不定期連載

「わななき」


 (一)
   2014.1.7

 埃々(ごみごみ)した近所の病家(びょうか)を三四軒廻ってから、安井は聴診器だの処方箋だのの入った小形の折鞄(おりかばん)をかかえて、深いパナマの廂(ひさし)に暑い日差しを受けながら、はずまない顔をして、高台の下の方の窪地のような町にある自分の家へ帰って来た。

 燥(はしゃ)いだ汚い道路や、不揃いな家並(やな)みの板塀、二階の簾(すだれ)、硝子(ガラス)戸、ペンキ塗りの莨(たばこ)屋の看板などに、四時頃の西日が黄色く濁った光を投げて、家(うち)のなかはどこも澱(よど)んだような蒸し苦しい静かさに倦(う)んでいた。

 向こう側の人家の背景になっている崖の斜面の叢(くさむら)に、黐竿(もちざお)を持った沈黙な子供達の影が動くかと思うと、往来には鬢(びん)あげをした頭髪(あたま)に毛筋立(けすじだ)てを挿して、縮れ毛の目尻の下がった子や、顔に吹き出物のした女の、中型の浴衣に幅の狭い帯をしめて、狸湯(たぬきゆ)の方へ歩いて行く阿娜(あだ)めいた姿が見られた。と、風がどこからか戦(そよ)ぎ出して、白いものを来た床屋の小僧が、長柄の杓(ひしゃく)で、深い溝から水を汲み上げては撒いていた。

 安井は何か困ったことがあるか、考え事をする時かの癖になっている、口髭(くちひげ)の毛根を指頭(ゆびさき)で引っ張り引っ張り、もうそろそろお産の近づいて来たらしい妻の体のことや、その場合の準備のことなどを考えながら、歩いていたのであったが、重いドアのはまった入口から玄関へ入ると、書生の居睡(いねむ)りをしているらしい暗い薬局の口を些(ちょっ)と覗いて、解剖図などの額のかかった診察室の卓子(テーブル)のうえに折鞄をおいて、そこへ腰をかけた。そしてペンで一二枚の処方を書くとしゃがれたような底艶(そこつや)のある声で薬局を呼びつけた。

 目の切れの細い、鼻の高い、頭蓋骨の尖ったような北海(ほっかい)産まれの書生が、摺り潰されたような声で返辞をしながら其処(そこ)へ出て来た。顔が蒼白くて、脂肪気(あぶらけ)のぬけたような手足が、繊細(しなや)かであった。

「あ、それから先生、××から使いが来て、昨日頂いた薬が、如何(どう)しても突っ返して収まらないから、加減して頂きたいそうです。」

 書生は出て行きかけに小戻りして言ったが、安井は眼鏡の奥から不安な目をぎろつかせて、髭(ひげ)を引っ張っているだけで、何とも答えなかった。そして暫(しばら)くレースのカーテンを引いた縁側から庭へ、視線を辷(すべ)らせていた。黝黒(くろぐろ)な淡紅色の花をつけた百日紅(さるすべり)の枝葉が、じめじめした庭一杯に蔽(おお)い被さって、初夏の頃に書生と一緒に種子を撒いたり、鉢から移したりして丹精した草花が、其の蔭によろよろと痩せ細っていた。草花に限らず、診察室や二階の客間の飾り附けなどについても、安井はここへ開業した当座、色々の計画や予想を持っていた。まして見積もりを立てて敷物を買いに出たり、材料を買って来て、器用にまかせて機械棚を拵(こしら)えて、それにペンキを塗ったり、二三日大工と左官屋とを入れて、其方此方(そっちこっち)修繕を加えたあとを、長いあいだ自分で気長にぽつぽつ手を入れて来た。汚い壁が綺麗な壁紙で貼られたり、居室に棚がつられたり、洗面台が拵(こしら)われたりした。夏になってからそこらが夏向きの美しい敷物に敷き換えられた。それで囲いの塀を取り替えて、門を新しくさえしたら、構えが悉皆(すっかり)立派になりそうに思えた。

 しかし安井にはこれが充分楽しい家とは見えなかった。然(そ)うして緑色の安楽椅子や、機械のぎっしり詰まった棚や、総(すべ)て此の前に居た支那人(しなじん)が住み荒らしたと云う家(うち)が、予想以上に見栄のするものになった診察室の真ん中に坐っていると、この六七年そっち此方(こっち)飛び廻って歩いていた放縦(ほうじゅう)な放浪生活に退廃しきった心と体を、先(ま)ず当分は静かに劬(いたわ)っておけそうな気もしたが、潮の干満のような其の月々の患者の増減や、返して行かなければならぬ債務の圧迫などが、時々弱い心を突き揺った。そして到頭(とうとう)支え切れない日が来そうに思われて来ると、破壊的な自棄(やけ)な気分さえ働いた。つい去年の春までいた朝鮮や、友達の働きに行っている南米の空などが、可懐(なつか)しく想像された。朝鮮で二年弱(たらず)も夫婦のように同棲していた、嫉妬深い女のことも想い出された。その女と一緒になった前後と、手を切る迄(まで)の生活ほど、強い魅力を以て、自分を惹き付けたものはなかった。今ではもう帰った当座ほどの興奮も感銘もなくなってしまったが、安井は時々それを想い出すと、生効(いきがい)のあった其の二年間の経験が、惜しいように思われた。其れに長いあいだ軍隊にもいたし、戦地にも渡って、野獣のような生活にも馴らされ、頭脳の狂いそうな怠屈で放縦な滞陣(たいじん)の物すさびにも耽(ふけ)って来た。

「ここはご覧のとおり、芸者屋と待合(まちあい)とがどんどん建ちますから、今に大した盛り場になりますぜ。貴方のような御商売には、持って来いです。」

 この家を見に来たとき、意気な人柄な家主が、手附(てつけ)の請け取りを書きながら、お世辞を言った。

 安井はその時、四梱(しこり)か五梱(ごこり)の大きい行李(こうり)にぎっしり詰まった着物、大礼服(たいれいふく)、佩剣(はいけん)、書物、京城(けいじょう)で女の知り合いの骨董屋から買い取った高麗焼(こうらいやき)の茶碗や花瓶、それに医療機械と、そんな物が、下宿の部屋にあった限(きり)で、纏まって持ってきた金は、途中の温泉場(ゆば)で浪費したり、東京へ帰ってから、昔(むか)し行きつけた遊び場へ一(ひ)と夏浸っているあいだに、空になって了(しま)って、田舎から取り寄せた金で、漸(やっ)と下宿が引き払えたくらいであったが、そんな色町などの背景をもった此の場所が、望みありそうに見えた。女を惹き着ける力も、自分に具わっているらしく思えた。




                                  
 
(二)
  2014.1.15

 安井は奥へ入ると、上衣(うわぎ)を脱ぎ棄て、長火鉢の前に胡座(あぐら)を組んだが、重い腹をかかえた田鶴子(たづこ)は、縁の明るみへ針箱を持ち出して、田舎の生家から送って来たメリンスの片(きれ)で、産まれる子の不断着(ふだんぎ)を縫っていた。色が浅黒いながらに、皮膚が水々して、潤味(うるみ)をもった目に凄い底光(そこびかり)があった。

 目の前(さき)には、廂(ひさし)とすれすれに亜鉛板の塀で劃(しき)られた隣の物干し竿に薄汚い労働着や、子供の浴衣などがかかって、その空隙(くうげき)から漸(やっ)と蒼空が見透かされ、手内職でもしているらしい女の、子供を叱る声などが時々洩れて来た。

 安井はそこに出ていた菓子器から、蒸し菓子を二つ三つ撮(つま)んで、むしゃむしゃ食べながら、赤い片(きれ)などの散らかった部屋のなかを物珍しげに眺めていたが、まだ誰のものとも判明しない、肚(はら)の赤子に対する長い間の疑惑や反感などから、幼着(おさなぎ)と云っては、天竺木綿の尺片(しゃくぎれ)一つさえ、自分の懐からは買ってやったことのなかったのが、残酷なように思えて来た。そして自分の体がここへ居坐(いすわ)れるか如何(どう)かすら解らない田鶴子が、その事については一ト言(ひとこと)も言い出し得ないのが可憐(いじら)しく思えた。女は時とすると、安井の目に太(ふて)ているとしか見えなかったり、男の心に高を括(くく)って、安心しているとしか思えなかったりした。

