寸々語

寸々語(すんすんご)とは、秋聲の随筆のタイトルで、「ちょっとした話」を意味します。
秋聲記念館でのできごとをお伝えしていきます。





該当者なしの思い出
  2025.7.19

 今年の芥川賞・直木賞は該当作なしとのニュースを見ました。とするとすぐに思い出されるのは秋聲がその第一回を受賞した菊池寛賞のこと…でなく、昭和17年の野間文芸賞のこと。秋聲生誕150周年の時の企画展「祝賀会のこと」などで取り上げ、寸々語でも何度かご紹介したことがございますとおり、その年の第二回野間文芸賞には該当者なく、当時選考委員を務めていた秋聲と島崎藤村に賞金一万円が折半して贈られた…というちょっといいお話です(2011年11月5日記事「『偉い友達 芥川龍之介』展」および2020年9月9日記事「宿老たちの友情」参照)。その時、藤村から菊池寛に出された手紙を当館で入手いたしました。以下、一部抜粋です(昭和17年1月19日付)。
 「さういふ御事情でしたらいつそそつくり秋聲君へおくることにしてはどうでせう。秋聲君一人にてはといふやうな御遠慮の必要はすこしもありませんからかういふことは一切の情実を離れて目下健康もすぐれざる秋聲の休養のためにとしたら贈呈の目的もはつきりし講談社としても文壇人のために尽すことになって意義あることではないかと愚考します。」…秋聲・藤村ともこの翌年には亡くなるという最晩年の出来事です。結局、藤村が受けねば受けにくい、との秋聲の意向を受け、二人に折半される形になったようですが、その前後の事情が島崎静子夫人『藤村の思い出』(昭和25年、中央公論社)に詳しく綴られているほか、宇野浩二も秋聲追悼文「道なき道」(「新潮」昭和19年1月号)において、授与式のスピーチで秋聲が藤村に感謝を述べ、そしてこう発言した、と記しています。「……五百円とか、千円とかいふのなら、小遣ひといふこともあるが、五千円はありがたい。……この『五千円はありがたい』といふ言葉は、皮肉な云ひ方ではなく、今の文学者の中にはわからない人があるかと思ふが、私と同じくらゐの年頃の人たちには、よく分かり、心を打たれる言葉である」。
 ちなみにそれまでの秋聲の受賞歴をみても、昭和11年の第二回文芸懇話会賞の賞金は千円、昭和14年、第一回菊池寛賞の賞金も千円。一万円がいかに破格であるかがわかります。と、そんなお話をつい先日尾張町の講座でご紹介したばかりでしたので、これは賞金の話でないとは思いつつ、つい掘り返してしまったものでした。
 もうひとつちなみに、当時の書類によれば野間文芸賞選考委員は秋聲・藤村・菊池寛・武者小路実篤・真山青果(第一回受賞者)(みな帝国芸術委員の肩書あり)、そして顧問をつとめたのは、秋聲と同じ馬場小出身で憲法学者の清水澄(帝国芸術委員長)ということです。





「まちめぐり2025」
 2025.7.17

 「施設は小さくていい。小さくても、たくさんある方が金沢のリピーターを増やす」――20年前、当館が開館したときの市長・山出保氏の考え方です(著書『金沢の気骨―文化でまちづくり』〔平成25〕より)。一昨日、平成2年~平成22年まで5期20年をつとめた山出元市長の訃報が届きました。昭和41年に開館した金沢市立中村記念美術館を皮切りに、山出氏の在任中で言えば平成5年開館の金沢ふるさと偉人館、同11年開館の泉鏡花記念館、同12年・金沢湯涌夢二館、13年・金沢蓄音器館、14年・前田土佐守家資料館、室生犀星記念館、17年・徳田秋聲記念館、金沢文芸館……と、金沢に小さな博物館が次々と生まれました。その中心で現在も大きな存在感を放つ金沢21世紀美術館も平成14年の開館。おかげさまで、金沢を旅行するのに1泊2泊ではとても足りない、とお客様からもよく聞かれるほど、比較的狭いエリアに見どころがギュっと詰まった文化密度の高い街として広く認知されているように思われます。
 山出氏の前掲書では、その他たくさんの文化施設に触れ、「まちなかに、歴史や文化の資料を展示する施設がこれほど多くある都市は他にないでしょう。それぞれの施設は、教育機能を持ち、図書館、博物館としての側面も備えています。金沢のまちには教材がたくさん詰まっていて、まちそのものが博物館になっているのです。だから金沢は『歩いて巡って学ぶまち』と言えるでしょう。」と続きます。氏が描いた理想形に、当館がどこまで寄与できているか…日々力不足も感じながら、当館も金沢の魅力の一端を担えるよう、今度とも全力で活動してまいります。
 さて、今年も「まちめぐりクイズラリー」の季節がやってまいりました。あさって19日(土)~8月末まで、東山エリアの金沢市立安江金箔工芸館、金沢蓄音器館、泉鏡花記念館、寺島蔵人邸、金沢文芸館、そして当館の対象6施設のうち4つ回ってクイズに答えれば(間違ってもOK!)記念品がもらえるという毎年恒例の催しです。今年の記念品は昨年好評であった扇子の柄違い。在庫があれば「金魚」と「七宝」の2種からお選びいただけます。
 暑い暑い中ですので、どうか十分水分補給をされながら、金沢の施設、そしてまちをめぐってみてください。






「秋聲交遊録―『あらくれ会』の人々」展開幕!
    2025.7.2

 本日、開館20周年記念展「秋聲交遊録―『あらくれ会』の人々」が開幕いたしました! いつもは土日に開幕日を設定するので、朝から週末感がすごいです。普段土日はお休みのところからお電話があり、あれっ今日土よ…いや水曜ですね。思いっきり週の真ん中ですね、ということを何度となく繰り返している本日です。 
 昨日、霜川のことを書いておりましたら、福島の緑川氏よりちょうど昨日掲載の「いわき民報」における連載コラム「俳人 大須賀乙字の世界」の最終回が届きました(6月5日記事参照)。前回、東京音楽学校の講師となって、実は平成の世に甲子園でも歌われた校歌(山梨県立日川高校)の作詞を手掛けていた乙字…という業績が紹介され、急に現代と地続きになった感じがしていたものですが、今回はいよいよ師・碧梧桐と袂を分かつ事件勃発。大正5年、碧梧桐との決別を宣言するように、乙字選により刊行された『碧梧桐句集』(俳書堂)の序文のとんでもなく辛辣なことに驚きました。子規のスピリットを受け継いでいながらいつしか横道に逸れてしまったという碧梧桐の句集、そして乙字にとってもはや“かつての俳人”となり果ててしまったその人に対し、「これは序文にして又弔文である」と…。こちら国会デジタルで閲覧できるほか、日本近代文学館から復刻版の刊行もあるようです。大正9年、乙字はスペイン風邪により数え40歳の若さで亡くなりました。そんな乙字の生涯と近代俳句の確立に残した大きな足跡について的確にご紹介くださるすばらしいコラムでした。随時ご提供くださいましてまことにありがとうございました。乙字と秋聲の接点、今後とも当館の宿題としてまいります。
 ちなみに碧梧桐と秋聲もすぐに結びつかないところがある一方、子規門双璧のもうおひとり・高浜虚子と秋聲とは昨年の虚子展でご紹介したとおりの深いご縁がございます。虚子はまた秋聲を中心とする雑誌「あらくれ」第3輯(昭和8年1月)にも寄稿歴あり。創刊から3冊目のまだ簡素なパンフレット時代です。意外な人も寄稿している、それが「あらくれ」。 
 




見にくいランキング
   2025.7.1

 長い展示替えが終了いたしました。資料サイズの関係で常設展示室に仮住まいさせていた馬場小関連資料がしまわれ、常設展示室は元の形に(ついでに長らくお休みしていた秋聲のスーツを出しました)、そしてただしく企画展示室の方に署名本と雑誌「あらくれ」関係のものが陳列されました。なかなかどうして、今回もまた茶色率が相当高めかつ歴代上位を争う隙間のないパズル感。雑誌「あらくれ」の表紙がまず基本紙のままのお色味ですし(野口冨士男の力でいっとき華やかになる時代があります)、署名本も主に署名の入っている見返し部分をばかりお見せする形にしましたら全体的に薄茶色率高めに…そして表紙を見せない形の展示がこんなに場所をとるとは…。昨日、9割方完成した展示を視察した館長の感想「霜川本の赤が鮮やかでよろしいですね」というのがまさに、逆説的に今回展の雰囲気を言い表すものでした。
 そう、初公開となるたいへん貴重な霜川自筆献呈署名入り『日本戯曲名作体系』第一巻(大正14年)は見返しが真っ赤。そこに牡丹でしょうか美しいお花の意匠、その上に「謹呈 徳田秋声大兄 三島才二(※本名)」とこれまた非常に美しい筆跡で墨書されています。どれをとっても美しい…のだけれど本当に無粋な第一印象といたしましては(文字見にく…)。色味・模様と重なって、文字見にく…。そんな文字見にくいシリーズに霜川以上の存在感でもって堂々ランクインしてくるのが漱石の『道草』(大正4年)です。しっかり強めの霜川と異なり、漱石の筆跡がまた薄めなものですから背景の図案と重なって見にくいの極地。ただ、この翌年には漱石が亡くなりますので、ちょっとそんな風にも見てしまったりするのです。
 展示はいよいよ明日2日(水)から。なお、明日からお申込み受付の始まる某K花記念館さんご主催講座「芥川君と芥川さん―鏡花・秋聲と龍之介をめぐって」が8月2日(土)に開催予定のため、原則第一土曜に開催しがちな当館の展示解説をひっそり8月9日(土)にずらすなどしています。前者には秋聲会(概念)のボス・大木志門先生がご登壇ですので、会員(概念)のみなさま、8月2日(土)に金沢集合でよろしくお願いいたします(おや、奇しくも「二日会」ですね…)。



 


ナイトミュージアム情報解禁!
  2025.6.26

 一昨日、今年の「金沢ナイトミュージアム2025」の公式HPがアップされ、企画一覧が解禁となりました。秋聲関係では、8月29日(金)・30日(土)の両日、はじめての試みとなる「秋聲を追うて」という演劇イベントを、また10月3日(金)・4日(土)の両日、毎年恒例の新内流しを開催予定です(4日には犀星記念館さんでも)。
 前者の「秋聲を追うて」につきましてはナイトミュージアムの公募によって採択されたご企画で、創作ユニット「sub-document」の川端大晴氏が企画・脚本・演出を担当してくださいました。俳優・玉城知佳乃さんと、水環琴奏者・漆芸作家の太田魁さんがご出演。えっ…秋聲でお芝居を…!? と前々回記事に続きまして、これまた嬉しい驚きでもってどぎまぎしていたものですが、先にシナリオ案を読ませていただきましたところ、自伝小説「光を追うて」に寄り添ったタイトルのもと、幼少期から大家と呼ばれるようになるまで、秋聲の歩み・作品・人柄を丁寧に丁寧にたどるように物語が紡がれてゆく…言い方はわるいですが、ずっと記念館の中にいることで凝り固まったこちらの頭を繊細な指先でやさしくほぐしてくださるような、とても柔らかな感性で綴られた瑞々しくも秋聲らしい陰影をもった作品でした。何よりもたいへんな勉強家でいらっしゃる…! 秋聲をよくよく読み込んでくださっていることが伝わります。これからお稽古を重ねるなかでいろいろと変わってゆく部分もありましょうからまだ詳しくは言えませんが、7月20日(日)のイベント(前々回記事参照)同様、館の主催でないという点にむしろ大きくご期待いただきたく存じます。新しい視点でとらえられた新たな秋聲像、そして記念館を会場とした新たな催しの形をお届けいただけるような予感に満ち満ちております。
 こちら、7月1日(火)よりお申込み受付開始。間近になりましたら受付フォームが現れるそうですので、ナイトHPの方よりお申込みください(会場は記念館ですが、お申込み・お問い合わせは主催者様へお願いいたします)。改めまして、8月29日(金)・30日(土)の夕方から夜にかけて全3回公演です。なお、30日(土)は16時からの公演にあわせ、15時以降、本イベントご参加の方以外、ご入館いただけなくなりますのでご注意願います。



 


馬場小回顧展 終幕
   2025.6.25

 22日(日)をもちまして、当館の馬場小展が閉幕いたしました。ご観覧くださったみなさま、ご協力をくださった馬場小関係者のみなさま、まことにありがとうございました。ただいま長めの休館をいただき、展示替えに励んでいるところです。7月2日(水)より新企画展「秋聲交遊録―『あらくれ会』の人々」が開幕予定です。
 展示の最終日には三館連携として同じく馬場小回顧展を開催中の金沢ふるさと偉人館さまにおいて講座「馬場小学校下で育まれた偉人たち」が開催され、そりゃあもちろん馬場小校下(校下=校区のこと。金沢独特の言い方のようです)であるわれら秋聲記念館! と意気込んで押しかけたかったところ、実は当館のある東山1丁目は現在、材木小学校の校下になるそうな…お隣の校下からそっとお邪魔させていただきました。
 講座ではトップバッターに秋聲をご紹介くださり、あぁひとさまから聞く秋聲のお話のなんと栄養価の高いこと! それだけでもニヨニヨしておりましたら当館の展示にも言及してくださり「本日まで!!」と赤字でどどんとパワーポイントにお示しくださったうえ、講師をつとめられた学芸員さんの「16時半まで入館可能ですよ!! この講座15時で終わりますんですね! 間に合いますよ!!」との力強い後押しに涙がほろり…お気遣いに心よりお礼申し上げます。その後、秋聲、某K花さん、尾山篤二郎の「馬場の三文豪」から、清水澄(憲法学者)、井上友一(政治家)、小倉正恒(実業家・政治家)、細野燕台(陽明学者)、三浦彦太郎(製箔業・箔職人)、藤本吉二(発明家)、水芦光子(作家)、赤地友哉(漆芸家)、桜井錠二(理学博士)、清水誠(マッチ製造業)、早川千吉郎(実業家・政治家)らの業績および顕彰碑などのゆかりの場所が続々紹介され、馬場小校下(≠馬場小出身者)からこんなにもたくさんの偉人が~…と改めて感心するばかりの一時間半でした。当館は一足お先に卒業してしまいましたが、金沢ふるさと偉人館さま金沢くらしの博物館さま(28日にギャラリートーク!)の連携展は8月まで続きます。





「語り場」~「踊り場」
  2025.6.19

 本日19日は「トー(10)ク(9)の日」ということで(その仕組みであればたぶん毎月やってくる)、まるで今日のことのように興奮さめやらぬ昨日、城南公民館さまの城南レディースセミナーで秋聲にまつわるトークをおこなってまいりました。昨年に引き続きお招きくださいましてありがとうございました。来る7月2日(水)からの企画展にちなみ、秋聲の交遊録についてのお話です。同じテーマでもって今週末の21日(土)にも尾張町老舗交流館さまでお話の機会がございますので、企画展の予告編としてお聴きいただけましたら幸いです。紅露逍鷗時代から始まり、下の世代は林芙美子まで。たくさんの人を登場させた結果、逍遙が、秋江が、犀星が、秋聲が~などとかわるがわる口にしておりましたら脳が混乱して主語が溶け合い、何度となく新しい文豪を生み出してしまいましたこと、この場を借りて深くお詫び申し上げます。
 また、7月20日(日)にもとても斬新なトークの場にお招きいただいております。「水響~朗読と踊と音の共創~」と題しまして、「創作と文学のひらめきの場づくり 徳田秋聲文学『町の踊り場』」――ということで秋聲の名編「町の踊り場」を朗読とダンスとピアノ・箏・チェロの演奏から読み解く催しです。朗読とご企画は山﨑正枝さん。ダンスに安達香澄さん、ピアノに山田ゆかりさん、箏・三弦に北村雅恋さん、チェロに富田祥さんと、なんとも豪華な布陣の情熱的な赤いチラシが館のほうにも届きました(画像クリックでPDFが開きます)。踊り場ですからなんとなく音楽が鳴ることはイメージできそうなところもありますが、実際にダンスや演奏と絡めて朗読が披露されるというのは初めての試みではないでしょうか。お話をいただいたときも、なんと攻めた…! との驚きが隠せず、どのようなコラボレーションになるか楽しみです。学芸員はちょろっと作品解説にお邪魔する予定で、会場は中村記念美術館さま敷地内の旧中村邸、参加費は一般2,500円、大学生まで1,500円、お申し込みはチラシ記載の主催者様までお願いいたします。また、こちらのイベント、翌21日(月・祝)にも開催があり、会場とプログラムが少し変わりますのでご注意ください。学芸員の出演は20日のみとなっております。





「少年の哀み」最終回
 2025.6.16

 「不定期連載」に「少年の哀み」第4回をアップいたしました。あんなに仲良しだった姉、実家を離れるのが嫌で目に涙を溜めていたおみよがだんだんと嫁入り先の家庭の顔になってゆく…もう一緒に劇場にも行ってくれない…向こうの家族の話ばっかり…寂しい切ない最終回です。本作には自筆原稿が現存しており(徳田家蔵)、昨年の自筆原稿展で初公開ののち、現在の馬場小展にも出品しています。自筆原稿展の際にご紹介いたしましたとおり、原稿からわかる推敲の一部分がこちら(第3回中)↓

 「今日いつ帰るの。」順吉はまた訊いて見た。
  おみよほろゝゝと曇んだ目に、を流してが一杯溜つてゐた。
  順吉も何だか胸が一杯になつてしまつた。

 家族と離れがたいおみよ、当初は〈ほろほろと涙を流して〉いたものが、改稿後には〈曇(うる)んだ目に涙が一杯溜つてゐた〉とされています。そう簡単には泣かせないあたりがシュウセイズムというものでしょうか。確かにそのほうがおみよの心情がより複雑なものになっている気もいたします。また今回アップした第4回には、6月8日記事で触れました秋聲の転居経験が素材となった場面も出てまいりました。その前後の町の描写が下記のとおり。 

  順吉の家が、彼の兄の努力で、市のより好い場所にある、手広い家へ引越して行つ
 たのは、その歳の深い雪も漸く消えて、市の一角にまで裾を曳いてゐる山の麓が、日
 に日に其青さを増して来る頃であつた。長いあひだ家々の廂を封してゐた雪が消えて
 、肌に懐かしい春風が音づれて来た。

 「文学の故郷」碑に川端が揮毫した「光を追うて」の下記の一節と響き合うようなところもありますね。

  飛騨境の山の色も漸く紫だつて来る頃になると、…夢香山(向ふ山)の谷々の根雪
 も、日に日に陽炎と共に消え去つて…梅の枝が白い珠を綴るのであつた。

 先日「ラジオで展示が22日までって言ってたから!」と駆け込んでくださったお客様があったと聞きました。こちらの碑文原稿の公開も残すところあと一週間です。





下校ともだち
   2025.6.15

 養成小在学時、秋聲の下校友達であったと自伝小説「光を追うて」に語られるのが〈石川といふ背の高い品行方正な少年〉と〈洲崎〉のふたり。石川某に関しましては、あわせて〈づつと後になつて等が長野県の新聞の主筆である一人の友人から伝へ聞いたところでは、彼は警察官あがりの郡長として、県下に令名があるとのこと〉とも記され、〈長野県の新聞の主筆〉=信濃毎日新聞の桐生悠々、そして長野の警察官…というところから『躍進長野県誌』などを調べた結果、長野警視署長として掲載のある石川斧太郎(おのたろう?よきたろう?)ではなかろうかと思われます(※同誌では明治5年生まれと)。さらに国会図書館デジタルで長野県警察本部警務部教養課の発行する業界誌「旭の友」に掲載された、晩年の氏への訪問記「温故知新 石川斧太郎翁を訪ねて」を閲覧することができました。昭和26年1月号時点で〈石川翁は、今年八十歳〉。あわせて掲載された略歴に〈明治四年加賀藩士の家に生る。一八才で石川県立専門学校を卒業し同年本県巡査を拝命、明治二九年警部となる〉とあり、秋聲も数え18歳で石川県専門学校から四高に編入学しています。その後60年の歩みが語られるなかに残念ながら秋聲の名は出てきませんが、2月号の後編には、悠々登場。〈この頃、信毎主筆に桐生悠々、警部長田中千里、高田の聯隊区師団長に松山良朔、それに私、とはからずも且つての石川県専門学校の同級生が四人この地に集り、折にふれては懐旧の情を暖め合つたものでした〉…おっと、田中千里。氏もまた養成小卒にして、秋聲の「黴」冒頭に下宿を提供する男として登場、のちの大分県、熊本県知事など。ちなみに悠々が信毎に入ったのは明治43年。ちょうど石川が長野警視署長となった翌44年には秋聲の小説「罪と心」を同紙に連載させていますから、きっと彼らの中で話題にしたこともあったでしょう。そして〈大正六年警察を辞し下伊那、小県(ちいさがた)郡長〉とのことで、秋聲の奥様はまさんは上伊那のご出身…アッなんか近い! 惜しい! とひとりで立ったり座ったりいたしました。
 もうお一方の洲崎某については、『人事興信録』(昭和15年)などから明治5年生まれの洲崎𦩵(けん)ではなかろうか…と疑っております。〈海軍将校〉になったと秋聲は記していますが、どうも陸軍少将? ともあれ〈級の優等生であつた二人の友達〉として、昭和13年時の秋聲の記憶に残っているご両人(推定)です。





