寸々語

寸々語(すんすんご)とは、秋聲の随筆のタイトルで、「ちょっとした話」を意味します。
秋聲記念館でのできごとをお伝えしていきます。





「初めての成瀬、永遠の成瀬」
   2025.4.10

 現在、東京のシネマヴェーラ渋谷さまにおきまして、成瀬巳喜男監督作品特集「初めての成瀬、永遠の成瀬」が開催されています。3月22日~4月11日までの会期で、ずいぶんと気づくのが遅くなってしまった結果、残る秋聲原作「あらくれ」の上映機会が本日10日(木)の19時35分と、明日11日(金)11時からの2回のみ! なお明日の19時25分からは犀星さん原作「杏つ子」の上映もございます(映画版はちょっとわかりませんけれども原作小説には秋聲が実名で登場していますよ!)。お近くの方、ご都合よろしければぜひご鑑賞くださいませ。
 現在の当館の企画展の主役・川端康成に「あらくれ」を語らせれば、こうなります。
 〈私はこの「解説」(※中央公論社『日本の文学』9・徳田秋声〈一〉、昭和42年)を書くために、まず「あらくれ」から読みはじめたところが、すらすらとは進まないし、注意を集めて向っていないとのみこみにくいしで、思いのほか時日をついやした。〉…おや! 世界の川端をして読みにくいと言わしめる秋聲作品! と少しほっとするやいなや、こう続きます…〈私の耄碌のためではあるまい。作品の密度のためであろう。秋声は「作品の密度」とよく言った。「あらくれ」が速く軽くは読めないように、秋声は楽には読めない作家であるらしい。作家の感興に読者を乗せることも抑制されている。秋声の作品が広い一般読者を持ちにくいわけの一半も、私は「あらくれ」を読みながら納得できたようであった〉…ここに乗っかるのもまたおこがましいことながら、そう…そうなんですよね…とお腹のあたりの布地をギュっと握りしめたくなるこの一文。少し省略いたしまして、続きがこうです…〈解説に代えて、読者にただ一つ望みたいことは、秋声の作品をゆっくりゆっくり読んでみてほしいということである。秋声の場合、これが凡百の解説にまさる忠言と信じる。〉…このあと、川端による「あらくれ」の中のいろいろな発見が語られてゆくのですが、単なる一記念館職員といたしましてはあらゆる下手な言葉を尽くすより、今後、すべての講座においてこのご忠言をお借りいたしたく存じます。
 成瀬監督も「あらくれ」パンフレットにおいて、この映画化の実現には、起案から20年かかったと語っていらっしゃいます。その字面だけをなぞる形で恐縮ながら、いちどご覧(お読み)になったとしても何度となく、ゆっくりゆっくり、20年かけて味わうべき作品なのかもしれません。





一町=109メートル
  2025.4.9

 7日、当館開館20周年記念日にご来館くださったみなさま、まことにありがとうございました。繰り返しもうしあげます、森八さまの「夢香山」(に限らず甘いもの)を召し上がる際には「上等の緑茶や抹茶」をおともに添えて!(3月25日記事参照) 記念日は普通の一日の長さでもってあっというまに過ぎてしまいますが、この二十年の蓄積を誇りとしながら、さらなる二十年三十年を目指して職員一同、邁進してゆく所存です。今後とも変わらぬご支援のほど、よろしくお願い申し上げます――と言っているそばから、年間スケジュールを組んでいて今年の秋聲誕生日がまさかの火曜であることを発見いたしました。12月23日(火)、おっと始めての定休日にぶつかるパターン…あぁどうしてもこの日、平和の象徴・〇サブレ―を配らなければならぬのに…10年続いた歴史と伝統が20周年の今年で途切れ…(追って考えます)。
 さて、秋聲よりひとつ年上の馬場小学校。明治3年、もとは浅野川にかかる小橋のたもとに「小橋小学所」として開校いたしました。小橋とは、当館目の前にかかる「梅ノ橋」(明治43年架橋、秋聲の幼少期にはない橋)→大通りの「浅野川大橋」→某K花さん「化鳥」の舞台となった一文橋改め「中の橋」→そしてその次にやってくる橋。その後、学校は何度となく名を変え、時に場所を変え、明治12年に「往年の劣等生、徳田末雄」こと秋聲が入学する頃には、現在地の斜め向かいあたりに「養成(ようじょう)小学校」として建っていたようです。入学時の秋聲は浅野町(現小橋町/番地不詳)に住んでいましたから、おそらくもう少し下流の「小橋」のエリアから姉かをりに送ってもらいながら劇場付近を通り過ぎ、ここへ通っていたことでしょう。ちなみに当時は男女別で、女児の学校(浅汀小学校)は通学路のもう少し手前にあった模様(小学校の通りと観音通りがぶつかるあたり)。小説「我子の家」(明42)に〈魂情の強い健吉の実の姉は、弟を送込んでおいて、一町程手前の女子小学校へ引返した〉とあるのがそれで、しかしそのうちかをりも面倒になったか、弟のひとり立ちを促さんとしたものか、〈男女の小学校の別れ道で「こゝから一人でも行かれるね。もう可(い)いやろ。」〉と、急に突き放されてしまったことにショックを受ける末雄少年です(「光を追うて」より)。
(←赤い印の上が養成小、下が浅汀小のあった場所と推定。
  明治20年、千羽傳三「加賀金沢細見図」より)
 秋聲卒業の年に、一家は記念館そばの御歩町(現東山一丁目)に引っ越しました。それが現在市営の有料駐車場となって、満開の桜に彩られている「秋聲のみち」沿いの旧宅跡です(記念館から約150メートル)。
 


 


新年度と20周年の開館記念日
   2025.4.6

 新年度が始まりました。そして気が付けば明日4月7日が当館開館20周年の記念日。前々回記事で予告いたしましたとおり、20年分のお祝いの気持ちを込め、明日の入館者先着20名様に森八銘菓「夢香山」をプレゼントいたします! ど平日ですし、生菓子ですし、新年度の月曜からもろもろ始まる世間さまを鑑み、限定20個ととてもささやかな数量にしてみました。そんな今日は表の桜が満開で、館の外は大変な人出! いっぽう館内はわりかしひっそり閑としており、じっくり資料をご覧いただくことができますし、2階サロンにお座りになって、ゆったり桜と浅野川のコラボレーションを眺めることができようかと存じます。もしご都合よろしければ、ぜひ明日ご来館いただけましたら幸いです。読みがはずれてうっかり何十人もの方にお越しいただくことになりましたなら、そんなみなさまには当館のトレードマークのあのサンタバッジを差し上げます。いつかガチャガチャで販売していたのと同じもので恐縮ですが、台紙だけ手づくりの20周年記念日バージョンに差し替えました(夢香山をメインとする先着20名さま分にも問答無用でついてきます)。
 小ぶりのザルに入って、まるで今まさに海から捕獲されたばかりのとれたて新鮮なサンタたち…。12月に馬場小を訪れ、桜の句を残していく秋聲(推定/前回記事参照)にならい、桜満開のこの時期に薄笑いのサンタを配りまわすという形で今年度も元気にシュウセイズムを継承する当館です。
 馬場小に残された桜の句についてはおそらく昭和16年12月4日の同校訪問時のものであろうと推測するほかないのですが、当時、この記念講演を聞いた、という同校に赴任したばかりの綿川秀男先生の貴重な回想録「馬場小学校の思い出」が残っています(『昭十九申羊会 還暦記念誌「おもいで」』平成4年、馬場小学校昭和19年3月卒業生同窓会 昭十九申羊会)。それによると、秋聲は〈皆さんに「何事でも一生懸命頑張れば、必ず成し遂げられる」と激励され、帰られる時、色紙に「往年の劣等生、徳田末雄」と書かれたことが私には此の上もなく印象深く、馬場校下の方方の慎み深さを代表される方のように思われました〉とのこと…秋聲がそんなポジティブなことを!!(かと思えばすぐに自虐を…!!) 残念ながら、校内調査においてその色紙は発見されませんでしたが、そんなエピソードも交えながら、昨日、最初の企画展ギャラリートークを終えました。ご参加くださったみなさま、まことにありがとうございました!





馬場小回顧展開幕
   2025.3.30

 去る26日(水)、無事に新企画展「光を追うてvol.2―馬場小学校と秋聲―」が開幕いたしました。と同時に、5月18日(日)開催予定の記念講演「昭和40年代の川端康成―『文学の故郷』碑をめぐって」の申込受付も開始。講師はあの『川端康成詳細年譜』(2016、勉誠出版)の編者のおひとり・深澤晴美先生です。深澤先生は一昨年に開館した、紅葉先生らを中心に紹介する「和洋学園 硯友社文庫」(和洋九段女子中学校高等学校内)開設・運営に携わる主要メンバーでもあり、当日はそのあたりのお話も少し伺えようかと存じます。4月12日(土)の『徳田秋聲探究』刊行記念トークイベントとあわせて、こちらから引き続き参加者募集中です。
 改めまして、馬場小の文学碑建設は昭和45年のこと。この2年前の43年に川端はノーベル文学賞を受賞し、そして碑文揮毫の2年後の47年には亡くなりますので、この間に造られ、それから半世紀を経て今に残された「文学の故郷」碑の重層的な存在意義について少し考えてしまいます。なぜ川端だったのか、建碑にいたる馬場小サイドからの証言は展示でご紹介しておりますが、ノーベル賞ばかりでない、昭和40年代当時の川端を取り巻く状況について、川端サイドからご紹介いただこうという企画です。
 その周辺資料として、展示では撰文について相談する川端筆 秋聲長男一穂宛の書簡や、建碑の翌年頃に川端が古書市で購入したという秋聲書跡「古き伝統新しき生命」と同じ文言のもの(徳田家寄託品)も出品いたしました。展示後半では、自伝小説「光を追うて」から、明治10年代、小学生時代の秋聲にまつわるエピソードと、昭和16年12月、晩年の秋聲が同校を訪れ、急遽記念講演をおこなったというエピソードをご紹介。その時に金子校長に依頼され残したものか、同校に保管されていた秋聲自筆の俳句幅「つくづくと昼の桜の寂しかり」は今回初公開となります。来校は12月ですが、桜の句…そういえば、つい先日までは冬の顔をしてまるで咲く気配のなかった「秋聲のみち」沿いの桜の枝が急に赤らみ、一、二輪開花している様子を今朝ほど目撃いたしました。川端の揮毫する文学碑文、秋聲の書幅ともに、ちょうどこの季節にマッチした内容となりました。


 


