不定期連載

おすすめの秋聲作品を不定期に連載していきます。
(※作品の区切りは当館の任意によります。)


「乳母の里」


(全1回)
 2024.1.14

 「まあま、御新(ごしん)さんで御座いますか。」と乳母(ばあ)やのお新(しん)は戸口に突っ立って、銷魂(たまげ)た目を睜(みは)った。今車から降りた、瑠璃色の肩掛に黒の吾妻コートの婦人は、つか(※人偏に従)々と繻珍(しちん)の小鞄を提げながら刻み足に近づいて来たが、ぱらっと外眸(めやり)の辺りへ懸かった鬢髪(びんのけ)を、白魚(しらお)のような繊指(ほそゆび)に掻き揚げて、
「私来たのよ。」と、然(さ)も可懐(なつか)しそうに乳母の顔を見上げた。

「善(よ)うこそお出(い)で下さいました。今貴女、御車の音がしたものですが、はっと思って、其(それ)でも貴女、私(わたくし)の胸には丁(ちゃん)と解るのでございますよ。」
「然(そ)う!」と御新さんは、善(よ)くも耳にも入れず、はや上り框を駈け上って、少ししどけない裾捌きの、いそいそと客間へ打ち通った。

 客間と云っても大した事はない。此の辺り、浜風に晒(さ)れた船板塀囲いの裏(うち)は、何となく明るい山茶花(さざんか)と梅の小さい枯木(こぼく)に、青苔の燈籠の突っ立った小庭に面せる汚い六畳で、床(とこ)に飾った鏡餅に福寿草、輪柳に飾り藁は、東京のより寧(むし)ろ立派に出来て居る。

 乳母やは四十七八にも成ったろうか、ごつごつした新しい手織の布子に糸入縞の羽織を着けて、痩せぎすな、無下に鄙びた風でもない。座布団に手炙りを侑(すす)めて、少し退って、
「まず明けましてお愛でとうございます。又相変りませず。」と慇懃に賀辞(かじ)を叙(の)べる。
「おや然う、春だわね。」と御新さんは、辛々(やっと)落ち着いて坐って、軽く挨拶を為(し)た。
「ほら、何(ど)うなすったので御座いますよ。」と乳母やは次の間へ起ちながら、茶道具を持って来ようとしたが、
「あの、お屠蘇は奈何(いかが)でございます。」
「私、可(い)けないのよ。」
「少し遅れて居りますけれど、其(それ)でもまあ、初めてでございますから。」
「でも休(よ)しましょうよ、那様(そんな)堅苦しいもの。」
「其ではまあ、お屠蘇はお預かりと致しまして、何ぞお甘いもの。」
「甘いものも辛いものも、私何(なんに)も慾しか有りませんよ。乳母や、介(かま)わないでおくれよ。」
「然(さ)よでございますか。」と乳母やは貧しい菓子を持ち出しながら、茶を淹れなどする。

「乳母や、此(これ)は満(つま)らない物だけれど、唯(ほん)の章(しるし)なのよ。」と御新さんは小さな紙包みを取り出して、
「半襟なのよ。其(それ)からね、此は滋養に成るお菓子だから食べておくれ。」と今一つの洋菓子リキュウムの包みを取り出す。

「まあま、其は飛んだ御心配で……、」
「何有(なあに)ね、今朝ふいと来る気に成って、一番に間に合うようにと、大急ぎで遣(や)って来たものだから、もう唯(ほん)の有合せなの。勘弁しておくれ。」
「滅相な貴女、御用多いところを恁(こ)うしてお出で下さいますれば、其がもう何よりなので御座います。其の上に何かを頂戴致しましては、罰が当たると申すものございます。」
「おやおや、大変だわね。」
「其(それ)でも旦那様が、善くまあお寄越しに成りましてございますね。」
「黙って来たの。」と御新さんは寒かった頰を両手に撫でて、急に調子が滅入って来たよう。