小倉正恒と秋聲
   2025.6.9

 そろそろ終わりが見えてまいりました馬場小回顧展、今月22日(日)で終幕となり、23日(月)~7月1日(火)まで展示替え休館をいただきますので、ご来館をご検討くださっているみなさま、どうかお注意願います。9日間と、いつもより少し長めの休館です。と言いますのは、展示ケースの都合で企画展示と常設展示の中身をまるっと入れかえていたのを元に戻さなければならないため。単純に数えていつもの倍の量の資料を動かしますので、休館期間も長くとらせていただく予定としております。当館が一足はやく馬場小連盟を抜けても、金沢ふるさと偉人館さま、くらしの博物館さまが馬場小の今昔を伝え続け、かつ有難いことにそれぞれ秋聲のしゅの字も展示に出してくださっておりますので、どうか引き続きよろしくお願いいたします。今日は今日とて、例月のMROラジオ「あさダッシュ!」さまにて、“連携”の冠を良いことに、さも自館のイベントかのように22日開催の偉人館さま講座「馬場小学校下で育まれた偉人たち」の宣伝をおこなってまいりました。お話の中にも登場するでしょうか、本日のラジオのメインは秋聲と仲良しの小倉正恒(のちの大蔵大臣)。小学校時代というより、卒業後の四高時代に仲を深めた感のあるふたりです。
 現在の馬場小展でも、昭和7年8月、小倉を囲む会やりまーす! といって、参加を促す秋聲(62歳)筆 久米正雄宛書簡を展示中です。当時、小倉は住友総理事として大阪におり、秋聲はこの二年前の昭和5年11月にも「仮装人物」における〈水ぎわの家〉の主人・柘植そよとともに関西を旅行、小倉を訪ねるなどしています。その体験が元となった小説「牡蠣雑炊と芋棒」(「文芸春秋」昭和6年11月号)で、美しく柔和な〈O氏〉を前に『少しお願ひしたいことがあつて、遣つて来たんだけれど。』、『僕も最近だらしがなかつたものだから。』と何かしらのお願いごとをもちかけてみる主人公(フジハウスの建設に関すること?)。この頃の秋聲といえば、ちょうど創作不振に陥り社交ダンスを習い始めたころ。その後、周囲の支えもあって文壇に復帰を遂げ、ダンスホールを舞台にじゃかじゃか小説を書きだすうち、昭和9年に刊行された『黄昏の薔薇』の扉に献辞が入っていることは、以前の寸々語でもご紹介したところです。

 「この貧しき物語を 島崎藤村氏 小倉正恒氏 鶴田久作氏 中村武羅夫氏にさゝぐ」。



 


三館連携・「金沢の小学校」展開幕!
  2025.6.8

 昨日、百万石まつりのメインイベント「百万石行列」の真裏で、馬場小回顧展最後の展示解説をおこないました。配慮のない時間設定で申し訳ございません。そんな中にも午前午後とそれぞれご参加くださったみなさま、まことにありがとうございました。小学校在学時の秋聲の転居履歴などをお話しする中で、そもそも生まれは横山町…アッいまごろ八家も行列されてますかね…などなど差しはさみつつ、徳田家の旧主たる加賀八家のひとつ・横山家に思いを馳せました昨日です。
 そしてちょうどそうした転居経験が反映されているのであろう「少年の哀み」第3回を「不定期連載」にアップいたしました。実際の秋聲は、馬場小(当時は養成小学校)に四年在学するうちの最終学年で当館そばの御歩町に転居してきています。浅野川大橋のあっち側からこっち側へ川を遡ってきた形です。元いた浅野町(現小橋町/番地不詳)から小学校への通学経路については、つい先日、金沢ふるさと偉人館さまがブログ「偉人館雑報」で検証してくださいました。そう、おみよ…じゃなかった、姉かをりとともに通った道がまさにこのようなものであったのだろうと考えられ、わかりやすく地図に起こしてくださった偉人館さまに感謝感激。また、このたび金沢くらしの博物館さまによる馬場小旧蔵資料調査の結果、姉かをりの通っていた浅汀小学校の番地も判明いたしました。「少年の哀み」しかり、自伝小説「光を追うて」でさえも、おおよそ実体験に基づいているとはいえ、“小説”ですからどこまでが“事実”かというのはとても難しいところですが、こうした歴史資料が紐解かれることで埋められる背景がございます。
 そんな三館連携のオオトリ、金沢くらしの博物館さまの企画展「金沢の小学校」が昨日ついに開幕! 偉人館さまがXの方でお書きくださった通り、申し訳のないことながら当館が今月末に早目に終幕してしまう関係で、三館すべての展示を見られるのは今月22日までとなります。その22日(日)には偉人館さまで講座「馬場小学校下で育まれた偉人たち」が、28日(土)にはくらしさまで展示解説がございますので、みなさまふるってご参加ください!





「俳人 大須賀乙字の世界展」
 2025.6.5

 以前、福島における三島霜川の歩みを研究なさっている同地ご在住の緑川健氏をこちらでご紹介したことがありました(2023.9.13記事「鬼才・三島霜川」参照) その緑川氏が現在「いわき民報」にて新コラム「俳人 大須賀乙字の世界展」を連載中! 霜川の時と同様、緑川氏がひまわり信用金庫本店営業部を会場に手掛けられた同題展示と連携する形で、福島県相馬市出身の俳人・大須賀乙字について解説するものです。
 乙字は、子規門の双璧のひとり・河東碧梧桐に師事し「新傾向」俳句を提唱。さらには「季語」の語と定義を生み出し、碧梧桐に「俳論が科学的になったのは乙字の功を大なりとすべき」とまで称賛され――ていたはずが次第に二人の解釈に齟齬が生じ、師弟関係にもひずみが…といったあたりが昨日4日付の連載第3回で紹介されています。勉強不足を棚に上げたいへん失礼ながら、ここまでの3回分を拝読するだけでも、俳壇にこれほど大きな足跡を残した乙字の名がなぜ現代こうまで埋もれてしまっているのだろう? というのが率直な感想でした。つづく4回・5回の掲載を楽しみに、お近くの方、ご興味のおありの方、「いわき民報」ぜひチェックしてみてくださいませ。5月2日(金)・5月26日(月)・6月4日(水)と不定期の連載のようです。
 中でも、昨日の第3回には驚かされました。乙字の業績を語るなかで、なんと秋聲の名が登場…! しかも乙字を、彼が俳選を担当することになる「婦人界」編集者・斎藤弔花に引き合わせた人物として…。秋聲のことはつねづね顔の広い人だなァと思っていたものですが、まさかこんなところでまで出会えるとは思いもしませんでした。緑川氏に教えていただくまでまったく把握しておらず(コラム中、当館にも触れていただきありがとうございます!)、そのご調査によれば、乙字の追悼号たる「懸葵」大正9年3月号に寄せた弔花の追悼文「十年懐を離れざる故大須賀君」にそうしたエピソードが出てくるとのこと(国会図書館の個人送信サービスで閲覧できます)。弔花の代表作『国木田独歩と其周囲』などには、周辺人物としてしか登場しない秋聲ですが、言われてみれば明治35年、共著『教育小説』『園遊会』などを金港堂から刊行…同時期の同社発行「青年界」や「文芸界」にも寄稿…ちょうど弔花の在籍時期と重なるようでした(乙字とはどこかの運座で…?) 





ありがとうさようなら『光を追うて』
  2025.6.4

 5月30日、朝日新聞さま石川版に当館のオリジナル文庫を中心とする紹介記事をご掲載いただきました。今年開館20周年を迎え、そのうちにも静かに埋もれつつある秋聲作品の普及活動にご着目いただき、熱心な記者さんが徳田名誉館長(秋聲令孫)、佐伯一麦先生(岩波文庫「あらくれ・新世帯」の巻末解説をご担当)、当館初代学芸員で秋聲研究者の大木志門先生(東海大学教授)へのインタビューにも出向いてくださり、それぞれ貴重なコメントをお寄せいただいております。有料ですが、昨日ネット記事も配信されました。
 オリジナル文庫につきましては、実は水面下で第16弾の制作を進めております。といいますのも先日、能登印刷さまより刊行されている秋聲金沢シリーズのうち『光を追うて』がめでたく完売となり、しかしながら増刷も難しいとのお話から同作を当館オリジナル文庫として刊行することに。昨年ようやく新しい作品集を出せたところでまた一歩下がった分だけ一歩進む…みたいな穴埋め作業に戻ってきてしまいましたが、さすがに金沢に建つ秋聲記念館に『光を追うて』がないとは問題ではなかろうかとの判断です。金沢シリーズは当館開館の年から翌年にかけて刊行され、当館二代目館長・小林輝冶と鏡花記念館の秋山稔館長のご監修。秋聲が金沢を舞台にした作品を集めたシリーズという性質上、これまで当館と金沢ふるさと偉人館さまで取り扱ってきたものながら、当館で現在「光を追うて」と冠した企画展を開催している都合により、このたび偉人館さまの販売分も奪ってきてなおの完売です。ご購入くださったみなさま、まことにありがとうございました。おかげさまで20年間、がんばってきてくれたシリーズです。そしてこの機に残る3冊『郷里金沢』『感傷的の事』『挿話・町の踊り場』も偉人館さまより引き上げ、当館のみでの取り扱いに一本化することとなりました。あれはあって~これはなくて~というショップでの混乱を防ぐため。ちなみに残る3冊の中でも唯一の随筆集『郷里金沢』がもはや虫の息でございます。当HPのショップページでも「在庫僅少」表示を出させていただいておりますので、ご興味おありの方はご購入をお急ぎください。
 諸事情あって、今年は企画展の会期が例年よりそれぞれ短いもので、なかなか編集作業の時間がとれず刊行時期は未定ですが、例によって秋聲のお誕生日までには…という気持ちで生きています。





高得点に笑う
  2025.6.2

 今朝、開館準備をしながら浅野川の堤防の上にリスを発見しました。絵にかいたようなリスの姿にワッとなって天神橋の方へ去ってゆくまで見送り、事務室にいた職員みなに言いふらし、写真を見せびらかしました。この界隈では初めて見たものですが、有識者によればタイワンリスとのことで、ちょっと検索してみましたらわりと害獣扱いされていてウッとなりました。「かわいい」だけでは済まないいろいろな事情がありました。
 さて、そんな浅野川界隈、31日には「タウントレック金沢2025」なるイベントが開催され、街中のさまざまなチェックポイントをめぐるうちのひとつに当館を含む三文豪館が選ばれ、生憎の小雨のなか、また違った角度から参加者のみなさまをお迎えいたしました。外観の撮影=訪問証明=ポイントになるというルールで、ご参加のみなさまが撮られた写真をよくよく拡大すると、ガラス張りの館内からじッとそちらを見ているほこほこ顔の職員の姿も写っているかもしれません。訪れる場所は任意で選択し、スタート地点の金沢駅から遠いほどポイントが高いというシステム。ご参加の方から得点シートを見せていただきまして、なるほど某K花記念館さんが17点、犀星記念館さんが18点、とすると当館はーーーーなんと42点が付与されていました。高ァッ!! えっ…距離的にはそんな…でもアレですかね、みなさまとの心の距離…? 「秋聲記念館? どこそれ?」という一個めのハードルがものすごく高いとかそういう…など言いながら、見せてくださった方と一緒にちょっと笑ってしまいました(すみません、もっとがんばります)。そもそも「徳田飛ばし」に遭わなかったことをまずは喜びたいと思います。こちら、有料記事ですが、記者さんによる体験レポート
 また、来る6月6日(金)には、当館界隈がさらに賑やかになることでしょう。6日~8日に金沢市祭「金沢百万石まつり」が開催され、7日のメインイベントとなる「百万石行列」に先立ち、前夜祭として19時~20時、浅野川を舞台に「加賀友禅燈ろう流し」がおこなわれます。加賀友禅燈ろう600個が水面を流れるこの催し、馬場小文学碑文候補であった「挿話」の「夜ふけてからの涼みに出て、月光が蛇のやうに水面を這(は)っている川端をぶらぶら歩いていると、ふと劇場の前へ出た。」の優雅な大蛇バージョンと言えばよいでしょうか。たいへん見ごたえのあるイベントですので、ぜひご覧いただきたいものですが、これにあたり17時~21時まで当館につづく川沿いの「秋聲のみち」と対岸の「鏡花のみち」が車両通行止めとなりますのでご注意ねがいます。
  


 


勝手な脳内キャスティングをやめたいと思いつつ
 2025.5.31

 一年放置しない、であったか、半年放置しない、であったか、過去に適当な抱負を述べておりました「不定期連載」に新作「少年の哀み」をアップいたしました。本当は現在の馬場小展開幕(3月)にあわせてかなり早い段階で職員さんにテキストの打ち込みをお願いしていたのですが、なんだかんだと時は流れて5月も終わりになってようやくのアップです。そうして久々に本文に向き合いましたらこれから春になろうとしていました。申し訳のないことです。
 第一章はまだ状況と登場人物の紹介といった内容ながら、〈順吉〉と〈おみよ〉姉弟にそこはかとなく秋聲とその姉かをりの面影が…三味線・義太夫を習っていた姉の姿が出てくることから、昨春のイベント「秋聲と三味線・金沢昔語り」で、千本民枝先生の三味線演奏に乗せ、本作の一部を玉井明日子さんにご朗読いただきました。秋聲の小学校時代を素材にした短編小説、全4回でお届けしてまいります。
 これをアップするにあたり、それまでトップに君臨していた作品をしまおうとして、中の宇野千代の名に目が留まりました。まだ敏感になっていました(昨日記事参照)。作品としては大正15年の談話「文芸を志す若き人々へ」。「成人の日」にちなんでアップしていたもので、発表媒体の「週刊婦女新聞」に寄せ女性の作家さんたちにも言及があり、宇野千代のくだりはこう↓

「日本の女流作家は割合に早く行き詰まるようですね。女流作家といえば宇野千代、中條百合子、野上弥生、三宅やす子氏等でしょうが、宇野千代さんのは初期の作品『脂粉の顔』などがよいと思いましたが、此の頃は変になりましたね。ちょいちょいいいものは見えますが。併しああした才気のある人ですから今にいいものを出しましょう。」

…ちょいと辛めの口ぶりですが、今後への期待とともにトップにその名を挙げています。ここに言及される「脂粉の顔」というのが、昨日記事でご紹介した「時事新報」懸賞小説で一等入選した作品。大正10年1月21日の紙面で発表され(当時は結婚しており藤村姓)、続く二等の「尾崎泗作」は後の夫・尾﨑士郎、選外に見える「兼光左馬」はなんと横光利一です。上記の秋聲談は「不定期連載」過去ログよりお読みいただけます。引用部分のあとにもちょろっと千代登場。ここに田村俊子の名がないのが少し不思議ですが(俊子はすでにカナダ)、千代もまた「私、田村俊子になる!」との思いを抱いた後進のひとりです。
 
  
 
 


淡い期待を褌でそらす
   2025.5.30

 昨日のネットニュースで来年の朝の連続ドラマのモデルが宇野千代であることを知りました。宇野千代! 秋聲のともだち! 千代は「あらくれ会」の前身、「二日会」メンバーとしてしばしばお名前をお見かけいたしますし、次回展では秋聲宛献呈署名のある千代作『色ざんげ』も展示予定――はて、ということは尾﨑士郎も出るということ? 士郎は秋聲を敬愛し、「二日会」でもかなりの常連かつ「秋聲会(のちの「あらくれ会」)」発起人(当館では士郎にかかわる献呈署名本は所蔵しておりませんが、馬込の秋聲会会員(概念)の方より、尾﨑士郎記念館さまに秋聲筆士郎宛献呈署名入り『灰皿』が展示されていると伺いました)。はたまた東郷青児も出るということ? 『色ざんげ』のモデルにして、やはり秋聲とは遊び仲間の画家です。いつかの宇野千代展では青児の訳書『怖るべき子どもたち』出版記念会や、青児の世田谷のアトリエ開きに秋聲が出席している様子をご紹介いたしました。
 そんなご縁からうっかり秋聲役も登場するといいですね~~~。そもそも大正10年、千代が文壇に出るきっかけとなった「時事新報」懸賞小説の選者であったのが秋聲(勘違い)なのですから、そして千代の作品「脂粉の顔」を一等に選んだのが秋聲(勘違い)なのですから、秋聲なくして作家・宇野千代はならず………と、大きな声で言いたいところ、二度までも「勘違い」と記しましたように「この時の選者に秋聲がいた」と千代自身『私の文学的回想記』などに書き残しているのはどうも勘違い。実際の選者は里見弴と久米正雄であったようです。なんと残念至極…毎度そういうところのある秋聲……ここでほんとうに選者であったなら…!!(ちなみにちょうどその頃、同紙に「何処まで」を連載中)
 いまそのあたりの資料を見返しつつ、「新潮」昭和5年7月号の座談会で一緒になった東郷青児と秋聲とのお相撲談義がちょっとかわいらしかったです。「相撲をあまり知らない」という青児と「知らなくても面白い」という秋聲。「どっちが誰だかわかんない」という青児。さらに、ちょんまげをやめたらもっと女性人気がでるんじゃ? という丸木(秦豊吉)に応じ、
 