お茶とお菓子
    2025.3.25

 さて、いよいよ明日から三館連携・馬場小学校回顧展「光を追うてvol.2―馬場小学校と秋聲―」が開幕いたします。それぞれ4月26日(土)から、6月7日(土)から開幕予定の金沢ふるさと偉人館さま金沢くらしの博物館さまとの連携企画の先陣をつとめさせていただきます秋聲記念館です。
 通常の企画展の場合、50点ほどお出ししている資料ですが、今回はケースと資料サイズの都合上、計30点とややコンパクトな印象はありますが、馬場小さんからお譲りいただいた貴重な品々を公開いたしております。6月22日(日)までの開催となりますので、三館の会期を見比べながらご来館をご計画いただけましたら幸いです。
 また、展示替え期間中にさらりとイベントページにアップいたしました4月7日のプレゼント企画。この日がちょうど開館20周年記念日となりますもので、せめてもの気持ちとして来館者先着20名さまに、今年でなんと創業400年を迎えられるというかの老舗「森八」さまの銘菓「夢香山」を贈呈いたします! 開館記念日が4月7日と新年度も新年度すぎて、何をやろうにもちょっと準備が間に合わないものですから、森八さまにご協力をいただき、みんな大好き甘いものにお頼りすることといたしました。
 「夢香山」すなわち卯辰山を意味するお菓子(どらやき)。このお菓子自体、とくに秋聲に由来するものではありませんが、夢香山を愛した秋聲にちなんで当館の館報も「夢香山」といいますし、秋聲の自伝小説「光を追うて」の主人公も「向山等」といいますし、何より企画展の目玉・川端康成の書幅に「夢香山(向ふ山)」とどーんと書いてございますので、そのゆかりにつきましてはご理解いただけようかと存じます(なにせ創業400年、秋聲作品には森八さまへの言及もございます)。と、そんな情報をアップした午後、犀星記念館さまより展示替えがんばって、おやつ代わりにどうぞ~とご共有いただいた資料が「料理の友」(昭和2年6月号、大日本料理研究会)より「近代文芸家の食卓嗜好品調べ(上)」のコピーでした。犀星さんの記事の次に秋聲が載っており、曰く〈秋聲氏は犀星氏と同じ金沢の人である。そして矢張り『森八』の菓子に、上等の緑茶や抹茶を好まれる。〉…な、なんとタイムリーな! 犀星記念館さま、最高の差し入れをありがとうございました!!
 4月7日にご来館くださったみなさま、「夢香山」にはぜひ上等の緑茶か抹茶をあわせてご賞味ください。



 


展示替え中間報告
   2025.3.23

 なりをひそめ、今日も今日とてもりもり展示替え作業中です。前回記事に書きましたとおり、資料サイズと展示スペースの都合により今回は常設展示室と企画展示室を入れ替えて開催いたしますので、まず企画展示室の田村俊子展を撤去し、常設のパネル・資料の8割をそちらへ移動(冒頭の金沢関係の独立ケースだけ触らず残してあります)。空いた常設展示室に、次回、馬場小回顧展「光を追うてvol.2」のパネル・資料を入れてゆく…といういつもにはない作業行程を踏んでおります。今のところ大きなトラブルもなく、当館では初公開となる川端康成揮毫による馬場小「文学の故郷」碑文原稿書幅も常設展ケースに無事おさまり(迫力がすごいです)、アレとソレをしてもうあとひとふんばり、といったところです。 
 また、ふだん常設展示室にお出ししている自筆資料は原則レプリカなのですが、今回、資料を動かすにあたり“馬場小回顧展会期中のみ”という期間限定仕様がついてまいりましたので、この機に自筆資料の多くをオリジナルと差し替えました。紅葉先生朱筆入「鐘楼守」をはじめ、「誘惑」「仮装人物」「縮図」の原稿も本物。加えて展示室とのバランスを見ながら常設ではお出ししていなかった書幅や色紙なども蔵出ししております。さらに秋聲のあの白いダンスシューズも登場。それぞれあまり長くはお出しできませんので、適宜レプリカに差し替えてゆくかもしれませんが(その場合キャプションに複製と明記します)場所がちがうだけでハイハイいつもの常設内容…と思われず、ご来館の折にはぜひ企画展示室のほうにもお運びください。気分転換ついでに2階サロンの模様替えもおこないました。機械の調子がわるく、流れなかったりすぐに止まったりを繰り返していて見苦しかった映像をいったんお休みしまして、間もなく咲くであろう「秋聲のみち」沿いの桜を静かに眺めるくつろぎ空間としてみました。すると壁が寂しかったので、この4月で開館20周年を迎える記念館の歴史を振り返り、第1回~6回まで、過去の企画展ポスターを展示しております。今回展で63回を数える企画展ですので、こちらも折々に更新してゆく所存です。
 3月26日(水)の開幕まであと2日!



 


俊子展会期終了
  2025.3.17

 おかげさまで昨日をもちまして、生誕140年記念企画展「『女流作家』―田村俊子と秋聲」を閉幕いたしました。ご観覧くださったみなさま、まことにありがとうございました。本日からの展示替えにてあの濃密な展示空間はあっという間に撤去されようかと存じますが、この企画展を経て当館の手元にはオリジナル文庫の短編集3が残りました。そこに収められた名編「女流作家」を読むたび俊子のことを思い出し、読み終える頃には誰かに手紙でも書いてみようかな…と、そんな気持ちになることでしょう。
 この「女流作家」発表と同じ年に発表された、展示ではただの文字列としてパネルに引用していた秋聲の言葉がこちら↓

 〈以上は明治の末葉から、大正の初期へわたつての文壇の主潮で、花袋、藤村、白鳥、風葉、青果、泡鳴、小剣、秋江、薫、俊子諸氏が、各々の特色を異にした、時代的の作家である。〉

 こちらは「週刊朝日」昭和2年1月9日号に掲載された秋聲による文壇評「大正文壇の回顧」の中の一節です。明治末からの文壇の変容を分析しながら、この頃、強く時代に爪痕を残した作家のひとりとして、女性で唯一俊子の名を挙げています。紅一点であるとか女性で唯一であるとか、現代ではあまり歓迎されない表現かとも存じますが、この時代、秋聲にとっていかに俊子の存在が印象深かったかということを物語る一節には違いなく(しかも当時俊子はカナダにおり日本に不在)、「女流作家」とともにご紹介をさせていただきました。展示ではお出ししませんでしたが、この評の掲載ページのコピーが手元にあり、それを見ると書き手である秋聲のお顔から、話題にのぼっている作家たちのお顔がボンボンと。見るほうにはありがたいレイアウトです。残念ながら俊子のお顔はありませんが、上から久米正雄、菊池寛、志賀直哉…といった、まさに中央文壇と称すべき華々しい人々のお顔が浮かんでいます。
 と、次はそんな中央文壇を離れまして、石川県→金沢市→馬場一帯、とキューっと焦点を絞ったローカル展示にさまがわり。とはいえ、取り扱う年代は長く、明治3年から現代まで、馬場小とともに時代を駆け抜けてまいります。 





新企画展予告②
  2025.3.15

 2月2日記事でも予告しておりましたとおり、次回展の目玉は川端康成による馬場小の「文学の故郷」碑文原稿です。昭和45年、碑に使用したのち軸装されて同校に保管されていたものですが、これが4種それぞれ全長2メートルほど(本紙は1.5メートル)ととても大きいものですから企画展示室のケースに入りきらず、今回、常設展示室の一部を借りて展示することといたしました。ご来館くださったことのあるみなさまにおかれましてはぜひご想像をいただきながらお読みください。ご来館くださったことのないみなさまにおかれましては、ぜひ前回のコナンくん冒頭の当館展示室紹介をご覧になりながら!! 常設入って正面、「秋聲と金沢」についてまとめた独立ケースはそのままに(小学校のお話とつながるので)、以降のL字ケースを次回企画展示スペースに充て、中の資料はパネルともども企画展示室の方にお引っ越し…と、そんなことを考えております。その移動作業に手間がかかりますので、通常5日間の展示替え休館をいただいておりますところ、今回は少し長めの9日間。3月17日(月)~25日(火)まで休館となります。何卒ご理解をいただけましたら幸いです。
 また、壁面を上述の書幅でめいっぱい埋めてしまうため、いつもよりパネルすなわち情報量は少なめになり申し訳ないことながら、なにせ見るべきは川端の大書。その分、資料が雄弁に当時を物語ってくれようかと存じます。そして当館のボリュームの少なさ、物足りなさをカバーしてくれるのが、金沢ふるさと偉人館さまと金沢くらしの博物館さま。タイトルに「三館連携」と謳っておりますとおり、馬場小の閉校にあたり、専門分野別に資料の受け入れをおこなった三館でもって、それらを順次公開予定です。偉人館さまでは「馬場小学校ゆかりの偉人たち」と題し、当館ではもっぱら某K花さん! 小倉正恒! というばかりの卒業生から、より多彩な人々を。くらしの博物館さまでは「金沢の小学校」と題し、馬場小以外の小学校も広く視野に収める形で、金沢における小学校教育の展開について紹介される予定です。当館チラシ裏に少しご案内がありますが、それぞれ会期、休館日(当館は火曜、上記ご両館は月曜)が異なりますのでご注意の上、詳しくは各館の情報公開をお待ちください。





新企画展予告①
  2025.3.14

  本日をもちまして当館に新しい出会いをたくさんもたらしてくれた名探偵コナンミステリーツアーは終幕いたします。秋から毎日お顔を見ていたコナンくんパネルともこれでお別れ。ご参加くださったみなさま、本当にありがとうございました。明日18時~、事件解決篇のアニメ放送をぜひお忘れないようご覧ください。
 これと連動するように、あさって16日(日)をもちまして開催中の企画展「『女流作家』―田村俊子と秋聲」も終幕となります。17日(月)より休館をいただき、次回の三館連携・馬場小回顧展「光を追うてvol.2―馬場小学校と秋聲―」の準備に入ります。展示名にvol.2と謳いましたのは、2006年に「光を追うて―自伝小説に描かれた金沢―」展を開催しているため。と、さらっと申し上げましたがおよそ20年前…!? もはや連続性を謳う必要もないのではないかというほど前でした。とはいえ、ご存じ秋聲の自伝小説「光を追うて」は、こちらが何を求めて読むかによって入ってくる情報ががらりと変わる恐ろしい書。前回は金沢全般について、今回は、中でも秋聲の母校である養成小学校(馬場小の前身)についての情報を同書よりピックアップしてお届けしてまいります。今後また20年後くらいにvol.3、4…と、交友関係であったり、好きな本であったり、郷土の食べものであったり、さまざまに目先を変えて継続的に開催してゆくのでしょう。強い光は苦手な秋聲ながら、秋聲の情報を求めて我々の帰るところはいつでも(ひとまず、とも言う)「光を追うて」なのです。
 先日チラシも無事納品され、現在発送作業中です。表には「光を追うて」から卯辰山の情景を刻んだ馬場小「文学の故郷」碑の除幕式風景写真(馬場小旧蔵品)を大きくあしらわせていただきました。この斬新な撮影角度にも意図があり、右手前の網目状の屋根のような木組は、まだ蔓の育っていない同校の象徴たる藤棚。これも文学碑の周囲を彩る意匠のひとつで、そうした碑の成り立ちなどについて展示でご紹介してゆく予定です。また何より碑の命名および揮毫は川端康成――というわけで、肝心の展示概要より、解説日程より先に、5月のイベント情報を張り切って公開いたしております。 
                                 




