不定期連載

おすすめの秋聲作品を不定期に連載していきます。
(※作品の区切りは当館の任意によります。)


徳田秋聲「檻(おり)」


(一)
 2019.1.5

 東京から△△雑誌のN氏が遊び旁々原稿取りに来る頃まで、岡辺も林も一筆も筆を取らなかった。二人の心はまたそれほど落着いていなかった。
 それでも日常生活の案外規則正しい岡辺は、広い静かな前の方の部屋に陣取って、障子を締切り、午前には必然(きっと)一回か二回の新聞小説だけは書いた。而(そう)してぞろぞろ書生をつれて、それを郵便局へ出しに行つた。帰りには町や田圃を散歩したり腹ごなしに公園から丘へ登って匂いの高い蜜柑畠や柿の木の間を潜って歩き歩きした。林も折々其の仲間に加わった。
 岡辺が「散歩しませんか」と裏の方の狭い其の部屋を覗いて胡散くさい目に笑みを見せ、語尾の上ったような調子で言うと、林は臆病な小さい目をあげて「行っても可い」と云って何時でも応じた。部屋に独り残っていても、頭脳は矢張自分のものではなかった。所好(すき)な湯槽に浸って冥想していても心の底には始終細(ささ)やかな波が立っていた。

 暖国の浅い山蔭の温泉場には浴客の丁度隙いてゐる九月の半ば過ぎで、山手の蜜柑も柿もまだ青かったが、螽斯(ばった)の簇(む)れている稲田は日に日に色づいて来た。二人の行李を釈いたのは、流れの側に建てられた別荘の二階で、部屋は十畳に八畳に四畳半で、それが鍵形に並んでいた。
 岡辺は一番流れの音に近い四畳半へ入って、年長の林に「貴方(あんた)は此処にいらっしゃい」と云って目皺を寄せながら、大きな体を窓に腰かけた。此処は一番木口の悪い、落着きのない部屋で、障子から直ぐ差込んで来る光線も目眩しい位であったが、石の多い崖に建った百姓家、水車、木挽小屋、墓場などが、流れの向うの木立際から見透かされ、秋近い函嶺続きの山の姿も目の前に見えた。

「そうすれば十畳を食堂兼寝室談話室に使って野村を置きましょう。それとも広い方が可いですか。」

 部屋が決まったとき、そこへ各々(めいめい)鞄を持込んで中から色々の物を取り出した。林は業々しい支度を好まなかったが、岡辺は長いあいだ此処に閉籠る心算(つもり)であったので、必要な下宿の書斎のものを、大方持込んで来た。新たに買込んだ本などもあった。ルナンの耶蘇伝、聖書、ルッソーの懺悔、ツルゲーネフ、ゴリキーの短篇集、梁川文集……そんなような量の重いものが、こてこてと八畳の棚の上に駢べられた。着替も可也あった。宿の娘は、それをきちんと丁寧に始末をすると、今後は衣兜(かくし)にちゃらにちゃら品の悪い音のする林の洋服を、黙って畳んだ。一同は一ト風呂入って来ると、せいせいした顔をして、綺麗に取片着いた部屋の真ん中に、長火鉢を囲んで胡座を組んだ。而して夕飯の来るのを待った。

 岡辺はその頃、世間から様々の悪評を受けていた。仲間の色々の群から来る攻撃の声が、頻々彼の耳に伝わった。書いている新聞小説すら中止されそうになった。

「こんなに方々から遣られるくらいなら、僕は田舎へ引込んでしまう、そして田舎新聞でも書いていよう」と目を嶮しくして能く憤った。「この新聞を休されれば、僕は文壇に一縷の望みもなくなって了(しま)う」と蒼い顔をして悲観もした。作物の評価も、一時ほど揚がらなくなった。激動し易い岡辺の頭脳は、可恐(おそろ)しく動揺しはじめた。でも自から棄てるようなことはなかった。

「如何(どう)して恁う世間から悪く言われるんだか、何処まで追い及められるんだか、僕には些とも解らない。恁う云う時には、右なら右、左なら左と、好かれ悪しかれ僕の行くべき道を明瞭に示してくれる人がほしい」と云って、自信の強いトルストイの心持などを手近な例を引いて説明したりした。

「右に左(とにかく)君はやり過ぎる。少しは周囲も見なければ……」と林は苦笑した。

「その癖僕ほど周囲の顔色をみるものはないじゃありませんか。K―の事だって然うだ。僕が一番尽くして一番悪く言われてる。」

 林には、此の男が唯(ただ)友誼を尽くしているとばかりは思えぬ事もあった。

 恁う云う話の後、二人の間におりおり旅行談が持ち上がった。

「行きましょう、一緒に行って下さい。酒も飲まなければ、決して喧嘩もしないです。」

「けど僕は君なぞに何か教えようと思ってる様な大人じゃないよ。然う云う道伴にはもっと豪(えら)い人を選び玉え。唯(ただ)遊びなら行きましょう。僕も久しく気管が悪い。」