「もう何時(いつ)出るかも判らないから、精々(せっせ)と縫っておかなきゃあ。」

 女は見詰められている顔をあげて、胸を反らしながら、苦しげな呼吸遣(いきづか)いをして、厭味を言っているような、哀訴しているような淋しい微笑を洩らした。

 安井は今夜にでも、一緒に通りへ出て、赤子に被(き)せて寝かすような蒲団地(ふとんじ)や、着替えの片(きれ)などを買ってやろうと思い附くと、それが何時(いつ)からか自分の心に待ち設けられていたことのように悦ばしかった。それに処女として親や兄から配(あてが)われた此の女の前身が、たとい何であろうと、現在の女より今少し自分に愛相のいい気の利いた妻でありさえすれば、そんな事などは問題にする必要もなさそうに思えた。

 山国の町に育った女は、看(み)るから、体ががっしりして、肉着きもかたかたしていた。輪廓の大きい顔で、濃い地蔵眉毛、丸く刻んだような形のいい鼻、締まった口元なども整っていたが、鳶色(とびいろ)した大きい鈍い目に、無智と剛愎(ごうふく)とか現れていた。媒介者(なこうど)の家で盃(さかずき)をすまして、女の母親と一緒に、町に近い温泉場(ゆば)へ二三日遊びに行った時から、安井は太い其(そ)の首のような女の心に触れたように感じたが、女を着飾らせて、汽車や腕車(くるま)で、遠近の親類まわりをした時も、夜汽車で東京へ連れて来た時も、二人のなかには新婚の夫婦らしい情味が、少しも湧かなかった。して女は始終重苦しいほど無口で、そうかと思うと、時には世間見ずの自分勝手な話がはずむと、新婚の花嫁には相応(ふさわ)しくないほど、無恥な表情をして、鈍(のろ)い、ゆっくりゆっくりした調子でお饒舌(しゃべり)を続けては、男の気分を壊し壊しした。それに女は肉体も完全ではなかった。温泉場(ゆば)で過ごされた二三日の新婚旅行から帰って来ると、女から不思議な反発心をもって酬(むく)いられた男は、この時幾年振りかでふとそこの或る料理屋で出会(でくわ)した昔(むか)し馴染みの女と、幾日も幾日も秘密な出逢いを楽しんでいた。

 東京へ来てからも、男に対する女の素振りに変わりがなかった。其(そ)れにそんな生理的欠陥から来るヒステリーが添わって、或る晩などは不意に昏倒して、目を半眼に開いたまま、全く知覚を失って了(しま)った。安井は深い不安と恐怖に襲われて、深夜に友達の医者を呼び寄せて、診察して貰ったりした。

 翌日知り合いの或る婦人科の大家が来診したとき、女は漸(やっ)と覚醒していたが、それでもまだ視覚や聴覚が充分ではなかった。そして綿密な診察の結果、妊娠だと云うことが知れたのであった。

「先(ま)ず三月(みつき)の終わりでしょうな。」その医師は何事もなげに言った。そして結婚当初からの日数の計算が、女の前生活に対する或る疑惑を孕(はら)んでいた。

「それに多少狭隘(きょうあい)もあるようですが、兎(と)に角(かく)癒(なお)ったら、も一度診ますから寄越(よこ)してごらんなさい。」老実(ろうじつ)なその医師は、そう言い残して帰って行った。

「どうも可怪(おかし)い。」

 安井は医師を送り出してから、診察室へ入って来ると、そこの肱掛(ひじか)け椅子にどかりと腰かけて、書生の新海と、先刻(さき)から奥の室(ま)の椅子に耳を傾(かし)げていた友達の側へ来て呟いた。神田の方に開業している其(そ)の友達は、でぶでぶ肥った体にフロックを着込んで、新婚の祝いに家見舞いをかねて、丁度(ちょうど)来合わせていた処であった。安井は病人の側で洋食にビールなどをぬいて、その友達の口をついて出る毒気のないエロチックな話しに笑い興じていた、近頃亡くなった妻の迹(あと)へ、三人目の新しい妻を迎えて酷く元気づいている此の男の生活力は、持病もちの尫弱(ひよわ)い安井などには、何処まで充実しているのかと可羨(うらやま)しかった。

「何だか少し可怪(おかし)いな。偶然としたら背負い込んだんかもしれないぞ。」其の友達も体を揺すりながら独語した。

「けれど己(おれ)などの啄(くち)を出すところじゃないから、まあ能(よ)く調べてみるさ。」

 新海も傍でにやにやしていた。

 友達が帰って行ってから、安井は医師や友達の言葉に軽い反感を抱きながら、病人の枕頭(まくらもと)に胡座(あぐら)を組んでいた。今迄(まで)に見たことのない血色の鮮やかな、輪廓のくっきりした女の横顔が、しっとりと汗ばんだようになって、黒々と豊かな髪が、氷を当てるために釈(と)かれたまま、白い枕に蔽(おお)い被さっていた。安井は何事もなさそうに、すやすや眠っている其の顔を透(とお)して、女の秘密を嗅ぎ出そうとでもするように恍然(うっとり)見詰めていたが、「田鶴田鶴」と微声(こごえ)に呼ぶと、女の唇が微かに動いて、甘えるような無邪気な声で返辞をした。

「もう痛くはないか。」

「え。」女はまた微かに応えたが、自分自身の体に何事が起こっているかを知らないらしかった。

 二三日してから、詳しい診察を受けさすために、俥(くるま)に載せて送り出した時は、女はもう悉皆(すっかり)気分が恢復(かいふく)していた。安井は二三軒病家を廻ってから、時刻を見計らって其の医師を訪問した。

「貴方のお子さんとして差し閊(つか)えないようです。」医師は昨日よりか少し変わった報告をしながら言った。

「然(そ)う云う例は世間に幾多(いくら)でもありますので、訴訟なんかになる場合に、医師が喚(よ)び出されたり何かして、ひどく面倒なものですよ。しかし貴方の場合は大丈夫でしょう。」

 医師は安井の安心するように、巧く日数(ひかず)を合わして話しているらしく思えたが、医師の言うとおりに、たとい其の日数に多少の疑念があっても、妊娠期間の平均数に合ってさえいれば、法律上それが自分の子でないと云う証拠にはならなかった。

「どうもB-の診察は、此間(こないだ)と今日と違っている。」安井は帰りに立ち寄った親類の家の茶の室(ま)へ入って来ると、言い出した。

「B-は如何(どう)だというんです。」長火鉢の前に坐っていた其処(そこ)の主人が、苦い顔をして訊いた。

「何(なあ)に、まだ三月(みつき)の終わりなんてところまで行っていないんだそうだ。」

「それで日は合ってるんですか。」

「だから、そいつは子供が産まれて見なければ駄目なんだよ。それも妊娠期間の平均数を目安にするんだから、真実(ほんとう)のことは判りませんよ。」

「始末の悪いもんだね。」

「真実(まったく)始末がわるいんです。」安井は泣きたいような笑い方をして、「だから家(うち)にいたって、些(ちっ)とも面白かないんだよ。」と傍に坐っている従姉妹(いとこ)筋にあたる細君の顔を眺めた。

「新婚夫婦の情味なんて、些(ちっ)ともありゃしないんだ。もう最初から然(そ)うなんだ。」

「私少し変なことを聞きましたよ。」細君は安井の顔を眺めながら言い出した。

「へえ、どんな事………。」

「今だから言っても可(い)いでしょうけれどね、貴方の奥さん田舎で変な風説があったんだそうですよ。」

「へえ、何だって。」

「店のものと何か悪い風評(うわさ)が立っていたんですて。」

「誰がそんなこと言ったの。」安井は反抗的な苦笑を洩らした。

「それも人の言うことですから、真実(ほんとう)だが何だか判りゃしませんわ。だけどK-さんが来て、そんな話をしていましたの。まだ貴方があの人を貰わない前にですよ。」