巷(ちまた)つながり
   2025.3.12

 前回記事で触れた佐藤紅緑の「光の巷」という題からふと連想されたのが秋聲の「巷塵」でした。俊子の「暗い空」と対照的に一気に光の差した巷に、またもや塵芥がかぶさってきた感じですね(とかく強い光が苦手な秋聲)。4月12日に刊行記念イベントを控える小林修先生の『徳田秋聲探究』中、第二章「縮図」論にも登場する作品で、銀座・資生堂で終わる「巷塵」と銀座・資生堂から始まる「縮図」(掲載は同じ「都新聞」)の対比について論じられています(思えば「縮図」冒頭の章題もまた「日蔭に居りて」。どれだけ光を避けるのやら…)。
 「巷塵」は昭和11年3月16日~4月16日にかけて27回連載され、秋聲の体調不良により中絶、未完のままとなりました。この体調不良こそ秋聲にとって昭和11年の大患というべきそれで、俊子に絡めてご紹介した寸々語「島中さんの御馳走」(2025.1.25)と「『人民文庫』座談会」(2025.1.27)に繋がるお話です。同年5月、秋聲を励ますため島崎藤村、菊池寛らの発声で企画・刊行されたのが非凡閣版『徳田秋聲全集』全14巻別巻1。ここに「巷塵」および同時期に連載中であった「仮装人物」(昭和13年に完結)は収録されず、秋聲没後の昭和36~39年刊、雪華社版『秋聲全集』第13巻(室生犀星、広津和郎、川端康成、徳田一穂編)にともに収録されました。この時「巷塵」には秋聲長男一穂の求めに応じ、新聞連載時に挿絵を担当していた日本画家・杉山寧(やすし)による書き下ろしの挿絵1枚が付されており、一穂の巻末解説にその経緯と、掲載紙が同じであるがゆえに「縮図」が「巷塵」の続きかのように誤解されている向きについて記されています。こうした解説含め、かなり気合の入った雪華社版でしたが、この全集も「全15巻」と謳っていながら6冊で中絶。10年後の昭和49年、非凡閣版を復刻のうえ、雪華社版6冊分の内容をくっつけた形で刊行されたのが臨川書店版『秋聲全集』全18巻で、いま図書館などで見る全集は小林先生も編集委員をつとめられた平成の八木書店版(全42巻別巻1)か、この臨川書店版(平成元年に復刻)のいずれかが多いのではないでしょうか。
 と、つらつら書き連ねましたが、この全集の歴史についても『徳田秋聲探究』にさくっとまとめられているという、まさにかゆいところにすべて手が届いている一冊なのです。引き続きイベントへの参加申込み、お待ちしております!





勝手にしやがれ
   2025.3.10

 コナンくんへの嬉しさに押され、前々回記事の続きを疎かにいたしまして申し訳ございません。上司小剣『U新聞年代記』より、以下、秋聲・俊子のくだりです。
 
 〈五來(※欣造、当時の主筆)の盛時には、徳田、正宗、佐藤紅緑も一時復社。田村俊子は客員然として折々出社。紅緑と俊子とが、同時に長篇を書く。俊子が自分の小説に『暗い空』と題したのを、紅緑がチラリと見て、己れの小説には、『光の巷』をいふ題をつけた。作者(※小剣)は殆ど毎日のやうに、徳田や俊子を誘つて、用事もそこそこに、方々を散歩したり、歌舞伎の立見をしたりした。正宗もたまに加はつたが、いつも『俊子は君たちに任かす』と笑つて、一人で早く去つた。散歩は日比谷公園。芝公園。築地河岸。等々。……(※写真は「読売新聞」大正3年3月12日社告)
 俊子『上野へ行つてみない?』
 作者自身『あんたの家(※谷中)の近くになるから、いやだ。』
 俊子『新富鮓食べに行かない?』
 秋聲『女と一緒に物を食ひに行くのは、いやだ。』
 俊子『か…つ…て…に…し…や…が…れ。』(一字々々切つていふ。膨れた真似をして。他愛もない)〉

 ここだけ見ると、小剣、秋聲のタッグ、わるいですね…! 秋聲の読売復籍は大正3年のことですから数えで44歳。小剣41歳、俊子31歳。俊子の悪態が愛らしいやら切ないやら…。似た話で「青空文庫」さまにて、大正5年4月28日「大阪毎日新聞」夕刊掲載、薄田泣菫の「茶話」に「俊子の道連れ」というのを見つけました。

 〈小説家の田村俊子は自分でも書いてゐる通り、主人の松魚はそつちのけに、よく他の男と散歩に出掛(でかけ)る。同じ小説家仲間の徳田秋声、上司小剣、正宗白鳥などもちよい/\そのお相手になるが、こんな人達が皆みんな揃つて一緒に出掛ける時になると、男三人に女一人だけに、そこはまた不思議なもので、俊子が誰と誰との間(なか)に挿(はさ)まるかが一寸問題になる。(以下略)〉

 〈男と女〉の付き合いのややこしさ…。続きもぜひ上掲リンク先からお読みください。並びはどうあれ、この四人がよく連れ立っていたという周囲の証言(ゴシップ?)のひとつです。





コナンくんデビュー
  2025.3.9

 毛利小五郎さまはじめ名探偵コナンくん関係者ご一同さま、ご来館ありがとうございました…!!(前回記事の続きはお休みします。申し訳ありません!) 昨日のアニメ放送に当館がばっちり映っていると思ったことがすべて妄想でないことを祈ります。「期待」ないし「覚悟」という名のシミュレーションが行き過ぎて、夢か現実かわからなくなることが多々ありますので、録画を再度見返したり、TVerを利用するなどして、その境目を折々に確認することといたします。この記憶が確かであれば、梅ノ橋から外観から各展示室にいたるまで…まるで写真と見まがうクオリティで再現していただいており驚きました。受付さんによれば今朝いちばんの入館者さまが、アニメと同じ~!と喜んでくださったそう。秋聲に恋愛小説の名手というイメージはあまりないため、たぶん小五郎のおっちゃんが当館アプローチでお感じになった恋の予感はこの先うまく転ばないとは思われますが、前編でこれだけしっかりご紹介くださったおかげさまで、記念館一味、来週の後編につきましてはもう安心して謎ときに集中出来ようかと存じます。15日(土)までの一週間、ともに登場していた中村記念美術館さま、その他施設のみなさまと肩を組みあって喜び合いたい心もち…また一緒に盛り上がってくださった全国の秋聲会(概念)のみなさまもありがとうございました。
 ちなみに過去、犀星記念館さまのご登場時、無関係の当館が外野からひどくはしゃいだ寸々語「文学館に行こう!」(2020.2.16)によれば、その放送回は「加賀令嬢ミステリーツアー」、第969回にあたります。2001年から全国各地で開催されている「名探偵コナンミステリーツアー」において、各ヒントパネルの設置会場などが、その謎の解決篇として放送されるアニメ回に登場する…という趣向のご企画で、今回はたまたま当館にお声がけいただいたという次第です。よって、特別に秋聲とコラボというわけではないのですが、ご参加のみなさまはさすがのミステリー好き、期間中、当館に設置しているクイズラリー(内容は秋聲に関することのみ)の参加率が異様に高い、という数字が興味深く、コナンくんパネルだけでなく、あわせて展示も熱心にご覧いただけたようでたいへんうれしい限りです。関係者のみなさま、ご来館くださったみなさまに厚くお礼申し上げます。と、終わったような空気を出してしまいましたが、ツアー開催は14日(金)まで。まだまだコナンくん、いてくれますよ!





隙間から秋聲
  2025.3.7

 1日(土)、俊子展最後の展示解説を終えました。ご参加のみなさま、新聞社さんのご取材にご協力くださったみなさま、ありがとうございました。早いもので来週いっぱいで会期を終了いたします。また、それに先立ち昨秋より当館に住まう名探偵コナンくんも14日(金)を最後に米花町にお帰りになるそうな…「秋聲記念館にいるコナン像」というなんともシュールな絵面をまだご覧になっていないみなさま、もう一生ないかもしれない取り合わせですので、ぜひ駆け込み入館お待ちしております。ちなみに明日8日(土)と翌週15日(土)、前後編に分け「石川よるまっしミステリー」編が放送されるとのこと。予告を拝見しましたら、現在、小五郎のおっちゃんが住まう中村記念美術館さまの喫茶室っぽいところが映っていた? あれ違う?? といった様子でした。あわせて当館が出るやら出ないやら……何せ期待しすぎるとがっかりするという星のもとに生まれついている記念館一味ですので、ごく平常心でもって5分前くらいに鼻歌なんぞ歌いながら両日テレビ前待機いたしたく存じます。
 さて、俊子。今回展示にはお出しできませんでしたが、すっかりお馴染み「読売」組の上司小剣による戯曲調の回顧録『U新聞年代記』(昭和9年、中央公論社)の口絵には、小剣・白鳥・秋江・秋聲と俊子がともに収まる集合図が掲載されています。元になるクリアな写真がどこかにあるのか、かなり解像度に問題のあるヌルヌル漫画調ではありますが、見慣れた秋聲、花袋、白鳥のお顔はすぐにわかりますし、俊子の意志あるカメラ目線も愉快です。〈U新聞文芸部を中心とした或る夜の会合。カフェ・ヨーロッパ(以下略)〉とキャプションが添えられ、ありがたいことに出席者名も。〈(前列向つて右から)人見東明、小川未明、田山花袋、上司小剣、中村星湖/(中列同)仲田勝之助、田村俊子、岩野清子、正宗白鳥、滝田樗陰、近松秋江、五來欣造、本間久雄、岩野泡鳴/(後列同)土岐善麿、徳田秋聲、中村武羅夫〉とのこと。
 本文の第七景は「徳田秋聲」。また後のほうには、秋聲、俊子のいる読売時代にも触れられています。                       
                                (つづく)





「秋聲探究あれこれ」受付開始
 2025.3.1

 本日より4月12日(土)開催、小林修先生のご著書『徳田秋聲探究』(文化資源社)刊行記念トークイベント「秋聲探究あれこれ」のお申込み受付開始です! 先日からちょこちょこと本書の装丁や内容についてご紹介をしてまいりました。その際に書き漏らしました重大な情報、もしやもうお手元におありのみなさまにおかれましては本書の裏表紙をご覧になりながらお読みください。そこに丸で囲まれた見慣れぬ女性の後ろ姿…これがなんと昨年の高浜虚子展にて執拗にご紹介をしておりました虚子の推薦で「国民新聞」に連載された秋聲『新世帯』初版カバーからとられたものであるという…! 
 昨年ちょうど虚子展を含む形で開催していた三文豪館スタンプラリーの景品も秋聲分は『新世帯』初版を模したものにしていたのですが、お持ちの方はご存じのようにカバーなしの本体デザインを用いて作成しておりました。ざらりとした白い表紙に「新世帯」の三文字だけが素っ気なくあしらわれたシンプルなあれもあれでとても「新世帯」感があって好ましいところながら、カバー付きがあればきっとそのカバーデザインをこそ再現したことでしょう。そう、当館で二冊所蔵する『新世帯』(明治42年、新潮社)はいずれもはだかんぼうだものですから、裸本の姿で作成せざるを得なかったのです。それすなわち、カバー付き『新世帯』が非常にレアだということ!! 
 こちら小林先生のご所蔵品だそうで、文化資源社さまも交え、あれこれやりとりさせていただく中で全体像も見せていただきました。無造作な雰囲気はそのままに、しかし表紙と裏表紙で微妙に異なる日本髪の女性が描かれているという粋な仕込み方(何せ旧題は「三人暮し」。二人の女と一人の男の物語です)。
 以前、寸々語で秋聲の絶筆「古里の雪」を収録した同題の短編集『古里の雪』(昭和22年、白山書房)について、〈カキ餅柄の本体のほか雪印柄の函・帯・ピロリの3点が揃っていればかなり良いお品〉とご紹介したことなども思い出し(「祝・『偉人館雑報』更新」2021.4.20/※ピロリ=装丁についての解説を付した名刺大の付属品)、いやいや三点では不足であった、カバーも入れて4点であった、とここに訂正せねばならぬのでした。というわけで『新世帯』に関しましては、この本自体もなかなか市場に現れなかった記憶があるうえ、それがカバー付きならばいっそう鼻息の荒くなる逸品であるよということをお伝えしたい本日です(異装本もありそうな…)。