 立つまでには、可也間があった。林は多少家の始末をしておかなければならなかった。岡辺にも色々の事情があった。するうちに期日が迫った。林が朝、ズックの鞄に二三の必要品と和服や襦袢を一二枚入れて帯革を締めてから、長火鉢の処で莨(たばこ)を喫していると、そこへ岡辺から書生の野村が使いに来た。

「此方へまいる筈だったんですけれど、未だに荷物を拵えたり何かしておりまして、大分手間が取れそうですから、何卒(どうぞ)彼方へ入らして下さいと、然う仰るんですが……」と、野村は優しい調子で述べた。

 林はこの二三日、この旅行について色々思い余すようなことがあった。岡辺と同行すると聞いて、警戒してくれる岡辺の知人もあった。林は先々で二人のあいだに起こる煩わしい出来事が、もう予想されるようであった。それに一人で家を出て行くのが、余り好い心持がしなかった。

 下宿へ着いて、部屋へ入ると、其処らが顚覆(ひっくりか)えされたように為っていた。岡辺は林から借りさせた鞄に着物の類を詰めて別に新しく、買い込んだ櫃形(ひつなり)の鞄に本を詰めていた。物の好い竹村の鞄も、次の間に脹んで駢べられてあった。岡辺はそこへ来合わせている竹村の親類だというた学生から贈られた、ウィスキーの角い壜を些と取上げると、妙な手容(てつき)をして、「此奴は途中でちびちびやるんだ」と嬉しそうに舌嘗摺(したなめずり)した。
 そこへ宿の若いものが書付をもって入って来た。岡辺は此の男に原稿料の受取証を渡して、汐を見計らって受取りに行くように命じた。
 一行の荷物は車に積んで行くほど、嵩漲った。

 透いた二等室のクションに落ち着いた時、岡辺は「占めた!」と云う顔をして、はずみ切ったような心持で四下(あたり)を眺めた。話が途切れた時、岡辺は「如何です」とウィスキーの壜を取出した。林は首を棹ってニッと笑って見せた。而して尖った頤(あご)を窓先へ突出して曇った海を見ていた。

 
 

(二)
 2019.1.6

 N―氏が帰って行った頃には、二人の感情も大分荒んでいた。

 着いた時林は特色のない此処の温泉場(ゆば)の自然が案外平凡であるのに失望した。山の浅いのも気に加わなかったし、鼻の閊えそうな区域の狭いのも物足りなかった。それに単調な田舎仕立の食物も段々鼻について来た。「自然なんだ如何でも可いじゃありませんか。僕は俗物だ」と岡辺は手酌をやりながら言っていたが、ごみごみした家庭の濁った空気が体に滲み込んだような林には、もっと懸け離れた山奥の方が好ましかった。此処では変な汁粉屋と、始終繁盛している球突屋とか一件宛(ずつ)ある限りで、岡辺が出て酒でも飲もうと云うような家は何処にもなかった。しめやかに春雨のような雨の降る日には、冴えた球の音が心持よく耳に響いた。熱海から来ていると云う支障に教わって、弾いている懈(だる)い三味線の音が、折々何処やらの二階から洩れて来た。

「御退屈でしょう。些と小田原の方面へでも御出張なすっちゃ如何です。」

 若い宿の主は、ニヤニヤ笑いながら入って来た。「此処には女気と云うものがないのですからな。熱海までお出になれば、些とは遊ぶ処もありましょうがな。」

 まだしも然云う家の此処にないのを悦んでいた林は、恁う云うことを聴かされる度に、独りで戦々(はらはら)していた。岡辺が泳ぎ出すような事があっては、結果が如何(どう)か解らないと思った。林は着く早々から、起つときの払いが気に引っ懸かっていると云うような男であった。
 岡辺は福々しそうな若主の顔を眺めて、「好いね、僕も然う云う風に一日ぷらんぷらんして暮らすような身分になりたいもんだ。」

 主はえへへと笑った。「先生方なんざ一日ぷらんぷらんしてるじゃありませんか。」

「如何だね、何処か其処いらに、懐手でぷらんぷらんしてられるような養子の口はないかね。」

 若主は此処の養子であった。「然よう、ない事もありませんな」と刻莨(きざみたばこ)を喫しながら「近所に後家さんが一人ありますがね、今度は一緒に行って酒でも飲んで来ましょうよ。なかなか別嬪ですぜ。家は天野屋と云って、多分の財産もないが、まあ矢張宿屋をしています。」

