公式ブログ

湯涌滞在103年

2020年9月24日
 9月は夢二にとって重要な出来事が多い月です。更新頻度の低いこの「公式ブログ」では、ホットな情報をついつい見過ごしがちですが、、、2020年9月1日は夢二忌(没後86年)、9月16日は夢二誕生日(生誕136年)、そして本日9月24日は湯涌滞在から103年目にあたります。
 このブログの8月7日付記事で紹介した金沢・加賀で描かれたスケッチブックの調査では、103年前の風景と現在の風景と比べると、兼六園の庭木や浅野川沿いに生えていた松の様子などが変わっていることがわかりました。さらに、片山津、山中など温泉地と北陸本線をつないでいた線路がなくなり、街中の建物に至っては、突合せが困難なほどに様子が一変しています。



 夢二の自著自装本『山へよする』(大正8年、新潮社)の挿絵として、夢二は湯涌の風景を何点か描いています。湯涌温泉街は、通りの中央にかつて流れていた「湯の川」が暗渠(あんきょ)になり、アスファルトで舗装されるなどの変化はありますが、夢二が愛した湯涌の自然はほとんど変わらずに残っています。今朝は一面の曇り空で、夢二が印象深く記憶していた湯涌の「うろこ雲」を見ることができませんでした。しかし、これから秋が深まるにつれ、上空の「うろこ雲」以外にも、「くらたに菊」が咲いたり、「あけび」の実が熟すなど、夢二が目にした自然風景を目にすることができそうです。  

(学芸員:C.K)

ラジオ放送のお知らせ

2020年8月24日
 現在の企画展「夢二の目と手―「竹久家コレクション」のスケッチブックとスクラップブック―」のラジオ取材を受けました。
 ラジオかなざわのパーソナリティ・加藤美杉さまにお越しいただき、打合せも含めて2時間ほど、展示の見どころなどを紹介いたしました。
 たくさんお話させていただいたなかから、数分間に編集していただき、2回に分けて放送されます。
放送予定日時は以下のとおりです。

☆78.0MHzラジオかなざわ「ちょっときいてたいま」※地域限定の番組です。

8月29日(土)10:00~10:30(このうち冒頭数分間放送)
9月5日(土)10:00~10:30(このうち冒頭数分間放送)
  
    

(学芸員:C.K)

テレビ放送のお知らせ

2020年8月21日
 テレビ番組放送のお知らせです。
 当館が取材協力し、昨年5月に石川県内で放送された番組が再放送されることになりました。
放送予定日は以下のとおりです。

「恋する、夢二 ~吉岡里帆がたどる竹久夢二、美人画の源流~」
内容:女優・吉岡里帆がナビゲーターとして、金沢をはじめ夢二ゆかりの地(岡山、伊香保など)をたどり、彼の創作の源となった女性たちとの恋愛に迫ります。(番組案内から)
湯涌でも撮影が行われ、当館の企画展会場における吉岡里帆さんのトークも収録され、その他、所属する夢二や彦乃の作品も多数登場いたします。

☆石川テレビ
8月26日(水)午前9時55分~10時50分

どうぞ、4K撮影の美しい画面をご覧ください。       

(事務職員:Y.K)

企画展「夢二の目と手」のお知らせ&作品小解説「スケッチブック26/32」

2020年8月7日

 前回の展示は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、2度にわたる臨時休館期間をはさみ、5月31日までの会期を7月26日まで延長しました。今回の展示は、8月8日から12月6日までの会期を予定し、展示内容は通常とは異なる方法を試みています。
  企画展「夢二の目と手―「竹久家コレクション」のスケッチブックとスクラップブック―」では、平成30年度に寄託された「竹久家コレクション」から、スケッチブック20冊とスクラップブック6冊を中心に展示しています。スケッチブックはすべて冊子の形態なので、見所を紹介しつつ、小さな作品に来館者の方が集まってしまうことがないように、会場には作品とともに、ピックアップしたスケッチブックのページの画像を原寸もしくは拡大してパネル展示しています。タブレットや複製を手にとっていただくような鑑賞が困難な今、作品の画像をパネルで分散させつつ展観できるように工夫してみました。




