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ちょっと昔の金沢

市電~路面電車


廃止記念盃

 金沢市内でかつて中心地などを路面電車が走っていました。この路面電車は「市電」と呼ばれ、青い車体を使っていたことから「青電車」とも呼ばれました。大正8年(1819)に開通し、昭和42年(1967)も廃止されるまで、市民の足として利用されました。
 大正8年に開通する際に、市電を通すために道幅を広くする必要があり、街並みが大きく変わりました。その様子は『金沢市電車開通記念写真帖』に掲載された、開通前と開通後の写真でよく分かります。
 当初は金沢駅から兼六園下まででしたが、次第に路線が増え、金沢の中心部の移動にはなくてはならないものになりました。金沢電気鉄道株式会社としてスタートしましたが、昭和17年に北陸鉄道となりました。
 戦後も鳴和・東金沢まで路線を伸ばすなどしましたが、次第に車などにおされ、利用客の減少がみられるようになりました。
 そして、昭和42年2月10日をもって廃止することになり、2月1日から10日まで別れの花電車が市内各地を走りました。市電が廃止された後は、バスがその役割を担うことになりました。また、金沢と金石を結んでいた金石線も昭和46年に廃止され、加南線、能美線などの県内の鉄道も次々に廃止されていきました。


市電切符(昭和8年)

市電切符(昭和42年)
金沢と鉄道

 日本で初めて鉄道が走ったのは明治5年(1872)でした。そして東海道が開通したあと、米原から少しずつ路線をのばし、金沢駅が開業したのは明治31年(1898)のことでした。
 戦後、昭和27年(1952)に鉄筋コンクリートの駅舎が完成し、地下にデパートが作られました。現在の駅舎は線路の高架化にともない、平成2年に完成したものです。
 昔の鉄道は蒸気機関車でしたが、昔の時刻表を見てみると、現在よりはるかに本数が少ないのが分かります。開通した頃の時刻表を見ると、上りも下りも一日6本しかなく、大正13年の時刻表では上り10本、下り11本になっていますが、米原まで約6時間かかったことがわかります。


金沢駅時刻表(昭和5年頃)

金沢駅時刻表(昭和34年)

雪と金沢

 金沢は北陸にあるので、冬は寒く雪が積もっているというイメージがあります。しかしながら、気象庁の降雪量の統計データを参考にすると、昭和61(1986)年の「六一豪雪」を最後に、大きく減っていることが分かります。このため、1月や2月であっても雪があまりない時期もあります。
 では、今よりもっとたくさん雪が降っていた時代はどんな風だったのでしょうか?金沢の近代文学を代表する三文豪の一人である泉鏡花は、明治29年(1896)に発表した「北国空」で当時の生活の様子を詳しく記しています。それによると、夕方から絶え間なく降る雪は一晩で20~30センチも積り、90センチ近く積もると屋根の雪下ろしをしなければならなかったとあります。今の時代から考えてみるとものすごい雪のように感じますが、昭和38年(1963)の有名な「三八豪雪」では1.8メートルも積ったといいますから、もっと前の明治時代にたくさん雪が降っていたとしても不思議なことではありません。

冬の風物詩

 金沢の雪は水分を含んでいて重たいので、木に積もった雪の重みで折れたりしないように「雪吊り」をします。兼六園などの有名な所だけではなく、一般家庭でも雪吊りをしています。また、武家屋敷がある長町などでは、土塀が多くありますので、積もった雪で傷まないように「こも掛け」をします。これらの準備は雪が積もる前に行われますので、12月頃になると、市内のあちこちで見ることができます。雪が積もると、昔はコシキダで雪をすかしました。また、雪がひどい時は傘では濡れてしまうので、ゴザボウシをかぶることもありました。


雪吊り

こも掛け

コシキダ

ゴザボウシ

 そして雪が積もると、昔はなかなか雪をすべてどかせなかったので、通行人に踏み固められた道を歩きました。柔らかい雪を踏んでしまうと、下駄の間に雪が積もるので、玄関先の「ガッポ(ゴッポ)石」に叩きつけて落しました。たくさん人が歩いて踏み固められた雪が固まると、「きんかんなまなま」になります。これは氷のように固く凍った雪のことを意味し、滑りやすい危険な道でした。大人は鉄の金具をつけた雪下駄を突き刺すように歩きましたが、子供にとってはかっこうの遊び場で、「竹下駄」でスケートのように滑って遊んだりしました。街中に雪がいっぱいあるので、坂道などを「竹スキー」で滑ったりしていました。今は融雪装置があり、除雪車も入りますので、街中では「きんかんなまなま」な道は見られなくなりました。


ガッポ石

きんかんなまなま

竹下駄

竹スキー

映画館街

 今でも映画は楽しみの一つですが、大きな映画館ではいくつものスクリーンがあります。ところが、昔はスクリーンが一つだけの小さな映画館が市内にいくつもありました。特に香林坊に集中し、映画館が並ぶ通りがありました。現在はほとんど駐車場に変わり当時の面影はありませんが、案内板の標識には「シネマストリート」の文字があります。
 金沢で初めて映画が上映されたのは明治30年(1897)、それ以後、いろんな映画館が登場しましたが、名称がいろいろ変わったものもあります。このため、いつからいつまでその映画館があったかはっきりと分からないものもあります。当時の記憶や書籍・住宅明細図などを参考に、おおよその位置を記したのが下の地図です。この他にも市内にはたくさんの映画館がありました。

この他に、
・ムービー菊水(東山)
・北国第一劇場・北国会館(浅野川)
・スタア劇場(石引)
・金沢劇場(片町)
・昭和劇場(尾張町)
・ムサシ東映(武蔵ヶ辻)
・テアトル会館(横安江)
・ロキシー(金沢駅前)
などがあった
映画館とチラシ

 今はスクリーンがいくつもあるので、同時にいろんな映画を上映することができますが、昔は3日から一週間ぐらいで映画を入れ替えたりしました。その代わりに二本立てや三本立てなど、同じスクリーンで時間ごとに違う映画を上映したりしました。このため、連続で映画を見たり、上映途中から座席に入ったりすることもありました。
 博物館では昭和初期から30年代を中心とした市内の映画館のチラシや鑑賞券などを多数所蔵しています。


第二菊水(尾張町)
昭和11年頃

パリー・ロマン菊水(香林坊)
ムービ菊水(東山)昭和32年

金沢劇場(片町)
昭和12年頃

昔の写真

 金沢くらしの博物館では昔の写真も収集しています。
 平成29年度特別展「写真で見る戦後の金沢」の開催にあたり、展示した主な写真をブログという形でまとめました。詳細は別ページでご覧下さい。

            「写真で見る戦後の金沢」まとめへ


金沢駅 昭和37年頃

航空写真 昭和34年頃

ごりとり 昭和27年頃

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