「よし行こう、天野屋の養子よかろう。明日から小説なんか罷めちまえ。」岡辺は怳(とぼ)けた身振りをして笑談らしく言った。

 恁う云うような話に傍から調子を合わせるのは、頭脳の工合で、時とすると林には苦痛であった。

 晩飯のとき、岡辺は空になったお仕着せの銚子を振って、「こりゃ怪しからん。此処の量りは余所より辛(から)いんですか。二合じゃないんですか」と目を細くして揶揄(からか)いはじめた。
 初(うぶ)らしい娘は袂で口を蔽うて、困ったような風をして、クスクス笑い出した。色の白い、眉や目の優れて美しい女で、たッぷりした鬢(びん)の毛に優しい癖があった。

「そんなこと御座いませんです。」
「でも何程も飲みませんよ。此処まで限(きり)ッきゃない。」岡辺は爪で銚子に線を引いて見せた。
「宜しゅうございます。」娘は顔もあげずに出て行った。

 少時(しばらく)すると、娘は又一本持って来てお酌をしはじめた。

 酒に酔った岡辺は、眉のあたりに、如何かすると可恐しく辛辣(シビヤ)なような曇りを見せた。目の色も嶮しくなった。つるりと蠟のように青白い顔が、不気味に凄く見えるような事もあった。然う云う時には、必然(きっと)林に喰ってかかった。林もちびちび飲んだ酒が心臓の鼓動を高めて来ると、冷ややかに苦笑してばかりは居られなかった。岡辺の辛辣な一言一句がぴりぴりするような神経に鋭く響いた。岡辺の調子には後から考えると可笑しいような事も、その場合には、左(と)に右(かく)人を焦燥(いらいら)させるだけの刺(とげ)があった。此の刺も脂ッこい林の口の毒で反って苛立つような場合もあった。
 争いは何時も交友間の人格問題であった。岡辺にはその頃Y氏と云う文壇の敵手があった。二人は互いに創作の才を認め合っている間柄であったが、個人としては睨合の姿であった。岡辺は林と此のY氏との間に、深い黙契があるような気がしてならなかった。岡辺の先輩で、同時に林の同輩であったI―氏の創作に対するY―氏の批評が、其の間の消息を語っているものとしか思えなかった。暗い雲が、始終林とY―氏との間に懸かっているように思われた。岡辺がY―氏のことで喰ってかかるのは、然うした根強い党派心から出るのだと、林は信じていた。

「左に右自家(うち)の先生は豪(えら)い」と、岡辺はI―氏の事を、嵩にかかって持ち上げた。

 恁うして大勢の前でIー氏を讃める岡辺の心が、林には見えすくように思えた。

「代作するのは、自家の先生ばかりじゃないじゃありませんか。貴方は比較的世間の注意を避けているだけだ。」岡辺は苦痛らしく口を歪めて罵った。

 この岡辺から、林は代作の原稿を頼まれたこともあった。その頃岡辺の才はまだ認められていなかった。事後で断ったにしろ、無断で長い翻訳物に名前を借りられた事もあった。
 けれど林は、然う自分ばかり潔白がっている理由はないと思った。近頃は殊に美しい処ばかり見せては居られなくなった。自分の性格の痕つけて来たところを振り顧って見ると、浅猿(あさま)しいことも卑(さも)しい処もあった。自分で情けなくも思った。岡辺なぞも、其の全人格を無忌憚に暴露しているに過ぎないような気もした。自分のような善意を持った人間が、必ずしも愧(は)ずべき事を働かぬとは、保証が出来なくなった。

「けど、それには程度がある。根本の意志にも相違がある。」林は苦しく争った。
「五十歩百歩じゃありませんか。」威猛高(いたけだか)に言って、岡辺は苦しそうに酒を煽った。

 娘は二人の争いを、俛(うつむ)いてじっと聴いていた。  

 



(三)
 2019.1.9

 山田巡査は五十左右の年輩で、濃い地蔵眉毛の下から、くしゃくしゃしたような目が、柔和そうに光っていた。其の名は近頃亡くなったK氏の紀行文のなかにも見え、拙い漢詩は麗々しく此処の案内記の文藻欄に出ていた。岡辺は此処へ来ると間もなくもう一度此の男の訪問を受けていた。やくざな飲み仲間と二三度一緒に酒を飲んだこともある。或るヤクザな知人の細君の帯を、岡辺は或る事情の下に質入れしていた。此処までも其(それ)が祟って来た。