 今回の展示の最大の見どころは、「スケッチブック26/32」です。「竹久家コレクション」のスケッチブックは全部で32冊あり、そのうちの26冊目にあたるものです。東京神田「文房堂」製のスケッチブックに、表紙・裏表紙を含めた全76ページのうち66ページ分に、何らかの描き込みや書き込みがあります。これは大正6年(1917)8月11日から10月17日にかけての北陸旅行時に各地で描いたスケッチブックであり、8月12日から9月8日までの日付を確認できます。 現物では見開き2ページ分しか見られない冊子ですが、原寸の画像に翻刻と解説を加え、表紙から裏表紙まで、すべてのページを見開きごとにパネルで紹介しています。
  特に注目したいのは、山代、山中、片山津、粟津、金沢市内、美川大橋など、石川県内の温泉地や観光地を描いたスケッチです。当時、夢二がその目で見て、その手でスケッチブックに写しとった風景や植物や人物を、103年の時を経て、目にすることができます。










 感染拡大が落ち着いた頃、スケッチブックの画像を片手に、夢二が心打たれた風景の名残を訪ねてみたいものです。
 

(学芸員:C.K)

館長ブログ㉖-館長のギャラリートークに代えて―

2020年7月5日
第5回 屏風にみる「夢二式美人画」


図 「晩春感傷」   絹本着色、二曲一隻屏風、サイズ 縦91.5㎝×横78.4㎝
   大正15年(1926)、当館蔵(佐々木正一郎コレクション)

 二枚折の中屏風の左手では長襦袢姿の女性が髪を結いあげ、右手には豪華な衣装が銀色の光を放っています。夜のお座敷に出る前の身繕い中という、いわば舞台裏を覗き見しているような図柄で、美人画にはよく選ばれるテーマです。左手前に半分のぞいている「水引元結(みずひきもとゆい)」は結髪に必要なものであり、さらに鏡台が省略されていることが見て取れます。衣装のデザインも夢二らしい凝りようで、どれもが夢二式美人画の特徴なのですが、さらに絵と書のコラボレーションも見逃せません。後期の優品として評価されかつて傑作「黒船屋」と並べて展示されたこともありました。

  夢二は半襟や浴衣、手拭などのデザインも手掛けていますが、そうした衣装デザインという観点から見ると、この「晩春感傷」には二つの対照的な衣装が描き込まれています。左の長襦袢は濃い色彩同士の強いコントラストが魅力になっている格子柄の織模様、右の振袖はパステル調の霞模様を地色としてその上に絞り模様や網代模様などを銀色で描いた豪華で柔らかい雰囲気の晴着です。ふたつはまったく表情が異なり、その対比によって互いが引き立てあっています。当時、夢二式美人画とそっくりのファッションの女性たちが闊歩していたそうですから、夢二はファッションリーダーでもあったわけです。

  中央に小唄が流麗な筆遣いで書かれ、その後に「夢二生」の署名と円形の描印があります。
   古曲一首
   涙なかけそ春の夜の紅の小袖はかざすとも
    いつ乾くべき灯の影に泣きそな泣きそ春の鳥
                   晩春感傷 
                   為佐々木雅兄
 この為書きにある「佐々木雅兄」とは、当時、岩手から上京して早稲田大学の学生であった佐々木正一郎(1904-1985、雅号:正一路)を指します。実家は県内屈指の米問屋であり、当時すでにアララギ派に属する歌人であったので「雅兄」と記したのでしょう。佐々木正一郎が残した晩年の回想録(「私(佐々木)と竹久夢二との出会い」『報道春秋』1976・1)によれば、夢二のファンであった二十歳年下の佐々木が手紙を出したことから交際が始まり、大正14年(1925)秋には少年山荘を訪問して親交を深めてゆき、翌年4月に再度少年山荘を訪れた時、この「晩春感傷」の屏風が描きあげられていて、「古曲一首」以下の文字は夢二がその場で書き入れて譲られたことが記されています。
 当館に佐々木正一郎コレクション(全18点)が収蔵されるに当たって、正一郎はじめご遺族の方々も、生活の中で季節ごとに夢二の絵を飾って、また譲られたときの思い出が語られるというふうにして愛蔵されてきた歴史を知りました。夢二と正一郎の深い親交を大切にしていたことがわかります。正一郎自身は公務員でしたが、夢二のパトロンやファンには医者をはじめとするエリート層の人々の多いのに驚きます。夢二の自由な反骨精神は文人的性格の根幹にあるものであり、精神的な支柱であったといえましょう。

