寸々語

寸々語(すんすんご)とは、秋聲の随筆のタイトルで、「ちょっとした話」を意味します。
秋聲記念館でのできごとをお伝えしていきます。





西の旅②
 2024.5.20

 翌日、神戸から芦屋に移動し、次回「虚子と秋聲」展への学びのため虚子記念文学館さんにお邪魔してまいりました。虚子令孫・稲畑汀子氏(前理事長)邸に隣接する記念館さんにつき、閑静な住宅街の中にありながら、たいへん立派な建物です。こちらで秋聲にかかわる資料を閲覧のうえ、またもこっとりと長居をして学芸員さまより貴重なお話をいろいろとお聞かせいただきました。なんとも贅沢な時間を過ごさせていただき、まことにありがとうございました。
 その後、現在開催中の虚子生誕150年記念企画展「子規・虚子・碧梧桐の青春と俳句革新」を観覧。〝生誕150年〟なる輝かしい冠を前に、来る当館での虚子展に向け気が引き締まる思いがいたします。そしてさすがの生誕150年記念展、目玉となる虚子→子規、碧梧桐→虚子、子規→虚子・碧梧桐、に宛てたそれぞれの自筆書簡3通が圧巻です!
 小説家としてやってゆきたい若き虚子が、東京での身の振り方について子規にこと細かに相談する様子…の一方、ねぇすっごい美人見つけたーッ!! と虚子に報告する碧梧桐の無邪気さ…そんな無鉄砲な後輩ふたりを諫める子規先輩…三者の関係性がビシビシと伝わってくる超貴重かつ微笑ましい資料群です。また、それに先立ち、子規から虚子に贈られた「心竹」展示も感動的でした。小説家になることを兄に反対され、自棄になった虚子の様子を碧梧桐から聞き及んだ子規が、〈小説家トナリタイガ食ヘヌニ困ルト仰セアラバ、小生衰ヘタリト雖(いえども)、貴兄ニ半腕ノ飯ヲ分タン〉と記した書簡とともに、本物の熊笹の葉ひとつひとつに俳句を書き付け虚子に贈ったもの…これに励まされた虚子が、改めて子規に相談…というのが上述の書簡に繋がります。
 こちらの展示、来年3月7日までのロングランとなっておりますのでご観覧を強くお勧めいたします(資料の実際の展示状況は同館にご確認ください)。また地下階では「子規と並走した新派俳人結社」として「秋声会」の展示もおこなわれていました。ややこしいですが、われらが秋聲の筆名とは異なる由来をもった俳人の会で、紅葉先生らがその中心人物(つまりたまたま名前がかぶっているだけ)。とはいえ、紅葉先生の縁により秋聲もこの会にかかわり、機関誌「卯杖」で投稿俳句や小品文の選者をつとめているのでした。と、奥のケースに秋聲のしゅの字を発見! ご訪問のおりには、ぜひ地下階までお立ち寄りください。 





西の旅①
  2024.5.17

 寸々語を留守にしている間に、ちょいと西へ! 現在、神戸文学館さんで開催中の企画展「蘇る神戸ゆかりの文豪たち 其ノ参」を観覧させていただきました。題のとおり、ゆかりの文豪シリーズの第3弾にてついにわれらが秋聲登場! と喜びながら、当館で昨夏開催した「西の旅」展をご覧になった方はちょっと不安に思われるかもしれません。なぜなら徳田=基本的に旅先をあまり褒めない=秋聲につき、芦屋・須磨・明石などの道行きを描く短編「蒼白い月」をはっと思い起こしてさっと顔色が蒼白くもなりかねず……。そんな顔をして恐る恐る伺ったところ、展示では秋聲が〈美しい海岸の別荘地〉として書き起こす当時の芦屋のお写真とともに、本作に滲む秋聲の心境について掘り下げ、単なる旅先の感想に留まらない作品の奥行きをさりげなく示唆してくださっておりました。ご解説を大切に読みながら、パネルに引用された、秋聲長男一穂の解説の載る岩波文庫「或売笑婦の話・蒼白い月 他七篇』の復刊があるといいですね…! とも強く思った次第です。
 こうして秋聲を選んでくださったうえ、加えてご当地の方々のご理解・解釈に触れられるありがたさったら…それは秋聲のみならず、今回展示に登場する8人の文豪みなに共通することで、永井荷風、島崎藤村、志賀直哉、岩野泡鳴、尾崎放哉、柳田國男、河東碧梧桐らそれぞれの物語がそこに展開しており、こうしてまとめて見られて手っ取り早いや! という現金な気持ちを上回るほどの、これはぜひ現地へ行ってみねば…! という気持ちの駆り立てられる、地域に根ざす文学館さんならではの展示手法でございました。こちら、9月8日(日)までのご開催、そして6月29日(土)には、三品理絵先生(武庫川女子大学)による文学講座「鏡花と秋声 反照するふたりの文学」も予定されているという手厚さです(お申し込み受付中!)。
 展示を拝見したのち、館長さまをはじめ学芸員のみなさまにもご挨拶をさせていただき、ご挨拶だけで失礼するつもりが、エッ…数時間? 居座りましたでしょうか?? いや、そんな、まさか…お忙しい方々をとっつかまえて、本当に申し訳ございませんでした。建物・展示空間・サロン・そして職員のみなさまのあたたかい雰囲気のおかげさまで気づけばすっかり長居を…とても素敵な文学館さんです。そして、当館で品切れになっていた企画展チラシも、追加でたくさん頂戴してまいりました。このたびのご歓待に、心よりお礼申し上げます!






「100年前の久米正雄」展
 2024.5.13

 4月27日(土)というのは良いおひよりなのですね。この日ご開幕の企画展の多いこと! ご案内が遅れてしまいましたが、こおりやま文学の森資料館さまより郡山市制施行100周年企画展「100年前の久米正雄」のチラシを頂戴いたしました。4月27日(土)~6月16日(日)までの開催で、幸せいっぱい、明るいピンクのチラシビジュアルに選ばれたのは、笑顔の久米その人と美しい艶子夫人のツーショットです。当館も以前の久米正雄展で本画像をお借りして展示させていただきましたとおり、大正12年11月17日の結婚式当日、すなわち〝夫人〟といってもなりたての初々しいふたりのお姿で、9月に発生した関東大震災直後、身内だけでちんまりと式を執りおこなうべく選ばれた招待客=〈親族以外には、徳田さんと、芥川、菊池、里見、田中の五人〉(久米正雄「私達の結婚について」) ……徳田さん! 親族、同年輩の友人らに交じって急に20歳年上の徳田さん! といった衝撃をかつて寸々語(2022年9月1日記事参照)に綴りました。そんな気持ちでチラシを裏返せば、アッ…なんということでしょう、そこに徳田さんの姿を発見! こちらは映画監督・池田義信と久米正雄と秋聲とのスリーショット。今からちょうど100年前の大正13年末、久米の案内で松竹蒲田撮影所の見学に出掛けたときのお写真です。そのあたりのことが企画展でご紹介いただけるのでしょうか。ちなみにこの日は秋聲の弟子の山田順子の同行もあり、四人で撮った写真もどこかに存在するもよう。まだ、秋聲の妻はまは存命中で、順子と恋愛関係に陥る前。彼女が女優になるのならないの…といった話の延長で撮影所を訪れてみた秋聲です。その頃のことが短編小説「白木蓮の咲く頃」に描かれています(久米らしき人物も登場)。
 さて同館の真似っこをして、ほかに大正13年の秋聲を抽出してみれば、4月、山田順子と出会い、6月、岡栄一郎の結婚式で媒酌人をつとめ、8月、金沢に帰省、12月13日、長編小説「蘇生」連載開始(現在のレコオド展ですこしご紹介しています)、23日、修善寺へ赴き、25日、田山花袋『源頼朝』出版記念会の発起人をつとめるなどなど、けっこう忙しくしておりました(本日、花袋忌ですね)。そのうち、こちらのテーマをしれっと盗んでおりましたら申し訳ありません。
 こおりやま文学の森資料館さまでは「写真に見る久米正雄邸」も同時開催です!



 


(当館外の)イベントいろいろ
 2024.5.9

 今朝ほど、例月のMROラジオ「あさダッシュ!」さんにお邪魔してまいりました。先日、こちらでもお知らせいたしました金沢建築館さんの企画展に合わせて公開しております室生犀星自筆 卯辰山秋聲文学碑文原稿についてのお話をさせていただきました。本資料の公開は建築館さんの展示が終わる6月2日まで。ちなみに秋聲本も出ている石川県立図書館さんの企画展「本の装丁 棟方志功と同時代の芸術家たち」も同日閉幕予定です。そのほか、とくに何のイベントも入れていない5月…静かに次回虚子展の準備をしているのと、オリジナル文庫新刊の編集をちまちまおこなっているそんな5月…というわけで、代わって近隣のイベントをご紹介したく存じます。
 まず直近の5月11日(土)には、近隣有志のみなさまによります「女川祭」が開催されます。女川=浅野川(※男川=犀川)で毎年この時期に催され、16時、ひがし茶屋街に隣接する宇多須神社から当館前での流し踊り、そして河川敷での女川踊りとあかり祭。夜の浅野川の美しさを堪能できるお祭りです。
 それから5月15日(水)、朗読小屋 浅野川倶楽部さんによる第36回朗読公演「朗読で綴る文学の世界」が始まります(~19日まで)。会場は石川県立美術館ということで、そのお隣が歴博さんですから石川近代文学館おでかけ展示「くらべる文学展in歴博」もあわせてご観覧いただけるといいですね。三文豪をはじめ、芥川龍之介や菊池寛、宮沢賢治などの作品も含まれ、日替わりでたくさんの文学作品に触れることができます。詳しくは公式サイトよりご確認ください。
 さらにラジオから帰館して確認いたしました、現在神戸文学館さんで開催中の企画展「蘇る神戸ゆかりの文豪たち 其ノ参」(4月27日~9月8日)関連講座「鏡花と秋声 反照するふたりの文学」の情報解禁…! こちら6月29日(土)14時~、武庫川女子大学教授・三品理絵先生のご登壇とのこと。あれあれ、急に近隣イベントでなくてすみません! 神戸! どれいつ行こうかい、とご思案中であったかもしれないみなさま、この日に合わせてお出かけになってはいかがでしょうか。参加受付も開始されているもようです。





音楽から出会う
 2024.5.8

 5月4日(土・祝)、レコオド展2回目の展示解説を開催いたしました。ひとつきというのは早いですね! 外では鯉流しがおこなわれ、驚くほどの晴天のもと、薄暗い展示室にご参集くださいましてありがとうございました。おかげさまで午前午後とも、予定通り実施することができました。展示室内ではBGMとして当館で製作したCD「レコオドと私」を流しているのですが、そりゃうまいこと解説するパートと流れている楽曲とがリンクするわけがなく、呂昇について話しながらバックにカルメン、須磨子について話しながらバックにドナウ、みたいなちぐはぐさで進むなか、ドナウコーナーに来て呂昇がうたい、蝶々夫人にきて須磨子が歌い、アッ今ちょっと須磨子が歌っていますね! どうぞお聴きを! とみなで床の一点を見つめながら須磨子の細い歌声に集中する、そんなシュールな一幕もございました。そして吉井勇作詞による「いのち短し恋せよ乙女」(CD収録の「ゴンドラの唄」)のフレーズの強さに持っていかれ、パネルの解説にある「カチューシャの歌」のメロディーが出てこず、前回はお客さまに歌わせるという暴挙に出たものを、今回はきちんと覚えていて口ずさむことができました(伝わったかどうかは別)。お付き合いくださいまして、ありがとうございました。
 6月、7月と解説はございますが、基本的には同じお話をいたしますのでお含みおき願います。そんななか、6月15日の企画展記念講演会「音楽から出会う近代の作家たち―夏目漱石、芥川龍之介、堀辰雄らを話題にのせて」の申込受付も開始いたしまして、現在もお電話にて受付中です。サブタイトルに名が挙がっている芥川で言えば、かつて日本近代文学館さまで開催された「音楽で出会う芥川龍之介―蓄音機とSPレコードで聴く」というイベントに登壇されたのが今回お招きする講師の庄司達也先生。同じく堀辰雄や中也とも出会う本シリーズが大好評です。
 そんな庄司先生ご監修による文庫目録増補改訂版刊行記念特別展「芥川龍之介展」が同館で開催中です。まだ伺えておらず恐縮ながら、HPで公開されている部門構成と主な出品資料を見るだけでも、濃厚な内容であることが察せられます。6月8日までと、15日のご講演当日には閉幕してしまっていて残念なことでしたが、もし展示をご覧になれる方はその感想などもお持ちになってご来館くださると素敵ですね。お申し込みお待ちしております。