「僕は此処から縛られて行く決心で降りて行ったです。」

 岡辺は後で、投げ出したよう調子で林に話しかけた。寝込みを襲われた時、岡辺がぎょッとしたような顔をして、ばたばた階下へ降りて行くのを、林も自分の部屋から見ていた。

 原稿の二重使問題なぞ起ると、岡辺は能く恁う云うような事を口にする癖があった。「僕は男らしく法廷へ立つ。寧(いっ)そ突出して貰った方が可い。そして白日の下で、所有(あらゆ)るものの底も打破(うちわ)ってもらった方が反って可い」と傲語した。然う云うような態度が、時とすると成功する事もあった。

「何処まで擠陥(かんらく)されるものか、どん窮局(づまり)まで行って見たいじゃありませんか。」肩を聳やかして恁うも言った。

 山田巡査はランプの蔭の方に坐って、低い調子で一同に挨拶した。

「あれから、直ぐ先生は此処にお出でがないと言ってやって置きました」と、山田巡査は、岡辺から猪口を受取った時に言い出した。
「然うでしたか。」岡辺は例の語尾にアクセントをつけて大柄に応えた。

 それから、生前に能く此処へ遊びに来たK―氏の噂が出た。今までに入浴に来た、色々の方面の名ある人々の話も出た。

「私一つの道楽がありまして、お目にかかった方には、必ず何か書いて貰うことにしておりますが……。」

 山田巡査は、二人が知っていそうな同じ仲間の名を、幾人も数えた。而して古びのついたような短冊を二三枚そこへ差し出した。

「どうぞ一つ御両名で。」
「短冊ですか。」岡辺は些と其の方を見て、「ほう、余所から恁うして書いて貰いに来るのに家じゃ如何して頼まないだろう。」と体を揺すりながら揶揄いはじめた。
「然う云う訳じゃございませんですけれど……」と、娘は切なげに顔を赧らめた。

 一同が笑った。

「どうせ然うですよ。」
「いいえ、決して……。」娘は泣き出しそうな顔をした。而して急いで階下へ降りると、旋(やが)て勝手口から出て行く下駄の音が聞えた。
「うッかり笑談も言われやしない」と、林は笑い出した。

 間もなく画仙紙が、そこへ持ち込まれた。

「御催促申して悪がした。」岡辺が言い出した。
「いいえ、決してそんな訳じゃないんでございますけれど。」と娘はべッたり其処へ坐った。
「そんな物でなくて、家にゃ画帖があったじゃないかね。彼(あれ)を持って来ると可い。」山田巡査が耳打ちした。
「へえ、其様(そんな)ものがあるんですかい。僕等には書かさないんですかい」と岡辺は意固地らしく言い出した。酔って言うのか、本気なのか、解らないほど紛糾(こんがらか)って来た。

 母屋から画帖を運んで来たとき、娘は到頭そこへ泣き出した。

「皆さんを蔑視(さげす)むなぞと、私決して其様訳じゃないんでございますけれど……」と声を立てて泣いた。
 興味が実感的になって来たので、皆は黙ってしまった。

「それへ書くんですか」と岡辺は、少時もじっとしては居られなかった。それで短冊を前におくと、硯箱を取り寄せて「K―の遊びし同じ宿に泊まりて……」と前置きして、豪放らしい調子で短冊一杯な句を書き流した。

 岡辺は想い出したように、其処にあった林の短篇集を取り上げた。そして「これを進呈しましょう」と言って山田巡査に差出した。

「それは誰方(どなた)の……。」山田巡査は目をパチつかせた。
「ちょっと書きましょう」と、岡辺は更に本の扉一杯に「或る人より贈られし書を更に進呈す」と大書して渡した。而して、「如何せ下らないものです」と附け加えた。

 林は恁う言うことを、黙って見ていられぬ性分であった。此の集はN―氏が引き受けて出版したのでN―氏自身ここへ来るとき見本として一冊だけ持って来てくれた。本の体裁は思ったより好く出来ていた。
 恁うした場所にこの本のあるのが、岡辺には目障りでないことはなかった。林自身にも目障りであった。

「これを僕に下さい」と言われたとき、林は言書(ことばがき)をして岡辺に贈った。

 それを今岡辺から山田巡査に贈ることになった。林は岡部のする事が、唯(ただ)滑稽な磊落とばかりは思えなかった。

「悪戯をするな」と林は苦笑して、「可かんよ、貸したまえ」と其の本を引き寄せると、筆を取ってべたべたと自分の言書だけ消してしまった。

 少時話しているうち、山田巡査の同郷人だと云うことが、其の国訛(くになまり)で直に林に解った。巡査の親しい人が林の知人でありなぞした。二人は薄暗いランプの蔭で火鉢を囲んで、しみじみした話に耽った。谿川の音が耳につくほど、そこらが静かになって来た。