「然(そ)うかな。」

「事実は兎に角、そんな噂があるだけでも、返す口実は充分じゃないか。」主は始終顔に渦巻いている莨(たばこ)の煙に目を瞬きながら言った。

「そしてもっと好い奥さんを貰いなさいよ。」細君は目で笑いながら言った。

 安井は細君のいれてくれた、自分の好きなココアを一杯飲むと、直(じ)きに家に帰って来たが、自分のお人好しであったのが腹立たしかった。そして女とは口も利かずに、二階へあがると、興奮した心持ちで、田舎の兄へ手紙を書いたのであったが、妻の秘密を兄へ知らすのが不安であった。そして其れが順序よく兄の方で調査がとどいて、総(すべ)てが破壊され、夫婦別れをする時の寂しさと物足りなさとが思い遣られた。嫉妬と興味とが、不思議な彼の愛着心を唆(そそ)った。それでその手紙は、幾日も本のあいだに挿(はさ)まれたまま、出すのが躊躇された。

「あれ、そんな事私は知りませんよ。」

 女は或る晩、安井に其の事を詰問された時、濃い眉毛を動かしながら応えた。女はその時、安井と床を並べて寝ていた。

「それは大方両親が一緒にしようと思っていた、店の若いもののことなんでしょうけれど、私は少しも知らないことですわ。」

 安井は女の口から、自分の空想している事実のどん底を覗いてみたかったが、平凡な女の答えが唯(ただ)それ限(きり)であるのが物足りなかった。

「我々の結納がすんでから、結婚式をあげるまでの間、お前はその男と逢っていたろ。」安井は自分の感情を虐げたり、興味を刺戟したりするために、わざと女を挑発するような調子で言った。

 女は仰向いたまま「いいえ」と答えたが、そんな事を訊くのを不審がるように、それきり沈黙に陥(お)ちてしまった。




 

(三)
   2014.1.24

 安井は此の月に入ってから、滅切(めっきり)殖えて来た患者の数や、月末の収入などを頭脳(あたま)で計算しながら、お産についての色々の入費などの見積もりを立てていた。然し今のところ、まだ借金の埋め立てに廻すだけの金の余裕はつかなかった。それが何時(いつ)返せるかと云う見込みも、容易につきそうになかった。診察室の設備にも、まだまだ金をかけねばならなかったし、初めの触れ込みほどにはない、妻の身の廻りのものなども、自分の手から拵(こさ)えてやらなければならなかった。

 口重で、無愛相な妻と一緒に坐っていると、安井はいつでも然(そ)うした生活の圧迫を感ずるのであったが、終(しま)いに頭脳(あたま)がごやごやして来て、丁度幾箇(いくつ)もの病気に冒されている患者の体を預かっている時のような、不安と捂(もど)かしさを感じた。すると生活に対する其(そ)の日其の日の果敢(はか)なさが思われるように、人類の疾患に対する医師研究の効果範囲が疑われたりした。

「でもまあ己(おれ)なんざ、そんなに悲観する方でもないさ。これで婦人台でも据えつければ、まだまだ患者を吸収する余地はある。」

 安井は何時(いつ)からか考えている婦人台のことを想い出すと、明日にでも何処からか金の工面をして、至急に据えつけて見たくて堪らなかった。そこへ載せて、療治をしてやるような女が、今の処だけでも二三人はあった。

「そんなに甘いものを召食(めしあが)って、また病気が出ると困るでしょう。」細君はこの二三日前の夜の苦しみを想い出しながら、言い出した。安井はその時も、持病の発作に襲われて、徹宵(よっぴで)ぜいぜい言って悶(もだ)えていた。細君はおちおち寝もしないで介抱していた。安井は何時(いつ)もの習慣になっている塩化アドレナリンの注射を二回も試みて、漸(やっ)といくらか眠ることができた。

「大丈夫だよ。」安井はポケットから、亜砒酸丸(あひさんがん)の小さい壜(びん)を取り出して、二粒ばかり口へ投込(ほうりこ)むと懈(だる)い体を座蒲団のうえに横たえてまじまじ天井を瞶(みつ)めていたが、胸が息ぜわしくて、目蓋(まぶた)が気懈(けだる)かった。それは先天的弱い呼吸器の故(せい)もあったが、長い間の放浪生活から来た疲労や神経衰弱も手伝っていた。結核菌がもう肺を冒しているらしい兆候も感ぜられた。安井は時々憶(おも)い出したように、自身ツベルクリンの注射を、数回続けてみたこともあった。するとまた思いがけない暴飲から、劇(はげ)しい喘息に襲われなどして、廃頽しかかった自分の肉体が、もう手のつけようのない、暗いじめじめしたもののように思われたが、それも慣れて来ると、次第に感覚が鈍らされて来た。

 昼も静かな暗い診察室に、パッと電気が点(とも)れて来ると、緑色の卓子(テーブル)掛けや椅子や、鉢のゼラニウムの葉の重なりに、濃い美しい色彩が活々(いきいき)して来て、白いレースの窓帷(カーテン)などに夏の夜らしい気分が動いた。安井は疲れた神経が初めて蘇ったように、ぱさぱさした白地の単衣(ひとえ)に着替えなどして、二三人の患者を診ると、やがて細君をつれて買い物に出かけた。

 人通りの疎(まば)らな宵の口の町は森(しん)としていた。白っぽい塵除けを着た安井と少し離れて、多鶴子は草履を履いて重い足を運んでいたが、夕涼の東京の町を良人(おっと)と一緒に散歩している嬉しさに、胸を唆(そそ)られると云うこともないらしかった。彼女は始終溜息ばかりついているような薄暗い茶の室(ま)が気塞(きづま)りになって来ると、時々風通しの好い二階に上がって、東向きの窓の手摺(てすり)に凭(もた)れて、本郷台の有福らしい屋敷うちの庭や、立派な家建(やだち)を眺めたり、裏の貧民窟が一ト目にみえる西向きの高窓から、寺院の棟などの見える小石川の高台の森影を眺めたりして気を晴らしていたが。恁(こ)うして来ていても東京に落ち着けるか落ち着けないかすら判断しないのが手頼(たより)なかった。一時田舎から姑(しゅうとめ)が来ていた時からの習慣で、夜になると裏から通りの方へ出かけて、明日の総菜の仕込みなどをする外(ほか)は、表の土を蹈(ふ)むなど云うことも、滅多になかったが、まだ真(ほん)の取り着いたばかりの身上で、世帯(しょたい)道具などの整わない家のなかも、頼(より)つき端(は)がなかった。そして東京の暮らしの総(すべ)てが、田舎で想像していたとは、全然(まるで)違ったものであった。

「東京々々って、どんな家(うち)かと思ったら、恁麽(こんな)大きな行李(こうり)ばかりごろごろして、箪笥(たんす)一つないなんて………。」

 田鶴子は書生と一緒に茶の間にいる時、押入れから片(きれ)か何かを捜しながら言ったが、零落(おちぶ)れかかった生家(うち)から、自分が何一つ嫁入り道具らしいものも貰って来られなかったのも、寂しかった。安井は借金などのあることを来たばかりの妻に打ち明けるのが憚(はばか)られたが、新世帯(あらじょたい)の様子を見に来た姑の目からは、不断の着替えすら余分には持って来ない嫁が、初めから媒介者(なこうど)に担(かつ)がれていたようで業(ごう)が煮えた。

「あれこそ剛情な女だぞえ。煮沸(にた)きなぞも全然(まるで)何にも知っていない癖に、私が何か言っても返辞もしやしない。私はお前が可哀そうだからで言うだわの。」

 姑は時に安井を二階へ呼び上げては、離縁談(りえんばなし)を持ち出した。

 しかし安井は、女を田舎へ返してしまった後の自分が考えられた。放浪と遊蕩とに慣らされた自分の放縦性が可恐(おそろ)しくもあったし、何かを漸(やっ)と取り集めて築きあげようとしつつある巣の潰(つい)えるのも不安であった。離縁や結婚の費用も、田舎の兄の懐ばかり宛てにしている訳には行かなかった。気弱い母親や、興味の目で見ている親類などから拒否されている、女も不憫であった。じめじめしい不決断な心が、次第に女の方へ絡(まつ)わりついて行った。

 田鶴子は死ぬような親子の喧嘩を傍観しながら、姑から何を言いかけられても、口も利かずにいるような日が、幾日となく続いた。 

 電報で母親が呼び寄せた兄と一緒に、母親が噴々(ぷりぷり)して帰って行ってから、自分に妥協の口実と安心とを与えるような結果を期待しつつ、田舎の媒介者(なこうど)と時々交渉を進めつつある良人(おっと)に、女は何の疑いを挟まぬらしかった。