 

関西大学博物館 春季企画展「ジャズとダンスのニッポン」
  2025.2.27

 前回記事でダンスの話題に触れました。ご存じ、秋聲の晩年の趣味は社交ダンス。それに関連いたしまして、このたび関西大学博物館さまより春季企画展「ジャズとダンスのニッポン」のご案内をいただきました! 昨年末にこの展覧会の図録的な立ち位置にある永井良和先生のご著書『ジャズとダンスのニッポン』(関西大学出版部)をご献本賜り、中で当時の文士たちとダンスとのかかわりを論じる章「文学者とダンス」の副題にあがる名の一覧はこう→「谷崎潤一郎・久米正雄・奥野他見男・村松梢風・稲垣足穂・萩原朔太郎・室生犀星・永井荷風・菊池寛・吉井勇・斎藤茂吉・徳田秋聲・國枝史郎・坂口安吾」…ハイ、秋聲ちゃんといました!一安心! 続きまして次章「関西のダンスホールと文学者、文筆家」の副題にあがる人々がこう→「國枝史郎・三島由紀夫・徳田秋聲・藤澤桓夫・織田作之助」…ハイ、またいました!大歓喜! 本書および同じ永井先生のご著書『ゲイシャのドレス、キモノのダンサー 日本のタクシーダンス・ホール 大正・昭和戦前篇』(ふみづき舎、令和6年)などでご紹介くださっている秋聲の関西ダンス文化とのかかわりについては、恥ずかしながら館の方でほとんど押さえられておらず、食い入るように拝読したものです。
 唯一、パッと思いついたのは昭和9年の回顧録『思ひ出るまゝ』の第3章「郷里にて」。金沢へ向かう前の京都で、時間調整のため東山の踊り場を覗きに行ったと記されます。〈私はダンス場の気分が思つたより好いので、五回だけ踊つて出るつもりで、最初チケツを五枚を買つた。入場券に二枚ついてゐるので、詰り七枚だが、直きに踊つてしまつた。〉…ここに関西のダンスホールに出没し、気持ちよく踊る秋聲(64歳)の姿が確認されます。展示の方に秋聲のしゅの字が登場するかはわかりませんが、おそらく当館でこれまでにご紹介してきた中(東京の八大ダンスホールがメイン)には含まれない、新しいダンスホールとの出会いが待っていようかと存じますので、ご興味おありの方はぜひぜひ上記の企画展へお出掛けください。
 会期は4月1日(火)~5月31日(土)まで、入場無料です(休館日にご注意ください)。また会期中、永井先生によるご講演やSPレコード演奏会もありますよ! 
(※上掲、画像クリックでチラシのPDFが開きます) 





吉屋信子の五百円
  2025.2.26

 最近、入手いたしました雑誌「読売評論」第2巻第5号(昭和25年5月)。ここに前回記事からお名前のあがっている『縮図』のモデルで、秋聲の妻亡きあとの“二人目の恋人”とも言うべき小林政子の回顧録「『縮図』のモデル・銀子―徳田秋聲先生の思い出―」が掲載されています。しょっぱなから『縮図』冒頭、あの有名な銀座・資生堂での食事シーンについて〈打明けていふなら、食事をしてゐるのは先生とわたしとである〉とかなりのパンチ力をもった内容で、〈銀子〉のモデルはほぼ私、〈均平〉は秋聲を素材とした〈作り物〉と述べられます。それから秋聲の“一人目の恋人”であった山田順子から手渡されたメモのこと、秋聲から習うよう言われたダンスのこと、原稿料が入ると御馳走してくれる鯛茶のこと(秋聲はうなぎ)、時々凶器になるステッキのこと、原稿用紙と万年筆の入った折鞄をどこへゆくにも絶対に手放さなかったこと、「チビの魂」のモデルとなった少女のこと、夜中の執筆作業用に政子が用意した鳥のひき肉とゆばを甘辛く煮た夜食を必ずたいらげたこと、秋聲没後の生活のこと、などなど。そんな多くの情報量の中に、ふわりと現在の企画展の主役・田村俊子の影がよぎったのが、吉屋信子に頼んだ借金のくだりでした。昭和10年代、政子が芸者屋の経営にゆきづまった挙句、秋聲を通じて吉屋信子に千円を借り、その三か月後どうにか半分だけを返しにゆくと「もうこの五百円だけで結構です」と借用書を返してくれた、というエピソードです。 
 似た時期に俊子(帰国後)も信子に借金を申し込んでおり、信子の『自伝的女流文壇史』(昭和37年、中央公論社)からパネルに引用してご紹介しています。〈その珍客は客間にゆったりと腰かけ、茶菓を喫したのち、この人のゆっくりして粘り気のある語調で、「五百円貸して頂戴」(中略)特別飛切りの一、二の大作家でもない限り、稿料はその頃一枚五円なら不平は言えぬ標準だった。百枚書かねば五百円にはならない。思えば怨めしい。〉――とは言いながら、伝説の女流作家の依頼を光栄をとらえ(ようとし)た信子は時間をもらってなんとかこれを捻出、俊子に〈贈呈の覚悟〉で献上した、と書かれています。政子(秋聲)と俊子、同じ“五百円”にまつわるお話でした。
 ちなみに俊子はこの後、信子を間に立たせて菊池寛にも借金を申し入れさせたようですが、寛には「ぼくはあのひと嫌いなんだ」と言ってあっさり断られたそう。





小林 修『徳田秋聲探究』バースデーパーティー
   2025.2.24

 先日、情報を解禁いたしましたイベントにつきまして改めてご紹介です。あさって発売、小林修先生のご新著『徳田秋聲探究』(文化資源社)のバースデーパーティーこと刊行記念トークイベント「秋聲探究あれこれ」が4月12日(土)に開催決定です! 販売に先立ち、ご献本いただいた同書を拝見すると、その美しい装丁担当は当館オリジナル文庫でもおなじみ金沢在住のデザイナー南知子さん。そして本を開けば、金沢に建つ館としてとても有難い、郷里金沢における秋聲のルーツから語り起こされます。
 そもそも実物をみる前から、ネット各所で見かけるその宣伝文句に煽られに煽られていたのです。「墓石に記された未詳の義母と最後の愛人:小林政子とが繫がる細い因縁とは?」…とは?? いつもぼんやりな当館、しばらくぽかーんとしていたものですが、本書を読めばなるほど納得、時空を超えたダイナミックなご考察にハーーン!と大きく膝を打つこと間違いなしです(図版多めも嬉しいポイント)。また昨日記事でも触れました、秋聲最後の長編小説『縮図』のモデルこそ小林政子。その『縮図』論が第二章で(珍しい政子と秋聲の写真も)、戦中戦後の混乱のなか数々の苦難を乗り越え一冊の本になった『縮図』の影に、秋聲亡き後の長男一穂の奮闘あり、版元・小山書店の心意気あり、中でも“幻の初版本”をめぐって、館所蔵の『縮図』(複数あり)を改めて見返したくなるドラマチックかつ緻密な考証が続きます。そして当館オリジナル文庫新刊に収めた「春の月」から始まる第三章「秋聲と日露戦争」。後半には、前回記事で触れた久米正雄と学芸自由同盟関係資料が紹介され、いつかの「秋聲の戦争」展で小林先生からその貴重な機関誌および久米と日本文学報国会資料をお借りして公開させていただいたことも思い出されます。
 第四章「通俗小説への意欲」、第五章「全集・原稿・代作・出版」…と、もちろんこれまでのご発表論文の単行本化につき(書下ろし含む)初めて目にするわけでないのですが、「秋聲の本名は末雄です」と諳んじて言えるようになるまでそれなりの時日を要する脳みそにとり、こうして一冊にまとまっていることの有難さといったら…。今に残された資料からフッと当時につれていってもらえるような、資料とはこう見るもの、という学びを得ると同時に、読み物としても心がどきどきする面白さがございます。
 4月12日(土)、小林先生を囲み、あれこれ伺いつつぜひこの喜びをともに分かち合いましょう。3月1日(土)お申込み開始です!





みかんと薬
  2025.2.23

 前回、田村俊子の風邪に関し、寸々語1月23日記事にも入院話がある、と書きました。記事の前半は大正4年2月末の入院時のこと。そこで俊子が薬の代わりにみかん食べてます~と秋聲に報告したことに触れ微笑ましく思っていたものですが、昨日資料整理をしていてふと秋聲の次の言葉が目に留まりました。
「不幸になると私は女の必要を感ずるが、これは頂度、熱がある時に、蜜柑が欲しくて耐らないやうなものだ。」
 アラッ、秋聲もみかん派!(ただし薬も普通に飲める、むしろ好きな方だと思われます) これは作家・武野藤介のゴシップ本『文壇余白』(昭和10年、健文社)中、「庇痴繰警句抄」にある記述で、佐藤春夫や武者小路実篤から始まり、秋聲、井伏鱒二、武野自身で締められる計20名の文士たちの言葉が載って(引かれて?)います。ゴシップ本なのでどこまでどうか実際のところはわかりませんが、秋聲に関しては他にも昭和7年、藤澤清造の死を受け秋聲や久保田万太郎らが中心になって葬儀の手配をしたこと(本当)、昭和8年、学芸自由同盟結成時、幹事長を久米正雄に押し付けられたこと(本当/新刊・小林修『徳田秋聲探究』に一章あり)、山田順子や小林政子(「縮図」のモデル)との関係性などなどが語られるうち、へぇと思ったのが次の記述です。
〈文壇に近頃珍らしく美談を聞く。徳田秋聲老が発起人となつて、雑司ヶ谷の墓地に、没後十年、早くも墓標の朽ちかけてゐる岩野泡鳴の碑を、建立しようと云ふのだ。「遺族が余り冷淡過ぎる」と云つて、自分達の知つたことぢやないとばかりに、顔を背ける者があるかと思ふとまた一方では、思ひ出したやうに、故人の無宗教哲学を担ぎ出して、その基金の募集に「いゝ顔」を見せない者もある。が、秋聲老のあのネチネチした根気にはかなはないらしい。どうやら泡鳴碑が実現される模様である。地下の半獣主義者も微苦笑してゐることであらう。〉…恥ずかしながら、このお話は把握しておりませんでした。今後気にかけ、周辺事情を調査してゆきたく存じます。 
 大正9年、泡鳴が亡くなった時、秋聲はいくつかの追悼文を寄せるほか、『文壇余白』と同じ昭和10年の随筆「雑筆帖」にふたたび彼との思い出を綴っています。
 〈泡鳴氏の死も私には寝耳に水であつた。暫くやつて来ないので、訪問したことのない巣鴨の家を訪れると(中略)風邪で服薬してゐたが、もう快くなつたから薬は止めると言つた。しかし、何だかちよつと弱つてゐるので、薬は止さない方がいゝだらうと私は注意した。(後略)〉――奇しくも、冒頭の話題とつながりました。
(※写真は講談社『徳田秋聲集』(日本現代文学全集28)より、秋聲にもたれる泡鳴/明治43年、長谷川天渓外遊送別会にて)