「では出し脱けに?何と云うお気軽な!」と乳母やは目を丸くして、
「旦那様が嘸(さぞ)御不自由で在(いら)っしゃいましょうに、」
「いいえ、不自由どころじゃないの。余(あんま)り自由で困るくらいなのよ。」
「へえ、其は又何(ど)う遊ばしたのでございます。」
「だからね乳母や、私ゃ今朝むっくり起きると其(そ)のまま、お修(しま)いもしないで、ほら、髪も這麼(こんな)なの。」と姿(なり)の好(い)い丸髷の頭を些(ちょっ)と横にして見せて、
「宅(うち)にぼんやりして居るよりか、乳母やの処へでも来て遊んで居たら、少しは気が清々するだろうと思ってね。」と御新さんは、去年此の辺りの海浜で新婚旅行を済したばかりの夫が、今朝此の頃の打って変わった仕向けを掻い摘んで談(はな)して、
「乳母やだから、私打ち明けて話をするの。てんで、二日の晩から宅(うち)に落ち着いて居た事なんか有りゃしないの。私ゃ土屋に限って、那麼(あんな)不品行はあるまいと思っていたら、此の頃はもう実に散々なの。夫と云うものは、那(ああ)したものじゃあるまいと思ってね、昨夜(ゆうべ)も徹需(よっぴて)まんじりともしないで、色々ね……、」と溜息を呴(つ)く。

 乳母やは気遣わしそうに聴いて居たが、「寛(ゆっく)りお話を承らなくちゃ、乳母やには解りませんけれど、其じゃ旦那様がお遊びにでも……、」
「あ、旧(もと)からの馴染なんだって、私は騙されたの。」
「それはまあ、春の事でもございますから、少しはお浮かれ遊ばすのも悪くはございませんけれど……、」
「乳母や、私ゃ五日も六日も帰らない意(つもり)よ。」
「はあ。旦那様もお悪いけれど、何も然う焦燥(やきもき)なさらないでも、那程(あれほど)お気に入った御新さんの事ですもの、……而(そ)して其処のところを巧く、お御足(みあし)をお止めなさるのが貴女のお働き、春早々から、お宅(うち)を飛び出してお了(しま)いなすっては悪うございます。」
「乳母やは旧弊だから、那様(そんな)事を言って土屋の肩なんか持つんだけれど、私ゃもう言うに言われない苦労があるの。だって余(あんま)り人を踏み着けにしているわ。」
「御新さん、其がお悪うございます。乳母やが又、お引き留め申したようでも悪うございます。」
「那様(そんな)訳なんか有りゃしないわ。」
「いいえ、其は貴女のお身勝手と申すものでございます。」と故(わざ)と気強く言ったものの、扨(さて)念(おも)わずほろりとする。

「ああ、私ゃもう宅へ帰るのが不好(いや)。其(それ)よりか海でも見て居た方が、余程(よっぽど)暢気で好いの。お正月だなんて嬉しい事もあったけれど、今年はもう、些(ちっ)とも面白くはないの。」
「何の貴女、寒い海なんか何処が好(よ)いものでございますか。夏に成ればお小さいのさえお出来遊ばそうと云うのに。」
「もう可(い)いの、乳母や。」
「去年の事は、御婚礼の……何とか申しましたっけね、御旅行をなすって、旦那様と御一緒にお立ち寄り下さいまして、乳母やも一緒に其処いらをお供致しまして……、」
「大違いだわね。其よりか私婚礼しない前、独りで毎年毎年乳母やの処へ遊びに来るのが何より楽しみだったの。」
「ほほ、貴女飛んでもない、其(そ)の時のお心持でお出で遊ばしては、お悪うございます。」
「私あの時の心持に成りたいと思って、不意と来て見たのよ。だけれど、弥張(やっぱり)ね……、」
「靴を召して、袴を召してお出で遊ばした、那(あ)の時分は誠に活発で在(いら)っしゃいましたが、もう那様(そんな)苦労をなさるようにお成んなすって、まあ、春だと申すのに、這麼(こんな)寂しい処へ……、」
「あ、昨夜(ゆうべ)からね、乳母やの処の居周りが無上(むしょう)に恋しくってね。だけれど来て見りゃ、松原だって、砂浜だって、弥張(やっぱり)白けたように風が吹いてるばっかりなの。」
「だから貴女、迚(とて)もお泊まりになんか成れは致しませんから、今夜は誰ぞお送り申しまして、旦那様の御機嫌をお損ねなさらないうちに、ねえ然う遊ばせ、」
「だけれど、宅だって帰りたくもないんだもの。」と此(ここ)で話が途絶えて了った。

 此の御新さんも、来る春は又、一つ愁いの種子(たね)が殖えて、阿母(おっか)さんに成って此(ここ)に来るであろう。



 

 

 (完)



自筆原稿の本文を底本に、現代的仮名遣いに改め適宜補訂を行なった。
 制作時期:明治20~30年代と推定








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