 「古曲一首」はこの屏風絵と同じ大正15年10月に改版された夢二の自著自装本である『路地の細道』(春陽堂)に収録されています。同書の序文に夢二は「撰んだ小唄は、時代も出所もすべて明らかでない」が、「一味純新な或は典雅なもの」を拾って編集したと記しています。この古曲を選ぶにあたっては歌人の佐々木正一郎にふさわしいものという思いもあったことでしょう。典拠については江戸以降の小唄・端唄類を収録した全集などには発見できていません。

 最後に、この屏風絵の魅力について。
  現代では屏風は日常生活から消えたといってよいでしょう。しかし、この小柄な屏風は、佐々木家では枕上に立てるなど実際に家具として用いていたということです。屏風が実用の家具調度であった時代には、床の間の掛け軸とはまた別の画題、構図が工夫されたようです。この「晩春感傷」の屏風絵を座敷に120度ぐらいの角度に開いて立てたと想像してみましょう。いま身繕いをしている女性とその背後に衣装が掛かっている空間が目の前に出現します。浅い奥行きながらふっと同じ座敷に踏み込んだような錯覚さえ起こしそうではありませんか。屏風は座敷に異空間を出現させ、体験させることができる魅力的な装置といえましょう。

(館長S.O)

館長ブログ㉕-館長のギャラリートークに代えて―

2020年6月26日
 ※夢二のカタツムリ


カード「HAIBARA 小間紙」(榛原)、印刷/紙、大正期~昭和初期
(当館寄託品「竹久家コレクション」)

 これは新発見のカタツムリが木版画風に印刷されたカードです。罫線で囲われた長方形のなかに後ろ向きにカタツムリが這っています。黒、薄緑、茶の三色刷ですが、殻と体に入っている地色の線が効果的です。カタツムリといえば横からか斜め上から見た姿が多い中、これはユニークな後ろ姿。しかもこのカタツムリにはあごがあるような・・・。ほっそりした首の長い女性のようなこの風情はいかにも夢二らしいといえましょう。
 右上から時計回りに「HAIBARA」「小間紙」「はいばら」「東京」と文字が配してあります。「はいばら」といえば、今も東京の日本橋にある有名な紙商、「榛原(はいばら)」に違いありません。さっそく問い合わせてみると、百年前には千代紙や今のシールやカード類を「小間紙」と呼びこれは、紙を束ねて保管しておくときに包み紙に貼る「貼り紙」であることがわかりました。売り物ではなく、いまは所蔵していないそうです。   
 夢二は榛原のために千代紙や美術木版画、絵封筒と便せんなどのデザインを手掛けています。この小間紙も榛原との親密な関係のなかで大正期から昭和初期につくられたものでしょう。

 カタツムリといえば、のろのろ歩きの代名詞としてよく使われますが、その微妙な変形ぶりに好奇の目を凝らした子供時代の思い出は誰もが持っているものでしょう。
 そんな身近で親しまれた生き物だからでしょうか、「でんでん虫むし、かたつむり」ではじまる「かたつむり」(作詞・作曲不明)の歌は、明治44年(1911)に尋常小学唱歌としてつくられ、以来100年以上も歌い継がれていまでも日本人ならばほとんどの人が知っている歌となっています。
 しかし、絵画や文学の世界を見渡してみると、日本画や油絵でカタツムリが主役になっているものはまず見当たりません。造形作品の主題になりにくかったものの、庶民の生活のなかでは親しみを持って眺められていたものといえそうです。
 古典文学を古くさかのぼれば、中国の古典、『荘子』(則陽)の中に「蝸牛角の戦い」(大局から見れば意味のない小さな争い)という喩えがあり、これは日本でも時に用いられることもあり、よく知られています。といってもカエル、サル、イヌ、ウサギなどのように昔ばなしの主人公になることもなく、わずかに平安文学の『堤中納言物語』のなかの「虫めずる姫ぎみ」に先の中国の喩えを引くために登場するぐらいなのです。
 夢二は画家として身近で庶民的、そして軟体動物に特有の微妙な変化をするカタツムリに注目し、スケッチや作品を残しています。そのなかからいくつかを見てみましょう。