 岡辺が蒼い顔をして不意にふらふらふと起上がった。而してどたどたと次の室へ入って行くと、暗いなかで凄まじい音をさしてそこへ横仆しに仆(たお)れた。部屋から部屋に旋風が荒れ出したように思えた。

「おい竹村……」と発作的に呶鳴った。

「こら、貴様達莫迦野郎」イゴイスチックな苦悩の叫声が響いた。部屋がばたばたとしだした。





(四) 
  2019.1.10

 林の忠告もあったし、岡辺自身にも気懸かりでないでもなかったので、書生二人を東京へ送還して了った頃には、林も母屋の方へ独り分かれて住んでいた。
 二人が別れた時の感情は、錯綜(こぐらか)った針金のようになっていた。それよりも林は早く此処から逭(のが)れたかった。若主人の案内で山越えに函嶺の方へ遊びに行く約束もあったし、十国峠に登る話もあったが、もう然うして恣(ほしいまま)に行(ある)いて見る気もしなかった。

「僕は初めから長くいる考えでもなかったし、一ト先ず帰ることにしようよ」と、林は言い出した。

「どうしてです、それじゃ僕も帰ります。」岡辺は不興げに顔を顰めた。このミスチーバスな男は、何かしら仕掛ける対手がなくては日が暮せなかつた。恁う云う男に囚われているのは、林には苦痛であった。

「けど此のまま帰っちゃ、僕は何にもならんですもの。貴方(あんた)には家庭があるけれど、僕は行く処もなければ、友達もない。」岡辺は争った。

「そう計画を打壊されて、僕は如何すれば可いんですか。」
………。」
「何か気に障ったんですか」とも言って見た。
………。」
「僕はそんな人じゃないと思ってました。貴方(あんた)は意外だった。僕が何か悪い事をしたんですか。」恁うも言った。

 それで兎に角部屋だけ移すことに為った。

 部屋は母屋の二階の角で、そこから見附の松や、河原の橋などが見えた。藤木川を隔て、相模の方の山を見ることも出来た。母屋には湯治目的の客が多勢立込んでいた。何の部屋も何の部屋も、ちんまりして居て、古びがついているだけ落着きが好かった。
 この部屋の衣桁に濡れ手拭をかけて、湯の沸(たぎ)った火鉢の前に、湯から上がって来て胡座(あぐら)をかいた時林は初めて自分の居る処に落ち着いたような気がした。然うして煙草を喫しながら、うっとりしていると、心が沼のように沈殿して行った。晷(かげ)が静かに移って、障子に日が陰って来た。

 ここへ岡辺が能く散歩に誘いに来た。宿で何か拵えてくれた時、林が別荘の方へ行って、一緒に酒に酔うこともあった。詰まらない用事で、別荘附の娘に手紙を持たして寄越すこともあった。
 その間も、林は時々、悪戯な岡辺が自分の周囲へ、罠を張っているように感じた。岡辺が、「書けますかい」と、尻揚がりに言ってノソリと入って来ると、林は不安そうに其の顔を見あげた。親しい友達に入って来られるような気がしなかった。岡辺の笑顔にも嶮しい雲がかかっていた。

「僕はもう新聞の方は断然断ろうと思う。」岡辺は能く恁う云う事を言い出した。
「如何してね」と、林は笑顔をあげた。

「こう頭が荒んじゃっちゃ為様がないですもの」と、岡辺は癇性の口を歪めて、「こんな事にして、一日々々と日を送るより、一層都(すべ)ての事を根本から覆して了った方が可いじゃありませんか」然ういう岡辺の言はただ拗ねているとばかしも思えなかった。岡辺は新聞の方の此の頃の自分の小説のダレ気味だと云うことを能く知っていた。当初(はじめ)の計画に多少不用意な処もあったり落ち着いて筆を執っていることの出来ぬ周囲の事情もあったため、長編の幾つと最初の試みが、今までに期待したほどの反響を齎(もたら)さなかった。岡辺は日に日に、筆を執る興味が失くなった。そのうえ、荒んだ生活の圧迫から、一時外の原稿をはめて金を受け取っておいた事などが、社主の前に曝露されなどして、社主から面(まのあた)り厳しく罪を責められた。社主は岡辺のその時の態度を諒として、其の事は左(と)に右(かく)円く納まったにしろ、中間に立った林の好意を、岡辺は余り潔しと思っていなかった。