「さんさろ」第24号
  2024.5.5

 ご近所の金沢文芸館さまの館報「さんさろ」第24号が届きました。巻頭には当館・蔀(しとみ)館長によるエッセイ「もう一つの『みんながつくった』文学碑―馬場小『文学の故郷』碑と川端康成―」の掲載があり、現在開催中の金沢建築館さまの企画展で紹介される卯辰山の秋聲文学碑から、生徒数の減少のため惜しまれつつこの3月に閉校した秋聲の出身校・金沢市立馬場小学校校庭にある「文学の故郷」碑にまつわる裏エピソードが紹介されています。ご存じ、卯辰山の秋聲文学碑の碑文を書いたのは秋聲長男徳田一穂(副碑は犀星)、馬場小さんの「文学の故郷」碑の碑文を書いたのは、かの川端康成。秋聲の「光を追うて」から卯辰山の雪解けの描写が一節、同じく同校卒業生である某K花さんの「縷紅新草」から一節、そして尾山篤二郎の歌集「雪客」から短歌一首が川端の美しい筆跡で刻まれているわけですが、そこに到るまでのなかなかエイヤーッな経緯あれこれ、さらに建設準備資料から判明した撰文のあれこれが面白く、ぜひ広くお読みいただけましたら幸いです。
 一部こちらに書いてしまうと、実は碑文の候補として秋聲がひがし茶屋街を描く「挿話」から、「寸々語」4月25日付記事「蛇とうどん」(ひどいタイトルですね)で記念館一味のあぶりだしに使ってください、と記した「月光が蛇のように水面を這っている川端をぶらぶら歩いていると、ふと劇場の前へ出た」の一節が挙がっていたもよう…ここで言う「川端」は浅野川端(「鏡花のみち」側)、「劇場」は当時川沿いにあった尾山座で、たしかに界隈の情報もりだくさんではありながら、小学校に…小学校に…? と一瞬考えてしまう艶のあるシチュエーションです(ただ、その浅野川をイメージした生徒さんによる小石のくだりは藤村記念堂と通じるものがあり)。
 秋聲に始まる「さんさろ」最新号は、当館で数部お預かりしてロビーで無料配布しているほか、ご遠方の方におかれましてはお手数ですが文芸館さんにお問合せください。
 またついでのご連絡となり恐縮ながら、先日受付で川端と秋聲の「怠け問答」についてお問合せくださった方があったと聞きました。戦後、一穂が木村荘八の挿絵つきで刊行した東峰出版版『爛』のあとがきに川端が寄せてくれたものですが、本書以外であれば新潮社の『川端康成全集』第29巻に他の秋聲評とあわせて収録されています。





浅野川・鯉流し
  2024.5.4

 先日話題にのせておりました本日こそ、新「みどりの日」。明日の「こどもの日」を前に、記念館前の浅野川では毎年の恒例の「浅野川・鯉流し」が開催されております(本日15時くらいまでだそう)。かつて友禅流しがおこなわれていたことを偲び、川中にはたくさんの鯉が、梅ノ橋からは空中を泳ぐ鯉と吹き流しが見られます。
 鯉といって残念ながらすぐに関連する作品が思い浮かばなかったのですが、秋聲の自伝小説「光を追うて」を掲載していた「婦人之友」に立派な鯉が! 昭和13年、68歳のときに1月~12月まで一年をかけて連載され、その5月号が鏑木清方による美しい鯉のぼりの表紙となっています。本号に掲載されたのは向山等少年こと秋聲が、四高を中退して桐生悠々とともに上京せんとするくだり。
 〈しかし学校をやめたは罷(や)めたが、罷めたとなると等は遽(にわ)かに自身の弱さが感じられ、目先が真暗になつた。遠い世間の波の唸りが、無気味に耳元へ押し寄せて来るやうにも思へたが、引き戻す気には無論なれなかつた。〉…奇しくも、はじめての波に翻弄されようとする等少年の姿が描かれていますね…〈かくして等と悠々とは、何の成算もなしにやがて人生難航に上つたのだつた。〉――そう、その急流に打ち勝ち、のぼりきった彼らはやがて龍になる…! と思いきや、次の章では旅路の厳しさに弱音満載、かつ紅葉先生にあっさり弟子入りを断られ、龍になるどころか未熟な青柿にたとえられ、さらにはふたりして天然痘をわずらい敢えなく解散…夢見ていたほど簡単な道のりではありませんでした。
 このあと長兄直松のいる大阪に身を寄せ、金沢に帰郷し、新潟を経て再度上京。二度目の訪問で紅葉への弟子入りが認められ、はじめての単著『雲のゆくへ』を刊行したタイミングで再び大阪へ。父亡きあと、最も心配をかけた直松に会いにゆき、そこで過ごすうち体を壊して今度は嫂の親戚がいるという別府に湯治に向かい…と物語は進んでゆくのですが、端午の節句にかけ「秋聲 菖蒲 鯉」と検索して出てきた有難き青空文庫さまより、別府の旅を描く随筆「佗しい放浪の旅」をご提出申し上げます(秋聲の回顧録『思ひ出るまゝ』の一章分です)。ここでの鯉は紅葉へのおみやげに買った食べ物の鯉。ついでに秋聲のおっちょこちょいエピソード付き。





矢島良幸著『おじいちゃんの日記』 
  2024.5.3

 「新憲法施行日。『主権在民』の新憲法。そしてこゝに民主日本の誕生日として新しい日本の歴史の一ページは今日をもって開かれるのである。」――昭和22年5月3日、日本国憲法施行当日のある人の日記です。秋聲は昭和18年に亡くなっていますので当然秋聲でなく、この寸々語にも何度かご登場いただいている、秋聲の妻はまの縁戚にあたる矢島良幸氏が記されたもの。当時20歳、長野から上京し、國學院大學在学中でした。「研究紀要」第20号・21号で、氏による矢島家ひいてははまの実家である小澤家に関するご調査結果を代わってご報告いたしましたとおり、御年96歳の矢島氏の記憶力、そして記録力がはま周辺人物関係をぐんと明らかにしてくださったわけですが、その矢島氏が若い頃からつけ続けてこられた厖大な日記が一冊の本になりました。矢島氏のお子さんたちによりまとめられたもので、『おじいちゃんの日記』と題されたたいへん美しい一冊です。秋聲とすれ違うように残された、昭和20年からの日々の記録は生々しく、戦中戦後を生きた若者によりまさにその日、綴られたのが冒頭の一節。「憲法記念日」というこの日を当時どうお感じになっていたのか、繙いてみたのでした。
 秋聲も〈かつての問屋〉として短編「娶」などに言及する矢島邸内外のたくさんのお写真とともに、本書口絵の冒頭を飾るのは、矢島氏誕生時のお宮詣りの集合写真。矢島氏を抱くお母様らしき女性の隣には、秋聲の長編「足迹」ほかに登場する矢島きぬ、そしてそのお隣には秋聲の妻はまの実妹ちかの姿(当時38歳)が確認されます。本書をまで秋聲を中心にご紹介するつもりはございませんが、たしかにそこで繋がっている、みなさまの生活が営まれている――という事実を噛みしめた瞬間でした。
 戦後、お父様と同じ教師になることを選ばれ、ご退職後は辰野町公民館長としてご活躍、その活動を通じて戦争体験を語るお気持ちになられたそうです。加えて、あとがきに記されるようにコロナ禍において矢島家来歴の整理に着手される中で、野口冨士男の記す曾祖母・矢島きぬと秋聲との繋がりが気に掛かり、そうして生み出された調査結果が上述の研究紀要に…と、矢島氏のお仕事のひとつとして、当館学芸員の名で発表した同稿も『おじいちゃんの日記』に再録していただいております。語り口だけがひどく場違いで恐縮しつつ、たいへん光栄なことでした。
 このたびのご出版、記念館職員一同、心よりお祝い申し上げます。
 
追記)『おじいちゃんの日記』(令和6年5月、「おじいちゃんの日記」編集室発行)は
   現状、限定500部で販売未定とのこと。続報が入り次第、改めてご案内申し上げ
   ます。
 



若芽のころ 
   2024.5.1

 5月になりましたので書斎の掛軸を掛け替えました。尾崎紅葉自筆俳句幅「稗蒔の離々として嗚呼鶴病めり」、記念館のある東山界隈に田圃は見えませんが、すこし街中を離れれば、青々とした苗の植えられた水田が眺められる季節となりました。正直なところGWのお休みの内訳をよく理解しておらず、てっきり「みどりの日」は「昭和の日」に名が変わったのかと思っておりましたが、カレンダーを見ると5月4日にスライドさせる形で現存しているのですね。
 旧「みどりの日」、現「昭和の日」の4月29日は、島田清次郎のご命日で、中原中也の誕生日。ともに金沢にゆかりある文学者ということで、ついセットにして語りたくなってしまいます。紅葉先生も実名で出てくる、大正3年、なんと15歳という若さで書かれた清次郎の短編「若芽」。長く処女作と言われてきましたが、先頃、島清初期作品・調査チームの方々により「島田清次郎の初期作品について」という冊子が刊行され(いったん完売?)、新たに確認されたそれ以前の数編を読むことができるようになりました。また、27日から石川県立歴史博物館さまで開催されている、石川近代文学館主催おでかけ展示「くらべる文学展in歴博」でも、清次郎の貴重な遺品がいくつか公開されているとのこと。つい先日も、NHKで桐野夏生氏原作ドラマが放送され、紹介された作家の受賞歴に「島清恋愛文学賞」とありオッとなったりいたしました。
 「若芽」の書き出しはこう→〈ぬつくりとした空気の中に、白い布を被せた寝棺が人々の眼に痛ましく写つた。紫檀の机の上に置かれた青銅の線香立には白い灰が堆高く積つて、夢の様に白い煙が立ち上つて抹香くさい香が庭前の青葉の間に流れ流れした。〉――初っぱなからお葬儀の場面。このあと、亡くなったのが清次郎自身を思わせる「赤倉清」なる若い文士で、その父や従姉妹たちが棺を取り囲んでいる様子が描かれます。たぶんに〈ぬっくり〉というオノマトペのせいもあり、このシチュエーションにふと思い起こされるのが中原中也の詩「骨」。〈ホラホラ、これが僕の骨だ、/生きていた時の苦労にみちた/あのけがらわしい肉を破って、/しらじらと雨に洗われ、/ヌックと出た、骨の尖(さき)〉…ヌックりしている対象も様子も、死んだ自分を眺める視点も執筆の背景もまるで異なるとはいえ、なんとなく似たものを感じ(ようとし)てしまうふたりです。
 「若芽」は『石川近代文学全集』に収録のほか、ありがたいことに田畑書店さまのポケットアンソロジーでご購入いただけます。





つづけ秋聲
  2024.4.29

 昨日、ネットニュースで秋聲と文壇のニコイチこと田山花袋の代表作「蒲団」が映画化されると知りました。お、おめでとうございます…!!! アッよく見ると2月には発表されて…すっかり出遅れまして……! 〈舞台を明治から令和に移し、小説家から脚本家に設定を変えた主人公の時雄を演じるのは、『EUREKA』等、青山真治監督の常連俳優として知られ、数々の映画・ドラマに出演してきた名バイプレイヤーの斉藤陽一郎。〉(映画公式サイトより)――青山真治監督といえば、かつて秋聲の金沢ものを原作として映画「秋聲旅日記」を撮ってくださったお方…なんとなく秋聲のにおいも感じつつ、本作は山嵜晋平監督作品ということで、5月11日(土)、東京のK's cinemaにて公開予定だそうです。
 島崎藤村の「破戒」が新たに映画化されたのは、2022年、藤村生誕150年の年であったでしょうか。それにつづき2024年は「蒲団」映画化、すると2026年には秋聲の「黴」が…? 来てしまう? 来ない? 来る? 来ない?? 来ない??? ちょっともう手元のお花がハゲ坊主ですが、何がおこるかわからない未来に期待。
 ちなみに「破戒」は明治39年に刊行され、それに刺激される形で明治40年、「蒲団」発表。やや出遅れて明治44年、「黴」が発表されます。となると映画化は2032年かもしれないですね! 気長に待ちましょうね! ん? いや、もしかすると明治41年の作「新世帯」チョイスかもしれないですね! 「新世帯」のほうが短いので、映画向きかもしれないですしね! 主要キャストは三人、「新吉」「お作」「お国」の三人暮らし…きっと公式サイトには、高浜虚子の斡旋で発表された小説で…と記されることでしょう。「私が書きました」という秋聲と、「私が書かせました」という虚子のドヤ顔が並ぶ未来に期待。
 なにせ秋聲にとっても記念碑的な作品ですし、〈作の好し悪しは別として、私に取つては思ひ出の多い作品〉〈新発足の踏み出し〉と自ら語る名編です。万が一にもご関心を寄せてくださる方がいらっしゃいましたら、とりいそぎ本屋さんで岩波文庫『あらくれ・新世帯』がご購入いただけますし、当館オリジナル文庫『新世帯』というのもございます。あぁ、藤村、花袋につづきたい…そのラインを守りたい…つづけ秋聲、がんばれ秋聲!(なお「黴」も「新世帯」もまだ誰も映画化していませんので〝史上初〟の名をほしいままに…!)