 図「かたつむり」と「かはず」、『夢二画手本 1』(岡村書店、1923)より(当館蔵)

  『夢二画手本 1』は動物の略画を子どものためにまとめた1冊ですが初版の『夢二絵手本』(岡村書店、 1914)では、ライオンと対になっていましたが、こちらの再版では、カエルとカタツムリを近いもの同志というふうに左右に向き合って収められています。



 図 「湯涌写生帖より 28.Sep.1917」、『出帆』(アオイ書店、1940)より(当館蔵)

 金沢の湯涌に滞在中、彦乃や不二彦との山歩きで見つけたカタツムリを図の右上にスケッチしています。身近にいてゆっくりした動きなので描きやすいこともあったのでしょう。


 
  図 雑誌『民謡詩人』第2巻第7号、表紙絵、1928年7月1日発刊(竹久夢二美術館蔵)

 また、『民謡詩人』という詩と民謡を研究する目的で昭和2年9月に創刊され、2年半ほど続いた専門雑誌の表紙に、夢二は立派なカタツムリを描いています。民謡や童話、小唄に関心があった夢二も民謡の再評価・芸術化という運動に参加して、表紙やカットを担当していたからです。
 どうやら夢二にとってカタツムリは子どもや民衆と近い存在としてとらえられ、単独で描かれるようにもなったといえそうです。


 
   図 『小学生全集2 幼年童話集(下)』(興文社・文藝春秋社 1928)の見返絵
 
  最後に、のろのろ歩きのカタツムリがウサギとカメと並んでいるデザインを見ましょう。子どものための童話集の見返しなのですが、どれもが同じ大きさで同じ方向にいっしょう懸命に歩いていますね。

 こうしてみると夢二にとって、カタツムリは螺旋を描く殻と自在に変形する体との対比の妙やその不思議な触角の動きに目を奪われる存在だったらしい。子どもや庶民に近くて親しみやすい小動物のひとつとして、そうした読者を対象とした絵本や雑誌などにはそれだけ単独で描いてみたり、デザインに用いたりしています。夢二は近代美術の中で、植物におけるドクダミと同じように、動物におけるカタツムリを「発見」した画家といえましょう。

(館長S.O)

館長ブログ㉔-館長のギャラリートークに代えて―

2020年6月20日
 ※夢二のレタリング



                                      
                       図:書籍装幀原画<てけれっつのぱ>
                          水彩・鉛筆/紙 大正~昭和初期  
                          当館寄託品(「竹久家コレクション」)
 この 本の装幀のための原画は、「竹久家コレクション」の中から久方ぶりに発見されたものです。 あまり聞きなれない「てけれっつのぱ」という言葉が平仮名とローマ字の大文字だけで黒と茶色の二色でずらっと書き並べられています。一見すると、表と裏、つまり左と右はそっくりコピーしたかのようにみえますが、すべて手書きです。その少しずつ微妙に異なっている文字を読むうちにこの不思議な言葉が音声を伴って響いてくるかのようです。間合いをはかり抑揚をつけながら仕上げられた文字の温かさや力強さが感じられます。手仕事の良さですね。
 中央の本の背に当たるところにも「てけれっつのぱ ゆめ・たけひさ」と同じく黒と茶の文字が見えます。
「ゆめ・たけひさ」のサインは子供向きの本などによくみられるものですが、題の平仮名と調子を合わせたのかもしれません。
 右端の余白には夢二の自身が鉛筆で黒の色や使用する紙の指示を書き込んでいます。完成本もその広告なども見つかっていないので、未刊に終わったようです。いったいどんな本を計画していたのか気になります。





