寸々語

寸々語(すんすんご)とは、秋聲の随筆のタイトルで、「ちょっとした話」を意味します。
秋聲記念館でのできごとをお伝えしていきます。





代わりのみかん
  2025.1.23

 体調不良といえば秋聲、秋聲といえば虚弱体質。わりといつもいたるところに不調をかかえている印象のある秋聲に、あそこもここもつらーい、と訴える俊子の手紙を展示中です。
 〈その後やつぱりはればれしくありません 食慾が御座いませんし 後頭部が痛みますし 気は鬱々しますし ぶらぶらとしております〉…アッ、まだお悪いんですね…! と心配した次にはこう→〈病気ハすつかり取れました 熱はとれましたし 咳もあまり出ないやうになりました 吸入はやつておりません お薬も頂いておりません お薬なんぞ飲んでも仕方がなひんですから その代りみかんを食べております〉。みかんは水分も多いですし、なんだかよさそうな気がいたしますね。わりとお元気そうで何よりでした。こちら、大正4年2月末のお手紙です。秋聲が「読売新聞」に俊子を紹介した翌年で、二人の交遊としても最も密、そして日本の文壇における俊子の活躍ぶりとしても最盛期といった時期かと存じます。基本虚弱な秋聲(45歳)ながら、まさにこの頃は同紙に「あらくれ」連載中。〈お島さん〉よろしく元気いっぱい、バリバリ執筆しているように見えたのかもしれません。〈あなたはますます健康そうでほんとうに結構だと思つてゐます〉とも書かれており、そうして心身の不調やらなんやらかんやらと吐露しながら、しかしこの手紙はこう締められているのです。
〈考へると生きてゐることがたのしくてたまりません〉。これを受け取った秋聲の表情はどんなものであったのでしょうか。
 もう一通、こちらは日付がはっきりしないお手紙で、秋聲が贈ったらしき快気祝いへの礼状です。〈猶一層御健全ならん事をお祈りいたします この瓶ハあれとハ又別趣味のものです 進呈いたします〉…この瓶とは…別趣味のあれとは…お返しに何を選んだものか、いろいろと謎が多く、確かなことは言えませんが、前掲書簡と同じ時か、あるいは大正6年5月に発表された秋聲の俊子評「女優であつた時から」に、〈最近に私は生田葵山氏と、久しぶりで氏の健康を見舞ひかたがた尋ねた。氏は殆んど癖になつてゐる感冒のために閉籠つてゐたやうであつたが、机にはトルストイの「戦争と平和」の訳本があつた。〉と記されていますので、この後日かもしれません。なお、手紙の署名は「田村」。大正7年以降になると、松魚との離別を経て差出人名が「佐藤」(俊子の旧姓)に変わります。
 


 


米飯・蒟蒻・焼塩
 2025.1.22

 文芸への志を語っておいて、すぐに間のあいてしまった寸々語です。大きな声では言えないのですが、実は学芸員が例の流行り病に見舞われ、ちょいと長めのお休みをいただいていたのでした。各種関係者のみなさまにおかれましては、「これの発注お願いしまーす」「あれのお見積お願いしまーす」「締め切りは15日でーす」とこちらからポーンとサーブが投げ込まれたまま、一向にラリーが続かない、あれっ何も返ってこないな…?とさぞご不審に思われたことと存じます。たいへん失礼をいたしました。そんなわけでもろもろのことが一週間遅れになってしまい、そうした意味でまた寸々語の更新頻度も少し落ちようかと存じますが、脳と指のリハビリがてら、ポチポチとあることないこと発信してまいりますので、改めましてよろしくお願いいたします。
 さて「今日の日の魂に合ふ/布切屑(きれくづ)をでも探して来よう。」(「秋の一日」)と歌ったのは中原中也ですが、今日の日の魂に合う秋聲作品といえば「生活のなかへ」これ一本。何かしらの流行り病にかかった〈いく子〉のお話です。毎度ご案内しておりますとおり、声優のうえだ星子さんにイベントで朗読していただいたことをきっかけに、今回の新刊・短編集3に収録いたしました。うえださんのYouTubeチャンネル「星子の押入れ」でもご朗読をお聴きいただけます。そのイベント準備の際、「お腹にコンニャクってこういうことなんですねぇ」とテキストを理解せんと自らお調べくださったうえださんから「温罨法(おんあんぽう)」を紹介したサイトのURLが送られてきたことを思い出します。血の巡りをよくさせるためか、〈熱い蒟蒻が(いく子の)下腹部に押えつけられ〉る場面が出てくるのです。当時どれくらい一般的かと、いま国会図書館デジタルでちょいと調べてみましたら、温める材料は蒟蒻でなくてもよさそうな記述を見つけました。『病人の看護法』(「主婦之友実用百科叢書43篇/昭和5年)によれば、一般的なものとしてまず米飯(「炊きたての御飯を、厚さ一寸くらゐに紙に包み込み、更にその上を、手拭でゞも巻いて、患部を温めます」)…おにぎり…おにぎりだ…! それから蒟蒻(「よく煮たものを、二つ並べて布(きれ)に包み、なほその上を厚くタオルにくるんで、痛むところにあてます」)、そして焼き塩(「長く保ちますが、重いので、重病人には不適当であります」)、温石(「破裂する惧(おそれ)がありますから、代りに煉瓦を用います」)、湯たんぽ(「急の場合はビール壜を幾本も…湯が漏れ、そのため火傷する場合があります」)と続きます。これはこれは…看病するほうもされるほうも大変な時代です。うがい、手洗い、ご励行ください。 