(四)
 2014.2.11

 買い物から帰って来ると、書生が新しい往診の来たことを告げた。

 女は疲れた体を、長火鉢の側に休めながら、色々の美しい片(きれ)の入った包みすら未だ釈かずにいたが、安井はまだ何処も見せない女を、本郷の通りまで連れ出して、帰りに親類の家へも茶を飲みに顔出して来たのであった。女はこの頃買ってやった派手な浴衣などが体に似合って、白粉を塗った顔も、余所の家の座敷の電気の下などで見ると、身増(みまさ)りがするようであった。

「静(し)いちゃんも秀二さんも、此の頃はちっとも見栄ませんね。如何(どう)してふっつり足が止まったんだろうって、然(そ)う言っているんですよ。真実(ほんとう)に寂しゅうございます。」田鶴子はお愛相を言った。つい此の頃まで、良人(おっと)からも何の世話もやかれず、自分からも言い出しかねていた腹のこともそこの細君に訊かれるのが嬉しかった。田鶴子は此の月の初めに漸(やっ)と腹帯などを締めて貰ったのであった。

「お顔の様子じゃ、何うやら男の子らしゅうござんすね。でもお体格がいいから、必然(きっと)安産ですよ。」

「何ですか、初めて些(ちっ)とも勝手がわかりませんから。」田鶴子は如何(どう)かすると、可愛い目をしながら言っていたが、衆(みんな)に凝視(みつ)められているようで極まり悪かった。

 二人は倉皇(そこそこ)にそこを出て、暗い屋敷町を突きぬけて、家の法の窪地へ降りて来たが、田鶴子は包みのなかにある片(きれ)を、是(これ)から自分の手一つで幾箇(いくつ)かの着物なり布団なりに縫わなければならぬ忙しさと楽しさが想像されて、疲労も内忘れていた。

「田舎じゃお宮詣りをするのに、皆な七子(ななこ)だの縮緬だの紋附(もんつき)に染めて、それはお金をかけるんですよ。」田鶴子は安井に話しかけたが、安井は取り合おうともしなかった。

「先生、福武蔵と云う家からちょッと診察に来て頂きたいそうです。」薬局で何かの講義録を見ていた書生が、入って来た二人の顔を、にやにや見比べながら、鼻にかかるかすれた声で言った。

「へえ。」と安井は塵除(ちりよ)けも脱がずに、突っ立ったまま書生の顔を眺めて首を傾げた。

「聞かない名だな。」

「今後新(さら)に出来た家だそうです。」書生は茶の間と薬局の間の廊下の隅に凭(もた)れていながら、使いから聞き取った場所を話した。それは夏の初め頃其の辺の貧乏長屋を取り壊して、新築された然(そ)う云う種類の家の一つであった。安井には直(すぐ)に其の見当がついた。

「二三度先生に診て貰いに来たことがあるって言っていました。多分△△にいた小竹と云う女でしょう。何でも然う云う話しでした。暫く余所へ行っていて、近頃自分の名で一軒出したんだそうですから。」

 安井は直(すぐ)に其の女の誰であるかが感づけた。此の二三月頃に二三度往診して、患部を洗ってやったり何かしたことも思い出せた。女は目のしおしおとした、揉み上げの長い愛嬌のある顔をしていた。手足などもすんなりと節の伸びた方で、年は二十三だと云うのであったが、体には一度子供を産んだ形迹すらあった。

「誰が来たんだ。」安井は妻が押し入れから出してくれた余所行きに着替えると、これも以前朝鮮にいた時分、女が見立ってくれた上方趣味の派手な角帯(かくおび)を捲きつけながら訊いた。

「多分抱えか何かでしょう。姉さん姉さんって言っていましたから。」書生は矢張りにやにやしながら応えた。

「きっとまた遅いでしょう。」細君は洗い立ての白足袋の表を翻(かえ)しながら、書生と顔を見合わせて呟いたが、そんな家(うち)を廻ると、安井は善く若い女に取り捲かれて、無駄口を利きながら遊んで来ることが多かった。

 少時(しばらく)すると、安井はごちゃごちゃした新開の芸者町を歩いていたが、何処を抜いてもまだ木香(きが)の除(と)れないような、落ち着きのない粗雑な新築ばかりであった。そして少しばかり歩くと、もうそこが薄汚い貧乏町であったり、寂しい片側町(かたかわまち)であったりした。偶(たま)には竹格子の繻子窓(しゅすまど)の奥で、鏡台に向かって化粧をしている片肌脱ぎの女などが簾越(すだれご)しに見透かされたが、色町らしい匂いは何処にも嗅げなかった。

 尋ねる家が、直(じき)に捜しあてられた。目隠しに遮(さ)えられた二階の手摺りに簾が下がって、明るい電気の灯影が、そこから前の空き地へまで洩れていたが、上り口には、婆やと抱えらしい十六七の女とが、晩飯の餉台(ちゃぶだい)に向かっているところであった。

 女は軟らかい蒲団を被(き)て二階に寝ていた。そして抱えの先触れで上がって行った安井の顔を見ると嬌然(にっこり)して、「おや先生来て下すったの」と起き上がろうとした。病気のせいか、女は此の春頃診た時に比べると、滅切(めっきり)頬肉がおちて、顔に淋しみが添わって来たようであったが、女振りは寧ろ一段見優(みまさ)りがされた。

「如何(どう)したんです。」安井は、折鞄を下に置きながら、女の前へ来て坐った。

「何だか矢張(やはり)可(い)けませんのよ先生。」と女は白い敷布に裹(つつ)まれた蒲団の上に起き上がって、櫛捲(くしまき)にしている頭髪(あたま)の紊毛(ほつれげ)を掻きあげながら、人懐っこい調子で言った。

「あれから暫く余所へ行っていたそうじゃありませんか。」

「は、少し訳があって家(うち)の方へ行っていたんですけれど、五月頃帰って来てまた出ていたんですよ。ここはつい此の頃始めたばかりなんですの。」

「じゃもう商売はしないって訳ですか。」
「処(ところ)がなかなか然(そ)うは行かないんですの。」

「じゃお座敷だけ――」安井は鞄を取り上げながら、「ではちょッと診ましょう」といって器械を取り出した。そしてそれを下から取り寄せさした金盥(かなだらい)に自身拵(こさ)えた消毒薬のなかへ浸すと、手首や指頭(ゆびさき)なども悉皆(すっかり)消毒して、仰向(あおむけ)に臥(ね)かせた患者の後へまわった。

「矢張り毎日洗わなくちゃ不可(いけ)ませんね。」安井は診察を了(おわ)ってそこを離れると、手や器械を消毒しながら女の顔を眺めた。女の若い肉体にある秘密な或る罪悪の迹(あと)が彼の興味と好奇心とを惹いた。

「それに体も衰弱していますね。事によったら私が毎日来て洗ってあげても可い。」
「然(そ)うですか。私そんなに悪いんですか。」
「いや大したことはない。少し続けてやりさえすれば、直ぐ癒(なお)りましょう。まあじっと寝ていた方が可(い)いですね。」安井は手を拭き拭き蒲団の上へ来て坐った。そして抱えがぬいてくれたサイダーなどを飲みながら、暫く話していた。

 女は以前函嶺(かんれい/※箱根の旧称)にいた頃のことなどを話し出した。看板を買ってこの家を出さしてもらった今の旦那は、其の頃からの関係であった。旦那は神田の方の或る家作(かさく/※貸家のこと)持ちであった。そして地所や家屋の周旋などを仕事にしている人間らしく思われた。

「左に右(とにかく)結構な身分だね。」
「貴方こそ好い御身分だわ。私なんか、それは充(つま)らないんですよ。」と女は毛穴の立ったような頬などがぽっと赧(あから)んで来て、「私は奈何(どう)して恁(こ)う何かが思い通りに行かないんでしょう。」

「じゃ情夫(おっと)のために苦労でもすると云うんだろう。」安井は其の体から想像される、女の背景などを思い出しながら、釣り出すように言った。

「そんな訳でもないんですけれどね。」と女は極まり悪そうに、団扇(うちわ)で顔を煽ぎながら、「苦労するのならまだ可(い)いんですけれども、別れて了ったんじゃ為様(しよう)がないじゃありませんか。」