祝・『読売新聞よみうり抄』大正篇(第一巻)発売!②
  2025.2.21

(承前)といったわけで、〈「よみうり抄」の記事は聞き書きを含み、予定や噂に留まる人物彙報も掲載された〉と巻末解説にもあるとおり、これらが実際に為されたものかという点においては重々その裏付けをとらねばならぬ記述も多く含まれるわけですが、とはいえ火のないところに煙は立たず、調査の足掛かりになることは間違いありません。そして真であれば新発見、偽であっても単なる〈誤報〉と切って捨てられるべきでなく、結果的に何故〈誤報〉になったのか、という過程を埋めてゆく作業がまた意義深し…と、やはり巻末解説を拝読しながら深く頷いております本日です。とりいそぎ秋聲の項だけを先に拾い読んでしまう習性を反省しながら、このころ他の人はなにをしていたやら…と隣近所に目を移せば、あ、小寺菊子が旅から帰ってきてる…、島崎藤村が引っ越ししてる…、田村俊子が風邪ひいてる…(大正2年3月16日のこと。秋聲が贈った快気祝い云々という日付不明の書簡の手掛かりになるかもしれません/「寸々語」1月23日記事参照)、などと当時の文士たちの近況がリアルタイムで感じられ、ついいつまでも読み耽ってしまうのでした。
 これを自分でぜんぶ誌面から拾ってゆこうとすると大変な作業量。実際、その大変な作業量の結果としてこちらの御本が出来上がっているのですから、編集にあたられたよみうり抄研究会様と文化資源社様には感謝の念をささげるほかありません。奥付の記述にもちょっとした遊び心を感じ、つくり手さまのお人柄が感じられます。こちらは館でお取り扱いをするにはやや高価なため(17,600円税込)ショップに入荷せず恐縮ながら、閲覧用としてしばらくディスプレイ予定ですのでぜひお手にとってご覧ください(きっと手元に置いておきたくなるはず…)。
 ちなみに大正2年の本日2月21日(金)はこんな日でした。
「森鷗外氏 訳の『恋愛三昧』は近代脚本叢書第一篇として現代社より一両日中に出版の筈なりしが昨朝の火事にて製本所と共に焼失す」…えっ、そうなんですか??(と、寡聞につき、ここから裏を取りにゆく)





祝・『読売新聞よみうり抄』大正篇(第一巻)発売!①
  2025.2.20

 先日からずいぶんと「読売新聞」づいたところで、満を持してお役立ち新刊のご紹介です。2月10日記事でご紹介いたしました小林修先生の『徳田秋聲探究』と同じ文化資源社さまより、『読売新聞よみうり抄』大正篇(第一巻)がついに発売!! 本書が『徳田秋聲全集』を刊行された八木書店の元担当編集者さまによるお仕事といったご縁により、このたび出来立てほやほやの同書もあわせてご寄贈たまわりました。タイトルのとおり「読売新聞」に掲載された雑報欄「よみうり抄」を網羅的に収集した全5巻のうちの第1巻。巻末解説によれば明治31年、島村抱月が創設したコーナーで、ただし文学界の時事を述べる創設当時の形は結構な文章量。それが大正期になり、芸術界に属するさまざまな人々の消息を端的に述べてゆく形に変わってゆき、諸先生方の近況がパスッと伝わる彙報欄として根付いたようです。
 たとえば大正3年1月10日(土)は、われらが秋聲から始まります。
「徳田秋声氏 は昨日木更津から帰京して十六年目に本社に復社した」…まさに前回記事と現在の俊子展に繋がるところ。紅葉の斡旋により、明治32年からちょろっとだけ在籍していた秋聲の同社への復籍が伝えられています。続きまして同年3月8日(日)、
「徳田秋声氏 は嘗て中央新聞に連載した『無実』を欣々堂から出版する」…ちょっとこの作品名にピンと来ないのですが「中央新聞」の方から見てゆきますと、大正2年、同紙に「冤」という作品を連載しており、これのことを指すのでしょう。『冤』なる単行本も当館に所蔵なく、実際に出たのかどうか? その次は4月4日(土)、
「徳田秋声氏 は『新潮』五月号のために四十余枚の短篇小説『薬』を寄稿せり」…うーーん、「薬」…これまた全集の著作目録に掲載なく、このころは主に記者生活をしていてあまり小説を書いていない時期にあたりますので本当にあるのかないのか…同じパターンで4月23日(木)、
「徳田秋声氏 は三十余枚の短篇小説『亜鈴』を脱稿し『新日本』に寄稿せり」…亜鈴?? なに?? 続いて5月16日(土)、
「徳田秋声氏 は七月の『中央公論』脚本号のため三幕物の脚本を執筆すべしと」…書いています! たしかに! 「立退き」というのを!!    
                                 (つづく)
 




紅葉と半古と古径
  2025.2.17

 前回記事の続きです。「梶田半古の世界展」図録には、秋聲書簡同様、初公開資料として半古筆 紅葉宛書簡3通、そして「読売新聞」主筆をつとめたこともある高田早苗筆 紅葉宛書簡も掲載されています。これ以前に半古の読売入社について紅葉から相談されたことを受け、社で相談した結果お受けしますよ~との返答ではなかろうか、と解説が付されており、参考文献にあがっている添田達嶺『半古と楓湖』(昭和30年、睦月社)を見れば〈高田博士と紅葉山人は余程親しかつたらしくまるで兄弟のやうに懇意にして、それが山人の死ぬまで続いたので、紅葉とその作品に就(つい)ては高田博士が誰よりも精(くわ)しく知つて居られた筈だし、その紅葉山人の推薦で半古も読売社に入社した〉とありますので、どうも秋聲の読売入社と同じルート(紅葉→高田)を踏んだもよう。半古は明治30年頃から在籍? 秋聲が在籍したのは明治32年末~明治34年春までの一年ちょっと。半古の正確な歩みがわかりませんが、このあたりで仲を深めたことは間違いなさそうです。
 前掲書には、紅葉との縁から半古のもとに〈硯友社の同人達や紅葉門下の小栗風葉さんや徳田秋聲さんなどもチヨイチヨイ遊びに来た。その頃の秋聲さんは津久土八幡の裏あたりに下宿してゐて、挿絵を頼みに来たのを記憶してゐると前田青邨さんが語っていた〉とも記されます。青邨は、明治32年、紅葉の紹介で半古に弟子入りとあり、秋聲が津久土八幡に住んでいたのもちょうどこの頃。同38年連載の風葉「青春」挿絵を半古が担当したとき、すでに挿絵の仕事に興味を失っていた師匠の代筆もしたとかしないとか…。そのくだりに再び登場するのが秋聲で〈明治四十年の十月から読売新聞に載った徳田秋聲の『凋落』にも半古は筆を執つたが、此挿絵には余り乗気がしなかつたらしく、読売新聞に対する多年の義理で余儀なく引受けたらしかつた〉…おぉ…みんなに敬遠されている『凋落』(前々回記事参照)…調査不足で、すぐにその挿絵をお出しできず恐縮です。いちどこの辺り、きちんと整理をする必要がありそうです。
 弟子繋がりで、青邨のほか半古の優れた弟子のひとりに小林古径がいます。令和2年秋、ご遺族による半古の墓仕舞にともない、東京・染井霊園にあった弟子たちによる記念碑「梶田半古先生之碑」(古径揮毫)は上越市にある小林古径記念美術館さま敷地内に移設されたと聞きました。今は愛弟子である古径の記念碑と並んで見ることができるそうです(写真は移設前/ご遺族提供)。



 

硯友社文庫「開館1周年記念講演会」のご案内
 2025.2.16

 ご丁寧にご案内をいただいておりながら、うかうかと日を過ごすうちこちらでのご紹介がすっかり遅くなってしまいました。今月23日(日・祝)。東京の和洋学園 硯友社文庫さまにおきまして「開館1周年記念講演会」が開催されます! 一昨年、開館記念式典にうかがってから早一年…昨年の館報に朗報として掲載させていただいたことを思い出します(今年度の館報を編集中です)。出口智之先生(東京大学大学院総合文化研究科准教授)による記念講演「硯友社の作家たちと口絵・挿絵―絵の中に隠された謎―」、これはべらぼうに面白そうです。急なご案内となって恐縮ながら、ご興味おありのみなさま、ぜひぜひ急ぎお申し込みください。 
 当日、秋聲の話題が出るかどうかはわかりませんが、硯友社まわりの作家のひとりとして、たとえばこの頃の秋聲の著作『雲のゆくへ』(明治34年、春陽堂)と『後の恋』(明治36年、春陽堂)の口絵および「読売新聞」連載時の挿絵はいずれも梶田半古が手掛けています。ははーん、この時期、半古もまた最近寸々語でよく話題にしている「読売」組! 明治33年「雲のゆくへ」の後には、同紙連載の紅葉「続々金色夜叉」の挿絵も担当。また、これと前後して明治31年、紅葉の媒酌により紅葉門下の北田薄氷(うすらい)と結婚した半古ですが、彼女との生活は長く続かず、二年後、25歳という若さで薄氷を病により喪ってしまいます。翌年、半古がその作品をまとめて刊行した『薄氷遺稿』(明治34年、春陽堂)には秋聲執筆による「薄氷女子小伝」が収録されており、この頃の彼らの交流のさまが窺えます。
 さらに、より直接的な交流を示す資料として、平成6年、そごう美術館で「梶田半古の世界展」開催の折、秋聲の長編小説「焔」に関し、「国民新聞」連載時に秋聲自ら半古に挿絵の構図を指示するはがきが出品されたことがありました。ありがたいことに図録に文面部分の画像掲載があり、秋聲がこんな注文をつけていたことがわかります。〈今度は又今一人の婦人が襖蔭から内を覘く、其女は凋(しな)びたような眉尻の下がつた、目の凹んだ小い女。羽織を著てゐる。束髪は庇をやゝ大きく取つてある〉…この時の実際の挿絵((二)其の六/明治40年3月27日)を見れば、とても忠実に再現してくださっている気がいたします。 (つづく)
 




