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特別展「三尖塔校舎」まとめ

 平成30年度開催の特別展「三尖塔校舎」では、博物館の建物に関わる貴重な資料を紹介しました。これらの資料の中からHPで公開可能な写真をブログという形で紹介し、概要についても記しています。

1.校舎の成り立ち編
2.創建当初の図面編
3.建物の特徴編
4.同時代の校舎と金沢三中編

「三尖塔校舎」1.校舎の成り立ち編
2018年6月10日

 博物館の建物である国重要文化財「旧石川県第二中学校 本館」は、明治32年(1899)に建てられた洋風木造建築であり、「三尖塔校舎」の愛称で親しまれてきました。開館40周年にあたり、建物にスポットを当てた特別展を開催して沿革などを紹介していきます。
 「第二中学校」が設置されるまでは、明治26年(1893)に開校した「石川県尋常中学校」が唯一の中学校でした。しかしながら、生徒が増えたため増設が必要となりました。
 そこで明治32年(1899)4月、金沢に「第二中学校」、七尾に「第三中学校」、小松に「第四中学校」が開校しました。いずれも校舎が完成したのは9月以降でしたが、ほぼ同時期に作られすべて山口孝吉が設計したと考えられます。
 今回の展示で古写真を収集し、図面を作成したところ、同一ではなく、尖塔の有無や部屋の配置を変えるなど、いくつかの違いが見られる事が分かりました。
 なお、三中の建物は焼失し、四中は一部のみ現存、本館がほぼ残るのは二中だけです。

「三尖塔校舎」2.創建当初の図面編
2018年6月16日

 三尖塔校舎が国重要文化財の指定を受ける大きな契機となったのが、近年発見された設計図面でした。3枚残っており、「第壱号」と記された建築図の右下に鉛筆で「Designed by K.Yamaguchi」とあったことから、当時石川県工師(技師)であった山口孝吉の設計と判明しました。また、同図面に「尋常中学校」とあることから、明治32年(1899)2月に改正された中学校令以前の呼称であり、創建当初の図面であることが分かりました。
 折りしもリニューアル工事の直前に発見されたため、壁の構造などを調査した結果、当時の建築基準を守り、図面の通りに作られていることを確認しています。
 これらの図面は貴重な資料であり、建物と同様に国の文化財に指定されています。


 特別展では貴重な図面を3点とも公開し、工事中の写真も紹介しています。かつて尖塔にあった小窓の存在を確認できる内側からの写真、壁の筋交いの構造など、これまで見ることができなかった内部の様子を知ることができます。
 外壁の塗装も交換する部材を削って調べた結果、明治時代は茶色で、大正~昭和初期のクリーム色を経て、昭和40年頃に現在の紫色に変わっていることが分かりました。
 二階の床も当初の杉材を露出させ、カーペットで上から保護しています。この他にも開口部の復元や修復を行いました。
 これらの工事の詳細は『旧石川県立第二中学校三尖塔校舎 修理工事報告書』(金沢市文化財紀要306)にまとめられています。

「三尖塔校舎」3.建物の特徴編
2018年8月5日

 当時の国が定めた学校建築指針では外観の虚飾を去り、質朴堅牢にして土地の情態に適合することとありますが、設計者独自の意匠による装飾もある程度許容されていました。
 最も特徴的なのは、大小の三角形を組み合わせた屋根であり、真上から見ると複雑な構造になっているのが分かります。左右の尖塔と中央の屋根に設けられた避雷針は復元品ですが、曲線を中心とした美しいデザインとなっています。

 玄関周辺や階段の手すりには透かし彫りなどが施され、外壁も窓に交互につけた小庇(こひさし)で変化をつけたりしています。中学校と知らなければ洋館の写真に見えるほど、細やかな装飾があちこちに施されており、こうした細部の意匠に設計者・山口孝吉の情熱を感じることができます。

 建物の基礎はレンガ積で、笏谷石(しゃくだにいし)で換気口を設けています。

 この他にも、二階の床下に防音のために詰めたとされるもみ殻や、当時の設計基準にしたがって作られた屋根裏の小屋組など、見えない所にも特徴があります。

「三尖塔校舎」4.同時代の校舎と金沢三中編
2018年8月19日

 第二中学校が建てられた前後に、市内に多くの校舎が建てられており、絵葉書などで当時の姿を見ることができます。
 最も雰囲気が似ているのが、明治34年(1901)に完成した石川県立高等女学校ですが、屋根の装飾はあまり見られません。
 尖塔は全国的に中央に一つ設ける例が多く、第二中学校の二つの尖塔は学校建築としては古い例とされています。建物を強く印象付ける尖塔は、その建築デザインにおいても非常に希少なものと言えます。
 設計者・山口孝吉は明治32年(1899)4月に退職し石川県を去りました。その後海軍を経て文部省に入り、東京帝国大学の校舎の設計に携わりました。その多くは関東大震災で失われましたが、理学部化学館東館などが現存しています。


 明治40年(1907)「石川県立金沢第二中学校」と改称し、「金沢二中」と呼ばれます。開校から8年が経ち、一中の分校からライバル校へと変わり、自由かっ達な学風が生まれつつありました。
 大正に入ると進学を希望する生徒が増加し、大正10年(1921)に「金沢三中」が開校しました。設計者は石川県技手の田邊満一で、後に金沢二中の奉安殿も担当しました。同氏は県内各地の建物の多くの古写真や設計図を残しており、これらは「田邊満一資料」として保管されています。その中には第二中学校の設計図の一部を模写したものも含まれており、不明である当初設計図の内容を知る貴重な資料となっています。


 金沢二中は昭和23年(1948)の学制改革で廃校となりました。校舎は紫錦台中学校が使用し、そのまま残りました。
 昭和38年(1963)に金沢錦丘高校が開校するときに、金沢二中の校歌の一節から校名をとって後継校となりました。

 「三尖塔校舎」として親しまれてきたこの建物は、昭和45年(1967)まで校舎として使われました。
 昭和49年(1974)に金沢市文化財に指定され博物館として活用することになり、昭和53年(1978)に開館して現在に至ります。

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