「おやおや。」と安井は髭(ひげ)を引っ張りながら剽軽(ひょうきん)らしく言って、「旦那に見(め)っかったって云う訳だね。」

「多分吩附(いいつ)ける奴でもあったんでしょうよ。」
「それで其の男はもう来ないの。」
「不思議なことには、ぴったり足が止まってしまったの。」女は苦笑した。
「誰かが水をさしたんだ。」
「それに家(うち)の首尾も悪くなっていましたからね。」
「とかく浮き世はそうしたものさ。」安井は鼻唄でも謳(うた)い出しそうな調子で言った。

「真実(ほんと)にそうだわ。」
「お察ししますよ。」安井は痛いような声で笑い出した。
「あら、先生は人が悪いのよ。」
「まあお大事になさい。」安井はにやにやしながら鞄を膝の上へ取り上げた。
「どうも有難う。」女は面喰らったように言って、真紅(まっか)な顔をして俛(うつむ)いた。

「また来ましょうね。」安井は握手でもしないばかりにして、やがて段梯子(だんばしご)を降りた。

 安井はいつにない燥(はしゃ)いだような心持ちになって、ふらふらと芸者屋街を歩いていた。朝鮮で出会(でくわ)したような面白い事件が、まだ何処かに自分を待ち受けているような気持ちもされて、独りで微笑まれた。此の間中から頭脳に引っ懸かっているお産や何かが、面倒臭(めんどくさ)い、充(つま)らないことのように思われて来た。何のために田鶴子や何かのために、くよくよしていなければならぬのか解らないような気もした。

 薄暗い、溝(どぶ)の臭いの鼻にたつ横町から突きぬけようとすると、構造(かまえ)のいやに凝った門のある家や、忍びかえしのある塀板などが続いて、待合(まちあい)の軒燈(けんとう)が、そこにも此処にも出ていた。何処かの二階で、じゃかじゃか言う三味線の濁(だ)みた撥音(ばちおと)につれて、場末の芸者らしい調子はずれの唄の声が、浮(うわ)ずって聞こえた。

 安井はぱさぱさしたような体に、久しく嗅いだこともない、酒の慾が劇(はげ)しく渇いて来た。何か底のぬけるような騒ぎをして、暴れまわりしたいような獣性慾が、体中に湧き立って来るようであった。

 家へ帰ると、妻はまだ帯もとかずに、火鉢の側に孑然(つくねん)と坐っていた。寝床がそこに延べられて、薄暗い電気が、暗鬱な色を部屋中に漂わしていた。

「まあ随分おそい。」

 妻は訴えるような目で、安井を見迎えた。




(五)
 2014.3.1

 いつも其の頃になると隣の長屋で小娘が温習(おさらい)を遣り始める。常磐津の三味線の騒音が耳につくと、安井はうつらうつらと快い夢心地に陥ちていた微睡(まどろみ)からさめた。安井はこの二三日の暴飲で、頭脳(あたま)がぼんやりしていた。胸にも懈(だる)い一種の圧迫を感じた。それに今日はS-の往っている或る寺院の若い僧徒(そうず)の注射日であったので、午後に俥(くるま)で出かけて行ったのであったが、その坊さんが此の頃滅切(めっきり)快(よ)くなったのに調子づいて、少し遠くへ出歩いたのが原因で、俄(にわか)に思いがけない変調を来(きた)して、劇(はげ)しく喀血(かっけつ)した後だったので、安井は不断のように平気では体に触っていられなかった。

 古いその寺院には、以前肺結核で死んだ僧徒が一人住み込んでいたことがあった。そして若い僧徒の体にそんな形迹(けいせき)を認めたとき、安井は其の他の多勢の僧徒達にも、一々試験を施したが、十有余人の僧徒達には、誰も彼もツベルクリンの顕著な反応が認められた。不断ぴんぴんしている快活なS-自身の健康すらが疑われて来たのであった。安井の目には、由緒ある市中(まちなか)の其の大伽藍(おおがらん)が、危険な肺病院か何かのように思われて来た。が、気にもならなかった。安井は長いあいだ其れ等の幾人かに注射を続けて来たのであったが、もう第三期に進んでいる若い坊さんの成り行きが不安になって来た。

「奈何(どう)だろう。あの男は助かるだろうか。」坊さんでありながら、或る大学の法科を出たS-は自分の部屋へ安井を呼び入れて訊いたが、安井は孰(どっち)ともつかずに首を傾げるより外(ほか)なかった。

「だって己(おれ)の言うとおりにしやせんのだもの。」安井はにやにや笑って、「しかしあれでまた持ち直すかも判らないよ。」

「一体このツベルクリンの注射なんてものは、人によって利くとも言うし、全然無害無効だと云う説もあるし、僕なんぞも君がやれって云うから、まあ遣っているようなものの、何だか胡散(うさん)くさくて信用する気になれんね。」S-は熱が出(で)い出いして、少しも量が進まないのに焦燥(やきもき)して、暫時(しばらく)中止している自分の注射に就(つ)いて聴き糺(ただ)した。

「君の前だけれど、是(これ)なんざまあお医師(いしゃ)の金儲けだね。」

「為様(しよう)がないよ。そう言ったって中には利くものも、あるんだから。現にT-くんのなんぞは成績が極めていいぜ。量もぐんぐん進む。聴診上症候がまるで一変して来たよ。」安井は楽観的な返辞を与えたが、一時誰にも彼にも勧めた注射療法に、患者達も自分も厭気(いやけ)がさしていた。

「子供はまだ出ないかい。」S-は初めから何かと立ち入った相談に与(あずか)っている細君問題について言い出した。一旦離縁と決した細君を、出産の時まで保護しておくことになったのもS-の意見であった。開業するについても江戸ッ児(こ)肌の世話好きなS-が自分の方から乗り出して、其方此方(そっちこっち)奔走して、金を引き出してくれたり何かしたのであったが、田舎から乗り込んできた細君は、第一印象からしてS-の気に加(く)わなかった。S-は長いあいだ何事も打ち明け合って来た友達の、女に対する眼識に疑いが起こって来た。そして其の本質が何であろうと、其処(そこ)へ出逢ったものに動かされて行くような安井の心や、愚痴をこぼしこぼし醜いものに執着して、ずるずる引き摺られて行く腑効(ふがい)なさが憫(あわ)れまれた。S-は安井の女房になるような女を、自分の頭脳(あたま)のなかで長いあいだ想像に描いていた。

「如何(どう)考えたって、他(あれ)はお前んとこの長火鉢の前に坐らせておく女じゃないよ。ね、奥さん貴方はどう思います。」S-は安井の親類のK-の家で一緒に落ち合った時などに、そこの細君の前でつけつけ言うのであった。

「さあ、如何(どう)云うものでございましょうかね。」細君は剽軽(ひょうきん)なS-の調子に、くすくす笑っていた。

「それじゃ貴方は如何(どん)なのがお好きです。」

「私は矢張り下町趣味の女が好きですな。此方(こっち)の思っていることを丁(ちゃん)と呑み込んで、何かに気を利かしてくれるようなのでなくちゃ面白くありませんな。」

 安井は傍でにやにやして苦笑していたが、女の種類に好尚の差別をおいたり、一人の対象物を取り決めて、それに熱中したりしていられる人の心持ちが寧(むし)ろ不思議にさえ思われた。糜(ただ)れ合っていた前(ぜん)の女から、病的な可恐(おそ)ろしい嫉妬の目を以て監視されていた時ですら、周囲の色々の女が始終彼の心を惹き着けずにはおかなかったことを思い出していた。秘密な遊び場所を女に捜しあてられて、刃物三昧(ざんまい)をされた時ですら、安井の心には二人の女が、同じような肉の力を以て繋がり合っていた。

「己(おれ)はお前のようなローマンティストじゃないからな。女の選択標準が全然(まるきり)違っているんだ。」安井は心でそう思ったのであった。

 寺から帰ると、安井は久しく手かけて来た若い坊さんの死状(しにざま)を、まざまざ見せつけられるようで、不思議に神経が怯えていたが、それらの人達に注射を続行して、月末の収入の胸勘定などしている自分や新海の健康状態が急に気になり出したが、其の不安は直(すぐ)に毎時(いつも)のように、鈍い悠久の哀愁のなかに吸い込まれて了(しま)った。

