました。
4枚目(左)は昭和27年頃(1952)で、「ゴリ」を獲っている所です。金沢では淡水魚のカジカやウツセミカジカを「ゴリ」と呼び、加賀料理に欠かせません。白い服の男性が手にしている竹製の「ブッタイ」の中に追い込んで、すくいあげて獲りました。
5枚目(右)も昭和27年頃(1952)で、大野川(機具橋付近)で撮影されました。手にしているのは竹製の継竿で、余分の竿を袋に入れて背負っているようです。手元にはジャンジャン(金属製の籠)があり、釣った魚を入れました。
このような人々も川の歳時記としてよく見られましたが、魚がいなくなったり道具が変わったりして現在は様変わりしています。
百万石まつりには様々な行列がありましたが、「商工パレード」が最も華やかだったようです。
1枚目(左)の写真は昭和28年(1953)に撮影されたもので、尾張町の大通りを橋場町に向かって歩いています。当時は「広告行列」といい、二日間に渡って市内を100数十台の山車や仮装が行進し、各部門の入賞者が発表されています。
2枚目(右)の写真は昭和30年代のものと思われます。昭和33年(1958)に「商工パレード」と改称し、トラック等が中心となります。昭和36年(1961)までは百万石行列と別の日に行われていましたが、翌年以降は一緒に回るようになりました。
昭和50年代に入ると参加する企業や団体などが減ったりして中止した年もあり、平成11年の開催が最後となりました。
音楽パレードは現在もありますが、昭和37~43年(1962~68)にかけてに登場した「フラワーガール」をご存知でしょうか。
3枚目の写真は昭和41年(1966)に片町を歩く姿を撮影したものです。洋裁学校の生徒が、企業から布の提供を受けて作った揃いのユニホームを着て参加しました。
音楽パレードに続くのは加賀とびや奴行列、そして獅子舞。4枚目の写真(昭和40年代)のように、加賀とびは勇壮なはしご登りを披露しました。
奴行列や獅子舞は最初から参加していたようですが、加賀とびが登場したのは昭和32年(1957)のことでした。
開催時期によって、さまざまな民俗芸能が参加していたようで、5枚目(左)は大野の「山王悪魔払い」で昭和42~47年(1967~72)に参加、6枚目(右)は金石の「曳山」で、昭和45年(1970)に初登場し昭和47年まで出ていました。
このほかにも能登のキリコが参加するなど、年によって色々なパレードがあったことが分かります。
毎年6月に行われる「百万石まつり」は、昭和27年(1952)に戦前の金沢市祭と、戦後の商工まつりを合わせた形で誕生しました。
今回は「百万石行列編」として、利家公を中心とした時代行列を紹介します。
1枚目は昭和36年頃(1961)の利家公です。写真の左端の男性が「鯰尾兜(なまずおかぶと)」を持っています。この兜を被って行列することもありました。
利家公といえば芸能人のイメージがありますが、昭和58年(1983)までは地元の人が務めており、さまざまな年齢や職業だったようです。
ちなみにお松の方は大和と丸越に勤める女性の中から選ばれたそうです。
珠姫が登場するのは昭和44年(1969)の「加賀藩史懐古行列」で、4歳ながら約4キロの道程を歩き通したことが当時の新聞記事に記されています。
ところで現在は利家公は行列の最後の方に登場しますが、当時も同じだったのでしょうか。
昭和33年(1958)に目玉として「利家公入城行列」を再現していますが、利家公は最初の方にいたようです。「大名行列」の後に「かつぎ行列」「こども奴」「少年武者行列」「大人奴」が並び、現在とだいぶ異なります。
また、昭和31~34年(1956~59)は香林坊~武蔵ヶ辻~橋場町~兼六園下を時計回りに歩いています。2枚目の写真(昭和33年)のように尾張町を橋場町に向かって歩く写真が出てきたら、これらの年のいずれかの可能性があります。
3枚目(左)は「かつぎ行列」(昭和33年)が香林坊交差点を歩くところです。この年初めて加わった行列で、桃山時代の風俗を再現しています。後に江戸時代の風俗を再現するなど、年によって変わっていきました。
4枚目(右)は「少年武者行列」(昭和33年)が尾張町を歩いています。前年に登場し、この年は100名近い男児が参加しました。
当時の新聞記事を調べてみると年によって様々な試みが行われ、行列の様子が少しずつ変わってきたことが分かります。
過ごしやすい気候になってきましたので、着物体験を再開しました。第1弾は9月30日(土)・10月1日(日)に行い、お天気にも恵まれました。
6月開催の「親子で和傘と着物体験」で職人さんに屋外で撮影した方がよいと勧められましたので、今回は玄関の外でも写真撮影を行いました。素敵な写真になりましたので、ご紹介いたします。
次回は10月21日(土)・22日(日)に第2弾を行います。10月3日(火)に金沢市広報にご案内を掲載し、受付を開始します。