                   図:書籍装幀『恋愛秘語』(文興院、大正13年)
                      当館蔵
 夢二はレタリング、つまり文字のデザインにも優れたセンスをもち、かなりこだわりを持っていました。いまではコンピュータで簡単に多様な書体が選べますが、当時はすべて手仕事でした。その手仕事自体に喜びを見出し、さらに文字や絵のもつ不思議な力を感じ、信じていたのかもしれません。この<てけれっつのぱ>では文字がひしめき合い、その文字が白い地と拮抗しながら押し競まんじゅう状態で躍動しています。ちょっと見ただけでは文字には見えないその形のありように呪文のような力を感じるのは私だけでしょうか。古代中国に生みだされた様々な書体や、日本の名筆家・空海の飛白体(ひはくたい)などを思い出させるところがあります。夢二は『恋愛秘語』という著書の題名を同じようにほとんど読むことを拒否しているかのような字体を用いています。なんだろうと関心をひかれる効果を狙ってもいるのでしょう。

 さて、この「てけれっつのぱ」という言葉ですが、これは『落語』の「死神」(三遊亭圓朝[1839-1900]作)に出てくる、あの世へとお迎えに来た死神を追い払う時に唱える呪文、「アジャラカモクレン、セキジンハ、テケレッツノ、パ(語源と意味は諸説あり不明)」の最後の文句なのです。名作として知られ、多くの落語家が演じています。今でも落語好きならば知っているかもしれませんが、明治から戦前にかけては子供でも知っていたのでしょう。企画だけでついに日の目を見なかった『てけれっつのぱ』という幻の本は、私の子ども時代は膝を擦りむいて泣く子どもにお母さんが「ちちんぷいぷい、痛いの痛いのとんでゆけ」などと唱えて撫ぜていましたが、そうした厄払いの言葉などを集めたものかなどと思いたくなります。当時、スペイン風邪の大流行で多くの方々が亡くなっていたので、そうした時勢とも何か関係していたのかもしれません。

(館長S.O)

館長ブログ㉓-館長のギャラリートークに代えて―

2020年6月10日
 ※第2回 包紙「みなとや」―「異国趣味」2:南蛮趣味 初公開


図 包紙<みなとや> 寄託品(「竹久家コレクション」)
 白い半紙の中央に南蛮船が停泊している港の光景がくっきりと木版で刷られています。
この木版画は、今回、「竹久家コレクション」の中から新しく発見された、とても状態の好い美しいものです。
 この港の光景全体が壺の中の世界であるかのように、壺の形の中に描かれていて、「壺中天(ごちゅうのてん)」(壺の中にある別天地)という古い東洋の言葉を思い出させます。
手前は壺や時計などの舶来品に囲まれた遊女が三味線を弾き、その周辺には二人の伴天連(ポルトガル語で神父の意)の姿が見えます。一人は壺等の舶載品を並べ、もう一人は日傘の下からこちらを眺めています。青海波の彼方に浮かぶ蒸気船は満帆。船出でしょうか、盛んに白い蒸気を噴き上げ、空には太陽がさんさんと輝き、右奥の防波堤には日本女性と伴天連のカップルらしい姿も見えます。人物たちを右斜め半分に寄せた思いっきり「奥ひろがり」の空間が船とともに海原の彼方の世界へと思いを誘います。
 この「南蛮趣味」の図柄は、江戸初期に流行した「南蛮人渡来図」なども思い出させるところがありますが、実はこれは、夢二が妻だったたまきを女主人として、大正3年(1914)10月に日本橋に開店した「港屋絵草紙店」の「包紙」なのです。買い物をすればこんな紙に包んでもらえたのですね。
 「港屋」は開店当初は、日本橋の新名所ともてはやされましたが、2年半ほどで閉めています。使い残した包紙を次男・不二彦が秘蔵していたものと思われます。


図 <港屋開店記念風呂敷> 当館蔵
 また、開店記念の<港屋開店記念風呂敷>は、同じような図柄を絹地に赤一色で染め抜いています。こちらは開店を記念して品物を包んだものでしょう。包紙と見比べてみると、いろいろ違う点もあります。風呂敷の方が女性や舶載品(オウム、時計、壺、酒など)の数が多く、日本を表す富士山や鶴、お寺や鳥居なども描きこまれています。船には艀(はしけ)が近寄っていて、帆の半分ほどは巻き上げられています。こちらは停泊中でしょうか。
 