「お前の体も余程怪しいぜ。顔の色ったらありゃしない。」S-が然(そ)う言って、自分の気懈(けだる)そうな目蓋(まぶた)や、肉の萎(な)え疲れたような顔を瞶(みつ)められた時、安井は自分の生活力に対する自信が裏切られるようであったが、肉体から沁み出して来る廃頽の匂いも、鼻神経に嗅ぎしめられるようであった。

 安井が目をさました時、妻は矢張り赤子の着物を縫っていたが、此の頃時々家(うち)をあける良人(おっと)の挙動に対する疑惑の影が、窶(やつ)れた顔に蔽(おお)い隠せなかった。そして其れを感づかせては、迚(とて)も素直に帰って行きそうに思えなかった。安井は女の苦痛を見ずに済むような方法を、先刻(さっき)もS-と評議したのであったが、女に印象を残さすような手段を取るには、金の工面から考えなければならなかった。

「必然(きっと)還すよ。前の女と別れた時だって、己(おれ)は言い出すと驀直(まっしぐら)に決行した。それで手切れだって田舎への土産だって、女の満足するだけのことは丁(ちゃん)としてやったんだ。」安井はそう言ってS-に誓ったが、別れる時の思いが、今から想像された。

 書生の居眠りをしている、闃寂(ひっそり)した玄関の方に、誰やら軽い駒下駄の音がした。安井はその時、今朝為残(しのこ)しておいた屛風を持ち出して、妻に手伝わせて、白い紗(しゃ)を張っていた。屛風は四五日前に診察室へ持ち込まれた、新しい婦人台の囲いにするために、自分で工夫を凝らして、近所の指物屋(さしものや)へ注文したものであった。安井は繊細(きゃしゃ)な檜(ひのき)で組み立てられた其の骨に桟(さん)で挟んで張り詰めるように裁(た)たれてある紗の片(きれ)を、器用な手容(てつき)で丹念に張っていた。それでまた男や女の或る種類の患者がいくらか引き寄せられそうであった。

「御免ください。」優しい女の声が玄関口から聞こえて来た。

 安井は襖(ふすま)の蔭から、診察室を通して、窃(そっ)と玄関口を透かし視(み)た。そして書生の背後へまわって、低声(こごえ)に喚び起こした。

「よく寝る人。」妻は屛風の蔭に突っ立ったまま、目で嘲笑(あざわら)っていた。

「あのう、ちょッと先生に……。」書生はにやにやしながら取り次いだ。

 安井が出てみると、玄関に立っているのは、待合(まちあい)の女中風の年増であったが、其れは小竹と云うあの女から、翌日の午後の二時に、其の女中の待合まで来てほしいと云う願いを托(ことづ)かって来たのであった。

 女はずっと快(よ)くなって、今では其ののちも続けて通っていた安井の家(うち)へ来る必要もなくなっていた。

「一体何ですか。」安井は髭を引っ張りながら、色の小白い、目鼻立ちのぱらりとした女中の顔を瞶(みつ)めた。

「何ですか、是非先生にお話ししたいことがあるそうです。」女中は生真面目な顔をして、其れだけのことを伝えると直(すぐ)に帰って行った。




(六)
 2014.3.30

 黄色に澱んだような日影に一杯に漾(ただよ)った部屋のなかに、漸(やっ)と目がさめたばかりの安井が、赤い友禅の肩当てのある黄縞の夜具に裹(くる)まって臥(ね)ていた。昨夜(ゆうべ)足を蹈(ふ)み外して段梯子(だんばしご)から落ちたときに破(こわ)してしまって、眼鏡をかけていない近眼に痛いほど日光がしみて、赤く爛れたように充血していた。

「如何(どう)なの、胸のところは。もう痛くはなくて?」

 女は枕頭(まくらもと)に坐って、敷島の空袋をひねくりながら訊ねた。外には気疎(けだる)い飴屋の太鼓などが聞こえて、日がもう大分闌(た)けていた。「うう」と、安井は唸るように言って、漸と傷みの感ぜられて来た肱(ひじ)のところを擦(さす)りながら、宵からの事件を思い出そうとするように、目を瞬(またた)いていた。

「お君さんなんかに、余(あんま)り揶揄(からか)うから然(そ)うなのさ。貴方は浮気ものだわよ。」女は猥(みだ)らな流眄(ながしめ)を見せてほーと小さい溜息をついた。

 昨夜安井が友達のX-と余所で飲んで、その足で女から定められたこの此の家に崩(なだ)れ込んだのは、もう余程遅くであった。そして二人はまた其処(そこ)で飲み始めたのであった。年増の女中がそこへ来て、お酌をしたり、笑談(じょうだん)を言い合ったりした。安井はもう大分酔っていたが、飲む後から後からと舌や唇は乾いて、酒が水のように、爛れた胃の腑に吸収されて行った。

 寂(さび)のある喉(のど)から、しゃがれたような、黒人(くろうと)じみた声で、調子づいて唄が謳われたり、器用な物真似が出たりした。

「ほんとに巧いのんよ此の人は。」女中は餉台(ちゃぶだい)にこぼれた酒の汚点を拭きながら、惚れ惚れしたように其の顔を眺めた。

 小竹の家(うち)の抱えの若い女が、側に三味線を持ったまま、時々調子を合わそうとしては、合わしそぐねて、含羞(はにか)んだような顔をして、目を睜(みは)っていた。

「ほんとにお上手ね。」女は白粉のまだらな顔の目元や小鼻のあたりに、くしゃくしゃした小皺を寄せながら、気乗りのしない調子で言った。

「そんなに巧けりゃあ己(おれ)を情夫(いろ)に持たないか。」安井は手甲で弛(ゆる)んだ口から垂れる涎(よだれ)を拭きながら、紊(もつ)れた呂律(ろれつ)で言った。

「結構、願ったり叶ったりだ。だけど小竹さんに叱られてよ。」
「小竹なんか……。」と、安井は鼻で笑った。

「貴方いけないわ。お衣(べべ)が台なしよ。」世帯崩しででもありそうな女中が、拭布(ふきん)で安井のぐらつく手から膝へだぶだぶ零れる酒を拭き取っていた。

「こんな着物は家(うち)へ行きゃあ、幾許(いくら)でもあら。」安井は女の頸首(えりくび)へ、ぐだぐだした手を絡ませながら引き寄せようとした。

 女中は引き寄せられたまま、甘たるい声を揚げて体を踠(もが)いた。そして其の手をはずすと、「いけないわよ」と後鬢(うしろびん)などを掻き揚げていた。

 安井とお君の間に、拳(けん)などが始まってから、座敷が一層浮き立ってきた。お君は負けると、自棄(やけ)にぐいぐい酒を呷った。そしてほーっと息を吐(つ)きながら、興奮したような顔をして、きゃっと騒ぎ出した。

 拳がやむと、部屋が急に閒寂(ひっそり)して来た。ふと安井がふらふらと起(た)って、裏の梯子の方へ行ったが、狭い段梯子は中程から螺旋(らせん)なりに曲(くね)って険しかった。安井は鼻歌を謳いながら、暗いその梯子を降りかかったが、一歩足を踏み外したと思うと、突き落とされるように四五段引き摺られて、其のままどさりと縁の板敷きに投(ほう)り出されてしまった。

 安井は声も立てずに、そこへ平伏(へたば)ったまま暫く身悶えも為得(しえ)なかったが、森(しん)とした耳元へ心臓の鼓動ばかりがどきどきと微かに響いていた。四下(あたり)は真っ暗で、障子に電気の影が薄(うっ)すらと差していた。安井は無意識に起き上がって、段梯子に這いかかろうとしたが、肋(あばら)に劇(はげ)しい痛みを覚えて、呼吸が塞(つま)るほど胸が重苦しかった。人を喚(よ)ぼうとしても、舌が硬(こわ)ばって声を立てる力さえなかった。

 衆(みんな)が寄って来て、安井を二階へ抱き上げ、次の室(ま)の蒲団(ふとん)の上へ横たわらした時、安井はうんうん唸りながら、苦しそうに手足を動かしていた。お君が若い方の女に気附(きつけ)を持って来させたり、自ら水をコップに汲んで飲ませたりした。