前回のつづき
  2024.4.28

  「(承前)私はダンスが嫌ひだし、それにおよそ先生の趣味とは適合しさうもない好みをもつてゐるのでなるべく文学以外の面では先生を煩はしたり悲しませたりしたくないと思つてゐる。先生は日本的リアリズムの極致に立つ作家とされてゐるが、人生に寄する感情は甚だ浪漫的であり、わけても恋愛に心委ねてゐる先生の姿は浪漫的な情熱の象徴である。私は情熱家に二つの型があると思つてゐるが、例をあげると一つは、どんな熱い風呂の中へも平気でとびこんでゆける男で、あとの一つは、ぬるま湯の風呂の中へ入つていくら熱くなつてきてもぢつと我慢してゐられるといつた風のものである。いづれが積極、いづれが消極といふ問題ではない。先生の情熱が後者に属するといふことは説明する必要のないことである。そのことは先生が六十年の生活を文学的環境の中に終始され、それ以外のものによつてたぢろがれなかつたことを意味するものであらう。文学といふものは政治や革命のやうに威勢のいいものではない。私は端然としてひとり書斎に坐つてゐられる先生の寂しくいかしめしい姿の中に文学の慈父をかんずるのである。」

 ということで、前回記事の続き、以上が全文です。秋聲と27歳差の士郎はこの時数えで39歳。秋聲は66歳、奇跡的に病から復帰し、自らも全集の編集作業にあたったと言いますから、きっとこの月報にも目を通したことでしょう。
 病に倒れる前、秋聲が「東京日日新聞」に発表した文芸時評「五月の創作」(昭和10年4月~5月)に、士郎の作に触れたくだりがあります。ここにはとても収まりませんので詳しくはご紹介できませんが、〈尾﨑士郎氏の「経済往来」にある「時間」だの、林芙美子氏の「改造」所載の「牝鶏(めんどり)」などといふ作品は、以上の作品とはちがつて、いわゆる純然たる私小説であり、幻術の雰囲気のなかにあるものである〉とする中の〈以上の作品〉とは、この頃読んだものの7~8割を占めるというプロレタリア作家たちのもの。秋聲は同じ頃、長編小説「仮装人物」に〈新興芸術、プロレタリヤ文学――そういつた新らしい芸術運動の二つの異(ちが)つた潮流が、澎湃として文壇に漲(みなぎ)つて来たなかに、庸三は満身に創痍を受けながら、何か窃(ひそ)かにむづむづするようなものを感じてゐた〉と、時代時代の空気を記しました(※「仮装人物」の舞台は大正末~昭和初期、ちょうど士郎と出会ったころのこと)。
 上述の文芸時評は、〈「時間」も「牝鶏」も面白い。プロ(レタリア)の作品から来ると、緑を見たやうな気持で、ほつとする〉と結ばれています。

 
 
 


「記念館ノート」第8号
 2024.4.26

 現在制作中のオリジナル文庫第15弾のため、全国6名の入力ボランティアさんたちが水面下でテキストの打ち込みにご協力をくださっています。今朝ほどそのやりとりの中で、東京・馬込文士村にある大田区立尾﨑士郎記念館さんの活動報告「記念館ノート」の最新号が「秋聲大活躍の記念号ですよ!」と教えていただきました。たしかに表にも裏にも、秋聲をめぐる坂口安吾との決闘を中心に秋聲のしゅの字がたくさんお邪魔しておりますね…! あら嬉しや、ありがたや。PDFで公開してくださっておりますので、是非ご一読願います。
 お返しというかテイの良い便乗といいましょうか、当館で所蔵する非凡閣版『秋聲全集』月報から、尾﨑士郎の(熱烈な)寄稿「文学の慈父」をお届けします。ご存じ、昭和11年、病に倒れた秋聲を励ますため、島崎藤村や菊池寛、中村武羅夫らが刊行を計画してくれた全集の附録です。

 「先生にはじめてお目にかゝつたのは、何時、どんな場所であつたかハツキリ覚えてゐない。何のキツカケであつたかといふことさへもわすれてゐる。その頃文壇の大家に知遇のない私は幾分世の中に対して肩を聳やかしてゐたかんじもあつて進んで先輩を訪問しやうなぞといふ気もちを持つてゐなかつた。馬込村に家をつくつて若隠居のやうな生活をしてゐた頃であるが、――私は先生と一ぺん会つたゞけで身も心も捧げてしまひたいほどの気もちだった。いさゝかも批判的な感情なぞは起らず唯、ほれぼれと親しめさうなたのしさだけが残つた。それからやがて十余年になるであらう。先生はそれだけ年齢をとられたわけであるが、印象はその頃と少しも変つてゐない。変つてゐないと言へばこれほどあらゆることに一貫性を示して生きてゐる人も尠(すくな)いであらう。それが外観的には弱々しく、たよりなく、移り気に見えるといふのも、内にひそんだ力のつよさにもとづくものだと考へられる。十余年の交遊を通じて私は先生の生活にふかく立ち入つたやうな関係に置かれたことはない。ふかく立ち入る必要のないほど何とも知れず「わかる感情」がくすぶつてゐるからである。かたちにこそあらはれてゐないが最近の十余年間、私は先生の見えざる恩をかんずることなしに自分の文学的生活を振返るわけにはゆくまいと思つてゐる。先生の存在は私の野心の源泉であり生きることの動力であるとも言へる。(後半につづく)」 





蛇とうどん
  2024.4.25

 昨日の続きです。昨日ご紹介した座談会記事で「仮装人物」/「かげろふの日記遺文」のくだりに続く、秋聲の文章について語られている部分がこちら、

 伊藤「徳田秋声さんは、大作家ということになってますけどわかりにくい作家です
    ね。若い人たちは、わからないと思います。」
 森山「とっつきにくいんで。省略のように、といいますかね、味わい深い文章なの
    ですが…。」
 川端「くわしく書いとるかと思うと、突如として、思いがけない手法があるんで、
    びっくりしちゃう。意識してたのかどうか、めんどうくさそうに書いとるん
    やけれども。」
 
 オゥ、川端の関西弁…。そうしたわかりにくさ・省略・味わい・めんどうくさそう感・ついでに金沢弁が、先日朗読でご披露いただきました「挿話」にもふんだんに盛り込まれております。お三味線とのコラボ用に館の方でかなり手を入れておりますが、「挿話」および「少年の哀み」の朗読部分を、ご朗読くださった玉井明日子さんのYouTubeチャンネルにアップしていただきました。千本さんの三味線の音色とあわせてご鑑賞ください。
 中でも、東の廓から浅野川沿いをゆく「月光が蛇のように水面を這っている川端をぶらぶらあるいていると、ふとその劇場の前へ出た。」という一節に来ると、ハッとしてしまう記念館一味。なぜならその一節は、和紙人形シアターのナレーションに採用され、これまでに何百回と聴いてきているから…。もしこの動画をたくさんの人のいるところでご覧になることがあり、ここへ来てピクッと身じろぎをした人があれば、それは記念館一味かもしくは記念館シアターかなり常連のお方です。今後のあぶりだしに使ってください。ちなみに、秋聲の文章を蛇のよう、と喩えたのは夏目漱石(次回、虚子展でご紹介します)。犀星の文章をうどんのよう、と喩えたのは川端康成(以下、上掲座談会より)。

 新保「犀星さんは悪文。センテンスがねじれてますね。徳田さんも、いわゆる名文
    じゃないといわれますが…。」
 川端「確かに、犀星さんの文章には、うどんのように、ねじれているものがある
    (笑い)」。 





「くらべる文学展in歴博」
  2024.4.24

 先日ご報告した卯辰山の文学碑見学準備のため犀星関係資料を見返しておりましたら、川端康成・伊藤整・森山啓らの座談会を掲載する昭和42年6月11日の「北國新聞」記事のコピーがありました。進行をつとめるのは新保千代子。現在、地震の影響のため休館している石川近代文学館設立の立役者で、初代館長をつとめた人物です。この頃、まさにその近代文学館設立に向け、福井県三国の高見順文学碑除幕式に参列した川端・伊藤らが金沢に立ち寄って新保氏ともろもろ打ち合わせる中で、より文学への関心を高めるため、鏡花・秋聲・犀星の郷土作家をテーマとした座談会が開催されたようです。こうした強力な援護射撃もあり、翌43年、東京の日本近代文学館に次ぎ日本で二番目となる総合文学館として石川近代文学館が開館しました。
 座談会では、三文豪それぞれの老年の作品について話し合われ、川端曰く「金沢の人は、ふしぎとね、老人になってからよくなるんです。老人になってからもよくなるんですね。室生さんが死ぬ前がそうでしょう。それから徳田さんは、さいごの作品が『縮図』。鏡花さんも、まあ、さいごに『縷紅新草』ですか、ああいうものがありますしねえ。晩年のも、なかなかいいですよ。ぼく、ふしぎだなぁ。中野重治なんていうのも、もっとよくなるんじゃないかと思うんですが。」と発言、新保氏がそれが受け「徳田秋声先生の『仮装人物』に匹敵するものが、あの『かげろふの日記遺文』じゃないんでしょうか。」と述べています。
 「仮装人物」については当館の現在のレコオド展でご紹介しておりますし、「かげろふの日記遺文」については、犀星記念館さんの企画展「むかし、女、ありけり―犀星の王朝小説―」で紹介中。このあたりを知っておけば、放送中の大河ドラマもよりよく理解されるかもしれません。そして源氏物語繋がりでいえば、石川県立歴史博物館に会場を借りて、27日から開催予定の石川近代文学館おでかけ展示「くらべる文学展in歴博」において与謝野晶子、谷崎潤一郎らの現代語訳がそれぞれ紹介されるもよう。いかんせん歴史ある第四高等学校の校舎を利用した、日本で二番目に古い文学館ですから建物に傷みこそ生じてしまったものの、そんな状況でも世に文学を届けようぞ! といった石川近代文学館さんの気概が窺える出張企画です。それを象徴するようなビタミンカラーのチラシビジュアルにバァと見えるのは、秋聲遺品のサンタ。鬚が燃えてなお元気そうな「仮装人物」のあのサンタ。あの建物を出るのはどれくらいぶりですか?? 久々の遠足に、いつもは折れている帽子の先まで嬉しそうです。





ただ、有難き卯辰山めぐり
 
 2024.4.22

 20日(土)、金沢建築館さんご主催によるイベント「徳田秋聲記念館×金沢建築館 学芸員と登る卯辰山・徳田秋聲文学碑」が開催されました。参加者のみなさまにおかれましては当館にご集合・受付ののち、すぐにでも登りたいきもちをクッとこらえて、当館内で秋聲と卯辰山のゆかりについての解説をお聞きいただきました。今日この日に合わせ、秋聲の再現書斎には「室生犀星自筆 文学碑文原稿」(屏風仕立て)が出現! 碑の向かって左側に嵌められております陶板に刻まれた、犀星筆になる秋聲の文業の原稿となったものです。この制作は昭和23年4月8日と犀星日記に記されており、前日に秋聲長男一穂が来訪、依頼を受け、翌日さっそく執筆。15日には、設計者である谷口吉郎と一穂がやってきて「誤字を訂正した」とあり、それを踏まえて原稿をよく見ると、秋聲の代表作「黴」や享年の「享」の字を修正した跡が見られます。末尾に「昭和二十二年十一月十八日」と入っていますが、これは前年に未完成のまま敢行された碑の除幕式に合わせた日付。諸事情あって、この碑の完成は昭和28年11月18日、除幕式から6年もの月日を要しました。そんなこんなをお話ししたのち、一向はいざ卯辰山! 天神橋から帰厚坂、菖蒲園、卯辰山三社をめぐってズンズンズン。と、見て来たように語っておりますが道中のご案内はすべて建築館学芸員さんたちにお任せして、当館はゴール近くのカフェひよこまめさんでしれっと合流。や~けっこうキツかったですね~みたいな顔をして、ちゃっかり美味しいドリンクもいただきながら、建築館学芸員さんによる碑の成り立ちについてお聞きします。
 それから秋聲の生家ってばあのへんですかね、と街を見下ろしつつ、望湖台の秋聲文学碑に到着です。こちらでも建築的な構造のお話を伺って(土塀の形をしているけれど中は鉄筋)、谷口先生による造形のひとつである花台に秋聲の好きな薔薇の籠を置かせていただきました。完成当時の新聞記事には、秋聲愛用の筆が碑の周囲に埋められる予定・・・と書かれていますが、実際にはどうなのでしょうか。横のほうから碑の裏側にまわり、建碑の実働部隊となった宮川靖・加藤勝代による「おぼえ書」を紹介して、見晴らし台へと移動です。この場所でかつて栄えたヘルスセンターについてご解説いただき、下山(というか、秋聲一味のみ離反)。健脚のみなさま、ひとりの脱落者もなく、元気に館に帰ってこられて一安心です。参加者のみなさまをはじめ、建築館さま、ご企画と運営ほんとうにありがとうございました。イベントのきっかけとなった企画展、6月2日までの開催となります!(当館の犀星筆碑文原稿展示も同日まで)





「秋聲と三味線・金沢昔語り」
 2024.4.18

 遅ればせながら13日(土)、レコオド展関連イベント「秋聲と三味線・金沢昔語り」を無事に開催することができました。ご参加のみなさま、ありがとうございました。座席をしっかり作って…というのは初めての書斎会場にて、窮屈な環境を強いまして申し訳ございません。かつまた、あのスペースの魅力は適度な閉塞感…すなわち、ハーイ再現でーーす! というあけっぴろげな雰囲気でなく、いかにもそこで秋聲が執筆していそうな、ひとさまのお家・100年前・ことに密度の高い作家の書斎――といった閉塞感にこそございますので、それを物理で言いかえると死角が…死角が多い…! あの壁が! この柱がッ! とそうしたさまざまな障壁を乗り越え、そして見通しの甘い記念館一味に急遽、玉井さんのご人脈により音響のご専門家さんが手助けに入ってくださり、おかげさまで思う形のイベントの実現にいたることができました。
 当日は玉井明日子さんに秋聲の短編「少年の哀み」「挿話」の一部をご朗読いただき、それに千本民枝さんの三味線が時に切ない旋律を奏で、はたまた作中で歌われる小唄をはさみ…といった、普段からユニットでも活動されているお二人だからこその掛け合いを見せていただきました。ことに玉井さんによるネイティブな金沢弁のお絹と、千本さんによる愛嬌満点の九官鳥の合いの手が最高でしたね…! 「挿話」ならば99年前、たしかにここに生きた人々の声が再現され、さらにそこで演奏されていたであろう音で彩っていただけるという、あまりに贅沢な時間と空間をつくっていただきました。とくに「挿話」は東の廓を描いた作品ですから、隣家から「越後獅子」のおさらいが聞こえ、「春雨」でお稽古をつけてもらうおちびさん…はは~こういう雰囲気のなかに秋聲は滞在していたのかしら…とよりいっそう五感を交えた想像が膨らみます。
 また、最後にお二方からこの日のためにお召しくださったお着物についてもご紹介いただき(敢えて古いものをご手配くださったそう)、最初は(何が始まるのやら…!)とさぐりさぐりでいらしたお客さまも最後にはすっかりリラックスしたご様子で「きれいねぇ~」と感嘆の声をあげてくださっておりました。玉井さん、千本さんのお人柄のお力も大きかったように思われます。お二方、五年越しの企画に笑顔で再集結くださいましてありがとうございました!