 夢二はこうした「南蛮趣味」の作品を一群、大正前期を中心に残しています。より広く見れば、彼の「異国趣味」の系譜に含まれるものでしょう。明治40年(1907)に北原白秋、木下杢太郎など5人の文学者たちが長崎・天草などを訪れ、彼らのリレー式紀行文、「五足の靴」が南蛮ブームを巻き起こしたことは有名です。夢二もこうした「南蛮趣味」に影響を受けながら、大正3年10月には「港屋絵草紙店」―過去と外国という二つの「異国」への憧憬を合体させた名称?を開店させ、大正7年には実際に長崎・天草などを旅行しています。欧米に足を運ぶことができたのは、晩年の昭和6年のことでした。

 夢二の異国憧憬は、幼年時に「すべての路は羅馬に通じ、地球が円いときいた時、驚きました。」(『桜咲く島 紅桃の巻』の巻末)と述べています。他方、キリスト教との接触も無視できません。彼自身、幼年時代から近所の青年の讃美歌に馴染んでいたという研究もあり、神戸中学時代には学校付近にあった教会に足を運び、また、結婚した岸たまきがやがて洗礼を受け、親友・堀内清もプロテスタントであったというふうにキリスト教との距離は近かったといえます。生涯手元においていた聖書にはあちこちに赤い線が引かれています。夢二の自画像には、まるで西洋の巡礼者のような姿をしたものが多く見受けられます。
図 <野道> 当館蔵
<野道>は大正6年の湯涌温泉滞在中に描いたものですが、自画像と見えないこともありません。

(館長S.O)

館長ブログ㉒―館長のギャラリートークに代えて―

2020年6月1日
 春の企画展、「夢二のデザイン-「竹久家コレクション」の本や小間物―」は、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、開催期間の半分近くを閉館せざるをえなくなりましたが、6月1日に再開し、会期を7月26日 (日)まで延長します。
 再開後も「三密」を回避するため、当分の間はギャラリートークは中止します。
 少しでも展示品の魅力に触れていただきたく、館長のギャラリートークに代えて、作品解説を5週間連続で載せることにしました。厳選された5作品を毎週1点ずつ図版とともに楽しめます。

チラシは こちら

※『桜さく島 見知らぬ世界』―「異国趣味」1:江戸時代への憧憬


図1
 本の表紙に『桜さく島 見知らぬ世界』とあります。本のつくりは江戸時代の絵草紙のような和綴じ本です。        
小型で軽いため懐に入れて持ち歩けます。この装幀も夢二自身が手掛けたもので、明治45年(1911)に洛陽堂から出版されました。 処女画集『夢二画集 春の巻』から数えて14番目の著書にあたり、この時夢二の人気は上り坂にあり、全国に知れ渡っていました。
 タイトルの「桜さく島」は日本のことですが、さて、いったいその「見知らぬ世界」とはどんな世界なのでしょう。



 これから見る3図は本を開けるとすぐに次々と眼に入ってくる絵です。
はじめの扉絵は、暗闇のなかに金棒を突いた赤鬼と青鬼がこちらを向いて立っています。 そこだけ明るくなったアーチ状の門の入口に「見知らぬ世界 竹久夢二作」と文字が読めます。
 どうやら鬼たちは「見知らぬ世界」の門番どもらしい。


 
 次の絵は、屏風の前に少女がうずくまっています。どうやら彼女は、人目を避けて行燈の下で本に夢中の様子。顔がほんのり桜色に上気しています。        
その覗き込んでいる両手の中の和本は、いま手にしているこの本(図1)にそっくり。少女が夢中なのも「見知らぬ世界」なのでしょうか。
 この、いわば少女読書図が、本の見開きというより、むしろ一枚の絵になっていて、あえて本のノドに綴じこまれていないのにお気づきでしょうか。         
夢二は本好きで自分の本はほとんど自身で装幀していますから、是非、一枚絵としてみてほしかったのでしょう。製本屋泣かせの凝った作りです。 しかも、画に描かれている屏風の折り目と絵の中央の折り目がぴったりと重なっています。この本を開けてこの図を覗き込めば、ついこの屏風の前の「見知らぬ世界」に引き込まれてしまう見事な仕掛けですね。