黄色い仲間
  2025.2.10

 秋聲と黄色といえば(前回記事参照)、大木志門編『月日のおとなひ 徳田秋聲随筆集』(2024、手のひらの金魚)および大木志門著『徳田秋聲と「文学」』(2021、鼎書房)でしたね! うっかりしており申し訳ございません。いずれも黄色い表紙が華やかなこの二冊、館内ショップでもお取り扱いをさせていただいております。
 また同じ日、秋聲なんて〈黄ばんだ葉〉しかないよ~とXで雑に呟きました瞬間、その直前にリポストした文化資源社さまのアイコンが黄味を帯びていることに気が付きました。よく見れば黄色い菊に彩られた真ん中に「小林修『徳田秋聲探究』」と記してあります。こ、これは…! 秋聲研究者・小林修先生のご新著…!! あしらわれているのは秋聲の短編集『勲章』(昭和11年、中央公論社)外箱に描かれている菊ですね(深澤索一装丁)。ここに超強力な黄色を発見いたしました。
 右下の丸いイラストは『凋落』(明治41年、隆文館)の小峰大羽による装丁より。家庭の臭みを醸す妻との〈ラブ(LOVE)〉のない新婚生活から逃れたい男が芸術を志す若く美しい女性に心を傾け、やがて凋落の一途を…といった筋の長編小説です。俊子展の関係で先日から何度となくご紹介している「読売」組(秋聲、小剣、白鳥)から、こちらは正宗白鳥在籍時に同紙に連載された作品で、その時のことを白鳥が名著『自然主義文学盛衰史』に記しています(下記、講談社文芸文庫版より引用)。
 〈私が読売の文芸面を担任していた頃、彼の『凋落』と題する小説が連載されだした。秋江がそれを批評して、「書きはじめから凋落の有様ばかり出ているので面白くない。」と云って、その論旨を新聞に寄せて来たので、私は、「自分の新聞に出している小説の悪評を、自分の新聞に出す法はない。」と云って拒絶したのであったが、秋声は、『黴』だの『凋落』だのと、不景気な題をつけたがるのであった。当時の自然主義作家の作品は、陰鬱でじめじめしているのが多かったが、秋声のも大体うっとうしいものであった。独歩は茅ケ崎の病院で、「僕ら病人は、秋声君の小説のような陰気なものは読む気になれない。」と云っていたが、自然主義作家のものは、文壇での評判はよくっても、多数の読者に喜ばれないのは当然であった〉…止まりません、白鳥節が止まりません、そして引用する手も止まりません…! というわけで、そんな陰鬱な『凋落』印を菊の黄色でふんわりカバーしてゆく小林修先生の美しい『徳田秋聲探究』、2月21日の発売です!
(記念館でもお取り扱いの準備を進めておりますし、春には刊行記念イベントも開催予定です。)





黄色と秋聲
 2025.2.6

 おとといMROラジオ「あさダッシュ!」さまに学芸員がお邪魔してまいりました。その日のトークテーマは「黄色」ということで、秋聲と黄色…とずっと考えていたのですが思いつかず、記念館と黄色…と切り替えすぐに浮かんだのが事務室の物置でした。毎年12月23日の秋聲のお誕生日(旧暦)を迎えるごとにひとつずつ積みあがってゆく黄色い大きなサブレ―缶…。名誉館長からの逆プレゼントとして中身がお客様のもとに飛び立つかわりに、タオルやら洗剤やら館のこまごまとした備品を保管させていただいております。
 そんな話を枕に、メインは以前にこちらでもご紹介した第1回田村俊子賞受賞作・瀬戸内晴美『田村俊子』から金沢出身の山原鶴(たづ)さんのお話とさせていただきました。噛み砕けば、秋聲と俊子と柘榴のお話。徳田家のシンボルツリーとしての柘榴…と思えば、俊子を描く短編「女流作家」を収録した新刊『短編集3』に同じく入っている「潮の匂」にもそっと出てきているのです。〈山野は何だか自分の仕事に坐れそうな幸福を感じながら、柘榴の花の落ち散った庭を眺めていた〉ってね…。と、そんなこんなに思いを馳せておりましたら、肝心の柘榴を詠んだ俊子の俳句短冊のご紹介をわすれました。早いもので俊子展の会期も残り一か月ほど。今は雪がすごくてとても気軽にお誘いできませんが、俊子の貴重な自筆資料、ぜひ会期終了までにご観覧くださいませ。
 柘榴といえば、八木書店版『徳田秋聲全集』の外箱にはすべての巻で異なる動植物があしらわれており、柘榴の実もございます。第33巻がそれで、この装画は近松秋江の親戚にあたる日本画家・徳永春穂の手になるもの。ちなみに第33巻には大正9年~10年にかけて「婦人之友」に連載された長編小説「闇の花」一篇が収められています。家にお預かりしている大事な娘さんと関係をもってしまった著名な教育家の遠野博士(既婚)…といった〈最もセンセイシヨナル〉(秋聲談)な物語で、その花の色どんな色――と冒頭から斜め読みしてゆきますと、〈鳶色(とびいろ)の往来〉、〈ルビイ色をした甘い酒〉、〈空は淡碧(うすあお)く〉、〈黄ばんだ葉〉、〈蒼(あお)い煙〉、〈淡紅色絹縮(きぬちぢみ)の細紐〉…ハイ、出ました〈淡紅色(ときいろ)〉です。黄色と秋聲にたどりつけなかったあの日、万一「じゃあ秋聲の好きな色は?」と訊かれた時用の答え、「淡紅色(ときいろ)」の登場(秋聲作品に頻出)です。





「三文豪のナイショ話」第2回
  2025.2.2

 本日、「北國新聞」さま朝刊に「三文豪のナイショ話」第2回=秋聲回をご掲載いただきました。文壇デビュー順にて先月は某K花館さんの現在の全集展にもつながるエピソードとお正月話、今回が秋聲、そして来月は犀星館さんのご担当です。向こう一年ほどは続きそうな有難い枠を作っていただきましたので、この機会に秋聲によりご関心を寄せていただけるよう努めてまいります。
 今回は、昨日2月1日が新暦お誕生日ということで、旧暦12月23日、戸籍上の12月1日、と誕生日が3つある秋聲についてご紹介する内容といたしました。とはいえ、このあたりが「ナイショ話」で、恥ずかしながら記念館といたしてもこの背景についてすっきりとしたご説明を提示しかねるのですけれども、そんな実情とともに年に3回お祝いするチャンスがある、とポジティブに受け止めていただけましたら幸いです。
 また、記事のお尻でも予告いたしましたとおり、次回3月からの企画展では、昨年3月に閉校した馬場小学校から、閉校を機に当館に移管された資料を公開いたします。数量としてはそれほど多くないのですが、秋聲自筆の俳句幅のほか、何より校庭にある「文学の故郷」碑の碑文原稿(軸装)が次回展の目玉となります。馬場小(秋聲在籍時は養成小学校)の卒業生である某K花さん、尾山篤二郎、秋聲の三人の顕彰碑で、昭和45年、同校創立百周年を記念して建設されました。その揮毫はかの川端康成。馬場小さんの折々の記念イベントや、過去に石川近代文学館さまで公開されたことがありますのでこれが初公開ではありませんが、当館で展示するのは初めてです。この貴重資料とともに、建設の経緯、そして秋聲晩年の馬場小再訪についてご紹介いたします。
 先日もすこし馬場小さんにお邪魔してまいりました。前庭にある「文学の故郷」碑にもご挨拶を、とお寄りして、もう何度も撮影しているのですがなんとなく行くたびに撮ってしまう三人の略歴を記した案内板にヒョコッとフレームインする愛らしい山茶花。季節ごとの味というものがありますね。ただ今回この碑について学ぶなかで、ア~これまでの撮影の仕方、碑の見方が間違っていたワ~ということがございました。それはまさに、卯辰山の秋聲文学碑をまんなかの棒一本(石柱)のみにフォーカスして撮影してしまうがごとく…展示開催にあたり、そんなお話も追って記してまいります。





徳田家のラジオ
  2025.2.1

 1月30日に秋聲と電気にまつわる記事をあげたのですが、その日は「3分間電話の日」であったことを後から知りました。本来、電気でなく電話について書かねばならぬのでした。そして本日2月1日は「テレビ放送記念日」であるとのこと。とはいえ日本にテレビが普及したのは戦後のことで、秋聲は戦中に亡くなっておりますので、あいにく秋聲とテレビエピソードは持ち合わせていないのでした(秋聲の新暦お誕生日だってのに、それにかかわる放送も本日とくにないのです。力およばずで恐縮です)。そのためまたまたちょっとずらしまして、本日はテレビでなくラジオについてのご紹介です(ちなみに例月のMROラジオ様への次回学芸員出演は4日(火)10時~です)。
 徳田家にラジオが導入されたのは大正15年2月18日のことのようです。なんとその関係書類が残されており、文庫より一回り小さいくらいのぴらりとした紙に「聴取無線電話施設許可書」と記してあります。これがラジオの受信許可書で、当時ラジオを聞くには機械を買って、申請して、逓信局からの許可を得なければならなかったもよう。大正12年の関東大震災によりこうしたメディアの重要性が認識されたとも言われており、日本での放送開始が大正14年3月22日ということですから(この日が「放送記念日」に)、徳田家への導入はそのざっくり一年後という雰囲気です。
 〈多分大正の末年であったと思う。初めてラジオを聞いたのは……。蓄音機も、そうであったが、ラジオも初めは、ラッパから音が聞えてきた。当時、新宿に聚芳閣という出版屋があって、そこの主人の足立欽一という人が、父のところへ親しく出入りしていて、その人がラッパ附きのラジオを持って来て呉れたのを覚えている。〉…徳田家のことを知りたければ徳田一穂の作品を読めばいい、でお馴染みの秋聲長男一穂さんによる「ラジオ追想」より(大木志門編『街の子の風貌 徳田一穂 小説と随想』収録/2021、龜鳴屋)。――おや!足立さんでしたか! と思った人にも思わなかった人にも親切な一穂さん、〈この出版屋には、『唐人お吉』を書いた十一屋義三郎氏、井伏鱒二氏なども勤めていたことがあった。その後、聚芳閣の主人は、父の長篇『仮装人物』の中で、一色という人物で登場して来るようになった〉…さて足立さんは何故急にラジオをプレゼントしてくれたのか、みなみなさま、本日は『仮装人物』をひもとく日とされてはいかがでしょうか。 





「ランプの灯」
  2025.1.30

 昨日お昼過ぎ、当館を含む東山一帯で一時的な停電がありました。数分で復旧いたしましたが、館内にいらしたお客様にはたいへんなご迷惑とご心配をおかけいたしました。今朝ほど確認をいたしましたら原因は「樹木の接触・倒木」と発表があり、昨日は今冬初めて界隈にしっかりと雪が積もりましたので、そのせいもあるのでしょうか。むしろ申し訳なかったのは、停電そのものより暗い階段の闇から(非常灯は点いています)ドドドドッと急に現れお客様に駆け寄っていった職員の勢いであったかもしれません。あきらかにビクッとされていたお客様のご反応を思い出すだに反省するばかりです。この場を借りて深くお詫び申し上げ、今後冷静な対応を心掛けたく存じます。
 さて、秋聲と電気ということを考えたとき、すぐに浮かんでくるのが大正3年8月30日の「読売新聞」掲載の随筆「ランプの灯」。
 〈物を飲食(のみくい)したり、友人と談(はな)している場合などには、部屋中に強い光をふるはしてゐる電燈の灯(ひ)も悪くはないが、読書や創作には私はランプの灯でなければ、如何〈どう〉しても気分の沈静が保たれない。それに電気の灯では目が弱つて、頭脳(あたま)が直(じき)に疲れてしまふ。夜の劇場が、非常な疲労をおぼえしめるのも、明い電気の光である。これからの新涼の夜分などには、電気の光は殊に相応しくない。私は水水したランプの光の下(した)に、細い虫の音(ね)などを聴きながら、ぼんやり物を考へてゐるのが一等好い心持だ。しかし私の近所のランプ屋は今は率(おおむ)ねランプをおかないことにしてゐる。あつても好いのはない。私のランプは久しい前に壊れて、遠くを捜す機会もなしに惨めな釣(つり)ランプで間にあはしてゐる。〉
 いつか某K花さんに「君も電気で書くんだ~行燈(あんどん)じゃないんだ~」などと軽口を叩いていた秋聲を思い出しながら(厳密には昭和15年の言。これよりずっと後の随筆「机上雑然」/「不定期連載」参照)そんな秋聲も行燈とまでは言わずとも電気の光よりランプ派ということでした(写真は新書斎の電気スタンド)。それこれ含め、あらゆる面でシュウセイズムを引き継ぎたいところながら、非常時にはとにかく明るさ優先。いざという時の懐中電灯の場所を再確認しておくことといたします。