否定する箇所を
  2024.4.17

 15日、例月のMROラジオ「あさダッシュ!」さんにお邪魔して、レコオド展から6月の講演会のお話などをさせていただきました(そして大事なことを言い忘れましたが、6月15日イベントのお申し込み受付は5月1日からとなっております)。その際、館としてお客さまをお迎えする姿勢についてのお話となり、残念ながら秋聲作品を読んだことがないという方も多いご時世に…という話の流れから、読んだことがないから館にも行かない、一作も読んだことがないのに行ってもいいのか…と仰る世のお声をちらほらお聞きするけれども記念館をこそぜひ出会いの場にしていただきたい、「知らないだろう」と思って展示をつくっている……と今書きながらも指が震えるほどの、あまりに傲岸不遜な発言をしてしまったことをこの場を借りて深くお詫び申し上げます。これは完全に言葉のチョイスを間違えまして、ほんとうに申し上げたかったのは「知っているだろう」と思って展示をつくらないようにしている、ということでございました。
 たとえば、紅葉が…と書き出したときに誰しもが「尾崎紅葉」と思わないかもしれない、よって最初は必ず「尾崎紅葉が」と書くとか、もうかえってうるさいと思われるかもしれないけれども一度は「秋聲の師」と関係性について言及してみるとか、「徳田末雄」とは秋聲の本名であるとか、正田順太郎は秋聲の二番目のお兄さんで、正田家に養子にいったので正田を名乗っているとか、「黴」とは作品名であって秋聲の出世作であるとか、下手すればものごとを単純化しすぎるラベル貼りのようにもなりかねませんけれども、極力、館側の思い込みや当たり前を廃し、そうした目線は忘れないように心がけている…ということを申し上げたかったのであって、否定すべき箇所を思い切り間違ってしまった結果のソレなのだとどうかどうかご理解のうえ、お聞き流しくださいますようお願い申し上げます。あとで気づいても生放送につき…取り返せず…。気を引き締めて、謙虚な心で、来月もまたどこかでお邪魔させていただく予定です。
 その後、目の前を暗くし、否定する箇所を…否定する…と口のうちでボソボソ呟きながら、週末のイベント下見のため、卯辰山にのぼってまいりました。浅野川沿い「秋聲のみち」の桜の花はすっかり落ち、若葉眩しい姿となっていますが、山のうえの桜はまだ少し残っている様子。中でも文学碑のある望湖台下のしだれ桜が美しく、これは20日まではさすがにどうか…なお文学碑界隈は黙ってじっと座っていればちょっと肌寒い感じでした。登山後、汗が冷えると余計に寒く感じましょうから、羽織を一枚持参されることをおすすめします。



 


イベント続々
  2024.4.12

 明日の朗読×三味線イベントの次は、きれいに一週間後の4月20日(土)、金沢建築館さまご主催による「徳田秋聲記念館×金沢建築館 学芸員と登る卯辰山・徳田秋聲文学碑」ですね! 昨日遅ればせながらX(エックス)のほうでダダダッとリポストさせていただきましたように、建築館さまによる入念なる下見登山…! 秋聲のことで一生懸命になってくださりありがとうございます…。多少の雨天では決行のようですが、お写真をみればやはりきれいな晴天のもとで登りたいもの。記念館一味はいつもつい秋聲文学碑ばかりを一心に目指して直行してしまいがちですが、見どころと歴史満載の卯辰山です。手放しで鑑賞・散策できるよう、ぜひお天気になってくれることを祈ります。
 なお当館学芸員は秋聲記念館でイベント受付をおこない館内ですこしお話をさせていただいたのち、先回りして山のどこか上のほうで待機をさせていただく予定です。道中のご解説を伺えないことは残念ですが、膝に古傷を抱えておりますので(嘘です。それは秋聲のお話)、孤独になりたい「向山等」気分でもって、本を懐にして、谷から聞えて来る薪割りの音と、時雨のような松の枝葉の風の音とを耳にしながら、草のうへに足を投げ出してみなさまのご到着をお待ちしております(このあたりのくだりの正しい使い方につきましては秋聲の自伝小説『光を追うて』をご参照ください)。
 さらにこちらが無事終了しましたらば、開催自体は再来月になりますが、庄司達也先生によるレコオド展関連講演「音楽から出会う近代の作家たち―夏目漱石、芥川龍之介、堀辰雄らを話題にのせて」の気配がぐんと近づいてまいります。本催事の申込受付開始日が5月1日(水)9時半~に決まりましたので、当HPイベントページにも追記いたしました。今回はがっちり平日からで申し訳ありません。たくさんのみなさまのご参加をお待ちしております。





イベントリハーサル
 2024.4.11

 新年度がはじまって10日が経ちました……早いですね……! その間に「秋聲のみち」沿いの桜は満開になり、7日の開館記念日をスルーする当館のいっぽう、心優しいお方より「おめでとう~!」のご連絡をいただき、アッ…アッ…19歳になりましたッ! と来年の20周年を前にぼんやりしている感丸出し…。またベテラン職員さんの卒業に涙し、初々しい職員さんをお迎えし、桜が終わってしまう前に、新体制で年度初のイベントを成功させねばなるまいね! と昨日閉館後にリハーサルをおこないました。
 今回の「秋聲と三味線・金沢昔語り」では、東の廓(ひがし茶屋街)を描く短編「挿話」をメインに、ご挨拶代わりに前回の自筆原稿展でご紹介していた「少年の哀み」をさわりだけご朗読いただくこととしております。15歳の姉おみよと13歳の弟順吉…十五~でねえやは、嫁にゆき~♪を地でゆく物語(三木露風作詞・山田耕筰作曲「赤とんぼ」より)。「赤とんぼ」のほうの〈ねえや〉はどうも実のお姉さんではないようですが、秋聲の「少年の哀み」は実姉かをりがモデルとなったと言われています。かをりは慶応2年生まれ(わかりやすい目安として紅葉、漱石らは慶応3年組)ということですので秋聲とは5歳違いということになりましょうか。八木書店版『秋聲全集』別巻年譜によれば、かをりがお嫁に行ったのは秋聲が10歳のときとありますので小説では年齢設定を少しずらしてあるようです。これまで一緒に近所の芝居見物などに出掛けていた姉。この姉の習う常磐津を聞き覚えたのが秋聲が〝音楽〟を意識した最初の体験……そんな姉が急にいなくなってしまう、変わってゆく〈哀(かなし)み〉がテーマとなっています。そして、上述の山田耕筰は、今回のレコオド展のキーパーソンでもありますので、まさに企画展関連企画にふさわしい演目だと言えるでしょう。
 おかげさまで満席を賜り、かつ会場が1階再現書斎ということで雰囲気はあるのですがかなり狭い座席配置となっており、ご参加のみなさまにはご不便をおかけいたします。遅れていらしたりすると奥の方へは入れませんので、勝手ながらご到着順の指定席とさせていただきます。また昨夜のリハーサルの結果、会場設営の都合上、14時~書斎のご観覧を制限するうえ15時以降はイベント参加者以外ご入館いただけませんので、こちらもご理解のほどよろしくお願いいたします。
 




館報「夢香山」第16号発行
  2024.3.31

 本日3月31日、令和5年度最後の日です。その総括といたしまして、先日発行となりました一年間の活動の記録・館報「夢香山」第16号を当HPにアップいたしました。昨年は秋聲没後80年ということで、その中でもやはり最も大きな出来事として感じられたのが『徳田秋聲俳句集』(龜鳴屋)の刊行でした。つきましては編著者である大木志門先生にお願いして、同書および田畑書店さまによるポケットアンソロジーから大木先生の手がけられた「秋声短篇集」の編纂・発売などについてのご所感をご寄稿いただきました。またご存じ、大木先生は当館初代学芸員として、館のオリジナル文庫を最初に企画された方。今も年に一冊ペースで刊行を続けておりますが、最初に道をつけていただかなければ、ただ世間に秋聲の文庫がないことを嘆くばかりで、館でつくろうという発想に辿り着かなかったかもしれません。そのあたりのことも振り返って語ってくださっておりますので、ご遠方のみなさまにおかれましてはぜひこちらからご高読ください。関係者およびイベント登録者のみなさまには、4月に現物を発送予定です。お時間いただき恐縮ですが、到着まで少々お時間くださいますようお願い申し上げます。
 その他、大きなトピックスといたしましては、昨日の記事とも少し繋がる、長野県は塩尻の西福寺さまより、秋聲関係資料をご寄託いただいたという報告記事を載せております。西福寺さんとは秋聲の妻はまの末弟・英助が幼少期に養子に行った先で、のちに青山英洲の名で第23代住職をつとめました。秋聲はこの英洲をとても気に入っていたようで、はまとともに英洲が住職に就任する際の晋山式に出席した体験を描く短編「花咲く頃」のほか、前回の自筆原稿展で展示していた「骨甕」などにもそれらしき人物を登場させています。その英洲に宛てた秋聲からの年賀状や、秋聲の次女喜代子が作家の寺崎浩と結婚するときに英洲に出された披露宴案内状などの珍しい資料の数々が、これも一昨年の足迹展を機に当館にお預けいただけることになり、実物の公開については未定ながら英洲の貴重な肖像写真は昨日ご案内した研究紀要第21号のほうに掲載させていただきました。
 英洲ご令孫にあたる西福寺の前御住職・青山文規氏からうかがったところによると、大正7年の晋山式のときに秋聲たちが泊まったお部屋を現在お使いになっているとか…秋聲たちのため特別に、ということではなさそうですが、式を執りおこなうためたくさんのゲストをお招きできるようこの時にそのお部屋が増築されたそうで、「花咲く頃」に描かれている情景と、現在のお寺の建物とで重なる部分も多いとのこと。秋聲の観察力や描写力に驚かれていたのが印象的でした。





宮木の御柱
 2024.3.30

 長野は上伊那郡へ出掛けてまいりました。秋聲の妻はまの故郷で、その家を畳んで両親と幼いはまたち5人姉弟が上京した経験を素材に書かれたのが長編小説「足迹(あしあと)」。一昨年の足迹展でたいへんお世話になり、そして今年もまた貴重資料をご寄贈くださった、はまのご縁戚にあたる矢島良幸氏をお訪ねする旅です。
 改めてご紹介申し上げますと、矢島良幸氏とは、はまの妹ちかを養女にした矢島国太郎ご令孫。かつ、この矢島家とはまの母さちの実家・小澤家とは古くから親戚関係にあり、国太郎ら三兄弟を立派な医師に育て上げたビッグマザー・矢島きぬはさちの〝従姉妹(いとこ)〟……ハイ、こんがらがってきましたね! 誰か図にして~…と皆が思うそれを実現してくださったのが他ならぬ矢島良幸氏で、矢島氏がご作成くださった家系図などおうちについての調査結果を、昨春、当館を運営する金沢文化振興財団発行による「研究紀要」第20号に「秋聲と信州―矢島家の〝足迹〟」として掲載させていただきました。その後、さらにお宅から資料が…とのご連絡をいただき、見せてくださったのが秋聲自筆の書簡。宛名は「矢島幸人」、良幸氏の御尊父で、国太郎の長男です(すなわち、はまの妹ちかの義兄)。その内容は、昭和3年のきぬ逝去にあたっての弔意状で、二つ折りの厚紙に貼られお仏壇に保管されていたということです。あわせてお仏壇に収められていたきぬお葬儀にまつわる資料などからわかる秋聲との交流について、今年の研究紀要第21号に続稿として報告させていただきました。紀要は当館ほか施設内ショップに設置するほか、HPのグッズページから通販もご利用いただけます。バックナンバーの掲載一覧も財団HPからご覧いただけますし、財団のほうにご注文をいただければ在庫のある施設からまとめてお送りするシステムとなっております。
 ここ数年にして、はまさん周辺をぐっと掘り下げ明らかにしてくださったのが矢島氏で、秋聲の伝記研究の第一人者・野口冨士男による調査結果をさらに大きく推し進めてくださった形です。そんな矢島氏のお宅近くの宮木諏訪神社の御柱(一の柱)も拝見いたしまして、これが想像以上に長い! 大きい! ここから駅で言うと3つほど離れた小野地区の御柱祭について秋聲が書いているのが短編「祭」(オリジナル文庫『短編小説傑作集Ⅱ』収録)。小野がはまの生地で、明治42年、はまとともに帰郷し、すでに実家こそないものの本家や親戚たちのお家でわちゃわちゃ過ごした体験がもととなりました。