「文芸を志す若き人々へ」
  2025.1.13

 本日、祝日につき65歳以上の方は入館無料となります。また、成人を迎えられるみなさま、おめでとうございます。昨日から東山界隈でも華やかな振り袖姿のお若き人々をお見かけしております。 
 そんな「成人の日」にちなみ、雑誌「中学世界」(大正7年1月号)アンケート「予の二十歳頃」より、秋聲(数え48歳)の回答をお届けいたします。

 Q、どんな理想を懐いて居ましたか?
 A、素より文芸に志してゐました。
 
 Q、どんな境遇で暮らして居ましたか?
 A、高等学校に在学してゐましたが、尻が据(すわ)つてゐませんでした。
   一つは家計が困難なためもあつたでせうが、一体に官学の空気が厭でした。

 Q、どんな記憶が残つてゐますか?
 A、国会開設前後で、政治熱が随分旺(さか)んであつたと思ひます。
   文芸も勃興してゐました。

 秋聲の二十歳頃といえば明治23年、四高在学中にあたります(18歳で編入学)。明治14年に発せられた国会開設の詔を受け、この年(明治23)11月に第一回帝国議会が開会。金沢の町にも政治熱が高まるなか、高田早苗(画像は国会図書館「近代日本人の肖像」より)や島田三郎の姿を一目見たくて、学生には禁じられていたという政談演説をこっそり聞きに行ったりしたことが自伝小説「光を追うて」に記されています。この翌年に秋聲の父雲平が病死、桐生悠々とともに四高を中退し、翌25年春、作家を目指して上京することになるのです。
 もうひとつ、お若い方々に向け、「不定期連載」に談話「文芸を志す若き人々へ」をアップいたしました。掲載媒体が「週刊婦女新聞」ということで、〈女流作家〉各位にも触れられております(俊子はおらず)。今の時代に合わない部分もあるかもしれませんが、不精だし本なんて読まない、人に指導なんてしない、という態度で知られる秋聲の珍しく建設的な発言をお楽しみください。



 


展示と文庫に関するお詫び
  2025.1.12

 昨日、俊子展2回目の展示解説が終了いたしました。1月に入ってやや静かな館内ではございますが、昨日は午前午後の回ともにお客様をお迎えすることができました。ご参加に心よりお礼申し上げます(そして「女流作家」を含める新刊のお買い上げも!)。
 その後、別の調べものをしていて、俊子展および新刊の文庫のついてみなさまにお詫びを申し上げねばならぬ事態に気が付きました。秋聲が俊子を思い執筆した「女流作家」では、後半のほうに秋聲をモデルとする〈小森〉と弟子で恋人であった山田順子をモデルとする〈栄子〉とが〈T女史〉すなわち俊子の実際の著作「あきらめ」の単行本を手にしながら語り合う場面が出てきます。そしてその本をパラパラしながら短編「木乃伊の口紅」などにも触れるのですが、俊子展でいま出品している『あきらめ』(明治44年、金尾文淵堂)を思えば、表題作それ一篇を単行本化したもの。すると同じ本を読みながら、「木乃伊の口紅」がなぜここで登場? との疑問がわいてきます。
 「木乃伊の口紅」の方は大正3年、牧民社から「炮烙の刑」などとあわせて同題の短編集として刊行されており、こちらもあわせて展示中。となると結局別の本…と思いきや、その点につきましては大杉重男先生の『小説家の起源―徳田秋聲論』(平成12年、講談社)にさらりと書かれておりました。〈一九一五年の植竹書院版と推測される〉…大正4年の植竹書院版『あきらめ』には、表題作に加え「木乃伊の口紅」「生血」「女作者」など計7編が収録されているのです。よって、〈T女史〉から署名入りで贈られ、〈小森〉がさらに自分の署名をして〈栄子〉に贈ったというこの時の本は植竹書院版(当館に収蔵なし)である可能性が高いということを、本来展示でも文庫本の解説でも書き添えなければならなかったのです。つい目の前にある資料のみを見、このくだりについて失念していたうえ確認を怠りましたことを深くお詫び申し上げます。また、大杉先生のご著書を引きながら、秋聲の「仮装人物」第13章に田村松魚と俊子らしき人物が描かれると指摘しているのは石崎等先生の「叡智、モデル、推力 『仮装人物』について(下)」(八木書店版『徳田秋聲全集』月報40)。松魚と俊子をモデルにした作品には、他に短編「恥辱」(大正13年)がありますが、大物「仮装人物」も決して忘れてはならないのでした。 