 徳田「それと褌(ふんどし)なんかもつとモダーンにしてね。」
 陶山「褌をモダーンにすると、どういふことになりますか。」
 徳田「パンツか何かにしてだ。」

 さすが、発想が柔軟にして実に秋聲。





「あらくれ会」の人々
   2025.5.29

 今年もお呼ばれいたしました、尾張町商店街さま「歴史と伝統文化講演会」。ご近所の尾張町老舗交流館を会場に、毎月第3土曜開催、全10回の講座です。プログラムには当館を含む金沢文化振興財団所属館の学芸員が勢ぞろいでございました。金沢くらしの博物館、前田土佐守家資料館、金沢ふるさと偉人館、鈴木大拙館、中村記念美術館、そして川向こうの某K花記念館さん(本日より新企画展「芥川さんのこと」スタート!)。当館の出番は6月21日(土)、次回企画展のテーマともなっている秋聲の交遊録についてお話しする予定です(画像クリックでPDF開きます)。
 次回は「秋聲交遊録―『あらくれ会』の人々」という企画展タイトルとなりました。何せ顔が広い秋聲のこと、そのあたりをご紹介せんとするかなり漠然とした題になりましたが、具体的には東京の徳田家に残る秋聲宛献呈署名本を一挙公開する内容――と、どこかで聞いたような、まさかまさかの文京区の先輩・森鷗外記念館さまの特別展「本を捧ぐ―鴎外と献呈本」(~6月29日)とテーマが丸かぶりしてしまいました。ただし、そこから先はこちらの力不足により署名本だけで展示を構成することが難しく、秋聲を囲む「あらくれ会」を絡めながらのご紹介です。
 と言いますのも、徳田家に残る署名本の多くが、小寺菊子、阿部知二、豊田三郎、井伏鱒二など、「あらくれ会」にかかわるメンバーの著作であったため。ここから広げて「あらくれ」会機関誌「あらくれ」に寄稿したことがあるひと~という目で見れば、だいたいの人が説明できる、そんな雑なフルーツバスケットのような展示です。フルーツバスケット、10年ぶりくらいに言いました。令和のこどもたちも知っている遊びでしょうか。
 なお「あらくれ会」結成以前のものには、夏目漱石からの署名本『道草』(大正4年)があり、この翌年に漱石は死去しますので、大きくは大正15年に端を発する「あらくれ会」にはかかわりようもないのですが、その名の由来となっている秋聲の小説「あらくれ」とは因縁深いお方。それからご存じ「黴」の準レギュラーたる三島霜川。このたいへん希少な霜川からの署名本『日本戯曲名作体系』第一巻(大正14年)を初公開すると同時に、よくよく見れば霜川の死去に際し「あらくれ」同人語で秋聲・菊子・鱒二が彼を悼む文章を寄せていたりなどいたします。それから最も古いものでは相馬御風からの『第一歩』(大正3年)。この後、郷里新潟に戻り活動していた御風ですから、さすがに「あらくれ」は関係ないか~と思いきや実は一度だけ寄稿があり、そこでしっかり秋聲の印象を語っています。   
 ということで開館20周年の夏は、「あらくれ会」を学びます。





昭和40年代の康成
  2025.5.19

 昨日18日、企画展記念講演「昭和40年代の川端康成―『文学の故郷』碑をめぐって」を開催いたしました。和洋女子大学の深澤晴美先生をお招きし、現在展示中の馬場小学校創立百周年記念で建設された文学碑に康成が揮毫するまでのお話をお聞かせいただきました。タイトルにして区切りました昭和40年代(秋聲没後)だけでお話がいっぱいになるかな? と予想しておりましたら、まさかの康成の生い立ちから秋聲作品との出会い、評価の変遷、そして秋聲本人との出会いから仲を深めてゆくまでをノンストップで詰め込んでいただき、ほんとうに息つく間のない怒涛の2時間となって驚愕。これは明治・大正の康成と秋聲、昭和初年代の康成と秋聲、昭和20年以降、秋聲没後の康成…と3部構成でお届けすべき講座であった…と深く後悔をいたしました昨日です。
 中でもとくに興味深かったのは、身内を早くに亡くした康成と秋聲の関係性。それから昭和8~9年を境にして変化する秋聲評、そしてやはりメインテーマとなる昭和40年代の康成の状況です。昭和43年にノーベル文学賞を受賞した康成はとにかく多忙! 各所からの依頼に対し、〈序文推せん文は一切お断り〉と書き送る弟子筋の石濱恒夫宛書簡(昭和44年8月17日付)をご紹介いただきました。〈口をきくのもいやなほど〉だそう…さらに同じ石濱に宛てた翌年11月16日付書簡では、胆石痛をおこし、毎年楽しみにしていた京都旅行も外遊もキャンセル、「中央公論」千号記念の原稿も書けない、と…。このわずか6日前の11月10日に康成は馬場小の碑文を揮毫しているのです。依頼に行った坂井先生も、この頃の康成の胆石症には触れていました。そちらはそちらで碑文が届かず相当やきもきしたことが想像されますが、こちらはこちらで、想像以上にとんでもない状況のなか、あの碑文を書いてくれていたことがわかります。しかも馬場小さんの依頼は何の伝手もないところからの飛び込みでしたから、もはや引き受けてくれたことが奇跡…。それはひとえに康成の金沢贔屓かつ秋聲・鏡花への思いの結果であろう、とのこと(篤二郎は二人より少し世代が下になります。犀星さんと同い年)。
 また、この前後の康成による文学館設立運動や平和活動にも触れ、超然とした雰囲気を漂わせてはいるが、実はとても実務に長けた人、というお話も興味深いものでした。と書きながらしかし、こんなところではまったくレポートしきれませんので、これはまたいつか何かの形で…



 


浅野川界隈
 2025.5.16

 今朝ほど、市内浅野川中学校文芸部のみなさまがご来館くださいました。平日に??部活動単位で?? と不思議に思い顧問の先生にお伺いいたしましたら、今日は金沢市の定める「部活動の日」で、運動部だと春季大会が始まる日なのだそう。文芸部さまではこの日を利用して記念館めぐりをしてくださることになったそうです。浅野川中…ということは、もしや何年か前に浅野川小さんで出前授業をした際に聴いてくださった生徒さんがいるのでは!? と思いおずおずとお尋ねしたところ、おずおずと何人かの生徒さんが手を挙げてくださいました。ありがとうございます! お久しぶりです! 金沢文芸館さまのご手配により、「偉人教育」が推奨される市内の小学4年生を対象にさまざまなジャンルの講師が派遣されてゆくという事業のうち、浅野川小学校さまは毎年「金沢の三文豪」を選んでお招きくださり、今年も今週頭にお邪魔してまいりました。これで何年つづいたでしょうか、もちろん絶対ということではありませんので、来年あるかないかはわかりませんが、数年前に聴いてくださった生徒さんに向け、ほら3日前にお話ししましたアレですよ! みたいなテンションでつい語りかけてしまいました。
 先日の小学校への道すがら、浅野川中文芸部さんが来てくださるんですよ~と文芸館の館長さんにお話ししたところ、たいへんなお喜びようであったことがまた印象的でもありました。もちろん、あの4年生の時の話の成果で! というつもりはありませんが、あの時撒いたちいさな種がすこしでも館でご覧になる資料とつながってくれればうれしい限りです。浅野川小学校さま、浅野川中学校さま、各記念館を活用してくださりありがとうございます。学校違いではありながら、今の馬場小展でご紹介している「文学の故郷」碑の鏡花・篤二郎・秋聲につづく四人目を顕彰するための壁の余白に思いを馳せたりなどいたしました。
 さて、そんな文化を育み、文化のあつまる浅野川――明日17日(土)には界隈で「女川まつり」(16時~21時・於宇多須神社~浅野川河川敷)と「金沢浅野川園遊会 越中八尾おわら流し」(19時~21時・於ひがし茶屋街)が開催されます。記念館受付にそれぞれチラシを置いてございますので、イベント前にぜひお立ち寄りください。



 


俊子と康成
 2025.5.9

 6日(火)、例月のMROラジオ「あさダッシュ!」さまにお邪魔してまいりました。開催中の馬場小展の宣伝と、18日(日)の記念講演の告知も兼ねて、今回は改めまして川端康成と秋聲の関係性についてのお話です。それにあたり控室で過去の康成展の資料を復習していて、秋聲の名が出てくる数え17歳の康成の日記の記述にオッとなりました。〈大正四年一月二十二日(金)習字の時間現今十二文豪を選んでみる 逍遥、欧外(※鷗外)、蘆花、藤村、漱石、白鳥、花袋、未明、小剣、俊子、秋聲、鏡花だと思つて見る〉――俊子! 俊子がいますね!! というのに今更ながら反応してしまった次第です。そうか大正4年…俊子の全盛期…そう…康成(17歳)の選ぶ12文豪のひとりに……すでに終わってしまった俊子展の時に差し込むべきリアルな読者の反応のひとつがここにありました。
 今回のラジオのトークテーマが「びっくりしたこと」で、(まさにコレ!びっくりした~!)という気持ちになりました。しかも、あれっ…ご命日おんなじなんですか…? 俊子は昭和20年4月16日、康成は昭和47年4月16日。俊子のほうが15歳年上です。ふたりの作品が一緒に読める媒体に岩波文庫さま『日本近代短篇小説選』大正篇があり、当館受付で売っていますよ!! と言おうと今ショップを見に行きましたらこの巻のみ品切れ中でした。いつも間の悪いことで申し訳ございません。数多の作家の代表作が選出されるうち、俊子の「女作者」、康成の「葬式の名人」が収録されています。
 ご命日の話が出ましたので、次回記念講演の内容とも絡みましょうか。5月18日(日)、『川端康成詳細年譜』(勉誠社)の編者のおひとり・深澤晴美先生に、康成が亡くなった昭和47年を含む昭和40年代に起こったさまざまなことをご紹介いただく講演会です。展示でも触れている、昭和43年にノーベル文学賞を受賞、昭和45年に「文学の故郷」碑に揮毫といった出来事のみならず、同じ昭和45年には石川近代文学館で開催された秋聲生誕百年記念展にも出席してくれておりますし、この年のうちに三島由紀夫が亡くなり翌年に葬儀委員長をつとめていたり、あの中央公論社刊『日本の文学』徳田秋聲巻巻末で、秋聲長男一穂さんと対談しているのも昭和42年のことですし、昭和40年にはNHK朝の連続ドラマのため書きおろした「たまゆら」の放送開始、自身もちょろっと出演したりしています。





牧野博士と秋聲
 2025.5.8

 前回、植物学者・正宗厳敬に触れ、思い出したことがありました。おととし朝の連続ドラマのモデルとなって脚光を浴びた日本植物学の第一人者・牧野富太郎のこと。実は牧野博士と秋聲は、「婦人之友」昭和11年8月号掲載の座談会「有名無名の師を語る」で同席したことがあるのです。こちら全集の著作目録には入っておりますが、座談会そのものは収録されておらず、牧野・秋聲・入沢達吉・林毅陸・与謝野晶子・近衛秀麿・三宅雪嶺・和田三造の諸氏がそれぞれ自身の師匠について語る内容です。
 牧野博士は小学校以来自分に特定の師はいない、と前置きして〈本を書いた先輩はみんな私の師匠〉、〈自然の植物がみな私の師匠〉と語っています。秋聲の場合、四高時代の漢学教師・三宅少太郎に始まり、とはいえ先生より友人に大きな影響を受けたとして小倉正恒・桐生悠々・佐垣帰一を挙げ、とはいえやはり師と言えば…で紅葉先生に触れますが〈紅葉さんはその小説にはその当時何か反りの合はないものがあつて、その文章には随分感服したものもありながら、泉君や小栗君柳川君ほどには先生に学ばなかつたのですけれど、師弟といへば、私の生涯では先生には一番世話になつてゐることは無論です〉、〈あの時分にもつと先生に書くことを教はつておいたら、少しは売れる作品もできたらうかといふ気もしますが、個性で押し通さうとしたところに、大変な損があつたやうです〉、〈紅葉さんのことを話しだすと長くなりますし、今迄に相当話してもゐますから、まあこの位で…〉と、自分から無理に締めなくてもよいのに…! といった消化不良感とともにターン終了、次の人に移ってしまうのです。このように、座談会と言いながら同誌主宰の羽仁吉一・もと子夫妻の進行のもと、それぞれが順番にお話ししてゆきますので、これは個別インタビューでもよいのでは…? と思われる形式ながら、7月3日夕、南沢自由学園食堂に集められたようで、ありがたいことに一堂に会している写真と当日の寄せ書きも掲載されています。秋聲は署名だけ、牧野博士は「花に恋して五十年 牧野富太郎」。素敵。   
                  (↑左端と右端、対角線上に牧野博士と秋聲)
 ふたりが対話する場面はありませんが、植物学には殊に関心を寄せていた秋聲につき、休憩時間にそっと話しかけにいったりしたでしょうか。なお正宗厳敬と牧野博士の交流については、前回記事末尾にくっつけた資料から少しうかがうことができます。



 


正宗兄弟
  2025.5.5

 昨日、過去の聞き取り調査でお世話になったご近所の方が、追加の資料をご持参のうえ館にお立ち寄りくださいました。館内をご案内させていただきながら、秋聲も自伝小説「光を追うて」などに書いている浅野川大橋のたもとにあった牛肉屋「ト一亭」のこと、橋場・尾張町界隈を賑わせていたビリヤード場のことなどをお聴かせいただき、秋聲が四高生であったというお話から、ジオラマになっている四高の赤レンガづくりの建物をご覧になり「そうそうこんな四高生見てた。マントを翻してね、憧れだった」と語ってくださいました。そのお方は昭和13年のお生まれ。秋聲と時代が重なりますし、秋聲が見た当時の金沢をご存じの世代――などと思いを馳せておりましたら、ご自身も金沢大学の学生となって「理科系の授業はここ(赤レンガづくりの建物)で受けてた。階段が暗くてね~」とふつうに仰るその感じ…! てっきり大学はもう完全に金沢城の中と思っておりましたが後で石川四高記念館さまのパンフレットを見ると「昭和25年3月24日 四高閉校(金沢大学理学部が使用)」と記してありました。
 さらに2階の常設展示室の「秋聲をめぐる人々」パネルの前では正宗白鳥の名に反応され、「この人の弟さんの授業受けてたなぁ、たしか生物」…おっとっと、正宗家の伝説の兄弟のおひとり・正宗厳敬先生の講義をお聴きになっていた!? 厳敬は昭和25年~39年まで金沢大学で教鞭をとった植物学者。白鳥の作品にも〈G〉のイニシャルで出てくると、過去の寸々語(2012.6.14)に記したことがありました。〈今度金沢に下車する気になつたのは、必ずしも日本三公園の一つである兼六公園を見ようとするためではない。(中略)数年来金沢の学校に奉職してゐる弟に会つて見ようかと、偶然思ひついたためである。私は十人兄弟のうちの長兄であり、金沢在任の弟は末弟である。〉、〈間もなく人声がしたので目を開けると、Gにちがひない男が立つてゐた。頭は白くなつて老学者の風采を具へてゐた。(中略)この夏も、白山の山奥へ入つて植物採集をやるやうなことを話してゐた〉(昭和32年連載「現代つれづれ草」より「旅と人生」)
 厳敬先生の印象は「ものすっごく厳しい先生だった、にこりともしないでねぇ」とのことです。シニカルな兄、シビアな弟。
(参考:金沢大学学術情報リポジトリKURA





「馬場小学校のゆかりの偉人たち」展レポート
   2025.5.4

 金沢ふるさと偉人館さまの馬場小回顧展を観覧してまいりました。結果、一緒に調査に入ったはずが、エッ…こんな貴重資料ありました…!? のオンパレードで(もちろん資料の収蔵状況・受け入れ情報は共有しております)、物差しがちがうとこんなに見えるものが違ってくるのかとしみじみ…収蔵キャパの問題もあり、当館では受け入れられなかった秋聲の著書、篤二郎関係資料などもすべて偉人館さまが引き受けてくださり有難いかぎりです。しかもそれら蔵書全体の特性を踏まえ、配架した書棚が郷土史家・日置謙の旧蔵品という偉人館さまのサービス精神。さらに先日話題にのせた馬場小出身・藤本吉二の発明した花はじきの実物展示もあり、こちら金沢くらしの博物館さまのご所蔵品かつ、なんと藤本家から寄贈されたものとのこと。さすが金沢、しかるべきものがしかるべきところで保管されている…これほど出所の確かなものはありません。
 また改めまして清水澄の扁額とともに、同じく馬場小旧蔵品・加賀藩前田家第16代当主・前田利為(としなり)の書が圧巻でした(ちなみに東京駒場の日本近代文学館そばにある「旧前田家本邸」が、もと利為侯爵のご自宅だそう)。行き届いたキャプションに触れられておりますとおり、昭和16年12月の秋聲来校の前月3日、同じく体育館で記念講演をおこなった小倉正恒や校長先生のご挨拶写真(展示中)の後ろに掲げられているのが確認できますので、秋聲の時にもやはりあったのでしょう。残念ながらばっちり記録写真の残る小倉と異なり、講演中の秋聲の写真は確認されておりませんので、さすがに当時の新聞に報じられているような、急に現れ自ら講演を申し出た秋聲…という流れでこそないにせよ、もともとの年間計画にない急な登壇であったことには違いないのだろうと想像されます。
 その他、いつの時代かに在校された生徒さんが書いてくれた秋聲・某K花・篤二郎の紹介など、先輩として大事にされてきた彼らの姿が見え、たいそうほっこりいたしました。ちょうど見ている後ろで、他のお客さまが「そうそう、うちらの時代はこの字じゃなくて秋『声』で習ったわ」とお話しされているのが聞こえ、もしやご出身者?? などとニヤニヤしてしまったことは内緒です(盗み聞きすみません)。より肉感をともなう偉人館さまの馬場小展は8月17日まで。6月22日(日)の関連講座「馬場小学校下で育まれた偉人たち」も必聴です!



 


トークイベント報告
  2025.5.1

 前回記事に続くところで、小林修先生のトークイベントには、3月1日記事で「とてもレア!」と大声を張り上げておりましたカバー付『新世帯』を自由に触らせていただけるという大特典がついてまいりました。イベントの最後、客席からその装丁にかかわるご質問をいただくなど(描かれたふたり?あるいはひとり?の女性の謎…)、おかげさまでご参加のみなさまにとっても印象深い1冊となったことと存じます。それとともにご持参くださったのは、『徳田秋聲探究』の中でも詳しく解体されている「縮図」掲載紙(「都新聞」)の切抜き本! こちらもあわせて見て触れることを快くお許しくださり、『徳田秋聲探究』をすでにお読みの方におかれましては、ウワァこれがあの本ッッ…! という大きな感激とともにご覧いただけたことでしょう。
 秋聲の帰郷と同じ昭和16年、生涯最後の新聞連載小説にして、開戦を控える時局のうちに打ち切りとなった「縮図」を毎回毎回きれいに切抜き、台紙に貼り付け、まるで出版された単行本のように製本したもの。そのクオリティたるや“スクラップ帖”というにはあまりに仕上がりすぎており、表紙はクロス装、お手製の目次がついて、のどの部分には重ねたページがバッフォと広がらないようボール紙のようなものが細やかにはさみこまれるというプロの技。本棚に配架されていれば市販の上製本と見分けがつきません。最後のページに手書きされた「昭和十八年十二月十六日製本」という筆跡がいったい誰のものなのか…秋聲はすでに亡くなっていますし、ちなみに長男一穂さん? と当日、東京からご参加くださっていた徳田名誉館長(一穂息女)にお尋ねしましたら、「父はそれどころじゃなかったでしょう」とのお答え。それはそう、秋聲死去からまだひと月です。また、秋聲の署名の癖みなぎるこの本の題字部分のご考察その他もろもろも、ぜひ『徳田秋聲探究』本文でお読みいただけましたら幸いです。聲の字の「耳」部分が変なところに潜り込むこの独特な形の署名を見れば思い出す、過去に「耳をそこに」という記事を書いたことを――と、過去ログを検索してみたところ、2013年2月7日の記事! 小林先生がお持ちの榊山潤宛献呈署名本『灰皿』と同じ、鶴田久作宛のものを入手したよろこびを綴った回でした。10年経っても、このタイプの署名を見れば脳をよぎるフレーズはひとつ、えっ「耳をそこに」?(耳をどこにかはぜひ小林先生のご著書にて)
 こちらの署名本を次回7月頭からの企画展で出品予定です。





