おすすめの秋聲作品を不定期に連載していきます。
(※作品の区切りは当館の任意によります。)
「能の感じ」 |
(随筆/全1回) ※高浜虚子主宰雑誌「ホトトギス」第200号記念催能に招待を受けた際の感想。 |
2024.10.9 |
先日は久し振りで又能を見せて頂いて、お礼を申し上げます。 何分能を見たのは、これで漸(ようや)く二度ですから――尤(もっと)も幼少の頃より母につれられて、ちょいちょい今様能狂言と云うものを郷里の金沢で見ていますから、能の趣味は全然感じないと云う訳でもないのですが、然し能の成立、故実は勿論舞台上の技巧等について全然門外漢ですから、何も言う資格もなく、又申し上げるようなことも、実は感じ得なかったのです。 ただ小生の外部から受けた断片的の印象を言えば、あの低い調子の謡なり、鈍い太鼓や鼓なり、静かな、消極的に緊張した役者の動作なりが、小生の神経に如何にも気持よく触れて来るのです。それが重苦しい力のある、しかし手触りのいかにも柔軟な或る物で、萎え疲れたような神経を撫でさすられるような感じです。 実をいえば、今度の能は、八島にしろ、羽衣にしろ是界にしろ、前に見せて頂いた大原御幸ほどの興味はありませんでした。大原御幸などは内容が既業(すで)に面白いものだと思います。平家没落の悲惨な光景をまざまざと見せられるようなのも好いし、露深い寂光院の寂しい光景が、能がすんでからも、まだそこに見えるように思われるのも、言うべからざる味があったように思われます。そこに亦(また)根ざしの深い非戦論が活きているように思われました。それは「血笑記」を読んだ時と同じような印象でした。小生は今でもあの舞台の上に、露もしととに秋草などの咲き乱れた光景を描くことが出来るくらい感銘が深かったのでした。今度のは三つとも、それほど面白いと思っては見ませんでした。 しかし小生の八島で感心したのは、吉野と云い人の間の狂言です。あの平坦な長い物語を、一本の扇子で、あのくらいに面白く聞かせるのは、確かに名人の芸だと思いました。時々名人らしい閃きもあったようです。気分が如何にも緊張していたと思います。 羽衣はトニカク難のないものだと思われました。いかにもなだらかで趣のあるものだと思いました。しかしあの天人が――有美氏の考証に従えば――其の時あすこへ舟がかりをした西洋人で、羽衣はそれの被ていた外套か何かだろうと云う事実を知っていて見ると、何等のイリュージョンもないのは為方(しかた)がありません。ただあの囃子と舞――殊に囃子はいかにも閑寂なうちにもどこか気の浮き立つような面白味があったように思います。 是界は小生の隣におられた鷗外さんが言われたとおりに、いかにも痛快なあの面が面白かったくらいのものです。面のことをいえば、八島の義経の亡霊の面は余程面白いものだと思いました。一種の羶(なまぐさ)いような執着と、勇気とが、死人の肉の匂いのするような面に能(よ)く現れていたと思います。それから、これは又別の話ですが、面を被って謳う謡の調子は、物を一(ひ)と重(え)隔てた声のようで、一層醇化された味があるように思います。 しかし能のような骨董品になると、その道へ入らなければ、真実の面白味は無論わかりようはありません。ただあのような舞台なり道具なりの簡素な仕掛けで、新しい劇の試演をやったらばいいだろうと、そんなことを思ってみたりしました。今日のような新しい劇団が、所々に蜂起する場合――今後は尚更そうだろうと考えられる――には、殊にああ云ったような内輪な、小じんまりした演技所を、劇団の各が一つ一つも持っていたら都合がよかろうと思います。 |
(完) |
◎初出誌の本文を底本に、現代的仮名遣いに改め適宜補訂を行なった。
初出:大正2年8月10日(「ホトトギス」第204号)