 


八千代と俊子
   2025.1.11

 先日ご紹介した菊子と俊子、となると「大正の三閨秀」の残るおひとり・岡田八千代に触れなければなりません。小説家、劇作家で、兄は劇作家の小山内薫、夫は画家の岡田三郎助。今の俊子展の範囲で言えば、こちらでも何度かご紹介しております大正期に「新潮」で2回、「中央公論」で1回の計3回俊子特集が組まれたうち「新潮」大正6年5月号に八千代の寄稿がございます(なお、この3回ともに寄稿しているのは秋聲だけ)。その「私の見た俊子さん」の書き出しはこう→〈とし子さんはいつ尋ねても、どんなに久しぶりに尋ねても、『まァ』と言つて飛び出してくるやうな人ではないやうです。どんな場合にも『何にしに来た』と言ふやうな顔をすることが多いやうです。それが約束して行つた日にでもそんなことが好くあります。だからどうかすると腹が立ちます。〉――たしかにそれはちょっと嫌ですね! 八千代もこのあと「もう来てやるもんか」などと思ったりもする、と記しながら、しかし「これが此(この)人の癖だな」と思い慣れてしまえばそんなもの、と大人な対応を見せています。そして俊子に決して悪気はないのだ、とも。また〈私などのやうにどんなに忙がしいことがあつても人に好い顔を見せてやらうなどゝいふ愚かな人間でないことが分ります。〉というあたり、この文章の目的は俊子評でありますが、刺さる人には刺さる自己分析かと存じます。
 翌7年、俊子は田村松魚と別れ、青山隠田に逼塞します。「中央公論」の滝田樗陰にお尻を叩かれながらも創作の筆が奮わず、秋聲にその苦しい胸のうちを打ち明ける手紙も展示中。ここからは展示外になりますが、そんな頃の俊子の暮らしぶりを描いたのが八千代の小説「紙人形」(俊子は自作の紙人形を売って生活していた)で、俊子はその書きざまに激怒したそう。大事なエピソードながら展示ではご紹介できず、一ヵ所だけ八千代の名が登場するのは少し前のお手紙の中で、大正4年6月25日、俊子から秋聲に宛てて出された何かしらのお誘い中〈もし何でしたら御一所に行かうかと存じます。八千代さんとも宅へ参ります。御都合をお伺ひいたします〉と、この時のメンバーにいたことが確認されます。ただ非常にざっくりとしていて、どこで何をするための集合やら…といった書きぶり。とはいえ、この頃かえって密に連絡をとりあっていたからこそ、こと細かに書かないのかとも思われるのです。