 部屋を別にしてから、岡辺は一層それを口にした。終いには、林も強いて続けよとは勧めなくなった。

 二人はその頃、××雑誌社の次の月の作物に手につけかけていた。林は毎時(いつも)の調子が出ないと云って、始終顔を曇らしては、ぶらぶらしていたが、岡辺も気が乗らなかった。社主が自身出向いて来た。二人とも仕事が未だ何ほども進んでいなかった。
 社主は悪い顔もしなかった。紺メルトンの洋服の膝も崩さず、此方の事情を聴き取ってから、「……それでは一つ、明後日の一番に間に合うように、是非お願いします。私は此の先のふじ屋に宿を取りまして、そこでお待ち申すことにしますから……」と言って出て行った。
 岡辺も側にいたが、多く口を利かなかった。

「僕、今度は書くのをよそうかと思ってます。」岡辺は林に言うと同じような事を言い出した。
「ははァそれは如何してでございますか。」
「この頃如何いうのか頭が荒んで、少しも気乗りがしないものですから、当分何も書くまいと思ってます。新聞の方も断ってしまう積もりです」と口のあたりの筋肉が、はげしく痙攣(ひきつ)った。
「然うでございますか。」社主の顔は赧(あか)くなった。而して冷ややかに「頭が荒んでおいでになると云うことなら、それは已むを得ません。」

 社主は能く岡辺の性質を知っていた。煩わしい事が、是までにも無いではなかった。

「立派な紳士ですな。僕はあんな冷静な人を見たことはありません。」

 岡辺は社主が帰ってから、驚いたように言い出した。

 夕方湯から上がって、林が手摺際に彳(たたず)んで、頭を休めていると、そこへ薄暗い街の中を、橋を渡って社主の宿へ出て行く、岡辺の淋しい姿が目にとまった。社主に素気なく出られて、岡辺は、じっとして居られなくなった。
 飯が済んでから、岡辺は別荘と本宅の間を、往ったり来たりした。
 そして「書けますか」と云っては、林の机の上を覘いた。「僕は今夜五十枚もう悉皆(すっかり)脂が乗って来た。」と、踊るような手容(てつき)をして見せた。

「驚いちゃ不可ませんよ。」
「じゃ矢張書くことにしたのかね。」
「だって此の場合、書かなけりゃあ如何することも出来ませんもの、二人の居候を控えて宿の払いをどうするんです。」

 岡辺は嗄れたような声で、早口に言った。

「貴方(あんた)は何枚書くんです。」

 林は苦しそうに陰気な額を抑えて、無意識に返辞をしていた。

××(社主)と云う人は実に豪い。僕は脚下(あしもと)に跪くようにして漸(やっ)と話が出来たですもの。」
……、」
「そこへ行くと貴方も豪い。如何なる場合にも僕等のように襤褸(ぼろ)を出さないで澄まして行かれる人だもの」と急込むように立って、「自家(うち)の先生もダメだ」と、投げ出すように言った。

「君は自分に触れる処だけしか見ていないんだ。」林は笑った。

 二人は然う云うような事で、又言い争った。

 その晩おそく、林が苦しい筆を動かせているところへ、竹村が静かに障子を開けた。

「岡辺先生が恁う云うものを出すと云うんですが」と、竹村は表情のない顔で、一枚の葉書を出した。
 葉書は、新聞社への断りであった。いつも林に言う事と、同じような意味の文句が、乱れた字体で書き散らしてあった。林は苦笑した。

「これを如何しようと云うんだね。」
「出しても可いでしょうかって、先生が……、」
「然し、断るならもっと叮嚀に書く必要があるじゃないか。」林はそのまま葉書を硯の下へ伏せておいた。





(五)  
 2019.1.12
 
 書生を還してからは、岡辺は独りで能く寂しがっていた。

 約束の原稿の義務が当分不残(のこらず)果たされたので、二人は一月熱海の方へ遊びに出かけた。
 二人は義平の墓のあると云う寺へ立ち寄りなどした。山寺の境内は昼も閴(ひっそ)としていた。莨(たばこ)の火を貰おうとして、林は靴のまま膝行(にじり)あがって広い台所の囲炉裏の側へ寄って行った。伽藍には人気(ひとけ)もなかった。
 墓場からは、海が一目に見渡された。其の海の濃い青さも、岩や松の姿も、昔の絵巻物を拡げたように美しかった。
 沿岸の絶壁を走る、危ない汽車の窓から見える伊豆の海は、降り出した小雨に曇っていた。