旅の目的
 2025.4.29

 先日からしつこくお伝えしている昭和16年12月の帰郷の件、ほんとうは馬場小にたどり着く前の行程もともにご紹介せねばならぬのでした。秋聲の日記によれば、このときの旅の主眼は岐阜県の中津川へ行くこと。11月29日の夜行で東京を発ち、旅の道連れは〈逓信省の木村建築技師、事代堂及びその店員大井、王子製紙井上の秘書藤田氏。趣意は中津川にある王子製紙の工場見学と、鶫猟を見るためである。〉…中に事代堂とあるのは、4月24日記事でお名前を出した事代堂義一。秋聲のダンス仲間であり、秋聲長男一穂によれば日本橋の壁紙問屋さんであったそう。その事代堂氏(以下、秋聲にならい〈事さん〉とお呼びします)の強い希望でもってこの後秋聲らは金沢にまで足を延ばしたそうで、しかしながら事さんの酔態に愛想を尽かした秋聲はもう帰りたくなってしまっていたのにすでに切符が買われていて逃げられず、金沢まで行けばなんとかなるか~…といったテンションでの来沢となったもようです。この“逃げられない”という感覚に思い起こされるのは、酔って絡んでくる真山青果との湯河原旅行を描く「檻」(秋聲の短編の題)。もともとそれほど酒好きでない秋聲のちょくちょく絡まれがちなこと…。金沢に着いたところでやはり問題児であった事さんとのあれこれ、そしてここでの体験の細やかな記録は、今後丁寧に検証せねばならぬ情報量を含んでいます。
 話があっちこっちしてしまいましたが、何より「王子製紙」という言葉にアンテナが反応したのは、4月12日に開催いたしました文化資源社刊・小林修著『徳田秋聲探究』刊行記念トークイベント「秋聲探究あれこれ」で紹介されたばかりであったため。秋聲の代表作「あらくれ」は、当初、渋沢栄一を描きたかったものでないか、という斬新な小林先生のご提言に、翌日の新聞各社のイベントレポートでもそれが大きく取り上げられたのでした。そのあたり、小林修先生の『徳田秋聲探究』のあとがきに詳しく記されていますので、ご興味ある方はお尻のほうぜひめくってみてください。
 結局、上記の旅行で秋聲がなぜ王子製紙の工場を見学に出かけたのか、しかも関係者とともに――そのあたりまだ何も掴めてはおりませんが、ひとまず中津川の恵那神社さまのHPに解説される渋沢とのゆかりに学ばせていただきました。





三館連携・「馬場小学校ゆかりの偉人たち」展開幕!
  2025.4.26

 まだ一ヶ月先かぁ~…と当館における馬場小展が開幕したころから首を長くしてお待ちしておりました今日という日、三館連携企画のうちのひとつ、金沢ふるさと偉人館さまご主催「馬場小学校ゆかりの偉人たち」展がついに開幕いたしました! おめでとうございます! とても心強いです!!
 まだ観覧にゆかれないまま恐縮ながら、お届けいただいたチラシを拝見するだけでも楽しみでなりません。表にあしらわれた馬場小ゆかりの人々のうち、秋聲自身が言及あるいは関係している、という目線でもって当館で触れておりますのは某K花さん、尾山篤二郎、清水澄、井上友一、小倉正恒、細野燕台。触れられなかった三浦彦太郎(箔打ち機の開発者)、藤本吉二(発明家)と水芦光子のお姿が眩しく、そういえば藤本吉二のお宅には、その昔、当館で開催した文学散歩でその前を通らせていただいたな…そうそう確かに馬場校下…などと思い返しつつ何気なく検索してみましたら、何やらそのお宅が現在素敵なコーヒー屋さんになっている? またその発明品のひとつだという「花はじき」もとてもかわいいです(ちょっと調べれば出てくる有難さ、こちら連携展の最後の一館・金沢くらしの博物館さまご所蔵です)。そして、水芦光子は犀星門下の小説家。同じ文学仲間であり、当館に向かう「秋聲のみち」沿いにその著作「雪の喪章」の一節を記した文学碑までありながら、展示で触れられず申し訳なく思っておりましたところ、偉人館さまでカバーしてくださっていてほっといたしました。
 さらに裏面を拝見すると、ハイでました、画像付きで掲載されております枢密顧問官・清水澄による扁額『書添君子智』! こちら、当館展示パネルにも記しました、昭和16年の秋聲来校時に応接室で見たと語るそれに違いなく、資料調査時に馬場小さんで拝見したときにもその立派さに圧倒されたものでした。当館の展示をご覧になったうえで赴かれれば、約80年前の秋聲と同じ気持ちで見上げていただけようかと存じます。その他、同じく馬場小旧蔵 尾山篤二郎自筆書幅もぜひ実物を間近で見たい!と思わせるオーラにあふれ、当館で展示中の篤二郎の歌幅は作こそ篤二郎本人ながら筆跡は川端康成だものですから(それも贅沢なお話)、篤二郎の筆跡をたっぷりご覧になりたい方はぜひ偉人館さまをご訪問ください。本日と5月18日(日)、7月27日(日)にはギャラリートークが、6月22日(日)には関連講演がございます。きっとどこかにそっと紛れ込んでいる秋聲記念館一味です。





ひょっこり秋聲
    2025.4.25

 今月頭の話題に戻りまして、9日(火)には今年度初のMROラジオ「あさダッシュ!」さまにお邪魔し、二度目の対面となる大野紘乃アナと、初めましての加藤裕さんにお相手いただきながら開催中の企画展についてご紹介をさせていただきました。
 加藤さんは事前にこの寸々語をご覧になってくださったとのことで、さらにお誕生日が秋聲と1日違い! 同じではない! 惜しい! といったトークからこちらの緊張をほぐしてくださるお気遣いの方でありました。その流れから秋聲誕生日には新暦旧暦の違いがあって、さらには12月23日説と12月1日説がありますよ、などとも早口でねじこんでまいりましたとおり、ちょうど現在の企画展にて、昭和16年12月の帰郷時、馬場小の校長先生と秋聲がお誕生日トークをしてきた…という日記のくだりをご紹介しております。
 この日記については、今年から「北國新聞」連載中の三文豪リレーコラム「三文豪のナイショ話」の2月2日分にも書きましたところで、数え71歳の秋聲が、12月3日(新聞では4日となっています)に馬場小を訪れ、生徒さんたちに向け記念講演をおこなったという記述が本筋。日記の原本は所在不明で、長男一穂により雑誌「文芸」昭和20年10月号などに発表されたものを参照しておりますので、部分的に端折られている可能性もありますが、その後の記述が12月8日付、〈下の家の二階に寝てゐると、十時頃かと思ふ頃、子供が起しに来て、戦争が初まつたから、ラヂオを聞きに降りなさいといふ。〉――まさに真珠湾攻撃のその日で、もちろん小説でなく実録につき、このような言い方は不適当かとは存じますが、ラジオがとても印象的な役割を果たしている一節と思われるのです。
 展示のお尻に配したこれらのパネルに応じ、ケースの最後は秋聲の文明批評「掉尾の偉観」草稿でもって締めてみました。上記の金沢旅行から帰った数日後の秋聲が筆を執ったもので、「都新聞」昭和16年12月28日~31日に全4回掲載されています。同じ年の9月に打ち切りになった「縮図」と同じ「都新聞」(現東京新聞)なものですから、担当記者の頼尊清隆は〈「縮図」がああいうこと(※打ち切り)になったので、容易には承知してもらえないだろう〉と覚悟していたところ〈徳田さんは、書きましょう、と気さくに引き受けてくれた〉と当時について書き残しています(『ある文芸記者の回想』昭和56年、冬樹社)。





舞踏会兼ピクニック
   2025.4.24

 レポートの順番前後いたしまして期限のあるものから先にご報告申し上げます。19日(土)、2月27日記事でご案内しておりました、 関西大学博物館さまで開催中の春季企画展「ジャズとダンスのニッポン」展示解説日にお邪魔してまいりました! 当日は博物館の学芸員さまにご挨拶のうえ、ご監修者でいらっしゃる同大の永井良和教授によるご解説をうかがいました。上記のブログで、東京の八大ホールばかりに触れてきた当館の紹介には出てこない関西におけるダンス文化…云々と記しておりましたことが、今となってはとても恥ずかしい発言に思われております。関西のダンス文化が東京に与えた影響の大きいこと…! そもそも八大舞踏場(日米・ユニオン・國華・フロリダ・和泉橋・帝都・銀座・新橋)のうちのユニオンは、昭和2年、大阪におけるダンスホール営業禁止を受け東京に場を移した大阪・千日町ユニオン系統であり、さらにダンサーにチケットを渡して踊るチケット・ダンシングの仕組みを日本で最初にアメリカから取り入れたのも大阪、そしてユニオンで定着…展示室には、秋聲もパラパラと所持していたチケットの仲間たちがわんさか展示されており、群れに帰った気持ちがいたしました(秋聲遺品は和泉橋・新橋・銀座・日米ダンスホールのもの。現在、当館常設展示にお出ししています)。
 また、秋聲のダンスの師である玉置真吉資料も充実! 玉置の声が吹き込まれた教習レコードもあり、教え子である秋聲の声も入っていたらよかったですねぇ!などと言いたくもなる、未だその声は確認されていない秋聲です。さらに文学とダンスコーナーでは、ダンスを嗜むことでよく知られる谷崎潤一郎と菊池寛の間に秋聲が挟まっていることが何よりうれしく、感激を噛みしめておりましたところ、なんと近くの総合図書館さまのコーナー展示でより秋聲がピックアップされているとのこと! 図書館入ってすぐ右手の一角に(利用登録せず入れます)、秋聲を会長とする(※まつりあげられた)ダンス愛好会「昭和倶楽部」による久米正雄宛の晩餐舞踏会案内状が…! これは初めて拝見いたしました。昭和7年9月17日消印、宛名書きは秋聲の筆跡とは異なり、あるいは秋聲を会長にまつりあげたのであろう同会専務理事・事代堂義一の筆跡なのか、案内状のお尻に来月には「舞踏会を兼ねたピクニック」をやりたい、とも書いてある(印刷)…な、なにそれ…そこくわしく…と激しく打ち震えましたこの超貴重資料により、昭和倶楽部の意外な活動を知ることができました。その他、秋聲の寄稿のある「ダンス時代」昭和7年11月号も初見のうえ、全集未収録。以上、いつもながら秋聲偏重レポートで恐縮ながら、その実こちらの展示、大きく日本におけるダンス文化の盛衰を実際の資料から体感することができますので強くおすすめいたします。今月26日(土)には永井先生による記念講演も! 





「初めての成瀬、永遠の成瀬」
   2025.4.10

 現在、東京のシネマヴェーラ渋谷さまにおきまして、成瀬巳喜男監督作品特集「初めての成瀬、永遠の成瀬」が開催されています。3月22日~4月11日までの会期で、ずいぶんと気づくのが遅くなってしまった結果、残る秋聲原作「あらくれ」の上映機会が本日10日(木)の19時35分と、明日11日(金)11時からの2回のみ! なお明日の19時25分からは犀星さん原作「杏つ子」の上映もございます(映画版はちょっとわかりませんけれども原作小説には秋聲が実名で登場していますよ!)。お近くの方、ご都合よろしければぜひご鑑賞くださいませ。
 現在の当館の企画展の主役・川端康成に「あらくれ」を語らせれば、こうなります。
 〈私はこの「解説」(※中央公論社『日本の文学』9・徳田秋声〈一〉、昭和42年)を書くために、まず「あらくれ」から読みはじめたところが、すらすらとは進まないし、注意を集めて向っていないとのみこみにくいしで、思いのほか時日をついやした。〉…おや! 世界の川端をして読みにくいと言わしめる秋聲作品! と少しほっとするやいなや、こう続きます…〈私の耄碌のためではあるまい。作品の密度のためであろう。秋声は「作品の密度」とよく言った。「あらくれ」が速く軽くは読めないように、秋声は楽には読めない作家であるらしい。作家の感興に読者を乗せることも抑制されている。秋声の作品が広い一般読者を持ちにくいわけの一半も、私は「あらくれ」を読みながら納得できたようであった〉…ここに乗っかるのもまたおこがましいことながら、そう…そうなんですよね…とお腹のあたりの布地をギュっと握りしめたくなるこの一文。少し省略いたしまして、続きがこうです…〈解説に代えて、読者にただ一つ望みたいことは、秋声の作品をゆっくりゆっくり読んでみてほしいということである。秋声の場合、これが凡百の解説にまさる忠言と信じる。〉…このあと、川端による「あらくれ」の中のいろいろな発見が語られてゆくのですが、単なる一記念館職員といたしましてはあらゆる下手な言葉を尽くすより、今後、すべての講座においてこのご忠言をお借りいたしたく存じます。
 成瀬監督も「あらくれ」パンフレットにおいて、この映画化の実現には、起案から20年かかったと語っていらっしゃいます。その字面だけをなぞる形で恐縮ながら、いちどご覧(お読み)になったとしても何度となく、ゆっくりゆっくり、20年かけて味わうべき作品なのかもしれません。





一町=109メートル
  2025.4.9

 7日、当館開館20周年記念日にご来館くださったみなさま、まことにありがとうございました。繰り返しもうしあげます、森八さまの「夢香山」(に限らず甘いもの)を召し上がる際には「上等の緑茶や抹茶」をおともに添えて!(3月25日記事参照) 記念日は普通の一日の長さでもってあっというまに過ぎてしまいますが、この二十年の蓄積を誇りとしながら、さらなる二十年三十年を目指して職員一同、邁進してゆく所存です。今後とも変わらぬご支援のほど、よろしくお願い申し上げます――と言っているそばから、年間スケジュールを組んでいて今年の秋聲誕生日がまさかの火曜であることを発見いたしました。12月23日(火)、おっと始めての定休日にぶつかるパターン…あぁどうしてもこの日、平和の象徴・〇サブレ―を配らなければならぬのに…10年続いた歴史と伝統が20周年の今年で途切れ…(追って考えます)。
 さて、秋聲よりひとつ年上の馬場小学校。明治3年、もとは浅野川にかかる小橋のたもとに「小橋小学所」として開校いたしました。小橋とは、当館目の前にかかる「梅ノ橋」(明治43年架橋、秋聲の幼少期にはない橋)→大通りの「浅野川大橋」→某K花さん「化鳥」の舞台となった一文橋改め「中の橋」→そしてその次にやってくる橋。その後、学校は何度となく名を変え、時に場所を変え、明治12年に「往年の劣等生、徳田末雄」こと秋聲が入学する頃には、現在地の斜め向かいあたりに「養成(ようじょう)小学校」として建っていたようです。入学時の秋聲は浅野町(現小橋町/番地不詳)に住んでいましたから、おそらくもう少し下流の「小橋」のエリアから姉かをりに送ってもらいながら劇場付近を通り過ぎ、ここへ通っていたことでしょう。ちなみに当時は男女別で、女児の学校(浅汀小学校)は通学路のもう少し手前にあった模様(小学校の通りと観音通りがぶつかるあたり)。小説「我子の家」(明42)に〈魂情の強い健吉の実の姉は、弟を送込んでおいて、一町程手前の女子小学校へ引返した〉とあるのがそれで、しかしそのうちかをりも面倒になったか、弟のひとり立ちを促さんとしたものか、〈男女の小学校の別れ道で「こゝから一人でも行かれるね。もう可(い)いやろ。」〉と、急に突き放されてしまったことにショックを受ける末雄少年です(「光を追うて」より)。
(←赤い印の上が養成小、下が浅汀小のあった場所と推定。
  明治20年、千羽傳三「加賀金沢細見図」より)
 秋聲卒業の年に、一家は記念館そばの御歩町(現東山一丁目)に引っ越しました。それが現在市営の有料駐車場となって、満開の桜に彩られている「秋聲のみち」沿いの旧宅跡です(記念館から約150メートル)。
 


 


新年度と20周年の開館記念日
   2025.4.6

 新年度が始まりました。そして気が付けば明日4月7日が当館開館20周年の記念日。前々回記事で予告いたしましたとおり、20年分のお祝いの気持ちを込め、明日の入館者先着20名様に森八銘菓「夢香山」をプレゼントいたします! ど平日ですし、生菓子ですし、新年度の月曜からもろもろ始まる世間さまを鑑み、限定20個ととてもささやかな数量にしてみました。そんな今日は表の桜が満開で、館の外は大変な人出! いっぽう館内はわりかしひっそり閑としており、じっくり資料をご覧いただくことができますし、2階サロンにお座りになって、ゆったり桜と浅野川のコラボレーションを眺めることができようかと存じます。もしご都合よろしければ、ぜひ明日ご来館いただけましたら幸いです。読みがはずれてうっかり何十人もの方にお越しいただくことになりましたなら、そんなみなさまには当館のトレードマークのあのサンタバッジを差し上げます。いつかガチャガチャで販売していたのと同じもので恐縮ですが、台紙だけ手づくりの20周年記念日バージョンに差し替えました(夢香山をメインとする先着20名さま分にも問答無用でついてきます)。
 小ぶりのザルに入って、まるで今まさに海から捕獲されたばかりのとれたて新鮮なサンタたち…。12月に馬場小を訪れ、桜の句を残していく秋聲(推定/前回記事参照)にならい、桜満開のこの時期に薄笑いのサンタを配りまわすという形で今年度も元気にシュウセイズムを継承する当館です。
 馬場小に残された桜の句についてはおそらく昭和16年12月4日の同校訪問時のものであろうと推測するほかないのですが、当時、この記念講演を聞いた、という同校に赴任したばかりの綿川秀男先生の貴重な回想録「馬場小学校の思い出」が残っています(『昭十九申羊会 還暦記念誌「おもいで」』平成4年、馬場小学校昭和19年3月卒業生同窓会 昭十九申羊会)。それによると、秋聲は〈皆さんに「何事でも一生懸命頑張れば、必ず成し遂げられる」と激励され、帰られる時、色紙に「往年の劣等生、徳田末雄」と書かれたことが私には此の上もなく印象深く、馬場校下の方方の慎み深さを代表される方のように思われました〉とのこと…秋聲がそんなポジティブなことを!!(かと思えばすぐに自虐を…!!) 残念ながら、校内調査においてその色紙は発見されませんでしたが、そんなエピソードも交えながら、昨日、最初の企画展ギャラリートークを終えました。ご参加くださったみなさま、まことにありがとうございました!