同時代②
  2024.3.23

 中のお話で恐縮ですが、この春、記念館職員6名のうち、なんと4名が3月生まれであることが判明いたしました。ちなみに去る3月20日は秋聲長男一穂さんのお誕生日(前年夏生まれ説もありますが)、そして本日23日は四男雅彦さんのお誕生日、25日は次女喜代子さんのお誕生日であるという徳田家もなかなかの3月生まれ率。さらに24日は雅彦さんのご命日でもありまして、その都度とくに何かしら催すわけではありませんが、気持ちのうえでは3月に大集合…といったそわそわ感で過ごしております。
 そしてまたつい最近、雅彦さんにまつわる嬉しいお話をうかがいました。先日から何かとお名前を出している中原中也の第一詩集『山羊の歌』や、その中也が憧れた『宮沢賢治全集』を刊行した文圃堂社主・野々上慶一と文芸春秋社につとめていた雅彦が懇意であったと、他ならぬ野々上慶一氏のご子息・野々上一郎氏よりお聴かせいただいたのです。昨春、一郎氏の上梓された自叙伝『至誠と愚直と共に』を館にご恵贈賜り、その中にお父様のご縁で出会った文壇人のうち〝憧れの人〟として登場するのが作家の大佛次郎と雅彦さん。一部引用させていただきますと、あるときお父様につれられ参加した会合において「その中で座の中心人物で気品のある壮年紳士が気になりました。大声を出すこともなく、時々小さな笑いを誘って、盃を重ねて、いくら飲んでも決して乱れない素敵な方でした。作家徳田秋声さんの三男か四男の徳田雅彦さんでした。皆さん親しみを込めて『マーちゃん』と呼んでいました。当時、文芸春秋社の重役かその一歩手前ではなかったかと思います。父も懇意にしていたようで、奥様を連れて拙宅に立ち寄られたこともありました」と…。あわせてお送りくださった、そうした定期的な会合のお写真のうちにはこんな一枚も→
 右から、慶一氏、雅彦、文芸評論家で中也の友人としても知られる河上徹太郎です。おおお…なんと贅沢なスリーショット…! こうしたところで繋がってくるのですね。しかも文圃堂は本郷森川町、東大のすぐ近くにあったといいますから徳田家ともご近所。きっと最初はそんなお話でも盛り上がったことでしょう。
 一郎氏が雅彦さんを語るときの、「優しいひとでねぇ…」というあたたかいお声の響きが印象的であるとともに、別々の会合の機会を含んで複数枚ご提供いただいたどのお写真を見ても、慶一氏と雅彦さんはだいたいお隣同士に座っていらして、その仲良しぶりが偲ばれるのです。





同時代
 2024.3.20

 おととい、例月のMROラジオ「あさダッシュ!」さまで開催中のレコオド展についてご紹介をさせていただきました。その際、お話ししたイベントのうち、4月13日(土)の「秋聲と三味線・金沢昔語り」はおかげさま残席わずか。折良く本日18時半頃、テレビ金沢「新金沢小景」で演者のおふたりのご活動が紹介されるとのことですのであわせてご覧くださいませ(予定)。なお当日は会場の都合により15時以降、イベント参加者以外ご入館いただけなくなります。ご不便をおかけしますが何卒ご留意くださいますようお願い申し上げます。
 6月のほうの記念講演「音楽から出会う近代の作家たち―夏目漱石、芥川龍之介、堀辰雄らを話題にのせて」につきましては、5月上旬よりお申し込み受付を開始する予定です。おととい講師の庄司達也先生より新たにイベント概要についてのコメントを頂戴し、HPに追記いたしました。ここへ来てサブタイトルになかった梶井基次郎や中也のちゅの字が出て来ましたね! ご存じ庄司先生はつい先日も堀辰雄旧蔵レコードを蓄音器で実際に聴くというイベントにご登壇。以前には県立神奈川近代文学館さまで上記イベントの中也バージョンを開催されたこともおありです。先日の記事で、展示では中也のことを紹介できなかった…と書きましたとおり、中也だけでなく秋聲と同時代の他の文士たちの音楽受容にまったく触れることができず(白鳥や秋江はすこしだけ出て来ます)、この時代の音楽の影響をまるで秋聲だけが受けていたように伝わってしまってはいけない、との思いから、この講演では実際に音楽を聴くということよりむしろ出来るだけ秋聲以外の文士たちにまつわるエピソードを広くご紹介くださるようご依頼をさせていただきました。中也の30年という短い生涯に比べ、73歳で亡くなった秋聲。その長さだけ見れば大きな差がありますが、生きた時代はちょうど秋聲の人生の帯(明治4年~昭和18年)のうしろのほうに中也の帯(明治40年~昭和12年)がすっぽり入る、そんな関係性となります。ふと気がつけば、秋聲を中心とする「あらくれ会」機関誌「あらくれ」昭和13年5月号に、中也没後に出版された第二詩集『在りし日の歌』の広告が載っていたりなど…(中也は「あらくれ会」のメンバーではありませんし、おそらくふたりに面識はないと思われます)。
 具体的な受付開始日につきましては、4月以降、改めてご案内申し上げます。



 


追う光のまばゆくて
   2024.3.18

 当館の三味線イベントの一週間後には、谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館さまのご主催で「徳田秋聲記念館×金沢建築館 学芸員と登る卯辰山・徳田秋聲文学碑」なるイベントが開催されます! アッ…なんだかうちの名を先にだしていただいて…へへ…恐縮です……現在、同館において企画展「谷口吉郎とみんながつくった建築―藤村記念堂と徳田秋聲文学碑、そして博物館明治村―」を開催していただいている関係により。行程といたしましては、4月20日(土)13時に当館にご集合いただき(12時半からロビーで受付予定です)、当館学芸員によりすこし館内で解説させていただいたのち、建築館学芸員さんの引率で卯辰山ハイキングに出発、山のうえにある「caféひよこまめ」さんで一服して、望湖台の秋聲文学碑前で当館学芸員もまじってすこしまたお話をば。それから見晴らし台で市街を見渡して下山、当館に帰着、といったルートです。主催・お申込先は建築館さまですが、集合・解散は当館となりますのでお気をつけ願います。参加受付は明日19日(火)11時~。詳しくは建築館さまHPよりご確認ください。
 開催中の当館レコオド展では触れておりませんが、ここ一年のレコオド脳でもって卯辰山を見上げれば、ひとり思い出す人物があり、そして流れる短歌がこちら。「向ふ山に人のぼるみゆヂラヂラと春近き日の光まばゆくて」――金沢ゆかりの詩人でレコード趣味のあった中原中也の作です。「向ふ山」が卯辰山の別称であるとはこちらでも何度となくご紹介するところで、秋聲の自伝小説『光を追うて』の主人公の姓も「向山」。谷口先生ご設計による秋聲文学碑の隣には、本の形をした「光を追うて」碑もあり、〈向山等〉こと秋聲が少年時代からこの山を行きつけにしていたというくだりが記されています。
 中也のこの短歌につきましては、金沢ふるさと偉人館前館長・松田章一先生が中也記念館さま館報第16号に寄稿された「金沢の中也のこと二三」で考察されており、仮にこちらに則って、秋聲をなぞって登るイベント参加者ご一行さまの背を中也が兼六園からあの大きな目を細めながら眺めている…と想像するとちょっと愉快ですね!(※想像です) 「向山」の美称をその名に用いました当館館報「夢香山」第16号もちょうど出来上がったところです(追ってHPにアップいたします)。
 




企画展・イベント始動
 
  2024.3.15

 本日、展示替え最終日です。徳田家所蔵のレコードもまじえ、5年ぶりに卓上蓄音器ゼニスをケースに収めてみました。中に乗せているのは秋聲が好んだマレーネ・ディートリッヒのレコード(ちなみにチラシにぼんやり写る紫のラベルのものはやはり徳田家所蔵のベートーヴェンです)。館で新たに制作いたしましたCDの背景を視覚的に補完する企画展として、あわせてお楽しみいただけましたら幸いです。
 そして明日、企画展初日の16日(土)9時半より、関連イベント「秋聲と三味線・金沢昔語り」の申込受付もスタートいたします! 先日、新聞広報欄に掲載されたことで、ありがたいことにすでに複数お申し込みのお電話をいただいているのですが、申し訳ありません、受付は土曜からとさせていただいております。イベント情報周知に有力な、新聞に広報の載る火曜がちょうど館の定休日にあたること、また平日はお仕事で土日休みの方が多いのかも…との思いから、平日の受付だけでお申し込みがいっぱいになってしまわないよう、原則、広報掲載から直近の土日受付スタートとさせていただいております(当館含め、土日こそお仕事なんだい! という方、申し訳ありません…)。
 実はこのイベント、令和元年度のレコオド展第一弾のときに企画されたものでした。ご出演の玉井明日子さん(朗読)、千本民枝先生(三味線)と打ち合わせを重ね、リハーサルまでおこなっておいてコロナにより泣く泣く開催を断念したもの。当時お申し込みくださっていたみなさまおひとりおひとりにお電話でその旨を伝え、お詫びしたときのことを覚えています。その後、様子を見つついつかリベンジを…と思っていたものがきれいに5年経ち、第二弾にあわせてついに開催の運びとなりました。 
 タイトルこそ同じですが、内容は大幅に変わったかもしれません。おふたかたはユニットでもいろいろとご活躍で、5年の間にも積み重ねられたご活動実績のうえに改めて企画を練り直しました。今回はひがし茶屋街を描く名作「挿話」をメインテーマに、朗読と、同作ほか秋聲作品に登場する小唄・端唄・長唄などの三味線演奏を絡めてご披露いただきます。当日もご説明申し上げますが、三味線の音色とよりよく絡むよう、館のほうで「挿話」も一部脚色をさせていただきました。玉井さんのお声にBGMのように三味線の音色が敷かれたり、あるいは小唄そのものを朗読の合間に挟んだり、ひとつの新らしい演目として構成してみましたので、4月13日(土)ぜひご鑑賞いただけましたら幸いです。しかも舞台は秋聲の再現書斎! これもまた新たな試みです。



 


「丸薬」後篇
 2024.3.14

 急ぎ後編もアップします~、と言っておいての綺麗に10日後です。無邪気に嘘をつきまして申し訳ございません。前半ではまだ何も始まっていない「丸薬」、後半から一気に物語が動きます。本日やっとこさ「不定期連載」に続きをアップし、その作業過程に抱いた違和感をふと数値で確認してみましたところ、(一)なる前半の文字数が2500字…(二)の後半で4600字…! バランス! そんなわけで物語の胆の多くが詰め込まれている後半戦、地味に情報量も多く、ひとつひとつ丁寧にみれば徳田家・正田家をめぐる人物相関図などいろいろなエッセンスが散りばめられているには違いないのですけれども、やはり最後のお手紙のくだりにすべて持っていかれる…なんと愛おしい結末ではございませんか。もし、モデルとなった秋聲次兄・順太郎さんのこのお手紙が実際に存在していて、そして実際に丸薬云々と記してあったならば小躍りしてしまうこと間違いなしです(その場合、あわせて徳田家の耳掻きもセットでお借りしてくることでしょう)。
 そうして「丸薬」テキストを「不定期連載」に流し込む作業と同時に、本作が引き出されるそもそものきっかけ、順太郎が宝生九郎に弟子入りを志願した際の許可書を企画展示室にお出しいたしました。これまでに画像を展示したことはありましたが、実物公開は今回が初。この話をしたいがために話題にのせた「丸薬」でして、ほんのすこしながら確かに謡のくだりが出ていましたね…! 許可書の発行は明治40年、「丸薬」の発表は明治44年、素材との時間軸も概ね一致するようです。また順太郎は明治25年、34歳で結婚し、明治30年代には岩根町(現金沢市瓢箪町)のお屋敷に転居していますから、ここに言われる〈市の静かな方にあった〉〈その家〉とは、まさに現在の町家ホテル「町の踊場」を指すのでしょう。今はカフェに生まれ変わったその蔵に、かつてはかなりの骨董品が…舞台は東京ながら、そんなことも想像される「丸薬」です(写真中央が義父でしょうか、右隣が順太郎)。
 ご報告が遅れましたが、現在、次回レコオド展のための展示替え休館をいただいております。3月14日現在、ほぼ資料は入れ終わりまして、残る明日一日で最終確認をしてまいります。
 


 