「肋骨(あばら)をへし折っちゃったい。」安井は呻吟(うめ)くように言った。

「え、そりゃ大変…些(ちょい)とお見せなさいよ。」とお君は急いで胸を披(はだ)けたが、何の事もなかった。

「痛いの、待っていらっしゃいよ。」お君は猪口(ちょこ)の酒を持って来て、自身口に啣(ふく)んで、吹きかけなどした。

「もう可(い)いわ可いわ。貴方も小花(こはな)さんも彼方(あっち)へ往っていらっしゃい。大丈夫私が引き請けてよ。」お君は安井の体に粘(へば)り着いて独りで介抱していた。

「邪魔だい邪魔だい。みんな彼方(あっち)へいってろい。」安井は縺れた舌で叫んで、ぐなぐなした手を振りながら、踏ん反りかえった。

 明日の午後にここで逢う約束になっている小竹が、やって来た時、お君はまだ側に坐って、安井の足腰を揉んでいた。

「如何(どう)したの。」小竹は派手な浴衣に小幅の帯をしめて入って来たが、然(そう)した二人の姿が目に入ると、ふいに次の室(ま)へ引き返して、黙って莨(たばこ)を喫っていた。

「小竹さん遅いじゃないの。大変だったわ。」お君は薄恍(うすぼ)けたような顔をして、男の傍を離れて来た。

「だって、今夜はれこ(※)が奈何(どう)しても帰らないんだもの。」
 
 小竹は不味(まず)そうに莨をふかしながら、「寝ているの。」

「今やっとお寝(やす)みになりましたよ。」

 小竹に引き渡して、女中が降りて行ってから、女は微声(こごえ)に鼻唄を謳いながら、私(そっ)と傍へ寄って行った。安井は咽喉(のど)がぜいぜい云って、苦しそうであった。

「きっともう如何(どう)かしているんだわ。」女は夜明け頃まで、そんな事を言い続けていた。

「えへえへ」と安井は時々笑いながら、応答(うけこたえ)をしていたが、持病の発作の来そうな咽喉が苦しくなると、起き上がって袂(たもと)から持ち合わせの薬を捜して、口へ入れていた。

 二人連れ立ってそこを出たのは、午(ひる)近くであった。外は今日も蒸し暑い日が、じりじり照って、疲れた安井の目に強い刺戟を与えた。頭脳もふらふらして、病人のような倦怠を覚えた。

「ほんとうに可笑しかったよ。」女につれられて、其の家の二階へ上がって横になった時、安井はぽつぽつ頭脳に浮かんで来る印象を想い出しては、笑みを洩らしていたが、恁(こう)した女との経緯(いきさつ)が、如何(どう)展(ひろ)がって行くかが、不安な彼の興味を唆(そそ)った。

 部屋には、涼しい風が吹き通って、昨夜旦那の寝ていたらしい蒲団が、赤い裏を翻(かえ)して、手摺りの簾影(すだれかげ)に干されてあった。

 「好いものを見せましょうか。」女は浮き浮きした調子で起って行くと、床の間に飾ってある萌黄の風呂敷に包まれた箱のなかから、何やら踊りの装束を出して見せた。

「これ鶴亀の時被るのよ。旦那はそりゃあ芸人だけれど、目が片方義眼(いれめ)ですよ。年だってもう五十三だわ。」

 女は自分が箱根にいる時からの馴染みの、其の爺さんの身のうえや、自分との関係や、ここの世帯向きのことなどを、何くれとなく語り出した。つい此の頃まで深いなかになっていた男のことや、其の男の胤(たね)を宿したときの苦心なども話した。箱根にいた頃出来た子供が、此の春預けておいた親の家で死(なくな)った事も聞かされた。

 新海に捜しあてられて、安井のそこを出たのは、もう午(ひる)過ぎであった。

 安井は帰るとすぐ、二三人待っていた患者を診察した。そして、腕にいつもの塩化アドレナリンの注射をすると、二階へあがって、掻巻(かいまき)を被(かつ)いで寝た。

 机のうえには、何時(いつ)からか取りかかって、其のまま気脱(きぬ)けのしていた生殖器に関する著書の原稿や、材料の切り抜きなどが散らかっていた。それはお産や何かで、出費の多い此の頃の経済を補うためであったが、引き受けそうな本屋が見つからないので、一時中止の形になっていたのであった。

「これでもまたやることにしよう。」

 惨めな自分の生活が考えられて、安井は厭な気がさして来た。こつこつ当てのない仕事に手を着けるのも、頼りなかった。

 昨夜の胸の傷が、またそくそく痛み出して来た。安井は新海が買って来た氷に、胸を冷やしながら、うつらうつらと眠りに沈んで行った。


  ※れこ…「これ」を逆にした言葉。情人、金銭などをさすことが多い。

 

(七)
 2014.4.12

 若い坊さんのT-が、長いあいだ寝ていた寺院の古びた部屋で、到頭死んで了(しま)うまでに、安井はその寺げ幾度か足を運んだか知れなかった。安井が最後に使いを受けて駆けつけたとき、T-の痩せ細った綺麗な躯は、もう大理石のように冷たくなっていた。医師として最善を尽くしたつもりの安井は、疾(とう)からその時の来るのを予想していた。T-の病気は、涼気(すずけ)が立ってから、段々悪い傾向を現して来るばかりであった。

「これからは己(おれ)達の領分だよ。長々お世話さまだったね。」初めから病人の世話をして来て、倦まなかったS-が、笑いながら言ったが、今朝まで口を利き合っていた友達の死が、彼の心にも顔にも暗い影を投げていた。

 安井は何事にも善く気のつくS-から、予想以上の札などを貰って、引き退って来たが、同じような黒い影が、自分にも絡わりついているようで、家へ帰っても心が重かった。丁度差し迫った金の必要に頭脳(あたま)を悩ましていたところへ、其れだけの額が思いがけなく入って来たので、それで先ず一時を凌げそうに思えたが、信頼していた自分の手から放されて、死滅の陰に吸い込まれて行った青年の蒼白(あおざ)めた死顔が、長いあいだ同情と皮肉の目で瞶(みつ)めていた自分の心に、まざまざと映っていた。

 茶の室(ま)には誰の影も見えなかった。茶箪笥の上におかれた時計が、冷たい色に光って、かちかちと単調な音を刻んでいる外(ほか)何の音も聞こえなかった。安井は今そこへ来ていたと云う女が出して、茶を飲んで行ったらしい茶道具を引き寄せて、余熱(ほとぼり)の薄い鉄瓶から湯をついで、咽喉(のど)を潤していたが、田舎へ返した田鶴子や赤子のことなどが、矢張り想い出されて寂しかった。

 田鶴子を帰したのは、つい二週間ほど前であったが、S-や親類の男などに迫られて、そうと決心するまでに、惑い易い安井の心は幾様(いくよう)に変化したか判らなかった。

 S-が或る晩、安井の親類の男を説き起こして、連れ立って安井に離縁を勧めに行ったとき、安井は家(うち)にいなかった。S-達は、此の頃よく遊びに来て、赤子を診察室や門のうちへ出したり、産後の田鶴子に食べさしてやるようなものや、安井の酒の肴などを拵えては帰って行くと云う女と、安井との情交(なか)が、段々深みへと陥って幾ことを感づいていたので、その日も矢張(やっぱり)女の家へ遊びに行っているものらしく想像された。

「如何(どう)です。少し覚醒させてやらないと、玄関の人気に係わりますね。」S-は茶の間に赤子を抱いている田鶴子へは、挨拶もせずに、二階へあがって行くと、安井の机に肱(ひじ)をかけながら言い出した。

 それは雨霽(あまあが)りの、しっとりした冷ややかな或る晩であった。田鶴子の周囲には、其方此方(そっちこっち)から子供に祝ってくれた贈物の包みなどが、幾箇も幾箇も積んであった。その中には過分にはずんでくれた彼女からの祝いなども交じっていた。

 田鶴子はお産のあった晩から、外で泊まる癖のついた良人(おっと)の留守を、赤子を抱いたり寝かしたりして、不安な遣る瀬ない時を過ごしていた。お産の時期が、疑惑の雲のかかっていた良人の心に、或る確実な証左を与えて了ったらしくも見えたが、お産少し前に、芝の方に居る田舎の兄の或る友達を訪ねたとき、自分に不利な風評を聞かされでもしたかのようにも考えられた。田鶴子には、赤子を瞶める時の安井のいらいらしい目が、それを語っているとしか思えなかった。