馬場小回顧展開幕
   2025.3.30

 去る26日(水)、無事に新企画展「光を追うてvol.2―馬場小学校と秋聲―」が開幕いたしました。と同時に、5月18日(日)開催予定の記念講演「昭和40年代の川端康成―『文学の故郷』碑をめぐって」の申込受付も開始。講師はあの『川端康成詳細年譜』(2016、勉誠出版)の編者のおひとり・深澤晴美先生です。深澤先生は一昨年に開館した、紅葉先生らを中心に紹介する「和洋学園 硯友社文庫」(和洋九段女子中学校高等学校内)開設・運営に携わる主要メンバーでもあり、当日はそのあたりのお話も少し伺えようかと存じます。4月12日(土)の『徳田秋聲探究』刊行記念トークイベントとあわせて、こちらから引き続き参加者募集中です。
 改めまして、馬場小の文学碑建設は昭和45年のこと。この2年前の43年に川端はノーベル文学賞を受賞し、そして碑文揮毫の2年後の47年には亡くなりますので、この間に造られ、それから半世紀を経て今に残された「文学の故郷」碑の重層的な存在意義について少し考えてしまいます。なぜ川端だったのか、建碑にいたる馬場小サイドからの証言は展示でご紹介しておりますが、ノーベル賞ばかりでない、昭和40年代当時の川端を取り巻く状況について、川端サイドからご紹介いただこうという企画です。
 その周辺資料として、展示では撰文について相談する川端筆 秋聲長男一穂宛の書簡や、建碑の翌年頃に川端が古書市で購入したという秋聲書跡「古き伝統新しき生命」と同じ文言のもの(徳田家寄託品)も出品いたしました。展示後半では、自伝小説「光を追うて」から、明治10年代、小学生時代の秋聲にまつわるエピソードと、昭和16年12月、晩年の秋聲が同校を訪れ、急遽記念講演をおこなったというエピソードをご紹介。その時に金子校長に依頼され残したものか、同校に保管されていた秋聲自筆の俳句幅「つくづくと昼の桜の寂しかり」は今回初公開となります。来校は12月ですが、桜の句…そういえば、つい先日までは冬の顔をしてまるで咲く気配のなかった「秋聲のみち」沿いの桜の枝が急に赤らみ、一、二輪開花している様子を今朝ほど目撃いたしました。川端の揮毫する文学碑文、秋聲の書幅ともに、ちょうどこの季節にマッチした内容となりました。


 


お茶とお菓子
    2025.3.25

 さて、いよいよ明日から三館連携・馬場小学校回顧展「光を追うてvol.2―馬場小学校と秋聲―」が開幕いたします。それぞれ4月26日(土)から、6月7日(土)から開幕予定の金沢ふるさと偉人館さま金沢くらしの博物館さまとの連携企画の先陣をつとめさせていただきます秋聲記念館です。
 通常の企画展の場合、50点ほどお出ししている資料ですが、今回はケースと資料サイズの都合上、計30点とややコンパクトな印象はありますが、馬場小さんからお譲りいただいた貴重な品々を公開いたしております。6月22日(日)までの開催となりますので、三館の会期を見比べながらご来館をご計画いただけましたら幸いです。
 また、展示替え期間中にさらりとイベントページにアップいたしました4月7日のプレゼント企画。この日がちょうど開館20周年記念日となりますもので、せめてもの気持ちとして来館者先着20名さまに、今年でなんと創業400年を迎えられるというかの老舗「森八」さまの銘菓「夢香山」を贈呈いたします! 開館記念日が4月7日と新年度も新年度すぎて、何をやろうにもちょっと準備が間に合わないものですから、森八さまにご協力をいただき、みんな大好き甘いものにお頼りすることといたしました。
 「夢香山」すなわち卯辰山を意味するお菓子(どらやき)。このお菓子自体、とくに秋聲に由来するものではありませんが、夢香山を愛した秋聲にちなんで当館の館報も「夢香山」といいますし、秋聲の自伝小説「光を追うて」の主人公も「向山等」といいますし、何より企画展の目玉・川端康成の書幅に「夢香山(向ふ山)」とどーんと書いてございますので、そのゆかりにつきましてはご理解いただけようかと存じます(なにせ創業400年、秋聲作品には森八さまへの言及もございます)。と、そんな情報をアップした午後、犀星記念館さまより展示替えがんばって、おやつ代わりにどうぞ~とご共有いただいた資料が「料理の友」(昭和2年6月号、大日本料理研究会)より「近代文芸家の食卓嗜好品調べ(上)」のコピーでした。犀星さんの記事の次に秋聲が載っており、曰く〈秋聲氏は犀星氏と同じ金沢の人である。そして矢張り『森八』の菓子に、上等の緑茶や抹茶を好まれる。〉…な、なんとタイムリーな! 犀星記念館さま、最高の差し入れをありがとうございました!!
 4月7日にご来館くださったみなさま、「夢香山」にはぜひ上等の緑茶か抹茶をあわせてご賞味ください。



 


展示替え中間報告
   2025.3.23

 なりをひそめ、今日も今日とてもりもり展示替え作業中です。前回記事に書きましたとおり、資料サイズと展示スペースの都合により今回は常設展示室と企画展示室を入れ替えて開催いたしますので、まず企画展示室の田村俊子展を撤去し、常設のパネル・資料の8割をそちらへ移動(冒頭の金沢関係の独立ケースだけ触らず残してあります)。空いた常設展示室に、次回、馬場小回顧展「光を追うてvol.2」のパネル・資料を入れてゆく…といういつもにはない作業行程を踏んでおります。今のところ大きなトラブルもなく、当館では初公開となる川端康成揮毫による馬場小「文学の故郷」碑文原稿書幅も常設展ケースに無事おさまり(迫力がすごいです)、アレとソレをしてもうあとひとふんばり、といったところです。 
 また、ふだん常設展示室にお出ししている自筆資料は原則レプリカなのですが、今回、資料を動かすにあたり“馬場小回顧展会期中のみ”という期間限定仕様がついてまいりましたので、この機に自筆資料の多くをオリジナルと差し替えました。紅葉先生朱筆入「鐘楼守」をはじめ、「誘惑」「仮装人物」「縮図」の原稿も本物。加えて展示室とのバランスを見ながら常設ではお出ししていなかった書幅や色紙なども蔵出ししております。さらに秋聲のあの白いダンスシューズも登場。それぞれあまり長くはお出しできませんので、適宜レプリカに差し替えてゆくかもしれませんが(その場合キャプションに複製と明記します)場所がちがうだけでハイハイいつもの常設内容…と思われず、ご来館の折にはぜひ企画展示室のほうにもお運びください。気分転換ついでに2階サロンの模様替えもおこないました。機械の調子がわるく、流れなかったりすぐに止まったりを繰り返していて見苦しかった映像をいったんお休みしまして、間もなく咲くであろう「秋聲のみち」沿いの桜を静かに眺めるくつろぎ空間としてみました。すると壁が寂しかったので、この4月で開館20周年を迎える記念館の歴史を振り返り、第1回~6回まで、過去の企画展ポスターを展示しております。今回展で63回を数える企画展ですので、こちらも折々に更新してゆく所存です。
 3月26日(水)の開幕まであと2日!



 


俊子展会期終了
  2025.3.17

 おかげさまで昨日をもちまして、生誕140年記念企画展「『女流作家』―田村俊子と秋聲」を閉幕いたしました。ご観覧くださったみなさま、まことにありがとうございました。本日からの展示替えにてあの濃密な展示空間はあっという間に撤去されようかと存じますが、この企画展を経て当館の手元にはオリジナル文庫の短編集3が残りました。そこに収められた名編「女流作家」を読むたび俊子のことを思い出し、読み終える頃には誰かに手紙でも書いてみようかな…と、そんな気持ちになることでしょう。
 この「女流作家」発表と同じ年に発表された、展示ではただの文字列としてパネルに引用していた秋聲の言葉がこちら↓

 〈以上は明治の末葉から、大正の初期へわたつての文壇の主潮で、花袋、藤村、白鳥、風葉、青果、泡鳴、小剣、秋江、薫、俊子諸氏が、各々の特色を異にした、時代的の作家である。〉

 こちらは「週刊朝日」昭和2年1月9日号に掲載された秋聲による文壇評「大正文壇の回顧」の中の一節です。明治末からの文壇の変容を分析しながら、この頃、強く時代に爪痕を残した作家のひとりとして、女性で唯一俊子の名を挙げています。紅一点であるとか女性で唯一であるとか、現代ではあまり歓迎されない表現かとも存じますが、この時代、秋聲にとっていかに俊子の存在が印象深かったかということを物語る一節には違いなく(しかも当時俊子はカナダにおり日本に不在)、「女流作家」とともにご紹介をさせていただきました。展示ではお出ししませんでしたが、この評の掲載ページのコピーが手元にあり、それを見ると書き手である秋聲のお顔から、話題にのぼっている作家たちのお顔がボンボンと。見るほうにはありがたいレイアウトです。残念ながら俊子のお顔はありませんが、上から久米正雄、菊池寛、志賀直哉…といった、まさに中央文壇と称すべき華々しい人々のお顔が浮かんでいます。
 と、次はそんな中央文壇を離れまして、石川県→金沢市→馬場一帯、とキューっと焦点を絞ったローカル展示にさまがわり。とはいえ、取り扱う年代は長く、明治3年から現代まで、馬場小とともに時代を駆け抜けてまいります。 





新企画展予告②
  2025.3.15

 2月2日記事でも予告しておりましたとおり、次回展の目玉は川端康成による馬場小の「文学の故郷」碑文原稿です。昭和45年、碑に使用したのち軸装されて同校に保管されていたものですが、これが4種それぞれ全長2メートルほど(本紙は1.5メートル)ととても大きいものですから企画展示室のケースに入りきらず、今回、常設展示室の一部を借りて展示することといたしました。ご来館くださったことのあるみなさまにおかれましてはぜひご想像をいただきながらお読みください。ご来館くださったことのないみなさまにおかれましては、ぜひ前回のコナンくん冒頭の当館展示室紹介をご覧になりながら!! 常設入って正面、「秋聲と金沢」についてまとめた独立ケースはそのままに(小学校のお話とつながるので)、以降のL字ケースを次回企画展示スペースに充て、中の資料はパネルともども企画展示室の方にお引っ越し…と、そんなことを考えております。その移動作業に手間がかかりますので、通常5日間の展示替え休館をいただいておりますところ、今回は少し長めの9日間。3月17日(月)~25日(火)まで休館となります。何卒ご理解をいただけましたら幸いです。
 また、壁面を上述の書幅でめいっぱい埋めてしまうため、いつもよりパネルすなわち情報量は少なめになり申し訳ないことながら、なにせ見るべきは川端の大書。その分、資料が雄弁に当時を物語ってくれようかと存じます。そして当館のボリュームの少なさ、物足りなさをカバーしてくれるのが、金沢ふるさと偉人館さまと金沢くらしの博物館さま。タイトルに「三館連携」と謳っておりますとおり、馬場小の閉校にあたり、専門分野別に資料の受け入れをおこなった三館でもって、それらを順次公開予定です。偉人館さまでは「馬場小学校ゆかりの偉人たち」と題し、当館ではもっぱら某K花さん! 小倉正恒! というばかりの卒業生から、より多彩な人々を。くらしの博物館さまでは「金沢の小学校」と題し、馬場小以外の小学校も広く視野に収める形で、金沢における小学校教育の展開について紹介される予定です。当館チラシ裏に少しご案内がありますが、それぞれ会期、休館日(当館は火曜、上記ご両館は月曜)が異なりますのでご注意の上、詳しくは各館の情報公開をお待ちください。





新企画展予告①
  2025.3.14

  本日をもちまして当館に新しい出会いをたくさんもたらしてくれた名探偵コナンミステリーツアーは終幕いたします。秋から毎日お顔を見ていたコナンくんパネルともこれでお別れ。ご参加くださったみなさま、本当にありがとうございました。明日18時~、事件解決篇のアニメ放送をぜひお忘れないようご覧ください。
 これと連動するように、あさって16日(日)をもちまして開催中の企画展「『女流作家』―田村俊子と秋聲」も終幕となります。17日(月)より休館をいただき、次回の三館連携・馬場小回顧展「光を追うてvol.2―馬場小学校と秋聲―」の準備に入ります。展示名にvol.2と謳いましたのは、2006年に「光を追うて―自伝小説に描かれた金沢―」展を開催しているため。と、さらっと申し上げましたがおよそ20年前…!? もはや連続性を謳う必要もないのではないかというほど前でした。とはいえ、ご存じ秋聲の自伝小説「光を追うて」は、こちらが何を求めて読むかによって入ってくる情報ががらりと変わる恐ろしい書。前回は金沢全般について、今回は、中でも秋聲の母校である養成小学校(馬場小の前身)についての情報を同書よりピックアップしてお届けしてまいります。今後また20年後くらいにvol.3、4…と、交友関係であったり、好きな本であったり、郷土の食べものであったり、さまざまに目先を変えて継続的に開催してゆくのでしょう。強い光は苦手な秋聲ながら、秋聲の情報を求めて我々の帰るところはいつでも(ひとまず、とも言う)「光を追うて」なのです。
 先日チラシも無事納品され、現在発送作業中です。表には「光を追うて」から卯辰山の情景を刻んだ馬場小「文学の故郷」碑の除幕式風景写真(馬場小旧蔵品)を大きくあしらわせていただきました。この斬新な撮影角度にも意図があり、右手前の網目状の屋根のような木組は、まだ蔓の育っていない同校の象徴たる藤棚。これも文学碑の周囲を彩る意匠のひとつで、そうした碑の成り立ちなどについて展示でご紹介してゆく予定です。また何より碑の命名および揮毫は川端康成――というわけで、肝心の展示概要より、解説日程より先に、5月のイベント情報を張り切って公開いたしております。 
                                 




巷(ちまた)つながり
   2025.3.12

 前回記事で触れた佐藤紅緑の「光の巷」という題からふと連想されたのが秋聲の「巷塵」でした。俊子の「暗い空」と対照的に一気に光の差した巷に、またもや塵芥がかぶさってきた感じですね(とかく強い光が苦手な秋聲)。4月12日に刊行記念イベントを控える小林修先生の『徳田秋聲探究』中、第二章「縮図」論にも登場する作品で、銀座・資生堂で終わる「巷塵」と銀座・資生堂から始まる「縮図」(掲載は同じ「都新聞」)の対比について論じられています(思えば「縮図」冒頭の章題もまた「日蔭に居りて」。どれだけ光を避けるのやら…)。
 「巷塵」は昭和11年3月16日~4月16日にかけて27回連載され、秋聲の体調不良により中絶、未完のままとなりました。この体調不良こそ秋聲にとって昭和11年の大患というべきそれで、俊子に絡めてご紹介した寸々語「島中さんの御馳走」(2025.1.25)と「『人民文庫』座談会」(2025.1.27)に繋がるお話です。同年5月、秋聲を励ますため島崎藤村、菊池寛らの発声で企画・刊行されたのが非凡閣版『徳田秋聲全集』全14巻別巻1。ここに「巷塵」および同時期に連載中であった「仮装人物」(昭和13年に完結)は収録されず、秋聲没後の昭和36~39年刊、雪華社版『秋聲全集』第13巻(室生犀星、広津和郎、川端康成、徳田一穂編)にともに収録されました。この時「巷塵」には秋聲長男一穂の求めに応じ、新聞連載時に挿絵を担当していた日本画家・杉山寧(やすし)による書き下ろしの挿絵1枚が付されており、一穂の巻末解説にその経緯と、掲載紙が同じであるがゆえに「縮図」が「巷塵」の続きかのように誤解されている向きについて記されています。こうした解説含め、かなり気合の入った雪華社版でしたが、この全集も「全15巻」と謳っていながら6冊で中絶。10年後の昭和49年、非凡閣版を復刻のうえ、雪華社版6冊分の内容をくっつけた形で刊行されたのが臨川書店版『秋聲全集』全18巻で、いま図書館などで見る全集は小林先生も編集委員をつとめられた平成の八木書店版(全42巻別巻1)か、この臨川書店版(平成元年に復刻)のいずれかが多いのではないでしょうか。
 と、つらつら書き連ねましたが、この全集の歴史についても『徳田秋聲探究』にさくっとまとめられているという、まさにかゆいところにすべて手が届いている一冊なのです。引き続きイベントへの参加申込み、お待ちしております!





勝手にしやがれ
   2025.3.10

 コナンくんへの嬉しさに押され、前々回記事の続きを疎かにいたしまして申し訳ございません。上司小剣『U新聞年代記』より、以下、秋聲・俊子のくだりです。
 
 〈五來(※欣造、当時の主筆)の盛時には、徳田、正宗、佐藤紅緑も一時復社。田村俊子は客員然として折々出社。紅緑と俊子とが、同時に長篇を書く。俊子が自分の小説に『暗い空』と題したのを、紅緑がチラリと見て、己れの小説には、『光の巷』をいふ題をつけた。作者(※小剣)は殆ど毎日のやうに、徳田や俊子を誘つて、用事もそこそこに、方々を散歩したり、歌舞伎の立見をしたりした。正宗もたまに加はつたが、いつも『俊子は君たちに任かす』と笑つて、一人で早く去つた。散歩は日比谷公園。芝公園。築地河岸。等々。……(※写真は「読売新聞」大正3年3月12日社告)
 俊子『上野へ行つてみない?』
 作者自身『あんたの家(※谷中)の近くになるから、いやだ。』
 俊子『新富鮓食べに行かない?』
 秋聲『女と一緒に物を食ひに行くのは、いやだ。』
 俊子『か…つ…て…に…し…や…が…れ。』(一字々々切つていふ。膨れた真似をして。他愛もない)〉

 ここだけ見ると、小剣、秋聲のタッグ、わるいですね…! 秋聲の読売復籍は大正3年のことですから数えで44歳。小剣41歳、俊子31歳。俊子の悪態が愛らしいやら切ないやら…。似た話で「青空文庫」さまにて、大正5年4月28日「大阪毎日新聞」夕刊掲載、薄田泣菫の「茶話」に「俊子の道連れ」というのを見つけました。

 〈小説家の田村俊子は自分でも書いてゐる通り、主人の松魚はそつちのけに、よく他の男と散歩に出掛(でかけ)る。同じ小説家仲間の徳田秋声、上司小剣、正宗白鳥などもちよい/\そのお相手になるが、こんな人達が皆みんな揃つて一緒に出掛ける時になると、男三人に女一人だけに、そこはまた不思議なもので、俊子が誰と誰との間(なか)に挿(はさ)まるかが一寸問題になる。(以下略)〉

 〈男と女〉の付き合いのややこしさ…。続きもぜひ上掲リンク先からお読みください。並びはどうあれ、この四人がよく連れ立っていたという周囲の証言(ゴシップ?)のひとつです。





コナンくんデビュー
  2025.3.9

 毛利小五郎さまはじめ名探偵コナンくん関係者ご一同さま、ご来館ありがとうございました…!!(前回記事の続きはお休みします。申し訳ありません!) 昨日のアニメ放送に当館がばっちり映っていると思ったことがすべて妄想でないことを祈ります。「期待」ないし「覚悟」という名のシミュレーションが行き過ぎて、夢か現実かわからなくなることが多々ありますので、録画を再度見返したり、TVerを利用するなどして、その境目を折々に確認することといたします。この記憶が確かであれば、梅ノ橋から外観から各展示室にいたるまで…まるで写真と見まがうクオリティで再現していただいており驚きました。受付さんによれば今朝いちばんの入館者さまが、アニメと同じ~!と喜んでくださったそう。秋聲に恋愛小説の名手というイメージはあまりないため、たぶん小五郎のおっちゃんが当館アプローチでお感じになった恋の予感はこの先うまく転ばないとは思われますが、前編でこれだけしっかりご紹介くださったおかげさまで、記念館一味、来週の後編につきましてはもう安心して謎ときに集中出来ようかと存じます。15日(土)までの一週間、ともに登場していた中村記念美術館さま、その他施設のみなさまと肩を組みあって喜び合いたい心もち…また一緒に盛り上がってくださった全国の秋聲会(概念)のみなさまもありがとうございました。
 ちなみに過去、犀星記念館さまのご登場時、無関係の当館が外野からひどくはしゃいだ寸々語「文学館に行こう!」(2020.2.16)によれば、その放送回は「加賀令嬢ミステリーツアー」、第969回にあたります。2001年から全国各地で開催されている「名探偵コナンミステリーツアー」において、各ヒントパネルの設置会場などが、その謎の解決篇として放送されるアニメ回に登場する…という趣向のご企画で、今回はたまたま当館にお声がけいただいたという次第です。よって、特別に秋聲とコラボというわけではないのですが、ご参加のみなさまはさすがのミステリー好き、期間中、当館に設置しているクイズラリー(内容は秋聲に関することのみ)の参加率が異様に高い、という数字が興味深く、コナンくんパネルだけでなく、あわせて展示も熱心にご覧いただけたようでたいへんうれしい限りです。関係者のみなさま、ご来館くださったみなさまに厚くお礼申し上げます。と、終わったような空気を出してしまいましたが、ツアー開催は14日(金)まで。まだまだコナンくん、いてくれますよ!