「丸薬」前篇
  2024.3.4

  先日ご紹介した秋聲次兄・順太郎の謡曲趣味につきましては、秋聲の小説「丸薬」などでも触れられています。順太郎は武士であったころの徳田家の主君・横山家につき従い、版籍奉還後、横山家の経営する小松市の尾小屋鉱山で鉱山所長をつとめていました。その順太郎が明治43年、山形県の大蔵鉱山に派遣され、行き帰りに東京の秋聲宅に寄ったときのことを書いたもの。ご参考までに、本日「不定期連載」に同作をアップいたしました。が、前後編に分けたら肝心のくだりが出て来ず…急ぎ後編もアップいたします。
 前半では順太郎をモデルとする〈浩二〉と、秋聲をモデルとする〈友雄〉のやりとりのうちに彼らの背景が語られてゆきます。作中、実子がない、と紹介される順太郎には実は娘がひとりいたようで、しかし夫人と離縁し、夫人はそののち茶屋町へ流れてゆき…とは秋聲が本作のほか自伝小説などでも何度となく回想するくだりです。このあたりに秋聲が幼少期を過ごした金沢の地域性が滲むと同時に、順太郎が謡を習いはじめたきっかけにも、やはり土地のバックボーンが大きく絡んでくるようです。
 徳田家がもとお仕えしていた横山家は、地元能楽に対する最大の庇護者であったそう。順太郎・秋聲兄弟の代と重なるのが、尾小屋鉱山の経営にあたった横山本家・隆平男爵と〝北陸の鉱山王〟と呼ばれた叔父の隆興で、彼らは明治34年、「金沢能楽会」の設立にかかわっていました。同会発起人代表は四高校長であった北条時敬と隆平男爵(初代会長)、そして隆興は幹事長をつとめており、順太郎にとっては今なお上司にあたる横山家の人々がこれほど熱心に活動しているのですから、順太郎にその影響が及んだこともまた想像されるのです(ちなみに画像の大蔵鉱山派遣に関する任命書の署名「横山章」は隆興子息)。
 また、「秋聲蓄音器」があれば、「順太郎蓄音器」もございます。ご存じ、順太郎旧宅を改装して町家ホテルとして営業されている「町の踊場」さん併設の蔵カフェの中に。修理して、なんと現在も音を鳴らすことができるそうです。
 それでもって何を聴いていたかまではわかりませんが、順太郎宅に泊まった際、秋聲も一緒になってレコードの音色を楽しんでいたかもしれません。





兄の声
 2024.3.1

 前回触れた百閒の「漱石蓄音器」は、百閒の思う漱石の音楽趣味を主旨とする随筆でした。とある上野の音楽会に一緒に出掛けた後日、あのヴァイオリン・コンチェルトが面白かったですよねーと話しかけると、〈先生は面白いとは思ふけれど結局器楽では物足りない。器楽の妙味は人の声に及ばないと云はれた〉と言い、〈どうも漱石先生は音楽が好きではなかつた様に思はれる。小宮さんの「夏目漱石」に音楽が出てこないのも、さう云ふ事を思ふから気になるのであつて、突き詰めて考へると、漱石先生が謡をやつたのも、音楽の方面では潔癖でなかつた為であらう〉と。このあと、そんな漱石が蓄音器を買ったのは~その蓄音器は漱石没後~(思い違い)と続きます。
 この漱石が〈謡をやった〉点に絡んでくるのが高浜虚子で〈氏(※漱石)は熊本に居る頃加賀宝生を謡う人に二、三十番習った事があったので、誰か適当な宝生流の師匠はなかろうかと言われた時に、私は松本金太郎翁を推挙したのであったが、遂にそれは宝生新氏に落着いて私らと同流の下宝生を謡うことになった〉などと、随筆「漱石氏と私」に記すとおり(テキストは「青空文庫」さまよりお借りしました)。また、〈漱石氏は熊本で加賀宝生を謡う人に何番か稽古したということであった。廻し節の沢山あるクリのところへ来て私と漱石氏とは調子が合わなくなったので私は終に噴き出してしまった。けれども漱石氏は笑わずに謡いつづけた〉と、漱石宅でともに謡い合わせた思い出も語られています。きっとこうしたところから秋聲と虚子と漱石が一緒に能の舞台を…というお話に繋がってゆくのでしょうけれども、今回はそこでなく、何せついに本日よりオリジナルCDの通販受付開始…! 当館の気持ちはまだ蓄音器、ひいては音楽とともにございますので、漱石から加賀宝生に飛び、加賀宝生から順太郎に飛ぶ……というわけで、次回レコオド展では「音楽」の枠を広くとらえ、秋聲次兄・正田順太郎が宝生九郎に入門を願い出た際の許可書を展示いたします。鳥猟と謡は武士の嗜みと言いつつ、順太郎さんが謡を習いはじめたのは五十歳になろうという頃で(明治40年)、そこには徳田家の旧主・横山家の影響があったもよう。鳥猟と同じく、ひとまわり年の離れた弟・秋聲にはなかった趣味のひとつです。





お詫びと訂正②
 
 2024.2.25

  前回記事のつづきです。出典も書かずに恐縮ながら、百閒が漱石没後、ご長男の純一氏から蓄音器を譲り受けた…とは、百閒の著書『漱石山房の記』(秩父書房、昭和16年)により知りました。「漱石蓄音器」の章にある記述をそのまま信じ込んでしまったものですが、メールをくださった方によれば、漱石次男の伸六氏がそれを否定されているとのこと。氏の著書『猫の墓』(河出文庫/初刊:文芸春秋新社、昭和35年)の「思い違い」の章に、その蓄音器は漱石没後、子どもらで母親にねだって買ってもらったもの、と書かれているそうで、となると漱石の遺品でないということに…。この「漱石蓄音器」は百閒の『鬼苑横談』(新潮社、昭14年)や『漱石雑記帳』(湖山社、昭和24年)にも収録されているようで、またその同じ蓄音器について、やはり漱石が初めて購入したものを没後にもらった…と書く「蓄音器」の題のついた別の随筆が『鶴』(三笠書房、昭和10年)に収録されていることも教えていただきました(これらは国会図書館デジタルで読むことができます)。メールには、差し出がましくすみません、とも書き添えてくださっていましたが、いえいえいえこちらこそよく調べもせず、文学館としてあるまじき事実誤認でございました! すぐにお知らせくださり、ありがとうございました。一日遅れてしまいましたが、上記訂正のうえ、謹んでお詫びを申し上げます。
 誤りに誤りを重ねてしまったところの中身、上記の〝遺品〟問題にも覚えのある、といいましょうか、頭の痛いお話で、特に徳田家も同じ家に秋聲・一穂と作家がふたりいるものですから、これはどっちの?? となることがよくございます。「漱石蓄音器」ならぬ「秋聲蓄音器」も、大正期のと昭和初期のと二台あり、どちらもふたりともが存命中に製造されたものにつき、えっ、買ったのどっち…? となり、前者は一穂さんが母にねだって買ってもらった、と書いているので父秋聲も許可したうえで「徳田家」で購入したもの…? 後者ははて…? といったところ…明らかに戦後に発売したものでない限り、徳田家所蔵レコードコレクションについても同じことが言えるのです(きっとふたりで聴いていたとは思いますが…)。





お詫びと訂正①
 2024.2.25

 『去る2月22日は高浜虚子の生誕日でありました。しかも今年生誕150年という大きな節目! 秋聲の3つ下ということは、この日長い休館からカムバックを果たされた某K花さんの1つ下…お誕生日とカムバック、おめでとうございました。
 そんな記念の年ということで、当館でもこの夏、虚子と秋聲にかかわる企画展を開催予定にしております。ただこのご両人、現在把握している限りではそこまで深く個人的にお付き合いがあったわけではなさそうですので、「虚子と秋聲」は副題に据え、どちらかというと虚子の斡旋で「国民新聞」に発表された秋聲の名篇「新世帯」と「爛」という作品本位の展示内容となりそうな予感。その背景にある出来事として、虚子や漱石との交流についてご紹介できればと考えております。そう思うと、2月21日が「漱石の日」、2月22日が虚子生誕日と関係者がなんだか続いておりますね。
 とはいえ今はまだ3月開幕の「レコオド展」第2弾の準備中につき、気持ちは蓄音器とともに。そして蓄音器関係の文献を読んでおりましたらば、関連年表の中の昭和10年の記述にこうありました。「3月1日、高浜虚子、日蓄に自作の俳句吹き込み」――えっ、このレコードは残って!? と検索してみましたら、この時のものでないにせよ虚子の肉声につきましては日本伝統俳句協会さまのHPでしっかり聴かせていただけるのですね…! 春夏秋冬、なんと手厚し有難し。昭和22年6月16日、キングレコードスタジオにて録音されたものだそうです。また、虚子生誕150周年記念オンライン講座のお知らせなども掲載されており、生誕150年の盛り上がりを感じます。
 漱石の肉声も「平円盤」いわゆるレコードの形でなく、初期の「蝋管」に残っていると聞きました。ただ残念ながら状態がわるく聴くことはできないそうで、二松学舎で製作された漱石アンドロイドの声はご令孫のものを元にされていると…ついでに漱石旧蔵の蓄音器は内田百閒に譲られたと…掘ればいろいろ出てくる文士とレコオド話』――といった内容を2月24日に数時間ほどアップしていたのですが、お読みくださった方から、その百閒の蓄音器、実は漱石のじゃないんですよ! とご指摘のメールをいただきました。慌てて当該記事を削除し、改めてこちらを書いております本日2月25日。その顛末につきまして2回分を使ってお詫びと訂正をさせていただきたく存じます。

                                 (つづく)




秋聲の先生たち
 2024.2.22

 〈森川町の先生と言っただけではわからないかも知れない。それは徳田(秋声)先生を僕たちの間でお呼びする呼称である。
 先生は此頃しきりと庭を気にされるやうだ。植木職人もよく出入りするやうになった。
「僕も自分で庭を造ることが出来るといいのだが……室生君(犀星氏)のやうに自分にいぢられるとね。矢張り人にまかしておくと何か気に入らない所が出来るものですよ」 
 先生はさう云って、室生犀星氏をうらやましがられる。そして僕などを相手に、あすこを何(ど)うしやう、此処には何を植えやうなどゝ話されるのだ。すると僕はまた僕で臆面もなくいろいろと意見を述べ立てるのである。 
「君はなかなか庭などもわかるのだね」
 先生は言はれる。
「それや先生、わかるといって、理屈なんか何うなってるか知りませんが、あすこが煩はしい、ここが物陰だ位のことは僕にだってわかりますよ」
などと、僕は度胸をすえるのだ。するとまた先生は
「僕だってさうですよ。それでいゝんだね、それでいゝんだね」と云ってうなづかれる。〉

 以上、昨日と同じ『宮川靖遺稿集 青芥子抄』から「森川町の先生」でした。ここでの話題はお庭づくりですが、これはそのまま次回レコオド展のメインテーマとしてご紹介する山田耕筰と秋聲との音楽をめぐるやりとりに通じます。新しい音楽に出会ったとき、「わからないながらになんだか胸がふわふわとしたよ」と言う秋聲に、「頭でわからなくていい、胸で感じればそれでいい」と教えてくれた耕筰……同じ精神性だと言えるでしょう。山田耕筰は明治19年生まれ、宮川靖は明治36年生まれ。秋聲は明治4年ですから、ふたりともに随分と年下になるわけですが、秋聲には年下の先生がたくさんいたもよう(犀星さんも18歳下)。年上だろうが年下だろうが、こうした言葉に素直に耳を傾けるのがシュウセイズムというもので、「それでいゝんだね、それでいゝんだね」と二度繰り返しながら頷くところに秋聲の心が透かし見えるような気がいたします。理論的に、知識として知らなくてもよい、(なんかいやだな)(なんか好きだな)――それでいゝんだね、それでいゝんだね。
(左が宮川氏、右は秋聲四男雅彦)



  


徳田家の英語の先生
 2024.2.21

 今朝ほど、MROラジオ「あさダッシュ!」さんにお邪魔し、まるで自分のところの企画のように、金沢建築館さまで開催中の「谷口吉郎とみんながつくった建築―藤村記念堂と徳田秋聲文学碑、そして博物館明治村―」展についてご紹介をさせていただきました(無断)。サブタイトルに秋聲のしゅの字が入っているので、勝手に宣伝しても許されるかと思いました。こちら、先日図録もご恵贈賜り、当館ではそうした冊子を作っていないものですから今ほども持参し、今後すり切れるまで拝読のうえ、まるで自分のところの制作物のように永く愛用いたしたく存じております(通販はこちらから!)。
 お話しした碑のあれこれにつきましてはぜひ展示でご覧いただきたく、さらに藤村記念堂や明治村をめぐるイベントもおありですのでぜひ建築館さんHPよりご確認ください。こちらではラジオに洩れた内容から、先日正宗白鳥の英語力のお話をいたしましたところ、秋聲も英語の先生をしていたことがあったな、と思いだし、そこから宮川靖氏も英語の先生をしていたことがあったな、というところまで脳が巡りましたので、そんなお話です。宮川靖氏とは、秋聲文学碑建設にあたった実働部隊のおひとり。当時、金沢市役所の職員で、北國毎日新聞社の加藤勝代氏とともに文学碑裏面の「おぼえ書」に名を刻むお方です。彼らふたりが戦後(秋聲没後)、長男・一穂さんに相談にやってきたところから文学碑建設計画は具体的に動きだしました。
 その宮川氏、実は生前の秋聲とも面識があり、昭和のはじめごろ徳田家で秋聲三男・三作さんに英語を教えていたそうです(氏は東京外国語学校中退)。三作さんは昭和3年、脊髄カリエスに罹り、間もなく中学校へ通えなくなってしまったため家庭教師を依頼されたということで、〈三ちゃんの英語を見るといっても、リーダーのⅡかⅢ程度のものを読んで、訳をつけて、質問があればそれに答えてあげればよかった。病弱だったせいもあろうが温厚(おとな)しい子で、勉強もそれほど興味がないのか、あまり積極的な質問もしなかった。しばらくして知ったことだが、三ちゃんの上に仏英和(女学校)へ通っている姉さんがいた。それなら、何もわざわざ僕に教わらなくても、その姉さんが教えてあげればよかりそうなものだが、家族一人一人が自分の生活を守っていて、兄弟でも日常お互いにあまり交渉することがなかったのかも知れない。〉と『宮川靖遺稿集 青芥子抄』に記されています。はま夫人亡き後の家庭内における自治制度が垣間見えるよう・・・そんな三ちゃんは昭和8年、18歳で亡くなりました。

