不定期連載

おすすめの秋聲作品を不定期に連載していきます。
(※作品の区切りは当館の任意によります。)


「田山君の事」


(随筆/全1回)
 2019.7.1

 私は嘗て田山君と一緒に五十年の祝賀会を催された。それから十年の月日が流れて、この初夏その田山君が逝かれた。私も肉親や友人や、老若男女の多くの人に死に訣れて来たので、今更ら悲しいとも思わないが、最近はどうかすると一年に二三度くらいしか逢う機会がなかったしそれでも逢おうとおもえば代々木の君のあの家を訪ねさえすれば何時でも逢える田山君にはもう会えないことになってしまったと思うと矢張り寂しい。私はそれほど親しかった訳でもないが、田山君や島崎君は殊に島崎君は年下でありながら、何となく兄のような気持がしていたのである。一体作家というものは老境に入ると情熱が衰えるものだと言うが、それは事実かも分らないけれど書きたいという慾望は、私の場合寧ろ弥増しに、旺んになってくる。仕事があったら書くのはやっぱり辛い仕事かも知れないけれど、私のように過去に好い仕事を遺していないものに取っては、書かないでいることは寂しい。田山君は私よりか成長が早かったし芸術的生涯としては、立派な業績を挙げられたのだとは思うけれども、健康が許したらもっと何かやりたかったに違いないし、出来もしたろうと思う。必ずしも小説を書くことだけの意味ではなしにいつか病気見舞に行って、何か書かれたら…………と言ったところ、「いや」というような返事だったが、元気だったら洋行くらいはしたそうな口吻であったから、あれきり隠栖する気はなかったに違いない。

 どっちにしても劃期的な仕事が田山君の熱情と勇気で為し遂げられた。文芸上の或るイズムとかイデオロギーというようなものは、その時が過ぎると影が寂しくなる性質のもので、田山君は自然主義の尖端を切ったと同時に尤も大胆な戦闘を闘った人であるだけに、自然主義の影が薄くなると、比較的割の悪い役目を振り当てられたような形が、いくらか無いとはいえないだろう。

 田山君の自然主義初期の露骨な肉慾描写はその当時でも或る人には顔を顰められたものだが、本来は感傷性が基調になっていて、野性的な熱情が、爆弾のように破烈したにすぎないのだから、今のエロティシズムから見れば寧ろ不良分子の少ない、純朴なものだともいえる。

 無論肉慾描写ばかりではない。有らゆる因襲を打破し、偶像を破壊しようというのが、当時の自然主義の目的で、それには別に組織立った理論はなかったにしても、個人的な覚醒を促したことは顕著な事実であろう。そのなかにはニーチェズムやトルストイズムもあったことは争われない。勿論その他の総てのものがそうである通りに、自然主義もゾラやゴンクールやモーパッサンから来ているには違いないけれど田山君の場合は日本の田山君流に鋳直されたことは勿論、自然主義とは殆んど反対の宗教的な観念に移って行ったものもユイスマンとちょうど同じ傾向を辿っているものらしいが、それも矢張りユイスマンの影響は影響なりに火のような田山君の情勢を通して、愛慾の悩みが熾烈に出ている。

 私は時事新報に、「残雪」時代は、奔放な自然主義の訂正期だと言ったが、尚ユイスマンのことを知っている島崎君の話では、自然主義から宗教へ入って行ったユイスマンの傾向が、田山君の胸にぱっと燃え移って行ったものらしいのである。それが又田山君の基調であるところの感傷性の復活が、現実にふれて深刻化したような形にもなっている。
 これを見ても、田山君がいかに物に感じ易いかということは能く判る訳で、又それが文芸史上に革命的烽火を挙げさせた素因でもあろう。

 田山君をよく知っているのは、やはり島崎君では無いかと思う。その人が死んだのちにその業績を批評することは、可なり重大な問題で、批評の自由性は認めるけれど、私自身は作物を余り読んでいない癖に、今は彼此(あれこれ)批評がましいことは言いたくないと思うが、田山君のものは矢張り自然主義の大旆(たいはい)を押し立てる頃が尤も好かったんではないのかとおもう。それから色々なことにぶつかって、悩みが多くなって、作品が苦渋になったようである。「時は過ぎ行く」はその過渡期のものらしいが或いは「残雪」の後かも知れない。どちらもアンビシアスな計画のもとに書かれたもので、殊に「残雪」は著しく田山君の芸術的廻転を示しているものである。それだけに内面的に深く、客観描写としてはいつもの田山君の作品に見るような明朗さを欠いていはしないであろうか。「恋の殿堂」もモデルがモデルだけに調子の高いものとは言えない。ただ愛慾の悩みは可なり深刻に出ていて、読むのに苦しいくらいの迫力をもっている。

 田山君は実に正直な人であった。ずるさ(三字傍点)やヒュモラスなところは殆んどなかった。実生活は勿論、芸術家のもったずるさ(三字傍点)例えば不良性というようなものすらなかった。私は危篤の報せを受けて行って見たが、その時はもう大分苦しそうであった。声も明瞭に聞き取ることができなかったけれど「紅葉さんは何んな風だったか。衰弱していたか何うか」というような意味のことが、私に解った。同じく癌腫であったからである。紅葉先生の死にはちょっと愛すべき英雄らしいところがあったが、田山君のには矢張り近代人らしい明瞭な意識と神経があったと思う。
 



 (完)




初出雑誌掲載の本文を底本に、現代的仮名遣いに改め適宜補訂を行なった。
 初出:昭和5年7月1日(「文芸春秋」第8年第7号)




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