「人民文庫」座談会
   2025.1.27

 先日ご紹介した昭和11年の秋聲・俊子の動向に、ひとつ抜けているピースがありました。「人民文庫」昭和11年11月号に掲載された座談会「散文精神を訊く」です。出席者は、秋聲・俊子のほか、広津和郎、武田麟太郎、渋川驍、高見順、円地文子。このうちの渋川が、実は俊子は参加予定ではなかったという背景について語ってくれています。座談会の開催は9月中旬、日本橋「偕楽園」にて(写真右から俊子・広津・秋聲)。
 〈その日、その玄関口に入ってゆくと、すぐそのあとから徳田秋声さんとその連れの少し大柄の容貌の整った上品な婦人が入ってきた。私はすぐ秋声さんに挨拶して、そのあとに従った。定められた部屋には控えの間があって、そこに乱れ箱があった。秋声さんはそのなかにかぶってきた中折帽子を入れようとされた。「おや、これは鉄斎の描いたものだね。なかなかよくできてるな。」と彼は帽子をひっこめて、それをしばらく熟視された。連れの婦人が振り返り見るあとから、私もそれに近づいて、乱れ箱を覗いた。そこには松の幹と枝が筆太に少し荒々しく、青と茶が入り乱れて着色されていた。(中略)座敷に入ると、すでに招待者の武田麟太郎さんといっしょに来たとみえる高見順君と、速記者らしい中年の人が着席していた。そのとき秋声さんが紹介された先ほどの婦人は、当時佐藤俊子といっていた田村俊子さんだった。前に編集部からこの話があったときは、彼女の名は聞かなかったので、多分秋声さんの推選であとから彼女が座談会のメンバーにえらばれたのだろうと思った。〉
 渋川驍『アカンサスの花』(平成2年、青桐書房)より、「乱れ箱」の章にある記述です。「乱れ箱」とは、手回り品や衣服を入れるための蓋のない入れ物のこと。
 座談会の最後で、広津和郎が俊子にこう訊きます。「佐藤さん、ゴシップだけれども、もう文学なんか誰がやるものかと言はれたといふのは本当ですか。」それに対して、俊子はこう答えます。「いえ、さういふことは言いません。文壇にはかへれないといふ……」
「しかしさう言ひたくなるやうなものなんぢゃないかな、文学といふのはね。」
「けれども書くといふ生活をすることは大変なことでせう? とにかくみんな体をこわすんですもの、それで。(笑)まつたく苦しい生活ですね。」
 ――そんな苦しい生活を案じた部分もあるのでしょうか、秋聲のこうした行動が、俊子を文壇にかえす一助となったかもしれません。





島中さんの御馳走
  2025.1.25

 逆に秋聲が見舞われるパターンの俊子からのお手紙も2通ございます。ひとつは大正3年9月13日付、〈いま瀧田さんが来て秋声さんハお体をわるくしてゐられますと云ひました〉とのことで、「中央公論」名編集者の滝田樗陰経由で秋聲の体調不良を耳にした模様です。この後〈それでは病気休載の病気は全くだつたのだなと思ひました〉とあるのは、この時秋聲が「読売新聞」に連載していた小説「密会」の同月7日・12日~14日の休載を指すものと考えられます。そして、字面だけ見れば現代の気候ではなかなか想像しにくいことながら、〈折からの冷えつくやうな秋雨〉(9月で!)につき、くれぐれもお大事にね~と続きます。また後半では、自身の近況報告として、樗陰にお尻を叩かれているけど書けない! とも訴えていて、人間同士、作家同士、互いに労り労わられする関係性がとても微笑ましい二人です。
 もうひとつは切手・消印のない差出年月日不明のもの。しかも署名も〈俊子〉および〈俊〉とあり、あ~田村時代か佐藤時代かもわからないや~と思っておりましたら、使われている便箋が「世界文芸大辞典用」「中央公論社原稿用紙」と印字のあるものでした。残念ながら現物の所蔵はないのですが、国会図書館の書誌データによれば、吉江喬松らの編集により昭和10年~12年にかけて全7巻刊行された辞典ということで、このお手紙もそれに近い頃に書かれたものと推測されます。本文には〈それからあなたの御病気御全快をかねて忘年会でもしたいと思ひますが如何?〉とあり、この年頃の秋聲といえばやはり昭和11年春から夏にかけての大患を思わずにはいられません。かの名句「生きのびて又夏草の目に沁みる」が生み出された大病からの復帰の頃と考え少し整理をしてみると、この年3月に俊子帰国。7月頃秋聲が復活し、同月15日の消印で俊子の帰朝歓迎会開催を呼びかけるハガキ(長男一穂代筆)が出され、そして〈忘年会〉と言っていますからこの年末のこと? ついでに忘年会の誘いの前には〈今日 中央公論社で島中氏に逢いましたが十七日の夜御一緒に御飯を食べると云ふお約束をしましたから 何卒この夜をあけておいて下さいまし 六時頃で三人で御飯をいたヾくのです〉とも言っているので、昭和11年12月17日に一緒にご飯をたべたうえで?? などなど、この年のピースを少しずつはめてゆくような脳内作業中です。
 〈島中氏〉とは樗陰の後輩で、昭和3年に中央公論社の社長に就いた嶋中雄作。〈島中さんの御馳走です〉としっかり書き添えるあたりが俊子です。



 


代わりのみかん
  2025.1.23

 体調不良といえば秋聲、秋聲といえば虚弱体質。いつもどこかしらに不調をかかえている印象のある秋聲に、あれこれつらーい、と訴える俊子の手紙を展示中です。
 〈その後やつぱりはればれしくありません 食慾が御座いませんし 後頭部が痛みますし 気は鬱々しますし ぶらぶらとしております〉…アッ、まだお悪いんですね…! と心配した次にはこう→〈病気ハすつかり取れました 熱はとれましたし 咳もあまり出ないやうになりました 吸入はやつておりません お薬も頂いておりません お薬なんぞ飲んでも仕方がなひんですから その代りみかんを食べております〉。みかんは水分も多いですし、なんだかよさそうな気がいたしますね。わりとお元気そうで何よりでした。こちら、大正4年2月末のお手紙です。秋聲が「読売新聞」に俊子を紹介した翌年で、二人の交遊としても最も密、そして日本の文壇における俊子の活躍ぶりとしても最盛期といった時期かと存じます。基本虚弱な秋聲(45歳)ながら、まさにこの頃は同紙に「あらくれ」連載中。〈お島さん〉よろしく元気いっぱい、バリバリ執筆しているように見えたのかもしれません。〈あなたはますます健康そうでほんとうに結構だと思つてゐます〉とも書かれており、そうして心身の不調やらなんやらかんやらと吐露しながら、しかしこの手紙はこう締められているのです。
〈考へると生きてゐることがたのしくてたまりません〉。これを受け取った秋聲の表情はどんなものであったのでしょうか。
 もう一通、こちらは日付がはっきりしないお手紙で、秋聲が贈ったらしき快気祝いへの礼状です。〈猶一層御健全ならん事をお祈りいたします この瓶ハあれとハ又別趣味のものです 進呈いたします〉…この瓶とは…別趣味のあれとは…お返しに何を選んだものか、いろいろと謎が多く、確かなことは言えませんが、前掲書簡と同じ時か、あるいは大正6年5月に発表された秋聲の俊子評「女優であつた時から」に、〈最近に私は生田葵山氏と、久しぶりで氏の健康を見舞ひかたがた尋ねた。氏は殆んど癖になつてゐる感冒のために閉籠つてゐたやうであつたが、机にはトルストイの「戦争と平和」の訳本があつた。〉と記されていますので、この後日かもしれません。なお、手紙の署名は「田村」。大正7年以降になると、松魚との離別を経て差出人名が「佐藤」(俊子の旧姓)に変わります。
 


 


米飯・蒟蒻・焼塩
 2025.1.22

 文芸への志を語っておいて、すぐに間のあいてしまった寸々語です。大きな声では言えないのですが、実は学芸員が例の流行り病に見舞われ、ちょいと長めのお休みをいただいていたのでした。各種関係者のみなさまにおかれましては、「これの発注お願いしまーす」「あれのお見積お願いしまーす」「締め切りは15日でーす」とこちらからポーンとサーブが投げ込まれたまま、一向にラリーが続かない、あれっ何も返ってこないな…?とさぞご不審に思われたことと存じます。たいへん失礼をいたしました。そんなわけでもろもろのことが一週間遅れになってしまい、そうした意味でまた寸々語の更新頻度も少し落ちようかと存じますが、脳と指のリハビリがてら、ポチポチとあることないこと発信してまいりますので、改めましてよろしくお願いいたします。
 さて「今日の日の魂に合ふ/布切屑(きれくづ)をでも探して来よう。」(「秋の一日」)と歌ったのは中原中也ですが、今日の日の魂に合う秋聲作品といえば「生活のなかへ」これ一本。何かしらの流行り病にかかった〈いく子〉のお話です。毎度ご案内しておりますとおり、声優のうえだ星子さんにイベントで朗読していただいたことをきっかけに、今回の新刊・短編集3に収録いたしました。うえださんのYouTubeチャンネル「星子の押入れ」でもご朗読をお聴きいただけます。そのイベント準備の際、「お腹にコンニャクってこういうことなんですねぇ」とテキストを理解せんと自らお調べくださったうえださんから「温罨法(おんあんぽう)」を紹介したサイトのURLが送られてきたことを思い出します。血の巡りをよくさせるためか、〈熱い蒟蒻が(いく子の)下腹部に押えつけられ〉る場面が出てくるのです。当時どれくらい一般的かと、いま国会図書館デジタルでちょいと調べてみましたら、温める材料は蒟蒻でなくてもよさそうな記述を見つけました。『病人の看護法』(「主婦之友実用百科叢書43篇/昭和5年)によれば、一般的なものとしてまず米飯(「炊きたての御飯を、厚さ一寸くらゐに紙に包み込み、更にその上を、手拭でゞも巻いて、患部を温めます」)…おにぎり…おにぎりだ…! それから蒟蒻(「よく煮たものを、二つ並べて布(きれ)に包み、なほその上を厚くタオルにくるんで、痛むところにあてます」)、そして焼き塩(「長く保ちますが、重いので、重病人には不適当であります」)、温石(「破裂する惧(おそれ)がありますから、代りに煉瓦を用います」)、湯たんぽ(「急の場合はビール壜を幾本も…湯が漏れ、そのため火傷する場合があります」)と続きます。これはこれは…看病するほうもされるほうも大変な時代です。うがい、手洗い、ご励行ください。 






「文芸を志す若き人々へ」
  2025.1.13

 本日、祝日につき65歳以上の方は入館無料となります。また、成人を迎えられるみなさま、おめでとうございます。昨日から東山界隈でも華やかな振り袖姿のお若き人々をお見かけしております。 
 そんな「成人の日」にちなみ、雑誌「中学世界」(大正7年1月号)アンケート「予の二十歳頃」より、秋聲(数え48歳)の回答をお届けいたします。