菊子と俊子
   2025.1.7

 今朝ほど例月のMROラジオ「あさダッシュ!」さまに学芸員が出演のうえ、実はまだきちんとご紹介のできていなかった田村俊子展のお話をさせていただきました。そうして帰館いたしましたら、いつもお世話になっている先生より黒﨑真美・今村郁夫編『富山文学論集 群れ立つ峰々 金子幸代名誉教授とともに歩んだ軌跡』(鷗出版、2024年12月)が届いておりました。ご学恩に感謝申し上げます。 
 本書の中でも、半数を占めているのが小寺菊子論。秋聲と親しかった富山出身の作家で、故金子幸代先生が遺された菊子論がここに集約され、当館で開催した小寺菊子展記念講演の要旨「秋聲から菊子へ」(館報からの再録)や「小寺菊子と同時代の作家―秋声・霜川・秋江と雑誌『あらくれ』」、そして「小寺菊子と鏡花―『屋敷田甫』と『蛇くひ』」などがまとまった形で読むことができるようになりました。その他、書下ろしを含む各氏による菊子論と、三島霜川・堀田善衛ら富山ゆかりの文学者を論じる富山文学論の二本立てです。
 菊子といえば、俊子・岡田八千代とともに「大正の三閨秀」と呼ばれた人物。金子先生の論文中、露伴に師事した俊子が「露英」の名をもらったことに比し、秋聲に師事した菊子が「秋香」の名をもらったという説への言及がありますが、秋聲は菊子を弟子というよりむしろ〈同志〉として語り、〈女流作家で二十年もの努力をつづけ、生命を保ってきた人は、女史の他に果たして誰があるであろう〉と讃えています(小寺菊子『美しき人生』序、大正14年)。なお、このころ俊子はバンクーバー、秋聲が俊子をモデルに書いた短編「女流作家」は昭和2年の発表です。
 明治43年、俊子の「あきらめ」が「大阪朝日新聞」の懸賞小説で当選したとき(一等なしの繰り上げ当選)、次席にあったのが菊子の「父の罪」でした。俊子に辛い点をつけた選考委員の露伴は、本作に最高点をつけています。俊子展では、その菊子から見た当時を描く「懸賞小説当選の女流作家」を収録した菊子の随筆集『花 犬 小鳥』(昭和17年)を展示中で、ここで菊子は、今でこそ〈懸賞小説の当選者が、いつも大概女の作家であるといふのは、興味深い現象〉と書き出し、その歴史を紐解けば、自身と俊子とが〈女流当選の最初〉であり〈この当選が作家生活の重要な起点となつた〉と語っています。



 


新年の思い出
   2025.1.4

 あけましておめでとうございます。本日4日(土)より、通常通り開館いたします。今年も何卒よろしくお願いいたします。
 さて、今朝ほど新年仕様に書斎の書幅をかけかえなどしておりましたら開館準備をしていた職員からひと言「レジ、つかないんですけど…」。受付まわりの電気機器が一斉に沈黙を守ったまま、まだ土日だしお正月休み続いてますんで~みたいな顔をしてまるでたち上がってくれないという事件が発生いたしました。機械の問題か、落雷か…! と、ひととおりワチャワチャしたのち、副館長の「ブレーカーは?」との鶴の一声で確認したところ、受付だけがバチンと落ちており、おかげさまですぐに復旧いたしました。初めてのことでしばし騒然としましたが、なんとか開館時間に間に合ってよかったです。雪もまだそう酷くなく(早朝すこし積もったかな、というくらい。今はきれいに溶けています)おかげさまで、ちらほらとお客さまにご来館いただいております。
 ちなみに書斎にお出しした書幅は秋聲自筆俳句「元朝の心寂ひぬ午さがり」。そんなあいかわらずの秋聲節とともに、今年もゆるゆると活動してまいります(「心ゆるびぬ」バージョンもあり)。そうしてさっそくゆるゆると使いまわしで恐縮ながら、季節のものにつき徳田家のお雑煮レシピをご紹介→「正月には秋声だけには別の雑煮をつくっていたそうである。それはこぶ出しの汁で餅を煮、味つけをし、かつおぶしをかけただけの雑煮である。鴨とか鳥とか、かまぼことか、そんなものを何にも入れない雑煮である。これは多分、金沢の流儀であったと思う。家族の方は東京風の雑煮を食べていた。おせち料理は詰らないから作るなといわれて後年作らなかったという。」秋聲次女喜代子の夫で作家の寺崎浩による随筆「秋声ごのみ」より(『味の味』ドリーム出版)。なお金沢では角餅が一般的かと存じます。
 お雑煮ほか、各年代にわたるお正月の過ごし方につきましては、昨年刊行され受託販売しております大木志門編『月日のおとなひ 徳田秋聲随筆集』(手のひらの金魚)もしくは「不定期連載」にある「新年の思出」をご参照ください。紅葉先生から、門下の四天王、霜川、漱石、樗陰、白鳥などが続々登場。秋聲65歳の記録です。

(昨年の記事は「過去の記事一覧」に収納しました。)




 

 

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