 熱海では、見晴らしの好い山手の旅館で一ト晩泊まった。此処の晩飯は長いあいだ辛仕立ての料理に飽々した二人の舌には一層美(うま)かった。風呂場の設備も、迥(はる)かに調っていた。二階からみているとそこらの旅館の家建(やだ)ちが、どれも此れも瀟洒であった。町も綺麗で明るかった。もう十月だと云うのに浜辺から来る風は、五月頃のように暖かかった。二人は手摺際の籐椅子に腰かけて、遠い汀(なぎさ)続きの濃い暮色を眺めながら能く草双紙にある江戸時代の奢った湯治客が、駕籠で此処へやって来る姿などを思い出していた。

「ここは、長くいたら幾許(いくら)ぐらいだね。」林は宿帳をつけに来た番頭に訊いた。
「ここは女でも連れて来る処だね」
「細君でもつれてお出なさい。」

 町を一ト巡りして来てから、床のなかへ入った時、「これで明朝すっと帰るんですか」と、岡辺は笑いながら不満そうに言った。

 今日は林が金方であった。岡辺は町を歩くとき、土産になるような色々の物に目をつけたが、林は名物の雁皮(がんぴ)と絵葉書を買っただけであった。岡辺は懐に金のある時、能く方々でいろいろなものを買う癖があった。

 海岸へ出ると、海は真っ暗であった。どうどうと水沫を立てて寄せて来る波が、意志で築いた堤防を、脚下(あしもと)から浚(さら)って行きそうであった。波頭が深い闇の底から幽白(ほのじろ)く閃いた。岡辺も林も長く立っていられなかった。

 二人は別荘の娘の噂などしながら寝ついた。

「僕は自信がありますよ」と、岡辺は能く頤(あご)を反らした。

 岡辺は葡萄棚のある、別荘の下の、ちんまりした部屋へ移っていた。部屋は娘の手で、綺麗に飾られてあった。

 或る日の午後、林は外へ出て寄木細工の店頭に立って、二人の子供と、田舎から手伝いに来ている親戚の娘にやるような品を見つけようとした。小さい鏡台に智慧の板、針箱、そんなような物を五六品見繕った。

「あとで直ぐお届け致します。お代は其の時でよろしゅうございます。」と世辞の好い内儀(かみ)さんが品物を其処へ取り揃えて、糸縄で結わえはじめた。

 林は旅から帰って行く時の、家のさまや自分の心持を想い出していた。其の日が段々迫って来て、もう一日も此処に居られないような気がした。庭の草花も気になった。町を一ト廻りして、それから馴染になった球突屋を訪ねて、書付を取った。球突屋へ来る連中の顔は、その頃もう一変していた。此処で初めてキューを手にして林は、原稿を書き出す頃から顔出しが出来なくなった。

 宿へ帰ってから、温泉に入ると、丁度晩飯であった。林は何となく心が慌忙(あわただ)しかった。鞄の底から旅行案内を取り出して、独りで時間表を繰りはじめた。
 やがて、買物の包みが届いて来た。林はそれを、そっと鞄の底へ収まっておいた。恁う云うものを、岡辺に見られるのが気可恥(きはずか)しいようであった。
 飯をしまつた処へ、岡辺が上つて来た。

「貴方(あんた)もう帰るんですか。」

 林は汐(しお)を見て、独りで此処を立ちたいと思つていた。如何したら立って行けるかと、その機会を色々に考えていた。

「どうして。」
「だって貴方土産物を買ったでしょう。別荘の方へ持って来ましたよ。何とか彼とか愚痴を言っても、貴方はやはりそんな家庭があるんだ。」
「独りで帰ったって可いだろう。」
「そりゃァ可いさ御勝手でさ」と岡辺は、薄い唇を顫(ふる)わせた。

 林も弱い心臓が波立ったようになって来た。

「貴方が然うして帰れば、僕も一緒に帰る。何処々々まで附いて行く。」
「じゃ帰りたまえ」
「貴方はちゃんと、自分の対面を傷つけずに引揚げて行ける人なんだ。」
「君にだって、それが出来んことはあるまい。宿じゃ左に右僕より君を信用しているし……
「そりゃァ然うでさ」と、岡辺は反りかえって、「貴方はダメだ。僕がちゃんと然うしてあるんだ。」

 少時(しばらく)してから、「どうしても帰るんですか。」

「帰ろうよ」 
「帰れるなら帰ってごらんなさい。」
「どうしてだ。」
「貴方が僕の面皮(めんぴ)をかくようなことをするなら、僕も貴方の面(つら)を圧潰(へしつぶ)さなきゃァおかないんだ。」
「君の面皮をかくと云うのは……。」
「貴方はちゃんと金が出来ている人なんだ。僕はそれが出来ていない。貴方は人の弱味を見透すような事ばかりするじゃないか。」