 Q、どんな理想を懐いて居ましたか?
 A、素より文芸に志してゐました。
 
 Q、どんな境遇で暮らして居ましたか?
 A、高等学校に在学してゐましたが、尻が据(すわ)つてゐませんでした。
   一つは家計が困難なためもあつたでせうが、一体に官学の空気が厭でした。

 Q、どんな記憶が残つてゐますか?
 A、国会開設前後で、政治熱が随分旺(さか)んであつたと思ひます。
   文芸も勃興してゐました。

 秋聲の二十歳頃といえば明治23年、四高在学中にあたります(18歳で編入学)。明治14年に発せられた国会開設の詔を受け、この年(明治23)11月に第一回帝国議会が開会。金沢の町にも政治熱が高まるなか、高田早苗(画像は国会図書館「近代日本人の肖像」より)や島田三郎の姿を一目見たくて、学生には禁じられていたという政談演説をこっそり聞きに行ったりしたことが自伝小説「光を追うて」に記されています。この翌年に秋聲の父雲平が病死、桐生悠々とともに四高を中退し、翌25年春、作家を目指して上京することになるのです。
 もうひとつ、お若い方々に向け、「不定期連載」に談話「文芸を志す若き人々へ」をアップいたしました。掲載媒体が「週刊婦女新聞」ということで、〈女流作家〉各位にも触れられております(俊子はおらず)。今の時代に合わない部分もあるかもしれませんが、不精だし本なんて読まない、人に指導なんてしない、という態度で知られる秋聲の珍しく建設的な発言をお楽しみください。



 


展示と文庫に関するお詫び
  2025.1.12

 昨日、俊子展2回目の展示解説が終了いたしました。1月に入ってやや静かな館内ではございますが、昨日は午前午後の回ともにお客様をお迎えすることができました。ご参加に心よりお礼申し上げます(そして「女流作家」を含める新刊のお買い上げも!)。
 その後、別の調べものをしていて、俊子展および新刊の文庫のついてみなさまにお詫びを申し上げねばならぬ事態に気が付きました。秋聲が俊子を思い執筆した「女流作家」では、後半のほうに秋聲をモデルとする〈小森〉と弟子で恋人であった山田順子をモデルとする〈栄子〉とが〈T女史〉すなわち俊子の実際の著作「あきらめ」の単行本を手にしながら語り合う場面が出てきます。そしてその本をパラパラしながら短編「木乃伊の口紅」などにも触れるのですが、俊子展でいま出品している『あきらめ』(明治44年、金尾文淵堂)を思えば、表題作それ一篇を単行本化したもの。すると同じ本を読みながら、「木乃伊の口紅」がなぜここで登場? との疑問がわいてきます。
 「木乃伊の口紅」の方は大正3年、牧民社から「炮烙の刑」などとあわせて同題の短編集として刊行されており、こちらもあわせて展示中。となると結局別の本…と思いきや、その点につきましては大杉重男先生の『小説家の起源―徳田秋聲論』(平成12年、講談社)にさらりと書かれておりました。〈一九一五年の植竹書院版と推測される〉…大正4年の植竹書院版『あきらめ』には、表題作に加え「木乃伊の口紅」「生血」「女作者」など計7編が収録されているのです。よって、〈T女史〉から署名入りで贈られ、〈小森〉がさらに自分の署名をして〈栄子〉に贈ったというこの時の本は植竹書院版(当館に収蔵なし)である可能性が高いということを、本来展示でも文庫本の解説でも書き添えなければならなかったのです。つい目の前にある資料のみを見、このくだりについて失念していたうえ確認を怠りましたことを深くお詫び申し上げます。また、大杉先生のご著書を引きながら、秋聲の「仮装人物」第13章に田村松魚と俊子らしき人物が描かれると指摘しているのは石崎等先生の「叡智、モデル、推力 『仮装人物』について(下)」(八木書店版『徳田秋聲全集』月報40)。松魚と俊子をモデルにした作品には、他に短編「恥辱」(大正13年)がありますが、大物「仮装人物」も決して忘れてはならないのでした。 


 


八千代と俊子
   2025.1.11

 先日ご紹介した菊子と俊子、となると「大正の三閨秀」の残るおひとり・岡田八千代に触れなければなりません。小説家、劇作家で、兄は劇作家の小山内薫、夫は画家の岡田三郎助。今の俊子展の範囲で言えば、こちらでも何度かご紹介しております大正期に「新潮」で2回、「中央公論」で1回の計3回俊子特集が組まれたうち「新潮」大正6年5月号に八千代の寄稿がございます(なお、この3回ともに寄稿しているのは秋聲だけ)。その「私の見た俊子さん」の書き出しはこう→〈とし子さんはいつ尋ねても、どんなに久しぶりに尋ねても、『まァ』と言つて飛び出してくるやうな人ではないやうです。どんな場合にも『何にしに来た』と言ふやうな顔をすることが多いやうです。それが約束して行つた日にでもそんなことが好くあります。だからどうかすると腹が立ちます。〉――たしかにそれはちょっと嫌ですね! 八千代もこのあと「もう来てやるもんか」などと思ったりもする、と記しながら、しかし「これが此(この)人の癖だな」と思い慣れてしまえばそんなもの、と大人な対応を見せています。そして俊子に決して悪気はないのだ、とも。また〈私などのやうにどんなに忙がしいことがあつても人に好い顔を見せてやらうなどゝいふ愚かな人間でないことが分ります。〉というあたり、この文章の目的は俊子評でありますが、刺さる人には刺さる自己分析かと存じます。
 翌7年、俊子は田村松魚と別れ、青山隠田に逼塞します。創作の筆も揮わず、自作の紙人形を売って生活をしていた俊子の暮らしぶりを八千代は小説「紙人形」に描き、俊子はその書きざまに激怒したそう。大事なエピソードながら展示ではご紹介できず、一ヵ所だけ八千代の名が登場するのは少し前のお手紙の中で、大正4年6月25日、俊子から秋聲に宛てて出された何かしらのお誘い中〈もし何でしたら御一所に行かうかと存じます。八千代さんとも宅へ参ります。御都合をお伺ひいたします〉と、この時のメンバーにいたことが確認されます。ただ非常にざっくりとしていて、どこで何をするための集合やら…といった書きぶり。とはいえ、この頃かえって密に連絡をとりあっていたからこそ、こと細かに書かないのかとも思われるのです。





菊子と俊子
   2025.1.7

 今朝ほど例月のMROラジオ「あさダッシュ!」さまに学芸員が出演のうえ、実はまだきちんとご紹介のできていなかった田村俊子展のお話をさせていただきました。そうして帰館いたしましたら、いつもお世話になっている先生より黒﨑真美・今村郁夫編『富山文学論集 群れ立つ峰々 金子幸代名誉教授とともに歩んだ軌跡』(鷗出版、2024年12月)が届いておりました。ご学恩に感謝申し上げます。 
 本書の中でも、半数を占めているのが小寺菊子論。秋聲と親しかった富山出身の作家で、故金子幸代先生が遺された菊子論がここに集約され、当館で開催した小寺菊子展記念講演の要旨「秋聲から菊子へ」(館報からの再録)や「小寺菊子と同時代の作家―秋声・霜川・秋江と雑誌『あらくれ』」、そして「小寺菊子と鏡花―『屋敷田甫』と『蛇くひ』」などがまとまった形で読むことができるようになりました。その他、書下ろしを含む各氏による菊子論と、三島霜川・堀田善衛ら富山ゆかりの文学者を論じる富山文学論の二本立てです。
 菊子といえば、俊子・岡田八千代とともに「大正の三閨秀」と呼ばれた人物。金子先生の論文中、露伴に師事した俊子が「露英」の名をもらったことに比し、秋聲に師事した菊子が「秋香」の名をもらったという説への言及がありますが、秋聲は菊子を弟子というよりむしろ〈同志〉として語り、〈女流作家で二十年もの努力をつづけ、生命を保ってきた人は、女史の他に果たして誰があるであろう〉と讃えています(小寺菊子『美しき人生』序、大正14年)。なお、このころ俊子はバンクーバー、秋聲が俊子をモデルに書いた短編「女流作家」は昭和2年の発表です。
 明治43年、俊子の「あきらめ」が「大阪朝日新聞」の懸賞小説で当選したとき(一等なしの繰り上げ当選)、次席にあったのが菊子の「父の罪」でした。俊子に辛い点をつけた選考委員の露伴は、本作に最高点をつけています。俊子展では、その菊子から見た当時を描く「懸賞小説当選の女流作家」を収録した菊子の随筆集『花 犬 小鳥』(昭和17年)を展示中で、ここで菊子は、今でこそ〈懸賞小説の当選者が、いつも大概女の作家であるといふのは、興味深い現象〉と書き出し、その歴史を紐解けば、自身と俊子とが〈女流当選の最初〉であり〈この当選が作家生活の重要な起点となつた〉と語っています。



 


新年の思い出
   2025.1.4

 あけましておめでとうございます。本日4日(土)より、通常通り開館いたします。今年も何卒よろしくお願いいたします。
 さて、今朝ほど新年仕様に書斎の書幅をかけかえなどしておりましたら開館準備をしていた職員からひと言「レジ、つかないんですけど…」。受付まわりの電気機器が一斉に沈黙を守ったまま、まだ土日だしお正月休み続いてますんで~みたいな顔をしてまるでたち上がってくれないという事件が発生いたしました。機械の問題か、落雷か…! と、ひととおりワチャワチャしたのち、副館長の「ブレーカーは?」との鶴の一声で確認したところ、受付だけがバチンと落ちており、おかげさまですぐに復旧いたしました。初めてのことでしばし騒然としましたが、なんとか開館時間に間に合ってよかったです。雪もまだそう酷くなく(早朝すこし積もったかな、というくらい。今はきれいに溶けています)おかげさまで、ちらほらとお客さまにご来館いただいております。
 ちなみに書斎にお出しした書幅は秋聲自筆俳句「元朝の心寂ひぬ午さがり」。そんなあいかわらずの秋聲節とともに、今年もゆるゆると活動してまいります(「心ゆるびぬ」バージョンもあり)。そうしてさっそくゆるゆると使いまわしで恐縮ながら、季節のものにつき徳田家のお雑煮レシピをご紹介→「正月には秋声だけには別の雑煮をつくっていたそうである。それはこぶ出しの汁で餅を煮、味つけをし、かつおぶしをかけただけの雑煮である。鴨とか鳥とか、かまぼことか、そんなものを何にも入れない雑煮である。これは多分、金沢の流儀であったと思う。家族の方は東京風の雑煮を食べていた。おせち料理は詰らないから作るなといわれて後年作らなかったという。」秋聲次女喜代子の夫で作家の寺崎浩による随筆「秋声ごのみ」より(『味の味』ドリーム出版)。なお金沢では角餅が一般的かと存じます。
 お雑煮ほか、各年代にわたるお正月の過ごし方につきましては、昨年刊行され受託販売しております大木志門編『月日のおとなひ 徳田秋聲随筆集』(手のひらの金魚)もしくは「不定期連載」にある「新年の思出」をご参照ください。紅葉先生から、門下の四天王、霜川、漱石、樗陰、白鳥などが続々登場。秋聲65歳の記録です。

(昨年の記事は「過去の記事一覧」に収納しました。)




 

 

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