 安井は時々赤子を膝に抱き取って、丸々したその手首などに接吻していた。一と晩身の周りの書物などから字を引き出して、自分の家に相応しいような名を命(つ)けたりした。赤子は頭脳(あたま)顔の輪廓も、目鼻立ちも、母親酷肖(そっくり)であった。

 安井の帰りを待ちあぐねたS-達、二階で色々の評議を凝らしてから、引き取って行った。田鶴子は泣き立てる赤子を抱え出しながら、玄関まで送って出たが、鬢を無造作に引っ詰めて、髪を束ねた顔の血色が、まだ充分でなかった。潤みをもった目や、おどおどした挙動(ようす)には、不意に襲って来た二人の用事を感づいたらしい、深い苦悶と哀願の色が蔽(おお)い隠せなかった。




(八) 
 2014.5.17

 安井は妻のいつも坐りつけていた長火鉢の前に坐って、欺(だま)して田舎へ帰してからの成り行きなどを思い廻(めぐ)らしていた。田鶴子は今度出京していた安井の親類の或る老人につれられて帰って了(しま)ったのであったが、安井は家を出て行く其の姿を見送るのが厭(いや)であった。それで自分も金策の用向きなどのために、兄の田舎の停車場まで一緒に同車することに決めたのであった。

 安井は、不意に其の事を言い出された時、どぎまぎしながら荷拵(ごしら)えをしていた田鶴子の姿が、憐れに思い出されて来た。時刻が迫っていたので、田鶴子は急いで押入のなかから、持って帰るようなものや、自分と赤子の体につけて行く者を択(えら)び出したりしていたが、心がおどおどして、重い錘(おもり)か何かに絡(とら)われているようであった。自分の手が何をしているか感じがなかった。同じものが幾度も取り上げられたり、入れて了った物を、無我夢中になって捜していたりした。

 汽車のなかでも、田鶴子は潤んだ目をして、始終不安な沈黙に陥っていた。そして如何(どう)かすると取り縋るように、良人(おっと)に話かけたが、自分の暗い疑惑は自分でじっと裹(つつ)んでいた。

「それでは成るたけお早く…。」

 用事がすむと、後から行くことに話しておいた安井の、プラットホームを出て行く姿に声かけながら、窓から寂しい笑顔で覗いていた田鶴子の姿も、忘れられなかった。

 それに名まで選んでやった軟らかい赤子の体に、もし少しでも自分の血が頒(わか)たれていたとしたら。そして其の子が、きっと再縁につくことになる母親から取り残されるか、人の手に渡るかして、田舎の寂しい町で、其の辺の汚い子供達のなかに交じって育つものとしたら。安井は痛々しい其の姿が、まざまざと目に見えて来た。何処までも暗い影を背負って行かねばならぬ子供の運命も予想されるようであった。

 事によったら、子供だけ引き取って、自分の傍で育ててやりたい願いが、また新しく彼の心に湧いて来た。

「おい新海。」安井はそんな考えを振り落とそうとするように、「女が何か言い置いて行かなかったか。」

 新海がにやにやしながら、縁側へ出て来た。

「小花さんが何か言っていましたっけが…もし先生と一緒に菊見に行くようだったら、自分も行きたいって……大方そんな事でしょう。」

「何を言っているんだ。自分が此の間旦那と一緒に見てきたと言ってる癖に。」安井は詰まらなそうに外方(そっぽ)を向いたが、真(ほん)の些細な事ではあったが、自分の心に在る何かを女に感潜(かんぐ)られたようで、悶々(もだもだ)していた頭脳が、一層怏々(くさくさ)して来た。

「それで××の薬価をくれたか。」
「くれなかったです。何だか大変怒っていました。可怕(おそ)かったですよ。」
「何だって。」
「彼処(あすこ)の親爺、僕を上へあげましたら、くれることだろうと思っていましたら、逆様(あべこべ)に小言をいったです。薬価はそれは僅かなものだから、上げないとは言わんが、如何(どう)も殺さなくて済む子供を殺してしまったようで、お宅の先生のお見立てを疑う、なんて……。僕は初めてあんな奴に出会(でくわ)して、面喰らっちゃったです。」

 安井は薄笑いしていた。

「莫迦(ばか)にしてら。中途で医師を取り替えてみたり、後でまた此方(こっち)へ担ぎ込んで来たりするから駄目なんだ。」

 安井は苦々しげに言ったが、哀れな自分の我が、侮蔑に夷(ひしゃ)げたように感じた。

 女がしげしげ出入りするようになってから、其の辺から来る人達に限らず、一般の患者の足の、目に見えて遠のいて来たことが、また気に懸かりだした。

 やがて安井は菊見のことを確かめるために、二階にまだいる小花の方へあがって行ったが、小花はそこへ持ち込んで来たあった鏡台の前に坐って、ちょうど顔を扮(つく)っていた。

 痔で悩んでいた小花が、手術のために此処の二階へ来ることになったのが、田鶴子が帰ってから、まだ幾日もたたない程のことであった。

「如何するの。出かけるの。」安井は出突に段梯子の口から、優しい言をかけたが、自分だけでは、今日退院することになっている小花と、その約束をした今朝ほどの興味が、もう離散(ちらば)りかけていた、

「え、行ってよ。」
「止(よ)そうじゃないか。」安井は部屋へ入ると、髭を引っ張りながら、女の背後(うしろ)に突っ立った。
「厭よ。連れて行って頂戴よ。」女は背中にさわる安井の膝に肩を持たせかけるようにして、鏡の底に映る自分の顔に見入っていた。

「でも何だか曇って来たようじゃないか。」
「大丈夫だわよ。」女は鏡の前を離れると、窓の手摺りにつかまって、空を覗いた。
「姐さんにもう話したって……。」
「え……。ねえ、二人限(き)りで行って、若しか姐さんに怒(しか)られると困るでしょう。だから私言っちゃったわ。」

 女は無邪気そうに笑ったが、若いなりにも荒んだ貧弱な肉体の影が、その目元にも見られた。

 安井は時々この女が、何を考えているかが知りたいような好奇心が湧いたが、売春婦らしく産れついた綺麗な惨めな顔と向き合っている時に、悲哀と嫌悪とを感じずにいられなかった。

 階下(した)で小竹の声がして、着飾った其の姿が二階に現れて来た。そして神経質な目で二人の顔を見比べながら、部屋へ入って来た。

「さあ早く行きましょう。旦那が来ない前に帰れるように。」

 女は手摺りの出窓に腰かけている、安井の傍へ来て、肩を揺すりながら言った。

「何をそんなに考えていらっしゃるの。必然(きっと)また奥さんのことでしょう。」

 女を二人裏口から出してやってから、暫くたって安井も玄関口から出て行った。

 両国の国技館をぐるぐる廻って出た頃には、日影が大川の蒼い水の上に、もう薄れかかっていた。三人はそれから浅草へまわって、そこで晩飯を食べてから、帰路に就いた。

「旦那がやって来ましたよ。」

 途中で二人に別れてきた安井の姿を、茶の間に見つけると、新海が急いで出て来て告げた。

「二度も三度も来ましたよ。それは可怕(おそろ)しい見脈(けんまく)で、お宅の先生は、一体どんな人間ですなんて……確かに目の色が変わっていました。」新海は怠窟(たいくつ)な留守居に起こった出来事を、調子づいた話した。

 塵除をとると、安井は長火鉢の側へ来てがっかり坐ったが、猫板のうえにある田舎の兄からの手紙が、ふと彼の目を惹いた。披(ひら)いて見ると、それは田鶴子の問題が、悉皆(すっかり)解決したという報知(しらせ)であった。女の子も、同時に引き取らせることに決まったことも明白であった。安井は頼みの細綱が切れたような気がした。



  
     (完)



◎八木書店版『徳田秋聲全集』第10巻の本文を底本に、現代的仮名遣いに改め適宜補訂を行なった。
  初出:大正3年1月1日(「中央公論」第29年第1号)









▲ ページトップへ

展示日程の一覧

金沢文化振興財団