                                  (つづく)




失敗しない白鳥
   2024.2.19

 「寒天の日」に引き続き、昨日2月18日は「エアメールの日」であったそうです。明治44年のこの日、世界で初めて郵便物が飛行機で運ばれたことにちなむとか。エアメールと言って思い浮かぶのはやはり正宗白鳥で、一度も外遊をしたことのない秋聲と異なり、その生涯に二度世界漫遊旅行に出掛けている白鳥からは、秋聲に宛て、昭和4年1月にカリフォルニアから、同年7月にロンドンから、昭和11年10月にパリからエアメールが届いています。
 この寸々語でまだご紹介していないものといたしましては最初のカリフォルニアのもの? 厳密に言うと「California」と書かれた便箋を使って、すでに当地を離れ、ニューヨークへ向かうアメリカ大陸横断列車の中で執筆されたお手紙です。
 〈カリホルニアに一ヶ月半滞在 只今、大陸横断の車中にあり、荒野相つゞき候へど、雪積もり、なかなか面白し〉、〈健康も却つて日本にゐるよりよろし、文壇の事は全然忘れ居候〉などなど展望車でこれを書きながら、広い世界へ飛び出し心から旅を満喫している様子が伝わります。最後のほうには〈「何故に十年早く洋行せざりしか」と後悔いたし居候〉とまで。このあたりは秋聲に深く刺さったことかと存じます。このとき白鳥51歳、ということは秋聲は59歳。若いころから行きたい気持ちはありながら、なんとなくお金もないし~家庭もあるし~行ってなにかレポートするだけの才もないし~みたいにズルズルさせてきた後悔があった模様。
 〈今までのところ失敗一度もなし。膽は大なるべく注意は細心を要す〉、〈(小生の英語も今は用事は弁ぜられ候)〉…弁? …弁でよいのか…展望車が揺れるのか揺れないのか、その影響があるのかないのかわかりませんが、ご存じのとおりの白鳥フォントですから、正直なところ翻刻に自信がなく、しかし胆は大なるべくいっそご紹介を申し上げる次第です。とりいそぎまして、もう英語で用事くらいは伝えられるよ! ということでよろしいかとは存じ、そんな光景を想像しては、フゥ白鳥かっこいい! とシンプルに思うのです(たしか早稲田の英語科ご出身でしたね)。





寒天の思い出
  2024.2.16

 本日2月16日は「寒天の日」なのだそうです。ちょこっとネットで調べてみますと、寒天の産地・長野県茅野市の茅野商工会議所と長野県寒天水産加工業協同組合が平成18年に制定。この日に寒天が生まれたから! とかでなく、前年のこの日にテレビで紹介されてその後大ブームになったから! ということだそうです。寒天の よさをみんなが知ったから 2月16日は寒天記念日…。寒天、茅野、とくれば反射的に思い出されるのが秋聲日記の一節です。
 〈百子の体温は午後又七度二分。くさくさする。(中略)午後バスで茅野へ行き其処から乗かへて矢ケ崎の千野を初めて訪ねて見る。鰻を所望し、軽い昼飯を食べ、写真屋だけに、長男が早速カメラを持込んで来る。そのうち沛然として雨が降る。空は明い。やがて霽(は)れたとおもふと又降る。驟雨模様。しかし晴間を見て、長男に送つてもらひ、茅野駅まで歩いて出る。二十五分ばかりかゝる。道に寒天の製造会社なんか。外国へ輸出するので、運よく行くと儲かるさうだが、陽気の加減で失敗すると大損になるといふことだ。原料は北海道のテン草。寒天を外国で何に使ふか。〉
 昭和14年6月27日当時、秋聲は末っ子の百子の肺病の治療のため、長野県の富士見高原療養所に付き添っていました。そして当地に来たついでに、長野出身のはま夫人の親戚関係を訪ね歩き、茅野市の千野写真館さんへも遊びにゆくのです。詳しくは「研究紀要」第20号に書きましたとおり、その続柄といたしましては、はま夫人の妹ちかさんの嫁ぎ先(に、はま夫人没後も遊びにゆく秋聲)。一昨年、千野写真館の現ご当主さまとご挨拶することができ、それからたびたび資料提供などのご協力をいただいております。写真館さんですし〈長男が早速カメラを持込んで〉とあるので、間違いなく秋聲の写真も撮ったものと思われますが、千野家に残るアルバムには「徳田秋聲」の文字だけが記され当該のお写真は剥がされていると…何かにお使いになったのでしょうか? ま、まさか嫌いになってむしったわけでは…! 
 日記から寒天を賞味した様子は窺えませんが、聞いた内容を細かく書き留めている感じはあり、ひとの話をきちんと聞き覚えるシュウセイズム。
(写真は千野家提供・千野写真館さん、明治42年創業時の姿「美影堂」)





ひゃくすい・しすい
  2024.2.15

  書いてしまった作品にこだわらない、装幀にもさしてこだわりがない、で有名な秋聲ですが、そんな中でもこれはちょっと気に入ってる…と表明した作品がありました。ひとつは『少華族』(明治38年)。〈十年程前に出した、『少華族』は平福百穂君が表紙を造つて呉れました。八つ手の木に黒い馬車を配したもので、当時はたいへん面白いと云ふので、気に入つたものゝ一つである、春陽堂から出した本でした〉(アンケート「装釘に就て」/「美術新報」大正2年3月)。ちょっとさむそうなあの秋聲肖像画を描いてくれた画家の平福百穂で、たしかに素敵な表紙ですので三文豪スタンプラリーで豆メモ帳をつくり始めた最初の方に採用したのではなかったでしょうか。
 そしてもうひとつがこちら、〈近頃の物では、『出産』と云ふ左久良書房から出したのが、私には気に入つてる。今手元にないので細かい事は云へないが、何んでも長原さんだと思ふが大変宜(よ)かつたと思ふ〉――明治42年に刊行された短編集で、表題作「出産」ほか計13篇を収録。〈長原さん〉とは長原止水。元治元〈1864〉生まれの洋画家で、本名は孝太郎…と、拙い文章でこちらで長々ご紹介するより、今うってつけの展覧会が開かれておりますので張り切ってそちらをご紹介させていただきます。東京は文京区立森鷗外記念館さまで、現在、コレクション展「近所のアトリエ―動坂の画家・長原孝太郎と鷗外」が開催中!(~4月7日) 展示概要を拝見しますと〈鷗外が文京区に暮らした明治20年代から大正期、区内には文学者だけでなく、多くの美術家も暮らしていました。鷗外の居宅・観潮楼(現・当館)のほど近くにアトリエを構えた長原孝太郎(号・止水(しすい)もその一人で…〉とあり、鷗外先生のご近所すなわち秋聲のご近所さんでもありますね! 鷗外記念館さまのポストを見るたび、あっ長原さん…長原さんの…といつも気になっておりました。と言いますのも、秋聲のお気に入りの『出産』表紙にはタツノオトシゴがあしらわれており、ちょうど辰年の今年、当館の年賀状デザインとして使わせていただいていたため。なにせタツノオトシゴというモチーフがそれだけで強いためか他にごちゃごちゃさせず、一点豪華主義といった金の箔押し仕様でかなりおしゃれなデザインとなっております。
 それにつけても気に入った本と言い〈近頃の物〉と言いながら、〈今手元にない〉とはこれいかに。どこで書いていらっしゃるのか、本棚に入っていないのか、つまれた中から探す気力(つもり)がなかったものか…?





『黴』の戦略
   2024.2.14

 前回記事に登場した秋聲の出世作「黴」、そして前々回記事に登場した「袖珍本」という言葉。これらを主役にしたご論考「書物の自然主義―新潮社刊 徳田秋聲『黴』の判型と本文レイアウト―」(「文学・語学」第239号)を、ご執筆者の安井海洋先生よりお送りいただきました。ご学恩に感謝いたします。そのくせご紹介がすっかり遅くなり申し訳ございません…!
 常設展でも並べて展示しておりますとおり、新潮社から刊行された『黴』(明治44年)、そのヒットを受け、発表は『黴』より前であるにもかかわらず遅れて刊行された『足迹』(明治45年)、そして姉妹篇的な位置づけにあるこれら2冊と異なり、内容的にまったく関連しないけれども揃いの装幀とされた『爛』(大正2年)――以上3冊は、いわゆる小型の「袖珍本」の形でつくられております。しゅうちんぼん…「(懐や袖の中に携行できるところから)ポケットに入るような小型の本」(広辞苑より)。ということで、これまで『こちらいわゆるしゅうちんぼんで~す』などとざっくり雑なご紹介してしてこなかったことを全力で反省させられる、「なぜ小型でなければならなかったのか」というテーマでもって新潮社の戦略にぐいぐい迫る、とても興味深いご検証・ご考察でございました。展示物として当たり前にガワ(装幀)をお見せすることはあっても、中を開いて文字組みをこそお見せする、ということもまたほとんど意識的にしたことがなかったものですから、目からウロコがぽろぽろと…すてきな挿絵があるとかこれは書き出しをぜひお目にかけたい、といった観点とはまったく別の角度から、ご論文中に比較して掲載された図版のうち花袋の『田舎教師』と『黴』本文の組みのあまりの違いに驚きました。今後、当館で展示される書籍がみな一様に開かれてありましたなら、こちらのご論文の影響なのだな…とお察しください。
 同じく小型サイズの独歩の『武蔵野』や青果の『夢』と、『黴』との作品性の違いについてのご解説も面白く、たしかに…! と背筋を伸ばしながら拝読した次第です。これらは当館に実物の収蔵があるだけに、その書影や手触りを思い浮かべながら読み(画像の赤いのが『黴』です)、そして(似た小ささながらこれらは非なるもの…)と今後の見る目が大きく変わったように思われます。
 最終的に、この実験的な戦略の対象がなぜ『黴』であったのか、ひいてはなぜ秋聲であったのか、といったくだりでは、秋聲の秋聲らしさが爆発していてちょっと笑いさえこぼれ…(みんな秋聲のそういうところがSUKI…)こちらは全国大学国語国文学会さまHPからJ-stageでも追って公開されるのでしょうか。ご高読を強くおすすめいたします。





「喰はれた芸術」②
  2024.2.11

 〈「薀」とか「葆」とかいふ字であつたかも知れない。「喰はれた芸術」などと、あらはな題でなく、紅葉の芸術に対して敬意を含んだ題を附けたかったのであらう。偶然ではあるが、数へ切れない程書いてきた最後の短篇が紅葉未亡人を通じて紅葉全集のことに触れてゐるのには考へさせられるものがないでもない。「つつまれたたま(※「つつ」と「たま」に傍点)」といふのは紅葉の文学に対しての敬意の現れたものであり、「黴」の中で紅葉の死を現実的に描写して、師に対して礼を失すると腹を立てた鏡花と較べて、紅葉の文学に飽らなく批判的であつた秋聲と実際的には何れが紅葉のことを親身に案じてゐたかは疑問である〉(臨川書店版『秋聲全集』第18巻解説)とは、秋聲長男一穂の言です。最後のほうにつきましては、まぁこういうことは比較じゃないですから…とだけそっと申し添えておくことにいたします。  
 結局、「喰はれた芸術」という生々しいタイトルに変えたというそのあたりを踏まえて原稿を見れば、いかに本文がなくタイトルだけであったとしても、それだけを何度も書き直しているさまにこちらが勝手に想像を膨らませてしまうのです。「喰はれた芸術」という題を自分のなかに落とし込むまでに何らかの葛藤があったのだろうか…と。もちろん今後本文の原稿が発見され、そこに推敲の跡などが認められればさらに大発見ではありますが、この経緯ありきで今回展メインビジュアルに抜擢された「喰はれた芸術」です。ちなみにチラシを制作する際、当初、印刷会社さんのほうで企画展名の下の画像を文字が読みやすいようぼかしてくださっていたところ、いや待てよ、この続きに本文もちゃんと書いてあると期待されたらどうしよう、と不安になり、そのぼかしをとっていただいたのでした。結果、空白の枡目が見える現在の形に。そして末尾の「文祥堂製」という原稿用紙情報もしっかり見えるようになりました。文祥堂は大正元年、銀座に創業した文房具屋さん。秋聲晩年の原稿用紙の多くがこの文祥堂さんのものになります(わかりにくいですが、画像はタイトルバックが溶かされている幻のバージョン)。
 「喰はれた芸術」は田畑書店さんの「ポケットアンソロジー」シリーズから大木志門先生編「徳田秋声短篇集」で読むことができます。当館ショップでも販売中です。



 