隙間から秋聲
  2025.3.7

 1日(土)、俊子展最後の展示解説を終えました。ご参加のみなさま、新聞社さんのご取材にご協力くださったみなさま、ありがとうございました。早いもので来週いっぱいで会期を終了いたします。また、それに先立ち昨秋より当館に住まう名探偵コナンくんも14日(金)を最後に米花町にお帰りになるそうな…「秋聲記念館にいるコナン像」というなんともシュールな絵面をまだご覧になっていないみなさま、もう一生ないかもしれない取り合わせですので、ぜひ駆け込み入館お待ちしております。ちなみに明日8日(土)と翌週15日(土)、前後編に分け「石川よるまっしミステリー」編が放送されるとのこと。予告を拝見しましたら、現在、小五郎のおっちゃんが住まう中村記念美術館さまの喫茶室っぽいところが映っていた? あれ違う?? といった様子でした。あわせて当館が出るやら出ないやら……何せ期待しすぎるとがっかりするという星のもとに生まれついている記念館一味ですので、ごく平常心でもって5分前くらいに鼻歌なんぞ歌いながら両日テレビ前待機いたしたく存じます。
 さて、俊子。今回展示にはお出しできませんでしたが、すっかりお馴染み「読売」組の上司小剣による戯曲調の回顧録『U新聞年代記』(昭和9年、中央公論社)の口絵には、小剣・白鳥・秋江・秋聲と俊子がともに収まる集合図が掲載されています。元になるクリアな写真がどこかにあるのか、かなり解像度に問題のあるヌルヌル漫画調ではありますが、見慣れた秋聲、花袋、白鳥のお顔はすぐにわかりますし、俊子の意志あるカメラ目線も愉快です。〈U新聞文芸部を中心とした或る夜の会合。カフェ・ヨーロッパ(以下略)〉とキャプションが添えられ、ありがたいことに出席者名も。〈(前列向つて右から)人見東明、小川未明、田山花袋、上司小剣、中村星湖/(中列同)仲田勝之助、田村俊子、岩野清子、正宗白鳥、滝田樗陰、近松秋江、五來欣造、本間久雄、岩野泡鳴/(後列同)土岐善麿、徳田秋聲、中村武羅夫〉とのこと。
 本文の第七景は「徳田秋聲」。また後のほうには、秋聲、俊子のいる読売時代にも触れられています。                       
                                (つづく)





「秋聲探究あれこれ」受付開始
 2025.3.1

 本日より4月12日(土)開催、小林修先生のご著書『徳田秋聲探究』(文化資源社)刊行記念トークイベント「秋聲探究あれこれ」のお申込み受付開始です! 先日からちょこちょこと本書の装丁や内容についてご紹介をしてまいりました。その際に書き漏らしました重大な情報、もしやもうお手元におありのみなさまにおかれましては本書の裏表紙をご覧になりながらお読みください。そこに丸で囲まれた見慣れぬ女性の後ろ姿…これがなんと昨年の高浜虚子展にて執拗にご紹介をしておりました虚子の推薦で「国民新聞」に連載された秋聲『新世帯』初版カバーからとられたものであるという…! 
 昨年ちょうど虚子展を含む形で開催していた三文豪館スタンプラリーの景品も秋聲分は『新世帯』初版を模したものにしていたのですが、お持ちの方はご存じのようにカバーなしの本体デザインを用いて作成しておりました。ざらりとした白い表紙に「新世帯」の三文字だけが素っ気なくあしらわれたシンプルなあれもあれでとても「新世帯」感があって好ましいところながら、カバー付きがあればきっとそのカバーデザインをこそ再現したことでしょう。そう、当館で二冊所蔵する『新世帯』(明治42年、新潮社)はいずれもはだかんぼうだものですから、裸本の姿で作成せざるを得なかったのです。それすなわち、カバー付き『新世帯』が非常にレアだということ!! 
 こちら小林先生のご所蔵品だそうで、文化資源社さまも交え、あれこれやりとりさせていただく中で全体像も見せていただきました。無造作な雰囲気はそのままに、しかし表紙と裏表紙で微妙に異なる日本髪の女性が描かれているという粋な仕込み方(何せ旧題は「三人暮し」。二人の女と一人の男の物語です)。
 以前、寸々語で秋聲の絶筆「古里の雪」を収録した同題の短編集『古里の雪』(昭和22年、白山書房)について、〈カキ餅柄の本体のほか雪印柄の函・帯・ピロリの3点が揃っていればかなり良いお品〉とご紹介したことなども思い出し(「祝・『偉人館雑報』更新」2021.4.20/※ピロリ=装丁についての解説を付した名刺大の付属品)、いやいや三点では不足であった、カバーも入れて4点であった、とここに訂正せねばならぬのでした。というわけで『新世帯』に関しましては、この本自体もなかなか市場に現れなかった記憶があるうえ、それがカバー付きならばいっそう鼻息の荒くなる逸品であるよということをお伝えしたい本日です(異装本もありそうな…)。



 

関西大学博物館 春季企画展「ジャズとダンスのニッポン」
  2025.2.27

 前回記事でダンスの話題に触れました。ご存じ、秋聲の晩年の趣味は社交ダンス。それに関連いたしまして、このたび関西大学博物館さまより春季企画展「ジャズとダンスのニッポン」のご案内をいただきました! 昨年末にこの展覧会の図録的な立ち位置にある永井良和先生のご著書『ジャズとダンスのニッポン』(関西大学出版部)をご献本賜り、中で当時の文士たちとダンスとのかかわりを論じる章「文学者とダンス」の副題にあがる名の一覧はこう→「谷崎潤一郎・久米正雄・奥野他見男・村松梢風・稲垣足穂・萩原朔太郎・室生犀星・永井荷風・菊池寛・吉井勇・斎藤茂吉・徳田秋聲・國枝史郎・坂口安吾」…ハイ、秋聲ちゃんといました!一安心! 続きまして次章「関西のダンスホールと文学者、文筆家」の副題にあがる人々がこう→「國枝史郎・三島由紀夫・徳田秋聲・藤澤桓夫・織田作之助」…ハイ、またいました!大歓喜! 本書および同じ永井先生のご著書『ゲイシャのドレス、キモノのダンサー 日本のタクシーダンス・ホール 大正・昭和戦前篇』(ふみづき舎、令和6年)などでご紹介くださっている秋聲の関西ダンス文化とのかかわりについては、恥ずかしながら館の方でほとんど押さえられておらず、食い入るように拝読したものです。
 唯一、パッと思いついたのは昭和9年の回顧録『思ひ出るまゝ』の第3章「郷里にて」。金沢へ向かう前の京都で、時間調整のため東山の踊り場を覗きに行ったと記されます。〈私はダンス場の気分が思つたより好いので、五回だけ踊つて出るつもりで、最初チケツを五枚を買つた。入場券に二枚ついてゐるので、詰り七枚だが、直きに踊つてしまつた。〉…ここに関西のダンスホールに出没し、気持ちよく踊る秋聲(64歳)の姿が確認されます。展示の方に秋聲のしゅの字が登場するかはわかりませんが、おそらく当館でこれまでにご紹介してきた中(東京の八大ダンスホールがメイン)には含まれない、新しいダンスホールとの出会いが待っていようかと存じますので、ご興味おありの方はぜひぜひ上記の企画展へお出掛けください。
 会期は4月1日(火)~5月31日(土)まで、入場無料です(休館日にご注意ください)。また会期中、永井先生によるご講演やSPレコード演奏会もありますよ! 
(※上掲、画像クリックでチラシのPDFが開きます) 





吉屋信子の五百円
  2025.2.26

 最近、入手いたしました雑誌「読売評論」第2巻第5号(昭和25年5月)。ここに前回記事からお名前のあがっている『縮図』のモデルで、秋聲の妻亡きあとの“二人目の恋人”とも言うべき小林政子の回顧録「『縮図』のモデル・銀子―徳田秋聲先生の思い出―」が掲載されています。しょっぱなから『縮図』冒頭、あの有名な銀座・資生堂での食事シーンについて〈打明けていふなら、食事をしてゐるのは先生とわたしとである〉とかなりのパンチ力をもった内容で、〈銀子〉のモデルはほぼ私、〈均平〉は秋聲を素材とした〈作り物〉と述べられます。それから秋聲の“一人目の恋人”であった山田順子から手渡されたメモのこと、秋聲から習うよう言われたダンスのこと、原稿料が入ると御馳走してくれる鯛茶のこと(秋聲はうなぎ)、時々凶器になるステッキのこと、原稿用紙と万年筆の入った折鞄をどこへゆくにも絶対に手放さなかったこと、「チビの魂」のモデルとなった少女のこと、夜中の執筆作業用に政子が用意した鳥のひき肉とゆばを甘辛く煮た夜食を必ずたいらげたこと、秋聲没後の生活のこと、などなど。そんな多くの情報量の中に、ふわりと現在の企画展の主役・田村俊子の影がよぎったのが、吉屋信子に頼んだ借金のくだりでした。昭和10年代、政子が芸者屋の経営にゆきづまった挙句、秋聲を通じて吉屋信子に千円を借り、その三か月後どうにか半分だけを返しにゆくと「もうこの五百円だけで結構です」と借用書を返してくれた、というエピソードです。 
 似た時期に俊子(帰国後)も信子に借金を申し込んでおり、信子の『自伝的女流文壇史』(昭和37年、中央公論社)からパネルに引用してご紹介しています。〈その珍客は客間にゆったりと腰かけ、茶菓を喫したのち、この人のゆっくりして粘り気のある語調で、「五百円貸して頂戴」(中略)特別飛切りの一、二の大作家でもない限り、稿料はその頃一枚五円なら不平は言えぬ標準だった。百枚書かねば五百円にはならない。思えば怨めしい。〉――とは言いながら、伝説の女流作家の依頼を光栄をとらえ(ようとし)た信子は時間をもらってなんとかこれを捻出、俊子に〈贈呈の覚悟〉で献上した、と書かれています。政子(秋聲)と俊子、同じ“五百円”にまつわるお話でした。
 ちなみに俊子はこの後、信子を間に立たせて菊池寛にも借金を申し入れさせたようですが、寛には「ぼくはあのひと嫌いなんだ」と言ってあっさり断られたそう。





小林 修『徳田秋聲探究』バースデーパーティー
   2025.2.24

 先日、情報を解禁いたしましたイベントにつきまして改めてご紹介です。あさって発売、小林修先生のご新著『徳田秋聲探究』(文化資源社)のバースデーパーティーこと刊行記念トークイベント「秋聲探究あれこれ」が4月12日(土)に開催決定です! 販売に先立ち、ご献本いただいた同書を拝見すると、その美しい装丁担当は当館オリジナル文庫でもおなじみ金沢在住のデザイナー南知子さん。そして本を開けば、金沢に建つ館としてとても有難い、郷里金沢における秋聲のルーツから語り起こされます。
 そもそも実物をみる前から、ネット各所で見かけるその宣伝文句に煽られに煽られていたのです。「墓石に記された未詳の義母と最後の愛人:小林政子とが繫がる細い因縁とは?」…とは?? いつもぼんやりな当館、しばらくぽかーんとしていたものですが、本書を読めばなるほど納得、時空を超えたダイナミックなご考察にハーーン!と大きく膝を打つこと間違いなしです(図版多めも嬉しいポイント)。また昨日記事でも触れました、秋聲最後の長編小説『縮図』のモデルこそ小林政子。その『縮図』論が第二章で(珍しい政子と秋聲の写真も)、戦中戦後の混乱のなか数々の苦難を乗り越え一冊の本になった『縮図』の影に、秋聲亡き後の長男一穂の奮闘あり、版元・小山書店の心意気あり、中でも“幻の初版本”をめぐって、館所蔵の『縮図』(複数あり)を改めて見返したくなるドラマチックかつ緻密な考証が続きます。そして当館オリジナル文庫新刊に収めた「春の月」から始まる第三章「秋聲と日露戦争」。後半には、前回記事で触れた久米正雄と学芸自由同盟関係資料が紹介され、いつかの「秋聲の戦争」展で小林先生からその貴重な機関誌および久米と日本文学報国会資料をお借りして公開させていただいたことも思い出されます。
 第四章「通俗小説への意欲」、第五章「全集・原稿・代作・出版」…と、もちろんこれまでのご発表論文の単行本化につき(書下ろし含む)初めて目にするわけでないのですが、「秋聲の本名は末雄です」と諳んじて言えるようになるまでそれなりの時日を要する脳みそにとり、こうして一冊にまとまっていることの有難さといったら…。今に残された資料からフッと当時につれていってもらえるような、資料とはこう見るもの、という学びを得ると同時に、読み物としても心がどきどきする面白さがございます。
 4月12日(土)、小林先生を囲み、あれこれ伺いつつぜひこの喜びをともに分かち合いましょう。3月1日(土)お申込み開始です!





みかんと薬
  2025.2.23

 前回、田村俊子の風邪に関し、寸々語1月23日記事にも入院話がある、と書きました。記事の前半は大正4年2月末の入院時のこと。そこで俊子が薬の代わりにみかん食べてます~と秋聲に報告したことに触れ微笑ましく思っていたものですが、昨日資料整理をしていてふと秋聲の次の言葉が目に留まりました。
「不幸になると私は女の必要を感ずるが、これは頂度、熱がある時に、蜜柑が欲しくて耐らないやうなものだ。」
 アラッ、秋聲もみかん派!(ただし薬も普通に飲める、むしろ好きな方だと思われます) これは作家・武野藤介のゴシップ本『文壇余白』(昭和10年、健文社)中、「庇痴繰警句抄」にある記述で、佐藤春夫や武者小路実篤から始まり、秋聲、井伏鱒二、武野自身で締められる計20名の文士たちの言葉が載って(引かれて?)います。ゴシップ本なのでどこまでどうか実際のところはわかりませんが、秋聲に関しては他にも昭和7年、藤澤清造の死を受け秋聲や久保田万太郎らが中心になって葬儀の手配をしたこと(本当)、昭和8年、学芸自由同盟結成時、幹事長を久米正雄に押し付けられたこと(本当/新刊・小林修『徳田秋聲探究』に一章あり)、山田順子や小林政子(「縮図」のモデル)との関係性などなどが語られるうち、へぇと思ったのが次の記述です。
〈文壇に近頃珍らしく美談を聞く。徳田秋聲老が発起人となつて、雑司ヶ谷の墓地に、没後十年、早くも墓標の朽ちかけてゐる岩野泡鳴の碑を、建立しようと云ふのだ。「遺族が余り冷淡過ぎる」と云つて、自分達の知つたことぢやないとばかりに、顔を背ける者があるかと思ふとまた一方では、思ひ出したやうに、故人の無宗教哲学を担ぎ出して、その基金の募集に「いゝ顔」を見せない者もある。が、秋聲老のあのネチネチした根気にはかなはないらしい。どうやら泡鳴碑が実現される模様である。地下の半獣主義者も微苦笑してゐることであらう。〉…恥ずかしながら、このお話は把握しておりませんでした。今後気にかけ、周辺事情を調査してゆきたく存じます。 
 大正9年、泡鳴が亡くなった時、秋聲はいくつかの追悼文を寄せるほか、『文壇余白』と同じ昭和10年の随筆「雑筆帖」にふたたび彼との思い出を綴っています。
 〈泡鳴氏の死も私には寝耳に水であつた。暫くやつて来ないので、訪問したことのない巣鴨の家を訪れると(中略)風邪で服薬してゐたが、もう快くなつたから薬は止めると言つた。しかし、何だかちよつと弱つてゐるので、薬は止さない方がいゝだらうと私は注意した。(後略)〉――奇しくも、冒頭の話題とつながりました。
(※写真は講談社『徳田秋聲集』(日本現代文学全集28)より、秋聲にもたれる泡鳴/明治43年、長谷川天渓外遊送別会にて)





祝・『読売新聞よみうり抄』大正篇(第一巻)発売!②
  2025.2.21

(承前)といったわけで、〈「よみうり抄」の記事は聞き書きを含み、予定や噂に留まる人物彙報も掲載された〉と巻末解説にもあるとおり、これらが実際に為されたものかという点においては重々その裏付けをとらねばならぬ記述も多く含まれるわけですが、とはいえ火のないところに煙は立たず、調査の足掛かりになることは間違いありません。そして真であれば新発見、偽であっても単なる〈誤報〉と切って捨てられるべきでなく、結果的に何故〈誤報〉になったのか、という過程を埋めてゆく作業がまた意義深し…と、やはり巻末解説を拝読しながら深く頷いております本日です。とりいそぎ秋聲の項だけを先に拾い読んでしまう習性を反省しながら、このころ他の人はなにをしていたやら…と隣近所に目を移せば、あ、小寺菊子が旅から帰ってきてる…、島崎藤村が引っ越ししてる…、田村俊子が風邪ひいてる…(大正2年3月16日のこと。秋聲が贈った快気祝い云々という日付不明の書簡の手掛かりになるかもしれません/「寸々語」1月23日記事参照)、などと当時の文士たちの近況がリアルタイムで感じられ、ついいつまでも読み耽ってしまうのでした。
 これを自分でぜんぶ誌面から拾ってゆこうとすると大変な作業量。実際、その大変な作業量の結果としてこちらの御本が出来上がっているのですから、編集にあたられたよみうり抄研究会様と文化資源社様には感謝の念をささげるほかありません。奥付の記述にもちょっとした遊び心を感じ、つくり手さまのお人柄が感じられます。こちらは館でお取り扱いをするにはやや高価なため(17,600円税込)ショップに入荷せず恐縮ながら、閲覧用としてしばらくディスプレイ予定ですのでぜひお手にとってご覧ください(きっと手元に置いておきたくなるはず…)。
 ちなみに大正2年の本日2月21日(金)はこんな日でした。
「森鷗外氏 訳の『恋愛三昧』は近代脚本叢書第一篇として現代社より一両日中に出版の筈なりしが昨朝の火事にて製本所と共に焼失す」…えっ、そうなんですか??(と、寡聞につき、ここから裏を取りにゆく)





祝・『読売新聞よみうり抄』大正篇(第一巻)発売!①
  2025.2.20

 先日からずいぶんと「読売新聞」づいたところで、満を持してお役立ち新刊のご紹介です。2月10日記事でご紹介いたしました小林修先生の『徳田秋聲探究』と同じ文化資源社さまより、『読売新聞よみうり抄』大正篇(第一巻)がついに発売!! 本書が『徳田秋聲全集』を刊行された八木書店の元担当編集者さまによるお仕事といったご縁により、このたび出来立てほやほやの同書もあわせてご寄贈たまわりました。タイトルのとおり「読売新聞」に掲載された雑報欄「よみうり抄」を網羅的に収集した全5巻のうちの第1巻。巻末解説によれば明治31年、島村抱月が創設したコーナーで、ただし文学界の時事を述べる創設当時の形は結構な文章量。それが大正期になり、芸術界に属するさまざまな人々の消息を端的に述べてゆく形に変わってゆき、諸先生方の近況がパスッと伝わる彙報欄として根付いたようです。
 たとえば大正3年1月10日(土)は、われらが秋聲から始まります。
「徳田秋声氏 は昨日木更津から帰京して十六年目に本社に復社した」…まさに前回記事と現在の俊子展に繋がるところ。紅葉の斡旋により、明治32年からちょろっとだけ在籍していた秋聲の同社への復籍が伝えられています。続きまして同年3月8日(日)、
「徳田秋声氏 は嘗て中央新聞に連載した『無実』を欣々堂から出版する」…ちょっとこの作品名にピンと来ないのですが「中央新聞」の方から見てゆきますと、大正2年、同紙に「冤」という作品を連載しており、これのことを指すのでしょう。『冤』なる単行本も当館に所蔵なく、実際に出たのかどうか? その次は4月4日(土)、
「徳田秋声氏 は『新潮』五月号のために四十余枚の短篇小説『薬』を寄稿せり」…うーーん、「薬」…これまた全集の著作目録に掲載なく、このころは主に記者生活をしていてあまり小説を書いていない時期にあたりますので本当にあるのかないのか…同じパターンで4月23日(木)、
「徳田秋声氏 は三十余枚の短篇小説『亜鈴』を脱稿し『新日本』に寄稿せり」…亜鈴?? なに?? 続いて5月16日(土)、
「徳田秋声氏 は七月の『中央公論』脚本号のため三幕物の脚本を執筆すべしと」…書いています! たしかに! 「立退き」というのを!!    
                                 (つづく)
 