 
 三つ目の絵は、蛇の絡む木の下で無邪気な全裸の男の子と女の子が木の実を食べようとしています。 いうまでもなく、旧約聖書にあの禁断の木の実を食べて「知恵」を得たがために楽園を追放された アダムとイヴの幼児版といったところです。 因みに実もたわわな木の下でそれを口にしている少年と少女の図は夢二好みでもあり、例えば『夢二画手本3』の表紙内にはリンゴをカキに置き代えた図が見られます。

 
 夢二の「見知らぬ世界」を覗いて見ると。7つの短編が並んでいます。順に「路」「死」「傀儡子(くぐつし)」「阿波鳴門 巡礼歌」「母」「窓のムスメ」「炬燵のなか」と並び、夢二の幼児期から幼年期にかけての乳母、母親や実母 かもしれぬ女、そして娘たちとの親密で愛情にあふれた経験が綴られています。
文章の間々にはモノクロの木版画9図が見開きで入っています。それらの絵からも、また文章からも立ち上 がってくるのは、旅の芸人やお歯黒、青い眉の剃り跡といったどれも江戸から引き継がれてきたものばかり です。
 夢二は江戸憧憬について「江戸絵は、驚くべき異国趣味の芸術品でした」(『桜さく国 紅桜の巻』裏 表紙に掲載された「桜咲く島」の広告文)と記し、「広重の海」や「歌麿の女」を挙げています。幼少期に抱い た憧憬は、江戸時代の広重や歌麿によって代表される浮世絵や絵草紙の世界へのそれでした。
 夢二自身にとっても母や姉に慈しまれた幼少期は決して戻れない夢の世界だったようです。

(館長S.O)

  

テレビ放送のお知らせ

2020年4月26日
 テレビ番組放送のお知らせです。
 当館が取材協力し、昨年5月に石川県内で放送された番組が再放送されることになりました。
放送予定日は以下のとおりです。

「恋する、夢二 ~吉岡里帆がたどる竹久夢二、美人画の源流~」
内容:女優・吉岡里帆がナビゲーターとして、金沢をはじめ夢二ゆかりの地(岡山、伊香保など)をたどり、彼の創作の源となった女性たちとの恋愛に迫ります。(番組案内から)
湯涌でも撮影が行われ、当館の企画展会場における吉岡里帆さんのトークも収録され、その他、所属する夢二や彦乃の作品も多数登場いたします。

☆テレビ神奈川(放送エリア:神奈川県)
5月7日(木)12時00分~12時55分

テレビ神奈川さんなので、東京のほとんどの所でもご覧いただけると思います。
どうぞ、4K撮影の美しい画面をご覧ください。       

(事務職員:K.Y)

花ざくら

2020年4月1日
 今日から新年度がはじまりました。
金沢市内では桜が見ごろを迎えつつあります。
市内よりもやや遅れて、湯涌の桜もようやく蕾が色づき、ちらほらと花が開きはじめました。

 現在開催中の「夢二のデザイン」展チラシの背景で舞っている桜の模様は、夢二が装幀した書籍『花ざくら』の表紙からとっています。
こちらの書籍は、大正8年に岡田道一という医師が執筆した歌集です。
岡田は夢二の友人であり、その生活を支えました。夢二ファンであったために、京都帝国大学(京大)医学部在学中に、大正5年秋から京都で生活しはじめた夢二に真っ先に会いに行ったそうです。そして、一緒に島原の太夫道中や壬生狂言を見に出かけ、芝居見物にも同行するなど親しく交流していました。
夢二は、岡田に誘われて短歌愛好会「春草会」のメンバーとなり、ふたりがそれぞれに東京で暮らすようになってからも、最晩年まで交流がつづけられました。
 表紙の桜模様は、ふたりが京都で見た思い出の桜なのではないかと想像を巡らせてしまいます。

 湯涌で満開の桜が見られるまで、あと数日かかりそうですが、当館の展示室には、夢二が描いたさまざまな桜のデザイン作品を展示中です。


 3月には2週間の臨時休館日をいただきましたが、現在は通常通り開館しております。

 (学芸員:C.K)