「喰はれた芸術」①
  2024.2.10

 先月末には例月のMROラジオ「あさダッシュ!」さまにもお邪魔してまいりました。現在の自筆原稿展から、秋聲最晩年の原稿「喰はれた芸術」のお話をば。こちら、昭和16年1月の「中央公論」に掲載され、秋聲生前に発表された短編小説としては最後の作品となります(このあと6月~長編「縮図」の連載開始)。ご存じ、師・尾崎紅葉が早くに亡くなった後、ご家族がさぞ生活に苦労されているであろうと菊池寛らとはかり、中央公論社から『尾崎紅葉全集』を刊行して、その印税をご家族に・・・と秋聲が計画したことを素材とした小説で、作中、紅葉先生が「K-先生」、某K花さんが「K・I-」、菊池寛が「K氏」と出てきてKづくしでややこしや! みたいなブログを過去に書いたような気がいたします。晩年にして、初期の「乳母の里」における「お新」と「御新さん」を超えてくるこのややこしさ。
 そんなおかまいなしのKづくし(あとSとかNとかIとかFとかも出てくる)の本作において、現存する原稿はタイトルと秋聲の名だけを記した1枚のみ。にもかかわらず、今回展のチラシにメインビジュアルとして用いましたのは、このタイトルの背景にアレコレ深いものが潜んでいるから…。紅葉先生の作というのは、当時春陽堂にその権利が譲渡されており、どれだけ売れても遺族に印税が入らないというシステムになっていました。そのあたりのことが作中にも描かれ、〈この青陽堂に、K先生の殆んど全部の作品の版権があつた。まだ其の頃は、印税制度の実現されない時分で、先生の病中、友人達の斡旋で、一時その版権が借用され、博文館で六巻の全集が印税附の条件で発行されはしたが、程なく青陽堂でも、四巻の袖珍本を発行して、読者を浚つて行つてしまつた。爾来版権の消滅するまでの三十年間に、大凡(おおよ)そ何(ど)のくらひの部数が売れたであらうか。若(も)しもそれを印税で計算したとしたら、K-先生の遺族たちの生活状態も、今よりはずつと異(かわ)つたものであつたに違ひなかつた〉…ということです。
 これを書き上げた時のことを長男一穂さんが書き残してくれており、夜中、秋聲にちょいと呼ばれてゆけば、「つつむ」ってどんな字だった? と。秋聲は当初「つつまれたたま」という題をつけようとしていたそうで、字書で引いたりしたけれども秋聲の求める「つつむ」の漢字に行き当たらず、結果「喰はれた芸術」の題に変えた、というエピソードを展示でご紹介しています。その「つつむ」の予想として、ラジオでは表裏の裏みたいな字、とお伝えしてきましたが、漢字で書くと「裹」(拡大してください…)。そのあたりの漢字が想像されるのですが、実際はどうだったのでしょうか。 
                                 (つづく)




「乳母の里」③(異次元より)
  2024.2.9

 「また雪がつもりました。12月ほどひどい降り方ではなかったので少しだけほっとしております。今朝、館入口の雪すかし(※雪かきの意。金沢弁)をしながら、通行人のため目の前の梅ノ橋の上にせっせと道をつくってくださっているご近所のおじさまがひとり・・・また通りかかられる際『ありがとうございます通らせていただきます!』と慇懃に頭を下げるおじさまもひとり・・・アッハッハと笑い合うおふたり・・・とても美しい光景でした。その梅ノ橋のおじさまは、館の前の硬い雪もガツガツと壊してきれいにしてくださり、『うちの敷地まですみません…!』と慌てると『な~ん、ついでついで!』とどこまでも爽やかでした。本当に助かりました。ありがとうございました。
 そんな本日の、外は寒いけれども心あたたまるお話その2は「乳母の里」についてです。これが一体いつ制作され、何に掲載されたものだか未だ不明! と訴えた前回記事をみて、さっそくご連絡をくださったのは同じ財団仲間の金沢くらしの博物館さま。作品をお読みくださり、ここに出てくる〈御新さん〉の着衣に注目、その〈吾妻コオト〉とは明治26年に白木屋さんが初めて売り出して、明治28年頃に大流行したそうですよ~、とメールをくださったのです。執筆の年代を最大で見積もって明治20年~明治30年代としておりましたが、こうした方向からもその時期がぐっと縮まりました。さすが『くらし』の博物館。目のつけどころが違います。くらしさまでは現在、企画展『昔の印刷』が開催中(~2月4日)」――とここまでで寸々語の下書きはふっと途切れておりました。雪・・・? が降ったということは、1月のなかごろ・・・? くらしさまからのメールは1月17日に来ています。えっ、そこから放置・・・?? ご近所のおじさまにも、くらしさまにもたいへん失礼なことになってしまいました。とくにくらしさまの「印刷」展は、当館で展示中の秋聲の使用する原稿用紙の変遷とも絡みましょうかしら、といったテンションで勇んでご紹介するつもりであったところ、アッもう終了して、展示替えも終わって、明日から「ひな飾り展」・・・! それはそれでこの季節にぴったりですので是非ご覧いただきたく存じます。秋聲のおうちにも女の子が3人いましたからひな飾りがあったのでしょうね。今度名誉館長にお尋ねしてみます。   
 そんなわけで、例年になく暖冬と言ってよい今年。今は道の端っこに名残の雪(かつてしこたま積んだ雪)が見られる程度で、今日は青空さえ広がっていました。木蓮のつぼみもむくむくと。めまぐるしい日々に春の訪れを感じながら、件のCDの通販開始を3月1日としてご案内させていただいております。





「乳母の里」②
   2024.1.15

 昨日「不定期連載」にアップした「乳母の里」の件、原稿だけが発見され、いまだその掲載誌が判明しておりません。古書店から入手したものの、正直に申し上げて調査が追いつかず、「自筆原稿一挙公開」展を機にいっそお出ししてしまって情報を集めるきっかけになれば…という気持ちでおります(手掛かりは原稿冒頭に朱書きされた「日曜ふろく」)。ではなぜこれが最初期の作品と言えるかと言いますと、その執筆形態が半紙に墨書きであったから。参考として企画展では、高志の国文学館さまがお持ちの「朝の客間」(明治35年発表)、石川近代文学館さまがお持ちの「少壮政治家」(明治37年発表)のやはり半紙を用いた秋聲自筆原稿画像をお借りしてパネル展示しております。尾崎紅葉門下時代前後は主にこのような筆記用具が使われていたもよう。そのあたり、当時は半紙を半分に折って~間に罫紙を挟んで~極細筆で~…といった内容の秋聲自身のコメントもパネルでご紹介しており、昨秋の某K花記念館さんの特別展において間に挟んだ罫紙までが現存・展示されていたことを思い出します。これのおかげさまで文章が斜めになったりせず、綺麗な幅を保って書けるというわけ…なお、さすがに当館では罫紙の所蔵はございません。その他、現存する原稿のバリエーションを見る限り、明治40年代に入って来ると「松屋」の原稿用紙がほとんどになってきますので、早くは半紙に書かれた日記などの残る明治20年代~30年代のもの…と推測した次第です。
 内容的には新年の明るさもあり、「御新さん」(良家の若妻の意)と仲良しのばあやの「お新」(ややこしい)の再会という微笑ましい場面もあり、「御新さん」の現代的な感覚の清々しさもあり…といったところながら、締めの一文に結局もんやりしてしまう方も多いかもしれません。展示では15枚ある原稿のすべてを展示できず、部分的にお出ししていますので、全文をお読みいただけるよう「不定期連載」を利用してみました。ちなみに最後だけ真ん中がカットされていない一枚。本作の場合はとくに、余計な手を入れず原文そのままの形でお届けすべきかとも思いながら、「不定期連載」の性質上、他作品との統一もあり現代仮名遣いに直してしまって申し訳ありません。また、かえって読みにくくなるので掲載時には端折っていますが、原稿は総ルビ。そして当初「乳母が里」と書かれていたものを朱筆で「乳母の里」に直されていたりもいたします。そんな原稿画像は、年度末発行の館報に一部掲載予定です。





「乳母の里」
  2024.1.14

 なんだかんだと1月も中旬となり、あれから金沢では思い出したように時折余震が来る、そんな状況です。昨日は薄く積もる程度に雪が降り、今朝はガッチガチに凍結してきらきら輝く「秋聲のみち」をペンギン歩きで慎重に出勤。日中、一週遅れの左義長に出掛けた副館長も、ツルッツルやったわ! と言って帰ってまいりました。お正月飾りなどを燃やすこの風習、北陸地方では「左義長」と言いますが「どんど焼き」などともよく聞きますね。お隣の席の島根出身の職員さんに聞いてみましたらば「とんどさん」と言うそうです。けっこう自由に動きまわる濁点…いえ、そちら方面からすれば、左義長こそ急にどうした、という響きでしょうか(ちなみに当館はご近所の宇多須神社さんにお邪魔します)。焔を見つめながら願うことは、今年はひとつかもしれません。
 さて時節柄、しん…とした空気の流れる館内ではございますが、中では何かと忙しくしております。まずはカレンダーの日付けを逆算しながら震える指でようやっと開催要項を書いている次回企画展の準備です。3月中旬から始まる新しい展示は「レコオドと私~秋聲の聴いた音楽~vol.2」。第一弾を開催して5年、このたび制作したオリジナルCDの背景をより詳しくご紹介する内容でお届けいたします。秋聲が蓄音器を操作する、あるいはその前にこっとりと座る、そんなお写真が出てくるといいですネ!(願望) そして3月末発行予定の館報の原稿締め切りも迫っており、ご寄稿をお願いした先生から早々にご提出を賜りギャッとなって急いで一年を振り返る旅に出ています。それから同じく3月末発行予定の「研究紀要」最新号の原稿締め切りも迫って…前号からの続稿をちまちま執筆中です。さらにオリジナル文庫新刊の下準備にもやわっと取りかかりはじめ、その他ご寄贈いただいた資料のデータ入力・撮影をしているときに(あ~デジカメのバッテリーが点滅してる~もうすぐ終わるんだけども~あと1枚ってところで切れたりするあるある~…)と思いながら、本当にあと裏表紙だけを残してプツンッと電源が切れてしまったのにオウッフとなったりしながら、粛々と目の前のお仕事に取り組む日々です。もともと展示替えやイベントがないと館は何もしていないように見えるのでは…!? という危惧から始めた寸々語ですが、そうは言っても今回あまりに内容がなさすぎて申し訳ないので、一瞬手の空いた職員さんをとっ捕まえて入力してもらった、現在展示中の原稿から初公開となる秋聲最初期の作品「乳母の里」(全集未収録)を不定期連載にアップしました。新年だから!という思いこそあれ、別の角度からもやっとさせる内容で恐縮です。






2024年のはじまり
  2024.1.5

 令和6年、たいへんな年明けとなりました。1日夕方、年末年始休館中に震災発生。館の連絡網により、その日のうちに職員の無事が確認できました。2日、複数人態勢でもって館の様子を見にゆくこととし、内外観をチェック。エレベーターが停止し、防火シャッターが閉まり、デスク周りに積んでいた書類が散乱、配架に余裕のあった書棚から本が複数冊落ち(ぎちぎちに詰めていた棚は無事でした)、展示ケース内のキャプションにずれや転倒が見られましたが、その他、幸いにも建物や収蔵資料に大きな被害はありませんでした。堅固なつくりに感謝するばかりです。また、金沢建築館さんにお貸ししている秋聲文学碑関係資料もみな無事とのご連絡をいただき、同館のご無事に安堵するとともに、そのお心遣いにも感謝した次第です。
 当館はもともと4日・5日を企画展の前後期資料入れ替え作業に当てており、本日も含めて予定通りの休館です。市内各施設は、安全確認のため今日まで臨時休館することとなり、奇しくも同じ期間だけ一斉にお休みすることとなりました。この日程を利用して、余震に備え少しでもリスクを回避すべく、各展示室における落下・転倒の恐れのある立体的な展示物はすべて撤去いたしました。2日に一時的にわしゃわしゃっと下ろしていたものを、見られる状態に調整を加えた形です。立てて展示していた書籍はすべて寝かせ、壁面展示を極力避け、陶器などのワレモノは大事をとっていったん収納。その結果、見た感じにかなりのぺーっとした展示室となってしまい、今後しばらくご来館のみなさまにはたいへん申し訳ないのですが、替えのきかないものものにつき何卒ご理解のほどよろしくお願いいたします。
 それから、明日より通販の受付を開始予定であった新グッズのオリジナルCDにつきまして、この状況下、より緊急を要する物流の妨げになってはいけませんし、腐るものではございませんのでご注文の集中を避け、当面、通販の開始を見合わせることといたしました(当館内ショップおよび金沢蓄音器館さんでは販売中です)。あわせてすでに封入済みではありますが、関係各位への献呈も差し控えます。いろいろと探り探りで恐縮ですが、状況が見えるようになりましたら、改めてご案内をさせていただきます。
 明日6日より、通常通り開館いたします。11時と14時に企画展の展示解説を予定してはおりますが、ご参加につきましてはどうかくれぐれもご無理のないようお願いいたします。個別の展示解説も随時お受けしておりますし、定例の解説も来月、さ来月と予定してございます。何よりみなさまの安全第一でお過ごしください。

(昨年の記事は「過去の記事一覧」に収納しました。)


 

 

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