紅葉と半古と古径
  2025.2.17

 前回記事の続きです。「梶田半古の世界展」図録には、秋聲書簡同様、初公開資料として半古筆 紅葉宛書簡3通、そして「読売新聞」主筆をつとめたこともある高田早苗筆 紅葉宛書簡も掲載されています。これ以前に半古の読売入社について紅葉から相談されたことを受け、社で相談した結果お受けしますよ~との返答ではなかろうか、と解説が付されており、参考文献にあがっている添田達嶺『半古と楓湖』(昭和30年、睦月社)を見れば〈高田博士と紅葉山人は余程親しかつたらしくまるで兄弟のやうに懇意にして、それが山人の死ぬまで続いたので、紅葉とその作品に就(つい)ては高田博士が誰よりも精(くわ)しく知つて居られた筈だし、その紅葉山人の推薦で半古も読売社に入社した〉とありますので、どうも秋聲の読売入社と同じルート(紅葉→高田)を踏んだもよう。半古は明治30年頃から在籍? 秋聲が在籍したのは明治32年末~明治34年春までの一年ちょっと。半古の正確な歩みがわかりませんが、このあたりで仲を深めたことは間違いなさそうです。
 前掲書には、紅葉との縁から半古のもとに〈硯友社の同人達や紅葉門下の小栗風葉さんや徳田秋聲さんなどもチヨイチヨイ遊びに来た。その頃の秋聲さんは津久土八幡の裏あたりに下宿してゐて、挿絵を頼みに来たのを記憶してゐると前田青邨さんが語っていた〉とも記されます。青邨は、明治32年、紅葉の紹介で半古に弟子入りとあり、秋聲が津久土八幡に住んでいたのもちょうどこの頃。同38年連載の風葉「青春」挿絵を半古が担当したとき、すでに挿絵の仕事に興味を失っていた師匠の代筆もしたとかしないとか…。そのくだりに再び登場するのが秋聲で〈明治四十年の十月から読売新聞に載った徳田秋聲の『凋落』にも半古は筆を執つたが、此挿絵には余り乗気がしなかつたらしく、読売新聞に対する多年の義理で余儀なく引受けたらしかつた〉…おぉ…みんなに敬遠されている『凋落』(前々回記事参照)…調査不足で、すぐにその挿絵をお出しできず恐縮です。いちどこの辺り、きちんと整理をする必要がありそうです。
 弟子繋がりで、青邨のほか半古の優れた弟子のひとりに小林古径がいます。令和2年秋、ご遺族による半古の墓仕舞にともない、東京・染井霊園にあった弟子たちによる記念碑「梶田半古先生之碑」(古径揮毫)は上越市にある小林古径記念美術館さま敷地内に移設されたと聞きました。今は愛弟子である古径の記念碑と並んで見ることができるそうです(写真は移設前/ご遺族提供)。



 

硯友社文庫「開館1周年記念講演会」のご案内
 2025.2.16

 ご丁寧にご案内をいただいておりながら、うかうかと日を過ごすうちこちらでのご紹介がすっかり遅くなってしまいました。今月23日(日・祝)。東京の和洋学園 硯友社文庫さまにおきまして「開館1周年記念講演会」が開催されます! 一昨年、開館記念式典にうかがってから早一年…昨年の館報に朗報として掲載させていただいたことを思い出します(今年度の館報を編集中です)。出口智之先生(東京大学大学院総合文化研究科准教授)による記念講演「硯友社の作家たちと口絵・挿絵―絵の中に隠された謎―」、これはべらぼうに面白そうです。急なご案内となって恐縮ながら、ご興味おありのみなさま、ぜひぜひ急ぎお申し込みください。 
 当日、秋聲の話題が出るかどうかはわかりませんが、硯友社まわりの作家のひとりとして、たとえばこの頃の秋聲の著作『雲のゆくへ』(明治34年、春陽堂)と『後の恋』(明治36年、春陽堂)の口絵および「読売新聞」連載時の挿絵はいずれも梶田半古が手掛けています。ははーん、この時期、半古もまた最近寸々語でよく話題にしている「読売」組! 明治33年「雲のゆくへ」の後には、同紙連載の紅葉「続々金色夜叉」の挿絵も担当。また、これと前後して明治31年、紅葉の媒酌により紅葉門下の北田薄氷(うすらい)と結婚した半古ですが、彼女との生活は長く続かず、二年後、25歳という若さで薄氷を病により喪ってしまいます。翌年、半古がその作品をまとめて刊行した『薄氷遺稿』(明治34年、春陽堂)には秋聲執筆による「薄氷女子小伝」が収録されており、この頃の彼らの交流のさまが窺えます。
 さらに、より直接的な交流を示す資料として、平成6年、そごう美術館で「梶田半古の世界展」開催の折、秋聲の長編小説「焔」に関し、「国民新聞」連載時に秋聲自ら半古に挿絵の構図を指示するはがきが出品されたことがありました。ありがたいことに図録に文面部分の画像掲載があり、秋聲がこんな注文をつけていたことがわかります。〈今度は又今一人の婦人が襖蔭から内を覘く、其女は凋(しな)びたような眉尻の下がつた、目の凹んだ小い女。羽織を著てゐる。束髪は庇をやゝ大きく取つてある〉…この時の実際の挿絵((二)其の六/明治40年3月27日)を見れば、とても忠実に再現してくださっている気がいたします。 (つづく)
 




黄色い仲間
  2025.2.10

 秋聲と黄色といえば(前回記事参照)、大木志門編『月日のおとなひ 徳田秋聲随筆集』(2024、手のひらの金魚)および大木志門著『徳田秋聲と「文学」』(2021、鼎書房)でしたね! うっかりしており申し訳ございません。いずれも黄色い表紙が華やかなこの二冊、館内ショップでもお取り扱いをさせていただいております。
 また同じ日、秋聲なんて〈黄ばんだ葉〉しかないよ~とXで雑に呟きました瞬間、その直前にリポストした文化資源社さまのアイコンが黄味を帯びていることに気が付きました。よく見れば黄色い菊に彩られた真ん中に「小林修『徳田秋聲探究』」と記してあります。こ、これは…! 秋聲研究者・小林修先生のご新著…!! あしらわれているのは秋聲の短編集『勲章』(昭和11年、中央公論社)外箱に描かれている菊ですね(深澤索一装丁)。ここに超強力な黄色を発見いたしました。
 右下の丸いイラストは『凋落』(明治41年、隆文館)の小峰大羽による装丁より。家庭の臭みを醸す妻との〈ラブ(LOVE)〉のない新婚生活から逃れたい男が芸術を志す若く美しい女性に心を傾け、やがて凋落の一途を…といった筋の長編小説です。俊子展の関係で先日から何度となくご紹介している「読売」組(秋聲、小剣、白鳥)から、こちらは正宗白鳥在籍時に同紙に連載された作品で、その時のことを白鳥が名著『自然主義文学盛衰史』に記しています(下記、講談社文芸文庫版より引用)。
 〈私が読売の文芸面を担任していた頃、彼の『凋落』と題する小説が連載されだした。秋江がそれを批評して、「書きはじめから凋落の有様ばかり出ているので面白くない。」と云って、その論旨を新聞に寄せて来たので、私は、「自分の新聞に出している小説の悪評を、自分の新聞に出す法はない。」と云って拒絶したのであったが、秋声は、『黴』だの『凋落』だのと、不景気な題をつけたがるのであった。当時の自然主義作家の作品は、陰鬱でじめじめしているのが多かったが、秋声のも大体うっとうしいものであった。独歩は茅ケ崎の病院で、「僕ら病人は、秋声君の小説のような陰気なものは読む気になれない。」と云っていたが、自然主義作家のものは、文壇での評判はよくっても、多数の読者に喜ばれないのは当然であった〉…止まりません、白鳥節が止まりません、そして引用する手も止まりません…! というわけで、そんな陰鬱な『凋落』印を菊の黄色でふんわりカバーしてゆく小林修先生の美しい『徳田秋聲探究』、2月21日の発売です!
(記念館でもお取り扱いの準備を進めておりますし、春には刊行記念イベントも開催予定です。)





黄色と秋聲
 2025.2.6

 おとといMROラジオ「あさダッシュ!」さまに学芸員がお邪魔してまいりました。その日のトークテーマは「黄色」ということで、秋聲と黄色…とずっと考えていたのですが思いつかず、記念館と黄色…と切り替えすぐに浮かんだのが事務室の物置でした。毎年12月23日の秋聲のお誕生日(旧暦)を迎えるごとにひとつずつ積みあがってゆく黄色い大きなサブレ―缶…。名誉館長からの逆プレゼントとして中身がお客様のもとに飛び立つかわりに、タオルやら洗剤やら館のこまごまとした備品を保管させていただいております。
 そんな話を枕に、メインは以前にこちらでもご紹介した第1回田村俊子賞受賞作・瀬戸内晴美『田村俊子』から金沢出身の山原鶴(たづ)さんのお話とさせていただきました。噛み砕けば、秋聲と俊子と柘榴のお話。徳田家のシンボルツリーとしての柘榴…と思えば、俊子を描く短編「女流作家」を収録した新刊『短編集3』に同じく入っている「潮の匂」にもそっと出てきているのです。〈山野は何だか自分の仕事に坐れそうな幸福を感じながら、柘榴の花の落ち散った庭を眺めていた〉ってね…。と、そんなこんなに思いを馳せておりましたら、肝心の柘榴を詠んだ俊子の俳句短冊のご紹介をわすれました。早いもので俊子展の会期も残り一か月ほど。今は雪がすごくてとても気軽にお誘いできませんが、俊子の貴重な自筆資料、ぜひ会期終了までにご観覧くださいませ。
 柘榴といえば、八木書店版『徳田秋聲全集』の外箱にはすべての巻で異なる動植物があしらわれており、柘榴の実もございます。第33巻がそれで、この装画は近松秋江の親戚にあたる日本画家・徳永春穂の手になるもの。ちなみに第33巻には大正9年~10年にかけて「婦人之友」に連載された長編小説「闇の花」一篇が収められています。家にお預かりしている大事な娘さんと関係をもってしまった著名な教育家の遠野博士(既婚)…といった〈最もセンセイシヨナル〉(秋聲談)な物語で、その花の色どんな色――と冒頭から斜め読みしてゆきますと、〈鳶色(とびいろ)の往来〉、〈ルビイ色をした甘い酒〉、〈空は淡碧(うすあお)く〉、〈黄ばんだ葉〉、〈蒼(あお)い煙〉、〈淡紅色絹縮(きぬちぢみ)の細紐〉…ハイ、出ました〈淡紅色(ときいろ)〉です。黄色と秋聲にたどりつけなかったあの日、万一「じゃあ秋聲の好きな色は?」と訊かれた時用の答え、「淡紅色(ときいろ)」の登場(秋聲作品に頻出)です。





「三文豪のナイショ話」第2回
  2025.2.2

 本日、「北國新聞」さま朝刊に「三文豪のナイショ話」第2回=秋聲回をご掲載いただきました。文壇デビュー順にて先月は某K花館さんの現在の全集展にもつながるエピソードとお正月話、今回が秋聲、そして来月は犀星館さんのご担当です。向こう一年ほどは続きそうな有難い枠を作っていただきましたので、この機会に秋聲によりご関心を寄せていただけるよう努めてまいります。
 今回は、昨日2月1日が新暦お誕生日ということで、旧暦12月23日、戸籍上の12月1日、と誕生日が3つある秋聲についてご紹介する内容といたしました。とはいえ、このあたりが「ナイショ話」で、恥ずかしながら記念館といたしてもこの背景についてすっきりとしたご説明を提示しかねるのですけれども、そんな実情とともに年に3回お祝いするチャンスがある、とポジティブに受け止めていただけましたら幸いです。
 また、記事のお尻でも予告いたしましたとおり、次回3月からの企画展では、昨年3月に閉校した馬場小学校から、閉校を機に当館に移管された資料を公開いたします。数量としてはそれほど多くないのですが、秋聲自筆の俳句幅のほか、何より校庭にある「文学の故郷」碑の碑文原稿(軸装)が次回展の目玉となります。馬場小(秋聲在籍時は養成小学校)の卒業生である某K花さん、尾山篤二郎、秋聲の三人の顕彰碑で、昭和45年、同校創立百周年を記念して建設されました。その揮毫はかの川端康成。馬場小さんの折々の記念イベントや、過去に石川近代文学館さまで公開されたことがありますのでこれが初公開ではありませんが、当館で展示するのは初めてです。この貴重資料とともに、建設の経緯、そして秋聲晩年の馬場小再訪についてご紹介いたします。
 先日もすこし馬場小さんにお邪魔してまいりました。前庭にある「文学の故郷」碑にもご挨拶を、とお寄りして、もう何度も撮影しているのですがなんとなく行くたびに撮ってしまう三人の略歴を記した案内板にヒョコッとフレームインする愛らしい山茶花。季節ごとの味というものがありますね。ただ今回この碑について学ぶなかで、ア~これまでの撮影の仕方、碑の見方が間違っていたワ~ということがございました。それはまさに、卯辰山の秋聲文学碑をまんなかの棒一本(石柱)のみにフォーカスして撮影してしまうがごとく…展示開催にあたり、そんなお話も追って記してまいります。





徳田家のラジオ
  2025.2.1

 1月30日に秋聲と電気にまつわる記事をあげたのですが、その日は「3分間電話の日」であったことを後から知りました。本来、電気でなく電話について書かねばならぬのでした。そして本日2月1日は「テレビ放送記念日」であるとのこと。とはいえ日本にテレビが普及したのは戦後のことで、秋聲は戦中に亡くなっておりますので、あいにく秋聲とテレビエピソードは持ち合わせていないのでした(秋聲の新暦お誕生日だってのに、それにかかわる放送も本日とくにないのです。力およばずで恐縮です)。そのためまたまたちょっとずらしまして、本日はテレビでなくラジオについてのご紹介です(ちなみに例月のMROラジオ様への次回学芸員出演は4日(火)10時~です)。
 徳田家にラジオが導入されたのは大正15年2月18日のことのようです。なんとその関係書類が残されており、文庫より一回り小さいくらいのぴらりとした紙に「聴取無線電話施設許可書」と記してあります。これがラジオの受信許可書で、当時ラジオを聞くには機械を買って、申請して、逓信局からの許可を得なければならなかったもよう。大正12年の関東大震災によりこうしたメディアの重要性が認識されたとも言われており、日本での放送開始が大正14年3月22日ということですから(この日が「放送記念日」に)、徳田家への導入はそのざっくり一年後という雰囲気です。
 〈多分大正の末年であったと思う。初めてラジオを聞いたのは……。蓄音機も、そうであったが、ラジオも初めは、ラッパから音が聞えてきた。当時、新宿に聚芳閣という出版屋があって、そこの主人の足立欽一という人が、父のところへ親しく出入りしていて、その人がラッパ附きのラジオを持って来て呉れたのを覚えている。〉…徳田家のことを知りたければ徳田一穂の作品を読めばいい、でお馴染みの秋聲長男一穂さんによる「ラジオ追想」より(大木志門編『街の子の風貌 徳田一穂 小説と随想』収録/2021、龜鳴屋)。――おや!足立さんでしたか! と思った人にも思わなかった人にも親切な一穂さん、〈この出版屋には、『唐人お吉』を書いた十一屋義三郎氏、井伏鱒二氏なども勤めていたことがあった。その後、聚芳閣の主人は、父の長篇『仮装人物』の中で、一色という人物で登場して来るようになった〉…さて足立さんは何故急にラジオをプレゼントしてくれたのか、みなみなさま、本日は『仮装人物』をひもとく日とされてはいかがでしょうか。 





「ランプの灯」
  2025.1.30

 昨日お昼過ぎ、当館を含む東山一帯で一時的な停電がありました。数分で復旧いたしましたが、館内にいらしたお客様にはたいへんなご迷惑とご心配をおかけいたしました。今朝ほど確認をいたしましたら原因は「樹木の接触・倒木」と発表があり、昨日は今冬初めて界隈にしっかりと雪が積もりましたので、そのせいもあるのでしょうか。むしろ申し訳なかったのは、停電そのものより暗い階段の闇から(非常灯は点いています)ドドドドッと急に現れお客様に駆け寄っていった職員の勢いであったかもしれません。あきらかにビクッとされていたお客様のご反応を思い出すだに反省するばかりです。この場を借りて深くお詫び申し上げ、今後冷静な対応を心掛けたく存じます。
 さて、秋聲と電気ということを考えたとき、すぐに浮かんでくるのが大正3年8月30日の「読売新聞」掲載の随筆「ランプの灯」。
 〈物を飲食(のみくい)したり、友人と談(はな)している場合などには、部屋中に強い光をふるはしてゐる電燈の灯(ひ)も悪くはないが、読書や創作には私はランプの灯でなければ、如何〈どう〉しても気分の沈静が保たれない。それに電気の灯では目が弱つて、頭脳(あたま)が直(じき)に疲れてしまふ。夜の劇場が、非常な疲労をおぼえしめるのも、明い電気の光である。これからの新涼の夜分などには、電気の光は殊に相応しくない。私は水水したランプの光の下(した)に、細い虫の音(ね)などを聴きながら、ぼんやり物を考へてゐるのが一等好い心持だ。しかし私の近所のランプ屋は今は率(おおむ)ねランプをおかないことにしてゐる。あつても好いのはない。私のランプは久しい前に壊れて、遠くを捜す機会もなしに惨めな釣(つり)ランプで間にあはしてゐる。〉
 いつか某K花さんに「君も電気で書くんだ~行燈(あんどん)じゃないんだ~」などと軽口を叩いていた秋聲を思い出しながら(厳密には昭和15年の言。これよりずっと後の随筆「机上雑然」/「不定期連載」参照)そんな秋聲も行燈とまでは言わずとも電気の光よりランプ派ということでした(写真は新書斎の電気スタンド)。それこれ含め、あらゆる面でシュウセイズムを引き継ぎたいところながら、非常時にはとにかく明るさ優先。いざという時の懐中電灯の場所を再確認しておくことといたします。





「人民文庫」座談会
   2025.1.27

 先日ご紹介した昭和11年の秋聲・俊子の動向に、ひとつ抜けているピースがありました。「人民文庫」昭和11年11月号に掲載された座談会「散文精神を訊く」です。出席者は、秋聲・俊子のほか、広津和郎、武田麟太郎、渋川驍、高見順、円地文子。このうちの渋川が、実は俊子は参加予定ではなかったという背景について語ってくれています。座談会の開催は9月中旬、日本橋「偕楽園」にて(写真右から俊子・広津・秋聲)。
 〈その日、その玄関口に入ってゆくと、すぐそのあとから徳田秋声さんとその連れの少し大柄の容貌の整った上品な婦人が入ってきた。私はすぐ秋声さんに挨拶して、そのあとに従った。定められた部屋には控えの間があって、そこに乱れ箱があった。秋声さんはそのなかにかぶってきた中折帽子を入れようとされた。「おや、これは鉄斎の描いたものだね。なかなかよくできてるな。」と彼は帽子をひっこめて、それをしばらく熟視された。連れの婦人が振り返り見るあとから、私もそれに近づいて、乱れ箱を覗いた。そこには松の幹と枝が筆太に少し荒々しく、青と茶が入り乱れて着色されていた。(中略)座敷に入ると、すでに招待者の武田麟太郎さんといっしょに来たとみえる高見順君と、速記者らしい中年の人が着席していた。そのとき秋声さんが紹介された先ほどの婦人は、当時佐藤俊子といっていた田村俊子さんだった。前に編集部からこの話があったときは、彼女の名は聞かなかったので、多分秋声さんの推選であとから彼女が座談会のメンバーにえらばれたのだろうと思った。〉
 渋川驍『アカンサスの花』(平成2年、青桐書房)より、「乱れ箱」の章にある記述です。「乱れ箱」とは、手回り品や衣服を入れるための蓋のない入れ物のこと。
 座談会の最後で、広津和郎が俊子にこう訊きます。「佐藤さん、ゴシップだけれども、もう文学なんか誰がやるものかと言はれたといふのは本当ですか。」それに対して、俊子はこう答えます。「いえ、さういふことは言いません。文壇にはかへれないといふ……」
「しかしさう言ひたくなるやうなものなんぢゃないかな、文学といふのはね。」
「けれども書くといふ生活をすることは大変なことでせう? とにかくみんな体をこわすんですもの、それで。(笑)まつたく苦しい生活ですね。」
 ――そんな苦しい生活を案じた部分もあるのでしょうか、秋聲のこうした行動が、俊子を文壇にかえす一助となったかもしれません。