 岡辺の顔は恐ろしく嶮しくなって来た。蛇のような目が涙に曇(うる)んで、口が引き釣ったようになった。堅く腕を組んで、肩を聳(そびや)かしながら、俯いていた。故意に演(し)ているような芝居が、何時(いつ)か全身の血を狂い立たせて、自分にも苦悩に堪えないほど暴れて来た。深い線が、口元や鼻の左右に幾筋となく蒼い、肉を刻んで、見るだけでも、慄然(りつぜん)とするようであった。 

 二人の調子は、段々荒くなって行った。林はこの悪魔に附絡(つきまと)われては、一歩も此処を出ることが出来ないように思われた。

 岡辺が出て行ってからも、林の心臓はまだ高く響いていた。

 林は其の晩、狂気じみた長い絶交状を岡辺から受け取った。





 
(六) 
 2019.1.13

 翌日の暮れ方、林はぶらぶら別荘の方へ出向いて行った。葡萄棚の下から岡辺の部屋が明々地に見えた。岡辺は奥の方に坐込んで、酒を飲んでいた。灯影の移っている其の顔は、興奮したようになっていた。側に、きちんとお太鼓に結んだ娘の後ろ姿が見えた。林は縁側に彳(たたず)んで莨にマッチを摺りつけた。

「どうぞお上がり下さい。」女が客を迎えるように声かけた。而して、又後ろ向きになって俛(うつむ)いていた。

 その日も一度、二人の間に同じような争いが起こった。林は思い断って立つことも出来なかった。
 女が部屋を立ったとき、岡辺はニコニコしたような顔をして私と林の側へ寄って来た。

「あんた、もうお立ちなさい。立っても可いです。」

 岡辺はこう呟いて、又膳の前へ坐り込んだ。

 その晩、林は自分の分だけ、勘定を岡辺に渡した。
 岡辺は繰り返し繰り返し、取り寄せたツケの中から林の分を勘定して見た。

 静かな朝はまだ夙(はや)かった。外は深い水蒸気で、空も曇っていた。
 林はもう鳶色の洋服をつけて、廊下に出ていた。左に右一応逢ってから袂を分かとうと考えていた。

 廊下を廻って、出張った高窓から覗くと、岡辺の部屋はまだ戸が締まっていた。林は時計を引き出しては見い見いした。而して伸び上がって別荘の方を気遣った。

「まだ時間は充分ありますよ。」様子を見に来た若主人は、言い言い階下へ降りて行った。
 少時(しばらく)すると岡辺が顔を出した。

「ほんとうに帰るんですか……。じゃ私も帰ろう。」

 岡辺はそこへ若主人を呼び寄せると、「どうしても先生帰るそうです。僕も帰る。」

「貴方も。貴方いいでしょう」と若主人はそこへ来て坐った。「今度は林さんが、悪い。又どうぞ入らしてください」と、腰から莨入れを抜いて本意なげに言い出した。

「ところで、勘定が足りないんだ。」岡辺は蔽被(おっかぶ)せるように言った。
「それは可いです。けど、如何です、もう暫く。」

 腕車の支度が出来た時分に、女が盆に載せて家への土産を持って来た。
 岡辺は出て行くとき、玄関口へ出ている娘に、ふいと一つの包みを渡し、

「じゃ是だけ……。」

 娘は俛いてそれを受け取ると、ばたばたと帳場の方へ駆けて行った。
 林は此処でも何か辛酷な悪戯をされているような気がした。
 この旅行の大詰めに、岡辺の方が何処まで入組(ペネトレート)しているか解らないと思った。林の神経も、そこまで入込まずにはいられなかった。

 そのうちに二人は腕車に乗った。

 狭い軽便電車のなかで顔を突き合わしたとき、岡辺は薄い舌で唇を舐め舐め、「貴方の神経はピリピリしてますな。」と言って呟いた。

 新橋へついた時、林はS子と一緒に迎えに出ていた二人の子供を左右に控えながら騒々しいプラットホームを歩いて行った。大きい方の子供は、可憐そうに連(しきり)に話をしかけた。

 岡辺は離れてずんずん先へ行った。

 林は、鞄を提げて、振り顧りもせず出て行く岡辺の高い後ろ姿を、しばらく見送っていた。

 



 (完)




初出雑誌掲載の本文を底本に、現代的仮名遣いに改め適宜補訂を行なった。
 初出:明治43年4月1日(「早稲田文学」第53号)




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