島中さんの御馳走
  2025.1.25

 逆に秋聲が見舞われるパターンの俊子からのお手紙も2通ございます。ひとつは大正3年9月13日付、〈いま瀧田さんが来て秋声さんハお体をわるくしてゐられますと云ひました〉とのことで、「中央公論」名編集者の滝田樗陰経由で秋聲の体調不良を耳にした模様です。この後〈それでは病気休載の病気は全くだつたのだなと思ひました〉とあるのは、この時秋聲が「読売新聞」に連載していた小説「密会」の同月7日・12日~14日の休載を指すものと考えられます。そして、字面だけ見れば現代の気候ではなかなか想像しにくいことながら、〈折からの冷えつくやうな秋雨〉(9月で!)につき、くれぐれもお大事にね~と続きます。また後半では、自身の近況報告として、樗陰にお尻を叩かれているけど書けない! とも訴えていて、人間同士、作家同士、互いに労り労わられする関係性がとても微笑ましい二人です。
 もうひとつは切手・消印のない差出年月日不明のもの。しかも署名も〈俊子〉および〈俊〉とあり、あ~田村時代か佐藤時代かもわからないや~と思っておりましたら、使われている便箋が「世界文芸大辞典用」「中央公論社原稿用紙」と印字のあるものでした。残念ながら現物の所蔵はないのですが、国会図書館の書誌データによれば、吉江喬松らの編集により昭和10年~12年にかけて全7巻刊行された辞典ということで、このお手紙もそれに近い頃に書かれたものと推測されます。本文には〈それからあなたの御病気御全快をかねて忘年会でもしたいと思ひますが如何?〉とあり、この年頃の秋聲といえばやはり昭和11年春から夏にかけての大患を思わずにはいられません。かの名句「生きのびて又夏草の目に沁みる」が生み出された大病からの復帰の頃と考え少し整理をしてみると、この年3月に俊子帰国。7月頃秋聲が復活し、同月15日の消印で俊子の帰朝歓迎会開催を呼びかけるハガキ(長男一穂代筆)が出され、そして〈忘年会〉と言っていますからこの年末のこと? ついでに忘年会の誘いの前には〈今日 中央公論社で島中氏に逢いましたが十七日の夜御一緒に御飯を食べると云ふお約束をしましたから 何卒この夜をあけておいて下さいまし 六時頃で三人で御飯をいたヾくのです〉とも言っているので、昭和11年12月17日に一緒にご飯をたべたうえで?? などなど、この年のピースを少しずつはめてゆくような脳内作業中です。
 〈島中氏〉とは樗陰の後輩で、昭和3年に中央公論社の社長に就いた嶋中雄作。〈島中さんの御馳走です〉としっかり書き添えるあたりが俊子です。



 


代わりのみかん
  2025.1.23

 体調不良といえば秋聲、秋聲といえば虚弱体質。いつもどこかしらに不調をかかえている印象のある秋聲に、あれこれつらーい、と訴える俊子の手紙を展示中です。
 〈その後やつぱりはればれしくありません 食慾が御座いませんし 後頭部が痛みますし 気は鬱々しますし ぶらぶらとしております〉…アッ、まだお悪いんですね…! と心配した次にはこう→〈病気ハすつかり取れました 熱はとれましたし 咳もあまり出ないやうになりました 吸入はやつておりません お薬も頂いておりません お薬なんぞ飲んでも仕方がなひんですから その代りみかんを食べております〉。みかんは水分も多いですし、なんだかよさそうな気がいたしますね。わりとお元気そうで何よりでした。こちら、大正4年2月末のお手紙です。秋聲が「読売新聞」に俊子を紹介した翌年で、二人の交遊としても最も密、そして日本の文壇における俊子の活躍ぶりとしても最盛期といった時期かと存じます。基本虚弱な秋聲(45歳)ながら、まさにこの頃は同紙に「あらくれ」連載中。〈お島さん〉よろしく元気いっぱい、バリバリ執筆しているように見えたのかもしれません。〈あなたはますます健康そうでほんとうに結構だと思つてゐます〉とも書かれており、そうして心身の不調やらなんやらかんやらと吐露しながら、しかしこの手紙はこう締められているのです。
〈考へると生きてゐることがたのしくてたまりません〉。これを受け取った秋聲の表情はどんなものであったのでしょうか。
 もう一通、こちらは日付がはっきりしないお手紙で、秋聲が贈ったらしき快気祝いへの礼状です。〈猶一層御健全ならん事をお祈りいたします この瓶ハあれとハ又別趣味のものです 進呈いたします〉…この瓶とは…別趣味のあれとは…お返しに何を選んだものか、いろいろと謎が多く、確かなことは言えませんが、前掲書簡と同じ時か、あるいは大正6年5月に発表された秋聲の俊子評「女優であつた時から」に、〈最近に私は生田葵山氏と、久しぶりで氏の健康を見舞ひかたがた尋ねた。氏は殆んど癖になつてゐる感冒のために閉籠つてゐたやうであつたが、机にはトルストイの「戦争と平和」の訳本があつた。〉と記されていますので、この後日かもしれません。なお、手紙の署名は「田村」。大正7年以降になると、松魚との離別を経て差出人名が「佐藤」(俊子の旧姓)に変わります。
 


 


米飯・蒟蒻・焼塩
 2025.1.22

 文芸への志を語っておいて、すぐに間のあいてしまった寸々語です。大きな声では言えないのですが、実は学芸員が例の流行り病に見舞われ、ちょいと長めのお休みをいただいていたのでした。各種関係者のみなさまにおかれましては、「これの発注お願いしまーす」「あれのお見積お願いしまーす」「締め切りは15日でーす」とこちらからポーンとサーブが投げ込まれたまま、一向にラリーが続かない、あれっ何も返ってこないな…?とさぞご不審に思われたことと存じます。たいへん失礼をいたしました。そんなわけでもろもろのことが一週間遅れになってしまい、そうした意味でまた寸々語の更新頻度も少し落ちようかと存じますが、脳と指のリハビリがてら、ポチポチとあることないこと発信してまいりますので、改めましてよろしくお願いいたします。
 さて「今日の日の魂に合ふ/布切屑(きれくづ)をでも探して来よう。」(「秋の一日」)と歌ったのは中原中也ですが、今日の日の魂に合う秋聲作品といえば「生活のなかへ」これ一本。何かしらの流行り病にかかった〈いく子〉のお話です。毎度ご案内しておりますとおり、声優のうえだ星子さんにイベントで朗読していただいたことをきっかけに、今回の新刊・短編集3に収録いたしました。うえださんのYouTubeチャンネル「星子の押入れ」でもご朗読をお聴きいただけます。そのイベント準備の際、「お腹にコンニャクってこういうことなんですねぇ」とテキストを理解せんと自らお調べくださったうえださんから「温罨法(おんあんぽう)」を紹介したサイトのURLが送られてきたことを思い出します。血の巡りをよくさせるためか、〈熱い蒟蒻が(いく子の)下腹部に押えつけられ〉る場面が出てくるのです。当時どれくらい一般的かと、いま国会図書館デジタルでちょいと調べてみましたら、温める材料は蒟蒻でなくてもよさそうな記述を見つけました。『病人の看護法』(「主婦之友実用百科叢書43篇/昭和5年)によれば、一般的なものとしてまず米飯(「炊きたての御飯を、厚さ一寸くらゐに紙に包み込み、更にその上を、手拭でゞも巻いて、患部を温めます」)…おにぎり…おにぎりだ…! それから蒟蒻(「よく煮たものを、二つ並べて布(きれ)に包み、なほその上を厚くタオルにくるんで、痛むところにあてます」)、そして焼き塩(「長く保ちますが、重いので、重病人には不適当であります」)、温石(「破裂する惧(おそれ)がありますから、代りに煉瓦を用います」)、湯たんぽ(「急の場合はビール壜を幾本も…湯が漏れ、そのため火傷する場合があります」)と続きます。これはこれは…看病するほうもされるほうも大変な時代です。うがい、手洗い、ご励行ください。 






「文芸を志す若き人々へ」
  2025.1.13

 本日、祝日につき65歳以上の方は入館無料となります。また、成人を迎えられるみなさま、おめでとうございます。昨日から東山界隈でも華やかな振り袖姿のお若き人々をお見かけしております。 
 そんな「成人の日」にちなみ、雑誌「中学世界」(大正7年1月号)アンケート「予の二十歳頃」より、秋聲(数え48歳)の回答をお届けいたします。

 Q、どんな理想を懐いて居ましたか?
 A、素より文芸に志してゐました。
 
 Q、どんな境遇で暮らして居ましたか?
 A、高等学校に在学してゐましたが、尻が据(すわ)つてゐませんでした。
   一つは家計が困難なためもあつたでせうが、一体に官学の空気が厭でした。

 Q、どんな記憶が残つてゐますか?
 A、国会開設前後で、政治熱が随分旺(さか)んであつたと思ひます。
   文芸も勃興してゐました。

 秋聲の二十歳頃といえば明治23年、四高在学中にあたります(18歳で編入学)。明治14年に発せられた国会開設の詔を受け、この年(明治23)11月に第一回帝国議会が開会。金沢の町にも政治熱が高まるなか、高田早苗(画像は国会図書館「近代日本人の肖像」より)や島田三郎の姿を一目見たくて、学生には禁じられていたという政談演説をこっそり聞きに行ったりしたことが自伝小説「光を追うて」に記されています。この翌年に秋聲の父雲平が病死、桐生悠々とともに四高を中退し、翌25年春、作家を目指して上京することになるのです。
 もうひとつ、お若い方々に向け、「不定期連載」に談話「文芸を志す若き人々へ」をアップいたしました。掲載媒体が「週刊婦女新聞」ということで、〈女流作家〉各位にも触れられております(俊子はおらず)。今の時代に合わない部分もあるかもしれませんが、不精だし本なんて読まない、人に指導なんてしない、という態度で知られる秋聲の珍しく建設的な発言をお楽しみください。



 


展示と文庫に関するお詫び
  2025.1.12

 昨日、俊子展2回目の展示解説が終了いたしました。1月に入ってやや静かな館内ではございますが、昨日は午前午後の回ともにお客様をお迎えすることができました。ご参加に心よりお礼申し上げます(そして「女流作家」を含める新刊のお買い上げも!)。
 その後、別の調べものをしていて、俊子展および新刊の文庫のついてみなさまにお詫びを申し上げねばならぬ事態に気が付きました。秋聲が俊子を思い執筆した「女流作家」では、後半のほうに秋聲をモデルとする〈小森〉と弟子で恋人であった山田順子をモデルとする〈栄子〉とが〈T女史〉すなわち俊子の実際の著作「あきらめ」の単行本を手にしながら語り合う場面が出てきます。そしてその本をパラパラしながら短編「木乃伊の口紅」などにも触れるのですが、俊子展でいま出品している『あきらめ』(明治44年、金尾文淵堂)を思えば、表題作それ一篇を単行本化したもの。すると同じ本を読みながら、「木乃伊の口紅」がなぜここで登場? との疑問がわいてきます。
 「木乃伊の口紅」の方は大正3年、牧民社から「炮烙の刑」などとあわせて同題の短編集として刊行されており、こちらもあわせて展示中。となると結局別の本…と思いきや、その点につきましては大杉重男先生の『小説家の起源―徳田秋聲論』(平成12年、講談社)にさらりと書かれておりました。〈一九一五年の植竹書院版と推測される〉…大正4年の植竹書院版『あきらめ』には、表題作に加え「木乃伊の口紅」「生血」「女作者」など計7編が収録されているのです。よって、〈T女史〉から署名入りで贈られ、〈小森〉がさらに自分の署名をして〈栄子〉に贈ったというこの時の本は植竹書院版(当館に収蔵なし)である可能性が高いということを、本来展示でも文庫本の解説でも書き添えなければならなかったのです。つい目の前にある資料のみを見、このくだりについて失念していたうえ確認を怠りましたことを深くお詫び申し上げます。また、大杉先生のご著書を引きながら、秋聲の「仮装人物」第13章に田村松魚と俊子らしき人物が描かれると指摘しているのは石崎等先生の「叡智、モデル、推力 『仮装人物』について(下)」(八木書店版『徳田秋聲全集』月報40)。松魚と俊子をモデルにした作品には、他に短編「恥辱」(大正13年)がありますが、大物「仮装人物」も決して忘れてはならないのでした。 


 


八千代と俊子
   2025.1.11

 先日ご紹介した菊子と俊子、となると「大正の三閨秀」の残るおひとり・岡田八千代に触れなければなりません。小説家、劇作家で、兄は劇作家の小山内薫、夫は画家の岡田三郎助。今の俊子展の範囲で言えば、こちらでも何度かご紹介しております大正期に「新潮」で2回、「中央公論」で1回の計3回俊子特集が組まれたうち「新潮」大正6年5月号に八千代の寄稿がございます(なお、この3回ともに寄稿しているのは秋聲だけ)。その「私の見た俊子さん」の書き出しはこう→〈とし子さんはいつ尋ねても、どんなに久しぶりに尋ねても、『まァ』と言つて飛び出してくるやうな人ではないやうです。どんな場合にも『何にしに来た』と言ふやうな顔をすることが多いやうです。それが約束して行つた日にでもそんなことが好くあります。だからどうかすると腹が立ちます。〉――たしかにそれはちょっと嫌ですね! 八千代もこのあと「もう来てやるもんか」などと思ったりもする、と記しながら、しかし「これが此(この)人の癖だな」と思い慣れてしまえばそんなもの、と大人な対応を見せています。そして俊子に決して悪気はないのだ、とも。また〈私などのやうにどんなに忙がしいことがあつても人に好い顔を見せてやらうなどゝいふ愚かな人間でないことが分ります。〉というあたり、この文章の目的は俊子評でありますが、刺さる人には刺さる自己分析かと存じます。
 翌7年、俊子は田村松魚と別れ、青山隠田に逼塞します。創作の筆も揮わず、自作の紙人形を売って生活をしていた俊子の暮らしぶりを八千代は小説「紙人形」に描き、俊子はその書きざまに激怒したそう。大事なエピソードながら展示ではご紹介できず、一ヵ所だけ八千代の名が登場するのは少し前のお手紙の中で、大正4年6月25日、俊子から秋聲に宛てて出された何かしらのお誘い中〈もし何でしたら御一所に行かうかと存じます。八千代さんとも宅へ参ります。御都合をお伺ひいたします〉と、この時のメンバーにいたことが確認されます。ただ非常にざっくりとしていて、どこで何をするための集合やら…といった書きぶり。とはいえ、この頃かえって密に連絡をとりあっていたからこそ、こと細かに書かないのかとも思われるのです。





菊子と俊子
   2025.1.7

 今朝ほど例月のMROラジオ「あさダッシュ!」さまに学芸員が出演のうえ、実はまだきちんとご紹介のできていなかった田村俊子展のお話をさせていただきました。そうして帰館いたしましたら、いつもお世話になっている先生より黒﨑真美・今村郁夫編『富山文学論集 群れ立つ峰々 金子幸代名誉教授とともに歩んだ軌跡』(鷗出版、2024年12月)が届いておりました。ご学恩に感謝申し上げます。 
 本書の中でも、半数を占めているのが小寺菊子論。秋聲と親しかった富山出身の作家で、故金子幸代先生が遺された菊子論がここに集約され、当館で開催した小寺菊子展記念講演の要旨「秋聲から菊子へ」(館報からの再録)や「小寺菊子と同時代の作家―秋声・霜川・秋江と雑誌『あらくれ』」、そして「小寺菊子と鏡花―『屋敷田甫』と『蛇くひ』」などがまとまった形で読むことができるようになりました。その他、書下ろしを含む各氏による菊子論と、三島霜川・堀田善衛ら富山ゆかりの文学者を論じる富山文学論の二本立てです。
 菊子といえば、俊子・岡田八千代とともに「大正の三閨秀」と呼ばれた人物。金子先生の論文中、露伴に師事した俊子が「露英」の名をもらったことに比し、秋聲に師事した菊子が「秋香」の名をもらったという説への言及がありますが、秋聲は菊子を弟子というよりむしろ〈同志〉として語り、〈女流作家で二十年もの努力をつづけ、生命を保ってきた人は、女史の他に果たして誰があるであろう〉と讃えています(小寺菊子『美しき人生』序、大正14年)。なお、このころ俊子はバンクーバー、秋聲が俊子をモデルに書いた短編「女流作家」は昭和2年の発表です。
 明治43年、俊子の「あきらめ」が「大阪朝日新聞」の懸賞小説で当選したとき(一等なしの繰り上げ当選)、次席にあったのが菊子の「父の罪」でした。俊子に辛い点をつけた選考委員の露伴は、本作に最高点をつけています。俊子展では、その菊子から見た当時を描く「懸賞小説当選の女流作家」を収録した菊子の随筆集『花 犬 小鳥』(昭和17年)を展示中で、ここで菊子は、今でこそ〈懸賞小説の当選者が、いつも大概女の作家であるといふのは、興味深い現象〉と書き出し、その歴史を紐解けば、自身と俊子とが〈女流当選の最初〉であり〈この当選が作家生活の重要な起点となつた〉と語っています。



 


新年の思い出
   2025.1.4

 あけましておめでとうございます。本日4日(土)より、通常通り開館いたします。今年も何卒よろしくお願いいたします。
 さて、今朝ほど新年仕様に書斎の書幅をかけかえなどしておりましたら開館準備をしていた職員からひと言「レジ、つかないんですけど…」。受付まわりの電気機器が一斉に沈黙を守ったまま、まだ土日だしお正月休み続いてますんで~みたいな顔をしてまるでたち上がってくれないという事件が発生いたしました。機械の問題か、落雷か…! と、ひととおりワチャワチャしたのち、副館長の「ブレーカーは?」との鶴の一声で確認したところ、受付だけがバチンと落ちており、おかげさまですぐに復旧いたしました。初めてのことでしばし騒然としましたが、なんとか開館時間に間に合ってよかったです。雪もまだそう酷くなく(早朝すこし積もったかな、というくらい。今はきれいに溶けています)おかげさまで、ちらほらとお客さまにご来館いただいております。
 ちなみに書斎にお出しした書幅は秋聲自筆俳句「元朝の心寂ひぬ午さがり」。そんなあいかわらずの秋聲節とともに、今年もゆるゆると活動してまいります(「心ゆるびぬ」バージョンもあり)。そうしてさっそくゆるゆると使いまわしで恐縮ながら、季節のものにつき徳田家のお雑煮レシピをご紹介→「正月には秋声だけには別の雑煮をつくっていたそうである。それはこぶ出しの汁で餅を煮、味つけをし、かつおぶしをかけただけの雑煮である。鴨とか鳥とか、かまぼことか、そんなものを何にも入れない雑煮である。これは多分、金沢の流儀であったと思う。家族の方は東京風の雑煮を食べていた。おせち料理は詰らないから作るなといわれて後年作らなかったという。」秋聲次女喜代子の夫で作家の寺崎浩による随筆「秋声ごのみ」より(『味の味』ドリーム出版)。なお金沢では角餅が一般的かと存じます。
 お雑煮ほか、各年代にわたるお正月の過ごし方につきましては、昨年刊行され受託販売しております大木志門編『月日のおとなひ 徳田秋聲随筆集』(手のひらの金魚)もしくは「不定期連載」にある「新年の思出」をご参照ください。紅葉先生から、門下の四天王、霜川、漱石、樗陰、白鳥などが続々登場。秋聲65歳の記録です。

(昨年の記事は「過去の記事一覧」に収納しました。)




 

 

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